思考錯誤アーカイブ & とほほがピースウォーク @wiki 

TEXT:過去ログ7

最終更新:

tohohopeacewalk

- view
管理者のみ編集可
web hosting domain names photo sharing  


竜馬くんのページ

過去ログ1| 過去ログ2| 過去ログ3| 過去ログ4| 過去ログ 5
過去ログ6| 過去ログ7| 過去ログ8| 過去ログ9| 過去ログ10
過去ログ11| 過去ログ12| 過去ログ13 | 過去ログ14

ゆうさんのページ| 渡辺さんのページ| 掲示板に書き込む

秋風悠、 - 02/07/10 22:58:01


コメント:
新人です。よろしくお願いします。(第11番)

K-K - 02/07/10 21:59:11
電子メールアドレス:こんにちは、ゆうさん


コメント:
 K-Kです。
 こんにちは、ゆうさん。

>途中で、あの掲示板では過去ログは100しか保存できないことに気がつ
>きましたので、6月14日以降の分は全文をコピペして保存しました。そ
>の上で、論点ごとに整理して、じっくりと読ませていただいています。

 うーん、どうでしょうかね(笑)。
 あまり、議論としては面白くないと思います。なんせ松尾氏の主張は、十数年前も前のものをそのまま使っているだけですので、本来は、洞富雄『南京大虐殺の証明』、洞他『南京大虐殺の現場へ』、同『南京大虐殺の研究』、同『南京事件を考える』で十分否定されたものです。
 議論をしていても、「今更・・・」と思わざるを得ませんでした。


>まあ、どっちが優勢か、なんて野暮なことは申しますまい(笑)。私は以前、
>松尾氏を「誠実なお人柄」と評価する「ミス投稿」をしてしまいましたが(笑
>)、「証言による南京戦史」といい、「パル判決」といい、「人柄」の方も、
>ちょっと怪しいようです。「パル判決」なんて、私ですらすぐに松尾氏の「大
>失策」に気がついたぞ。

 松尾氏の「誠実さ」は限定つきのものだと思っています。
 相手があまり知識が少ない場合などは、精神的な余裕があるので「誠実さ」をもって対応できるのでしょう。
 ただし、今回は、私も「アウェイ」ということもあり、多少、挑発ぎみに接したことも原因とはいえるかもしれません。

 先ほど、パル判決書(『日中戦争史資料8』掲載分)を全文投稿してきましたので、よかったご覧ください。


>この掲示板も、いろいろな方で賑やかになってきました。eichelbergerさんの投
>稿、大変興味深く読ませていただいています。こんな投稿が増えてくると、楽し
>いですね。

 今回は、本当にびっくりしました。「目から鱗」とはこのことですね。

 でも、本当に嬉しいのは、ゆうさんも仰るとおり、研究仲間が増えること、そして、その研究を土台にしてさらなる歴史的真実を探求していけることですね。

 ゆうさんも、渡辺さんも、eichelberger_1999さんも、レベルの高い研究を提示してくださることで、私の研究を一歩進むのが、なんといっても素晴らしいことです。

 インターネットには、本当に感謝しなければなりませんね(笑)。


>そうそう、どなたか、岡田さんを、この掲示板に招待していただけませんか? 
>「ヤフー」の「「南京事件の探求」はトンデモだ」トピの投稿は、価値あるもの
>でした。あの投稿はもうネットから消えてしまいましたが、ぜひ保存しておくべ
>きだったと思います。私はトピの全文を保存しておりますが、「無断引用」する
>わけにもいきませんので・・・。

 それは、良いアイデアですね。
  こちらの掲示板に来て戴けるかどうかは解りませんが、松尾氏の掲示板は、もしかしたらROMしている可能性もあるので、一応、呼びかけてみましょう。

 私の見たところでは、岡田さんは「闘士」の様ですので、「敵」が居ないとあまり食指が湧かないのかもしれません(笑)。もし、岡田さんの許可が得れれば、ゆうさんの持っているログを、WPとして反映させるのも面白そうです。


>私の「安全区外の住民」ログは、目に付いた資料を並べただけの「思い付き」投
>稿ですので、「ゆうさんのページ」に入れていただくのはまだ早いようです(お
>申出は大変嬉しいのですが)。「人口論」についてもう少し「学習」が進んだら
>、「東中野氏批判」を交えながら(ネタを小出しにしています)、何かまとまっ
>た形での投稿が・・・できるといいんですが(笑)。

 了解しました。
 うまくまとまったら、また、投稿をお願いします。
 まぁ、歴史は逃げませんから、ボチボチやっていきましょう(笑)。


>ちょっと仕事も忙しくなってきましたので、勝手ながら、何日か、休みます(「
>ヤフー」「松尾氏の掲示板」を含め、ロムはしっかりとさせていただきます)。
>「ヤフー」でも、レスをいただいたままの方がいるのですが、あれだけ流れが早
>いと、今更返事をしにくくなりますね。こちらを覗いていただいていることを期
>待して、「ゴメン」と言っておきましょう。

 渡辺さんも投稿しているようですし、他にもなかなか凄腕がそろっているようですので、向こうは大丈夫ではないでしょうか(笑)。それにしても、あの手の掲示板は流れが速いですよね。何にレスを付けたらいいのかも、迷ってしまいます。

koil - 02/07/10 21:53:30
ホームページアドレス:http://web.archive.org/web/20070315064359/http://alpha01.manekineko.ne.jp/s32311/index2.html


コメント:
ども、始めまして。KOILと名乗っております。

南京事件とは関係のない話ですが、
掲示板LOGの保存に以下のソフトは便利ですよ。
OTDでは使えないのが難点ですが、松尾氏の掲示板では使えます。

http://www.geocities.co.jp/Hollywood/5039/

私は、さして南京事件に詳しいわけではないので、
この掲示板でのみなさんの投稿は大変勉強になります。

では。

K-K - 02/07/10 21:31:13
電子メールアドレス:eichelberger_1999さんへ


コメント:
 K-Kです。
 こんにちは、eichelberger_1999さん。

> いやー、お恥ずかしいかぎりです。Yahoo掲示板では、誰からもかまっても
>らえないhatopigeonさんの、たまのお相手という役どころなんですが、なに
>しろああいう方ですので、健康のため、お相手も年に一回くらいにとどめて
>います。

 私なんか彼の文章を読もうと思っても、3行くらいで投げ出したくなってしまいます(笑)。たしかに、健康のためには、あまりかかわらない方がいいでしょうね。


> ありがとうございます。たいへん名誉なことだと思います。拙いものですが、
>よろしくおねがいします。

 そう言っていただけると、非常に嬉しいです。


> ただし、前のメッセージでは、12月15日、16日の上海派遣軍司令部の所在地
>を「湯山」と記していますが、これは誤りで、「湯水鎮」が正解です。ご面倒
>ですが、掲載のさいには訂正をお願いいたします。

 了解しました。


> 私の解釈のミソは、ご指摘のとおり、本間少尉と相田中佐の行った先はおの
>おの別(二つの上級司令部)であったと解する点にあります。
> それによって山田支隊長がなぜ2回も連絡将校を上級司令部に派遣したのか、
>その謎が氷解します。

 これは、本当に盲点でした。
 山田日記には、ちゃんと書いてあるんですよね。しかし、私は、山田日記が創作・改変されているという認識が先に立ち、内容を理解することがおろそかになっていたようです。
 虚心坦懐に資料をみる、という基本的なことが出来ていないことを反省している次第です。


> また、なぜ第13師団に属する山田支隊が直接の命令系統にない第16師団に本間
>少尉を派遣したのか、その疑問も、「16Dニ接収セシム」という上海派遣軍司令
>部の指示にもとづくと解すれば、少しも不思議でなくなるというのが第二のポイ
>ントです。

 そうですね。
 この点も、渡辺さんに指摘して戴いたのに、第16師団側に山田支隊の捕虜を接収させたことを示す資料が見つからないことで、この記述を軽くみてしまいました。
 この点も反省です。


> 私の解釈が間違っていなければ、幕府山の捕虜殺害は上海派遣軍司令部の命令
>によって山田支隊が実行したことになります。
> この点は、山田支隊関連の資料がほぼ一致して示すところだったのですが、今
>までは飯沼日記の記述の欠如から曖昧なままにおかれていたように思います。

 そうですね。
 よっぽど変わった人では無い限り、この事実を否定することは出来ないでしょうね。

 あとは榊原参謀の行動が、何に基づくものだったかが資料により証明されれば完璧ですね。しかし、eichelberger_1999さんが提示されて解釈で、十分とも思います。その前後が関係がハッキリすれば、榊原参謀の行動等は限定されてくるからです。
 これ以上の説明はないでしょう。


> 軍隊というものがどのように行動するのかを念頭におきながら、山田日記と飯沼
>日記を突き合わせつつ読んでみると、どの史料とも矛盾しない自然なものとして、
>あのような解釈が浮かび上がってきた次第です。

 頭が下がります。
 また、何かお気づきでしたら、ご教授ください。
 よろしくお願いします。

ゆう - 02/07/09 23:13:15


コメント:
K-Kさんと松尾さんの大議論を、楽しみに拝見しています。

途中で、あの掲示板では過去ログは100しか保存できないことに気がつきましたので、6月14日以降の分は全文をコピペして保存しました。その上で、論点ごとに整理して、じっくりと読ませていただいています。

まあ、どっちが優勢か、なんて野暮なことは申しますまい(笑)。私は以前、松尾氏を「誠実なお人柄」と評価する「ミス投稿」をしてしまいましたが(笑)、「証言による南京戦史」といい、「パル判決」といい、「人柄」の方も、ちょっと怪しいようです。「パル判決」なんて、私ですらすぐに松尾氏の「大失策」に気がついたぞ。


この掲示板も、いろいろな方で賑やかになってきました。eichelbergerさんの投稿、大変興味深く読ませていただいています。こんな投稿が増えてくると、楽しいですね。

そうそう、どなたか、岡田さんを、この掲示板に招待していただけませんか? 「ヤフー」の「「南京事件の探求」はトンデモだ」トピの投稿は、価値あるものでした。あの投稿はもうネットから消えてしまいましたが、ぜひ保存しておくべきだったと思います。私はトピの全文を保存しておりますが、「無断引用」するわけにもいきませんので・・・。


私の「安全区外の住民」ログは、目に付いた資料を並べただけの「思い付き」投稿ですので、「ゆうさんのページ」に入れていただくのはまだ早いようです(お申出は大変嬉しいのですが)。「人口論」についてもう少し「学習」が進んだら、「東中野氏批判」を交えながら(ネタを小出しにしています)、何かまとまった形での投稿が・・・できるといいんですが(笑)。


ちょっと仕事も忙しくなってきましたので、勝手ながら、何日か、休みます(「ヤフー」「松尾氏の掲示板」を含め、ロムはしっかりとさせていただきます)。「ヤフー」でも、レスをいただいたままの方がいるのですが、あれだけ流れが早いと、今更返事をしにくくなりますね。こちらを覗いていただいていることを期待して、「ゴメン」と言っておきましょう。

eichelberger_1999 - 02/07/09 20:27:57
電子メールアドレス:K-Kさん、ありがとうございます。


コメント:
K-Kさんはじめまして。

>ヤフーの掲示板で、eichelberger_1999さんの投稿はよく読ませて戴いてます。

 いやー、お恥ずかしいかぎりです。Yahoo掲示板では、誰からもかまってもらえないhatopigeonさんの、たまのお相手という役どころなんですが、なにしろああいう方ですので、健康のため、お相手も年に一回くらいにとどめています。

> もしよかったら、今回の投稿を私のWPの方に掲載したいのですが、構わないでしょうか?
> ぜひ、ご検討ください。

 ありがとうございます。たいへん名誉なことだと思います。拙いものですが、よろしくおねがいします。

 ただし、前のメッセージでは、12月15日、16日の上海派遣軍司令部の所在地を「湯山」と記していますが、これは誤りで、「湯水鎮」が正解です。ご面倒ですが、掲載のさいには訂正をお願いいたします。

 私の解釈のミソは、ご指摘のとおり、本間少尉と相田中佐の行った先はおのおの別(二つの上級司令部)であったと解する点にあります。
 それによって山田支隊長がなぜ2回も連絡将校を上級司令部に派遣したのか、その謎が氷解します。

 また、なぜ第13師団に属する山田支隊が直接の命令系統にない第16師団に本間少尉を派遣したのか、その疑問も、「16Dニ接収セシム」という上海派遣軍司令部の指示にもとづくと解すれば、少しも不思議でなくなるというのが第二のポイントです。

 私の解釈が間違っていなければ、幕府山の捕虜殺害は上海派遣軍司令部の命令によって山田支隊が実行したことになります。
 この点は、山田支隊関連の資料がほぼ一致して示すところだったのですが、今までは飯沼日記の記述の欠如から曖昧なままにおかれていたように思います。

 軍隊というものがどのように行動するのかを念頭におきながら、山田日記と飯沼日記を突き合わせつつ読んでみると、どの史料とも矛盾しない自然なものとして、あのような解釈が浮かび上がってきた次第です。

K-K - 02/07/09 16:33:36
電子メールアドレス:はじめまして、eichelberger_1999 さん


コメント:
 K-Kです。
 はじめまして、eichelberger_1999さん。
 ヤフーの掲示板で、eichelberger_1999さんの投稿はよく読ませて戴いてます。

 それにしても、今回、びっくりしました。
 いやー、今回のeichelberger_1999さんの考えは、非常に説得力があります。大方の資料について、説明がつきます。

 本間少尉と合田中佐が向かった場所は、同じではなかったわけなのかぁ。
 だから、12月15日は「師団に派遣」(『まぼろし』『氷雨』)もしくは「南京に派遣」となっているわけですね。語句が違いますが、いずれも正しいことになる。そして、12月16日は「軍に派遣」・「軍司令部に派遣」となっており、こちらは湯山に行ったわけですね。

 なるほど・・・。

 いや、今回のeichelberger_1999さんの投稿は、非常に素晴らしい。おそらく、この様な考えを発表した人は、今までになかったのではないでしょうか?

