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TEXT:過去ログ6-2渡辺論文1
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渡辺 - 02/05/29 12:45:48
電子メールアドレス:北村稔『「南京事件」の探求』を批判する #1/2
コメント:
まだ、書いている最中の草稿ですが、ご参考のために掲載します。なお一部にHTMLタグが入っていますが、まだ削除していませんので、ご了承ください。
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(改訂所載:http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Lounge/3924/kitamura/kitamura02.html)
第二部 「南京事件」判決の構造とその問題(P65-115)
1 「南京事件」判決の成立
(1)判決成立までの経緯
まず、冒頭から著者は奇妙なことを言い出す。
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「南京事件」は、第二次世界大戦終了後の南京での国民政府国防部審判戦犯軍事法廷の判決と、東京での極東国際軍事裁判の判決により、その実在が確定された。
(P65)
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「その実在が確定された」とは一定どういう意味なのだろうか?判決が確定することはあっても、「実在」が確定されるということなどがあるのだろうか。
そして、著者は次のように WHAT WAR MEANS が裁判の基本方針を形成したと推測する。
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しかし、WHAT WAR MEANS の内容が、裁判開始の前提となり裁判を維持する基本的枠組みとして機能した。
南京の裁判では、 WHAT WAR MEANS はすでに述べた『スマイス報告』とともに、「大虐殺」を立証する重要証拠として判決書に特筆された。
東京の裁判でも、判決書の中に裁判官がティンパーリーの著作を読んでいたことをしめす文面が見られる。判決文には「日本側が市を占領した最初の二、三日間に、少なくとも一万二千人の非戦闘員
である中国人男女子供が死亡した」と述べられるが、法廷で陳述された多くの証言の中にはこの数字への言及は見当たらない。それゆえ一万二千という人数は、WHAT WAR MEANS にう「四万近くの非武装の人間が南京城内または城門の付近で殺され、そのうちの約三〇パーセントはかつて兵隊になったことのない人々である」を敷衍したものと考えられる。ティンパーリーの著作が訴訟指揮の基本方針を形成させたことは容易に想像される。
(P67)
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しかし、この記述には初歩的な誤りを含んでいる。
まず、WHAT WAR MEANS も「スマイス報告」も、「大虐殺」を立証する重要証拠などとはされていない。
谷寿夫の判決の問題の個所を見てみよう。
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陥落後、日本軍各部隊は各地に分かれ侵入し、婦女暴行をほしいままおもなった。たとえば、<以下実例は省略>また民家への放火、財産の強奪、および安全区への侵入と婦女強姦、外国人財産の略奪などの行為は、それぞれの生存被害者と目撃証人である蕭余婦人・<以下人名省略>・徐兆彬など百人余りが調書で述べているところからしても間違いのないものである。国際委員会の組織した南京安全区内の档案が列記している日本軍の暴行、及び外国籍記者ティンパレーが著した『日本軍暴行記実』、スマイス(Lewes S.C.Smythe)の書いた『南京戦禍の真相』、ならびに当時南京戦役に参加した中国軍大隊長郭岐の編による『南京陥落の悲劇』に記述された各節はことごとくあい符号している。
[「南京事件資料集 2中国関係資料編」 P301-302]
[渡辺註]「南京事件資料集」の編者が挿入した資料が所収されている文献などの注釈はすべて割愛して引用した。
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つまり、、WHAT WAR MEANS も「スマイス報告」も、「大虐殺」を立証する重要証拠ではなく、暴行、殺人、強奪などの証言にそれらが「あい符号している」と、証言を支持する資料として挙げられている。
虐殺数は、「集団殺害され死体を焼却された者は一九万以上に達する」、それに加えて、「遺体が慈善団体によって埋葬された数が一五以上に達する」ことから「被害総数は三十万人余りである」と結論されたのである。[「南京事件資料集 2中国関係資料編」 P300]
「集団殺害され死体を焼却」したのは日本軍であった。この数字がどのようにして出されたものかは知らないが、後日1954年の「太田壽男供述書」によれば、「南京碇泊場にて単と失せる数 約十万」、「攻略部隊が取扱いたる数 約五万」で「計 十五万と推定す」とある。[偕行社「南京戦史資料集 ?」 P426]
次に、「一万二千人」という人数について、東京裁判において「法廷で陳述された多くの証言の中にはこの数字への言及は見当たらない」(P67)としているが、これは初歩的な誤りである。
もともと WHAT WAR MEANS の該当部分はベイツの1937年12月26日付け第五十号文書に典拠していることは、著者自身が述べていることである。従って、WHAT WAR MEANS ではなく、東京裁判でベイツがどう証言したのほうが重要である。判決書は次のようなベイツの証言を採用している。
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「スミス」教授及び私は、色々な調査・観察の結果、我々が確かに知って居る範囲内で、城内で一万二千人の男女及び子供が殺されたことを結論といたします。
〔林モニター 男女及び子供を含む戦闘員〕
<途中省略>
中国兵隊の大きな一群は城外の直ぐ外で降伏し、武装を解除され七十二時間後、機銃掃射に依って射殺されたのであます。是は揚子江の畔であります。国際委員会は三万人の兵士の亡骸を葬る為め労働者を雇ったのであります。是は我々の労働救済対策として行ったものであります。揚子江に葬られた屍体及び他の方法に依って葬られた屍体の数は数へることが出来きませぬ。
〔林モニター 埋められた屍体〕
[「日中戦争史資料 8」P49 のカタカナ表記をかな表記にして引用]
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以上のように、「ティンパーリーの著作が訴訟指揮の基本方針を形成させたことは容易に想像される」という著者の憶測は事実に反することが明白である。
いかに軍事裁判とはいえ、提出されなかった証拠や証言を「敷衍」することはない。
「しかし、テインパーリー自身は、すでに述べたとおり南京の法廷にも東京の法廷にも姿をあらわさなかった」(P67)と著者は言うが、テインパーリーは上海におり、目撃者ではなく、ジャーナリストとして資料をまとめたにすぎない。証人の資格がないから証人とした出廷しないくても不思議ではない。
(2)判決書を分析する
この個所は、著者が南京と東京における戦犯裁判の判決文から、要点を抜粋している。
従って、これ自体には問題がないと最初は思われた。しかし、その説明からみて、著者は南京軍事法廷と東京裁判の時間関係や内容の理解に混乱を生じているのではないかと思われる部分がある。
まず、説明しておきたいのは、軍事裁判が裁判である以上、検察側立証、弁護側反証、検察側最終論告、弁護側最終弁論という手順を踏む。裁判では検察側から提出された訴因のみを争う。裁判中に提出されたた証拠や証言のみが採用され、たとい裁判官がそれ以外に自分でなんらかの事実を知っていても、それを判決の判断に使うことはできない。提出された証拠、証言はすべて記録されている。
従って、判決がどの証拠や証言を採用したかは、必ず裁判記録の中にあるはずである。
ところが、著者は判決が、裁判記録にない証拠や証言に影響されたかのごとく述べる。
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強姦事件に関する以下の記述には、南京の判決書の影響が大きいと思われる。
「幼い少女と老女さえも、全市で多数強姦された。そしてこれらの強姦に関連して、変態的と嗜虐的な行為の事例が多数あった。多数の婦女は、強姦された後に殺され、その死体は切断された。占領後の一ヶ月間の間に、約二万人の強姦事件が市内に発生した」。
(P74)
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まず、「南京の判決書」と東京裁判の時間関係を述べておきたい。
谷壽夫の判決書の日付けは、1947年3月10日である。ただし、この時点では、まだ判決は確定していない。
この時点で、東京裁判はすでに検察側立証は終了しており、5月には弁護側反証段階に入る。つまり、検察が「南京の判決書」を証拠などに考慮することは時間的にできない。私が調べたところでは、「南京の判決書」が東京裁判の証拠として提出されていない。そもそも、他の法廷の判決を証拠にはできないように思われる。
著者の言葉に従えば、裁判官が「南京の判決書」を入手して読み、その内容が裁判官の心証に与えた「影響が大きい」ということになる。もし、そうであればルール違反もはなはだしい。
では、問題の文章はどのような経緯をたどって判決文に書かれたのであろうか。
