関係あるとみられるもの
霧雨魔理沙(ほぼ全作品)
サニーミルク(「東方三月精」)
ルナチャイルド(「東方三月精」)
スターサファイア(「東方三月精」)
藤原妹紅(「東方永夜抄」)
住所
静岡県浜松市天竜区春野町小俣京丸(JR東海道線「浜松駅」より徒歩1泊2日、JR飯田線「向市場」より徒歩1泊2日)
京丸集落跡(きょうまるしゅうらくあと)
静岡県浜松市天竜区の京丸山中に存在する廃村。西暦1590年ごろには20軒を超える家々があったとも言われるが、
昭和末期には第18代当主であらせられる藤原忠教氏がたった一人、最後の住人として生活されているだけであった。
氏は1980年にお亡くなりになったため、現在では今世の当主らが家屋の手入れに訪れるのみで、定住者は一人もいない。
京丸集落跡の特筆点は、何をさしおいても所在地の異常さにある。以下、浜松市街から京丸集落に至る方法をわりと適当に説明する。
①新東名高速道路浜松北インターを降り、国道152号を飯田方面に北上する。途中「秋葉街道」と合流する。
↓
②約5km北上すると国道152号(=秋葉街道)から国道362号に接続するY字分岐が現れる。国道362号に入る。
↓
③旧春野町市街地を抜けながら国道362号を約30km走行すると、進行方向左に県道389号への分岐が現れる。県道389号に入る。
↓
④県道389号に入ると、対向車とすれ違うことができないスリリングなトンネルが現れる。避難所が一か所しかない。
約600mのトンネルを抜けると、「春野町豊岡」の田園風景がぱっと広がる。別天地に訪れたかのような不思議な感覚につつまれる。
↓
⑤のどかな風景の中を約3km走行すると、進行方向正面に京丸方面へと続く市道が現れる。県道389号から外れ、京丸方面へ続く市道へと入る。
↓
⑥市道は時折ささやかな茶畑や民家などが点在するばかりで次第に本格的な山道になっていく。
約7km進むと、わずか数軒の民家からなる「春野町石切集落」が現れる。この集落以降、京丸集落跡まで一切民家はない。
↓
⑦春野町石切集落を越えると、ついに道路の舗装が途絶え、オフロードってレベルじゃねえ道に突入する。
デコボコのくぼみと水たまり、落石だらけで側面は断崖絶壁というワイルドな道を約5km登ると、市道の終点に到達する。
市道の終点には、車を5~6台は止められそうな路肩スペースが現れる。京丸山や高塚山の登山者らが駐車場に利用している。標高450m程度。
↓
⑧市道終点からは二本の林道が伸びている。しかし「一般車両通行禁止」と表示がされたゲートがあり車での侵入は不可能。ここから先は徒歩となる。
二本の林道の内、京丸集落方面へ向かうのは正面から見て右の最初ちょっと下る方の道である。間違えないようにしたい。
なお左(登っていく方)は3km先で広々とした行き止まりにたどり着いただけだった。そこから沢つたいに京丸山に登ることは可能にも見えたが、
遭難する可能性が高いので絶対やめた方がいい。行き止まり手前2.5kmに左折できる分岐があるが、奥まで進んで小さな廃屋が一軒あるだけ。
しかも途中で山道が崩落しており、さらに危険極まりないので注意されたい。
↓
⑨というわけで、市道終点から右(下り方面)の林道を進む。約1.5km歩くと、京丸山への登山口が現れる。
この登山口を登って行っても途中で京丸集落に続く道へ分岐することができるし、スルーして林道を進んでも京丸集落方面へと向かうことが可能。
登山口をスルーして林道を進むルートを取ると、道はそれほど勾配もなく進行方向右手の清流に沿うように延々と続く。
↓
⑩京丸山登山口から約1.5km進むと、右手側の清流につり橋がかかっているのが見える。
このつり橋の向こうには、「京丸集落」とは違うもう一つの廃村「小俣集落」があるものと思われる。
つり橋を過ぎたあたりから、所々道ばたに祠(ほこら)のようなものが転がっている(立っているのではない。転がっている。)。
これは道祖神とか、京丸集落民の祖霊を祀るもの…ではなく、小型の発電機とかの名残だと思う。中からケーブル出てるし。
なお500mごとに林道起点(ゲートからの距離)を示すポールが立てられているが、なぜか時折バドミントンのラケットがぶっさしてある。
動物避けなのか何かのおまじないなのかよくわからない。
↓
⑪つり橋を過ぎて約2km進むと、次第に坂道がきつくなり、並走していた清流が次第に崖の下に見えてくるようになる。
「こんな所に人間が住めるのか」、という言い知れぬ不安を感じながらなお1キロほど進むと、ついに石垣のような構築物が見られるようになる。
そして、そこから約1kmほど進むと進行方向左に「京丸線」と書かれた立札と、折り返しの急坂が現れる。
この急坂を約1km登った先に京丸集落はあるが、「私道のため立ち入り禁止」の表示と共に鎖で封鎖がされており、
これ以上は地権者の許可なく侵入することが不可能になっている。
↓
⑫よって、以後は推測と妄想と伝聞で集落の様子を記載する。ジッサイ見てない。いいね?
