関係あるとみられるもの

霧雨魔理沙(ほぼ全作品)
聖白蓮(東方星蓮船)
茨木華扇(東方茨歌仙)
サニーミルク スターサファイア ルナチャイルド(東方三月精)
宇佐見蓮子 マエリベリー・ハーン(秘封倶楽部「鳥船遺跡」「伊弉諾物質」)

住所

山頂 長野県下伊那郡阿智村智里
神坂峠登山口(中津川方面からの登山口) 長野県下伊那郡阿智村智里(住所不明。神坂峠祭祀場近く。)
広河原登山口(長野方面からの登山口)  長野県下伊那郡阿智村智里(住所不明。ヘブンズ園原より車で10分程度。)

恵那山(えなさん)

※神坂峠から恵那山に登る登山口

岐阜県中津川市と長野県阿智村にまたがる山。日本百名山の一つ。標高2,191m。登山口へのアクセスの悪さは南アルプスの聖岳等に比肩し、
頑張って山頂に登っても山林に妨げられて展望(見晴らし)はほとんどない、しかも広河原口ルートでは道中の展望すらほぼ無いという、
非常にストイックな山である。

帚木伝説(ははきぎでんせつ)

―帚木
長野県の園原にあったと言われる大木
遠くからは見えるのに近づくと見えなくなる事から
遭えそうで遭えない人の喩(たと)えにも使われる
もしかしたらブロッケンの妖怪の一種かも知れない
 『東方茨歌仙』第1巻「帚木の別天地」より

帚木(ははきぎ)は、かつて長野県阿智村にある神坂神社(みさかじんじゃ)の近くにせせり立っていたとされる檜(ひのき)の通称である。
帚木は平安時代より「園原(南信州の地名)」の枕詞になるほど有名な木で、『源氏物語』や『新古今和歌集』中にもその名が登場している。
信州の深山に立つ一本の檜が広く世間に知られるようになったのは、木の枝先がまるで箒=ほうきのように広がり見事だったからという説や、
京都から園原に嫁いだ「客女姫」という少女がホームシックにかかり、故郷のある方角の西の空を見上げた際、にわかにこの木が揺れており、
まるで母が手を振っているかのように見えたため、「母の木=ははきぎ」と呼ばれるようになったのが転じて箒木となったという説等がある。

帚木には「遠くからはっきりと見えるのに、近づくことが出来ない」という伝説があり、「帚木の別天地」においてもこの伝説が引用されている。

山で暮らす仙人の茨木華扇の元には、寒い日に火鉢で暖をとるなど野生にあるまじきダメペットの「大鷲の竿打(おおわしのかんだ)」がいた。
竿打のダメっぷりは、一度里にお使いに出すと戻ってくる家の場所が分からなくなるというほどのもので、これには茨木華扇も頭を悩ませていた。
そこで華扇は思案し、山に立つ一本の大木に光を浴びせ、実際よりも大きく見せかけたもの(ブロッケン現象)を家までの目印とすることにした。
お陰で竿打は迷わなくなったが、この「遠くからは見えるのに発見できない大木」が少し目立ち過ぎたため、霧雨魔理沙の目にもとまってしまう。
霧雨魔理沙はこの木こそ伝説の「帚木」に違いないと勝手に誤解して雪深い山中へと踏み入り、無事遭難することになる

※帚木。昭和33年9月の台風で倒れてしまった。

イクチ

ねえねえちょっと 二人とも!
何?珍しい茸(きのこ)でもあった?
いくちがいくちが!
いくち?
いくちなんて珍しくとも何ともないじゃない
 「東方三月精OrientakSacredPlace第1巻『イクチとナメクジ 全編』」より

昨日久しぶりに蛞蝓(なめくじ)の黄蕈(いくち)を見たぜ
それも超巨大な
 『東方三月精 Oriental Sacred Place』第1巻「イクチとナメクジ 後編」より

黄蕈(いくち)とは、イグチ科のきのこの総称である。昔は今ほどきのこを細やかに分類されておらず、ざっくりこう呼んでいた。
上述の「イクチとナメクジ後編」では、イクチの群生の正体は「ナメクジに溶かされたヘビ」のなれの果てであると語られており、
元のヘビが毒ヘビならば、ヘビが転じて生まれたイクチも猛毒を持つとされる。これは、外界でも実際に古くからある伝承である。
イグチ科のきのこの代表としては、非常に美味とされるヤマドリダケが挙げられるが、これによく似たドクヤマドリは猛毒である。
ほぼ同じような見た目の茸なのに「時に猛毒、時に美味」というのは、中世以前の人々にとってさぞ不可思議に映ったことだろう。
このような現象に対する解釈として、ヘビがきのこに転ずるという伝説が生まれたのであろうと推測される。

ところで、『東方三月精』の作中で描写される黄蕈(いくち)は、ヤマドリダケほどは傘の下部が肥大してはいないし、軸が細い。
また傘の部分にはつやがあり、スターサファイアによって「イクチなんて珍しくとも何ともないじゃない」とも評価をされている。
これらから勘案すると、幻想郷で黄蕈(いくち)と呼ばれている茸は、イクチ科の「アミタケ」のことではないかとも推測される。
アミタケのことを特にイクチと称することがある地域としては、恵那山のまたがっている岐阜県東濃地方及び長野県の一部の地方、
そして石川県側の白山麓の地域などが挙げられる。
三月精や魔理沙らがアミタケのことを「イクチ」と呼んでいたとするならば、幻想郷はこれらの地域に存在している可能性もある。