まず、1948年2月25日の検察側最終論告(第三八〇号)を見てみよう。
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MM-37 在中国独逸外務当局は、迅速な進撃のため給与不十分であつた日本軍隊は、十二月十四日同市に開放せられ、正規の軍隊として名状すべからざる如き行為に出た、と報じてゐるのであります(a)。在中国独逸外務当局より伯林の外務省に宛てた一九三八年一月十四日附けの、南京陥落後の情勢に関する報告は、日本の軍当局は明かに其の権威を失ひ、其の軍隊は南京を陥れた後数週間に亙り同市を掠奪したが、二万の婦女子に暴行を加へ、罪亡き数千の常民(発電所の従業員四十三名を含む)を残忍な方法で殺害し、機関銃火による大量殺害の如きは人道的処刑法の中に入る位であつた、と述べているのであります(b)。
<以下省略>
[「日中戦争史資料 8」P327]
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次に、「約二万人の強姦事件」がドイツの外交文書に典拠するもであることがわかる。これは、ラーベが上海領事宛に書いた文書でベルリンへ送信されたものである。(東京裁判 書類番号四〇三九)
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日本軍当局は其の部隊に対して明<か>に命令権を失った如く、部隊は占領後数週間に亙り、市街を掠奪し、約二万の婦女子を冒し、数千の無辜の市民(其の中には発電所の四十三名の従業者を含む)を残虐なる方法に依つて殺害し(機関銃火に依る大量殺人は人道的処刑の中に数へらる)、亦外国人居住区に侵入すること躊躇せず、<以下省略>
[「日中戦争史資料 8」P166]
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ベーツは、「二万人」がラーベらによって報告されたと証言している。
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占領後一箇月して国際委員会委員長「ラーベ」氏及び其の同僚は「ドイツ」官憲に対して、少なくとも二万人の強姦事件があつたことを信じて居ると報告しました。それより少し前私はもつとずつと内輪に見積りまして、又安全地帯の委員会の報告のみに依りまして、強姦事件は八千と見積つたのであります。
[「日中戦争史資料 8」P50]
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判決書の「幼い少女と老女さえも、全市で多数強姦された。そしてこれらの強姦に関連して、変態的と嗜虐的な行為の事例が多数あった。多数の婦女は、強姦された後に殺され、その死体は切断された」という部分は何に基付くのであろうか。
これは「南京法院検察処敵人罪行調査報告書」(東京裁判 第一七〇六号)とマギーの証言(東京裁判 第四十八号、第四十九号)に基付くと思われる。
判決文と関係のある証言個所を抜粋してみよう。「南京法院検察処敵人罪行調査報告書」はこのように叙述する。
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3 姦淫に関するもの
一般青年婦女より六、七十歳の高齢老父(ママ)に至るまで被害者甚だ多し。其方式は強姦あり、輪姦あり、拒姦死あり、或は父をして其娘を、或は兄をして其妹を、舅をして其嫁を姦せしめて楽しみとなす者あり。或は乳房を割き、胸・腮を破り、歯を抜き、其惨状見るに忍びざるものあり。
[「日中戦争史資料 8」P144]
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ベーツもこのように証言している。
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南京神学院の構内で私が見て居る前で一人の中国婦人が、代わる{がわる}十七名に依つて強姦されたのであります。
〔林モニター 訂正。十七名の日本兵によつて〕
この強姦に関して狂人じみた或は残虐的な事件を此処で申述べることは差控えますが、大学構内だけでも九歳の小さい子及び七十六歳のお婆さんが強姦されたといふことを附加えます。
[「日中戦争史資料 8」P51]
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次に、マギーの証言を見てみよう。
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私は十二月二十日に或る一軒の家に呼ばれて行ったのでありますが、其処では約十歳から十一歳位の中国の少女が強姦されたのであります。(P92)
さうして十四歳から十六歳位の女の子を裸にしようとしたのであります。...それから是等の日本兵は
此の少女達を強姦したのであります。先程申しました案内役に立つた其の祖母は、其の部屋に行つて、竹の棒を女の膣から引摺り出して持って来たのであります。
〔宮本モニター 追加。是等の女は強姦され且つ殺されたのであります〕(P95)
[「日中戦争史資料 8」P84-]
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以上のように「WHAT WAR MEANS の内容が、裁判開始の前提となり裁判を維持する基本的枠組みとして機能した」ということが誤りであるこは明らかである。
2 戦時対外宣伝には登場しない南京での「大虐殺」報道
(1)大虐殺を伝えなかったティンパーリー
この部分に、著者がいかに「南京大虐殺」を理解しているかが、現れている。
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判決にいう?「六、七週間にわたって展開された計画的大虐殺である」を検討するには、WHAT WAR MEANS の伝える包括的な内容が恰好の対象である。
(P79)
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WHAT WAR MEANS で、南京の部分については、ベイツやフィイチらの安全区にいた外国人の文書が掲載されている。これらの文書は1月29日に南京から上海に向かったフィッチによって持ち出されたものである。
従って、安全区を中心とした地域の事件が記述されており、まだ事件の全貌、特に簡単には行けない城外の様子が分からない時点の記録である。
安全区は他の地域と比べれば、はるかに安全なところであった。従って、『「数十万人規模」の「計画的大虐殺」を彷彿とさせる内容ではない』(P81)に決まっているのである。
ティンパーリーが「数十万人規模」の「大虐殺を伝えなかった」のは当然のことである。
ところが、著者はいかなる予断からか、それらに書かれていることが大虐殺の一部だとすることが南京での「大虐殺」を構成する重要な論理であるとする。
また、日本大使館に報告された事件は、安全区の委員会のメンバーが直接目撃したり確認を行った確実な事件しか記載されていない。これだけを見ていては事件の全容が分かることは、ありえない。
「判決」において、WHAT WAR MEANSや「南京安全区档案」をもって「六、七週間にわたって展開された計画的大虐殺である」としたわけではない。著者の問題の設定そのものが間違っているのである。
この件については『第四部「三十万人大虐殺説」の成立』で、まとめて批判と事実の確認を行うことにしたい。
著者は結論として、このように述べている。
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要するに、日本軍の南京占領当時には、日本の暴虐を世界に知らしめることをことを戦時対外宣伝の骨子としていた国民党側にも、第三者として状況を監視する立場にあった欧米側にも、「南京で大虐殺が発生」したという共通認識は発生していなかった。
(P96)
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この部分は、不思議でしかたがなかったので何度も読み返した。なぜかというと、共通かどうかは知らないが「南京で大虐殺が発生」したという事実はすでに報道され、中国でも英米でも知られていたからである。ドイツの外交官は明らかに事態をよく把握していた。
また、南京に滞在していた外国人も、徐々に事態の大きさを知り、それらの情報は中国国内でも報道されていた。
日本軍の占領下にある南京での事件の全貌は、わかるはずもなく犠牲者数もいろいろな推測があった。「南京では三十万人規模の大虐殺が発生した」(P93)かどうかなど、当時は分かるはずもないのは当然である。
しかし、当時であっても徐々に、大虐殺の規模があきらかにされていた。
1937、38年当時の文書で「南京事件」がどう認識されていたかをリストアップしてみた。
この中には、当時は公開がされていない日記や公文書も含まれるが、中国での報道で情報源を共有しているとみられるものがあるので掲載した。
<b>(A)「虐殺」を報じる報道</b>
<b>(1)新聞:</b>
1-1)シカゴ・デイリーニュース(The Chicago Daily News) 1937年12月15日
A,.T.スティールの記事
NANKING MASSACRE STORY
Japanese Troops Kill Thousands
'Four Day's of Hell' in Capital City
Told by Eyewitneses; Bodies Piled Five Feet High in Streets By A.T.STEELE
[和訳]
南京大虐殺
日本軍何千人も殺害
目撃者の語る字″地獄の四日間″
通りに五フィートも積る死体の山
[南京事件調査研究会「南京事件資料集 1アメリカ関係資料」(青木書店,1992年)P465]