 もしよかったら、今回の投稿を私のWPの方に掲載したいのですが、構わないでしょうか?
 ぜひ、ご検討ください。

eichelberger_1999 - 02/07/08 20:45:15
電子メールアドレス:山田日記の解釈


コメント:
 はじめまして。南京大虐殺については詳しくはないのですが、前から自分が考えていたのと同じ意見の持ち主がおられるのを見かけたので、無礼をかえりみずコメントいたします。
 一ヶ月以上前の記事ですが、こう書かれてあります。

●渡辺さんの- 02/06/05 03:16:36の記事

>もうひとつ、うっかりしていましたが、
>「山田支隊ノ俘虜東部上元門附近ニ一万五、六千アリ 尚増加ノ見込ト、依テ取リ敢
>ヘス16Dニ接収セシム。」[飯沼守日記(上海派遣軍参謀長)南京戦史資料集? P158]
>とあり、これは一三師団の「山田支隊ノ俘虜」を一六師団が「接収」という意味だと思
>います。山田支隊の移動の日程が迫っていたからでしょう。つまり、幕府山の捕虜処刑
>は、あの一六師団から出ていたわけです。
(略)
>なぜ南京(南京城)へ行ったかというと、一六師団に指示を仰いだということ
>になるのでしょう。なお、一三師団本体は揚子江の対岸にいるので、本体の指
>示は、仰げないわけです。

●K-Kさんの - 02/06/05 22:14:34の記事
> これは確かに注目すべき点ですね。私は気付きませんでした。
> しかし、即断することはできません。
> 飯沼日記以外に、このことを記しているものがありません。中島中将や16
>D参謀のなかで、この辺の事情を記していてもおかしくはないのですが、日
>記・記録等を見た限りでは、そのことを臭わす記述がありません。
> いまのところは、結論をだすだけの資料に欠けると思われます。しかし、こ
>の点は頭に入れて置いた方がいいですね。私のHPの方に載せさせてもらおう
>と思います。

> それにしても、山田少将は捕虜の処置に関して、15日に本間少尉を使いに
>出しただけではなく、翌日、相田中佐も南京に送っています。この意味も興味
>があるところです。

 飯沼日記から、12月15~16日の時点では上海派遣軍司令部は南京城内に位置せず、その郊外の湯山にいたことがわかります。15日の時点で南京城内にいたのは第16師団です。
 そうすると山田旅団長が本間騎兵少尉を南京に派遣したのは、飯沼少将の日記にある「依テ取リ敢ヘス16Dニ接収セシム」という上海派遣軍の指示を実行に移すべく、第16師団司令部との連絡をとるためであったと考えられます。

 それにたいして第16師団司令部は捕虜の接収を拒否し、捕虜の「始末」(「皆殺せ」)を命じたのだと思われます。この対応は中島師団長ならば十分考えられることです。本間少尉はその顛末を山田旅団長に復命し、山田少将は「皆殺せとのことなり」と日記に記したのですが、渡辺さんも仰るように、この師団は第16師団のことをさしていると解すべきです。

 対応に困った山田少将は翌16日、さらに相田中佐を上海派遣軍司令部に派遣し、指示をあおぎます。派遣軍は山田支隊を長江北岸の第13師団本隊に合流させるために、大量の捕虜を第16師団に収容させるという方針をとったにもかかわらず、第16師団がその命令に従わないことが判明したわけです。
 ここで山田支隊および第16師団に対して派遣軍司令部がどのような指示を与えるかは、その後の事態の帰趨を左右しかねない決定的な意味をもっていたといえるかもしれません。
 通常ならば第16師団の態度は重大な軍規違反であり、派遣軍司令部は断固たる態度をとるべきところですが、それができなかったところに南京大虐殺を引き起こした原因があるといえましょう。

 飯沼日記や山田日記からは、軍司令部が与えた指示の中身は不明です。しかし、軍司令部が何らの指示も出さなかったとは考えられません。
 私は、飯沼日記の「萩洲部隊山田支隊ノ捕虜一万数千ハ逐次銃剣ヲ以テ処分シアリシ処」とある記述から、軍司令部も内々に捕虜の殺害を認めたのではないかと考えています。つまり、派遣軍司令部は第16師団の命令違反を問うどころか、逆にその捕虜処分方針に同調し、山田支隊にそれを命じたのではないか、と。
 その16日の午後から山田旅団が捕虜を「銃剣ヲ以テ処分」しはじめたのわけですが、それが軍司令部の了解無しに行われたとは思われません。

 以上の仮説に対して、同じ飯沼日記に「上海に送りて労役に就かしむる為榊原参謀連絡に行きしも(昨日=20日)遂に要領を得すして帰りしは此不始末の為なるへし」とあるのをあげて、派遣軍司令部は捕虜を上海に後送する方針であったとの異論がだされるやもしれません。

 この点については、翌17日の入城式の際に、松井軍司令官から厳重な注意を受けた軍司令部は捕虜を移送することに方針を変更し、慌てて榊原参謀を山田支隊に派遣したがすでに16、17、18日の間に捕虜の殺害は終わっており、間に合わなかったのだと解釈できます。
 つまり、派遣軍司令部の方針は、16師団に接収→捕虜の殺害→上海へ後送と三転したのだ考えれば、うまく説明できるのではないでしょうか。

渡辺 - 02/07/07 21:35:39
電子メールアドレス:その後


コメント:
ゆうさんへ、

ヤッホー掲示板は各論では水をうったように静かなのに、概論になると一気に殺到して、件名をながめただけでも胸焼けがしそうです。「大東亜共栄圏」なんか大騒ぎにするにはいいお題です。

>「南京事件関係者のその後」の中でも、とりわけ面白い話ですね。

名前が出てくるような人は、もともと何か優れた素質のあった人ですから、「その後」も中国やアジア関係の専門家として仕事をしているようです。自殺したボートリンだけは悲惨です。フィッチも精神的に相当まいっていたようですが。
ティンパーレーは、小柄なのに、かなりの精神力と体力があり、しかも集中力と編集能力があったようです。
ティンパーレーの経歴の核となるのは、マンチェスター・ガーディアン特派員+アジア誌顧問・中国顧問・連合国広報機関高官(日本語では副長官?)・国連UNRRA/UNESCO・インドンネシア独立についてのハーグ円卓会議・インドンネシア顧問(実質的な仕事はしていないらしいが人脈がある)・英国クエーカーに共鳴+War On Want という貧困救済活動(団体は現存)ということになります。オーストラリアでは、有名人だったようです。
人脈はかなり広いので、こういう経歴は脈略があって繋がっているようです。
北村稔氏の本に、鈴木明氏の文の引用で「フレンズ教会」のメンバーになったとありますが、これは正しくなく「(リリジャス)ソサイティー・オブ・フレンズ」、すなわちクエーカーのことです。ミーティングには出席していましたが、どうやら正式にメンバーにはなっていないようです。

南京で殴打されたアリソンはインドネシア大使になりました。フィッチ、特に奥さんは日本への輸出規制運動に熱心だったし、中国の顧問になりました。
重慶には、ベイツ、フィッチ、スティール、ティンパーレーなどたくさん行っていますね。また、お互いに人脈が重なっていたりします。
ホーンベックとういう米国国務省の人に、マギーのフィルムのことをテインパ-レーは手紙に書いていますが、調べてみると、ホーンベックとジャキノ神父も手紙のやりとりをしていていることがわかりました。
張学良や蒋介石の私的顧問をしていた W.H.ドナルドは、ティンパ-レーやフィッチとも友人でした。フィッチはドナルドが蒋介石と南京から逃げたとき、スポーツカーをフィッチに託して行ったとフィッチの回想録にあります。
ドナルドとの関係から、ティンパーレーは国民党に関係があると噂をたてられていたようで、「ティンパーレー陰謀説」は 日本軍と対立した1937年末に溯るかも知れません。これから、噂の発生源を探索するところです。

K-K - 02/07/07 21:25:49
電子メールアドレス:ゆうさんへ


コメント:
 K-Kです。
 ゆうさん、こんにちは。
 
 この『「安全区外」の住民』は、なかなか秀逸ですね。よく調べてあって、勉強になります。
 こちらも、「ゆうさんのページ」に載せるべきだと思うのですが、いかがでしょう?

 ヤフーでの議論を見ていますが、大変ですね(笑)。
 議論をする前提として、言葉が通じる、という基本的な部分が某氏に欠けているのでしょうね。彼には、どんな資料を提示しても、永遠に人口は20万なのだと思います。そして、どんな資料を提示しても、永遠に虐殺が無かったのでしょうね。

 しかし、決してゆうさんや渡辺さんや他の方々の投稿が、無意味だとは思いません。やはり、あのような人の文章でも、読んで信じてしまう人も、中にはいるのでしょうから、誰かが反論しなければならないのでしょう。

 私も暇をみて、投稿をしようと思っています。
 頑張ってください。

ゆう - 02/07/07 10:44:40
電子メールアドレス:ティンパーリ その後


コメント:
「ヤフー」の流れで申し訳ありませんが・・・。

(渡辺さん)
>ちなみに、インドネシアのオランダからの独立を、国連高官として援助したのは、あの日本軍の暴虐の資料を What War Means にまとめた、H.J.ティンパーリーで、後日、インドネシア外務省顧問になったのですが、ご存知でしょうか?


「南京事件関係者のその後」の中でも、とりわけ面白い話ですね。

「ヤフー」では、投稿がすぐに流れてしまいますので、こちらにアップしておきます。

ゆう - 02/07/07 10:42:20
電子メールアドレス:「安全区外」の住民(2)


コメント:
ついでに書きますと、東中野氏は、都合のよい資料のみを挙げることにより、「安全区外は無人地帯」との印象をつくろうとしています。

以下、東中野氏の挙げた資料です。

1.住谷盤根証言。(「証言による南京戦史??」)
<私は当時、揚子江の第十一戦隊旗艦安宅に乗組んでいたが、南京が陥落した直後、下関埠頭から新聞記者の自動車に便乗して、興中門の累々たる伏屍を越えて南京市内に入いった。
人っ子一人歩く者はなく、無人の街、建物は半焼けの家並であった。自動車から降りて自転車を拾った。少々ペダルの工合が悪いため、スピードは出ないが、結構乗れる。これで南京市政府や参謀本部、市政会館にはいってみたが、森閑として人影はもちろん全くない。(略)突入した日本陸軍の大野・脇坂部隊などは、それぞれ屋根のある建物を選んで駐屯している様子で、日本の兵士の姿は見当たらない。死せる南京という言葉が適当であった。(略)
その翌日、南京に全く市民の人影一人いないことが不思議であったので、例の自転車で市内を少々めぐってみると、市の片隅に「立入禁止避難民区」と、横幕が通りに張り出してある。その中は言葉に絶する混雑をきわめた避難民の町であった。>
(「徹底検証」P172)

「通りに人がいない」ことを証言しているに過ぎません。


2.泰山弘道陣中日記。
<いかに南京が「森閑」として不気味な静けさに支配されていたことか。
陥落後の南京は、第三艦隊軍医長泰山弘道軍医大佐の陣中日記(十二月十九日)にも記されているように、「今は全く死の都」となっていたのである。>
(「徹底検証」P173)

泰山大佐は、陥落直後の南京をかなり広範囲にわたって歩きまわっています。ただしこの日記自体には、「住民の有無」については触れられていません。東中野氏の引用箇所の前後は、以下の通りです。

<午前九時抜錨、江を下る。南京は江上より眺むるも今は全く死の都と化す。>(南京戦史資料集?毅丕苅横供∥抻各?記 十二月十九日)

船から眺めて「死の都」と言っているのです。「安全区外に住民がいるかどうか」を論じた箇所ではありません。


3.ティンパーリ「戦争とは何か」
<こうして南京城内は二つの表情をもつ町となった、ティンパーリの「戦争とは何か」が言うように、昭和十三年一月末までに関する限り、南京は避難民の密集する「鮨詰め」の安全地帯と、それ以外の「事実上の無人地帯」とに画然と区分されたのである。>(「徹底検証」P57)

