第11話「聖剣の騎士Ⅱ」


――四日目 PM3:50――

 背の高いフェンスにヴィータは体重を任せた。
 ぎしりと金網が鳴り、錆の破片がこぼれ落ちる。
「そろそろ四時だな……」
 肩越しに空港を見やる。
 フェンスの向こうに広がる風景は、いつものように穏やかだ。
 人知れず行われている作戦のことなど知る由もなく。
「連絡、ありませんね」
 ヴィータとそう背丈の変わらない少女がぽつりと呟いた。
 小さな指で金網を掴み、遠くの空港へ不安そうな眼差しを向けている。
 建造されてそう年月が経っていない、まだ真新しい白い建物。
 一部がガラス張りにされた外壁が、太陽の光を受けて水面のように輝いていた。
「キャロ、隊長二人が行ってるんだぞ? 大丈夫に決まってるだろ」
 なのはとフェイトはレリックの引き継ぎのため既に空港へ向かっている。
 キャロの呟きに答えながらも、ヴィータも落ち着いているようではなかった。
 爪先で何度も地面を叩き、胸の前でわざとらしく腕を組む。
「あっちの隊の人、ちゃんと着いたのかなぁ」
 今度は、少しばかり高い位置からスバルの声がした。
 フェンスに沿って停められた大型車の屋根に座って、両足をぶらつかせている。
 作戦の足として手配された車両だが、見かけも性能も何の変哲もない普通の車だ。
 3列シートで通常7人、予備座席を使えば8人まで乗ることができる。
「ちょっと。そこ座るところじゃないわよ」
 ティアナがドアの開いた助手席から身を乗り出す。
 ここにいる機動六課の隊員達は、誰も制服やバリアジャケットは身に着けていない。
 私服を着て一般人のように振舞うという単純な偽装だ。
 これだけでも、事情を知らない相手を誤魔化すには充分な効果はあるだろう。
 後は何があっても管理局の局員であると悟られないようにするだけだ。
 今回の作戦は『気付かれないこと』が第一。
 そのために私服を着て、在り来たりの車両を用意したのだから。
 憮然とするヴィータの横で、金網が小さく鳴った。
「……あの、宜しいですか?」
「あん?」
 振り向くと、淡い緑の繋ぎを着た少女が佇んでいた。
 帽子と胸ポケットに縫い付けられたワッペンは、空港職員の作業着に付けられるものだ。
 その少女は俯き気味のままで、フェンスの隙間から金属プレートを差し出した。
「管理プレートです。駐車されるのでしたら、それをフロントガラスの前に置いてください」
 ちらりと見えた少女の顔で、ヴィータは彼女が俯いている理由が何となく分かった。
 少女は片目を中心に、顔の半分近くを包帯で覆ってしまっている。
 どこかで怪我でもしたのだろう。
 ヴィータは少女の顔を見るのをやめて、プレートを受け取った。
「ご丁寧にどうも。……スバル!」
 屋根の上のスバルにプレートを投げ渡す。
 スバルは両手でそれを受け取ると、屋根に沿って身体を伸ばし、フロントガラスに滑らせた。
 まるで猫か何かだな、とヴィータは思った。
 いつの間にか繋ぎの少女はいなくなっていたが、別段気に留めはしなかった。
 今は空港に赴いたなのはとフェイトのことが気がかりで、他のことは思慮の外だ。