1-2)シカゴ・デイリーニュース(The Chicago Daily News) 1938年2月4日
記者は、パニックの南京の中国人虐殺をアメリカのジャックラビット狩りに比す
<途中省略>
私は集団処刑を一つ目撃した。数百人の男達の一隊が大きな日本国旗を抱えて付き添い、空き地へ引き連れて行く。そこで彼等は小人数ずつ、残虐に銃殺された。一人の日本兵が小銃を手に、膨れ上がる死体の山を監視しており、少しでも動きを見せる人体があれば、弾丸を浴びせた。
日本軍にとってはこれが戦争なのかもしれないが、私には単なる殺戮のように見える。
[南京事件調査研究会「南京事件資料集 1アメリカ関係資料」(青木書店,1992年)P475,P477]
1-3)ニューヨク・タイムズ (New York Times) 1937年12月18日
F.T.ダーディンの記事
十二月十七火、上海アメリカ船オアフ号発
0ニューヨーク・タイムズ宛特電
南京における大規模な虐殺と蛮行により、日本は現地の中国住民および外国人から尊敬と信頼が得られるはずの、またとない機会を逃してしまった。
<途中省略>
少なくとも戦争状態が終わるまで、日本の支配は厳しいものになるだろうという気はしていた。ところが、日本軍の占領が始まってから二日で、この見込みは一変した。大規模な略奪、婦人への暴行、民間人の殺害、住民を自宅から放逐、捕虜の大量処刑、成年男子の強制連行などは、南京を恐怖の都市と化した。
<以下、長い記事なので省略>
[南京事件調査研究会「南京事件資料集 1アメリカ関係資料」(青木書店,1992年)P417]
1-4)ニューヨク・タイムズ (New York Times) 1938年1月9日
F.T.ダーディンの記事
南京侵略軍、二万人を処刑
日本軍の大量殺害――中国人死者、
一般人を含む三万三千人
<長い記事なので省略>
[南京事件調査研究会「南京事件資料集 1アメリカ関係資料」(青木書店,1992年)P428]
1-5) ワシントン・ポスト 1937年12月17日
日本、南京入城式典を
一九三七年十二月十七日
中国人男子を大量処刑
蒋、抗戦継続を訴え
<途中省略>
大量処刑を執行
少しでも軍隊に勤務していたものと見える中国人男子はすべて集められ、処刑されたと、メンケンは言った。
[南京事件調査研究会「南京事件資料集 1アメリカ関係資料」(青木書店,1992年)P516]
<b>(2)雑誌、書籍:</b>
Georgr Fitch の Nanking Diary の掲載
2-1) ケン (Ken) 1938年6月2日号
2-2) リーダーズ・ダイジェッスト(Readers Digest) 1938年7月号 に要約掲載
ケン (Ken) 1938年6月2日号の要約
The Sack of Nanking
Condensed from Ken
As told to John Malony
[Readers Digest, July, 1938, P28-31]
フィッチの My Eighty Yaers in China によれば、掲載後数ヶ月たってからJohn Malonyが雑誌に掲載したことをフィッチは知った。
2-3) What War means / Japanese Terror in China 1938年7月刊行
H.J.Timperley が編纂した、What War means (英国:Voctor Gollancz)、 Japanese Terror in China(米国)でほぼ同時に刊行され、フィイチの Nanking Diary 、ベイツの文書、安全区委員会の文書などが掲載された。
その他、カルカッタ版というものがあることが知られている。
What War means が、最初に「南京事件」を世界に紹介したといまだに記述している書籍がある。しかし、正しくは Ken誌で、米国で大きな関心を呼ぶきっかけ、リーダーズ・ダイジェスト6月号である。
2-4) リーダーズ・ダイジェッスト(Readers Digest) 1938年10月号 に全文掲載
"We Were in Nanking"
6月号で多くの読者から反響があり、信じられない内容で明らかに宣伝のたぐいだいう声があったので、要約ではなく全文の抜粋が掲載された。
フィッチの日記は、12月18日から5月3日の抜粋。その他、スマイスの日本大使館宛の手紙とベイツの米国への手紙の抜粋が掲載されている。
<b>(3)「南京虐殺」という語を使った公文書:</b>
駐華ドイツ大使館(漢口)宛、発信者-ビバー(駐華ドイツ大使館書記官、北平[北京])
一九三七年一二月三十日付け北平ドイツ大使館分館
文書番号二七二二/四三七九/三七
内容-日本軍による南京占領時、および華北における中国人大虐殺
大使館に宛てて、二本の報告の写しを送付する。これは、米国の知人[註1]から提供されたもので、日本軍が南京陥落後三日間にわたり、都市住民にたいしておこなった大虐殺に関する目撃報告である。
<途中省略>
これらの目撃報告は、中国における日本軍の非人道的な戦争遂行の全過程で、南京大虐殺[翻訳註1]ほど凄惨な殺戮はこれまでなかったとの点で一致している。
[石田勇治翻訳「資料 ドイツ外交官の見た南京事件」(大月書店,2001年)P24-26]
渡辺[註1] M.S.ベイツとA.T.スティール
[翻訳註1] Nankinger Massacre
<b>(4)中国政府の声明</b>
1938年2月1日 国際連合理事会第六会議議事録
議長による決議案(C/69/1938/7)の提案に続き、顧維鈞氏の演説-
<途中省略>
ただ、その一端を物語るものとして、日本軍の南京占領に続いて起こった恐怖の光景に関する『ニューヨーク・タイムズ』紙特派員の記事を紹介すれば十分でしょう。このリポートはリポートは十二月二十日付の『ロンドン・タイムズ』紙に掲載されたものです。特派員は簡潔な言葉で綴っています。「大がかりな略奪、強姦される女性、市民の殺害、住居から追い立てられる中国人、戦争捕虜の大量処刑、連行される壮健な男たち」。
[石田勇治翻訳「資料 ドイツ外交官の見た南京事件」(大月書店,2001年)P1387-138]
<b>(5)米国で発行されたカード:</B>
1938年 戦争の恐怖カード 南京の恐怖の一週間 (Horrors of War, GUM Inc., Nanking's Week of Horror, 1938)
<b>(B)遺体数に関する記述:</B>
<b>(1)公文書</B>
1-1)ローゼン
ドイツ外務省(ベルリン)宛、発信者-ローゼン(南京)
一九三八年三月四日付南京分館第二二号
文書番号二七二二/一八九六/三八
内容 - 南京の状況
<途中省略>
紅卍字会はゆっくりとしたペースで大量の死体の埋葬に取りかかっている。死体の一部は、まず池と地下壕(かつての防空用)からときに積み重なった状態で掘り出さねばならない。たとえば、大使邸の近くの大通り沿いがそうであった。川港町の下関一帯に依然として横たわっている三万体の死体は、テロがピークを迎えた時期の大量処刑で生じたものだが、紅卍字会はそこから毎日五、六百体を共同墓地に埋葬している。辺りを歩くと、散乱した死体が畑や水路の中に見られるし、棺がいたるところに(大使館庁舎の建物から最も近い町角にさえ)何週間も散らばったままである。
[石田勇治翻訳「資料 ドイツ外交官の見た南京事件」(大月書店,2001年)P218]
1-2)スマイスの記録
記録
一九三八年三月二一日付
作成者―南京国際救済委員会(スマイス)
[欄外にローゼンの書名]
内容 - 現在の状況に関するメモ
<途中省略>
死者の埋葬に従事した諸団体やその他の観察筋の情報を集計すると、南京城内で一万人が、城外で約三万人が殺害されたと見積もられる。ただし、後者の数は、長江の川沿いをあまり遠くに行かない範囲のものである!こうした人々は、全体のおよそ三〇パーセントが一般市民であると見積もっている。
[石田勇治翻訳「資料 ドイツ外交官の見た南京事件」(大月書店,2001年)P233]
1-3) What War Means の第3章(ベイツによる)1937年12月26日
原文:
Finally, it should be remembered that this incident is only one of a series of a similar acts that had been going on for two weeks, with changes on the main theme of mass murder of men accused rightfully or wrongfully of being ex-soldiers.This is not the place to discuss the dictum of international law that the lives of prisoners are to be preserved except under serious military necessity, nor the Japanese setting aside of that law for frankly stated vengeance upon persons accused of having killed in battle comrades of the troops now occupying Nanking.Other incidents involved larger numbers of men than did this one.Evidence from burials indicate that close to 40,000 unarmed persons were killed within and near the walls of Nanking, of whom some 30% had never been soldiers.
