住所
佐賀県武雄市山内町犬走3358 JR佐世保線「永尾駅」又は「三間坂駅」より徒歩40分。永尾駅、三間坂駅いずれからも路線バスあり。犬走農協前下車徒歩3分
関係あるとみられるもの
犬走椛(東方風神録ほか)
蓬莱山輝夜(東方永夜抄ほか)
犬走天満宮(いぬばしりてんまんぐう)
※前景
佐賀県武雄市山内町内の、犬走(いぬばしり)と呼ばれる地区に存在する天満宮(てんまんぐう)。主祭神として「試験に合格させてくれる程度のご利益」で名高い、菅原道真(すがわらのみちざね)を祀っている。そもそも我が国で「天満宮」と言えば、だいたい菅原道真を祀る神社である。本殿のすぐ背後に小さな里山があり、境内は里山の斜面に沿うようにして作られている。すなわち本殿はやや高い場所にあり、数十メートルほど坂道を登って参拝するような形となる。参道には石造りの鳥居が建てられており、“逆立ちした狛犬”という、ちょっとユニークな物体が鎮座している。犬走という地名だけに、狛犬のインパクトには特別こだわったんだろうか。くわえて、非常に多くの幟杭(のぼりぐい)が設置されているのも特徴的である。幟杭(のぼりぐい)とは、お祭りの際などに幟(のぼり)を立てる為のスタンドのことである。犬走天満宮の幟杭はいずれも唐獅子や牡丹の図柄が精巧に彫り込まれており、相当手が込んでいる。なぜそこに並々ならぬ情熱が注がれているのかは定かでないが、これだけで一見の価値がある逸品だと思う。例大祭の時期などに犬走天満宮を訪れれば、沢山の旗とあいまってなかなか壮観だろうと予想される。
※本殿
犬走天満宮境内から道一本をへだてたすぐ向かいには、果てしなく田園が広がっている。奥行きはそれほどなく、しかし非常に細長く、連綿と、武雄市中心部に向かって続いているのである。これはたぶん、犬走地区の持つ独特な地形が生んだ光景と言えるだろう(詳細は後述する)。9月中ごろに犬走地区を訪れた際には黄金の稲穂が波うち、傍らに彼岸花が咲き誇る非常に美しい光景が見られた。願わくばこの先も、「幻想的な風景」と言われるようになってほしくはない。そう思わせられる、日本の原風景である。
※とても細長い田園風景
「山内町まちづくり推進会」が設置した札書きによると、犬走天満宮の起源は貞享4年(西暦1687年)にさかのぼるという。この時代、犬走地区は犬走村(いぬばしりむら)という一つの村であり、村民の一人として山下新左エ門さんという人物が暮らしていた。この新左エ門さんが願主となって菅原道真を勧請し、お社を立てたのが、犬走天満宮のはじまりである。この時にお社が建てられたのは、同じ犬走村内の「平野」という場所だったが、それが大正18年(西暦1918年)になって現在地に移設された。またその際には、犬走天満宮に黒髪(くろかみ)神社の末社である「惣廟鎮守大明神」と武雄神社の末社である「犬走大明神」も合祀された。ともにジモティの氏神様であるから、天満宮と氏神さまとを合祀して里の総社とした感じだろう。ちなみに、原初に犬走天満宮が建った「平野」には、今も「天神山」と呼ばれる山があり、かつて犬走天満宮が存在した記憶をほんのりと留めている。そもそも我が国で「天神さま」と言えば、だいたい菅原道真のことである。知らないと霊夢さんに「え? もしかしてあんた 神仏には無知かしら(ニヤー」とドヤ顔されてしまうから、覚えておくと便利ですよ(もっとも天界に棲まう神々のことを"天神"と呼ぶのも間違いではない。華扇ちゃんの名誉のために補足)。
※ここぞとばかりに華扇ちゃんをdisる霊夢さん。これはうざい。(東方茨歌仙第3巻より)
