関係あるとみられるもの

稗田阿求(東方求聞史紀ほか)
宇佐見蓮子(卯酉東海道 ~ Retrospective 53 minutesほか)
マエリベリー・ハーン(卯酉東海道 ~ Retrospective 53 minutesほか)

住所

御厨人窟(青年大師像) 高知県室戸市室戸岬町3903 土佐くろしお鉄道阿佐線「奈半利駅」より徒歩5時間程度。同駅から室戸岬方面へのバスあり。

御厨人窟(みくろど)

※入口の様子

 四国の南東部、室戸岬(むろとみさき)の先端付近にある洞窟。太平洋の波が岬の壁面を繰り返しえぐったことで形成された、いわゆる海食洞である。神明鳥居の置かれた狭い入口をくぐると内部はわりと広々とした空洞空間となっており、30~40メートルほど奥ゆきがある。洞窟自体が大国主(おおくにぬし)を祭神とする「五所神社」の境内でもあり、つきあたりに社殿めいたものが設置されている。ちなみに社殿の裏手には「子どもがようやく入れる程度の穴」があり、洞窟がもっと奥まで続いているとの伝説もある。

 今から約1250年前、この御厨人窟において若き日の空海が修行を行い、虚空蔵菩薩求聞持法(こくうぼさつぐもんじほう)を会得したと言われる。その縁で四国八十八箇所をめぐる「お遍路」の番外札所の一つとなっており、来訪者は少なくない。大師の遺徳をしのぶ人々の手によってであろうか、洞窟内にはほんのりとしたお香のかおりが漂っている。

※祭壇めいている

 御厨人窟の近辺には民家や商業施設がなく、道を一本へだてた目と鼻の先が断崖となっている。この断崖には、絶え間なく大波が打ちつける。岩を打つ波の音は、他の音に打ち消されることなく洞窟へと入り込み、凸凹の壁にぶつかって幾重にも反響する。洞窟の内部で腰を落とし入り口を振り返ると、光の向こうの空と海から幻想的な音がやってくるように感じられる。こうした他に類の無い環境から、御厨人窟は「日本の音風景100選」の一つに選定されている。ただし、雨の日には洞窟の天井からポタポタポタポタと雫(しずく)がしたたり落ち、波音よりそっちの方が断然うるさい。あと超ベタベタになる。インターネット上で御厨人窟が紹介されるとき、「見えるのは空と海だけ、感じるのは風と波の音だけ」という環境が空海を求聞持法の会得に導いたと謳われていることがあるが、これは明らかに正しくないだろう。この場所において空海が悟り得た経緯は、後に空海自身の著によって神秘的な体験と共に述懐されているが(後述)、空海は空と海を見ることによって悟りに至ったことを知ったのであって、当然ながら空と海が空海に悟りを与えたわけでもない。空海のエピソードを参考に、洞窟にたてこもってひねもす空と海を眺めても、空海のようになれるということにはならない。

※あんまり澄み渡ってない空と海(しけ)

空海と虚空蔵菩薩求聞持法

 諸説あるもののだいたい宝亀5年(西暦774年)、讃岐国多度郡屏風ケ浦(香川県善通寺市)に拠点を持つ中堅豪族の家に、後に仏教真言宗の開祖「空海」となる少年が生まれた。幼名は不明だが、広く浸透している説として以後「真魚(まお)」と呼ぶ。父は佐伯田公(さえきのたぎみ)、母は阿刀大足(あとのおおたり)の娘あるいは妹だったとされる。佐伯氏も阿刀氏も代々学者の家系であり、真魚もまた、当然のように学問を詰み中央官僚として政治に関わることが期待されていた。

 15歳で長岡京に上った真魚は、伊予親王(桓武天皇の皇子)の教育係を務めていた祖父(あるいは叔父)の阿刀大足の下につき儒学などを学んだ。その後18歳になると長岡京の大学の明経科に入学し、ここでも主に儒教を学んだ。当時の社会は、おおむね13歳~16歳で大学に入学するのが一般的という東方夢時空のような世界観だったので、真魚の入学は通常よりかなり遅く、異例なものだった(もちろん当時と今とでは大学の性質自体が全く違うけど)。ともあれこの頃の真魚の勉学にかける情熱はすさまじかった。後に自ら「首に縄をかけ、腿(もも)に錐(きり)を突き刺して眠気を追いやった」と絶対話を盛ってそうなエピソードを交えて、その猛勉強ぶりを回顧するほどだった。

