思考錯誤アーカイブ & とほほがピースウォーク @wiki 

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るふと - 02/01/11 04:29:19
電子メールアドレス:たびたびすみません


コメント:
「ラーベの日記」を読んでみたいのですが、日本語訳
で適当なものがありましたら紹介して頂けないでしょ
うか。

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るふと - 02/01/11 04:22:30
電子メールアドレス:ありがとうございます


コメント:
>K-Kさん、とほほさん

どうもありがとうございます。また疑問が湧いたらお
世話になると思いますので、よろしくお願いします。

ところで、ここのサイトの資料はとても充実していて
大変ためになりますね。勉強させていただいていま
す。

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とほほ - 02/01/07 07:42:46


コメント:
>『(1)安全区から押収された武器 』について
>実際のところ、安全区からはどれくらいの武器が押収されたのでしょうか。

「安全区で押収された武器」というのもラーベの日記等を読むと実際の所どうなのでしょう?安全区に隠し持っていた、などと表現されますが、実際のところは安全委員会が武装解除させ、押収していた武器の可能性は否定できない気がする。

現に安全委員会の押収した武器を日本軍が引き取っている。

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とほほ - 02/01/07 01:09:07
電子メールアドレス:証言資料とは何か?歴史研究とは何か?


コメント:
例えば現在においても小さな資料一つ一つを探求し研究されている方方がいます。ネット上を検索していると例えばこのような研究もあります。
ご参考までに、、、。
<a href="http://www7.gateway.ne.jp/~swtamura/asaba.htm" target="_blunk">南京大虐殺と軍事郵便</a>

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K-K - 02/01/06 18:25:22
電子メールアドレス:東京裁判以前については


コメント:
 「南京大虐殺」という言葉が東京裁判以前に使われた事例を、渡辺さんが問答有用の方で列記していますので、そちらを参照するのがよいでしょう。

問答有用、渡辺さんの投稿
http://bbs2.otd.co.jp/mondou/bbs_plain?base=12413&range=1

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K-K - 02/01/06 18:18:21
電子メールアドレス:RE:証言資料の謎


コメント:
 K-Kです。
 こんにちは、謎解き希望さん。

>基本的に私の見た資料は
>南京大虐殺と言う言葉が出てきた以降のモノです。
>東京裁判の段階では南京大虐殺とか
>それに類似する大量虐殺の話は出てなかったと思います。

 昭和21年8月29日に行われた東京裁判での検察側の証拠提出において、南京地方裁判所附検察官報告「南京地方院検察処敵人罪行調査報告」というものが出されています(『日中戦争史資料集8』P142~)。この報告書の中に以下のような文章が入っています。

「南京地方院検察処敵人罪行調査報告」
以上の如き理由に依り五百件余件の調査事実は何れも異常なる難を経て調査せるものにして、就中【南京大虐殺】は、前代未聞の大残虐たると同時に敵軍罪行の重点なるを以て、特別の注意を払ひて慎重調査を期し、種々探索訪問の方法を講じ、数次に亙り行われたる集団屠殺に関する貴重なる資料を獲得する毎々一々之を審査し、確定せる被害者既に三十万に達し、此外尚未だ確証を得ざる者合計二十万人を下らざる景況なり。
『日中戦争史資料集8』P143
(注:【】はK-K挿入)

 また、東京裁判判決にも、「南京大虐殺」と大量虐殺の内容は出てきます。



>「レイプ・オブ・ナンキン」などの本が出て
>南京大虐殺という言葉ができたのは戦後十年以上たって
>からだったと思います。(記憶違いならごめんなさい)

 日本では、洞富雄氏が人物往来社から出版した『近代戦史の謎』(1967年)が南京事件を本格的に取り上げた出版物だと思われます。しかし、有名になったのは本多勝一氏の『中国の旅』と、それにまつわるイザヤ・ペンダサン(山本七平)氏との論争であったといえるでしょう。これは昭和47~48年頃だと思います。



>そういったモノを見ると
>四肢切断やら女性器を串刺しにするとか
>食人行為などが頻繁に見られるということです。

 「レイプ・オブ・ナンキン」とはアイリス・チャン氏の著作のことと思われますが、残念ながら私はこの本を読んでいません。どの様な記述がされているかは解りません。「レイプ・オブ・ナンキン」については、資料の利用法等に問題があることが指摘されていますので、ご覧になるのでしたら日本の物を読まれるのが良いと思います。岩波新書の『南京事件』笠原十九司著、中公新書の『南京事件』秦郁彦著などが手頃です。



>こういった書物の証言と
>東京裁判における証言に
>かなりの食い違いが見られるのも謎ですね。

 謎がある場合は、調べてみるに限ります。ご自分でお調べになっては如何ですか?結構おもしろいと思いますよ。もし、東京在住の方でしたら、東京都立中央図書館が非常に便利です。貸し出しはありませんが、古今の著書を幅広く網羅していますので、突っ込んだ研究も可能です。

東京都立図書館のホームページ
http://www.library.metro.tokyo.jp/

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謎解き希望 - 02/01/06 01:44:36
電子メールアドレス:証言資料の謎


コメント:
K-K氏へ
基本的に私の見た資料は
南京大虐殺と言う言葉が出てきた以降のモノです。
東京裁判の段階では南京大虐殺とか
それに類似する大量虐殺の話は出てなかったと思います。

「レイプ・オブ・ナンキン」などの本が出て
南京大虐殺という言葉ができたのは戦後十年以上たって
からだったと思います。(記憶違いならごめんなさい)

そういったモノを見ると
四肢切断やら女性器を串刺しにするとか
食人行為などが頻繁に見られるということです。

こういった書物の証言と
東京裁判における証言に
かなりの食い違いが見られるのも謎ですね。

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長田幸久 - 02/01/05 21:27:43
ホームページアドレス:http://web.archive.org/web/20070315064308/http://plaza25.mbn.or.jp/~hinode_kogei/
電子メールアドレス:大阪でひったくりなんか見たことない


コメント:
>南京事件は日本軍がやってない!内のヒイ爺ちゃんも言ってる!
>この非国民!左翼!自分の国の恥を作り出してどうするんですか?

よくテレビなんかで、大阪はひったくり日本一なんて言うてるけど、大阪に住んで30年来、俺、ひったくりなんか目撃したことないで。目撃してない俺が言うから間違いない。大阪ではひったくりなんか起こってないぞ。もちろん、資料なんか見てないけどな。

・・・なんてね。馬鹿なんじゃないの。

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K-K - 02/01/05 17:09:35
電子メールアドレス:RE:殺戮方法の謎


コメント:
 K-Kです。
 はじめまして、謎解き希望さん。

 すでにとほほさんが答えてくれているので、それで十分だと思いますが・・・・とりあえず一言。

 虐殺方法が伝統的な日本の虐殺?方法ではないとのことですね。ところで、このWPのコンテンツとして「市民殺害・便衣兵摘出」というものがあります。その中に日本軍の具体的な「虐殺方法」が多数のっているので、どの「虐殺方法」が日本の伝統に則していないのかご呈示ください。また、部隊別資料にも載っていますので、そちらも参照してみてください。。

「市民殺害・便衣兵摘出」
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Labo/8596/mondai/simin.html

部隊別資料「山田支隊」
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Labo/8596/butaibetu/yamada.html
同「第114師団」
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Labo/8596/butaibetu/114D.html
同「第16師団」
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Labo/8596/butaibetu/16D.html
同「第9師団」
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Labo/8596/butaibetu/9D.html
同「第6師団」
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Labo/8596/butaibetu/6D.html
同「第3師団」
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Labo/8596/butaibetu/3D.html

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とほほ - 02/01/05 16:41:47
ホームページアドレス:http://web.archive.org/web/20070315064308/http://www.ddt.or.jp/~tohoho/
電子メールアドレス:日本軍の謎の行動、(笑)


コメント:
某所とダブルポストのようですが(笑)

> それを踏まえて殺戮、虐殺の証言内容を見ると
> 日露戦争以前、戦国時代にまで遡ってみても
> それと類似するモノが見つけることができない。
> ですが、中国史を紐解いてみれば
> 類似すると言うより
> 同じモノを頻繁に見つけることができます。

そのなぞは、あなたが一生懸命といてください。
謎であるから、事実では無い、とはならないのです。こういう議論をする前に、あなた自信が日本軍の日露戦争以降の行動が史実である事を認めているのか否かを、はっきりさせるべきです。
そうで無い限り、あなたの議論の前提が崩れているからです。

つまり、否定論に成っていると言う事です。
虐殺の証言内容について、具体例を示すべきです、食人の風習は中国に限らず、全世界的に実在してますし、実際に日本軍の虐殺内容には前例がない、と言うあなたの認識している「証言にある虐殺内容」を提示してみてください。

「我々は子供の頃からナチスドイツ帝国は悪の帝国と教育を受け信じて疑いませんでした。私もその事を疑って見ると言う事は今まで一度もありませんでした、、、、。

ところが調べて見るとある我々が知らされていない事実が判明したのです。今ここに公開します、教えられていない歴史、、、、。

なんとあのドイツ帝国では自国民に対して泥棒や人殺し等を犯罪とし、処罰していたのです。言われているような「悪の帝国」であるならばこのような行為は推奨されるべきであり処罰されるはずもありません。

いかがですか皆さん我々はもう一度歴史を見直すべきではないでしょうか。

うーーーん、すばらしい理論だ(゜o゜)」

あなたの言っていることはこれと全く同じ論法です。

> 例を挙げるなら食人行為
> 中国史では、三国志などにも出てくるほどで
> 奇怪な行動ではありません。
> ですが、日本の文化で見れば
> 現代の犯罪史に数例出るかでないか
> もしくはよほどの飢餓状態でもなければ発生しない
> 極めて希有な行為です。

では、首狩り、の風習はどこから派生しているのでしょう?

> つまり証言内容が正しいとするなら
> 日本兵は
> 特に上層部から命令や通達もないのに
> 突然、南京に行くときに個別に分かれている集団が
> 日本の文化背景からは考えられないような虐殺方法を
> 一斉に思いつき、
> しかもそれが何故か中国のモノと酷似していた。
> ということになります。

では、証言内容が間違いとするのであれば、なぜそのような間違いが生まれるのでしょう?
間違いであると仮定するならば、「うそ」以外にには考えられません。なぜ「うそ」をつく必要があるのでしょうか?