[WHAT WAR MEANS: The Japanese Terror in China, H.J.Timperley, London Victor Gollancz Ltd, 1938, P58-59]
邦訳:
最後に、忘れてはならないことは、この事件はここ二週間にわたって続けられた一連の同様の行為のうちの一つにすぎないが、ただその主題が変じて、元兵隊であろうがなかろうが、とにかく元兵隊と認定されたものの集団虐殺となったということだ。ここは、、捕虜の生命はさしせまった軍事上の必要以外においては保証されるという国際法の条文を語る場所でないし、日本軍もまた、国際法などは眼中になく、いま南京を占領している部隊の戦友を殺した人間に対しては復讐をすると公然と言明したのである。 他の諸事件はこの事件よりも多数の人をまきこんだ。埋葬による証拠の示すところでは、4万人近くの非武装の人間が南京城内または城門の附近で殺され、そのうちの三〇パーセントはかつて兵隊になったことのない人々である。
[日中戦争史資料 9, 洞富雄編, 河出書房新社,昭和48年, P47]
[渡辺註1]
What War Means には、文書の作者は書かれていない。
しかし、徐淑希「南京安全区档案]弟五十号文書 MEMORANDUM ON AFTERMATH OF REGISTRATION OF REFUGEES AT NANKING UNIVERSITY December 26,1937 と同じ内容なので、文書作成者はベイツ、日付は1937年12月26日と考えられる。
なお、What War Means の中国語訳「外人目睹中之日軍暴行」及び「南京安全区档案]には「埋葬による証拠の示すところでは、~かつて兵隊になったことのない人々である」という被害者数にかんする文は掲載されていない。
40,000という数字は、上記 1-2)のスマイスと一致するので、同じ情報を記述したものではないかと推測される。
[渡辺註2]
北村稔『「南京事件」の探求』(文藝春秋)P121で、「誤訳(改竄?)」と指摘している個所について、直訳を付しておきたい。
渡辺訳(直訳):
ここは、捕虜の生命は重大な軍事上の必要以外においては保証されるという国際法の見解を論ずる場所ではない。また、いま南京を占領している部隊の戦友を殺した人間に対しする公然と言明された復讐により日本軍が国際法を無視していることについて論じる場でもない。
確かに「日中戦争史資料 9」の訳には問題がないとはいえない。しかし、こなれた日本語にするには、思い切った意訳を要する日本語にしにくい個所である。中国語訳でも文を分割して「日中戦争史資料 9」と似た訳をしている。
『「南京事件」の探求』では「日本軍が~国際法を無視しているか否かを論じる場であはない」としているが、原文は日本軍が「復讐」により国際法を無視していることを断定、それを前提としており、「国際法を無視しているか否か」などとは書れていない。前後関係、文脈からいえば、こちらのほうが よほどひどい誤訳である。
1-3) ウィルソンの家族への手紙 1938年5月7日
原文:
The Red Swastika Society has for the last month been feverishly burying bodies from all parts of the city outside the zone and from the surrounding countryside.
The conservative estimation of the numbers of people slaughted in cold blood is somewhere about 100,000, including of course thousand of soldiers that had thrown down thir arms.
["Documents On The Rape Of Nanking", Timothy Brook,Ann Arbor Paperbacks, 2002, P254]
[渡辺訳]
紅卍字会は、ここ1ヶ月間、安全区外や周辺農村部からの遺体を ものすごい勢いで埋葬しています。
冷酷に虐殺された人々の控えめな推定数は、およそ10万人程度です。もちろん、武器を放棄した多数の兵士達もその数に含まれています。
<b>(2)中国報道</b>
2-1) 南京同胞、敵の蹂躪に遭う
新華日報 1938年5月30日
<途中省略>
昨年十二月十二日から今年三月末南京を離れるまでに、惨殺された南京の同胞は一〇万をくだらない。
[「南京事件資料集 2中国関係資料編」(青木書店,1992年)P60]
2-2) サウスチャイナ・モーニング・ポスト 1938年2月23日
日本軍に冷血にも殺された中国人は、南京では八万人は下らないと見られる。そして、首都陥落以来、一万人の婦人が暴行された。これらの犠牲者の多くが、国際救済委員会が設立した難民キャンプから強制的に連行された人たちだといわれたいる。
<b>(3)ヒットラーに送ったラーベの講演の草稿(上申書) 1938年6月8日</b>
中国人の申し立てによりますと、十万人の民間人が殺されたとのことですが、これはいくらか多すぎるのではないでしょうか。我々ヨーロッパ人はおよそ五万から六万人とみています。遺体の埋葬をした紅卍会によりますと、一日二百体は無理だったそうですが、私が南京を去った二月二十二日には、三万体の死体が、埋葬できないまま郊外の下関に放置されていたといいます。
[ジョン・ラーベ著,エルヴィン・ヴィッケルト編/平野卿子訳「南京の真実」(講談社,1998) P267,P317 を渡辺が"誤訳"を訂正して引用]
<b>(4)ミニー・ヴォートリンの日記</b>
(1938年)
2月16日 水曜日
<途中省略>
五時から六時の間にY.G.巌さんが訪ねてきた。彼は殺されたと聞いていたのだが、しかし、彼にはその話はしなかった。彼の話によれば、占領の初期に三[ミ叉]河で一万人が、燕子磯では二万人ないし三万人が、下関ではおよそ一万人が殺害されたと聞いたそうだ。彼は、多くの夫と息子は絶対に帰ってこないと確信している。頻繁にわたしのところへやってきては、嘆願書に書かれている情報を何か聞いていないかと尋ねる女性にたいし、あなたたちの夫が帰ってくることは絶対にない、などと、どうしてそんなことが言えようか。
[岡田良之助/伊原陽子訳「南京事件の日々 ミニー・ヴォートリンの日記」(大月書店,1999年)P172]
日が経つに連れて、事件の実態が明らかになってきている。
これでも『国民党側にも、第三者として状況を監視する立場にあった欧米側にも、「南京で大虐殺が発生」したという共通認識は発生していなかった』と言えるのであろうか。
それでも、「三十万人」ではないことに著者は多分こだわっているのであろう。
(以下、下の投稿へ続く)
電子メールアドレス:北村稔『「南京事件」の探求』を批判する #1/2
コメント:
まだ、書いている最中の草稿ですが、ご参考のために掲載します。なお一部にHTMLタグが入っていますが、まだ削除していませんので、ご了承ください。
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(改訂所載:http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Lounge/3924/kitamura/kitamura02.html)
第二部 「南京事件」判決の構造とその問題(P65-115)
1 「南京事件」判決の成立
(1)判決成立までの経緯
まず、冒頭から著者は奇妙なことを言い出す。
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「南京事件」は、第二次世界大戦終了後の南京での国民政府国防部審判戦犯軍事法廷の判決と、東京での極東国際軍事裁判の判決により、その実在が確定された。
(P65)
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「その実在が確定された」とは一定どういう意味なのだろうか?判決が確定することはあっても、「実在」が確定されるということなどがあるのだろうか。
そして、著者は次のように WHAT WAR MEANS が裁判の基本方針を形成したと推測する。
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しかし、WHAT WAR MEANS の内容が、裁判開始の前提となり裁判を維持する基本的枠組みとして機能した。
南京の裁判では、 WHAT WAR MEANS はすでに述べた『スマイス報告』とともに、「大虐殺」を立証する重要証拠として判決書に特筆された。
東京の裁判でも、判決書の中に裁判官がティンパーリーの著作を読んでいたことをしめす文面が見られる。判決文には「日本側が市を占領した最初の二、三日間に、少なくとも一万二千人の非戦闘員