 ところがその後、真魚は一年もたつかたたないかの内に座学では満足しなくなった。19歳を過ぎたころには山林にこもったり修行の旅に出たりと、次第に仏教へ傾倒していった。現代でも大学デビューと同時にもやしっ子がオラついたり、好青年がコミケデビューしたりする例があるからね。しょうがないね。と言えなくもないが、さすがに真魚の場合はもっと計画的で、実は大学入学前から仏教に関心を持っていた可能性が高い。当時は18歳になると"成人"と見なされるようになり、就労その他さまざまな義務が生じた。そこで真魚は、大学に入学することでモラトリアムを得て、仏教の世界に入る機会を最初からうかがっていたのかもしれない。だとすれば極めて遅い年齢で大学に入ったことも理由が説明できる。猛勉強ぶりはブラフだったのである。しかし、真魚の仏教への傾倒に少年期から官僚とするべく期待をかけて教育を施していた親族は憤り、ついには真魚を不忠不孝と誹る(そしる)者もあらわれた。窮屈な世界に辟易した真魚は、自由な学問と人間の理想を求めて出奔し、諸国を歴訪した。

 ある時、真魚は旅の途中で一人の沙門(修行僧)と出会った。沙門は真魚に「虚空蔵菩薩求聞持法(こくうぞうぼさつぐもんじほう)」を授けた。「虚空蔵菩薩求聞持法」とは修行法であり、この方法によって修行すると「全ての経文を暗記できる程度の能力」が得られるという、メタもしくはメタメタ的な知識である。虚空とは無限を、蔵とは何かを蓄える空間を言い、虚空蔵菩薩とは無限の知恵を司る仏様のことを言う。求聞持とは「見聞きしたことを忘れない」という意味である。つまり「虚空蔵菩薩求聞持」の語意は、虚空蔵菩薩のように見聞きしたことを忘れない能力、あるいは虚空蔵菩薩の御力によって見聞きしたことを忘れない能力、もしくは虚空蔵菩薩に問い回答を得る能力(外部サーバーに知識を保存する)とかそんな感じなると思う。この秘法を原点に真魚は膨大な仏教の知識をわがものとし、後の不世出の名僧となったと直線的に説明されることも少なくない。言いかえれば「虚空蔵菩薩求聞持法」を授けた沙門こそ「空海はワシが育てた」的なおいしいポジションにあるわけだが、この沙門が何者だったかは明確には判明していない。wiki様及び何冊かの書籍によれば、これまで長らく大和国(現奈良県奈良市)の大安寺にいた僧侶「勤操僧都」が空海に虚空蔵菩薩求聞持法を授けたとする説が通説だったが、近年では同じく大安寺にいた僧侶「戒明」が空海に虚空蔵菩薩求聞持法を授けたとする説が有力なんだとか。いずれにせよ、当時貴重だった大陸由来の修行法を持った人物と知遇を得て、それを聞き出した青年修行僧「真魚」のネットワークの広さは多分シンプルにすごいと思う。この時点での真魚は、一介の私度僧(自称僧侶)にすぎなかったからである。

 「虚空蔵菩薩求聞持法」という名の修行法は、真言とよばれる呪文をひたすら、ひたすら、ひたすら百万回唱えるというものだった。真魚は、恐らくその真言を口にしながら大滝岳(徳島県)や石槌山(愛媛県)などの険しい山岳を巡って肉体と精神を鍛えた。この旅の中で主に真魚が修行場とした場所や何かしらの縁を残した場所は、空海の入定(死亡)した後に弟子たちの聖地となった。これが原型となり、さらに修験道の修行場やパワースポットなどが加わって、主に八十八か所の霊場にまとめられたものが、現代の「お遍路」である。

 真言をブツブツ唱えながら、山岳をめぐり、人々の施食により生きながらえるという過酷な修行を重ねた真魚は、より修行に適した環境を求めてさまよい、とうとう室戸岬に行きついた。太平洋につき出す室戸岬の東側断崖には、ふたつの洞窟が口をあけていた。真魚は左側の大きな洞窟(御厨人窟)を生活の場に、右側の小さな洞窟(神明窟)を修行の場とした。求聞持法を会得するため、虚空蔵菩薩への祈りを唱え続けた。

 延暦12年(西暦793年)のある日、御厨人窟にいた真魚のもとに空から明星が降りてきて、口の中に入った。明けの明星は虚空蔵菩薩の化身と言われることから、それは真魚と虚空蔵菩薩とが一体化するという神秘体験だったのかもしれない。この瞬間、真魚は求聞持法を完全に会得し、スーパー僧侶となった。真魚が御厨人窟の中から外を振り返ると、洞窟の外には水平線のかなたで結び合う空と海だけが見えた。今までも見つめ続けていたその景色が、求聞持法の会得によってまったく違って輝いて見えた。同年、空海は和泉国(現大阪府南部)の槙尾山寺(現在の施福寺)において大安寺の勤操(先述)を師として剃髪し、出家。正式な僧侶となった。この際真魚はその名を「教海」と改め、さらにその後に「如空」と改めた。そして22歳の時、ついに「空海」の法号を名乗るようになったという(ただし空海の出家時期については、『続日本記』にある31歳という説があり、現在ではこちらが定説とされているらしい)。