歴史というのは、我々に理解できるか否か?の問題ではありません。事実はどうであったか?が問題なのです。

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謎解き希望 - 02/01/05 03:39:55
電子メールアドレス:殺戮方法の謎


コメント:
南京の虐殺について
ちょっと調べたにすぎないのですが
証言などで聞く日本兵の残虐さについて
理解できないモノがあるので
説明できる方がいればお教え願いたい。

まず、日本兵の殺戮の手段ですが
私の調べた限りでは
日露戦争以前、戦国時代頃までさかのぼっても
類似の殺戮手段が見つけられませんでした。

逆に中国史で見てみると
類似の殺戮、虐殺が多くあると感じました。

つまり私が見聞きした範囲内において
日本兵がわざわざ中国風の殺戮方法を用いて
虐殺を行っているということになります。

何故、このような奇妙な行動を日本兵がとったのか
どうしても解りません。

当時、圧倒的な優勢を誇っていた日本兵が
わざわざ、中国人と同じ方法で殺戮を行う。
これについてその行動の理由などが解る方がいらしたなら
是非ともご教授願います。

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とほほ - 02/01/04 07:21:59
電子メールアドレス:ぷぷ(^^)


コメント:
ひいじいちゃん、て、おいらとおないとし、だったりして(笑)

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Hide - 02/01/03 23:58:30
電子メールアドレス:素朴な疑問


コメント:
南京事件では、30万の数字がいろいろ議論を呼んでいますが、ドイツ人は、600万も殺していないと主張している人はいないのでしょうか。600万という数字に納得しているのでしょうか。


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- 02/01/01 00:23:01


コメント:
南京事件は日本軍がやってない!内のヒイ爺ちゃんも言ってる!
この非国民!左翼!自分の国の恥を作り出してどうするんですか?

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HIde - 01/12/31 00:22:54
電子メールアドレス:映画「南京」について


コメント:
渡辺様 こんばんは Hideと申します。
渡辺様の「問答有用」の投稿を拝見しております。資料に基づいた緻密な分析はいつも参考になります。今回は映画「南京」につきご教示頂きありがとうございました。この映画についても南京大虐殺否定派は、秩序ある光景を取り上げて南京大虐殺はなかったと主張していますが、プロパガンダ映画なので虐殺シーンはあるわけもなく、その中に虐殺の根拠(例えば焼け跡、廃墟)を笠原先生や渡辺様のように見出されているのですね。
問答有用掲示板はROM(時々書き込み)しておりますので今後の渡辺様のご活躍を楽しみにしております。

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渡辺 - 01/12/30 23:02:07
電子メールアドレス:映画「南京」について -誤植訂正


コメント:
誤植を訂正いたします。

実物を見た者して若干コメントいたします -> 実物を見た者として若干コメントいたします

チーフカメラマン白石茂 -> チーフカメラマン白井茂

です。失礼しました。

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渡辺 - 01/12/30 22:54:37
電子メールアドレス:映画「南京」について


コメント:
東宝の「南京」について、すでにK-Kさんが投稿されましたが、実物を見た者して若干コメントいたします。

東宝の「南京」は1995年に中国で発見されました。ビデオは日本クラウン(株)の戦記映画・復刻版シリーズNo.21「南京」として5000円で販売されています。
ただし、失われている部分がかなりあります。これは、見ていてもシーンが飛ぶので分かります。
残念ながらフィルムの状態が相当悪くなっていることもあり、内容は期待はずれです。しかし、数少ない貴重な映像には違いありませんし、いくつか興味のある映像もありました。
注目した場面のひとつは、良民証の交付のとき日本兵が市民の手のタコを調べている場面です。これは文章では記述がたくさんありますし、写真もあったように記憶していますが、映像で見るのは初めてでした。
なお、すべてが実写ではなく、攻撃をどのようにしたかを数人で再現したシーンも含まれています。

ピータ B. ハーイ著「帝国の銀幕 - 十五年戦争と日本映画 -」(名古屋大学出版会、1995年)に「南京」のチーフカメラマン白石茂による市内の様子や捕虜の悲痛な顔についての回想が「日本教育映画発達史」から引用されています。
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高い柵について支那人が一列に延延と並んでいる。側を通ると、私をつかまえてシワクチャな煙草の袋や小銭を差し出し、悲痛な顔で哀願する。この人たちはこれから銃殺されるので、命乞いの哀願を私のような者に向かっても必死になって訴えているのだ。それがそうと分かっても、どうしてやることも出来ない自分の無力さが悲しかった。
[「日本教育映画発達史」P180 を、ピータ B. ハーイ著「帝国の銀幕 - 十五年戦争と日本映画 -」 (名古屋大学出版会、1995年)P90-91 より再引用]
----

本書によれば、戦死兵の火葬の「パチパチという炎の音」、「支那負傷兵の呻き声」がありましたが、現存する「南京」ではこの部分が失われています。
この映画は「戦勝ニュースの域をでなかった」(野田真吉の評、同書P92)と評価されていたようです。一方、「現地録音」を評価する声があったようですが、たしかに、戦没者慰霊祭がものすごい強風の中で行われたことが映画で実感されました。
なお、「帝国の銀幕」は1995年刊行なので、映画「南京」のフィルムは「現存せず」(P90)と書かれています。

「この映画を見れば南京の真実がわかる」と書いているHPがありますが、この映画からどうしてそんなことがわかるのか理解に苦しみます。
件のHPでは、恐いはずの日本の憲兵と子供が遊んでいるシーンがあるから、事件がなかったと考えているようです。件のHPの作者(記事のほとんどは受け売りだが...)のセンスが分かるというものです。

<参考>
-------------
(1)東宝映画「南京」:
1938年製作。中国大都市三部作「上海」「北京」「南京」のひとつ。
撮影・白井茂、編集・秋元憲(中国には行かなかった)、音楽・江文也、現地録音・藤井愼一、解説・徳川夢聲
現存するフィルムの上映時間は約56分

(2)
ピータ B. ハーイ著「帝国の銀幕 - 十五年戦争と日本映画 -」(名古屋大学出版会、1995年):
この本は当時の映画界の様子がくわしく、かつ実証的に書かれています。例えば、映画人の「転向を誘引する柔らかなテクニック」(P45)の分析など非常に具体的です。映画法により「思弁的領域を避け」て『「純粋」科学映画』が日本で発達したという分析にはおもしろいものがあります。
また、個々の作品や監督、俳優にも焦点をあてて詳しく解説しています。休憩中にちょっと読むという内容ではありません。なお、この本でも評価されている1938年の戦闘シーンのない戦争映画「五人の斥候兵」を是非見たいと思っていますが、ビデオは販売されていないようです。

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K-K - 01/12/29 21:44:53
電子メールアドレス:RE:南京事件に関する質問


コメント:
 K-Kです。
 はじめまして、ふるとさん。

>『(1)安全区から押収された武器 』について
>実際のところ、安全区からはどれくらいの武器が押収されたのでしょうか。

 押収された武器に関する資料は、今、すぐに思いつくのはこのチャイナプレスぐらいしかありません。残念ながら、この点に関しては、詳細な資料を提供できません。


 
> またこのことが、捕虜処刑を正当化する理由になるのでしょうか。

 捕虜の処刑を正当化する理由とはならない思われます。もし、この事実から捕虜を処刑するにしても、この事実が捕虜と関係のあることを法的に証明する必要があります。この「法的に証明する」という手続きとして、通常の裁判にかけるか、または、軍律法廷という戦争時に軍が行う裁判を経なければならないでしょう。通常の裁判にかけるとなると、審理や手続きが煩雑になるため戦時には向かないので、戦時の一般的な慣習として軍律法廷にかけることになると思われます。軍律法廷の内容については、北博昭氏の「軍律法廷」に詳しく書かれていますのでそちらを参考にするのがいいでしょう。

 さて、南京事件の場合、この様な裁判手続きを抜きとした「処刑」(殺害)が行われたことが、資料から読みとることが出来ます。例えば、幕府山の収容所に収容された捕虜では、山田支隊が捕虜を殺害を担当したことが資料により判明していますが、その資料のには、軍が捕虜を殺害すること促している記述が見られます(山田栴二日記、飯沼守日記、上村利通日記、資料としての信憑性は低いが両角業作手記、共に当HPの「部隊別資料・山田支隊」に載せています)。この事件の場合で言えば、明らかに軍が捕虜殺害を命じています。そして、その殺害の手続きとして「裁判」を行った形跡はありません。とすると、この幕府山の捕虜は必要とされる「裁判」という手続きが無かったことが明らかになる訳です。

 以上の様な具体的な例もさることならば、この「裁判(軍律法廷も含む)」にかけられる主体は、あくまでも容疑のある個人であり、ある集団をまとめて裁判にかけたりすることはありえません。その様なことは、軍律法廷の手続き上あり得ないことなので、容疑を明らかにしていない集団を集団として殺害している場合は、裁判を行ったかどうか不明な場合でも、裁判を行っていないことは明白といえます。

 捕虜殺害を正当化する一般的な根拠として武器弾薬の押収を挙げたとしても、捕虜個々人の処刑の為の法的な具体的根拠とはならないと思われます。

>(2)国民党資金
>
>ティンパーリ記者やスマイス博士に国民党からの資金が渡っていたことを指摘して、
>「彼らは国民党側に偏向している」と主張する人がいるのですが、真相はどのよう
>なものなのでしょうか。

 たしか、最近出版された今村稔『「南京事件」の探求』に、その様な論を展開されているとのことですね。たぶん、この本がネタ元といえるでしょう。さて、私はまだこの本を読んでいないので、具体的にその主張というのが解らないので、大雑把な答えとなることをお許しください。

 まず、ティンパーリーの著書「戦争とは何か」ですが、この本に載っているもので南京に関する記述のほとんどが「南京在住の外国人」からの手紙の転載となっていますが、この「南京在住の外国人」とはベイツであると思われます。ティンパリーとベイツは手紙によってかなり頻繁にやりとりをしており、この本の出版に関わっていたようです。
 もし、ティンパーリーが国民党から資金を貰っていたとしていたとしても、ベイツには預かり知らぬ事であり、「戦争とは何か」に収録されているベイツの手紙にはなんら影響するところはないでしょう。つまり、ティンパーリー「戦争とは何か」が「色つき」の本だとしても、その内容であるベイツの手紙自体には「色がついていない」、内容的な偏向などはないものだといえるでしょう。

 スマイスについては、その資金の流れがスマイスに流れていたかどうかがよく解りませんので、なんとも言えません。また、スマイス調査が偏向しているとするならば、それはスマイス調査のどの部分であるのか具体的に指摘してもらう必要があるのではないでしょうか?