「事実上の無人地帯」という文章は、どこにあるのでしょうか? 私は、出典を捜しきれませんでした。


4.土屋正治中尉証言。

<では、掃討戦はどのようであったのか。第九師団の歩兵第十九連隊第四中隊長であった土屋正治中尉に次の証言がある。土屋中尉はこのときの掃討戦を十二月十三日、光華門から始めた将校であった。「南京戦史」から引用する。
 「城壁こそ砲撃によって破壊されていたが、街並みの家々は全く損壊しておらず、瓦一つ落ちていない。ただ不気味な静寂、異様な寂寥感がわれわれを包み、勇敢な部下も一瞬たじろいだ。未だかつて味わったことのない、言葉では表せないこの静けさは、いつのまにか私を中隊の先頭に立たせていた。
市街に深く進入すればするほど、まさに「死の街」という感じを深くした。敵弾の飛来はもちろん、人影一つ見えず、粛然とした軒並みのみが果てしなく続いていた。」>
(「徹底検証」P179)

これまた、「通りに人がいない」だけの証言です。なおこの文章は、次のように続きます。

<何キロぐらい前進したであろうか。とある大きな鉄筋コンクリート造りの建物に到達したが、ここで全く思いがけぬことに遭遇した。
 逸れは、講堂らしい室内に入ると、後送の余裕がなく取り残された中国重症兵の枕辺に、多数の白衣の看護婦が毅然として立っている光景であった。私は深く頭を垂れてそこを退去した。>
(「南京戦史」P179)


「住民」ではないにせよ、安全区外に「民間人」が残っていたことの裏付けになります。


5.歩兵第二十三連隊大尉の日記

<歩兵第二十三連隊の第三中隊長(大尉)は十二月十三日、「夜間犬の遠吠えもなく、南京城内誠に静かなり」と記す。>(「徹底検証」P179)

何で「折小野末太郎」の名を出さないのかよくわかりませんが、以下、引用します。

<城壁に休止、午後二時水西門に至る、午後清涼山砲台に登り夕宿営に就く 久し振りに蒲団もあり熟睡す、夜間犬の遠吠えもなく、南京城内誠に静かなり。>(「南京戦史資料集?機廝丕械械掘\涵?野末太郎日記)

「住民の有無」とは、全く関係ありません。


6.歩兵第三十八連隊「戦闘詳報」
<城内の東北部を掃蕩した歩兵第三十八連隊「戦闘詳報」第十二号(十二月十四日)は、「南京城内には避難民相当多数有りたるも之等は一地区に集合避難しありて掃蕩地区内に住民殆ど無し」と記す。>(「徹底検証」P179)

「東北部」は、もともと人口が少ないところでした。ここに住民殆ど残っていないとしても、不思議はありません。


以上、私も最初は「資料の多さ」に幻惑されたのですが、個別に検証していくと、結局東中野氏の挙げた資料は、「安全区外の城内」に人がいなかったことを「論証」するものになっていないことがわかります。

ゆう - 02/07/07 10:39:17
電子メールアドレス:「安全区外」の住民(1)


コメント:
「城内安全区外の残留住民」について、ヤフーに投稿を準備していたのですが、むこうは流れが速く、長文に取り組んでいるうちにタイミングを逃がしてしまいました。

内容的にもこちらの掲示板の方がふさわしいと思いますので、こちらに投稿します。「ヤフー」の皆さんも、ある程度こちらをご覧いただいているはずですので・・・。(渡辺さんと私で、宣伝してきました(笑))

以下、投稿。


いくつか、「資料」を引用します。(手持ちの資料をざっと眺めただけですので、捜せばまだまだあると思います)


まず、有名なところでは、ダーディン証言。(「南京事件資料集」1 アメリカ関係資料編  P567、P570)

<二○万人というのは難民区内に集まった難民の数でしょう。他にも市内には大勢の人が残っていました。・・・車で市内を回った時、家の中から中国人が出てくるのを見掛けましたし、通りを歩いている中国人も何人か見ました。ですから、皆がみな安全区に入ったのではありません。>

<もちろん、安全区の外は危険でしたが、中国人たちは、まさか虐殺が待ち構えていようとは考えていませんでした。なんとかなるだろうと、家を出なかったのです。>

<(城内南部の人口密集地には)住民がずいぶん城内に残っていました。脱出した者も多かったようですが、残った者も沢山いました。・・・被害を受けなかった家には人がまだ住んでいました。日本軍がこの地域を占領してからもたくさんの中国人が殺されました。日本兵に銃殺されたのです。>



日本側の証言に行きましょう。

洞富雄「南京大虐殺の証明」P115
<たとえば、第九師団歩兵第九連隊第一大隊本部先任書記だった佐藤増次氏は、十二月十九日ころ城内北部地区を巡回したとき見たこととして、「市街では住民を見なかったが、大隊本部の宿舎付近の民家の奥には、各家に一~二名の住民が残っており、残した家財を見張っていたようである。本部の兵が食糧徴発に行って、”奥の方に人が居た”と言っていた」と回想している。(『偕行』の「証言による南京戦史(8))。>

「南京戦史」P192 城島赳夫証言
<残留住民は家の奥の方にはいたようであるが、街路両側の民家は戸を締めており静かであった。>


中山門方面と思われますが、実際に住民と出会った証言もあります。

「南京戦史資料集?機廝丕械牽粥 崗鳳譴旅膣屬砲董彗莠系??・Y一等兵
<茅屋の前に積まれた薪の山の裾がカサカサ動いて土民の一家族が這い出してきた。巧妙な偽装をこらした掩蓋なのであった。敗残兵かと一寸ぎくりとしたが土民なのが判ると、配給されたばかりのビスケットや乾パンなどを与えて、誰もが和やかな気持になっていた。>


有名な夏淑琴さん事件も、舞台は「安全区外」の「中華門内」でしたね。


「残留人数」は、数える人などいようはずもなく、今となっては全く不明です。しかし以上の資料を総合すると、「安全区外の城内」には、かなりの住民が残留していた、と見る方が、自然です。

参考までに、これまた有名なダーディンの記事を・・・。

<一方、安全区という聖域を見いだせずに自宅に待機していた民間人は五万人以上を数えるものと思われる。その死傷者数は多く、ことに市の南部では数百人が殺害された。>
(「南京事件資料集」1 アメリカ関係資料編  P423)

「五万人以上」という見解です。ちょっと多いような気もしますが、少なくともこれを否定するだけの資料はないようです。
 

なお言うまでもありませんが、ここで問題にしているのは、「安全区外の城内」だけです。「下関・江東門等の戦前の人口密集地域」「戦前人口15万人の郷区」については、まだ論じていません。以前の投稿の通り、「南京市の人口」は、これらをすべて合わせたものになります。

渡辺 - 02/07/06 23:47:10
電子メールアドレス:K-Kさんへ


コメント:
K-Kさん、

だいたい要点は分りました。
どんなことが問題になるのかもわかってきましたので、参考とさせていただき、前回投稿した内容も見直してみます。
条約でも法律でも、実際の適用となりますと、必ずしも解釈が一意に決まるわけではありませんから、「違法」かどうかに議論をもって行くのは、そういうあいまいさ、多様性に問題を転嫁しようとしているのではないかと思います。
ひとつ言えるのは、連合軍が「論客たち」と同じ国際法解釈をしなくて幸いだったということです。

K-K - 02/07/06 22:36:03
電子メールアドレス:私もご無沙汰です


コメント:
 K-Kです。
 みなさん、こんにちは。

ゆうさん>
>きのう書店で見かけて、早速購入しました。藤原氏ご自身の、
>中国戦場での経験談です。

 これは、面白そうな本ですね。以前から、藤原氏が将校としての戦場体験を持っているとはきいていましたので、その経験を本にすれば・・・・と思っていました。
 それにしても藤原氏は、ご高齢に拘わらず精力的ですね。頭が下がります。


>すっかりご無沙汰していますので、とりあえず「顔見せ」です。m(__)m

 しかし、ヤフーの方は見せていただいてますので(笑)。


渡辺さん>
>松尾氏の議論はよく分らない(@@)
>パル判事は、南京事件での俘虜殺害を肯定などしていないが...
>東京裁判の被告の責任についての事と混同してるんじゃないか...

 ほとんど苦しまぎれですね(笑)。
 陸戦規則・ジュネーブ条約を適用しない、という文言につられて(それのみを頼りに)書いてみただけなのではないか思います。
 もう、向こうでの論点も無くなって来たようですので、そろそろ撤退しようかと思っています。今回は、あまり得ることが少ない議論でしたが、松尾さんの研究のレベルを知るにはちょうど良いものだったでしょう。
 今回、参考にした信夫淳平『戦時国際法提要(上)』の文章は、校正が済み次第、資料として載せようと思います。ご参考にしていただければ幸いです。

ゆう - 02/07/06 19:58:47
電子メールアドレス:藤原彰著「中国戦線従軍記」


コメント:
きのう書店で見かけて、早速購入しました。藤原氏ご自身の、中国戦場での経験談です。

氏の軍隊経験は1941年秋から1945年にかけて。この間、「小隊長」「中隊長」として、満州及び中国戦線をかけめぐっています。


当時の日本軍の雰囲気がよく伝わってくる本です。満足な補給がないため、「現地調達」に走らざるをえない。それも、氏の部隊のような後方組は、他部隊に荒らされた後ですでに「徴発」(略奪)するものすらなく、食糧確保に大変苦労したそうです。戦争末期には、「栄養失調」が、軍隊で常態化していました。


捕虜の取り扱いについても、興味を「引かれる記述がありました。

<(士官学校の教育に)まず省略されてしまった内容では、戦時国際法があげられる。明治大正時代には、陸戦規則などは教えられたようであり、日露戦争でも、第一次世界大戦でも、ロシア人やドイツ人にたいする処遇に気をつかっていたようである。ところが私たちはいっさいこうした教育を受けなかった。>(P17)

奥宮氏「私の見た南京事件」の、「わが国での捕虜の待遇の変遷」に、見事にリンクします。


ぜひ読んでいただきたい、良書でした。


すっかりご無沙汰していますので、とりあえず「顔見せ」です。m(__)m

渡辺 - 02/07/06 04:09:48
電子メールアドレス:パル判事


コメント:
松尾氏の議論はよく分らない(@@)
パル判事は、南京事件での俘虜殺害を肯定などしていないが...東京裁判の被告の責任についての事と混同してるんじゃないか...
それに、16日の火事の件はどうなったのかな。
----
これに関し本件において提出された証拠に対して言いえるすべてのことを念頭に置いて、宣伝と誇張をでき得る限り斟酌しても、なお残虐行為は日本軍のものがその占領した或る地域の一般民衆、はたまた戦時俘虜に対し犯したものであるという証拠は圧倒的である。
問題は被告*にかかる行為に関し、どの程度まで刑事責任を負わせるかにある。
...
想起しなければならないことは、多くの場合において、これら残虐行為を実際に犯したかどで訴追されたものは、その直接上官とともに戦勝国によってすでに『厳重な裁判』を受けたということである。
[『日中戦争史資料 8』p.401-402]
[渡辺註]*東京裁判の被告
-----

渡辺 - 02/06/25 18:01:12
電子メールアドレス:飯沼少将


コメント:
K-Kさん:>
>飯沼少将は、だいぶこの13Dの動きに関心があったようですね。

なるほど、作戦の予定があって、相当あせっていますね。
そこで、あることに気がついたのですが、12月15日には山田支隊の俘虜15,000-16,000を16Dに接収せしむとあります。ところが、17日で撃滅した敵の数がこうなっています。
----
南京附近に在りし敵は約二〇コ師団一〇万人にして派遣軍の撃滅したる敵数は約五万、海軍及第十軍の撃滅したる数約三万、約二万は散乱したるもの如きも今後尚撃滅数増加の見込み
[『南京戦史資料集?機?.159]
----

つまり、山田支隊の15,000-16,000を含め、俘虜が「撃滅」されてしまったことを飯沼氏は知っているわけですね。
「約二万は散乱した」ので、安全区に2万くらい いるのではという根拠になったのではないでしょうか。
「約二万は」逃げ延びたと聞いていた人もいるようですが。(『南京戦史資料集?機?.426「秦山日誌」12月19日)

>「俘虜処罰法」というものを発見しました。渡辺さんは、これについて何かご存知でしょうか?ご存知でしたら、ご教授いただきたいものです。

こちらが教えていただきたいほうです。全文を探しています。
「俘虜」関係の法律は、面白いことに、戦争が始まってから作っているのですね。
「俘虜処罰法」ができたのは、1905年の日露戦争、改訂は1943で太平洋戦争、この頃「俘虜」関係の法律がいくつかできてますね。
http://members.tripod.co.jp/duplex/hou/hou.htm

しかし、この法律は「支那事変」では「戦争」ではないので、陸軍では適用しなかったと思いますよ。
軍律裁判では、陸軍刑法を適用していたのではないでしょうか。結局、逃亡を首謀者の判決は同じ結果になるようです。
----
第二十七条 左ニ記載シタル行為ヲ為シタル者ハ死刑ニ処ス
・・・・
六 敵国ノ為ニ俘虜ヲ奪取シ又ハ之ヲ逃走セシムルコト
(陸軍刑法、適用の条件は、第四条、五条)
----