である中国人男女子供が死亡した」と述べられるが、法廷で陳述された多くの証言の中にはこの数字への言及は見当たらない。それゆえ一万二千という人数は、WHAT WAR MEANS にう「四万近くの非武装の人間が南京城内または城門の付近で殺され、そのうちの約三〇パーセントはかつて兵隊になったことのない人々である」を敷衍したものと考えられる。ティンパーリーの著作が訴訟指揮の基本方針を形成させたことは容易に想像される。
(P67)
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しかし、この記述には初歩的な誤りを含んでいる。
まず、WHAT WAR MEANS も「スマイス報告」も、「大虐殺」を立証する重要証拠などとはされていない。
谷寿夫の判決の問題の個所を見てみよう。
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陥落後、日本軍各部隊は各地に分かれ侵入し、婦女暴行をほしいままおもなった。たとえば、<以下実例は省略>また民家への放火、財産の強奪、および安全区への侵入と婦女強姦、外国人財産の略奪などの行為は、それぞれの生存被害者と目撃証人である蕭余婦人・<以下人名省略>・徐兆彬など百人余りが調書で述べているところからしても間違いのないものである。国際委員会の組織した南京安全区内の档案が列記している日本軍の暴行、及び外国籍記者ティンパレーが著した『日本軍暴行記実』、スマイス(Lewes S.C.Smythe)の書いた『南京戦禍の真相』、ならびに当時南京戦役に参加した中国軍大隊長郭岐の編による『南京陥落の悲劇』に記述された各節はことごとくあい符号している。
[「南京事件資料集 2中国関係資料編」 P301-302]
[渡辺註]「南京事件資料集」の編者が挿入した資料が所収されている文献などの注釈はすべて割愛して引用した。
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つまり、、WHAT WAR MEANS も「スマイス報告」も、「大虐殺」を立証する重要証拠ではなく、暴行、殺人、強奪などの証言にそれらが「あい符号している」と、証言を支持する資料として挙げられている。
虐殺数は、「集団殺害され死体を焼却された者は一九万以上に達する」、それに加えて、「遺体が慈善団体によって埋葬された数が一五以上に達する」ことから「被害総数は三十万人余りである」と結論されたのである。[「南京事件資料集 2中国関係資料編」 P300]
「集団殺害され死体を焼却」したのは日本軍であった。この数字がどのようにして出されたものかは知らないが、後日1954年の「太田壽男供述書」によれば、「南京碇泊場にて単と失せる数 約十万」、「攻略部隊が取扱いたる数 約五万」で「計 十五万と推定す」とある。[偕行社「南京戦史資料集 ?」 P426]
次に、「一万二千人」という人数について、東京裁判において「法廷で陳述された多くの証言の中にはこの数字への言及は見当たらない」(P67)としているが、これは初歩的な誤りである。
もともと WHAT WAR MEANS の該当部分はベイツの1937年12月26日付け第五十号文書に典拠していることは、著者自身が述べていることである。従って、WHAT WAR MEANS ではなく、東京裁判でベイツがどう証言したのほうが重要である。判決書は次のようなベイツの証言を採用している。
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「スミス」教授及び私は、色々な調査・観察の結果、我々が確かに知って居る範囲内で、城内で一万二千人の男女及び子供が殺されたことを結論といたします。
〔林モニター 男女及び子供を含む戦闘員〕
<途中省略>
中国兵隊の大きな一群は城外の直ぐ外で降伏し、武装を解除され七十二時間後、機銃掃射に依って射殺されたのであます。是は揚子江の畔であります。国際委員会は三万人の兵士の亡骸を葬る為め労働者を雇ったのであります。是は我々の労働救済対策として行ったものであります。揚子江に葬られた屍体及び他の方法に依って葬られた屍体の数は数へることが出来きませぬ。
〔林モニター 埋められた屍体〕
[「日中戦争史資料 8」P49 のカタカナ表記をかな表記にして引用]
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以上のように、「ティンパーリーの著作が訴訟指揮の基本方針を形成させたことは容易に想像される」という著者の憶測は事実に反することが明白である。
いかに軍事裁判とはいえ、提出されなかった証拠や証言を「敷衍」することはない。
「しかし、テインパーリー自身は、すでに述べたとおり南京の法廷にも東京の法廷にも姿をあらわさなかった」(P67)と著者は言うが、テインパーリーは上海におり、目撃者ではなく、ジャーナリストとして資料をまとめたにすぎない。証人の資格がないから証人とした出廷しないくても不思議ではない。
(2)判決書を分析する
この個所は、著者が南京と東京における戦犯裁判の判決文から、要点を抜粋している。
従って、これ自体には問題がないと最初は思われた。しかし、その説明からみて、著者は南京軍事法廷と東京裁判の時間関係や内容の理解に混乱を生じているのではないかと思われる部分がある。
まず、説明しておきたいのは、軍事裁判が裁判である以上、検察側立証、弁護側反証、検察側最終論告、弁護側最終弁論という手順を踏む。裁判では検察側から提出された訴因のみを争う。裁判中に提出されたた証拠や証言のみが採用され、たとい裁判官がそれ以外に自分でなんらかの事実を知っていても、それを判決の判断に使うことはできない。提出された証拠、証言はすべて記録されている。
従って、判決がどの証拠や証言を採用したかは、必ず裁判記録の中にあるはずである。
ところが、著者は判決が、裁判記録にない証拠や証言に影響されたかのごとく述べる。
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強姦事件に関する以下の記述には、南京の判決書の影響が大きいと思われる。
「幼い少女と老女さえも、全市で多数強姦された。そしてこれらの強姦に関連して、変態的と嗜虐的な行為の事例が多数あった。多数の婦女は、強姦された後に殺され、その死体は切断された。占領後の一ヶ月間の間に、約二万人の強姦事件が市内に発生した」。
(P74)
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まず、「南京の判決書」と東京裁判の時間関係を述べておきたい。
谷壽夫の判決書の日付けは、1947年3月10日である。ただし、この時点では、まだ判決は確定していない。
この時点で、東京裁判はすでに検察側立証は終了しており、5月には弁護側反証段階に入る。つまり、検察が「南京の判決書」を証拠などに考慮することは時間的にできない。私が調べたところでは、「南京の判決書」が東京裁判の証拠として提出されていない。そもそも、他の法廷の判決を証拠にはできないように思われる。
著者の言葉に従えば、裁判官が「南京の判決書」を入手して読み、その内容が裁判官の心証に与えた「影響が大きい」ということになる。もし、そうであればルール違反もはなはだしい。
では、問題の文章はどのような経緯をたどって判決文に書かれたのであろうか。
まず、1948年2月25日の検察側最終論告(第三八〇号)を見てみよう。
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MM-37 在中国独逸外務当局は、迅速な進撃のため給与不十分であつた日本軍隊は、十二月十四日同市に開放せられ、正規の軍隊として名状すべからざる如き行為に出た、と報じてゐるのであります(a)。在中国独逸外務当局より伯林の外務省に宛てた一九三八年一月十四日附けの、南京陥落後の情勢に関する報告は、日本の軍当局は明かに其の権威を失ひ、其の軍隊は南京を陥れた後数週間に亙り同市を掠奪したが、二万の婦女子に暴行を加へ、罪亡き数千の常民(発電所の従業員四十三名を含む)を残忍な方法で殺害し、機関銃火による大量殺害の如きは人道的処刑法の中に入る位であつた、と述べているのであります(b)。
<以下省略>
[「日中戦争史資料 8」P327]
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次に、「約二万人の強姦事件」がドイツの外交文書に典拠するもであることがわかる。これは、ラーベが上海領事宛に書いた文書でベルリンへ送信されたものである。(東京裁判 書類番号四〇三九)
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日本軍当局は其の部隊に対して明<か>に命令権を失った如く、部隊は占領後数週間に亙り、市街を掠奪し、約二万の婦女子を冒し、数千の無辜の市民(其の中には発電所の四十三名の従業者を含む)を残虐なる方法に依つて殺害し(機関銃火に依る大量殺人は人道的処刑の中に数へらる)、亦外国人居住区に侵入すること躊躇せず、<以下省略>