 そんな少女達の様子を、赤毛の少年達は後部座席から眺めていた。
「皆、落ち着いてないな」
 窓の外に視線をやりながら、士郎はぽつりと呟いた。
 応じるように、もう一人の赤い髪の少年が頷く。
「そうですね……。普段はこんな風じゃないんですけど」
 少年――エリオは士郎の言葉に同意しながら、窓の外を見た。
 車から降りたティアナが、ヴィータやキャロと何か話し込んでいるようだ。
 きっと任務についての会話なのだろう。
 キャロのバッグから顔を出したフリードが暇そうに首を動かしていた。
 士郎は皆と言ったが、彼よりも機動六課に慣れているエリオから見れば、正確な表現ではない。
 普段と様子が違うのはヴィータとティアナの二人だけだ。
 スバルはいつもと変わらないし、キャロは場の雰囲気に飲まれてしまっているに過ぎない。
 それでも、ヴィータ達の様子がおかしいのはエリオも気になっていた。
「何だか焦っているというか、急いでいるというか。心当たりとかありませんか?」
「俺に聞かれてもなぁ……」
 士郎は困った様子で首を傾げた。
 機動六課に加わってからまだ数日しか経っていないのだ。
 彼女達の様子がいつもとどう違うのかなど、はっきり分かるはずもない。
 エリオは、ですよね、と軽く話を流した。
 ――実のところ、彼らがまともに顔を合わせたのは、今日が初めてのことだった。
 簡単な紹介はされたし、隊舎や訓練場で何度か姿を見かけてはいる。
 だが、機動六課が結成されたときにスバルやティアナと交わしたような対話は出来ていない。
 編入早々に、正体不明の騎士やら次元犯罪者の暗殺やら、大きな事件が重なったことが原因だろう。
 端的に言うならば、そんな暇がなかったのだ。
 それでも多少の会話をする程度になっているのは、前線部隊で数少ない男同士という親近感からなのか。
 これではいけないな、とエリオは漠然とした考えに思いを巡らせる。
 同じ隊の仲間として戦っていくのなら、もっと明確な区切りが必要だ。
 仲間になったのだと実感できるセレモニー。
 別に派手でなくてもいい。
 互いのことを語り合って理解を深めるといった、基本的なことでも充分だ。
「何かないかなぁ」
「えっ?」
 頭の中で考えているつもりだったのに、言葉に出てしまった。
 気まずそうに笑って誤魔化そうとするエリオ。
 今すぐ考えをまとめようにも、彼の決して豊富ではない人生経験からは、気の利いた案は浮かんでこなかった。
 エリオは窓の外に顔を向け、そして、目を見開いた。
「――空港が!」
 隊員達の視線が一斉に空港に向かう。
 ガラス張りの屋根の一部が音もなく崩れ、ぽっかりと大きな孔が開いていた。


 目を凝らさなければ分からないほどの小規模な崩落だったが、明らかな異常事態だ。
 空港の異変を見止め、ヴィータは即座に行動を起こした。
「スターズ! ライトニング! 行くぞ!」
 金網に指を引っ掛け、小さな身体を宙に浮かせてフェンスを飛び越える。
 次なる異変が起きたのは、そのときだった。
 ヴィータの間近で
 突如として車のボンネットが爆発したのだ。
 外装の隙間から爆炎が吹き上がり、エンジンの残骸が煙を引きながら弧を描く。
 一瞬遅れて、引火した燃料が巨大な火柱となって車体を包み込む。
「……なっ」
 爆風が金網を激しく揺らす。
 高温の空気が、フェンスを越えたヴィータのところにまで津波のように押し寄せてきた。
「わあぁっ!」
 スバルが、車から数メートル離れた地面に落下した。
 舗装されていない湿り気を帯びた土の上を何度か転がって、仰向けに停止する。
 爆発で吹き飛ばされたのではなく、車体が炎上する間一髪のところで飛び退いたのだ。
 だが咄嗟に逃げ出したはいいが、着地のことまでは考えていなかったらしい。
 ずぶ濡れの子犬がそうするように、首を大きく振って髪に付いた土を落としている。
「痛ぁ……へ?」
 燃え上がる車にようやく気付き、目を丸くする。
 あまりに急な出来事だったからか、何が起きたのか理解し切れていなかったようだ。
 車体はもはや輪郭しか残っておらず、それすらも黒い酸化物に成りかけていた。
「エリオ君!」
「こらっ、危ないって! キャロまで……!」
 燃え盛る残骸に駆け寄ろうとするキャロを、ティアナは慌てて引き止めた。
 ティアナも、エリオとエミヤシロウが見当たらないことにはもう気が付いている。
 だからといって燃え盛る車に近付くのは自殺行為だ。
 赤い火の粉が鼻先まで飛んでくる。
 離れていても熱気は肌を炙り、熱された空気が肺を焦がす。
 生身であの中に取り残されてしまったなら、間違いなく助からない。
 ティアナはキャロの両肩を掴む手に、知らず力を込めていた。
 フリードがキャロのバッグから抜け出して、鳴き声を上げながら車の周囲を旋回し始める。
「……フリード、無事だったのかぁ」
 そんな緊迫感をぶち壊すように、炎の向こう側から力の抜けた声がした。
 キャロの顔が喜色に満ちる。
 ティアナ達から見て車を挟んだ反対側の路上に、士郎とエリオは四肢を投げ出して転がっていた。
 服や顔に多少の煤が掛かっている程度で負傷もしていない。
 ――こうも都合よく助かったのは、完全に偶然の産物だった。
 エリオが空港の異変に気付いたと同時に、士郎は手近なドアを開いていたのだ。
 無論、爆発のことを察知したわけではない。
 すぐに飛び出して空港へ向かおうとした結果、好都合な脱出ルートが確保されたに過ぎなかった。
「シロウさん、怪我……してないですか」
「大丈夫、だと思う、たぶん」
 空を見上げたまま交わす言葉からは、偶然とはいえ無事に脱出できた安堵感が滲み出ている。
 初めてまともに顔を合わせた間柄だというのに。
 二人の間に奇妙な連帯感が生まれかけていた。