 幾つかの点に関してお答えが出来ませんでしたが、この程度よいでしょうか?他に何か問題点がありましたら、また、掲示板に書き込んでください。

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るふと - 01/12/29 10:13:54
電子メールアドレス:南京事件に関する質問


コメント:
はじめまして。
#先ほど、間違えて送信してしまいましたm(__)m

最近、南京事件に興味を持つようになって、本を数冊かじってにわか勉強している者です。知れば知るほど、「なかった派」がいかにいい加減な事を言っているか分かり、腹立たしく思っています。

今、ある掲示板で「なかった派」の人たちと議論しているのですが、そこで2点疑問に思うことがありました。お忙しいところすみませんが、お答えいただけると幸いです。

(1)安全区から押収された武器

「12月28日、安全区で摘発があり、高級将校23名、初級将校54名、下士官、兵1498名が逮捕。
大砲1基、チェコ製機関銃21丁、ライフル50丁、手榴弾7000発押収。
彼らの中の八十八師副師長馬中将の指令で、反日感情と動乱を扇動、掠奪強姦、市民に対する脅迫をしていた。」(チャイナプレス)

安全区からも大量の武器が押収されたことによって、「捕虜処刑は正当」との意見があるのですが、実際のところ、安全区からはどれくらいの武器が押収されたのでしょうか。またこのことが、捕虜処刑を正当化する理由になるのでしょうか。

(2)国民党資金

ティンパーリ記者やスマイス博士に国民党からの資金が渡っていたことを指摘して、「彼らは国民党側に偏向している」と主張する人がいるのですが、真相はどのようなものなのでしょうか。

よろしくお願いします。

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るふと - 01/12/29 09:52:40


コメント:


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Hide - 01/12/26 23:06:50
電子メールアドレス:Re:映画「南京」について


コメント:
K-Kさん、こんばんは
早速のご回答ありがとうございました。
南京事件については少しかじっただけなのですが、今までの資料をそのまま解釈すると「南京大虐殺」はあったということになると思いますし、今のところ私自身もあったと思っていますが否定している人の意見(怪しい意見が多いと思いますが)についても併せて勉強していきたいとも思っております。
また、これからも訪問させて頂きますのでよろしくお願い致します。

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K-K - 01/12/26 20:57:03
電子メールアドレス:映画「南京」について


コメント:
 K-Kです。
 はじめまして、hideさん。

 件の映画は最近見つかったといっても、確か6~7年前の事だったはずです。

 実は私は映画自体は見たことがないのですが、この映画の撮影とおぼしき場面を南京国際委員会のマッカラムが日記に書き留めています。

//// 引用開始 ////
マッカラム日記
 1938年1月9日----難民キャンプの入口に新聞記者が数名やって来て、ケーキ、りんごを配り、わずかな硬貨お難民に手渡して、この場面を映画撮影していた。こうしている間にも、かなりの数の兵士が裏の塀をよじ登り、構内に侵入して10名ほどの婦人を強姦したが、こちらの写真は1枚も撮らなかった。
//// 引用終わり ////
(『南京事件資料集(1)』P266)

 もちろん、言うまでもありませんが、当時の日本の映画は検閲をされていたのですから、この映画に残虐なシーンが写っていることは無いでしょう。検閲の基準については、以下のようなものがあったそうです。

//// 引用開始 ////
四 左に列記するものは掲載を許可せず
(12)我が軍に不利なる記事写真
(13)支那兵または支那人逮捕訊問等の記事写真中、虐待の感を与える虞あるもの
(14)惨虐なる写真、ただし支那兵または支那人の惨虐性に関する記事は差し支えなし

五 映画は本要領に準じ検閲するものとす
//// 引用終わり ////
(『不許可写真1』毎日新聞社、一九九八年、P223)

 ちなみに、この『南京』を見た笠原十九司氏は以下の様に述べています。
//// 引用開始 ////
さきの日本陸軍検閲要領の「映画は本要領に準じ検閲する」を考えれば、日本の映画カメラマンが虐殺現場を撮影する可能性はゼロに近かった。それでも1938年に東宝文化映画部が作成した「南京」という記録映画(ビデオが「戦記映画復刻シリーズ21」として日本クラウン社から販売)は、「我が軍に不利になる」場面の撮影は当然避けられているが、南京占領直後の南京城内の掠奪、破壊、放火された街のようす、疲弊し無気力な表情の難民など、隠しようのない南京事件の舞台跡が撮影されており、見る者が見れば、南京事件を物語る映像記録の1つになっている。
//// 引用終わり ////

 

************************************************************
Hide - 01/12/26 00:39:59
電子メールアドレス:映画「南京」について


コメント:
こんばんは、初めて投稿致します。
最近、某ビジネス雑誌で櫻井よしこ氏の南京虐殺の信憑性を問うコラムが2週掲載されましたが、非常に内容に乏しいものでした(問答有用にその内容につき投稿したところ、クマさんに軽く一蹴されました)。このHPの資料は膨大な資料がコンパクトにまとめられていて、南京事件真実派の論拠を知る上で非常に勉強となります。ところで南京事件否定派のHPで昭和13年に撮影された「南京」という映画が紹介されており、「この映画を見れば南京の真実がわかる」といったような触れ込みでした。その映画では日本軍南京入場後の秩序に富んだ南京市街の光景が映し出されているとのことです。ここで気になるのが、その信憑性で、プロパガンダ的な目的で製作されたのなら、都合のいいところだけ取り上げられているかも知れないし、そもそも、最近見つかったということですので当時本当に製作されていたかも疑問です。すでに、本映画の信憑性も決着はついているかもしれませんが、ご教示のほどよろしくお願いいたします。

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クマ - 01/11/24 19:44:36
ホームページアドレス:http://web.archive.org/web/20070315064308/http://www.tyuukiren.org/
電子メールアドレス:改装&更新ありがとうございます


コメント:
 K-Kさん、こんにちは。クマです。

 東京裁判速記録からのテーマ別の抜書きとテキスト化とHTML化、本当にお疲れ様です。今回は市民虐殺や性暴力の問題ということで、読むのもツラいのですが、抜書きして文字化する、ミスがないように校正する、つまりは何度も読むというのは、精神的に大変な作業だったと思います。ありがとうございます&お疲れ様です。
 今度また、お時間のあるときにお茶でも飲みましょう。

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渡辺 - 01/11/18 16:41:13
電子メールアドレス:「考える」前に基礎知識を


コメント:
ななしのごんべいさん:>
----
usakoさんへ - 01/11/16 09:40:55
コメント:
戦争する国家がはずかしいって?戦争せざるをえない状況に追い込まれたんだよ、アメリカに。
南京虐殺も学校で習ったはいいけど自分でもよく考えてみたら?核も使わずにどうやってあの短期間に何万人もころせるの?先生の言う事なんてとりあえず疑ってかかった方がいいよ。特に歴史なんかは。遺跡の事にしたってそうでしょ
----

「戦争せざるをえない状況に追い込まれたんだよ、アメリカに 」って、基礎的なところで間違ってますよ。
日中戦争とアメリカとどういう関係があるの?
戦車の石油も弾丸の鉄も、多くはアメリカから買ったものなんでしょ。

「あの短期間に何万人もころせるの?」って、「南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち」(大月書店)に収録された複数の兵士の日記に書かれていますよ。

「考える」前に基礎知識を勉強しようよ。

************************************************************
とほほ - 01/11/16 15:19:50
電子メールアドレス:開戦前夜


コメント:
00031 99-08-17 14:37:07 TOHOHO Re:22)陸軍中央の混乱

∥> この宣戦布告を伴わない無防備都市への爆撃は中国全土に及び、南京城区だ
∥> けで民間人392人死亡、破壊家屋七、八百戸に達した。
∥> 世界の世論は一斉に日本を非難した。
∥> が南京市民にとっては単なる前兆に過ぎなかった、、、、、。

この海軍の戦略爆撃は、外国からの非難を外交的手段でかわし孤立を避る為に上海戦を、局地的な紛争で片付けたかった軍中央及び政府の思惑を吹き飛ばしてしまった。
軍部内の拡大派が急速に台頭してきたのである。

この状況を踏まえて、話を戻し陸軍の動きを追って見たい。
海軍の南京爆撃は解説したようなわけでしっかりとした作戦計画に沿った、行動であったが、陸軍は対照的に行き当たりばったりのなし崩し的な戦争突入であった。(笠原見解)

○盧溝橋事件発生時陸軍中央参謀本部首脳 *(拡)拡大派 *(不)不拡大派
参謀総長     閑院宮載仁親王 元帥      
  +参謀次長   (不) 今井清 中将      
  +総務部長   中島鉄蔵 少将      
  +第一部長(作戦)   (不) 石原莞爾 少将      
    +作戦課長 (拡) 武藤章 大佐      
    +戦争指導課長 (不) 川辺虎四郎 大佐      
  +第ニ部長(情報)   (不) 渡久雄 中将      
    +欧米課長 丸山政男 大佐      
    +支那課長 永津佐比重 大佐      
    +ロシア課長 笠原幸男 大佐      
  +第三部長(運輸)   (拡) 塚田功 少将      
  +第四部長(戦史)   (拡) 下村定 少将      
(参照資料、笠原「南京事件」、ただし一部派閥判定は とほほ の主観)

盧溝橋事件発生時事実上の統括責任を持つ今井清参謀次長は病気欠勤中。
次長代行の立場にたつ石原莞爾少将は不拡大派の筆頭論者である。
石原少将は「事件不拡大、現地解決」の方針を打ち出し各部長を説いて閑院宮参謀総長の決済を取りつけ参謀本部の不拡大方針を決定させた。

しかしこの決定に従い迅速に行動すべき直属の武藤章大佐はこれまた拡大派の筆頭論客であった。彼はこの参謀本部の決定に真っ向から反対し石原少将と激しく対立した。

さて軍内部に置いて上層部の決定に逆らい反抗するなど当時の日本軍の状況を持ってしてもあるまじき事である。なぜ武藤大佐のこのような姿勢が通用したのかは検証せねばなるまいが後に回して拡大派と不拡大派のそれぞれの論旨を先に見てみよう。

○石原を中心とした不拡大論
目下は満州国建設の完成に専念し、対ソ軍備を完成し、これによって国防の安固を図らねばならぬ時期に、もし支那に手を出してこの計画を支離滅裂にしてはならない。
今や支那は昔の支那でなく、国民党の革命は成就し、国家は統一せられ、国民の国家意識は覚醒している。日支前面戦争になったならば支那は広大な領土を利用して大持久戦をおこない、日本の力では屈伏できない。日本は泥沼にはまった形となり、身動きができなくなる。日本の国力も軍事力も今貧弱である。
日本は当分絶対に戦争を避けて、国力・軍事力の増大を図り、国防国策の完遂を期する事が必要である。

○武藤を中心とした拡大論
支那は統一不可能な分裂的弱国であって、日本が強い態度を示せばただちに屈従する。この際支那を屈伏させて概して北支五省を日本の勢力下に入れ、満州と相まって対ソ戦略体制を強化することが必要で、盧溝橋事件はそれを実現するため、願ってもない好機の到来を示すものである。この事件は楽観を許さない。これに対処するには力をもってする他に方法はない。それには兵力を増派して、状況によっては機を失せず一撃を加える。これによってのみ時局の収集ができるのである。
(以上『軍務局長武藤章回想録』、笠原(南京事件)より)