東方projectでは、『東方茨歌仙』第3巻第15話「見えるご神体」において菅原道真の名が登場する。すでにデフォルト感すら漂いだした博麗神社の閑古鳥っぷりに、ついにあきらめモードでヘラヘラしはじめた霊夢さん。そんな霊夢さんに、茨木華扇(いばらきかせん)が「命蓮寺が御開帳イベントを開催して多くの人を集めたらしいわよ。あっちは商売上手ですねえ。チラッチラッ」と発破をかけ、これに発奮した霊夢さんが新たな集客方法をひらめくものの、一部読者からポンコツ霊夢や女両津(おんなりょうつ)との呼び声も高い本領をいかんなく発揮して無事失敗するお話である。
さても霊夢さんが思いついた集客法は、従来の桜の花見に加えて梅の花見も開くというものだった。曰く、お花見宴会シーズンだけは神社に参拝客(正しくは参拝妖怪)がたくさん集まるから。らしい。ごくごく安直に、集客の見込める機会(イベント)を増やそうとしたのである。さしあたってまず霊夢さんは、先代巫女がどこぞから調達していた神社の臥龍梅に、飛梅伝説などで梅と縁(ゆかり)の深い天神さまを勧請し、ご神木に仕立てあげた。タダのお花見ではなく、あくまで神社らしい付加価値をつけようとする行為で、この辺りにはなにげに霊夢さんの巫女的な真面目さも垣間見られる(お花見に来る連中は、参拝に来るわけではなく、酒を飲みに来るのだと思うが)。ちなみにこの話には、「梅のお花見イベントは成功したが、その後のご神木へのいたわりが不十分だったために、木から漏れだした神霊が神社にあふれ、続く桜のお花見では逆に参拝客(正しくは参拝妖怪)が減ってしまった」というオチがつく。インガオホー。
以上が東方projectと菅原道真との関わりである。しかし菅原道真を祀る神社と言えば、かの有名な福岡県の太宰府天満宮(だざいふてんまんぐう)をはじめ、全国津々浦々に存在する。祠(ほこら)のようなものまで数えれば、各市町村に最低一つくらいはあるんじゃないだろうか。故に今回犬走天満宮を東方projectの聖地として推挙し、記事にさせていただくのは、「菅原道真公を祀っているから」という理由を主とするものではない。犬走天満宮と東方projectとの独特なかかわりとして挙げさせていただきたいのは、次の二点である。
奇姓「犬走」
さて、この記事を閲覧いただくにあたり、東方クラスター諸兄が真っ先に関係を連想されたキャラクターは、犬走椛(いぬばしりもみじ)ではないだろうか。残念ながら、「犬走天満宮は菅原道真にゆかりある神社である」とはすでに申し上げたとおりで、まして白狼天狗との縁(ゆかり)は確認できないし、まあ無いだろう。しかしながら、名前の中に「犬走」を含むという共通点については、「犬走椛は、佐賀県武雄市山内町の犬走地区にゆかりをもつキャラクターではないのか?」というロマンを大いにかきたてるものだろう。果たして本当にそうなのか…?は後回しにして、まずは現実世界に存在する犬走天満宮の由来を説明させていただきたい。
犬走天満宮が犬走天満宮と呼ばれる理由・・・。それはもちろん、天満宮の立つ地域一帯が「犬走」と呼ばれているからである。永仁2年(西暦1294年)6月5日付の杵島郡長島荘(現犬走地区を含む武雄市内一帯にあったと考えられる荘園)に関する下地中分状(平たく言えば土地の権利関係を定めるもの)の中に、すでに犬走という地名の表記が見られるという(『角川日本地名大辞典 41
佐賀県』)。この長島荘という荘園は、平安後期に発生したものだから、「犬走」が相当古くからひとつの地域名として認知されていたことは想像に難くない。犬走天満宮が建立された江戸期において、佐賀本藩領の武雄郷に属する一個の村として「犬走村」が存在していたことは、江戸時代初期の『正保国絵図』などから分かっている。その後明治22年(西暦1892年)に町村制が施行されると、近隣の諸村等と合併し「中通村」を形成。一村落としての犬走村は消滅した。さらに昭和29年(西暦1954年)には、中通村と住吉村とが合併して山内町となった。その山内町も西暦2006年(平成18年)、くだんの市町村合併のビッグウェーブに乗り、近隣の自治体と合併し武雄市となった。