なお、俘虜を勝手に「開放」して逃がすことも、違反なんですけどね。
陸軍刑法では、違反者であっても、現場の判断で処刑してはいけないので「自衛」説が出てくるわけです。

K-K - 02/06/25 14:14:35
電子メールアドレス:渡辺さんへ 2


コメント:
>ただし、13師団本隊は浦口にはいませんけど。
>『支那事変陸軍作戦 <1>』(朝雲新聞社)p.147 の地図を見ますと、山田支隊とは
>えらく離れたところにおりますね。

 おそらく、松尾氏は、鎮江や「除」県などの位置が理解できていないのだと思います。彼の文章の中には、「上海の鎮江にある捕虜収容所」というものがあるので、鎮江が上海にあると理解しているようですね。
 13Dの動きについては、飯沼日記に詳しく書かれています。飯沼少将は、だいぶこの13Dの動きに関心があったようですね。


>東宝映画「南京」は、役にたたないとは言わないですが、うめく「敵」負傷兵の場面
>など、かなり失われた部分もあるし、当然、「処刑」場面などはないわけですから、
>こんなもんに 5,000円かけるより、偕行社『南京戦史』を買うために預金したほうが
>いいですよ。

 おそらく、持っているはずなんですが・・・・。
 資料の使い方が、どうもイマイチなのだと、私は感じました。

 ところで、渡辺さんは以前、「俘虜取締規則」を提示していただきましたが、今回、私が調べていた中に、「俘虜処罰法」というものを発見しました。渡辺さんは、これについて何かご存知でしょうか?ご存知でしたら、ご教授いただきたいものです。一文だけ、載っていましたので、今回提示しておきます。

俘虜処罰法 第7条
 党与して逃走したる者は、首魁は死刑又は無期若は十年以上の懲役若は禁錮に処し、其の他の者は無期又は一年以上の懲役又は禁錮に処す

K-K - 02/06/25 13:33:10
電子メールアドレス:渡辺さんへ


コメント:
>下記の部分は、、おかしなところで改行してるように見えるかも知れませんが、
>『歴史と人物』の小見出しを再現したものです。
>機会がありましたら、このようにしていただけるといいと思います。「改竄」と言
>われても困りますので(^^;

 これは失礼しました(笑)。
 「何でこんなところに改行が?」と思いながら、あまり考えずに改行を取ってしまいました。
 修正をしておきましたので、ご安心ください。


>後で、メールにて画像を添付ファイルにして送付いたしますので、さしつかえなければ、使ってください。

 ありがとうございます。
 さっそく、文の後にカードの画像をつけさせて戴きました。


>Horrors of War カードというのは、全部で100枚くらのカードで、絵はデフォル
>メされていますが、説明書きは当時の報道をよく読んで書かれているようです。
>パナイ号事件はもとより、南京での日本兵の荼毘というのもあって、これはな
>かなかすごい絵です。

 この様なカードにまで書かれているということは、パナイ号事件だけではなく、南京事件そのものが世界に与えた衝撃の大きさがわかりますね。

 それにしても、マニアックなカードです。
 しかも、それを見つけ出した渡辺さんもマニアックすぎる(笑)。

渡辺 - 02/06/24 02:41:55
電子メールアドレス:東宝映画「南京」


コメント:
> さらに、南京陥落の翌日から「南京」ビデオにもありますが、下関では海軍艦艇に搭載されている連絡用ランチや大型運搬船の運用を行っています。

東宝映画の撮影班は「(南京に)陥落の二日後に到着した」(『帝国の銀幕』名古屋大学出版会,p.90)ので、「南京陥落の翌日から」かどうかは映画ではわかりませんが、当然、下関 - 浦口 は陥落当日から行き来できたでしょうね。
ただし、13師団本隊は浦口にはいませんけど。
『支那事変陸軍作戦 <1>』(朝雲新聞社)p.147 の地図を見ますと、山田支隊とはえらく離れたところにおりますね。

東宝映画「南京」は、役にたたないとは言わないですが、うめく「敵」負傷兵の場面など、かなり失われた部分もあるし、当然、「処刑」場面などはないわけですから、こんなもんに 5,000円かけるより、偕行社『南京戦史』を買うために預金したほうがいいですよ。

渡辺 - 02/06/24 01:20:19
電子メールアドレス:K-Kさんへ


コメント:
ありがとうございます。
A)
下記の部分は、、おかしなところで改行してるように見えるかも知れませんが、『歴史と人物』の小見出しを再現したものです。
機会がありましたら、このようにしていただけるといいと思います。「改竄」と言われても困りますので(^^;
----
日中戦争研究の第一級資料の活字本は、かくも原
資料と異なっている――近現代史研究者への警告
----
B)
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Lounge/3924/articl6.html
の記事で、
-----
(5)米国で発行されたカード:
1938年 戦争の恐怖カードのシリーズに、南京の恐怖の一週間 (Horrors of War, GUM Inc.,Nanking's Week of Horror, 1938)がある。
-----
という箇所がありますが、「有用」板でリンクしていた画像のURLが機能しなくなりましたので、文章だけの紹介になりました。
後で、メールにて画像を添付ファイルにして送付いたしますので、さしつかえなければ、使ってください。
Horrors of War カードというのは、全部で100枚くらのカードで、絵はデフォルメされていますが、説明書きは当時の報道をよく読んで書かれているようです。
パナイ号事件はもとより、南京での日本兵の荼毘というのもあって、これはなかなかすごい絵です。
現在でも人気の収集アイテムです。1枚10~20ドルくらいで売られています。

K-K - 02/06/23 23:04:10
電子メールアドレス:お知らせです


コメント:
 K-Kです。
 お知らせです。

 WP『渡辺さんのページ』に
 『田中正明「松井岩根大将陣中日記」の改竄について』
 を追加しました。

 この話は非常にポピュラーなものですが、いつまで経っても理解できない人がいるようです。
 そういう方を見つけたら、この文章を紹介するのがいいでしょう。

K-K - 02/06/23 21:38:14
電子メールアドレス:こんにちは、ゆうさん


コメント:
 K-Kです。
 ゆうさん、こんにちは。

 なかなか面白い着眼点ですね。
 ゆうさんが検討なさった資料は、鈴木『まぼろし』と田中『総括』のものですが、もう一点、阿部輝郎『南京の氷雨』版がありますので、ここに提示しておきます。検討は、後ほど行いたいと思います。

『南京の氷雨』
平林貞治(中尉)証言
P108-109
「十七日夜の事件はね、連行した捕虜を一万以上という人もいるが、実際にはそんなにいない。四千か五千か、そのぐらいが実数ですよ。私たちは『対岸に逃がす』と言われていたので、そのつもりで揚子江岸へ、ざっと四キロほど連行したんです。途中、とても怖かった。これだけの人数が暴れ出したら、抑えきれない。銃撃して鎮圧できるだろうという人もいるが、実際には心もとない。それは現場にいた人でないと、その怖さはわかってもらえないと思う。第一、暴れ出して混乱したことろで銃撃したら、仲間をも撃ってしまうことになるのだからね。」
「一部で捕虜が騒ぎ出し、威嚇射撃のため、空へ向けて発砲した。その一発が万波を呼び、さらに騒動を大きくしてしまう形になったのです。結局、仲間が六人も死んでしまっているんですよ。あれは偶発であり、最初から計画的に皆殺しにする気なら、銃座をつくっておき、兵も小銃をかまえて配置し、あのように仲間が死ぬヘマはしません。」
「乱射乱撃となって、その間に多数の捕虜が逃亡しています。結局はその場で死んだのは三千----いくら多くても四千を超えることはない。これが実相です。油をつけて焼いたされますが、そんな大量の油を前もって準備するとなると、駄馬隊を大量動員して運んでおかなければならず、実際、そんなゆとりなんかありませんでしたよ。死体の処理は翌日に行きましたが、このとき焼いたように思います。死体が数千----これがどれだけの量か、あなたには想像できますか、とにかくものすごい死体の散乱状況となるものなのです。それにしても恐ろしいことになってしまったと、思い出すたびに胸が締めつけられます。」

ゆう - 02/06/22 19:25:24
電子メールアドレス:平林証言


コメント:
以下、出典は、田中正明氏「南京事件の総括」P187以下と(松尾氏のHPに全文掲載されていますのでこちらからコピペします)、鈴木明氏「南京大虐殺のまぼろし」P198以下です。両者の「平林証言」を、比較します。

(田中氏)
>(栗原)氏は電話口で、「毎日新聞にも本多氏にも、言いもしないことを書かれた。自分の本当に言いたいことは書かないで、結果的には逆なことになってしまった。悔やんでいる」としきりに嘆いていた。
>2度電話したがアポイントがとれないので、私は福島にとび、この捕虜事件に関係した第65連隊の連隊砲小隊長平林貞治氏(当時少尉)にお目にかかり事件の真相を聴取した。
>平林氏は鈴木明氏のインタビューにも応じており、その内容は「「南京大虐殺」のまぼろし」にあるので、ここでは詳細は省略し、慨要のみにとどめる。

これだけ読むと、田中氏の「聴取」は、「鈴木明氏のインタビュー」のダイジェスト版である、と錯覚させらせます。ところが、以下の通り、田中氏のインタビューは、鈴木氏よりもはるかに詳しいようです。

以下、内容を比較します。

(田中氏)
>(1) わが方の兵力は、上海の激戦で死傷者続出し、出発時の約3分の1の1500足らずとなり、その上に、へとへとに疲れ切っていた。しかるに自分たちの10倍近い1万4000の捕虜をいかに食わせるか、その食器さがしにまず苦労した。

>(2) 上元門の校舎のような建物に簡単な竹矢来をつくり収容したが、捕虜は無統制で服装もまちまち、指揮官もおらず、やはり疲れていた。山田旅団長命令で非戦闘員と思われる者約半数をその場で釈放した。

この(1)(2)は、「鈴木インタビュー」にはありません。


>(3) 2日目の夕刻火事があり、混乱に乗じてさらに半数が逃亡し、内心ホットした。その間逆襲の恐怖はつねに持っていた。

鈴木氏の該当箇所。
<たしか二日目には火事がありました。その時、捕虜が逃げたどうかは、憶えていません。><向こうは素手といえども10倍以上の人数です。そのまま向って来られたら、こっちが全滅です。とにかく、舟がなかなか来ない。考えてみれば、わずかな舟でこれだけの人数を運ぶというのは、はじめから不可能だったかもしれません。>

「鈴木インタビュー」には、「夕刻」の文字はありません。さらに、「捕虜が逃げたかどうかは、憶えていません」と、田中氏の「聴取」と食い違いがあります。


>(4) 彼らをしばったのは彼らのはいている黒い巻き脚絆(ゲートル)。ほとんど縛ったが縛ったにはならない。捕虜は約4千、監視兵は千人たらず、しかも私の部隊は砲兵で、小銃がなくゴボウ剣(銃剣の事)のみ。出発したのは正午すぎ、列の長さ約4キロ、私は最後尾にいた。

鈴木氏。
<出発は昼間だったが、わずか数キロ(2キロくらい?)のところを、何時間もかかりました。>

前半は、「鈴木インタビュー」にありません。後半は、明確に矛盾します。


>(5) 騒動が起きたのは薄暮れ、左は揚子江支流、右は崖で、道は険岨となり、不吉な予感があった。突如中洲の方に銃声があり、その銃声を引き金に、前方で叫喚とも喊声ともつかぬ異様な声が聞こえた。

鈴木氏。
<とにかく、江岸に集結したのは夜でした。><突然、どこからか、ワッとトキの声が上がった。日本軍の方から威嚇射撃した者がいる。それを合図のようにして、あとはもう大混乱です。>

騒動が起きた時間は、「田中聴取」では「薄暮れ」、「鈴木インタビュー」では「夜」。「中洲の方という表現は、「鈴木インタビュー」にはありません。


>(6) 最後列まで一斉に狂乱となり、機銃は鳴り響き、捕虜は算を乱し、私は軍刀で、兵はゴボウ剣を片手に振り回し、逃げるのが精一杯であった。

鈴木氏。
<それを合図のようにして、あとはもう大混乱です。一挙に、我々に向ってワッと押し寄せて来た感じでした。殺された者、逃げた者、水に飛び込んだ者、舟でこぎ出す者もあったでしょう。なにしろ、真っ暗闇です。機銃は気狂いのようにウナリ続けました。>

微妙な違い(田中氏「薄暮れ」、鈴木氏「真っ暗闇」など)はありますが、ここはまあ、「矛盾」はないようです。


>(7) 静寂にかえった5時半ころ、軽いスコールがあり、雲間から煌々たる月が顔を出し“鬼哭愁々”の形容詞のままの凄惨な光景はいまなお眼底にほうふつたるものがある。

鈴木氏にはありません。なお、「鬼哭愁々」という表現について、鈴木氏はこう書いています。
<平林氏は、「鬼哭愁々」という古めかしい形容詞を二度も使った。他にいいようがなかったのかもしれない。>