[「日中戦争史資料 8」P166]
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ベーツは、「二万人」がラーベらによって報告されたと証言している。
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占領後一箇月して国際委員会委員長「ラーベ」氏及び其の同僚は「ドイツ」官憲に対して、少なくとも二万人の強姦事件があつたことを信じて居ると報告しました。それより少し前私はもつとずつと内輪に見積りまして、又安全地帯の委員会の報告のみに依りまして、強姦事件は八千と見積つたのであります。
[「日中戦争史資料 8」P50]
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判決書の「幼い少女と老女さえも、全市で多数強姦された。そしてこれらの強姦に関連して、変態的と嗜虐的な行為の事例が多数あった。多数の婦女は、強姦された後に殺され、その死体は切断された」という部分は何に基付くのであろうか。
これは「南京法院検察処敵人罪行調査報告書」(東京裁判 第一七〇六号)とマギーの証言(東京裁判 第四十八号、第四十九号)に基付くと思われる。
判決文と関係のある証言個所を抜粋してみよう。「南京法院検察処敵人罪行調査報告書」はこのように叙述する。
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3 姦淫に関するもの
一般青年婦女より六、七十歳の高齢老父(ママ)に至るまで被害者甚だ多し。其方式は強姦あり、輪姦あり、拒姦死あり、或は父をして其娘を、或は兄をして其妹を、舅をして其嫁を姦せしめて楽しみとなす者あり。或は乳房を割き、胸・腮を破り、歯を抜き、其惨状見るに忍びざるものあり。
[「日中戦争史資料 8」P144]
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ベーツもこのように証言している。
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南京神学院の構内で私が見て居る前で一人の中国婦人が、代わる{がわる}十七名に依つて強姦されたのであります。
〔林モニター 訂正。十七名の日本兵によつて〕
この強姦に関して狂人じみた或は残虐的な事件を此処で申述べることは差控えますが、大学構内だけでも九歳の小さい子及び七十六歳のお婆さんが強姦されたといふことを附加えます。
[「日中戦争史資料 8」P51]
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次に、マギーの証言を見てみよう。
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私は十二月二十日に或る一軒の家に呼ばれて行ったのでありますが、其処では約十歳から十一歳位の中国の少女が強姦されたのであります。(P92)
さうして十四歳から十六歳位の女の子を裸にしようとしたのであります。...それから是等の日本兵は
此の少女達を強姦したのであります。先程申しました案内役に立つた其の祖母は、其の部屋に行つて、竹の棒を女の膣から引摺り出して持って来たのであります。
〔宮本モニター 追加。是等の女は強姦され且つ殺されたのであります〕(P95)
[「日中戦争史資料 8」P84-]
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以上のように「WHAT WAR MEANS の内容が、裁判開始の前提となり裁判を維持する基本的枠組みとして機能した」ということが誤りであるこは明らかである。
2 戦時対外宣伝には登場しない南京での「大虐殺」報道
(1)大虐殺を伝えなかったティンパーリー
この部分に、著者がいかに「南京大虐殺」を理解しているかが、現れている。
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判決にいう?「六、七週間にわたって展開された計画的大虐殺である」を検討するには、WHAT WAR MEANS の伝える包括的な内容が恰好の対象である。
(P79)
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WHAT WAR MEANS で、南京の部分については、ベイツやフィイチらの安全区にいた外国人の文書が掲載されている。これらの文書は1月29日に南京から上海に向かったフィッチによって持ち出されたものである。
従って、安全区を中心とした地域の事件が記述されており、まだ事件の全貌、特に簡単には行けない城外の様子が分からない時点の記録である。
安全区は他の地域と比べれば、はるかに安全なところであった。従って、『「数十万人規模」の「計画的大虐殺」を彷彿とさせる内容ではない』(P81)に決まっているのである。
ティンパーリーが「数十万人規模」の「大虐殺を伝えなかった」のは当然のことである。
ところが、著者はいかなる予断からか、それらに書かれていることが大虐殺の一部だとすることが南京での「大虐殺」を構成する重要な論理であるとする。
また、日本大使館に報告された事件は、安全区の委員会のメンバーが直接目撃したり確認を行った確実な事件しか記載されていない。これだけを見ていては事件の全容が分かることは、ありえない。
「判決」において、WHAT WAR MEANSや「南京安全区档案」をもって「六、七週間にわたって展開された計画的大虐殺である」としたわけではない。著者の問題の設定そのものが間違っているのである。
この件については『第四部「三十万人大虐殺説」の成立』で、まとめて批判と事実の確認を行うことにしたい。
著者は結論として、このように述べている。
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要するに、日本軍の南京占領当時には、日本の暴虐を世界に知らしめることをことを戦時対外宣伝の骨子としていた国民党側にも、第三者として状況を監視する立場にあった欧米側にも、「南京で大虐殺が発生」したという共通認識は発生していなかった。
(P96)
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この部分は、不思議でしかたがなかったので何度も読み返した。なぜかというと、共通かどうかは知らないが「南京で大虐殺が発生」したという事実はすでに報道され、中国でも英米でも知られていたからである。ドイツの外交官は明らかに事態をよく把握していた。
また、南京に滞在していた外国人も、徐々に事態の大きさを知り、それらの情報は中国国内でも報道されていた。
日本軍の占領下にある南京での事件の全貌は、わかるはずもなく犠牲者数もいろいろな推測があった。「南京では三十万人規模の大虐殺が発生した」(P93)かどうかなど、当時は分かるはずもないのは当然である。
しかし、当時であっても徐々に、大虐殺の規模があきらかにされていた。
1937、38年当時の文書で「南京事件」がどう認識されていたかをリストアップしてみた。
この中には、当時は公開がされていない日記や公文書も含まれるが、中国での報道で情報源を共有しているとみられるものがあるので掲載した。
<b>(A)「虐殺」を報じる報道</b>
<b>(1)新聞:</b>
1-1)シカゴ・デイリーニュース(The Chicago Daily News) 1937年12月15日
A,.T.スティールの記事
NANKING MASSACRE STORY
Japanese Troops Kill Thousands
'Four Day's of Hell' in Capital City
Told by Eyewitneses; Bodies Piled Five Feet High in Streets By A.T.STEELE
[和訳]
南京大虐殺
日本軍何千人も殺害
目撃者の語る字″地獄の四日間″
通りに五フィートも積る死体の山
[南京事件調査研究会「南京事件資料集 1アメリカ関係資料」(青木書店,1992年)P465]
1-2)シカゴ・デイリーニュース(The Chicago Daily News) 1938年2月4日
記者は、パニックの南京の中国人虐殺をアメリカのジャックラビット狩りに比す
<途中省略>
私は集団処刑を一つ目撃した。数百人の男達の一隊が大きな日本国旗を抱えて付き添い、空き地へ引き連れて行く。そこで彼等は小人数ずつ、残虐に銃殺された。一人の日本兵が小銃を手に、膨れ上がる死体の山を監視しており、少しでも動きを見せる人体があれば、弾丸を浴びせた。
日本軍にとってはこれが戦争なのかもしれないが、私には単なる殺戮のように見える。
[南京事件調査研究会「南京事件資料集 1アメリカ関係資料」(青木書店,1992年)P475,P477]
1-3)ニューヨク・タイムズ (New York Times) 1937年12月18日