↓
⑬林道から私道へ折れると、集落まではつづら折れになった坂道がしばらく続くのではないかと想像される。
もしかしたらこの坂道沿いには、人工的に植林されたものだろうと思われる林道風景が広がるかも知れない。
道ばたに多くの落石が転がっていたら、きっと「今はもう、通う人もいないのだな」と思いを馳せることになることにもなろう。
この坂道を約1kmほど登ると、最初の廃屋と畑の跡が姿を現す気がした。この時標高は650mくらいだとゴーストがささやいている。
↓
⑭最初の廃屋を右手に見送ってもう数十メートル上ると、正面に樹齢数百年は下らないであろう立派な巨木が出現したりして。
その横には石碑が立てられおり、ここが「京丸の里」であることと、その成り立ちを教えてくれていたら素敵じゃないだろうか。
ただし、石碑の最後にもし「昭和60年 春野町教育委員会」などと書かれてあったら、「あ、わりと最近のだわこれ」とガッカリしそうだ。
この巨木・石碑を通り過ぎるといよいよ京丸集落の中心部があってもおかしくない。三棟の家が、それぞれ向かい合うように残されているのかも。
そのいずれにも、今はもう住人がいない。厳重に戸締りがされ、雨戸も締め切られていると考えるのが妥当である。
しかし、もしここで偶発的に透視能力をゲットすれば、家屋内部の様子が幻視できるはずだ。土間や囲炉裏などある、日本の原風景的家屋である。
各家屋の周りには手作りの犬小屋や栄養ドリンクの空き瓶などが往年のまま残されており、往年の生活風景を忍ばせる可能性も否定できない。
向かい合った家々からすこし高い所に、たいそうりっぱな「藤原家之墓」が3基とお地蔵様が安置されていそうな予感がした。
以上を要約すると、京丸集落跡に至るためには
浜松より約50km、県道終点の豊岡集落より約15km、最後に住人が確認できる石切集落より約10km、車が乗り入れられる限界の市道終点(林道入口)より約6kmの道のりを行く必要がある。
白川郷や五箇山など我が国には「秘境」と呼ばれる地域はいくつか存在するが、それでも概ねは主要都市同士を結ぶ幹線道路沿いか、せいぜいその10キロ圏内の内には形成されていることが多い。
しかし京丸集落は「秋葉街道」や「東海道」といった中世以前に発達した街道筋のいずれからも数十km離れているばかりか、隣接する集落(石切集落)からでさえ、およそ15kmも離れている。
公道の敷設が進んだ現代でさえこの状況なのだから、近代以前おいては馬などのよほど特別な交通手段を使用しない限り、近隣の集落との間を往来するだけで1日が終わってしまったことだろう。
しかもそこは、農業に適した肥沃で広大な土地があるわけでも、換価価値の高い林木や金銀等の鉱物資源があるわけでも、山賊をはたらいて金品を強奪できる行商人や旅人が行きかうわけでもない。
ここに住むべきメリットが、何一つ見当たらない場所なのである。
それ故に、「なぜここ(京丸)に住もうと思ったし?!」というツッコミは非常に古い時代から入れられており、一部の好事家らからはささやかな注目を集めてきた。
例えば1,700年代前期~中期にかけて活躍した文人、柳沢淇園(やなぎさわきえん。柳里恭(りゅうきりょう)とも名乗る。)の著と伝えられる『雲萍(うんぴょう)雑志』の中には、
「浜松から十五里ほどの場所、信州と遠州の境に京丸と呼ばれる場所がある。行きかう人もおらず人わずかに四、五軒あって、稗や小豆を主食として生活している」との記載が見られ