>(8) 翌朝私は将校集会所で、先頭付近にいた1人の将校(特に名は秘す)が捕虜に帯刀を奪われ、刺殺され、兵6名が死亡、10数名が重軽傷を負った旨を知らされた。

鈴木氏にはありません。


>(9) その翌日全員また使役に駆り出され、死体の始末をさせられた。作業は半日で終わったと記憶する。中国側の死者1000~3000人ぐらいと言われ、(注(1))葦の中に身を隠す者を多く見たが、だれ1人これをとがめたり撃つ者はいなかった。
 我が軍の被害が少なかったのは、彼らが逃亡が目的だったからと思う。

鈴木氏。
<我が軍の戦死者が少なかったのは、彼らの目的が、日本軍を”殺す”ことではなく”逃げる”ことだったからでしょうね。向こうの死体の数ですか?さあ・・・千なんてものじゃなかったでしょうね。3千ぐらいあったんじゃないでしょうか・・・・>




なぜ田中氏は、「平林氏は鈴木明氏のインタビューにも応じており、その内容は「「南京大虐殺」のまぼろし」にあるので、ここでは詳細は省略し、慨要のみにとどめる」なんて書いたのでしょうね。「概要」どころか、どう見ても、こっちの方が詳しい。

さて問題は、田中氏の「聴取」がどこまで信頼できるものであるか、ということですが・・・。


今松尾氏の掲示板を覗いたら、「憂国民間人」氏が、「これが捏造ですか」と、なにやら「勘違い」したレスをしているようですね。
たぶんK-Kさんがお書きになると思いますので、私は書きません(笑)。

渡辺 - 02/06/22 01:32:12
電子メールアドレス:K-Kさんへ


コメント:
>ご指示どおり修正を行っておきましたので、ご確認ください。

ありがとうございました。

>、そのうちまとめれば、また面白い材料となりそうなのですね。たとえば、ラーベの日記の翻訳なども合わせて。

『「南京事件」の探求』は、北村稔氏本人が書いたものではなく、他の人に書かせたか、誰かの書いたものに北村氏の名前を冠したのではないか、というのが率直な印象です。
北村氏は中国語の翻訳をしておられるはずですが、『近代来華人名辞典』のいいかげんな翻訳はいただけません。一方、『曾虚白自伝』は翻訳の質が違うように思いますので、これは別人の翻訳でしょう。ただし、明らかに、この本の部分的なコピーを基にしており、著者は この本を直接見てはいないと思います。
また、『「南京事件」の探求』p.66 に「敵人罪行調査報告」は「漢文の読み下しであるが原文と同様に扱うことのできる第一次資料である」というのには驚きました。
「漢文の読み下し」とは何?「エツ」と思いしたが、翻訳されたものを第一次資料と普通は呼ばないと思います。
第一次資料ではないからこそ、P.142-3 にあるように、翻訳に起因する 意味のが分らない箇所が出てくるわけです。

東京裁判の通訳の場合は、モニターもいますし、内容の本筋にかかわるような問題はないと思いますが、ベイツが見たのか、ベイツの友人が見たのか、そういう間違いがあるようです。ただし、こちらの使っている英文も、抜粋なので二次資料ということになります。それから、"Eywitnesses To Massacre"には、誤植と思われる箇所があります。
なお、この本の編者の Zhang Kaiyuan氏は、終戦直後に金陵大学でベイツのもとで勉強した人です。
「南京事件」については、南京へ出てきてから初めて知ったということですが、在学中にベイツが「南京事件」について語った記憶はないとのことです。衝撃的な事件に遭遇すると、それを思い出さないようにするために 人は語らなくなるのですね。

『南京の真実』の誤訳はレベルが違います。学び始めて数ヶ月の初学者レベルの間違い、意図的な加筆、削除と、どうしようもありません。やはり、これは平野卿子氏自身の翻訳ではないと思っています。
しかし、議論の共通の参考文献として、注釈付きで引用しています。

公文書での「誤訳」の問題というのもあります。
陸戦法・第二三条 ハ項に「降ヲ乞ヘル敵ヲ」とありますが、「降ヲ乞ヘル」は、正文にはありません。意図的に降伏の意味を狭めていると思います。
東中野氏は、どこかで、この部分に固執していましたが、それは日本語の陸戦法に見られる語句なのですね。
もう一つ、有名な「誤訳」が、1945年9月2日に調印された降伏文書のものです。「国家統治に対する天皇と日本国政府の権限は、本降伏条項を実効せしめるに適切と思う措置を執る(ところの)連合国最高司令官に<従属する>」と、「従属する」とあるのを「制限の下に置かるる」とした意図的で重大な「誤訳」があり、後日混乱のもととなりました。これは、「subject to」の訳に関するもので、当時から知られていたものだと思います。
(この件につきましては「問答有用」板に、2001年1月25日頃、投稿したことがあります。ご希望なら、こちらに投稿いたしますが...)

では、おやすみなさい。

K-K - 02/06/21 23:49:40
電子メールアドレス:渡辺さんへ


コメント:
 K-Kです。
 こんにちは、渡辺さん。

 ご指示どおり修正を行っておきましたので、ご確認ください。
 私は相当うっかりしていました。渡辺さんが付けていた副題を、勝手に取ってしまっていたようです。大変、申し訳ありません。これも、すでに復活させてあります。

>2)
>"北村稔『「南京事件」の探求』批判 #5 歪んだ国際法議論 " について、疑問な点があ
>りましたら、まずそれをクリアしてはどうでしょうか。お聞かせください。

 うーん、これはもう少し落ち着いてからにしてください(笑)。
 何だか、いろんな意味でイッパイ、イッパイで。

 東京裁判資料の翻訳については、確かに気を付けなければならないですね。ただし、私は英語が駄目なので、これは渡辺さんの指摘をその都度、頭に入れて置かなければならないようです。これも、そのうちまとめれば、また面白い材料となりそうなのですね。たとえば、ラーベの日記の翻訳なども合わせて。

 とりあえず、宿題の提出はもう少し先になりそうですが、ご勘弁を(笑)。 

渡辺 - 02/06/21 12:04:21
電子メールアドレス:訂正^2


コメント:
訂正文がまちがっていました m(__)m

>誤:されたました。→正:されたました。

誤:されたました。→正:されました。

渡辺 - 02/06/21 03:36:17
電子メールアドレス:東京裁判の邦訳資料について


コメント:
東京裁判の資料の使用上の注意点として、外国語の邦訳は、その場で即座に通訳されたもので、モニターが、誤りをその場で指摘していますが、それでも やはり正確には欠ける部分があります。
言葉にこだわるような、厳密な内容を検討するときは、邦訳はあぶないと考えなくてはいけないようです。
”北村稔『「南京事件」の探求』批判『第二部 「南京事件」判決の構造とその問題』”で引用した英文と、通訳の翻訳を比較すると、どの程度「あぶない」かわかると思います。
また、数字など、原本または、引用資料に転記ミスもありますので、ご注意ください。
例えば、東中野『「南京虐殺」の徹底検証』p.311で引用されている新河地域の数字は一桁少なく間違っていますが、これは裁判資料原本か、引用元の『日中戦争史資料』の転記ミスです。
ご参考までに。

渡辺 - 02/06/21 03:19:39
電子メールアドレス:K-Kさんへ


コメント:
K-Kさん:>
1)
>この度、渡辺さんのページを更新しました。

ありがとうございます。
さっそくですが、訂正があります m(__)m
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Lounge/3924/articl6.html

-----
東京裁判 ベイツ証言
【渡辺訳】
南京神学院の構内で、私の友人の見ている前で、一人の中国婦人が次々と十七人の日本兵に強姦されたました。
-----
に、おきまして
誤:されたました。→正:されたました。
と訂正ください。

2)
"北村稔『「南京事件」の探求』批判 #5 歪んだ国際法議論 " について、疑問な点がありましたら、まずそれをクリアしてはどうでしょうか。お聞かせください。

K-K - 02/06/21 01:37:34
電子メールアドレス:渡辺さんのページ更新のお知らせ


コメント:
 K-Kです。

 お知らせです。
 この度、渡辺さんのページを更新しました。
 内容は、問答有用にも投稿されている
 ■北村稔『「南京事件」の探求』批判『第二部 「南京事件」判決の構造とその問題』■
 です。
 いつもの通り、多数の資料を用いた力作ですので、是非、ご覧になってください。

 また、これ以降も
■北村稔『「南京事件」の探求』批判 #5 歪んだ国際法議論
■田中正明「松井岩根大将陣中日記」の改竄について
 の2本を掲載していく予定です。

K-K - 02/06/21 01:29:43
電子メールアドレス:こんにちは、Hideさん


コメント:
 K-Kです。
 Hideさん、こんにちは。

 私も松尾さんには、いろいろと言いたいことはあるのですが、まぁ、順を負って述べていこうかと思っています。あちらの掲示板でのやりとりをご笑覧ください。

Hide - 02/06/20 22:57:44
電子メールアドレス:分かりきったことかもしれませんが


コメント:
K-Kさんと松尾さんの議論を拝見しておりますが、地道かつ詳細な史実の検証には本当に敬服致します。ところで松尾さんの得意技に「軍事的常識」というのがありますね。しかし、日本の組織では軍隊に例えると、司令部が全く兵卒が何をやっているかを把握せず、兵卒は全く常識はずれのことをやっている、こういったことがしょっちゅう起きています。最近の例では、雪印乳業や東海村の原子力施設の事故です。東海村の例では、核物質や放射能について多少なりとも知識があれば恐ろしくて絶対に行わないようなことを実際には行った結果、作業者が命を落としたり、一歩間違えれば大惨事になるところでした。雪印にしてもこの東海村の件にしても、その上層部(司令部)は実務担当者(兵卒)の実態を全く把握していませんでした。松尾さんの言い分は、日本軍が完全に統率され、日本軍が軍事的常識を含めきちんと全兵卒に対して教育・訓練されていたという仮定では、ある程度はうなずけるのですが、だとしてもそれが実際そうであったという保証はないことです。日本の組織で繰り返し現れる上記のような事件・事故は、逆にそうではなかったと思わせられます。
これからも頑張ってください。

JOHN_VOID - 02/06/20 08:23:26


コメント:
>田中さんの「松井大将日誌」には誤りが多いと言うことを指摘したのは、板倉由明氏
>でした。「歴史と人物」(昭和60年冬季号)で、草書体で読みにくい原文の判読に不
>正確なところがたくさんある、というもので、決していわゆる「改竄」したというもので
>はありませんでした。

 これは田中正明の弁明をそのまま受け売りしているだけの文章ですね。いまだにこんなことを言う人間が存在するとは。
 

渡辺 - 02/06/19 22:56:29


コメント:
K-Kさん:>
>確か、上海の電報局かその中継所を、日本軍が接収したからではなかったでしょうか?

はい、洞氏は松井日記の11月27日の記述をもとに、そうおっしゃています。
しかし、朝日新聞の当日の記事を見ると、「反日的」新聞が租界当局により弾圧され、租界の新聞、通信、放送、郵便など、すべて日本の官憲の検閲を受けることになったのです。ただし、検閲の程度は違い、まだ郵便は実質的には検閲を受けていなかったようです。
1938年1月のNYタイムズの記事によりますと、この頃の上海の日本当局の記者会見では、ほとんどが通信検閲の問題に記者の議論が集中していたようです。
「支那側」といっても、職員は英国人も日本人もいます。税関の「接収」が、最大の国際問題になりました。
これらは、どうやらすべて租界当局を通して行ったようです。
租界は、財産の額に応じた投票権をもつ住民の一種の民主的な運営がされていましたから、租界当局の立場というのは複雑なわけです。
なぜ、租界当局(工部局)が日本の陸軍のいいなりになったのかが、これからのテーマです。(松井岩根氏と上海の中国人結社との関係が、ポイントのようです。)
なお、こういう松井岩根氏の「接収」の提案には、外交官も海軍も反対していました。これは、松井日記にあります。(例えば、11月12日[『南京戦史資料集?供?.116-117])
以上の件は「上海方面に於ける報道、宣伝業務の現況」からもわかります。
-----
上海を完全に占領せざる時期に於いては脅迫等の手段を用ひて抗日記事を圧迫せしが今日に於ては租界当局をして取締を行はしめ既に抗日紙十余を廃刊とせり
[『南京戦史資料集?機?.462]
-----

放送については、
-----
上海十キロ放送局
.....
南京局を破壊せば南京まで到達せしめ得べし
[『南京戦史資料集?機?.463]
-----

南京局を空襲で破壊し、その周波数で宣伝放送するという計画だったようです。(現在調査中)
この資料には日付がないのですが、1937年11月27日以降、南京局破壊以前と、時期はかなり狭められます。

少なくとも、この時期の「戦時国際宣伝」は、中国側では指導者ですら生死の瀬戸際で それどころの騒ぎではなく、一方、日本の陸軍はかなり乱暴かつ組織的な謀略をしていたように思われます。また、上海租界の日本軍による実行支配はこの頃から進められていたようです。