#この論戦を見てもわかるとおり拡大派の論旨は戦略政策等に乗っ取ったものではなく偶発的に起こったこの事件を口実になんの戦争準備もないに関わらず、戦略外交上の大義名分もなく単にその領土欲から発していることは万人が頷けるのではないだろうか?
どなたかこの論の中にに国策上必要であった、等と言う論理を組み立てられる方がいましたら屁理屈でも構わないので是非ご披露願いたい。

この武藤大佐の拡大論が軍上層部に対し対立しえたのは陸軍中央中堅層の多数派であった事が下地にはなっているとしても軍内部の軍事作戦が多数決で決まるような軍は古今東西ありえず、軍として成り立つはずもない。
もう少し検証してみようと思う。

 


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00043 99-08-22 11:47:45 TOHOHO Re:31)陸軍中央の混乱、その2

∥>この武藤大佐の拡大論が軍上層部に対し対立しえたのは陸軍中央中堅層の
∥>多数派であった事が下地にはなっているとしても軍内部の軍事作戦が多数
∥>決で決まるような軍は古今東西ありえず、軍として成り立つはずもない。
∥>もう少し検証してみようと思う。

この辺の様子は「笠原『南京事件』」でよく検証されている。
笠原によるとつまりは当時の陸軍上層部は所謂下克上の風潮があり、手柄をたてた者の勝ち、と言う体質であったと言う。

例えば不拡大論者筆頭の石原莞爾少将自身がその様にしてその地位に上り詰めた人間であった。
彼が関東軍参謀時代中央や上層部の統制を無視して謀略による柳城湖事件でもって満州事変を主導し成功を収めた、と賞され中央要職に栄転した者であった。

つまりその彼の姿勢を部下である武藤は見習ったのだ。

「われわれは[満州事件のときの]あなたのされた行動を見習い、その通りを内蒙で、実行しているものです」と答え、「そういうや否や、他の青年参謀どもが口を合わせて哄笑した」と言うのである。今村はさらに、石原や板垣征四郎らの「出世物語」が陸軍中央の参謀将校や外地の各軍幕僚多数のあいだに、「軍人の第一義は大功を収める事にある。功さえたてれば、どんな下克上の行為を冒しても、やがてこれは賞され、それを抑制しようとした上官は追い払われ、統制不服従者がこれにとってかわって統制者になり得るものだ」という軍紀紊乱の機運を醸成した。と記している
(藤原『南京の日本軍』、笠原『南京事件』)

とこれは南京事件の前年36年の出来事であるがこのような機運が陸軍中央に蔓延しており武藤を初めとする不拡大派は独断専攻をものともしない野心家を中心に形成されていた。

石原は上海出兵を断固阻止したく精力的に説得を続けたがついに押さえる事は出来なかった。

「今次の上海出兵は海軍が陸軍を引きずって行ったものといっても差し支えないと思う・・・・・・私は上海に絶対出兵したくなかったが実は前に海軍と出兵する協定がある」
(「石原莞爾中将回想応答録」)

とあるように実体は統制力のない陸軍を海軍内部の戦略野心による作戦行動が牽引し上海出兵が敢行された、と見るのが私には自然である。
どこをどう見たら大東亜共栄圏の理想や正義感による出兵であったと見る事が出来るのか摩訶不思議、、、。

海軍の開戦理由
対英米との決戦を見越した航空戦力の自軍戦艦巨砲主義者に対するデモンストレーション。
陸軍の開戦理由盧溝橋事件は現地指揮官の顕示欲によるもの。
中央は拡大派の暴支庸懲にみられる弱国に対する侮蔑差別観に支配された出世欲によるもの。
政府の開戦理由何事も軍隊様のおっしゃる通り。

私にはどこをどう見てもこの様にしか見えない。
どこに大東亜の理想や正義が在ったのだろうか?ぜひ教えてもらいたい。

それはさておきついに海軍との共同作戦を伴った第2次上海事変が勃発する事になった、南京事件の前哨戦となったこの戦い、、、。
熾烈な戦闘を繰り広げた上海派遣軍は独断で戦後南京へ向かうそして起こった悲劇、東京裁判で南京大虐殺の罪を一身に受け処刑された上海派遣軍司令官松井石根大将の行動を中心に問題の核心へ迫ってみたい。

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usakoさんへ - 01/11/16 09:40:55


コメント:
戦争する国家がはずかしいって?戦争せざるをえない状況に追い込まれたんだよ、アメリカに。
南京虐殺も学校で習ったはいいけど自分でもよく考えてみたら?核も使わずにどうやってあの短期間に何万人もころせるの?先生の言う事なんてとりあえず疑ってかかった方がいいよ。特に歴史なんかは。遺跡の事にしたってそうでしょ。

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渡辺 - 01/11/15 12:36:38
電子メールアドレス:Re:ハズカシクないんですかねー。


コメント:
usakoさん、多重投稿することもハズカシイことだよ。
宮崎県では、きちんと歴史教育がされているようだけど、もう少し具体的に「日本軍」のどこが、「ハズカシ」いのか書いてね。

ただし、はずかしいかどうかが問題ではなく、いったいどういうことが起こったのか、その事実を確認することがまず大切だと思います。
日中戦争の中に、招集されて送り込まれた人達を揶揄する気持ちはありません。近代化に向けて建設途上にある隣国である中国を荒廃させるような戦争をなぜしたのかにこそ一番の問題があります。
「大東亜戦争」がアジア解放戦争だと合理化しても、隣の中国や朝鮮に何をしたかを見れば、実態は明らかです。

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usako - 01/11/12 10:27:07
件名:ぎゃーーーーー!

コメント:
今、学校で、南京事件、ならいましたよーーーー!!!まったく、日本軍は、ハズカシクないんですかねー。

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とほほ - 01/11/14 00:17:49
電子メールアドレス:うーーん、日本軍は、、云々より


コメント:
戦争する国家、ってのが恥ずかしいんだと思うな。

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usako - 01/11/12 10:28:20
電子メールアドレス:ぎゃーーーーー!


コメント:
今、学校で、南京事件、ならいましたよーーーー!!!まったく、日本軍は、ハズカシクないんですかねー。

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usako - 01/11/12 10:28:44
電子メールアドレス:ぎゃーーーーー!


コメント:
今、学校で、南京事件、ならいましたよーーーー!!!まったく、日本軍は、ハズカシクないんですかねー。

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usako - 01/11/12 10:28:05
電子メールアドレス:ぎゃーーーーー!


コメント:
今、学校で、南京事件、ならいましたよーーーー!!!まったく、日本軍は、ハズカシクないんですかねー。

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usako - 01/11/12 10:27:07
電子メールアドレス:ぎゃーーーーー!


コメント:
今、学校で、南京事件、ならいましたよーーーー!!!まったく、日本軍は、ハズカシクないんですかねー。

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usako - 01/11/12 10:28:07
電子メールアドレス:ぎゃーーーーー!


コメント:
今、学校で、南京事件、ならいましたよーーーー!!!まったく、日本軍は、ハズカシクないんですかねー。

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usako - 01/11/12 10:26:52
電子メールアドレス:ぎゃーーーーー!


コメント:
今、学校で、南京事件、ならいましたよーーーー!!!まったく、日本軍は、ハズカシクないんですかねー。

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usako - 01/11/12 10:26:02
電子メールアドレス:ぎゃーーーーー!


コメント:
今、学校で、南京事件、ならいましたよーーーー!!!まったく、日本軍は、ハズカシクないんですかねー。

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クマ - 01/11/01 14:22:17
ホームページアドレス:http://web.archive.org/web/20070315064308/http://www.tyuukiren.org/
電子メールアドレス:ありがとうございます&お疲れ様です


コメント:
 K-Kさん、こんにちは。クマです。
 日中戦争史資料―南京事件―に収録されている東京裁判関係資料一覧の公開、ありがとうございます。活用させていただきます。

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とほほ - 01/09/15 10:57:25
電子メールアドレス:馬鹿は死ななきゃ直らない


コメント:
我々、人間、と言うのは基本的に社会を認識して生きていく、生物学的に見ても特殊な存在である。

「蟻社会」と比喩されるが、全く異なる、蟻は社会のことなどしらん、自己の欲望のもとに行動しているだけであり、その行動が社会に還元される。
この論理の原点が左派社会である、と論評するアホ右翼もいる。

我々は「生きたい」のである、「生きたい」の概念はアホ右翼にとっても同様の主張である(生き残るべき人間いて、妥当である、を主張するのが右翼であるが)
では、死ぬべき人間が存在するか?、に対して右翼って奴は自己正当化に走る。
でもって「特攻隊的」自己犠牲の精神を多いに鼓舞する、本当に頭悪い。

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- 01/09/02 19:16:58


コメント:
> なるほど、では洞氏も「だれしもいちおう疑問符をつけたくなる」と書いてある、崇善堂の4月9日から5月1日までのわずか23日間に104718体もの遺棄死体を埋葬したという、あまりにも不自然な数字はどういう説明がつけられるのだろうか?悪く見ると整合性の為の改ざんかでっちあげとも取れかねない。

何に対する「整合性」をでっち上げたのですか?
その「何」に対してあなたの論理の中に「妄想」があるのですよ。

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大江山 - 01/08/28 14:36:41
ホームページアドレス:http://web.archive.org/web/20070315064308/http://www.ooeyama.com/
電子メールアドレス:初めまして!


コメント:
日本人が、闇に葬り去ろうとしている事件、問題は沢山ありますが、南京事件はその最も大きなものだと思っています。ハンセン病の問題も日本の国が犯した大きな間違いでしょうが(私、こんなサイトを作りました。
www2.to/hansen です。
人の褌で相撲をとっているのですが)南京事件も、人間として、日本人の一人として放置しておいてはいけない問題だと思います。では、どうすればよいのか・・・考えたいことです。ではまた、いずれ・・・

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- 01/07/23 11:45:33


コメント:


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とほほ - 01/07/20 23:03:12


コメント:
一次資料とかなんとかってのは、歴史探求における便利性の問題。(笑)
だって日本古代史に持ち出される、古事記とかが一次資料か否か考えればわかるジャン(^^;

こういう手の議論をする歴史専門家もどきは繭につばつけて間違い無い。(笑)

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渡辺 - 01/07/19 02:40:56
電子メールアドレス:Re:どれが一次史料?