長野県駒ケ根市の「かっぱふれあいセンター」で、イクチとして売られていたきのこ。美味。



胞衣山

恵那山は、この通常表記のほかに、いくつかの文献等において「胞山」や「胞衣山」といった当て字を用いられる例が存在している。
これは、天照大神(アマテラス)が産まれた際の胞衣(えな。胎盤)が、恵那山中に埋められているいう伝説が存在するためである。
この伝説は、西暦927年に作られた『延喜式神名帳』 にもその名が登場する恵那神社において自社の由緒書きに記載されているほか、
『美濃明細記』や『吉蘇誌略』、『ホツマツタヘ』にも明記されているから、少なくとも江戸中期には確立していたものと思われる。
『古事記』では、天照大神は黄泉の国から生還した男神、伊邪那岐命(イザナギ)が禊(みそぎ)を行った際に生まれ出た神であり、
そもそも胎生(女性の胎内で成長し産道を通って生まれてくる生まれ方)とはされていない。
一方『日本書紀』では、神代上第五段本文においてイザナギとイザナミは八島を生み、川を生み、山を生み、木の精ククノチを生み、
草の精カヤノヒメを生んで最後に天下の主者(きみたるもの)として日(太陽)の神、大日霎貴(オオヒルメムチ)を生んだとされる。
その後に続けて「一書では大日霎貴のことを天照大神という。華やかに光り、うるわしく国中を照らした」とも記されている。
長らく判読不明に陥っていた『古事記』の内容が本居宣長の手で再び日の目を見る事となったのは1700年代後半以後のことであるから、
それ以前より成立していた書物や神社の縁起においては、『日本書紀』の記載が採用されている例が"多い"のだと考えられよう。
(『古事記』の内容は完全に失伝していたわけではないため、少し難しい所もある。)

ではなぜ、"天照大神の胞衣が埋められている"という壮大な伝説が、九州でも畿内でもなく、中央アルプスの先っちょにあたる恵那山で生まれたのか。
このことについては未だに謎が多いが、「えな」という共通の音が(少なくとも地元の人々の)インスピレーションを生んだのではないかと考えられる。
また、古くより恵那山が「舟覆伏山(ふなふせやま)」とも呼ばれており、「神の舟」を鎮めた地と見なされていたことにも関係するのかもしれない。
中世の医学では胎盤の生物学的機能が解明されておらず、胎盤は神秘的な世界から命を運んでくる「籠」や「舟」のようなものだと考えられていたという。
すなわち、恵那山は神を運びこの世界に降誕せしめた「舟」としての役割から連想がふくらみ、天照大神の胞衣そのものだと見なされていた可能性がある。
秘封倶楽部風に言うならば、恵那山もまた、「伊弉諾物質」の眠る地かもしれない。まあ「舟伏山」の別称を持つ山は全国に腐るほどあるけど。

※神坂神社と東山道

神坂峠遺跡

※神坂峠遺跡

岐阜県中津川市と長野県下伊那郡阿智村の間にある峠道。標高1,569 m。恵那山の登山口としても非常に由緒がありポピュラーである。
中津川ICから車で約1時間もしくはJR飯田線飯田駅からバス、ロープウェイ、リフトを乗継いだ後、徒歩1時間あまり歩いた先にある。
東海道(大垣から太平洋沿岸部を経過し関東へ至る道)や中山道(木曽から諏訪を経過して東国へ至る道)が整備されるより以前の時代、
畿内から中央高地を越え、諏訪や関東へと向かう陸路の主幹は、(古)東山道と呼ばれる道がほぼ唯一だった。
(古)東山道はおしなべて険しい道であったが、その中でも最難所として多くの旅人を苦しめていたのが他ならぬ「神坂峠」であった。
そのあまりの峻厳さに驚いた高僧最澄が、峠の両端に旅人用のレストハウス(休憩所)を設置したという逸話も残されている。

東方projectの登場人物の中で、(古)東山道を利用し、神坂峠を通過したであろう人物の一人として、聖白蓮(ひじりびゃくれん)の名が挙げられる。
『信貴山縁起』の第三巻「尼公(あまぎみ)の巻」の冒頭では、聖白蓮その人であると考えられる聖尼公が、大和の信貴山で修行をしている弟(命蓮)に
「たずねみむとてのぼりにけり=会いに行ってみようと信州を出た」シーンが描かれている。つまり信州から奈良へと向かったのである。

聖尼公が信州から奈良へと旅立ったのは、今から約1,100年前頃とされる。その道筋には日本を東西に分断する2500m超の山脈が連なる中央アルプスがあり、
当時ここを抜けるための道は(古)東山道が主幹であった。つまり聖白蓮は(古)東山道を利用し、神坂峠をぬけて大和へと至った可能性が高いと考えられる。

一方で先述のとおり、神坂峠はとてつもなく険しい道であり、高齢の旅人が力尽きて死亡することもチャメシ=インシデントという、非常に危険なものだった。
そのため、出立当時すでに高齢だったと考えられる聖尼公は神坂峠を敬遠し、当時発達しつつあった「木曽路」を利用したのではないかとも言われている。
この「聖尼公が通った道」については現在、わりと良い年した大人たちの間で大真面目に議論されている。是非その足で現地を訪れ、検証してみてはいかがだろうか。

※ヤマトタケルや聖尼君が通ったかもしれない古代の主要街道。あぶない。

+ タグ編集
  • タグ:
  • 霧雨魔理沙(ほぼ全作品) 聖白蓮
  • 茨木華扇
  • サニーミルク
  • スターサファイア
  • ルナチャイルド
  • 宇佐見蓮子
  • マエリベリー・ハーン
最終更新:2016年01月03日 22:50