K-K - 02/06/19 20:19:57
電子メールアドレス:渡辺さんへ


コメント:
>「俘虜取扱規則」(「南京戦史資料集?」p.239)は、国際法に沿ったもので
>す。逃亡しそこねて捕らえられた者などの懲戒は「その犯罪は陸軍軍法会議
>に於いて審判す」とあります。それから、俘虜は名簿を作らなければいけない
>のですね。将校の場合は、氏名なを大本営に報告しなくてはいけないようです。

 これは、陸戦規則第8条にあてたものですね。本来、「懲罰」には「殺す」罰が含まれませんから、この「俘虜取扱規則」と陸戦規則8条で反論の根拠となるのですが、おそらく面倒な再反論をして来そうなので(松尾さん以外に(笑))もう少し準備が必要なのではないかと思っています。

 以前、戦時国際法の本を読みあさっていた時に、捕虜の逃走時の処罰について細かく書いていたものがあったと思いましたので、それを提示して反論にするつもりです。いずれにせよ、松尾さんの論は、事実認定にしても法解釈にしても破綻していると思われます。


>私の投稿、印刷して読むんですか....私、印刷して校正しないので、誤植や
>らまずい表現が残ってしまうんですね。それから、全体のバランスとかよくない
>ですね。

 いえいえ、十分読み応えのある内容ですよ。表現や誤植などは、あまり問題だとは思いません。論点がどこにあり、その論点を論理的に説明してあれば些細な表現・書き違いとうは気になりません。そういう点で、渡辺さんの文章は実証的であり、論理的であり、非常に説得力があります。ただ、いくつか疑問点もあるので、それは今度、こちらで書いてみようと思います。

 私が投稿を印刷して読むのは、どうしても画面上で読むと頭に入らないからです。どうしてでしょうね(笑)。しかも、どちらかというと、印刷したものでも横書きより縦書きの方が頭に入りやすい(笑)。私が一番苦手とするのが、マニュアルです。横書きの横文字だらけは、眺めただけでゲンナリなんですよ(笑)。


>ところが、『中帰連』の読者は必ずしも「南京事件」について知っているとは限
>らないので、何をややこしいことを言い合っているんだ、と思われかねないわけ
>です。

 ここら辺は、確かに雑誌に掲載する上での難点ですね。これが、ちゃんとした本や、もしくはネットのウェブページならば、この問題について知りたいという目的で読むことになるのですから、突っ込んだ話が書けたり、基本的な事項は説明せずに省けたりするのでしょうが、あまり興味を持っていない人が対象となるとそうも出来ないのでしょうね。


>『中帰連』に掲載された第1回目の「南京にいなかったティンパーリー」では、こ
>の方針が徹底していなかったという反省があります。

 どうでしょうか?うーん、私も多少知識がついてしまったので、この点の評価は難しいですね。私としては、非常に読みやすかったのですが(笑)。


>なぜ、国際都市で日本の陸軍が言論統制できたのか、考えてみると不思議じゃあり
>ませんか?(北村氏は租界外のことと間違って理解していますが)

 確か、上海の電報局かその中継所を、日本軍が接収したからではなかったでしょうか?洞氏の本に書いてあった様な気がしましたが・・・・。
 いやいや、今度も楽しみですね(笑)。


>『中帰連』のほうには、今回 投稿したの国際法に関する部分は、紙面の関係と、こ
>の分野の専門家に任せたいという考えもあって掲載しないかもしれません。

 となると、『渡辺さんのページ』でしか読めないということになりますね(笑)。
 ああ、早く『渡辺さんのページ』にカウンター付けなきゃいけません。そして、『ゆうさんのページ』と合わせて宣伝しなければ。『田中正明「松井岩根大将陣中日記」の改竄について』を掲載したら、松尾さんのところでも宣伝しようかと思ったりもします(笑)。

渡辺 - 02/06/18 01:50:48
電子メールアドレス:田中正明「松井岩根大将陣中日記」の改竄について


コメント:
昨年、「問答有用」版に投稿した記事を、こちらに掲載いたします。いまだに、件のHPでは、同じ内容で掲載されています。
なお、HTMLタグが入っていますが、そのまま掲載いたします。

----- 本文 ------
田中正明「松井岩根大将陣中日記」の改竄について

今更とも思われる、田中正明「松井日記」改竄事件をとりあげるきっかけになったのは、下記のような記事を今年の初めに見つけたからです。[2001年現在]

http://www.jiyuu-shikan.org/goiken/99/goiken9911m.html
に、田中正明「「松井大将日誌」について、こんな記事があります。
-----
田中さんの「松井大将日誌」には誤りが多いと言うことを指摘したのは、板倉由明氏
でした。「歴史と人物」(昭和60年冬季号)で、草書体で読みにくい原文の判読に不
正確なところがたくさんある、というもので、決していわゆる「改竄」したというもので
はありませんでした。
-----

おそらく、この文章を書いた人は「歴史と人物 60年冬号」を読んでいません。そうでなければ、史観云々以前の問題として知的誠実さに欠けるといわなければなりません。
板倉由明氏は「誤りが多いと言うことを指摘」したばかりでなく、「悪質な書き加え」を含む「改竄」であると断じています。
まず、その記事の題名とキャプションは下記のようなものです。
-----
<font size=+1>松井岩根大将「陣中日記」改竄の怪</font>

日中戦争研究の第一級資料の活字本は、かくも原
資料と異なっている――近現代史研究者への警告
(P318)
-----

板倉氏は、初めて芙蓉書房の「松井日記」と「原本」を「歴史と人物」の編集室で見比べたときのことをこう記述しています。
-----
編集室の一隅で史料を見せられたときは、息の詰まる感じであった。目の前に並んだ自衛隊の坂妻駐屯地資料館蔵の「松井日揮原本」(コピーならびにかなりの数の写真版)と、芙蓉社版・田中正明編『松井岩根大将の陣中日誌』第四章収録の「日記」との間には、見過ごすことのできない大きな差異が、それも単純ミスではない明らかに意図的な改竄がいくつも認められたのである。
かねてから、いわゆる「南京虐殺事件」の研究にとりくんでいた私は、今まで気づかずに何度も田中氏編の松井日記を使って評論してきただけに、このショックを忘れることができない。
(P318)
-----

この後、板倉氏はなぜショックを受けたかを書いています。それは「日記」が「南京事件解明の第一級資料として各方面から非常に期待され」たが、この「日記」には肝心な部分の欠落が多く「戦後の改竄か意識して(不愉快なので)書かなかったのか、いずれにしても『無い』ことがかえって何かを暗示している」(P319)と板倉氏は考え、松井大将自身が東京裁判対策として日記の一部を消したのではないかと疑っていたからです。
板倉氏は、そのときこのように結論しました。
-----
最後まで目を通した私の結論から言おう。発見された「改竄」は、脱落だけならまだしも「書き加え」まであり、しかもそれらはすべて「南京事件否定」の方向で行われている。これは明らかに編者・田中氏の意図的行為であると断ぜざるを得ない。
(P319)
-----

板倉氏によれば、意図的なものから、全体に大きな影響のない送り仮名・漢文表記まで含めると、「その異同はおよそ九百ヵ所以上に及んでいる」(P322)としています。
322頁から331頁にかけて、解釈に影響のある個所が指摘されています。なお、12月23日の「悪質な書き加え」について板倉氏は「支那事変日誌抜萃」の記者会見をもとにしたと推測していますが、これは「支那事変日誌抜萃」で11月30日の記事を12月23日にずらせて削除・加筆し、それを更に書き改めたものであることが現在では判明しています。[洞富雄「南京大虐殺の証明」(朝日新聞社,1988年)P221]
板倉氏の記事を読んで、『決していわゆる「改竄」したというもので はありません』と、どういう神経で言えるのでしょうか。

ところが、自分の不勉強か、そうでなければ不誠実を棚にあげ、「改竄」は「朝日新聞がでっち上げたプロパガンダ」と全く見当違いのことを言っています。
-----
結論的の申しますと、「松井大将日記改竄説」は朝日新聞がでっち上げたプロパガンダであり、田中さんの主張の当否とは全く関係がありません。なぜなら、田中さんは、「改竄」などしていませんし、そもそも「松井日記」は南京虐殺問題の重要ポイン
トにはなっていません。
-----

「南京虐殺問題」否定論の「重要ポイント」として「"南京虐殺"の虚構 松井大将の日記をめぐって」(日本教文社,昭和59年)で「日記」を利用していたのは田中氏本人であったのです。
こんな、最近のできごとでさえ資料にもあたらず、間違ったことを自信たっぷりに書いているとは...学校では、こんな先生たちに歴史教育を受けている生徒もいるのでしょうか。

渡辺 - 02/06/18 01:14:07
電子メールアドレス:k-kさんへ


コメント:
まず、松尾氏との議論のことですが、16日に捕虜が火災を起こし、逃げたので処刑されたとは思いませんが、こういう場合の規定はちゃんとあります。
「俘虜取扱規則」(「南京戦史資料集?供?.239)は、国際法に沿ったものです。逃亡しそこねて捕らえられた者などの懲戒は「その犯罪は陸軍軍法会議に於いて審判す」とあります。それから、俘虜は名簿を作らなければいけないのですね。将校の場合は、氏名なを大本営に報告しなくてはいけないようです。

私の投稿、印刷して読むんですか....私、印刷して校正しないので、誤植やらまずい表現が残ってしまうんですね。それから、全体のバランスとかよくないですね。

季刊『中帰連』の原稿は、さすがに縦書きで印刷してチェックしましたが、それでも私の責任の脱字が、少なくとも一ヶ所ありました。

『中帰連』に送る原稿と掲示板での投稿では、それ以外にも違いがあります。
質的な違いとして、結果的には同じ内容でも、表に出ない裏付けや調査に相当時間を使っています。
書き方ですが、今回こちらに投稿したのは、最初に作った原稿を手直ししたもので、北村氏の議論の流れに沿って反論してゆくという書き方をしています。
ところが、『中帰連』の読者は必ずしも「南京事件」について知っているとは限らないので、何をややこしいことを言い合っているんだ、と思われかねないわけです。
また、こちらも、ねじれたような議論に正面から取組むと、こちらもおかしくなってしまうのです。
そこで、なぜこんなことが問題になるのか、私がそれをどう理解しているかを、最初に言ってしまう。それから、『「南京事件」の探求』の問題点を挙げて批判するという 書き方に変更したわけです。
これは、批判のための批判に終わらせず、私は、どう考えるかをはっきりさせるためでもあります。
『中帰連』に掲載された第1回目の「南京にいなかったティンパーリー」では、この方針が徹底していなかったという反省があります。
次回の記事では、上海での電報検閲と、こちらに投稿したことのある What War Means の源資料と源資料との異同についてになりますが、もっと読みやすいように改善したいと思います。
上海での電報検閲が、予想外に大きなスペースを取りそうです。なぜ、国際都市で日本の陸軍が言論統制できたのか、考えてみると不思議じゃありませんか?(北村氏は租界外のことと間違って理解していますが)
『中帰連』のほうには、今回 投稿したの国際法に関する部分は、紙面の関係と、この分野の専門家に任せたいという考えもあって掲載しないかもしれません。

------
季刊『中帰連』を、まだ購読されていない方は、この機会に、是非、下記URLを通じて、購読申し込みしてください。最新号は21号(夏)になります。
http://www.ne.jp/asahi/tyuukiren/web-site/

K-K - 02/06/17 23:27:44
電子メールアドレス:渡辺さんへ


コメント:
>北村稔『「南京事件」の探求 その実像をもとめて』批判 歪んだ国際法議論 を
>「問答有用」のほうへ投稿しました。

 確認しました。
 これもまた力作ですね。
 印刷して、読ませて戴きます。通勤の友が、また増えました(笑)。


>なお、以前投稿したものの一部が修正されています。
>なお、「不正規兵」と「不規則兵」と、用語が統一されていませんでした。手元の
>国際法の本では「不正規兵」になっていますので、「不正規兵」に変えていただい
>てけっこうです。

 了解しました。
 私の方もやっと一段落ついたようですので、早急にHP化しようと思います。
 しばらくお待ち下さい。

 でも、渡辺さんの文章を読むと、いつも「すごいなぁ~」って思ってしまいます。
 議論なんかにうつつを抜かしている場合ではないですね(笑)。

 これからもよろしくお願いします。

K-K - 02/06/17 23:21:56
電子メールアドレス:はじめまして、ash_28さん


コメント:
 K-Kです。
 はじめまして、ash_28さん。

 ヤフーの掲示板でのash_28さんの投稿は、たいへん論理的で勉強になりました。そのash_28さんに、この掲示板に来ていただけるのは、素晴らしいことです。「ash_pit」も、よく参考にさせて戴きました。これからも宜しくお願いします。

>「一時に30万人も殺せない」とか)があるので、
>時系列に沿ってまとめてみるのも良いのではないでしょうか。

 なかなか難しそうですが、アイデアは面白いですね。これは、心に留めておこうと思います。


>これだけを見ると、まるで阿倍氏が『南京虐殺のまぼろし』から
>孫引きしたように見えますが、『南京の氷雨』によれば、阿倍氏は山田支隊長に
>直接取材して、じかに日記を見ているようですね。