コメント:
ひばり さん:>
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ときどきこのHPからコピペした資料が 「一次史料ではない」と言われたりします。
一次史料と2次資料?の区別があるといいと思います。
あと、崇善同埋葬記録についての一次史料はほとんどない
と言う事ですが、本当でしょうか?
------

私は歴史学が専門ではないですが、まだ、返信がないようですので参考意見として:

1次資料、2次資料というのは資料の分類であって、信頼性を現すものではありません。

(1)1次資料:
 元になる資料、源情報。
  論文、研究・調査報告書、会議資料など
  手書き、写本は専門家による校正を経て印刷されたものを含む

(2)2次資料
 1次資料に手を加えたもの。(元になった1次資料が現存する)

(3)3次資料
 2次資料を使った資料、教科書も通常は3次資料

翻訳は2次資料としての扱いになるんじゃないでしょうか?統計表など翻訳によっても内容が変わらない場合は1次資料とみなすことができるように思います。

崇善同埋葬記録 自体は崇善同が作成した文書で「崇善同埋葬記録」の源資料ですから1次資料です。中国語の「侵華日軍南京大屠殺档案」の「崇善同埋葬記録」も崇善同埋葬記録をそのまま活字にして印刷した学術書ですから1次資料としていいのではないでしょうか。
将来、「崇善同埋葬記録」の元になった数字を書いた文書が発見されても、それらを表にまとめた「崇善同埋葬記録」自体は「崇善同埋葬記録」の1次資料です。

要するに、資料の引用が「直接引用」か「また引き」かという問題だと思います。

「資料論」参考URL:
http://www.ulis.ac.jp/~j108/tikanote/notedata/note2/siryoron.htm

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ひばり - 01/07/18 06:28:10
電子メールアドレス:どれが一次史料?


コメント:
ROMです。
南京関係ウォッチャーですが
ときどきこのHPからコピペした資料が
「一次史料ではない」
と言われたりします。
一次史料と2次資料?の区別があるといいと思います。
あと、崇善同埋葬記録についての一次史料はほとんどない
と言う事ですが、本当でしょうか?
本当だとしてら理由も聞きたいのです。

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ゴジラズワイフ/鐵扇會 - 01/07/18 01:14:16
ホームページアドレス:http://web.archive.org/web/20070315064308/http://tetsusenkai.net/official/yasukuni/
電子メールアドレス:■■靖国参拝問題研究WEB更新!■■


コメント:
こんにちわ
ここのテーマとは直接関係ないかもしれませんが
今、焦点の靖国問題集大成のWEBが出来ましたので
お知らせさせていただきます。
長くて恐縮ですが、よろしくお願いします。

@@@@@@@@@@@

 小泉首相の靖国参拝に合わせて、過日、設置のお知らせをいたしました
当會の「靖国参拝問題特別企画」WEBをこのたび更新いたしました。
 
 ○政府自民党側資料  = 見やすい形に再編集
 ○靖国神社側資料   = 新規設置
 ○千鳥ヶ淵側資料   = 新規設置
 ○新聞メディア側資料 = 新規設置
 ○その他の資料    = 新規設置
 ○ネット内既存データ = 新規設置

(1)政府自民党側資料
1,靖国参拝を行った戦後の首相一覧
2,靖国問題自民党変遷史
3,時代別・代表的な国会論議の変化
   黎明期(政府・靖国蜜月時代)
   昭和40年・高瀬発言(一つの総括と歴史の皮肉)
   昭和50年代・混沌の時代の幕開け
4,胡耀邦中国共産党総書記あて靖国神社公式参拝の取り止めに関する
  中曽根康弘書簡(昭和61年)
5,保守党野田毅・自民党渡辺喜美対談(平成13年)
6,板垣正証言

(2)靖国神社側資料
1.全体説明
2.津村忠臣「靖国神社と兵士」(「若き日の大東亜戦争」より)
3.終戦後から千鳥ヶ淵建立までの靖国神社関連史
4.靖国神社宮司・松平永芳「靖国神社」(昭和60年・中曽根参拝について等)
5.当會會員より靖国神社への質問メールとその回答1
6.重要! 鎮霊社というもの
7.当會會員より靖国神社への質問メールとその回答2
8.当會會員より日本共産党への質問メールとその回答
9.当會會員より靖国神社への質問メールとその回答3
10. 神道政治連盟資料「A級戦犯とは何だ!」
11. 靖国神社A級戦犯合祀の真実と「分祀論」の虚構


(3)千鳥ヶ淵戦没者墓苑側資料
1.全体説明
2.倉林和男「靖国神社をめぐる動向」
3.城西教会牧師・徳永五郎「改めて千鳥ヶ淵戦没者墓苑を思う」
4.浄土真宗各派・靖国参拝中止要請文*
5.浄土真宗本願寺側資料1(「共に歩む」43号)*
6.浄土真宗本願寺側資料2(第19回千鳥ヶ淵全戦没者追悼法要)*
7.浄土真宗本願寺側資料3(第20回千鳥ヶ淵全戦没者追悼法要)*
8.新宗連側資料*
9.日蓮宗・千鳥ヶ淵戦没者慰霊法要
10.日本カトリック司教協議会・日本カトリック正義と平和協議会「靖国神社公式参拝反対要望書」
11.新宗教新聞社・首相の靖国参拝批判資料
12.日本福音同盟「靖国神社「公式」参拝への抗議
13.キーストーンメーリングリスト(靖国と千鳥ヶ淵の変遷資料)*
14.INTERNET PHOTO SCOOP - 千鳥ヶ淵戦没者墓苑拝礼式*

(4)メディア側資料
1,三木武夫談話~YOMIDASランド「この10年」(外部リンク)
2,昭和60年・中曽根参拝に関する新聞各社の見出し一覧
3,昭和61年元旦・朝日新聞社説
4,朝日新聞昭和61年社説
5,「自民党田中派の変遷と中曽根公式参拝及び中国の動向」年表
6,平成13年6月27日・読売新聞「スキャナー」(1135×1403jpg画像・383KB)

(5)その他
1,明治期の神道非宗教論についての一考察 1~4
2,靖国参拝問題基本!いわゆる「神道指令」(GHQ・昭和20年12月15日)
3,政教分離・海外の場合

(6)ネット内既存外部資料
1,「岩手県靖国参拝違憲訴訟」分
2,「有事戦略研究所」分
3,「仙台高裁判例」分
4,「東京大学大学院人文社会系研究科博士課程論文」分
5,「クリスチャン新聞」分
6,「西日本新聞社説」分
7,「近現代宗教研究批評の会」分
8,「産経新聞」分
9, 時事通信社2000年度8月15日靖国関連記事」分
10, 日本の戦後50年とこれからの進路」分 
11, 「しんぶん赤旗・平成13年5月6日」分
12, 「昭和60年08月12日・日弁連意見書」分
13, 「2000年 靖国神社参拝国会議員リスト」分

となっております。政治・宗教ともに、さまざまな立場の意見を網羅しつ
つ、今夏の首相参拝のあり方について、少しでも多くの方々が真摯にこの
問題に取り組む一助となれば幸甚に存じます。

平成13年(紀元2661年)7月17日           鐵扇會

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戦史おたく - 01/07/17 21:56:45
電子メールアドレス:崇善堂の件


コメント:
なるほど、では洞氏も「だれしもいちおう疑問符をつけたくなる」と書いてある、崇善堂の4月9日から5月1日までのわずか23日間に104718体もの遺棄死体を埋葬したという、あまりにも不自然な数字はどういう説明がつけられるのだろうか?悪く見ると整合性の為の改ざんかでっちあげとも取れかねない。

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とほほ - 01/07/17 00:27:48
電子メールアドレス:RE:教えてください。


コメント:
当時の政治的背景を検証し、崇善堂の活動目的に対しその利益とコストを検証するとおのずと結論が出るような気がします。
崇善堂は宗教的ボランティア団体です。かといって政治的癒着は否定できませんが、政治的にしても虚偽の活動報告が崇善堂という団体活動において利益を為さない、という事がひとつの信憑性における信頼性の根拠になり得ると思います。

なにより、歴史を検証する上で資料は資料でありその信頼性を根拠付けるのは全体像からの整合性だと思います。
その点で崇善堂の記録に不審があればそれを主張すべきだと思うのです。

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戦史おたく - 01/07/15 22:01:08
電子メールアドレス:教えてください


コメント:
埋葬関係資料の埋葬表のうち,崇善堂埋葬活動一覧表の信憑性についてお尋ねしたい。私は洞氏の[決定版南京大虐殺]を読んで、どうしても理解できないのがこの「崇善堂埋葬数」を正しい資料であるという判断なのです。「紅卍字会」の埋葬統計表が「大阪朝日新聞」の記事と同じ数字があるから「紅卍字会」の資料は正しい、だから崇善堂も信憑性があると云うように読めました。でも、私は納得いきません。洞氏も崇善堂埋葬数には、かなり疑問を抱いているようにもみえますが、結局はこの数を採用しています。
そこで教えて頂きたいのは、この崇善堂の埋葬数が信憑性のあるものであるという論理的な説明を誰か教えていただけませんか?タコレベルの質問で申し訳ありません。

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渡辺 - 01/07/10 01:56:43
電子メールアドレス:「交戦法規」を適用せず


コメント:
K-Kさんが丁寧に答えておられるので、邪魔にならないようにROMしておりますが、以前から気になっている文書がありますので参考意見として投稿いたします。

KーKさん:>
>上海戦でも南京戦でも、日本軍は捕虜の殺害が違法であるとして明確に禁止をしたり、その旨の命令・通達を出してはいません。

むしろ、その逆と思われるような通牒が上海事変の直前に出されています。
------
○交戦法規の適用に関する陸軍次官通牒
  交戦法規の適用に関する件
陸支密一九八号 昭和拾弐年八月五日
  次官より駐屯軍参謀長宛(飛行便)
今事変に関し交戦法規等の問題に関しては左記に準拠するものとす
右依命通牒す
   左記
一、現下の情勢に於て帝国は対支全面戦争を為しあらさるを以て「陸戦の法規慣例に関する条約其の他交戦法規に関する諸条約」の具体的事項を悉[ことごと]く適用し行動することは適当ならす
<二、 三、省略>
四、軍の本件に関する行動の準拠前述の如しと雖帝国か常に人類の平和を愛好し戦闘に伴ふ惨害を極力減殺[げんさい]せんことを顧念しあるなるか故に此等の目的に副ふ如く前述「陸戦の法規慣例に関する条約其の他交戦法規に関する諸条約」中害敵手段の選用等に関し之れか規定を努めて尊重すへく又帝国現下の国策は努めて日支全面戦争に陥るを避けんとするに在るを以て日支全面戦争を相手側に先んして決心せりと見らるゝか如き言動(例えは戦利品、俘虜等の名称の使用或は軍自ら交戦法規を其の儘[まま]適用せりと公称し其の他必要己むを得さるに諸外国の神経を刺戟するか如き言動)は努めて之を避け又現地に於ける外国人の生命、財産の保護、駐屯外国軍隊に対する応待等に関しては勉めて適法的に処理し特に其の財産等の保護に当たりては努めて外国人特に外交官憲等の申出を待て之れを行ふ等要らさる疑惑を招かさるの用意を必要とすへし
<五、六、省略>
追て右諸件堀内総領事にも伝へられ度外務省諒解済
[偕行社「南京戦史資料集?機?平成5年)P457-458よりかな表記にして引用、読みにくい語にはふりがなを[]内に記入]
------

要するに、
(1)これは事変(このときはまだ「北支事変」)で戦争ではないから「陸戦の法規慣例に関する条約」などの条文を全部は適用しない。
(2)「戦利品」「俘虜」のような語を使って、戦争を決心したかのように受け取られる言動は避けよ。
という内容です。
よく、南京戦について国際法が云々されますが、「陸戦の法規慣例に関する条約」などはそのまま適用しないと指示していたのです。
「俘虜」は取らない方針、つまり殺して戦闘での戦果に入れてしまう遠因になっていると思います。

事変だから「陸戦の法規慣例に関する条約」などをそのまま適用しない、そのまま適用すると「戦争」と受取られるという理論は納得は行きませんが、そういう内容です。

************************************************************
K-K - 01/07/09 23:52:09
電子メールアドレス:返信:柳さん


コメント:
 私は、中支那方面軍がどの程度、捕虜の殺害についての違法性を認識していたか非常に疑問を持っています。秦郁彦氏は、上海戦時の戦闘詳報に捕虜の処断が戦果として記載されていることを指摘していますが、戦闘詳報という公文書に違法な捕虜の殺害が記載されているということは、当時の日本軍の捕虜に対する認識を理解出来るのではないでしょうか?