…ほんで、なぜこの一帯が相当古くから「犬走」と呼ばれていたのか。犬走という単語は建築用語でもあるから、もしかしたら諸兄もそこまで珍奇な印象は持たれないかもしれない。しかし、地名として全国にどれだけ「犬走」が存在しているのかを調べてみたところ、これがもう、想像以上にレアだった。角川社の『角川日本地名大辞典』や平凡社の『●●県の地名』シリーズ、アボック社の『地名レッドデータブック 』等のいずれも我が国がバブリッシュだった時期の前後に発行された地名辞典等を半日かけて斜め読みしてみたが、編集者が発見することができた地名としての「犬走」は、以下のわずか3つのみである。
①青森県五所川原市大字前田野目の小字犬走
②静岡県下田市に属し、下田湾に浮かぶとっても小さな島、犬走島
③佐賀県武雄市山内町の字犬走(この記事)
「犬」の字を含む地名としては犬塚、犬吠、犬伏、犬山、犬川、犬田、犬飼などが比較的多く見られ、地名の由来としては、「犬の墓があったから」だとか「犬がよく吠えたから」だとか、まあ順当に動物の犬にまつわるものが多い。一方でこれも全国で割とよく見られる地名で「犬戻(いぬもどり)」というものがあるが、これは「人間より身軽なはずの犬ですら、『こら無理ですわw』としっぽを丸めて帰って来るほどに険しい土地」であることからそう呼ばれたとも考えられており、動物そのものというよりも、犬を例に出して地形の特徴を語っているパターンもある。そこで『角川日本地名大辞典 41 佐賀県』では、犬走地区の地形について「神六山の東南山麓、犬走川流域の南北に細長い」地域であり、この「山あいの狭い地形から」、犬走と呼ばれるようになったのだと思われると述べられている。現代建築用語で「犬走」というと、建物の外殻が地面と接する周辺にコンクリートを打ち付け、補強したものの事を言う。中世以前のお城建築においては、お堀(池や川)と石垣の間にあるわずかな平地部分のことを犬走と呼ぶ。とどのつまり犬走は「犬しか通れないくらいせまい」という暗喩なのである。故に犬走地区は、犬にまつわる伝説というよりも、あたかも「隘路」のような独特の地形をもって、そう呼ばれるようになったと考えられる。冒頭に述べた「奥行きの無い長大な田んぼ」は、こうした犬走地区の独特な地形が生んだ光景ではないかと、編集者は思う。
山内町の犬走地区には、もう一つ特徴的な点がある。それは「犬走」の呼称が、現地に棲む人々によって名字としてもそのまま使われているという点である。犬走姓のはじまりは、分かっているだけでも戦国時代にまでさかのぼる。このころ犬走には、勘右衛門(かんえもん)さんという人物とその一族が暮らしていた。武雄一帯を統治していた肥前後藤家の家臣だったらしく、武芸に秀で、特に弓が得意だったらしい。この勘右衛門さん、後年になって一族とともに三間坂(現武雄市。犬走よりほんのちょっと北)へと移住することとなった。その時から勘右衛門さんの一族は、故郷をしのび、かつて一族の暮らした地名をとって「犬走」姓を名乗るようになったのだという(まあほんと、犬走と三間坂はすぐ近所なんですけど)。ちなみにこの勘右衛門さんの孫に、犬走弥大右衛門(いぬばしりやたうえもん)なる人物いたことも分かっている。弥大右衛門さんは、豊臣秀吉が企図した朝鮮出兵の際に、大陸で開催された虎狩りでとても張り切ったらしく、「虎狩り四天王」という若干痛々しい称号を頂戴している。これらの出来事が起こってから数百年の歳月が流れた現代も、犬走という姓は(佐賀県を代表する珍しい姓の一つとして)存続しているが、その起源が勘右衛門さん一族にあることはほぼ確実であろう。明治維新の時に犬走村の人々が村名をそのまま名字にしたという線も、無くはなかろうが。