この他にも曲亭馬琴の『山牡丹』や西村白烏の『煙霞綺談』といった著作の中にも、後述の「京丸牡丹」の伝説と絡めながら京丸集落の話題が登場している。
京丸集落が秘境視され、転じて一種の異世界=仙境のように取り扱われるようになった歴史は、少なくとも江戸時代中期以前にさかのぼることができる。
京丸の起源
「なぜここに住もうと思ったし?!」という一部の好事家らのささやかな疑問については、現在いくつかの仮説が立てられている。
中でも
①京丸に棲んだ人々の姓が全て「藤原氏」であったこと
②「京丸」という富貴な名称が地名になっていること
を根拠とし、平安時代最末期から室町時代末期ころ迄に起こった戦乱に巻き込まれ、京都を追われたり自主的に蟄居したりした貴族らが逃れ住んだのではないかという推測に基づくものが多い。
例えば保元の乱(西暦1156年)に巻き込まれ都落ちした藤原氏の人々、南北朝時代(西暦1300年代)に遠江に移住したと伝わる藤原左衛門佐などが集落の創始者として候補に挙げられている。
ちなみに京丸の里にある石碑には「藤原左衛門佐によって集落が創始されたらしい」的なことが書かれている予感がするので、この説がオフィシャルに採用されているということになるだろう。
また、藤原左衛門佐説には具体的な補足がある。
南北朝を建てた後醍醐天皇が信州浪合(現在の
阿智村)で崩御した際、藤原左衛門佐が遺骸から首級を持ち出して京丸に落ち延び、その首級を京丸山のさらに奥山に建てた塚に奉納。
さらにはそれを守護すべく左衛門佐一族で山林を切り開き、京丸集落を作ったというのである。おりしも京丸山よりもさらに奥まった場所には、「高塚山」という名の山が本当に存在している。
言わずもがな、後醍醐天皇は島流しから脱出し鎌倉幕府を打倒して親政を敷いた超武闘派の天皇である。後に足利尊氏に敗れ失脚し幽閉されるも、再脱出し南朝を建て徹底抗戦の構えで臨んだ。
このことから藤原左衛門佐が「北朝勢力に後醍醐天皇の御首を奪われてなるものか」と考え一連の行動に及んだのだと解釈すれば、少なくとも話の辻褄としてはとても綺麗につながると思う。
と言っても後醍醐天皇が崩御なされたのは
奈良県の吉野町(南朝の本拠地)だというのが有力説で、それ以前に天皇が信州を訪れた事があるかどうかすらもが正直疑わしいレベルである。
そこで藤原左衛門佐が持ち逃げし高塚山に奉納したとされる首級は、後醍醐天皇のものではなく、その孫である尹良(ゆきよし)親王の首級ではないかとするバリアントも存在している。
尹良親王は後醍醐天皇の子、宗良(むねよし)親王のそのまた子である。後醍醐天皇の遺志を継いだ宗良親王に従って転戦したとされ、岐阜、長野、静岡の県境辺りに悲話や武功話を残す。
とは言うっても、尹良(ゆきよし)親王自身もまた実在が不確かな伝説上の御方である。伝説上では宗良親王と遠江の土豪である井伊氏の娘さんとの間に生まれた子とされている。
※井伊直虎ゆかりの地として某大河やらでやたら有名になった龍潭寺(りょうたんじ)に隣接する井伊谷宮(いいのやぐう)。京丸より60キロほど離れたこの地で、尹良親王は生まれたとされる。
他方で、京丸を上述のような伝説性を帯びた場所としては捉えず、単に「鎌倉時代~室町時代には京丸のような荘園が沢山あった。それが偶然現代まで残っただけ。」と考える説もある。
日本民俗学の開拓者柳田国男は当時より伝説化されていた京丸を実際に訪れ、宿泊し、近隣の野山に入るなど非常に肝の入った調査を行い、その成果を著書『地名の研究』にまとめた。