 その上海戦の後の南京攻略戦では、第16師団長中島中将が「捕虜にしない方針」があったことを日記に記し、おそらく多くの捕虜を殺害したようです。114師団では捕虜の殺害を命じる文書記録が残っています。中支那方面軍の直轄部隊であった山田支隊は捕虜殺害の命令を受けて、1万4千人以上の捕虜を殺害しています。

 上海戦でも南京戦でも、日本軍は捕虜の殺害が違法であるとして明確に禁止をしたり、その旨の命令・通達を出してはいません。日本軍のその様な態度から考えると、捕虜の殺害が彼らにとって「名誉を毀損するが如き行為」であるとそれ程認識していなかったとも考えられます。

 私には、「南京城の攻略及び入城に関する注意事項」が捕虜殺害命令に明確に反するものであるとは思えません。

************************************************************
柳。 - 01/07/08 21:42:58
電子メールアドレス:矛盾する命令が出ていた事になります。


コメント:
たしかに、現状でぼくがそれに反証する事はまだ不勉強
なのでできない「殺害命令」文書があったようですね。
まだ、不勉強なので、何ともいえなくなってきました。
(申し送れましたが、ぼくは素人の一介のアマチュア歴
史研究者の魚屋に過ぎません)少しづつ、勉強していき
ます。

しかし、逆にこういった資料があるので、提示させてい
ただきます。
■12月13日歩兵第六旅団「右翼隊命令」
<1、城内の残敵を掃蕩す。
 2、掃蕩に際しては入城に関する注意事項を厳守す。
   但し、敵の抵抗する地帯は此の限りに非ず。>
■「南京城の攻略及び入城に関する注意事項」
<1、皇軍が外国の首都に入城するは、有史以来の盛事
にして(略)正々堂々将来の模範たるべき心組を以て、
各部隊の乱入、友軍の相撃、不法行為等、絶対に無から
しむるを要す。
2、部隊の軍紀風紀を厳粛にし、支那軍民をして皇軍の
威風に敬仰せしめ、いやしくも名誉を毀損するが如き行
為の絶無を期するを要す」(12月7日)

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K-K - 01/07/07 22:18:23
電子メールアドレス:返信:「投降兵の処置」


コメント:
>では、日本軍の投降兵の処置はどうであったかを考えて
>みます。
>ぼくは、日本軍は「投降兵は武装解除ののち、戦場から
>追放」が方針だった、と書きました。
>それにはいくつかの根拠があります。
>これは、1933年陸軍歩兵学校が刊行した『対支那軍戦闘法
>の研究』の中の『捕虜の処置』という項目です。
>「…必ずしもこれを後送監禁して、戦局を待つを要せず、
>特別の場合のほか、これを現地又は他の地方に移し、釈
>放して可なり」
>こえが根拠です。

 しかし、秦郁彦氏の指摘によれば、この処置の仕方は「軍閥戦争時代は、捕虜を寝返らせて手兵を増やす便法が習慣化していた」影響ではないか、とのことです。

 だだ、1933年の陸軍の教科書にそう書いてあったからと言って、南京事件の中支那方面軍の投降兵の処置がそうであったことにはなりません。ここで問題になっているのは、南京攻略戦における中支那方面軍が実際に行った投降兵・捕虜に関する処置の方法です。

 児島・沢田両証言、114師団、山田支隊(ここでは議論になっていませんが)にあるとおり、実際に捕虜殺害命令は出ており、中島日記には、捕虜殺害について書かれたと思われる記述が存在するのです。また、同じく秦氏の指摘に依れば、すでに上海戦の頃から捕虜処断の数を戦果として戦闘詳報に記している様ですので(秦「南京事件」P194)、捕虜殺害は当時の日本軍の暗黙の了解であったと考えられます。

 秦郁彦「南京事件」P196~199には、「日本軍の捕虜観念」として考察が記されているので読んでみてはいかがでしょうか?「捕虜処刑の習慣は日中戦争全期を通じて変わらなかったようだ」と結論付けていますが、私も同感です。

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K-K - 01/07/07 22:18:13
電子メールアドレス:返信:「16師団に関して」


コメント:
>しかし、どうしても「投降兵即時処刑」と読みとるのは納
>得できないのです。
>今一度、その疑問点を整理させていただきます。

 少し誤解があるようです。私は、「投降兵即時処刑」とは考えていません。捕虜として受け入れた後(武装解除、出来れば身体拘束などをした後)に殺害したと考えています。

 当然のことでしょうが、「方針」なのですから、その具体的実行手段については命令・指示・方針を受けた各部隊が考えて実行したと思われます。ですから、部隊によっては投降兵を即時殺害したところもあったかも知れません。しかし、別便で述べたとおり、それでは部隊の安全が損なわれます。

 もう少し詳しく説明するならば、「捕虜はせぬ方針」というのは軍の方針であり、「片端より之を片付くる」というのは中島中将の希望であると考えています。



>1)「投降兵即時処刑」が方針だとすると、それは16師団
>以外の師団にも下知されていた筈だが、公式記録において
>はそれがない。

 これは、既に渡辺さんが指摘しているように、114師団に同様の捕虜殺害の命令が出ています。


>2)「片端」とはいわゆる「カタッパシ」という意味なの
>でしょうから、とKーKさんが指摘したように、原文に忠
>実に解釈すれば、やはり「ゾロゾロついてくる」のは不自
>然。このことに関してぼくはまだ納得していません。

(1)中国兵が「ゾロゾロついてくる」理由は日本軍が投降を受け入れる考えた、という点では柳さんも同意見であると考えていいのでしょうか?

(2)この「千~1万」の投降兵(原文「千五千一万の群衆」)は、「ゾロゾロついてきた」時点で、投降兵が殺されている様を見たのでしょうか?

 この二点がはっきりすれば、問題は解決すると思います。つまり、中国兵は日本軍が投降を受け入れると考え、ゾロゾロ付いてきた。しかし、ゾロゾロ付いていき、日本軍に武装解除されたのちに殺害された。こういう状況であったと思います。

 そして、「カタッパシ」というのは中島中将の希望であり、それは、「千五千一万」という大人数であったことにより実行は不可能だったことは、日記に記された通りです。



>3)同じく「カタッパシ」であれば、「その場で直ちに処
>刑」する筈であり、中島師団長が部隊を「トラックにて増
>派して監視と誘導」にあたらせるのは不自然。「増派して
>片端より之を処刑」であれば通じるのだが、そうは書かれ
>ていない。

 すでに、上記に説明した通り、「千五千一万」という大人数で「カタッパシ」から殺害が出来る状況では無かったから、『部隊を「トラックにて増派して監視と誘導」にあたらせ』たのだと思います。その『「カタッパシ」から殺害が出来る状況では無かった』というのは、その様なことを行えば部隊の安全が損なわれる状況、つまり、大人数で武装解除出来ない状況です。

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K-K - 01/07/07 22:16:43
電子メールアドレス:返信:柳さんへ


コメント:
>武装解除もできず、がゆえにおっとり刀で駆け付けた部
>隊が武装解除を満足にできているとは思えません。

 それは違うと思います。「武装を解除することすら出来ず」に、「騒擾せば始末に困る」から「部隊をトラックにて増派して監視と誘導に任じ」たのですから、部隊の増派の目的が部隊の安全をはかることだと読みとれます。部隊の安全のために「増派」したのですから、武装解除が出来なかったら「増派」した意味がありません。



>別の記録で、小銃を捨てても拳銃や手榴弾を隠し持って
>いるものがあったという記録があったと記憶しています。

 これは、私も何か読んだ記憶がありますが、それが中島日記の記述の件と同じものであったかどうかは解りません。この点は、調べてみます。



>しかし、それだと16師団は日本軍として矛盾した行為を
>していたことになりますね。
>1933年の陸軍歩兵学校で示された対支戦術の研究、
>及び陸軍次官通達(調べておきます)では、適宜、解放
>して可なり、とあります。

 それは、この事でしょうか?
//// 秦郁彦「南京事件」P195 ////
 軍閥戦争時代は、捕虜を寝返らせて手兵を増やす便法が習慣化していた。その影響か、昭和8年1月に歩兵学校が作成した「対支那軍戦闘法の研究」と題する教科書には、「捕虜は他列国人に対する如く必ずしも之れを後送監禁して戦局を待つを要せず、特別の場合の外之を現地又は他の地方に移し釈放して可なり」と述べている。
///////////////////////////////////

 しかし、「捕虜にしない方針」=「殺害」は、16師団固有の問題ではなく、すでに渡辺さんが指摘しているように、114師団は明確に「捕虜は全部殺すべし」という命令を出しています。このことは、上海派遣軍(16師団)だけではなく、第10軍にも「捕虜にしない方針」=「殺害」が伝わっていたことが読みとれます。つまり、この「捕虜殺害命令」は、上海派遣軍・第10軍より上の組織から命令が下され、その結果、捕虜殺害を行った考えるのが妥当でしょう。

 また、沢田証言「軍司令部に報告したところ、”直ちに銃殺せよ”と言ってきた」とあるように、「師団司令部」ではなく「軍司令部」と表現していることから、この命令が「上海派遣軍」もしくは「中支那方面軍」から伝えてきた命令であると考えることができます。



>そんな事実はなかったと考えます。そういったものを摘
>発して、それら戦時国際法違反のものをまとめて移動さ
>せて処刑したことは当然にあるでしょうけれど。

 国際法違反であるかどうかを審判するのは軍律裁判です。軍律裁判によって審判していない「処刑」は違法行為です。

 また、「戦時国際法違反のものをまとめて移動させて処刑した」という話は聞いたことがありません。歩兵第33連隊の戦闘詳報には
/////////////////////////////
[俘虜] 将校14、准士官・下士官兵3、082、馬匹52
[備考]1、俘虜は処断す
    (略)
////////////////////////////    
となっており、将校を含めた3096名の捕虜を殺害していることが書かれています。この戦闘詳報には解放した捕虜については書かれておらず、おそらく、この3096名がこの連隊の総ての捕虜だと思われます。そして、この捕虜すべてが殺害されました。つまり、『そういったものを摘発して、それら戦時国際法違反のものをまとめて移動させて処刑した』のではなく、なんの区別をせずに捕虜を殺害したと思われます。