F.T.ダーディンの記事
十二月十七火、上海アメリカ船オアフ号発
0ニューヨーク・タイムズ宛特電
南京における大規模な虐殺と蛮行により、日本は現地の中国住民および外国人から尊敬と信頼が得られるはずの、またとない機会を逃してしまった。
<途中省略>
少なくとも戦争状態が終わるまで、日本の支配は厳しいものになるだろうという気はしていた。ところが、日本軍の占領が始まってから二日で、この見込みは一変した。大規模な略奪、婦人への暴行、民間人の殺害、住民を自宅から放逐、捕虜の大量処刑、成年男子の強制連行などは、南京を恐怖の都市と化した。
<以下、長い記事なので省略>
[南京事件調査研究会「南京事件資料集 1アメリカ関係資料」(青木書店,1992年)P417]
1-4)ニューヨク・タイムズ (New York Times) 1938年1月9日
F.T.ダーディンの記事
南京侵略軍、二万人を処刑
日本軍の大量殺害――中国人死者、
一般人を含む三万三千人
<長い記事なので省略>
[南京事件調査研究会「南京事件資料集 1アメリカ関係資料」(青木書店,1992年)P428]
1-5) ワシントン・ポスト 1937年12月17日
日本、南京入城式典を
一九三七年十二月十七日
中国人男子を大量処刑
蒋、抗戦継続を訴え
<途中省略>
大量処刑を執行
少しでも軍隊に勤務していたものと見える中国人男子はすべて集められ、処刑されたと、メンケンは言った。
[南京事件調査研究会「南京事件資料集 1アメリカ関係資料」(青木書店,1992年)P516]
<b>(2)雑誌、書籍:</b>
Georgr Fitch の Nanking Diary の掲載
2-1) ケン (Ken) 1938年6月2日号
2-2) リーダーズ・ダイジェッスト(Readers Digest) 1938年7月号 に要約掲載
ケン (Ken) 1938年6月2日号の要約
The Sack of Nanking
Condensed from Ken
As told to John Malony
[Readers Digest, July, 1938, P28-31]
フィッチの My Eighty Yaers in China によれば、掲載後数ヶ月たってからJohn Malonyが雑誌に掲載したことをフィッチは知った。
2-3) What War means / Japanese Terror in China 1938年7月刊行
H.J.Timperley が編纂した、What War means (英国:Voctor Gollancz)、 Japanese Terror in China(米国)でほぼ同時に刊行され、フィイチの Nanking Diary 、ベイツの文書、安全区委員会の文書などが掲載された。
その他、カルカッタ版というものがあることが知られている。
What War means が、最初に「南京事件」を世界に紹介したといまだに記述している書籍がある。しかし、正しくは Ken誌で、米国で大きな関心を呼ぶきっかけ、リーダーズ・ダイジェスト6月号である。
2-4) リーダーズ・ダイジェッスト(Readers Digest) 1938年10月号 に全文掲載
"We Were in Nanking"
6月号で多くの読者から反響があり、信じられない内容で明らかに宣伝のたぐいだいう声があったので、要約ではなく全文の抜粋が掲載された。
フィッチの日記は、12月18日から5月3日の抜粋。その他、スマイスの日本大使館宛の手紙とベイツの米国への手紙の抜粋が掲載されている。
<b>(3)「南京虐殺」という語を使った公文書:</b>
駐華ドイツ大使館(漢口)宛、発信者-ビバー(駐華ドイツ大使館書記官、北平[北京])
一九三七年一二月三十日付け北平ドイツ大使館分館
文書番号二七二二/四三七九/三七
内容-日本軍による南京占領時、および華北における中国人大虐殺
大使館に宛てて、二本の報告の写しを送付する。これは、米国の知人[註1]から提供されたもので、日本軍が南京陥落後三日間にわたり、都市住民にたいしておこなった大虐殺に関する目撃報告である。
<途中省略>
これらの目撃報告は、中国における日本軍の非人道的な戦争遂行の全過程で、南京大虐殺[翻訳註1]ほど凄惨な殺戮はこれまでなかったとの点で一致している。
[石田勇治翻訳「資料 ドイツ外交官の見た南京事件」(大月書店,2001年)P24-26]
渡辺[註1] M.S.ベイツとA.T.スティール
[翻訳註1] Nankinger Massacre
<b>(4)中国政府の声明</b>
1938年2月1日 国際連合理事会第六会議議事録
議長による決議案(C/69/1938/7)の提案に続き、顧維鈞氏の演説-
<途中省略>
ただ、その一端を物語るものとして、日本軍の南京占領に続いて起こった恐怖の光景に関する『ニューヨーク・タイムズ』紙特派員の記事を紹介すれば十分でしょう。このリポートはリポートは十二月二十日付の『ロンドン・タイムズ』紙に掲載されたものです。特派員は簡潔な言葉で綴っています。「大がかりな略奪、強姦される女性、市民の殺害、住居から追い立てられる中国人、戦争捕虜の大量処刑、連行される壮健な男たち」。
[石田勇治翻訳「資料 ドイツ外交官の見た南京事件」(大月書店,2001年)P1387-138]
<b>(5)米国で発行されたカード:</B>
1938年 戦争の恐怖カード 南京の恐怖の一週間 (Horrors of War, GUM Inc., Nanking's Week of Horror, 1938)
<b>(B)遺体数に関する記述:</B>
<b>(1)公文書</B>
1-1)ローゼン
ドイツ外務省(ベルリン)宛、発信者-ローゼン(南京)
一九三八年三月四日付南京分館第二二号
文書番号二七二二/一八九六/三八
内容 - 南京の状況
<途中省略>
紅卍字会はゆっくりとしたペースで大量の死体の埋葬に取りかかっている。死体の一部は、まず池と地下壕(かつての防空用)からときに積み重なった状態で掘り出さねばならない。たとえば、大使邸の近くの大通り沿いがそうであった。川港町の下関一帯に依然として横たわっている三万体の死体は、テロがピークを迎えた時期の大量処刑で生じたものだが、紅卍字会はそこから毎日五、六百体を共同墓地に埋葬している。辺りを歩くと、散乱した死体が畑や水路の中に見られるし、棺がいたるところに(大使館庁舎の建物から最も近い町角にさえ)何週間も散らばったままである。
[石田勇治翻訳「資料 ドイツ外交官の見た南京事件」(大月書店,2001年)P218]
1-2)スマイスの記録
記録
一九三八年三月二一日付
作成者―南京国際救済委員会(スマイス)
[欄外にローゼンの書名]
内容 - 現在の状況に関するメモ
<途中省略>
死者の埋葬に従事した諸団体やその他の観察筋の情報を集計すると、南京城内で一万人が、城外で約三万人が殺害されたと見積もられる。ただし、後者の数は、長江の川沿いをあまり遠くに行かない範囲のものである!こうした人々は、全体のおよそ三〇パーセントが一般市民であると見積もっている。
[石田勇治翻訳「資料 ドイツ外交官の見た南京事件」(大月書店,2001年)P233]
1-3) What War Means の第3章(ベイツによる)1937年12月26日
原文:
Finally, it should be remembered that this incident is only one of a series of a similar acts that had been going on for two weeks, with changes on the main theme of mass murder of men accused rightfully or wrongfully of being ex-soldiers.This is not the place to discuss the dictum of international law that the lives of prisoners are to be preserved except under serious military necessity, nor the Japanese setting aside of that law for frankly stated vengeance upon persons accused of having killed in battle comrades of the troops now occupying Nanking.Other incidents involved larger numbers of men than did this one.Evidence from burials indicate that close to 40,000 unarmed persons were killed within and near the walls of Nanking, of whom some 30% had never been soldiers.