そしてこの著書において京丸集落は「天竜水系の諸集落に属する一集落で、奥山郷(おくやまごう。旧水窪町、現在の浜松市)から谷合に入った所にある支郷に過ぎない」と結論づけられている。
そもそも京丸集落は比較的近代にあっては辺鄙(へんぴ)だとして注目を集めるものの、四方を山川に囲まれた様相は、中世以前にはどこにでもあった「荘園」としては、むしろ理想的な地形である。
また「京丸」の名の由来については、京丸山北麓に「京丸沢」があることや『掛川志』の中に「御料の地であつて、三年毎に上番をした、仕丁一人ありこれを京夫丸といふ」という記載があることから
「京丸は奥山郷に属する集落の一つで、奥山郷を代表して三年に一度京在番(京都に上って夫役を行う者)を世襲的に出していた集落である。京丸とは、京夫丸の訛りである。」と結論付けている。
すなわち京丸は孤立した隠れ里などではなく、奥山郷に属し、京都の文化を奥山郷に伝えるという、むしろ先進的な役割を負った集落だったと考えているのである。
柳田の出した結論の背景には、京丸に向けられた前近代的・オカルト的視線への反論と、古来山間に住む人々を「辺境の非文明人」と考えてきた平地人(海部の子孫)への反論の意図があったのだろう。
京丸は文明から取り残された仙境の集落ではない、そう主張したかったのだと思われる。
しかしあえて言うが、
京丸集落は辺鄙である。誰が何と言おうと超辺鄙である。それは別に侮蔑でも尊敬でもなく、ひとえに京丸を示す客観的な事実であり却ってアイデンティティだと思う。
京丸は荘園と呼ぶにしてすらもあまりに規模が小さく、田畑も集落民の口に入る分の穀物の生産さえ不可能と思われるほどに貧弱かつ矮小で、四方を山に囲まれて日当たりも悪く、生産性に乏しすぎる。
また「奥山郷に属する」という点については、そも奥山郷は
秋葉街道に接する集落であるが、奥山郷から京丸へと入るためには秋葉山以南まで迂回するか、1000メートル超の山麓を越える必要がある。
先述のとおり編集者が辿った浜松から石切集落を経て京丸に至るルートよりもさらに困難で、片道1泊2日は裕に要したことだろう。少なくとも「ちょっと奥まった」とかそんなレベルでは決してない。
加えて奥山郷から見ると京丸よりもさらに離れた石切集落寄りの場所に「小俣」という京丸藤原氏の分家(現在はこちらも廃村)が存在するが、柳田はそのことについて承知していたのだろうか。
山間部と平地の対比であったり、妖怪や神にまつわる伝承の整理であったり、日本人の性質の再発見であったりという柳田が生涯をかけて行った研究テーマに何ら疑義を差し挟む余地はないと思われるが、
それにつけても「京丸の(少なくとも所在地としての)異常性」については単に大いなる持論の具にするだけではなく、もっと個別の、踏み入った考察があってもよいのではないかと思われて仕方がない。
何か理由が無ければ、絶対に誰もこんな所に600年以上も棲み続けない。林道が発達し、ようやく車で接近できるようになった現代でこそそう思わせるほどに、京丸はもの凄い所にある。
※人間をなめきっているカモシカ
京丸牡丹
むかし、京丸の里の村長の家に、山道に迷って行き倒れた一人の若者が担ぎ込まれた。
やがて若者は元気を取り戻したが、そのままこの村にとどまった。若者は、村人たちと共によく働いた。
村長の家には美しい娘がいた。若者と娘は恋におちた。
京丸の里の掟は、二人の恋を許さなかった。他郷者との婚姻を固く禁じていた。
