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113モーツァルトのレクイエム

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#113 モーツァルトのレクイエム


モーツァルト

妻コンスタンツェ



モーツァルトとその妻

モーツァルトが歌唱法を指導し、作曲し、恋したアロイージア・ヴェーバーは歌手として成功した途端に冷たくなり、俳優ランゲと結婚してしまう。しかし、それはアロイージアの母親の仕組んだ罠であった。
母親は一家の稼ぎ頭のアロイージアと俳優のランゲを無理矢理結婚させた上、凡才であったコンスタンツェをモーツァルトに押しつけたのである。
夫に先立たれたヴェーバー婦人は三人の娘と下宿宿を営んでいた。
そこに引っ越してきたのがモーツァルトであり、下宿屋の三女がコンスタンツェである。
その後モーツァルトは一年経たずしてコンスタンツェと結婚してしまう。
つまり、姉に恋やぶれたモーツァルトは妹と結婚してしまうのである。
さらにコンスタンツェとの結婚の契約書(3年の間に不履行の場合、毎年300グルデン=現在の約200万円支払うこと)も交わしてしまう。
父親であるレーオポルトは必死に反対するも息子に聞き入られることはなかった。

コンスタンツェは教養のある満足な手紙も書けず、浮気まがいの行動をし(最終的にはモーツァルトの弟子、ジュースマイアーとも?)、感情的で、自己中心的、決して天才にふさわしい妻であったとは言えないのである。

モーツァルト博打借金説、コンスタンツェの療養としての高級保養地バーデンでの長期滞在浪費説などがあるが、稼ぎも多いが借金も多いという非常に苦しい生活であったようだ。
モーツァルトは一方的とも言えるべき愛情を注ぎ込み、事実手紙を何通も保養地に送り、魔笛の作曲中に出すら彼女に会いに行くほどであった。

モーツァルトの死後、コンスタンツェは自分が不利になるようなレーオポルトの手紙やモーツァルトの品性を貶めるような手紙を破棄してしまう。
また、コンスタンツェがモーツァルトの死後結婚したニッセンの手によっても下劣な手紙は判読不能にされてしまう。
コンスタンツェはモーツァルトのデスマスクを捨て、墓前には17年も行ったことが無く、モーツァルトの遺稿を生活のために売却し、下宿宿を経営しそこに間借りしたデンマークの公使ニッセンとそのまま結婚してしまう。
ニッセンはモーツァルトの伝記を記した点で大きな成果ある。
しかし結局ニッセンもコンスタンツェより先に死に、彼女は79歳まで生きるのであった。




モーツァルトはコンスタンツェと接することにおいて、創作力に活力を得、一方的ではあったが、転変する愛は集約されて深みを増していったのではないか。一方、コンスタンツェはモーツァルトとの間で幼児性を強め、自己中心的にしか感ずることが出来ない傾向が助長されて、打算は出来ても、ついに真の愛ということが分からない女で終わった気がする。
(モーツァルト/豊田泰)




果たしてコンスタンツェは悪妻であったろうか。未だに意見は分かれるところではある。

モーツァルトの死因については諸説あるが、もっとも矛盾の少ないものがリウマチ熱病と急性心不全あるいは瀉血説、直接死因は敗血症である。
墓地については、聖シュテハン大聖堂から聖マルクス墓地までは4キロ以上もあったこと、従来言われてきた葬儀の日付が六日ではなく七日であったこと、六日は穏やかな時々霧が出るくらいの天候で七日は嵐のような南西の風とヴィーン気象台の記録にある点から会葬者が途中で引き返したのもうなずけること、などから本当に誰も知らないと思われる。
ニッセンが調査のために訪れたとき、墓守は既に死に、墓印は七年で破棄されていた。
また、未完成であったレクイエムは死の直前、弟子のジュースマイアーに残りの構想、技法などを伝えたと言われている。

※アルフレート・アインシュタイン(アルバート・アインシュタインの従弟)がモーツァルトの研究に根幹的な業績を残している。

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