 時間は少し遡る――


 ――四日目 PM3:55――

 平日とはいえ、空港は多くの人で溢れていた。
 数時間の航海を終えてミッドチルダの地を踏む人。
 遠い地を目指してミッドチルダを発つ人。
 様々な足音が巨大な建物一杯に満ちている。
 ガラス張りの天井の向こうには涼やかな青空が広がり、平穏な雰囲気に拍車をかける。
「なのは、私達だけで大丈夫かな」
 出発の時間を報せるアナウンスが待合室に響く。
 フェイトは少々落ち着かない様子で、隣に座るなのはに話しかけた。
 二人は待合ロビーの端にある長椅子に並んで腰を下ろしている。
 服装も機動六課の制服ではなく、街中で見かけるような普通の衣服だ。
「大丈夫だよ。地上部隊の人も私服で来てくれてるし、六課のみんなも外に待機してるから。
 何か起こってもきっとカバーできるよ」
「だといいけど……」
 フェイトは待合ロビーを見渡した。
 時に立ち止まり、時に行き交う人々の中に、周囲と違う雰囲気の人物が混ざっている。
 目当ての便を待っているわけでもなく、かといって到着したばかりというなさそうな人。
 予めそういう人がいると把握しておかなければ気付かない程度だが、確かに違いはあった。
 彼らが地上本部から派遣された陸士なのだろう。
 陸士の配置を一通り確認して、フェイトは目線を逸らした。
 下手に彼らを目で追っていては、自分が周囲に違和感を感じさせてしまう。
 ――この任務は秘密裏に遂行しなければならない。
 第七管理世界で確保されたレリックは、管理局の次元航行艦で輸送されることになっている。
 そしてレリックを運ぶ予定の次元航行艦は、まだ第七管理世界を出ていない。
 すべて、表向きには。
 今まさにレリックの引継ぎが行われようとしていることは、ごく一部の人間しかしらないのだ。
 故に表立って部隊を運用するわけにはいかなかった。
 他のメンバーが空港の外で待機しているのもそのためだ。
 大人数が集まって受け渡しをするのは目立ち過ぎる。
 第七管理世界からレリックを運ぶ担当者、一名。
 地上本部の配慮で隠れ潜んでいる、潜伏に秀でた陸士が三名。
 それに機動六課のなのはとフェイトを合わせた六名だけが、受け渡しに立ち会うことになる。
 大規模な陽動を背景とした、極少人数によるロストロギア輸送作戦。
 管理局ご自慢の次元航行艦を持ち出しておきながら、それが空荷だと誰が思うものか。
 ここまで手の込んだ作戦が必要となったのには、最近の情勢の変化が大きかった。
 確実にレリックを狙ってくるガジェットドローンの活動活性化。
 レリックを求める危険性が高いと目される、サーヴァントと次元犯罪者。
 どちらにも気付かれにくい方法があるのなら、それを選ぶべきだと考えたのだろう。
 地上本部の立案にしては堅実さを重視した作戦だと言えた。
 だが、フェイトは隠しがたい不安に襲われていた。
 確かに、これなら秘密裏に作戦を進められる。
 だけどもし見抜かれていたら――
 地上本部が立案し、既に進行している作戦とはいえ、湧き上がる不安は拭えない。
 万全を期するならば、多少目立つとしても大人数で輸送をしたほうが安全ではないのか。
 サーヴァントの戦闘能力を警戒するにしても、それなりの部隊を組めば襲撃される危険は少ないはずだ。
 フェイトは改めて周囲を見渡す。
 ここにいるのは何も知らない人ばかりだ。
 自分が事件に巻き込まれることなんて予想もせず、いつも通りの生活を送る人々。
 もしここが戦場になってしまえば、彼らに大きな被害を与えてしまうかもしれない。
 そう考えると、この作戦、心が重かった。


