マジカルマリサ5
あれから三日が経って、自分は新しいデスクの上で仕事をしていた。
職場にいる人間は、背中に黒い羽が生えていたり、
やたらと小さな背丈の小さな女の子がせかせかと書類の山を運んでいたりした。
静かな忙しさといえば言いのだろうか、誰一人として言葉を発さないのに、紙とペンの音がフロアに繁茂している。
結局、自分は辞令を受けることにした。そのほうがいい、それしかなかった。
あの日見た事は疲れからの幻覚だと思うことにした。何年も付き合ってきたはずなのに始めてみた彼女の本性は、
まるで魚のいない水槽のようにぽっかりと何かが抜け落ちた後の虚空を見ているようであった。
背中に誰かの声がかかる。
「やあ、調子はどうだ。新しい職場はやりがいに満ち溢れているだろう」
煮たまごのような肌つやを照らしている、上司は真っ白な歯を見せて笑いかけてきた。
「ええ、まだまだ仕事は不慣れなもので同僚には迷惑をかけていると思いますが、充実しています」
彼はそれをきくと満足そうにうなずくと、自分の背中を慰撫するように何度か叩いた。
「まあ、君のいい人には悪いことをしたとは思うが、四十代は色よりも職が大事な時だ。君はいい選択をしたよ」
自分の愛人のことは誰にも言っていないのに、ごく当たり前のように話題に出すということは
いまだに自分は監視されていることを暗に示してくれているのだろう。
聞いた話では彼も昔自分と同じ様なことがあって、同じくここの部署へ移されてきたようだ。
彼にも何か思うところはあるのだろうか、ここへきてからやけに親身に接してくる。
「まあ、住めば都。通えば都というようになってくるよ」
二日前の昼頃会社を抜け出して(実際は誰かがついてきているのだろうけれども)、
自分は喫茶店の日の当たらない2シートの角席で、自分の愛人にあっていた。
「それで?急に呼び出したのはどういうわけかいい加減教えてくれる?」
体面に座って、長い足を組んでいる彼女は頭をがりがりと掻きながら、短い髪を振り乱した。
「あ、ああ。そのことなんだ。君に聞きたいことがあるんだけどさ。」
「君は、どっちなんだい?」
しばらくの間が経ったのちに、彼女は口を開いた。
「うーん、難しいわね。どっちでもないというのが正しいのかもしれないわ」
「私は頼まれたのよ。」
「二年位前だった、顔に笑顔が張り付いたような女に頼まれてね。机にチャチャリンと金貨を積まれてね」
「あんたと寝ろってさ。あんたは別に不細工でもデブでもなかったからそんなに苦じゃなかったし、
何より執着心なんて持ち合わせてないような奴だったから」
彼女はストローを小さくたたみながら、平然としながらそんな言い訳をした。
「なんというか、さっぱりしてるね。」
自分は彼女に対しては、肉体関係のほかに何か友情にも似たような感情を抱いていたので、
女に騙されたというよりは、友人に裏切られたショックを受けていた。
それゆえにか、どこかすねた口調で非難を投げかけた。
彼女はくすくすと、肩を少しゆすりながらうつむいて笑った。
「ああ、さっぱりしてるわよ。これで日曜日は友達と遊べるようになったし」
髪をかき上げて、顔を上げると、その目は皮肉気に目を細めていた。
「まあ、楽しかったわよ。遊びというかビジネス恋愛みたいなものだったけど」
それきり彼女は窓向こうの景色を、眺めたまま何もしゃべらなくなってしまった。
喫茶店は多くの客の会話でにぎわっているのに、僕と彼女の二人はそれにぽつんと取り残されたかのように
何も話さず、そして店が閉まるころまでそこにいた。
感想
最終更新:2019年02月09日 20:54