以上の経緯を踏まえ、なぜ犬走椛が犬走姓を名乗っているかについて、いくつかの可能性を考えてみた。
①佐賀県の犬走地域にゆかりをもっているから説
元々犬走椛、あるいは椛のご先祖さまが佐賀県の犬走に暮らしていたから説。霊峰として名高い黒髪山に代表されるように、犬走の近辺は、標高こそないが総じて山深い地方である。天狗は大体山に棲むものなので、かつてこの地方に天狗が暮らしていたとしても不思議はない。それがいつかのタイミングで幻想入りしたとするのならば、幻想郷において犬走の地名をそのまま姓として名乗っていてもおかしくない。なぜなら、本来地名であった犬走を姓として名乗った人間の一族がいたくらいだから。さらに突飛な説を挙げるのならば、本来人間であった犬走一族から天狗に転じた者がいた、という可能性も無くは無かろうて。
②佐賀県の犬走以外の、実在する犬走地域にゆかりをもっているから説
先にご紹介した、青森県の青森県五所川原市大字前田野目の小字犬走あるいは静岡県下田市の犬走島に由来を持っているという説。まず青森県の方の小字犬走については、その隣地(五所川原市大字持子沢隠川)に「狼野長根公園(おいのながねこうえん)」と呼ばれる自然公園が存在する。インターネッツで調べても「狼野長根」という名の由来はよくわからなかった。しかし、もしこの狼野が地名に基づくものならば、狼の名を持つ地域と犬走地域とが隣接していると言うのは、「白狼天狗」の犬走椛と相対して、少し興味深い。また、下田市の犬走島については、"
かつてガチで天狗を祀っていた神社"や"天狗の里"として売り出し中の春野町を擁するなど、
極めて天狗とゆかりの深い地域である静岡県に存在することに、ロマンを感じる。さらに静岡県には、白狼天狗と同一視されることがある
木の葉天狗の伝説が残されている(静岡県中部の大井川流域)。ただし、これらはあくまで"静岡県"という括りでみた場合のみの繋がりである。近代以前の区分で言えば、犬走島は「伊豆」にあり、一方で木の葉天狗の伝説が残されているのは「遠江(とおとうみ)」と「駿河(するが)」のちょうど境目くらいである。残念ながら、「同じ地域」とはちょっと呼びにくい。
③建築用語としての犬走にゆかりを持っている説
現実に存在する犬走ではなく、建築用語としての犬走から転じて犬走姓を名乗っている説。現代建築におけて犬走とは、建物本体を補強するために固められた建物周辺のことを言い、お城建築における犬走は、石垣と堀との間のわずかな地表のことを言う。ざっくり言えばいずれも、「建物本体の周縁にあって、本体の機能を支えるために存在する」ものである。中枢の外にあり、かつ中枢に献身する存在というのはいかにも下っ端感があり、天狗社会における白狼天狗の立ち位置を、建築技法上の犬走の役割になぞらえて姓にしている可能性が考えられだろう。悲しすぎるけどな。
④その他の可能性
すでに地上から姿を消してしまった、かつて存在した「犬走」という地名から苗字を取っている可能性や、単に走狗(現代ではほぼ「使いっぱしり」という意味だが、本来は狩猟で獲物を追い詰める役の犬の事)という古語から、天狗社会において哨戒部隊、先遣部隊などを役職として犬走と呼んでおり、それが姓として定着したということも考えられる。その証拠というわけではないが、「東方風神録」においても、真っ先に侵入者を牽制し、敵わないと見るや救援を要請するという、見事な走狗っぷりを披露している。もちろん、可能性にすぎないが。
徐福伝説
※除副社の祀られる祠。オーブのような物が浮遊しているようにみえるのは、ひとえに編集者の不注意によるものである。
今から2,000年以上も昔、中国大陸に君臨した秦の始皇帝の命を受け、
「不老不死の薬」を求めて東の海へ船出した道士がいた。その道士は名を
