方法論
彼は今年もあるところで教鞭を執っているらしい。
あいかわらずだな、というのが今日の第一声だった。
「君はどう思う。教師の教える方法、というのは」
というと?
「じゃあ、そこに、ある分野があるとする。その分野の知識を得るために学生はその場所で勉学に励む。ここまではいい。しかし、例えば、どうやって自分のものにするかで方法は違うわけだ」
ものにしないで捨てていく人間もいるがな。私はどうだったか。
「そうか?まあいいさ。そこでも、例えば帳面の取り方があるだろう。私は放っておくが、取り方で注意をしたり強制に近いことをする者もいるわけだ。箇条書きで簡潔に、とか、見やすくとか。いや、ここで言っているのは間違っている、などと言うわけではないさ。強制というか、本人は善意のつもりかもしれないしな」
でも、と彼は続ける。
「こういう方法がいいと私は思う、で止めておくべきだと思うんだ。実際に、強制のように感じても後でよかったなあ、と思う生徒もいるだろう。それは事実だと思う。しかしな、その個々人によって合ったやり方というのもあると思う。勧めたり、私の授業ではこのようにしてください、と言うのも悪くはないんだが」
どっちつかずだな。
「君もそうだろう?いつもは。まあ、される側は一応してもらっている扱いになるわけだから、する側に従わざるを得ない場面もあるし、社会を学ぶ上では重要なことでもあるだろうな。たとえ取り方ひとつでも」
そうかもしれないな。初めから全てが思い通りに行ってしまったら、理解できないことが多くなったり、何より、精神的によくないのかもしれない、巷で言う限りは。例外も存在するだろうが、当たっているのかもしれない、とは思うことがある。
「耐性の話をしているみたいな気分だな」
実際それの形成に大きく影響しているんじゃないか?全てではないが。
そんな会話を交わし、お互いの職場に戻った。
まあ、一時だけとはいえ、休日以外でこのように会う事があるというのは、あまり無いのかも知れないな、とは思う。
そんなことを考えながら、少し、この話の事を考えていた。
どちらがよいといえるのだろうか。
最終更新:2010年04月27日 21:33