>しかし、膨大な捕虜を抱える余裕はなく、ましてそれが
>数千、数万であれば、その捕虜のために人員を裂かれる
>ことのほうがデメリットになるので、おかしいとは思え
>ません。また、先述資料にも、それで可としてあります。

 私が指摘している「安全」とは、「人員を割かれる」というようなものではなく、実質的な被害(自軍兵士の死傷)についてです。

 まず、捕虜にしない方針、つまり捕虜を殺害する方針がある。しかし、武装解除もせず(大人数で出来ない)に「投降してきたそばから撃つなり斬るなりした」のでは、すぐに中国兵に日本軍が投降を受け入れないことを察知され、反撃が行われ被害がでる。だから部隊を増派して武装解除を行った。武装解除を行い安全となったところで、捕虜を殺害する方針を実行する。

 「膨大な捕虜を抱える余裕」が無かったのは、部隊を増派する前です。捕虜を殺害する方針であると読むならば、その捕虜をいかに効率的に殺害するか、そして自軍に被害が無いようにするかという為に、人員を割くのは当然の事と思います。



>ただ、石川達三氏の著作に関して
>は、非常にきになっています(「従軍慰安婦」問題で敗訴
>した吉田清治のような例があるので、戦後、その件がクロ
>ーズアップされて以降の回想文は信用できないと思うので
>す)。

 『「従軍慰安婦」問題で敗訴した吉田清治』というのが、どういう裁判であったかよく知りませんが、吉田清治氏の問題になっている部分が捏造であるとは思っていませんし、この問題を現地で調べたという秦郁彦氏のレポートには多くの問題が含んでいると思っています。

 とりあえずその様な問題は置いておくとして、石川達三の著作を「非常に気に」しているようですが、児島証言・沢田証言・中島日記記述という石川達三の記述を裏付けるものがある中、なぜ、この様に裏付けのある一記述を「回想文」であるとして疑問を投げかけるのか理解できません。

 この記述自体の意味が理解できません。

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柳。 - 01/07/07 13:29:58
電子メールアドレス:投降兵の処置


コメント:
では、日本軍の投降兵の処置はどうであったかを考えて
みます。
ぼくは、日本軍は「投降兵は武装解除ののち、戦場から
追放」が方針だった、と書きました。
それにはいくつかの根拠があります。
これは、1933年陸軍歩兵学校が刊行した『対支那軍戦闘法
の研究』の中の『捕虜の処置』という項目です。
「…必ずしもこれを後送監禁して、戦局を待つを要せず、
特別の場合のほか、これを現地又は他の地方に移し、釈
放して可なり」
こえが根拠です。

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yanagi - 01/07/07 13:18:22


コメント:


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柳@昼休み - 01/07/07 13:17:49
電子メールアドレス:16師団に関して。


コメント:
しかし、どうしても「投降兵即時処刑」と読みとるのは納
得できないのです。
今一度、その疑問点を整理させていただきます。
1)「投降兵即時処刑」が方針だとすると、それは16師団
以外の師団にも下知されていた筈だが、公式記録において
はそれがない。
2)「片端」とはいわゆる「カタッパシ」という意味なの
でしょうから、とKーKさんが指摘したように、原文に忠
実に解釈すれば、やはり「ゾロゾロついてくる」のは不自
然。このことに関してぼくはまだ納得していません。
3)同じく「カタッパシ」であれば、「その場で直ちに処
刑」する筈であり、中島師団長が部隊を「トラックにて増
派して監視と誘導」にあたらせるのは不自然。「増派して
片端より之を処刑」であれば通じるのだが、そうは書かれ
ていない。
やはり、中島師団長の陣中日誌を「虐殺」の証拠とするこ
とは出来ないと思います。

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柳。 - 01/07/06 20:44:51
電子メールアドレス:すみません、会社から。


コメント:
本日、帰宅してからよく手元の資料と検討した上で再度書きこみさせていただく考えでしたが、仕事の都合で叶わず、会社より(爆!)簡単なレスをさせていただきます。
うろ覚え頼りですので、間違っていたらご指摘下さい。

>トラックを増派した時点で、武装解除を行っていると
>見るべきでしょう。とすれば、武器を隠し持つことは
>不可能です
武装解除もできず、がゆえにおっとり刀で駆け付けた部
隊が武装解除を満足にできているとは思えません。
別の記録で、小銃を捨てても拳銃や手榴弾を隠し持って
いるものがあったという記録があったと記憶しています。

>16師団司令部の方針が「捕虜の殺害」であったこと
>は明白だと思います。
しかし、それだと16師団は日本軍として矛盾した行為を
していたことになりますね。
1933年の陸軍歩兵学校で示された対支戦術の研究、
及び陸軍次官通達(調べておきます)では、適宜、解放
して可なり、とあります。

>1人便衣を着ている者がいたからといって、その集団
>を総て殺害する理由とはなりません。
そんな事実はなかったと考えます。そういったものを摘
発して、それら戦時国際法違反のものをまとめて移動さ
せて処刑したことは当然にあるでしょうけれど。

>それでは、部隊の安全が損なわれます
しかし、膨大な捕虜を抱える余裕はなく、ましてそれが
数千、数万であれば、その捕虜のために人員を裂かれる
ことのほうがデメリットになるので、おかしいとは思え
ません。また、先述資料にも、それで可としてあります。

すいません、舌足らずでして。
よく、勉強してきます。ただ、石川達三氏の著作に関して
は、非常にきになっています(「従軍慰安婦」問題で敗訴
した吉田清治のような例があるので、戦後、その件がクロ
ーズアップされて以降の回想文は信用できないと思うので
す)。
どうも資料毎に違う事が書かれていたりするので、あた
まの中を整理するのがたいへんです(′人`;;)

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渡辺 - 01/07/06 01:04:17
電子メールアドレス:参考資料


コメント:
資料というのは、他の資料とも突き合わせて内容や当否を判断すべきです。
参考として、十六師団などについて他の軍人は何と言っているかご紹介いたします。

谷寿夫の南京軍事法廷での申弁書(1948年1月15日)
----
又南京に於て中島部隊と共に南京大屠殺を発動せりと論せられあるも、被告の聞知する所にては南京大屠殺は、中島部隊の属せる南京攻略軍の主力方面の出来事にして、其被害者者に対しては真に気の毒なるも、柳川軍方面の関係なき事項にして、即ち被告の部隊に関係なき事項なり。
[「南京作戦の真相 熊本第六師団戦記」(東京情報社,昭和40年)P226 よりかな表記にして引用]
[註]中島部隊=中島今朝吾の第十六師団
----

岡村寧次
----
岡村寧次の日記抄
(1947年)三月十日
....
中国側も谷寿夫の第六師団よりも中島今朝吾第十六師団の方が遥かに罪状が重いことを知っていて、わが連絡班に対しても、中島師団長、同各団隊長《これらの氏名は先方は既に調査済であった》の所在、場所を調査して報告せよと命じてきたこともあったが、中島は既に死亡、その他団隊長等の所在は当地当班では調査不可能と答えておいたことがある。
 罪の深い第十六師団関係者は罰せられず、ほとんど罪のない方を代表して谷中将のみ極刑に処せられる。感無量。
[「岡村寧次大将資料(上)](原書房,昭和45年)P150]
[註]なお、第六師団も「掠奪強姦などの非行を軽視する」と新任の稲葉師団長から第六師団司令部で聞いたと記している。[P291]

回想「武漢攻略前後」
....
それなのにこのたび東京で、南京攻略戦では大暴行が行われたとの噂を聞き、それら前科のある部隊を率いて武漢攻略に任ずるのであるから大に軍、風紀の維持に努力しなければいけないと覚悟し、差し当り「討蒋愛民」の訓示標語を掲げることにした、それはわれらの目的は蒋介石の軍を倒滅することであって無辜の人民には仁愛を以て接すべしというに在った。
 上海に上陸して、一、二日の間に、このことに関して先遣の宮崎周一参謀、中支派遣軍特務部長原田少将、杭州特務機関長萩原中佐等から聴取したところを総合すれば次のとおりであった。
 一 南京攻略時、数万の市民に対する掠奪強姦等の大暴行があったことは事実である。
 一 第一線部隊は給養困難を名として俘虜を殺してしまう弊がある。
   註 後には、荷物運搬のために俘虜を同行せしめる弊も生じた。
 一 上海には相当多数の俘虜を収容しているがその待遇は不良である。
 一 最近捕虜となったある敵将校は、われらは日本軍に捕らえられれば殺され、退却すれば督戦者に殺されるから、ただ頑強に抵抗するだけであると云ったという。
[「岡村寧次大将資料(上)](原書房,昭和45年)P290-291]
----

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K-K - 01/07/04 23:42:25
電子メールアドレス:横レス:柳さんへ


コメント:
>■「片付くる」
>この言葉を、即ち投降兵の処刑か追放か、で考えるから不条理が生じ
>るのであって、片端より「投降兵に関する事案を処理する」という意
>で捉えれば、不自然ではないと思われますが。

 すでに、沢田証言・児島証言・石川達三の記述を示したとおり、捕虜の殺害が方針であったと思われます。

 「事案を処理」するのだったら、「片端より」と表現するのも変でしょう。「片端」とはいわゆる「カタッパシ」という意味なのでしょうから、自然な表現としても「殺害」を意味していたと思われます。


>そんなイメージで判断していたのでは、プロパガンダに容易
>に扇動されるだけだと思います。

 日本軍の間での噂なのですから、プロパガンダというのは変だと思います。


>責任者のはっきりしない情報は、ソースとして扱うべきで
>はないと判断します。

 そうでしょうか?例えば、柳さんが「合法」的殺害と判断した以下の文章中の情報について、その情報はどの様に判断しているのでしょうか?