徐福(じょふく)と言い、彼がその後どうなったか知る者は誰もいない。ただ、苦難の末に日本に辿り着いた徐福が、「不老不死の薬」を探しさまよい歩いたと言う伝説だけが、今も日本各地に残されている…。これが世にいう、「徐福伝説」である。
詳しくはこっち見てね。
さて、今も日本各地に残されている徐福伝説であるが、佐賀県は言わばそのメッカの一つである。あえて徐福伝説の三大宝庫を挙げろと言われれば(誰も言わなそうだが)、編集者は山梨・和歌山・佐賀の3県を挙げる。徐福研究に生涯を費やしたといっても過言でなかろう、奥野利雄(1911~2011年。ご長寿)の著作『ロマンの人・徐福』にも、「九州地方においても一番多く伝承が残されている。」と書かれている。さらにその多くが、現在の佐賀市近辺に集中していることから、同書では徐福の足跡について「中国から渡来した徐福の一行は、九州の西海岸から有明海に入り、湾内深く筑後川の河口(現佐賀市諸富大字寺井津)に漂着した。」と仮説立てている。そして、佐賀市より西方に約30~40キロほどの所に位置する佐賀県武雄市にも、徐福到来伝説が残されている。その例としてはまず、蓬莱山(ほうらいさん)と名づけられた山が挙げられるだろう。わりとちんまい山ではあるが、山麓には開湯1,200年を数える「武雄温泉」が存在する。武雄温泉は古来「蓬莱泉(ほうらいせん)」の別名を持っており、これは武雄温泉が蓬莱山から湧き出る事に由来しているから、同山が相当古くから蓬莱山と呼ばれていたことがわかる。よって、同地に徐福が立ち寄った痕跡ではないかという可能性がある。そしてもう一つ、武雄市山内町においては、犬走天満宮のまさにその境内に、徐福伝説が存在しているのである。
※佐賀県の「
蓬莱山」。県道58号線から見上げたもの。失礼ながら、山自体はそんなに見栄えの良い感じではない。
犬走天満宮本殿の左、本殿に続く石段の途中に、いくつかの石造物が奉祀されている祠(ほこら)が建てられている。そしてその祠の中に一体、「除副社」と刻字された石造物が納められている。この不思議な石造物については、明治37年(西暦1904年)に作られたことは分かっているものの、一体誰が何のためにこの地に建立したのかは一切不明である。しかしながら、この石造の刻字が「じょふく」と読めることから、この石造物が徐福をしのぶものであり、明治時代の徐福クラスターが「この地に徐福がいらっしゃったという伝説を後世に残そう」と企図して作られたのではないかと、現代の徐福クラスターの間では考えられている。さらに昭和41年(西暦1966年)、山内町内において「阿房宮磚硯」や「出阿房宮燦」と刻字された硯(すずり)が発見された。言わずもがな、阿房宮とは徐福に不老不死の薬を探すよう命じた秦の始皇帝が建てた宮殿であるため、「徐福が始皇帝から下賜され、日本に持ってきた硯だ!徐福伝説は本当だったのだ!」と、昭和の徐福クラスターは色めきだった。しかし、北京故宮博物院に持ち込んだ結果、「これは、しんはしんでも清帝国(西暦1644~1912年)の時代に作られたものアルよ。」とのとっても残念な判定を受け、徐福到来の決定的な証拠とはなりえなかった(佐賀市徐福会会報)。
当然のことながら、犬走天満宮の除副社にしても阿房宮磚硯にしても、これらはどう逆立ちしても「山内町に徐福が到来した」ことを決定づける根拠ではない。ただ、かつて「犬走に徐福が到来したのではないか」と期待する人々がいたという根拠であり、徐福伝説の夢を見た人々の痕跡である。あるいは、今もなおそうした人々がいらっしゃるかもしれない。すなわち、同地に存在した(する)一種の徐福信仰の発露として、これらの事蹟が存在すると考える事ができるだろう。
※除副社
最終更新:2016年05月25日 07:48