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第9話「ジャハンナムの天使 Ⅱ」


 ―― 三日目 PM3:30――

「やれやれ……人の親切な忠告を無視するなんてね。黙ってれば長生きできたのに」
 機動六課隊舎の裏、水色の髪の少女は独りきりで空を仰いだ。
 天頂を過ぎた太陽は、次第に西へと傾きかけていた。
 空は青く、千切れ雲が幾つか漂っている。
 ゆっくりと休息を取るには絶好の天気だろう。
「それにしても、よく出来てるなぁ、この服」
 水色の髪の少女――セインは自分が着ている服を摘んだ。
 濃いブラウンを基調とした落ち着いた配色で、全体的にシンプルなデザインの制服。
 それは、機動六課の制服だった。
 細部に多少の差異こそあるが、遠目に見るだけでは本物と判別できない。
 これならば、下手な行動を取らない限り、見咎められることはないだろう。
 腰に下げたポーチも違和感なく馴染んでいる。
 セインはタイトスカートの裾を軽く持ち上げた。
「たまにはこういう服も悪くないかな」
 新しい制服に袖を通した女学生のように、その場でくるりと回ってみる。
 誰が見ているわけでもないが、見栄えを意識した仕種だった。
「おまえ、そこで何をしている」
 不意に声を掛けられ、セインはびくりと動きを止めた。
 跳び上がりそうになるのを抑えて、勤めて自然な素振りで振り返る。
 今は偽の制服を着ているのだ。
 動揺してしまっては却って不信感を与えてしまう。
「え、えっとぉ」
 機動六課の制服に身を包んだ女が、責めるような視線を向けてきていた。
 女の歩みに合わせて、後頭部で結われた桃色の長髪が左右に揺れる。
「サボりのつもりならもう少し目立たないところでするんだな」
「はいっ、すみません!」
 とにかく話を合わせなければ。
 セインは気取られないように唾を飲み込む。
 ディープダイバーで逃亡を試みるのは簡単だ。
 だが、それでは作戦が全て台無しになってしまう。
 チンクから与えられた任務、それはイスト・アベンシスの監視と、もう一つ。
 不用意な証言をしようとした場合の、暗殺。
 ここでISを使用してしまえば、自分がその実行犯であると自白するも同然だ。
 逃げ切ったとしても捜査の対象になり、逃げ切れなければ更に悲惨な結末となる。
 強行に逃走するのはあまりにもリスクが高過ぎた。
「分かったなら早く持ち場に戻れ」
 幸運にも、女はセインの隣を通り過ぎていった。
 思わず安堵の溜息をつくセイン。
 どうにか誤魔化しきれたのか。
 早くこの場を立ち去ろうと早足で歩き出す。
 次の瞬間、冷たいものが首筋に触れた。
「え――?」
「動くな。抵抗すれば首を刎ねる」
 無機質な刀身がセインの首に刃を立てている。
 ほんの少しでも力を入れて引けば、薄い紙を切るように容易く、華奢な首は切り落とされるだろう。
 背後から投げかけられる冷徹な声は、通り過ぎたはずの女のものだ。
「やめてくださいよ……こんな悪い冗談……」
 零した声は震えていた。
 まだ誤魔化せるかもしれないという淡い希望を抱くつもりはなかった。
 それでも、諦めるという選択肢など存在しない。
「下手な芝居はよすんだな。六課の隊員の顔は全員覚えているが、貴様など知らん」
 刃が肌に食い込む。
 ぷつりと皮膚が裂け、血の玉が浮かんだ。
 ――本気だ。
 冷たい汗が頬を伝い落ちる。
 もしセインが逃げ出すような素振りを見せれば、彼女は即座に刃を引くに違いない。
 後に残るのは、泣き別れした首と身体。
 セインは身体を動かさないように、視線だけを走らせた。
 偽装を見破られた今となっては、もはや能力使用を躊躇うことはできない。