 その様ですね。となると、阿部氏の「山田日記」が正しいとも言えますが、そうなると『南京戦史資料集』の方との差異に説明が付きません。この辺の真相は、まったく藪の中です。もしかすると、いずれの「山田日記」も「偽」であるのではないか、と疑ってしまったりもします。


>さて文献の所蔵先を探すのならば、
>NACSIS Webcat( http://webcat.nii.ac.jp/webcat.html )が便利です。
>時々、キーワードにうまく反応しないのが難点ですが、
>そのときはキーワードを代えて再度検索してみてください。

 これは、知りませんでした。こんな便利なものがあったのですね。
 ぜひ、これからも活用していこうと思います。

 どうやら、結局、私の場合は国会図書館が一番近いようですが(笑)、コピーが手に入り次第、内容等をご報告しましょう。
 私よりも先に手に入った人がいましたら、ご報告をお願いします。

ash_28 - 02/06/17 00:55:02
電子メールアドレス:はじめまして


コメント:
はじめまして、ash_28です。
(う~ん、このハンドルで掲示板(もちろんここの掲示板ではありませんが)に書き込むのはひさしぶりです)

ここのサイトは、資料がたくさん掲載されていて素晴らしいですね。
南京事件は、時系列、場所等が混乱している面(とくに否定派には
そのような面があります。「一時に30万人も殺せない」とか)があるので、
時系列に沿ってまとめてみるのも良いのではないでしょうか。

山田日記の併記、興味深く読ませていただきました。
これだけを見ると、まるで阿倍氏が『南京虐殺のまぼろし』から
孫引きしたように見えますが、『南京の氷雨』によれば、阿倍氏は山田支隊長に直接取材して、じかに日記を見ているようですね。



さて文献の所蔵先を探すのならば、
NACSIS Webcat( http://webcat.nii.ac.jp/webcat.html )が便利です。
時々、キーワードにうまく反応しないのが難点ですが、
そのときはキーワードを代えて再度検索してみてください。
お探しの『北陸史学』ですが、
http://webcat.nii.ac.jp/cgi-bin/shsproc?id=AN00227659
これらの大学等に所蔵されているようです。
お近くの大学がありましたら、問い合わせてみると良いと思います。

余談ですが、南京戦史と資料集Iですが、
某ネット古書店に5,000円で売られているのを見かけたことがあります。
まだ目録に掲載されているようです。

渡辺 - 02/06/17 00:01:06
電子メールアドレス:北村稔『「南京事件」の探求』批判 #5


コメント:
K-Kさんへ、
北村稔『「南京事件」の探求 その実像をもとめて』批判 歪んだ国際法議論 を「問答有用」のほうへ投稿しました。
http://bbs2.otd.co.jp/mondou/bbs_plain?base=14425&range=1
ご自由に利用ください。
なお、以前投稿したものの一部が修正されています。
なお、「不正規兵」と「不規則兵」と、用語が統一されていませんでした。手元の国際法の本では「不正規兵」になっていますので、「不正規兵」に変えていただいてけっこうです。

K-K - 02/06/16 23:54:00
電子メールアドレス:みなさん、こんにちは。


コメント:
 K-Kです。
 みなさん、こんにちは。
 ごぶさたしています。

 つい先日、KOIL氏から資料を提供して戴き、やっとHPに載せることが出来ました。16師団の輜重兵聯隊に所属していた小原孝太郎氏の日記です。記述を見るところ、12月14日以降の南京東方で行われた掃討に関する記述のようです。KOIL氏には改めてお礼を申し上げます。有り難うございました。

 さて、ゆうさんが提示してくださった「北陸史学」、非常に興味のある問題ですね。松尾氏との議論の過程で、日記や証言の信憑性が話題に上がったばかりです。

 今回、山田日記の差異をHP上で併記して判りやすく提示してみましたが、これは両角日記にしても同様です。残念ながら、私が持っているのが『南京戦史資料集』にあるものと、阿倍輝郎『南京の氷雨』にあるものですが、この『南京の氷雨』に記されているのは12月12~14日、18・19日であり、完全な形とはいえません。それでも、12~14日の部分については、字句にだいぶ差異があります。

 『南京戦史資料集』の説明によると、この両角日記は、阿倍氏が所蔵している阿倍氏自らが書き写したもの以外は現存しないということなのですが、この差異が一体どこから出てくるのやら。この点の事情については、『南京大虐殺の証明』P168にも書かれているので参考となるでしょう。

 私は、当事者が罪を問われない為に、日記を破棄したり、改竄したりすることは已む得ないとは思っています。私たちは、それを考慮した歴史考証を行うべきなのです。今回、ゆうさんが提示してくださった「北陸史学」の記事は、そういう意味で重要なものですね。

 時間を作って、国会図書館に行きたいとは思っているのですが、何時になることやら解りません。誰か、ウェブ上で公開してくれないかなぁ~。
 愚痴になってしまいましたが、簡単に感想だけ述べさせて戴きました。

渡辺 - 02/06/16 23:24:35
電子メールアドレス:北陸史学


コメント:
ゆうさん:>
>詳しくは「北陸史学 第49号 「第九師団、南京大虐殺否定論批判」」を御参照ください。

ここ↓にリストのある
http://www.jca.ax.apc.org/nmnankin/magazin3.html
これね、
高野源治:「第9師団、南京大虐殺否定論批判--大戸宏氏『月刊アクタス』所載論稿に関連して」
北陸史学、49号、71頁、2000年11月。

その他:
奥宮正武:「中川八洋氏に反論する--パネー号事件と私の見た南京事件再論」
正論、339号、292頁、2000年11月。

花田俊典:「新資料 火野葦平の手紙--昭和12年12月15日、南京にて」(特集 手紙のディスタンス)
国文学 解釈と教材の研究、45卷、13号、24頁、2000年、11月。

2000年の11月は、面白そうな話題が多いね。
「北陸史学」だけは、どうも近所にないみたいです。誰か見つけてきてね...
ま、小野賢二氏の収集した日記でも、肝心の箇所を書いた本人が破ったり、消してしまったりしたものがあるんですね。
確か、東史郎日記も、肝心なところがなくなっていましたね。なお、東史郎日記は、平和展に展示され、それが京都師団関係資料として発表され、後に単行本になったんですね。どうしてこれが名誉毀損になるのか、いまだに よく分りません。
私には、中国へ兵隊で行った 知り合二人(いまは故人)と、満鉄の職員だった親戚がいますが、日本軍の残虐行為は、直接目の前で見た本人から聞いていますので、今更それをなかったことにしているのを見ると、ため息がでます。

ゆう - 02/06/16 19:23:27
電子メールアドレス:北陸史学


コメント:
「2ちゃんねる」に、面白い投稿がありました。

(以下引用)
偕行社「南京戦史」に関連した話題ですが、そこに掲載されている兵士の日誌にも実は不完全なものがあるらしく、高野源治さんという研究者の方による第九師団関係者に対する聞き取り調査によると、偕行社から日誌提供協力の依頼を受けた兵士の遺族のなかには「その兵士の名誉を守る為」に日誌の一部を意図的に脱落させて偕行社のほうへ提供した、というようなケースもあったようです。
詳しくは「北陸史学 第49号 「第九師団、南京大虐殺否定論批判」」を御参照ください。
(引用終わり)

http://tmp.2ch.net/test/read.cgi/kova/1023715938/617


早速、「北陸史学」を検索してみたのですが、、どうやら、読もうと思ったら国会図書館にでも行くしかないようですね。田舎住まいの私にはとても読めそうにない・・・。

どなたか、この論文を目にした方がいらっしゃいましたら、詳しい内容を教えていただければ幸いです。

渡辺 - 02/06/16 01:24:13
電子メールアドレス:避難民


コメント:
ゆうさん:>
>12日時点での「のんびりと」した避難民。一体、どこに行ったのでしょうね。

映画では、右から左に城壁の前を歩いているので、北へ向かっていることがわかります。

ダイーディンは、笠原氏のインタービューで、このように答えています。
-----
―― 南京戦が開始される前に南京から避難して行った人たちについてはどうですか。

はい、大勢の市民が長江を渡って浦口まで行き、そこから貨車に乗ったり、あるいは徒歩や荷車、人力車で北のほうへ避難して行きました。市民の中には漢口まで行った人もいますが、たいていの者は、南京から50マイルぐらい離れた町や村に避難しそこに留まっていました。私の印象では、虐殺は南京の南側の避難ルートよりはおもにこの北側の避難ルートで行われたようでした。
[『南京事件資料集 1アメリカ関係資料編』p.568]
-----

「あるいは徒歩や荷車、人力車で北のほうへ避難して行きました」は、浦口へ行った人のことではないと思いますが、ちょっとわかりにくい文ですね。

渡辺 - 02/06/15 23:40:28
電子メールアドレス:南京人口


コメント:
南商工会議所の『南京』の件ですが、私がいいたかったのは、日本軍占領後のことです。

例えば、1938年1-3月の南京市人口統計が『ドイツ外交官の見た南京事件』(大月書店)p.209-210に掲載されていますが、第1区~5区で登録された人口で、郷区はもとより、難民収容所に収容されている女性も含まれていません。逆に、郷区から流入してきた人も含まれている可能性もあります。
城外のほうが南京城内より、もっと悲惨でした。最初に南京城外に出る許可を得たのは、ドイツ人のクリスティアン・クリューガー(クリスチャン・クレーガー)ですが、12月28日に Hsi Sha Shan へ食料を求めて、車で行ったところ、約1時間、生きた人間は大きな村でも見なかったと報告しています。また、中国軍が焼き払ったところも、更に日本軍が焼き尽くし、スポーツのように気ままに銃剣で突き刺したり、少女をレイプしていると書いています。これは、ラーベの日記の1月20日にあるのですが、『南京の真実』では割愛されています。
2頁半の長いものなので、いつか時間を見て日本語訳をつくりたいと思います。

なお、3月1日現在で、人口は 23,0505人となっています。
しかし、この23万をもって、単純に1938年3月1日付の人口とはできないわけです。

ゆう - 02/06/15 19:58:27
電子メールアドレス:南京の人口について


コメント:
レスを終えないと、ゆっくりとアルコールを飲めませんので(笑)、頑張ってレスしてしまいます。

(渡辺さん)
>1937年11月23日付の南京市の公式発表は、「現有人口約五十余万」で、予想される難民が「約二十万人左右」となっています。[『侵日軍南京大屠殺档案』p.702]

25日電報の記述のソースは、これだったわけですね。疑問がひとつ、解消しました。


>本格的な人口移動が始まったのは11月20日頃です。
>日本軍の特務機関の判断は、計算上45万が残留したことになりますが、そのあたりが実数でしょう。
>山の中に隠れている人まではわかりませんから、なかなか難しいですが、11月20日以降に徒歩で避難した人は、あまり遠くに行っていないと考えるべきでしょう。

つまり、渡辺さんのお考えでは、「11月20日」に「南京市」の人口は45万人、その後の「避難民」の移動範囲は概ね「南京市」の範囲のことであり、陥落直前にも人口はほぼ変わらなかった、ということですね。

ということは、陥落直前の人口分布は、城内人口20~25万人として、仮に安全区外の城内人口を2~5万人とすると(これはよくわかりません)、城外人口は15~23万人、ということになります。この数字は、戦前人口15万人の「郷区」に南京城周辺の「人口密集地」(下関、江東門、中華門外など)を合わせたものであり、これに南京城内からの避難民数を足すと、大体正しいような気がします。う~ん、だんだん、「南京の陥落直前人口40~50万人」説に、説得力を感じてきました。


>12月12日にノーマン・アレイが撮影した映画では、下関から避難する住民は、のんびりと荷車など引きながら歩いています。

12日時点での「のんびりと」した避難民。一体、どこに行ったのでしょうね。揚子江は渡れないし、北に行けば山田支隊や佐々木支隊がやってくるし、南へ行けば激戦地です。おそらく、「戦争とは何か」にある、「河岸」の「およそ二万人の難民」の一人となった可能性が高いと思われますが・・・。

日本側の記録に、「避難民との遭遇」の記述があるかどうか捜しているのですが、なかなか見つかりません。やっと見つけたのが、次の記事です。

「南京戦史資料集」P468 折田護日記 12月20日
<大隊は・・・中華門を通り蕪湖へ向って南下する。・・・途中南京の避難民達を見る。その中に妙齢の女性あり、何と云う名の大学か知らないがその学生で我大隊の通訳某君の間に応じて色々応待する。その中如何なる風の吹き回しだったのか知らぬ我連隊の目的地太平府(当塗県)迄同行する事になった由。>

南から新河鎮や江東門へやってきた部隊にも、北からやってきた山田支隊や佐々木支隊にも、「避難民」と遭遇した、という記録はほとんどないように思われます。「避難民」たちはもう少し早い時期に「脱出」を果たしたのか、それとも軍から見て「避難民」の存在は全く関心の外だったのか。
(私が見逃しているだけかもしれませんが・・)