「フェイトちゃん。だから私達がここにいるんだよ」
 右手を、なのはの両手がそっと包む。
 いつの間にか強く握り締めていた手が、温かい感触にほぐされていく。
 微笑むなのはの瞳は、まるで心を見透かしているかのよう。
「……そうだね」
 万が一のときには交戦状態に入る許可も下りている。
 ――何が起こっても絶対に守り抜いてみせる。
 この力は、そのためにあるのだから。
「失礼。少々お時間、頂けますか?」
 不意に、髪の長い少女が二人の前に立った。
 肩から足までを覆うコートを羽織り、僅かに波打ったブラウンの髪を腰に流している。
 そしてその手には、一抱えもあるケースが提げられていた。
 少女は目深に被った帽子を指で軽く上げ、なのは達と視線を交わす。
「管理局地上本部の方で宜しいですね」
 帽子の下、黒い色眼鏡越しに、琥珀色の瞳が微かに笑った。
 一瞬だけ視線を交わすなのはとフェイト。
 その表情には不信と警戒の色が浮かんでいた。
 事前の打ち合わせでは、デックスという名の陸士がレリックを運んでくる予定になっていた。
 管理局に登録されたデータを見ただけだが、外見も把握している。
 だからこそ少女の存在は不可解だった。
 デックス陸曹は、男性なのだから。
「お名前、伺ってもいいですか?」
 なのはは警戒心を隠すこともなく問いかけた。
 陸曹が何らかのトラブルに巻き込まれ、代理が来た。
 そんなことはまずありえない。
 もしそうなら、現場を担当する機動六課に連絡が入ってくるはずだ。
 フェイトは待機状態のバルディッシュを左手で握った。
「いえ、名乗るほどの者ではありませんよ」
 少女が嗤う。
 機械的なまでに冷たい眼で、人間的なまでに口元を歪めて。
 そして片手に提げたケースを無造作に突き出す。
 刹那、ケースの蓋が弾けるように開き、目も眩む閃光が迸った。
「――!」
 視覚が白く塗り潰される。
 破壊力などない、単なる目眩まし。
 しかしケースから放たれた激しい光は、なのはに一瞬の思考停止を余儀なくさせた。
 その隙を縫うように踏み込む少女。
 懐から白刃を取り出し、なのはの首筋へと滑らせる。
 ――ザン、と短い音がした。
 繰り出された短剣が空を切る。
 絶妙なタイミングで放たれた奇襲の一撃は、しかし標的を捉えるには至らない。
 唯一、首から提げられたレイジングハートの紐だけを切断したのみ。
 少女の顔が強張る。
 何が起こったのかを理解するより先に、全力で飛び退いて距離を取る。
 少し遅れて、細長く平べったい金属塊が床に落ち、澄んだ音を響かせた。
 信じがたいといった表情で、少女は右手の得物に視線を落とす。
 成程――これでは標的に届く道理もあるまい。
 短剣は刀身の中程から先端にかけてを完全に失っていた。