 一瞬の隙を突いて、ディープダイバーによって離脱する以外の手はなかった。
 しかしこの状態から直接潜行しようものなら、潜り切るより早く剣の錆となるのが明らかだ。
 何か――何か打開の術を――
「……ッ!」
 迫る風切り音。
 突如、剣がセインの首筋から離され、女の背後へ振り抜かれる。
 甲高い金属音を響かせて、刀身が何かを弾いた。
「これは……」
 地面に黒塗りの短刀が突き刺さる。
 手に持って振るうよりも、最初から投擲することを目的とした形状の刀。
 数瞬だけ、女はそれに意識を向けた。
 セインはその隙を見逃さず、真横に飛び退いた。
 隊舎の外壁にぶつかると同時にISを発動し、壁の中へと潜行する。
 女が振り向いたときには、そこにはもうセインの姿はなかった。
「……逃げられたか」
 周囲を睥睨する女の足元から、セインの腕が生えた。
 それは地面に刺さった短刀を手に取ると、音もなく地面に沈んでいく。
 女は口元を歪め、剣を眼前にかざした。
 白刃の縁に微量の鮮血が朱を落としている。
「証拠はこれだけか……まぁ、いい。解析班に回しておこう」


 ―― 四日目 AM0:15――

 しんとした夜の闇。
 薄いカーテン越しの月影が、ほのかに病室を照らす。
 冷たい静寂の中、ティアナは寝台に臥せたまま、淡い窓辺を見つめていた。
 ブランケットからそっと腕を出す。
 少し日焼けした肌に、真夜中の空気は冷たすぎた。
「細いなぁ……」
 握れば折れてしまいそうな、頼りない腕。
 ――昔、強くなりたいと願った少女がいた。
 殉死した兄の無能を否定するため、強くなろうと決意した少女がいた。
 それがどうだ。
 数年を経てもなお、この程度にしか辿り付けていない。
 強敵を前に無様に震えて、足を引っ張って、簡単に倒されて――
「……弱い、なぁ」
 ティアナは自嘲気味に哂った。
 相手が強かったのだという言い訳なら幾らでもできる。
 けれど、それでは意味がないのだ。
 たとえ勝てない相手だとしても、可能な限り食い下がらなければ意味がない。
 自分があの騎士にできた抵抗はたったの一撃。
 しかも全くダメージになっていなかった。
 傷は与えたが倒すに至らなかったというなら、まだいい。
 掠り傷の一つも与えられなかったのだから、いよいよ救いようがない話だ。
 それでは何もしなかったのと大差がない。
 救出の手間を増やした分、むしろ『いなかったほうがマシ』ではないのか。
 ティアナはぐっと眼を瞑り、身を起こした。
 薄いブランケットが上体から滑り落ちる。
 昼間にも同じようなことを考えて、同じような後悔をしていた。
 今のままでは、何度後悔しても足りないだろう。
 自分が弱い限り、ずっと。
 ――寒い。
 外気に体温を奪われていく以上に、胸の芯が締め付けられるように冷えていた。
 ティアナはブランケットから脚を出し、氷のようなタイルの床につけた。
 冷たさが、じん、と沁みる。
 両方の足で立ち上がり、身体をまっすぐ立たせてみる。
 まるで夢の中にいるような、不思議な気分だった。
 隣のベッドではスバルが幸せそうに眠っている。
 きっと、彼女は『ティアは弱くなんかないよ』と言ってくれるだろう。
 だけどその言葉には、心が安らぐ以上の意味はない。
 いくら褒められ慰められても、自身の実力が理想と程遠いという事実は変わらないのだ。
 客観的には過剰に思える卑下も、今のティアナにとっては明確な真実だった。
 ティアナはスバルの寝顔を横目で見ると、音も立てずに歩き出した。
 どこかへ行こうと思ったわけじゃない。
 ただ身体を動かしたくて、裸足のまま病室を出る。
 夜の廊下は真っ暗で、数歩先もよく見えない。
 非常灯の鮮やかな光だけが、一定の間隔を置いて自己主張をしているだけだ。