[WHAT WAR MEANS: The Japanese Terror in China, H.J.Timperley, London Victor Gollancz Ltd, 1938, P58-59]
邦訳:
最後に、忘れてはならないことは、この事件はここ二週間にわたって続けられた一連の同様の行為のうちの一つにすぎないが、ただその主題が変じて、元兵隊であろうがなかろうが、とにかく元兵隊と認定されたものの集団虐殺となったということだ。ここは、、捕虜の生命はさしせまった軍事上の必要以外においては保証されるという国際法の条文を語る場所でないし、日本軍もまた、国際法などは眼中になく、いま南京を占領している部隊の戦友を殺した人間に対しては復讐をすると公然と言明したのである。 他の諸事件はこの事件よりも多数の人をまきこんだ。埋葬による証拠の示すところでは、4万人近くの非武装の人間が南京城内または城門の附近で殺され、そのうちの三〇パーセントはかつて兵隊になったことのない人々である。
[日中戦争史資料 9, 洞富雄編, 河出書房新社,昭和48年, P47]
[渡辺註1]
What War Means には、文書の作者は書かれていない。
しかし、徐淑希「南京安全区档案]弟五十号文書 MEMORANDUM ON AFTERMATH OF REGISTRATION OF REFUGEES AT NANKING UNIVERSITY December 26,1937 と同じ内容なので、文書作成者はベイツ、日付は1937年12月26日と考えられる。
なお、What War Means の中国語訳「外人目睹中之日軍暴行」及び「南京安全区档案]には「埋葬による証拠の示すところでは、~かつて兵隊になったことのない人々である」という被害者数にかんする文は掲載されていない。
40,000という数字は、上記 1-2)のスマイスと一致するので、同じ情報を記述したものではないかと推測される。
[渡辺註2]
北村稔『「南京事件」の探求』(文藝春秋)P121で、「誤訳(改竄?)」と指摘している個所について、直訳を付しておきたい。
渡辺訳(直訳):
ここは、捕虜の生命は重大な軍事上の必要以外においては保証されるという国際法の見解を論ずる場所ではない。また、いま南京を占領している部隊の戦友を殺した人間に対しする公然と言明された復讐により日本軍が国際法を無視していることについて論じる場でもない。
確かに「日中戦争史資料 9」の訳には問題がないとはいえない。しかし、こなれた日本語にするには、思い切った意訳を要する日本語にしにくい個所である。中国語訳でも文を分割して「日中戦争史資料 9」と似た訳をしている。
『「南京事件」の探求』では「日本軍が~国際法を無視しているか否かを論じる場であはない」としているが、原文は日本軍が「復讐」により国際法を無視していることを断定、それを前提としており、「国際法を無視しているか否か」などとは書れていない。前後関係、文脈からいえば、こちらのほうが よほどひどい誤訳である。
1-3) ウィルソンの家族への手紙 1938年5月7日
原文:
The Red Swastika Society has for the last month been feverishly burying bodies from all parts of the city outside the zone and from the surrounding countryside.
The conservative estimation of the numbers of people slaughted in cold blood is somewhere about 100,000, including of course thousand of soldiers that had thrown down thir arms.
["Documents On The Rape Of Nanking", Timothy Brook,Ann Arbor Paperbacks, 2002, P254]
[渡辺訳]
紅卍字会は、ここ1ヶ月間、安全区外や周辺農村部からの遺体を ものすごい勢いで埋葬しています。
冷酷に虐殺された人々の控えめな推定数は、およそ10万人程度です。もちろん、武器を放棄した多数の兵士達もその数に含まれています。
<b>(2)中国報道</b>
2-1) 南京同胞、敵の蹂躪に遭う
新華日報 1938年5月30日
<途中省略>
昨年十二月十二日から今年三月末南京を離れるまでに、惨殺された南京の同胞は一〇万をくだらない。
[「南京事件資料集 2中国関係資料編」(青木書店,1992年)P60]
2-2) サウスチャイナ・モーニング・ポスト 1938年2月23日
日本軍に冷血にも殺された中国人は、南京では八万人は下らないと見られる。そして、首都陥落以来、一万人の婦人が暴行された。これらの犠牲者の多くが、国際救済委員会が設立した難民キャンプから強制的に連行された人たちだといわれたいる。
<b>(3)ヒットラーに送ったラーベの講演の草稿(上申書) 1938年6月8日</b>
中国人の申し立てによりますと、十万人の民間人が殺されたとのことですが、これはいくらか多すぎるのではないでしょうか。我々ヨーロッパ人はおよそ五万から六万人とみています。遺体の埋葬をした紅卍会によりますと、一日二百体は無理だったそうですが、私が南京を去った二月二十二日には、三万体の死体が、埋葬できないまま郊外の下関に放置されていたといいます。
[ジョン・ラーベ著,エルヴィン・ヴィッケルト編/平野卿子訳「南京の真実」(講談社,1998) P267,P317 を渡辺が"誤訳"を訂正して引用]
<b>(4)ミニー・ヴォートリンの日記</b>
(1938年)
2月16日 水曜日
<途中省略>
五時から六時の間にY.G.巌さんが訪ねてきた。彼は殺されたと聞いていたのだが、しかし、彼にはその話はしなかった。彼の話によれば、占領の初期に三[ミ叉]河で一万人が、燕子磯では二万人ないし三万人が、下関ではおよそ一万人が殺害されたと聞いたそうだ。彼は、多くの夫と息子は絶対に帰ってこないと確信している。頻繁にわたしのところへやってきては、嘆願書に書かれている情報を何か聞いていないかと尋ねる女性にたいし、あなたたちの夫が帰ってくることは絶対にない、などと、どうしてそんなことが言えようか。
[岡田良之助/伊原陽子訳「南京事件の日々 ミニー・ヴォートリンの日記」(大月書店,1999年)P172]
日が経つに連れて、事件の実態が明らかになってきている。
これでも『国民党側にも、第三者として状況を監視する立場にあった欧米側にも、「南京で大虐殺が発生」したという共通認識は発生していなかった』と言えるのであろうか。
それでも、「三十万人」ではないことに著者は多分こだわっているのであろう。
(以下、下の投稿へ続く)