「させない――」
 鎌状に展開されたバルディッシュが少女に突きつけられる。
 フェイトは激痛にも等しい光量を浴びながらも、即座にバリアジャケットを展開していたのだ。
 その眼差しは少女に焦点が合わさっていない。
 恐らく今のフェイトは周囲の様子を視認で来ていないのだろう。
 閃光から身を守るのではなく、その後の襲撃を見越して反撃に転じた結果だった。
 一方、なのはの身体には傷一つなく、眼前にかざした腕の隙間から、強い視線で少女を見据えている。
 視覚への影響も腕と目蓋に遮られて最小限に留まっているようだ。
 少女に不信を抱いた時点で、なのはとフェイトの間には一つの共通認識が生じていた。
 『この人物は、何か危険なことをするかもしれない』
 言葉は交わさなかったが、なのはが率先して少女に問いかけた時点で、役割分担は決定していたといえる。
 なのはが相手と接触し、万が一のときにはフェイトがそれをカバーする。
 故に、なのはは閃光から身を守り被害を押さえ。
 フェイトはケースから閃光が放たれた瞬間、我が身を省みず即座に少女へ斬りかかったのだ。
 短剣だけが切断されて少女の肉体が健在なのは結果に過ぎない。
 偶然にもバルディッシュの刃が少女の腕を捉えなかっただけのこと。
 閃光から三秒余りが経過する。
 騒ぎはすぐに周囲へ広がるだろう。
 そうなる前に少女を確保しようと、なのはは床を蹴り、低い姿勢で跳びかかろうとした。
 その瞬間、甲高い悲鳴が鼓膜に突き刺さった。
「きゃあああああっ!」
 乗降口へ通じる通路の方からだ。
 なのはが悲鳴に意識を向けた一瞬のうちに、少女はどよめく人の波に身を躍らせた。
「待ちなさいっ!」
 悲鳴が聞こえた方向から津波のように人が押し寄せる。
 混乱の渦中をすり抜けて遠ざかる少女。
 人の波を掻き分けても、とても追いつけるような距離ではないだろう。
 なのはは歯噛みして視線を巡らせた。
 不意に人垣の一角が崩れ、悲鳴の原因が露になる。
 蹲り、倒れこんでいる一人の男。
 そして、冷たい床材に流れ出る鮮やかな赤色。
 苦痛に歪んだ男の顔は、なのはを動揺させるには充分すぎた。
「デックス陸曹!」
 崩れ落ちた男の周りには、彼が持っているはずのレリックケースが見当たらない。
 しまった――
 考えれてみれば当然のことだ。
 襲撃者が狙うとすれば今現在レリックを持っている者に決まっている。
 少女が目の前で起こした派手な行動ばかりに気を取られて、優先すべき事柄を失念してしまった。
 その結果が、これだ。
「……っ!」
 なのはは首を振って悔悟の念を払った。
 後悔なんていつでもできる。
 今は自分が取るべき最善の手を尽くすだけだ。
 少女の姿は既に人混みの中に消えている。
 今から自分が追跡しても見つけられるかどうかは分からない。
 そして陸曹は――床に倒れ伏したまま、どこか離れた場所を睨み付けていた。


「あれは……!」
 その意図するところを察し、なのはは駆け出した。
 渦を巻く人の波に肩をねじ込み、腕を伸ばして道を確保しようとする。
 絡みそうになる脚も、肘や鞄があたる痛みも気に留めず、わき目も振らずに駆けていく。
 視線の先には、ひとつだけ床に転がっている、偽装されたレリックケース。
 陸曹は片方だけでも奪われまいと、咄嗟にアレを遠くへ投げたのだ。
 それをみすみす奪われるわけにはいかない。
 なのはは転びそうになりながらも、両腕でケースを抱え込んだ。
 腕に掛かる重みを確かめて、安堵に口元を緩める。
 そのとき――くすり、と――嘲笑が耳をくすぐった。
 唐突に、幾つもの影が床と人ごみに投射される。
 数はおよそ七。
 どれも一様に幾何学的な楕円形で、滑らかな曲線を描いている。
 ガラス張りの天井を仰ぐなのは。
 次の瞬間、空とロビーを仕切るガラスの仕切りが、音を立てて砕け散った。
 太陽光を乱反射させながら降り注ぐ硬質の瀑布。
 そして、その中を急降下する楕円の機械。
 ――ガジェットドローン。
「レイジング……っ!」
 首から提げているはずの"相棒"を呼び起こそうとし、言葉を詰まらせた。
 "相棒"たるデバイスは、先の奇襲によって身体から離されて、長椅子の傍に転がっていた。
 それでも走って拾いに行けばすぐに手が届く程度の距離だ。
 だが、状況がそれを許さない。
 我先にと逃げ惑う群集の中、なのはからほんの数歩先で、幼い少女が突き飛ばされるように倒れる。
 ガラスの雨は一秒と待たずに降り注ぐ。
 もはや立ち上がる時間すら残されていないだろう。
 なのはは息を呑んだ。
 レイジングハートを拾うこと。
 バリアジャケットを展開すること。
 そしてあの少女を救い出すこと。
 全てを同時に行うには、あまりにも時間が足らなさ過ぎる。
 気付いたときには既に身体が動いていた。
 レイジングハートを残したまま、庇うようにして少女に覆い被さり、ケースと一緒に強く抱きしめる。
 一瞬遅れて、無数のガラスの破片が床を隙間なく打ち据えた。
 背中に鋭い痛みが駆け巡る。
 いや、厚手の上着に守られた部分はまだいい。
 露出した肌を裂く痛覚が総身を震わせ、大小の破片が砕ける音が鼓膜を麻痺させる。
 それでもなのはは身じろぎせず、少女の身体を庇い続けた。
 しかし迫る危険はこれだけではない。
 七機のガジェットドローンが、数メートル直下に残る二人に向かって照準を合わせる。
 無慈悲な機械の目が無防備な背中を捉え―― 一機が、瞬時に両断された。
 翻る白布。
 両断された機体が爆散する間もなく、魔力の大剣を携えたフェイトが二機目を切り捨てる。
 まさに雷光のごとき連撃だ。
 間髪入れず、常人の知覚外の速度で三機目との距離を詰める。