 普段は外の風景を見せる窓も、今は鏡のようにティアナの姿を返している。
 一歩踏み出す度、結われていない髪の毛が背中でふわふわと揺れる。
 冷え切った床材が足の裏に突き刺さるようだ。
 それでもティアナは廊下の奥へ向かって歩き続けた。
 吸い込まれそうな暗闇が滲み出す方へと、夢遊病のように引き寄せられていく。
 ぺたり、ぺたりという地を這うような足音が、静けさの中で異様に響く。
 本来なら耳にまで届かないであろう、些細な音。
 それですらこの静寂においては大きすぎた。
「――ぁ」
 ティアナは曲がり角の直前で立ち止まった。
 硬い音が聞こえる。
 靴を履いた足で廊下を歩く音だ。
 思わずティアナは壁に背を付けた。
 ちょうど、近付いてくる足音の主から死角になるように。
 隠れてしまってから、ティアナは唇を噛んだ。
 検査入院とはいえ真夜中に意味もなく出歩くのは望ましいことではないだろう。
 だがそんなことなどよりも、今の情けない自分を誰かに見られたくなかった。
 気付かれないうちに部屋へ戻ろう。
 そう決めて顔を上げた瞬間、目も眩まんばかりの光が視界を覆い尽くした。
「きゃあっ!」
「うわっ!」
 あまりの眩しさに、受身も取れずに尻餅を突いてしまう。
 暗闇に慣れていた視覚には強烈過ぎる光だった。
「大丈夫か……?」
 差し伸べられているであろう腕も、ティアナの目には殆ど映っていない。
 眼を閉じているのと変わらない視界のまま、手探りで相手の手を掴む。
 骨ばった硬い感触――男の手だ。
「すみません、エミヤ三尉」
 顔は見えなくても声だけで分かる。
 助けられながら立ち上がり、軽く頭を下げた。
 取り落とされた懐中電灯が、床の上で音を立てて転がっている。
「こんな時間にどうしたんだ?」
「ちょっと外の空気を吸いたくて……三尉こそ何をしてらしたんですか?」
 無意識のうちにティアナは視線を落としていた。
 左の手で、身を護るように右の二の腕を抱く。
 衛宮士郎は懐中電灯を拾い上げると、ティアナに直接当たらない方を向けた。
「警備の手伝いだよ。今日は別件に人員が引っ張られてるらしくって」
 こともなげに答える衛宮士郎。
 ティアナは少し呆れ気味に相槌を打った。
 手伝いをするよう頼まれたのか、それとも自分から手伝おうと言い出したのか。
 どちらにしても妙な話だ。
 この人物は六課に来てまだ2、3日程度のはずだった。
 そんな馴染みのない相手に警備を頼むことも、その逆も奇妙に思える。
 ……いや、案外そうでもないかもしれない。
 ティアナは衛宮士郎の顔を見て、考えを少し変えた。
 この人は見回りの仕事を嫌がっていない。
 真夜中の警備はかなり大変な職務のはずだ。
 無理に押し付けられたのなら、こんなに平気そうな表情などしていないだろう。
 頼まれて引き受けたにせよ、自分から引き受けたにせよ、その動機は純粋な善意に違いない。
「そうだ、身体は大丈夫か?」
 それはこちらの台詞ですと言いたかった。
 自分も戦って傷ついた身だというのに。
 彼は彼女のことを気に掛けている。
 ああ、そうか――
 ティアナはようやく悟った。
 あの騎士を前にして臆することがないほどに。
 狂気染みた力を前に屈することがないほどに。
 自身の傷よりも他人のそれを気に掛けられるほどに。
 彼は、強いのだ。
「――――」
 ティアナは口を引き結び、俯いた。
 違う、そうじゃない。
 強いのは彼だけではなかった。
 単純な戦闘能力の評価では自分と同じ程度のはずのスバルもまた、強かった。
 ティアナの脳裏に、魔槍の騎士の前に立ち塞がるスバルの姿が蘇る。
 不意に、心の中でせき止めていたものが一気に溢れ出してきた。
「お、おい」