 空海はその後、自らの半生と御厨人窟で得た体験と悟りをまとめ、延暦16年(西暦797年12月)24歳の時に『聾瞽指帰(ろうこしいき)』として完成させた。戯曲のような小説のような体で書かれたこの書物は、その実で儒教・道教・仏教の三教と空海自身とのかかわりを挙げ、親族に対し出家を宣誓(弁明)するものだったと言われる。『聾瞽指帰』はその数十年後に空海自身の手で(儒教批判を一部和らげるなどの)改定を加えられ、『三教指帰(さんごうしいき)』と改められて朝廷に献上された。

※足跡の碑。御厨人窟、空海、求聞持法、三教指帰らについて短文ながらきちんと説明されている。

稗田阿求と求聞持の能力、最も澄み渡る空と海

 東方projectと空海の関わりは少なくない。例えば聖白蓮のモデルとなったと考えられる「聖尼君」、その弟の命蓮上人が修行した信貴山朝護孫子寺は、「信貴山真言宗」と呼ばれる真言宗一派の総本山である。よって幻想郷の命蓮寺も信貴山真言宗の寺である可能性がかなり高い。ともに毘沙門天を本尊としているし。

 また平安末期の歌聖「西行法師」も、永らく真言宗の総本山である高野山で修行を行っている。真言宗に限らず広く教義を学んでいたと考えられるが、自らの詠む和歌を「真言」と表現していることからも、密教の影響の大きさを感じさせる。さらには説話『西行物語』において、西行の娘が西行の影響を受けて出家する段、その後高野山のおひざ元である天野の里で母娘ともに穏やかな暮らしを送ったとされる段があることから、西行妻娘も主に真言宗を信奉していた可能性が高い

 さらに『東方求聞史紀』162ページ、「幻想郷縁起」巻末の「独白」において、稗田阿求は稗田阿礼の時代から代々「見たものを忘れない程度の能力」を継承していると自称し、これを「求聞持の力」と呼んでいる。すなわち御阿礼の子は代々空海に匹敵する能力を持っているということになる。空海の能力が主に経典の記憶に活用されたのに対し、阿求は例えば鈴奈庵の本棚にあった本の名を記憶しているなど日常生活の細部まで無意識に記憶できることから、能力的には空海の上位互換である可能性もワンチャンある。ただ、記憶したくないことまで記憶してしまい、それがメンタルヘルスに影響を及ぼす事態にまで発展すればオーバースペック転じて下位互換にもなり下がる。

 ところで「求聞持」という語は、善無畏三蔵(西暦637~735年)という名のインド人僧侶が『虚空蔵菩薩能満諸願最勝心陀羅尼求聞持法』という書物を著し、これが養老元年(西暦717年)に漢訳され、さらに養老二年(西暦718年)には道慈(どうじ)という僧侶がこれを中国から日本に持ち帰ったことで日本に伝わったとされる。一方で稗田阿礼は、超記憶力を買われて『古事記』の編纂にたずさわり、和銅5年(西暦712年)にこれを完成させている。つまり「求聞持法」が日本に伝わったのと稗田阿礼らが『古事記』の編纂にかかわったのとはほぼ同時代の出来事であり、非常に面白い。古事記が完成したとされる年は「求聞持法」が伝わったとされる年よりも5年ほど前であることから、稗田阿礼が『虚空蔵菩薩能満諸願最勝心陀羅尼求聞持法』の伝来に先駆けて何らかの方法で「求聞持法」を伝え聞き、習得していたのではないかという妄想も膨らむ(非現実的ですが)。ただ、先天的に超記憶力を持っていた稗田阿礼あるいは阿壱以降の稗田シリーズの誰かが後に『求聞持法』の存在を伝え聞き、自らの能力を端的に表現できる言葉として「求聞持」という用語を借用しているだけかもしれない。前者の立証が無ければ、後者だろう。

 最後に、2006年に発表された上海アリス幻樂団の音楽集『卯酉東海道~Retrospective53minutes』には「最も澄みわたる空と海」という楽曲が収録されている。日曜の朝とかに放映されている紀行番組のOPをほうふつとさせるような、ゆったりとしたどこか物悲しい曲調で、ZUN氏の楽曲中でも結構な異彩を放っている。「蓬莱伝説」とか「未知の花魅知の旅」とかの系統なのかもしれない。恐らく公式には言明されていないが、この楽曲の漢字を抽出すると「最澄」「空海」となることから、二人の伝説的な開祖をモチーフとした曲ではないかと推測される。先にも述べたとおり、御厨人窟は法号「空海」の名の元ネタとなった地であることから、楽曲「最も澄みわたる空と海」の元ネタの元ネタにあたるとも言えよう。

※別の聖地にもなってた
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最終更新:2015年10月18日 21:22