>いつから、郷区までの全域を含むようになったのかは、南商工会議所の『南京』に書いてあるのではないかと思い、できましたら6月中に確認してみたいと思います。

東中野氏は、次のように書いています。
<ちなみに南京市は、民国二十三年(昭和九年)の各省市区分によって、南京城内の八区のほかに、城外の燕子磯区(城北)、孝陵区(城東)、上新河区(城西南)の三つの郷区を併合した。>
<そのため、南京の人口は九十七万三千人(うち城外三郷区の人口は約十五万人)と膨らんだ。もっともこれは民国二十五年(昭和十一年)六月、南京市政府調査に基づく人口数であった。それが南京日本商工会議所編「南京」に転載されている。>(「徹底検証」P49)

この記述が正しいのかどうか、ぜひ、確認をお願いします。

ゆう - 02/06/15 19:14:46
電子メールアドレス:11月下旬の人口


コメント:
御大お二人から、大変質の高いレスをいただきました。ありがとうございます。

興味深い内容で、いろいろと考えさせられました。私なりに、考えたことを・・・。
(K―Kさんが松尾氏の掲示板で奮闘中なのに、関係ない話題で申し訳ありません)

(JOHN_VOIDさん)
>その翌日、11月23日に、前外国部長の張群氏邸でティーパーティがあり50人ぐらいの外国人があつまり、そこに唐生智司令官、王固盤警察長官、馬超俊市長が出席してラーベと話をしています。たぶんこの時に難民が20万ぐらい残るだろうという予測の話が出たのだと思います。

>一日おいて、11月25日にラーベは上海にあるジーメンスの中国本社へ電報を打っていますが、そこで「20万を越す非戦闘員の保護のため、国際委員会の代表を引き受けました」と知らせているので、ソースは唐生智司令官、王固盤警察長官、馬超俊市長の3人のどれかだと思われます。


なるほど。このティーパーテイーのことは見逃していました。

確かに、28日の王固盤発言の記述、<警察庁長王固盤は、南京には中国人がまだ二〇万人住んでいると繰り返した。>は、前後の文脈から見ていかにも唐突です。これが、五日前のことを突然思い出して書いた文章である、という可能性も確かにあるかもしれません。

その一方、ティーパーティーの後に改めて会いに行った、という可能性も、捨て切れません。

「南京の真実」では、王固盤の名が最初に出てくるのは、11月21日の記述です。
<(ベーレンシュプルング氏に)通行証のことをいうと名刺をくれて、明日首都警察庁長の王固盤を訪ねるようにといった。まだいたら、の話だが。>(文庫版P61)
少なくとも、王固盤を直接訪ねる「用事」はあったようです。

今の私の手持ちのデータでは、「王固盤といつどこでこのような会話を交わしたのか」は、これ以上はわかりません。他の外国人の日記の中に、「11月23日のティーパーティ」の記述がないかどうか、ざっと探してみたのですが、そもそも外国人日記のうち「11月」分については、ほとんど翻訳紹介がなされていないのが実情のようです。


なお、人口の「予測値」と「現在値」についてのラーベの記述は、若干混乱しているようにも思われます。
 
25日の電報の記述。
<目前に迫った南京をめぐる戦闘で、二十万人以上の生命が危険にさらされることになります。>(P69)
<二十万人をこす非戦闘員の保護のため、国際委員会の代表を引き受けました。>(P71)

確かに、これははっきりと「予測値」です。

その一方で、11月25日の、
<今日は路線バスがない。全部漢口へ行ってしまったという。これで街はいくらか静かになるだろう。まだ二十万人をこす非戦闘員がいると言うけれども。ここらでもういい加減に安全区が作れるといいが。ヒトラー総統が力をお貸しくださるようにと、神に祈った。>(文庫版P70)

これと、前述の王固盤発言は、私には「現在値」を語っているように読めます。(翻訳が正しくない、という可能性もありますが・・・)

東中野氏は、「二十万人」を、11月下旬での「現在値」である、と解釈しています。しかし、仮にラーベが「現在値」を語っているつもりなのであれば、この数字はどう考えてもおかしい。

前回紹介した東中野氏の記述、
<この三つの公的文書からも分かるように、十一月下旬から十二月二十一日まで、南京の人口数は不変であった。虐殺がなかったから、人口が減少しなかったのである。>(P233)
は、やはり無茶です。

ただ、仮に問題の王固盤発言が「23日のティーパーティ」の席上のことでしたら、JOHN_VOIDさんのおっしゃる通り、ラーベの「現在値」の情報源が王固盤である、という可能性もあるのかもしれません。(王固盤の情報源は何か、ということが、また気になるところではありますが・・・)


お勧めの「捕虜の文明史」、面白そうです。早速捜してみることにします。


ちょっと疲れましたので、渡辺さんへのレスは、また後ほど。

渡辺 - 02/06/15 11:51:04
電子メールアドレス:南京人口


コメント:
ゆうさん:>
>シチュエーションがよくわかりませんが、こりゃ、単なる「雑談」です。国際委員会は、こんなものを「根拠」にしたんかい。
(渡辺さん、この「翻訳」は、大丈夫でしょうか?)

雑談じゃないでしょうか。「ずらかる」とか 不適切な表現は あるものの、そう間違ってはいないように見えます。
20万は、予想された難民の数ではないでしょうか。

1937年11月23日付の南京市の公式発表は、「現有人口約五十余万」で、予想される難民が「約二十万人左右」となっています。[『侵日軍南京大屠殺档案』p.702]
この日本語訳は、どこかに掲載されていたように思います。
本格的な人口移動が始まったのは11月20日頃です。
日本軍の特務機関の判断は、計算上45万が残留したことになりますが、そのあたりが実数でしょう。
山の中に隠れている人まではわかりませんから、なかなか難しいですが、11月20日以降に徒歩で避難した人は、あまり遠くに行っていないと考えるべきでしょう。
12月12日にノーマン・アレイが撮影した映画では、下関から避難する住民は、のんびりと荷車など引きながら歩いています。
貧乏人は、少ない資産を置いて逃げるわけには行きませんし、ちょっと離れれば安全と考えていた人が多いんじゃないでしょうか。

人口について語るとき、「南京」とはどこを意味しているかがわからないと、数字だけとりあげても意味がないように思います。
日本軍占領後しばらくは、城内で登録された人口で、城外にいる人の多くは含まれていません。
いつから、郷区までの全域を含むようになったのかは、南商工会議所の『南京』に書いてあるのではないかと思い、できましたら6月中に確認してみたいと思います。

20万とか25万というのは、難民区の人口ということになりますが、どうやって数えたのかは、まだ分りません。
ただ、従軍日記などで驚くのは、人数をかなり正確に把握していることです。日本大使館でも同じ数字を言っているということは、難民区に最大で25万人いたというのは、そう間違っていないと思います。

JOHN_VOID - 02/06/15 11:45:57
電子メールアドレス:捕虜


コメント:
 新潮選書の「捕虜の文明史」という本も良書です。
 東西の捕虜の扱いをギリシア時代から中世、近世、近代、現代にわたるまでコンパクトにまとめた本で、捕虜の取り扱いの歴史が概観できます。
 日露戦争時の捕虜の取り扱いは、ロシアのマルテンスがジュネーブ条約や赤十字など国際会議の場で何度も日本を称揚したことが述べられています。
 その一方で、現場の将校以下ではすでに日本刀による捕虜の試し切りが行われていた事を資料を引用して示しています。

JOHN_VOID - 02/06/15 11:28:42


コメント:
>ちなみに、HPの同じページに、それより前の「11月25日」の、「まだ二十万人をこす非戦闘員がいると言うけれども」という
>ラーベの記述が紹介されています。こちらはソース不明です。いずれにしても、「ラーベ日記」のこれだけの記述では、国際
>委員会の情報ソースが「王長官発言」である、と断定することは、まあ無理でしょう。

「南京の真実」を読むと、11月22日に安全区委員会の会合が開かれ、ラーベが委員長に選ばれています。
 その翌日、11月23日に、前外国部長の張群氏邸でティーパーティがあり50人ぐらいの外国人があつまり、そこに唐生智司令官、王固盤警察長官、馬超俊市長が出席してラーベと話をしています。たぶんこの時に難民が20万ぐらい残るだろうという予測の話が出たのだと思います。
 一日おいて、11月25日にラーベは上海にあるジーメンスの中国本社へ電報を打っていますが、そこで「20万を越す非戦闘員の保護のため、国際委員会の代表を引き受けました」と知らせているので、ソースは唐生智司令官、王固盤警察長官、馬超俊市長の3人のどれかだと思われます。
 ラーベが20万を上限ではなくて、下限(実際には20万より多く残っているだろう)と考えていた事も判ると思います。
 英語版では
 over two hundred thousand noncombatants.
となっています。

ゆう - 02/06/15 08:11:29
電子メールアドレス:「二十万人」説


コメント:
私が外国人の証言を読むたびに気になるのは、彼らが、どこからその「情報」を得たのか、ということです。

例えば、日本軍侵攻直前の「安全区人口20万人説」。明らかに、何の調査も行われていない情況での単なる「推定値」ですが、このソースが今ひとつはっきりしない。


例によって、東中野氏の記述を引きます。

<しかし、その二十万という数字は、何に由来するものであったか。これが長い間、不明であった。それがラーベの日記により判明する。警察庁長官王固磐の、「ここ南京には未だ二十万人が住んでいる」という談話が、国際委員会の根拠となっていたのである。
その長官談話は昭和十二年十一月二十八日であった。>(「徹底検証」P232)

「長官談話」。何やら、立派です。「警察庁長官」氏が、記者会見でもやって、もっともらしく「現下南京に残留する20万住民のために・・・」とか何とか言っている光景を、思わず想像してしまいます。


ラーベ日記の該当箇所を、K-KさんのこちらのHPから、そのままコピペしましょう。

1937年11月28日

 寧海路五号の新居に、今日、表札とドイツ国旗を取り付けてもらった。ここには表向きだけ住んでいることにするつもりだ。家の庭ではいま、三番目の防空壕作りが急ピッチで進んでいる。  二番目のほうは、あきらめざるをえなくなった。水浸しになってしまったからだ。警察庁長王固盤は、南京には中国人がまだ二〇万人住んでいると繰り返した。ここにとどまるのかと尋ねると、予想通 りの答えが返ってきた。「出来るだけ長く」  つまり、ずらかるということだな!

『南京の真実』 P69

・・・う~ん、「長官談話」とは、だいぶイメージが違うような・・・(笑)。 シチュエーションがよくわかりませんが、こりゃ、単なる「雑談」です。国際委員会は、こんなものを「根拠」にしたんかい。  (渡辺さん、この「翻訳」は、大丈夫でしょうか?)

ちなみに、HPの同じページに、それより前の「11月25日」の、「まだ二十万人をこす非戦闘員がいると言うけれども」というラーベの記述が紹介されています。こちらはソース不明です。いずれにしても、「ラーベ日記」のこれだけの記述では、国際委員会の情報ソースが「王長官発言」である、と断定することは、まあ無理でしょう。


しかも、「11月28日」段階での「20万人」は、「南京市」の人口としては、明らかに過少です。東中野氏は、

<この三つの公的文書からも分かるように、十一月下旬から十二月二十一日まで、南京の人口数は不変であった。虐殺がなかったから、人口が減少しなかったのである。>(P233)

と、無茶を言い出しますが、「十一月下旬」時点での「人口20万人」説を疑問に思う、という発想はなかったのでしょうかね。

ゆう - 02/06/15 07:04:43
電子メールアドレス:「私の見た南京事件」


コメント:
JOHN_VOIDさんからお譲りいただいた、奥宮正武氏「私の見た南京事件」を、一気に読み終えました。

なかなかの良書です。特に印象に残ったのが、第五章「わが国での捕虜の待遇の変遷」。日露戦争では、敵の沈没艦の乗員を救助して、負傷者には「鄭重」な介抱を行う。第一次世界大戦でのドイツ兵捕虜に至っては、「収容所で適正な生活を送っていたばかりでなく、生産、文化、社会などの面で、地域に密接に協力していた」。

<日露、日清の両戦争での勝利はもとよりのこと、そのさいの捕虜の待遇が国際的に評価されていたことから、日本軍が皇軍と呼ばれるようになった。それには、天皇の軍隊であるというばかりではなく、正義の軍隊であるとの意味が含まれていた。>(P125)

「歴史家的立場からの厳密な論評」はさておきましょう(私だって、この文章が「無茶」であることぐらいわかります)。でも、「日本人としてのプライド」をくすぐられて、何だか楽しくなってしまう文章ではありませんか。

「捕虜殺害」を無茶な理屈で正当化しようとする議論をする方に、ぜひ読んでいただきたい一冊です。奥宮氏的な視点から見るならば、南京事件における「捕虜殺害」は捕虜を厚遇する日本軍の伝統にそむくものであり、恥ずかしい、の一言に尽きると思います。
 
なお奥宮氏は、その前の章で、捕虜についての国際法


web hosting • domain names • video sharing
online games • photo sharing
free blog • advertising online
目安箱バナー