 痛みがぶり返したとでも思ったのか、衛宮士郎はティアナの顔を覗き込もうとした。
 今はその心遣いが、痛かった。
 ティアナは堪えきれず、来た道を逆向きに駆け出した。
 赤くなった素足で廊下を蹴って、暗闇の中へ消えていく。
 追いかけてくる足音は聞こえない。
 気付けば病室はとうに通り過ぎ。
 ティアナは階段の踊り場で、独りしゃがみこんだ。
「強く、なりたいよ……私だって……」
 誰に聞かせるでもない、噛み潰すような声。
 月明かりすら差し込まない階段に、哀しげな音だけが反響していた。


 ―― 四日目 AM1:00――

 機動六課隊舎の屋上に、人影が一つ落ちていた。
 既に日付は変わり、空には上弦の月と、砂粒のような星が散っている。
 海からの微風が、纏められた長髪を靡かせた。
「ん……」
 なのはは流されそうになった髪を押さえて、暗い空を仰いだ。
 真夜中とはいえ、ミッドチルダに営みは絶えない。
 例えばビルディングの照明や、往来する自動車のヘッドライト。
 眠りに落ちた世界の中にも人工的な光達が煌いている。
 まるで、人が生きていることを証明するように。
 消えることがないようでいて、簡単に吹き消されてしまいそうな灯火だ。
 そんな仄かな明かりが、なのはの横顔を静かに照らしていた。
「やっぱり、全部うまくはいかないよね」
 呟きながら、左腕を押さえる。
 腕に浮き上がる聖痕が疼いたような気がした。
 復元された聖杯の破壊から七十三時間が経とうとしている。
 プランA――聖杯の起動前に突入し、破壊を完了する理想的な展開。
 これはもう失敗してしまった。
 サーヴァントの召喚を阻止するには至らず、少なくとも四騎が放たれた。 
 聖杯を破壊したのだからといって事態が終息するわけではない。
 仮に、敵の目的がサーヴァントを手に入れることだとしたら。
 聖杯の喪失は初めから止む無しと考えていたのなら。
 敵は既に目的を果たしてしまったことになる。
 事実、スターズ分隊はサーヴァントと思しき騎士と交戦したという。
 聖杯の破壊から数十時間を経てのサーヴァントとの戦闘。
 すなわち、聖杯なくしてサーヴァントを維持する手段が講じられていることを意味していた。
「なのは、こんなところにいたのか」
 不意に歳若い少女の声がした。
 屋上という開放された空間では、音は四散して響くことがない。
 それでもなのはは、声のした方へ向き直った。
「ヴィータちゃん、どうしたの?」
 赤いお下げを二つ揺らして、ヴィータが階段の傍にいた。
 もう何年も聞き馴染んだ声を聞き間違えることなどありえない。
「それはこっちの台詞だ」
 不機嫌さを隠すこともせず、なのはの隣へ歩み寄る。
 背よりも高いフェンスにもたれ掛かり、おもむろに腕を組んだ。
「あたし達が拾ってきた男、死んじまったらしい」
「うん……はやてちゃんから聞いた」
 聖杯復元の『実行犯』が死亡した件は、発生後すぐになのはの耳にも届いていた。
 あまりにも出来すぎたタイミングであり、口封じのために暗殺されたことは疑いようがない。
 どうやって侵入したのか、どうやってイスト・アベンシスの命を奪ったのか。
 まだ分からないことは幾つもあるが、貴重な情報源を失ってしまったことは確かだった。
 それでもはやては、折れることなく事件を追い続けるつもりのようだ。
 だが、なのはの心の中には漠然とした不安が根を張っていた。
 はっきりと言い表せるほどではないが、どうしても無視できない嫌な予感。
 遠からず、致命的な何かが起こってしまうような――
 二人の間を冷たい夜風が吹き抜ける。
「なぁ、なのは。あたし等のこと、そんなに信用できないのか?」
 唐突に――そんな言葉が聞こえた。
 なのはの思考が凍る。
 ヴィータは今、何と言った?