やがて若者は、娘を連れて村を出た。駆け落ち。
二人はあてどもなく近隣の山々をさまよった。しかし、安住の地は何処もなかった。
しかたなく、二人は再び京丸の里にもどってきた。
しかし、里の人々は二人を決して許さなかった。
この世で結ばれることかなわぬと知った二人は、里の近くを流れる川の渕に身を投げた。
以来、二人の魂は大きな牡丹の花となって渓間に咲き、散り落ちた花びらは川の流れにのって流れるという。
悲しい恋の花咲く谷を、里人たちは牡丹谷と呼ぶようになった。
以上が京丸を舞台とし、多くの人々の関心を集めてきた奇談の概要である。「牡丹谷」は、京丸集落からみて南東の、渓谷を挟んだ向こう側の谷の事をいう。
この奇談あるいは作中で京丸の里に咲いたとされる花は「京丸牡丹」と呼ばれ、遠州七不思議の一つにも数えられている。
京丸牡丹は純白で、大きさは広げた傘(和傘)ほどもあるという。1年の内で二人の命日に咲くだとか、60年に一度だけ咲くだとかと言われる。リアル東方花映塚。
このほか7年に一度咲くだとか10年に一度咲くだとか、天変地異の前触れにだけ咲くだとか、言われたい放題に諸説がある。いずれにせよ、当然にそんな花は実在しない。
しかしながら大正2年5月、当時16歳だった藤原忠教氏(先述)がこの花を見たと証言していることから、少なくとも京丸牡丹に比定できる何かは存在しているのだと思われる。
牡丹ではなく、京丸の近隣に自生していたシャクナケの一種を見たのではないかという説もある。
京丸集落から見て南東の竜馬ヶ岳には、アカヤシオ・シロヤシオの木の群生があるため、「開花したシロヤシオが遠方からは牡丹の花のように見えたのではないか」と考える人もある。
東方projectと京丸
東方project『東方三月精-OrientalSacredPlace-』第3巻第14話「石の京丸牡丹」に、京丸牡丹がメインテーマとして登場する。
人里の人間が妖怪の山で「京丸牡丹」を見たという話を聞いた霧雨魔理沙らが、先がけて京丸牡丹の獲得しようと奔走する、という内容のストーリーである。
作中で霧雨魔理沙が京丸牡丹の伝説を知らない霊夢さんに対して「京丸という山奥の隠れ村で旅人と村娘がなんとなく恋に落ちかけたけどなんとなく身を投げた」という、
非常にクリスタルな感じのストーリーにまとめて教えてあげていることから、幻想郷においても「知る人ぞ知る」程度の話として語り継がれているのではないかと想像される。
さらに魔理沙は、「悲恋の花ならば二人が命を絶った場所に花が咲くのが普通なのに、京丸牡丹が咲く場所が一定せず、神出鬼没なのはおかしいぜ。」という画期的な解釈をつけ加え、
京丸牡丹の正体は植物の(あるいは霊体としての)花などではなく、地すべりなどが原因で地表に姿を現した貴重な鉱物の結晶が花のように見えたものではないかと推定している。
なお作中において京丸牡丹は(三月精が見つけた普通の牡丹も含めて)一貫して紅い花として描かれており、「白い花」とされる現実の伝承とはこの点においては決定的に異なる。
帚木伝説の段でも豪快な空振りを披露した魔理沙さんだけに果たしてこの推理が正解であったのかというのも、本作の面白い所の一つだろう。
加えて、「隠れ里に住む藤原さん」という京丸の特異性は『東方求聞史紀』の中で「竹林の隠れ里に住む忍者」の可能性が疑われている藤原妹紅さんとかぶる気がしなくもないが、
正直自分でも書いてて「これはこじつけがひどすぎますわ」と思った。
最終更新:2021年08月17日 12:49