 バリアジャケットに守られた肉体にとって、ダイヤモンドダストのように輝くガラスの雨も脅威ではない。
 切っ先で三機目を刺し貫くと同時に横へ薙ぎ、その勢いのまま付近にあった四機目もを粉砕した。
 流れるように振り返り、残り三機を視界に納める。
 しかし、フェイトが次なる行動を起こすまでもなく、それらは瞬時に鉄屑へ変わり果てた。
 まるで不可視の爪に引き裂かれたかのように、破壊力を帯びた指向性の暴風によって砕かれていく。
 暴風の余波が周囲のガラス片と共に残骸を巻き上げる。
 僅か数瞬の間に、七機ものガジェットドローンは全て宙を舞う鉄屑と化した。
 だが、出来るのはそこまでだった。
 降り頻る瑠璃の白雨を止める術をフェイトは持たない。
 子供の背丈ほどもあるガラスが、なのはの目と鼻の先に落下する。
 直撃すれば重傷は避けられなかったであろうソレは、床に衝突して水飛沫のように砕け散った。
 飛散した破片の一つがなのはの頬を掠め、赤い血の筋を残す。
 時間にして数秒足らずのガラスの豪雨。
 凶刃にも等しいそれが止んだ後には、不気味な静寂だけが残された。
「……大丈夫?」
 そっと身を起こし、なのはは少女に微笑みかけた。
 恐怖と混乱と涙に溢れた大きな瞳が縋るようになのはを見返す。
 見たところ怪我らしい怪我は負っていない。
 あったとしても、転んだときに擦りむいたらしい膝の傷くらいだろう。
 フェイトもなのはの健在を確かめ、安堵に息を吐く。
 みしり、と。
 鉄の軋む音がして、フェイトの視界を巨大な塊が掠めた。
 ――鉄骨。
 ガラス張りの天井は、強度を保つためその形状に沿った支柱で支えられている。
 ガジェットドローンによって損傷した支柱の一本が、今になって自重に耐えられなくなったのだ。
「あ――」
 一瞬、フェイトは落下する鉄骨を目で追った。
 動かなければならない状況だというのに、緩んでしまった緊張の糸は急には戻らない。
「なのはっ!」
 張り上げた声がなのはに届いたときには、もう遅い。
 数トンもの質量はもはや回避不能な距離にまで迫っていた。
 最悪の結末が訪れる刹那、金色の光が宙を斬った。
 鳴り響く轟音。
 ロビーの大気が鳴動し、内壁に折れ曲がった鉄骨が突き刺さる。
 余りにも常軌を逸した出来事の連続に、退避した利用客は一様に言葉を失っていた。
 フェイトも例外ではなく、何が起きたのか理解できていない表情で、ガラスだらけの床に着地する。
 その中でただ一人、なのはだけが笑顔だった。
 体中に傷を負い、肌も服も赤い血に塗れて、それでも普段の明るい顔を失っていない。
「来てくれてたんだ……ありがと、セイバーさん」
「いいえ、礼には及びません、ナノハ」
 まるで少年のような後姿。
 濃紺のスーツを戦装束のように纏い、一括りにした金糸の髪が肩に揺れる。
 凛とした声色は少女のそれに近いものの、精悍な横顔からは幼さを微塵も感じさせない。
 ――少女は構えを解き、なのはに向き直る。
 その右手には、光輝を織り成したかのような剣が煌いていた。



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最終更新:2009年11月30日 23:05