 わたしが、みんなを、信用していない?
 混乱するなのはを他所に、ヴィータは更に言葉を次いだ。
「聖杯を壊すときだって何も教えてくれなかった。
 廃棄都市区画にサーヴァントが出てからも、本当のことは教えてくれてないんだろ?
 それって信用されてないってことじゃないのかよ」
 キッとなのはを睨むヴィータ。
 なのはは思わず、左胸を押さえた。
 心臓を握り潰されたような痛みが滲む。
「……ごめんね。秘密にしておくのが、約束だったんだ」
 ヴィータは何も言わずに顔を背けた。
 言い訳ならいくらでもできる。
 秘密主義の魔術協会と協力する以上、聖杯戦争の真実を広く触れ回るわけにはいかない。
 協会から許可があるまでは、一定以上の地位にあるものに対してのみ、重要な情報の開示を行うこと。
 それがロード・エルメロイⅡ世と交わした約束だった。
 即ち部隊の隊長クラスと、管理局の高官――あちらとしても最大の妥協だったろう。
 客観的に、合理的に考えるのなら、ヴィータ達に対しても秘密を貫くのが正しい。
 なのはは腰を落とし、ヴィータの肩に手を掛けた。
 いくら理屈は正しくても、心がついていけるとは限らない。
「何だ、よ――」
 振り向いたヴィータの身体を、温かいものが包み込んだ。
 なのはの長い髪の毛が、目の前でふわりと揺れる。
「ごめんね……」
 突然抱きしめられて、ヴィータは眼を丸くしていた。
 両方の腕が背中を抱き寄せ、頬が触れるほどに深く身を寄せる。
 柔らかな膨らみがヴィータの華奢な身体を受け止めている。
 ヴィータの頬と耳朶が、淡い赤に染まった。
「ば、馬鹿! 何やってんだ!」
 咄嗟になのはを押しのけて、数歩後ろへ後ずさる。
 身を護るように腕を組み、わざとらしく背中を向ける。
「とにかく、話せるようになってからでいいから、ちゃんと説明しろよな」
「……うん」
 ようやくなのはの顔に笑顔が戻る。
 ヴィータは安堵した様子でフェンスにもたれかかった。
 その隣に、なのはも身を預ける。
「そうだ。スバル達と戦ったサーヴァントのこと、どこまで話したんだっけ」
 赤みの引かない頬を誤魔化すように指で掻きながら、ヴィータは話題を変えた。
 わざわざそんなことを訪ねなくても、どこまで報告したかは覚えている。
 ただ、今の妙な雰囲気をどうにかしたかった。
 なのはの返事を待たず、報告の続きを再開する。
「紅い槍を使ってたってことは、言ったよな。
 それと――あたしは見てないんだが、最初はもう一振り持っていたらしい」
 すなわち、二槍の騎士。
 本来は両手で扱う槍という武器を二つも扱う者など、ヴィータの記憶にも殆どいなかった。
 闇の書の守護騎士として戦い続けた記憶――
 いわば膨大な戦闘経験を綴った書物をめくって似たような情報を思い出そうとする。
 それゆえ、ヴィータは見逃してしまった。
 なのはの表情が、暗く沈んだことを。
  ゲイ・ジャルグ
「破魔の紅薔薇――」
「……えっ?」
 ぽかんとするヴィータに、なのはは何でもないと首を振った。
 ヴィータの頭を一撫ですると階段の方へ向かって歩き出す。
「ここは寒いから、お話は中でしようよ」
「お、おぅ」
 釈然としない様子でヴィータも後に続く。
 やがて誰もいなくなった屋上を、月影が音もなく照らしている。
 ミッドチルダの灯も、今はその明るさを失っていない。
 夜はこれからさらに更けるだろう。
 夜明けは、まだ遠いのだ。


 ―― 四日目 AM1:52――

「ご苦労だったね、セイン」
 暗がりに男の声が響く。
 灯火は弱く、その表情は見て取れない。
 だが労をねぎらう言葉の中に、僅かな愉悦の色が混ざっていた。
「彼は役に立ったろう?」
「はい、ドクター。でもあたしがちょっとミスっちゃって……」
 気まずそうに答えるのは、水色の髪の少女だった。
 日中に着ていた制服は既に脱ぎ、青いボディースーツに身を包んでいる。
 セインの返答を聞き、ドクターと呼ばれた男は楽しそうに笑った。
 高らかに声を上げるのではなく、己の内側に笑い声を響かせるように。
「「心配しないでいい、ある程度のトラブルは想定している。それと――」
 男はセインの隣の誰もいない空間に視線を向けた。
 琥珀色の瞳が光を受けて微かに輝く。
「感謝するよ黒衣の暗殺者。君がいなければこの作戦は成就しなかった」
 セインは、はっと隣を見た。
 いつの間に現れたのか。
 そこには漆黒のマントで全身を覆う、髑髏の仮面が佇んでいた。
 はあぁ、と息を漏らしながら、髑髏の頭から足元までゆっくりと眺める。
 こうして間近でみると随分と長身の男だ。
 仮面を被った顔はセインの頭よりも更に高い位置にある。
 ひどい猫背を伸ばせば背丈は2メートルの大台に届くだろう。
 黒衣越しにでも、枯れ木のような細さと鍛え抜かれた屈強さの矛盾した様相が見て取れる。
「――」
 髑髏は黒衣の下から左腕を出した。
 常人の倍はあるであろうそれを男に向け、発言を促すように五本の指を動かす。
 セインにはその行為の意図が分からなかったが、男には伝わっているようだ。
「ああ、無論だとも。あれは確実に君の主の為になる作戦だった」
 そう答えた男にセインが意識を向けたのは一瞬のことだった。
 たったそれだけの間に、髑髏は完全に姿を消してしまっていた。
 もはや気配の欠片も感じられず、用件は済んだと言わんばかりの潔さだ。
 男の言葉に納得したのか、失望したのか、セインには分からない。
 しかし、男は後者の可能性など気に掛けていないらしかった。
「彼は本当に忠義者だな。我々としては大助かりだが」
「そうですね、ドクター」
 男の背後から女が一人、姿を現す。
 セインと同じボディースーツの上からコートらしき上着を羽織っている。
「他の客将ではあそこまで思い通りに動いてはくれません」
 口元に笑みを浮かべる。
 だが、丸い眼鏡の下の瞳は笑っておらず、まるで氷のようだった。
「客将って……」
 すっかり置いていかれていたセインは、腰につけていたポーチに何気なく手をやった。
 偽造制服を着ていたときに身に着けていたものだが、どうして今もここにあるのだろう。
 セインは少し前の記憶を辿り、あっ、と小さな声を上げた。
 指で弾くようにポーチの蓋を開け、掌大の金属塊を取り出す。
「これ返すの忘れてた」
 黒塗りの短刀を手に、セインは溜息をついた。
 偽の隊員であると見抜かれて窮地に陥ったとき、この短刀が敵の気を逸らして助けてくれた。
 きっとあの髑髏が投げてくれたのだと思って、返すついでにお礼を言っておこうとしていたのに。
 それをすっかり忘れているなんて。
 このポーチも短刀を入れて持ってくるために付けっぱなしだったんだ。
「早いうちに返した方がいいよね……でも、どこにいるんだろ」
 見れば見るほど、よく手入れされた道具であることが分かる。
 愛用の品だというならすぐにでも返却した方がいいだろう。
 何せ、暗殺者は馴染んだ道具に命を預けると言うではないか――
 セインは短刀をポーチに滑り込ませると、叩くようにして蓋を閉めた。


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最終更新:2009年11月30日 23:01