小原孝太郎日記
「彼等の中には支那服を軍服の上に着てカムフラージュしてゐるのもあると。そこで一応しらべて、銃殺なり使役に使ふなり解放するなりするわけである。後ろの山には、銃殺された捕虜の屍体が山のやうになってゐるさうだ。 」

 この記述はどれも、伝聞であることは明白です。誰から訊いた話なのかは出てきません。しかし、やはり考慮すべき資料であると私は思います。


>そもそも、資料原文をどのように解釈するか、は大切な争点ではな
>いでしょうか。それを否定しないでいただきたいと思います。

 渡辺さんが「資料原文の解釈を否定した」とは思えません。渡辺さんは、「噂が立ったこと自体がその存在の証明である」と主張し、柳さんは噂だから「ソースとして扱うべきではない」と主張しているのだと思います。私はどちらも、資料批判として成立していると思えます。


>しばらく、でかけてきますので、次にこれるのは金曜の深
>夜か土曜になると思います。
>よろしくお願いします。

 ごゆっくりしてください。特にあわてる問題ではありません。

************************************************************
K-K - 01/07/04 23:38:07
電子メールアドレス:返信:柳さん 7/4


コメント:
>まず、最初にお願いしたいのですが、鹿児島の某掲示板では、どう
>も論点が散逸してしまうので、ここに場所を移したいのですが、よ
>ろしいでしょうか。

 問題ありません。


>ぼくとしても、単身、乗り込んでゆくようなものですから(笑)相当
>の覚悟がいるわけですが。

 お気になさらずに。この掲示板を見ている人は、非常に少ないので(笑)。


>ところで、何ゆえか掲示板本体の記入フォームが機能しないのです
>が(前の記事を参照しつつ書くと言うことができないので非常に不
>便です) 、私の側の問題でしょうか。
>動作確認をお願いします。

 早急に改善します。


>しかし、それでは「片端より之を片付くる」という前文
>と矛盾しませんか?
>処刑ではなかったとしたら、矛盾しませんが。
>なぜなら、最初の数百人の時点で、銃撃音や悲鳴が響き
>渡る筈で、それでもなお、「捕虜にされるものだと思っ
>てゾロゾロついて」くるわけがないでしょう。

 中島日記の記述は「片端より之を片付くることとなしたるも」です。つまり、「片端より捕虜を片付けたい」という、希望を記しています。しかし、この希望は「千五千一万の群衆となれば之が武装を解除することすら出来」ないことにより、果たせませんでした。だから、「部隊をトラックにて増派して監視と誘導」をしたようです。この「監視と誘導」には武装解除が含まれていると思われます。

 つまり、中国兵が殺害されると気付いたときには、すでに武装解除が行われており、逃げ出すことも出来ない状況になっていたと考えられます。その後に殺害されることになったのでしょう。

 しかし考えてみると、この「百二百二分割したる後適当のカ処に誘きて処理」というのは、あくまでも「予定」なので実際にどの様に「処理」されたのかは解りません。もしかすると、別の方法である可能性もあるでしょう。


>当然、そうですが、だからこそ不当な大量処刑が行われ
>ていなかった、と考えるのが自然ではないでしょうか。

 「ゾロゾロついて来る」のは「誘くる」前であり、殺害を行う前です。「ゾロゾロついて来る」ことが、「不当な大量処刑が行われていなかった」根拠とはなりません。


>これは、私の推論で、根拠はないものなのですが、「防
>空壕」や「退避壕」という言葉もあるので、細長いもの
>と断定はできないと思います。

 常識的に考えて、戦場で「壕」といえば塹壕を指すものと思われます。しかも、総勢7~8千人の人数を収容できるほど戦場に防空壕・退避壕が存在したとは思えません。


>「誘導」といった言葉もあるので、膨大な投降兵に通訳
>不足した日本軍がなんとか誘導する、という意味ではな
>いでしょうか。

 これは、中島中将の表現です。中島中将が、「誘きて」つまり「誘い出して」と表現しているのです。「誘導」とは意味が違います。

 また、中島中将は、別の箇所で「誘導」という言葉を使っているので、「誘きて」と「誘導」を使い分けているようです。


>しかし、支那軍の投降兵の中には、小銃などを捨てたも
>のの、手榴弾などを隠し持っていたり、こちらが少数と
>みるや多数を頼んで暴動を起こすものなどが多く、多人
>数を一箇所に収容しておくのは危険です。
>むしろ、一箇所に集めていなかった事の方が自然に思わ
>れます。

 トラックを増派した時点で、武装解除を行っていると見るべきでしょう。とすれば、武器を隠し持つことは不可能です。また、分割したところで、少数(日本軍)対多数(中国兵士)の構図が変わるわけではありません。すでに戦意を失い、武装解除もされた時点で、仮に収容するのに100~200という様な小分けにすることは不自然です。


>■「捕虜」に関する件
>>まず、「捕虜」とは戦意を失しなった者のことです。
~略~
>私服ゲリラ(便衣兵)が投降しても、それは「出頭した
>犯罪者」に過ぎません。

 渡辺さんの指摘は投降兵に関するものであり、便衣兵の問題ではありません。


>■「片付くる」の意味
>>収容を「片端よりこれを片づくる」と言いますかね?) そうはいわ
>>ないでしょう。
>日本軍の方針は「適宜、武装を解除したのち、戦場から
>追放する」という方針だったと思われます。

 16師団司令部の方針が「捕虜の殺害」であったことは明白だと思います。

●第16師団 佐々木支隊所属 独立攻城重砲兵
第2大隊 第1中隊 観測班長 砲兵中尉
沢田正久氏 証言
『やがて友軍増援部隊が到達し、敵は力尽き、白旗を揚げて正午頃投降してきました。その行動は極めて整然としたもので、既に戦意は全くなく、取りあえず道路の下の田圃に集結させて、武装解除しました。多くの敵兵は胸に「首都防衛決死隊」の布片を縫いつけていました。俘虜の数は約一万(戦場のことですから、正確に数えておりませんが、約八千以上おったと記憶します)でしたが、早速、軍司令部に報告したところ、”直ちに銃殺せよ”と言ってきたので拒否しましたら、”では中山門まで連れて来い”と命令されました。”それも不可能”と断ったら、やっと、”歩兵四こ中隊を増援するから、一緒に中山門まで来い”と言うことになり、私も中山門近くまで同行しました。』


●第16師団 歩兵第30旅団 歩兵第38連隊 副官
児玉義雄氏 証言
『 連隊の第一線が、南京城一、二キロ近くまで近接して、彼我入り乱れて混戦していた頃、師団副官の声で、師団命令として「支那兵の降伏を受け入れるな。処置せよ」と電話で伝えられた。私はこれはとんでもないことだと、大きなショックを受けた。
 師団長・中島今朝吾将軍は豪快な将軍で好ましい御人柄と思っておりますが、この命令だけは何としても納得できないと思っております。参謀長以下参謀にも幾度か意見具申しましたが、採用するところとならず、その責任は私にもあると存じます。
 部隊としては実に驚き、困却しましたが、命令やむを得ず、各大隊に下達しましたが、各大隊からは、その後何ひとつ報告はありませんでした。激戦の最中ですからご想像いただけるでしょう。』

 「16師団」・「軍司令部」と、軍上層部が捕虜殺害の命令を出していることが、証言として存在しています。また、石川達三の文章にあるとおり、捕虜殺害の方針の存在したと思われます。

石川達三「生きている兵隊」
『「捕虜は捕らえたらその場で殺せ」それは命令というわけではなかったが、大体そういう方針が上部から示された。 』



>中島師団長日記
>「だいたい捕虜はせぬ方針なれば、片端よりこれを片づく
~略~
>逆に「片づくる」を「武装解除の後、追放」と解釈すると
>文章に不自然がありません。

 それでは、部隊の安全が損なわれます。上記の証言にあるように、末端部隊としては投降してきた兵士を捕虜として受け入れるのは当然のことであり、捕虜として受け入れるからには武装解除をすることは当然です。その後に、捕虜の処置を軍上層部に訊き、その結果、「捕虜にしない方針」である「捕虜の殺害」を命じられたものと思います。


>>彼等の中には支那服を軍服の上に着てカムフラージュ
>>してゐるのもあると。
>この個所は、支那軍がハーグ陸戦規定「交戦者の資格」に
>反して軍事行動をとっていたことを意味しませんか?

 もちろん、そうともとれるとは思います。この行為が「交戦者資格」に反して処刑されたのでしたら、それはやむ得ないものもあるでしょう。

 しかし、それには手続きが必要です。軍律裁判を開いた後に処刑するというのが当時の国際慣行です。日本軍はその様なことを行っていません。

 また、これは個別に判断すべきことです。つまり、「支那服を軍服の上に着てカムフラージュ してゐる」者を個別に裁判をして、処刑すべきことなのです。1人便衣を着ている者がいたからといって、その集団を総て殺害する理由とはなりません。


>>そこで一応しらべて、銃殺なり使役に使ふなり解放する
>>なりするわけである。後ろの山には、銃殺された捕虜の
>>屍体が山のやうになってゐるさうだ。
>「銃殺」されたのは「しらべて」戦時国際法違反であるこ
>とが判明したものについてでしょう。これは合法。

 「銃殺」したのが、『「しらべて」戦時国際法違反であることが判明したもの』であるのかどうかは判りません。何を基準に殺害し、使役とし、解放したのかは判りません。


>「解放」という語は上段で言う「武装解除ののち追放」が
>方針であったという主張の傍証になるでしょう。

 この資料では、「殺害」・「使役として利用(拘引)」・「解放」と3通りのケースに分かれています。「武装解除ののち追放」とは意味が違います。


>そのたの記事は伝聞や風聞なので、事実の証拠と即断
>はできません十五日には南京城外の捕虜の監視する。第六中隊と共に
>七千名の支那兵、..

 それは違うと思います。
 何よりも、件の「小原孝太郎日記」の以下の部分が伝聞・風聞であることは明白です。

小原日記
『話によると、約七〇〇〇人の捕虜があったさうだ。彼等は白旗を掲げて降参したのを武装解除させたものである。
中には勿論戦闘中に捕虜になったものもあり、色々だ。
彼等の中には支那服を軍服の上に着てカムフラージュしてゐるのもあると。そこで一応しらべて、銃殺なり使役に使ふなり解放するなりするわけである。後ろの山には、銃殺された捕虜の屍体が山のやうになってゐるさうだ。』

************************************************************
柳@昼休み - 01/07/04 13:05:30
電子メールアドレス:「片付くる」


コメント:
>渡辺さん
■「片付くる」
この言葉を、即ち投降兵の処刑か追放か、で考えるから不条理が生じるのであって、片端より「投降兵に関する事案を処理する」という意で捉えれば、不自然ではないと思われますが。

■うわさ
>書かれたままではないかもしれないが、うわさの元にな
>る事実があったのでしょ。
そんなイメージで判断していたのでは、プロパガンダに容易
に扇動されるだけだと思います。
責任者のはっきりしない情報は、ソースとして扱うべきで
はないと判断します。

そもそも、資料原文をどのように解釈するか、は大切な争点ではないでしょうか。それを否定しないでいただきたいと思います。

しばらく、でかけてきますので、次にこれるのは金曜の深
夜か土曜になると思います。
よろしくお願いします。

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渡辺 - 01/07/04 04:39:32
電子メールアドレス:捕虜


コメント:
柳。さん:>
>日本軍の方針は「適宜、武装を解除したのち、戦場から
追放する」という方針だったと思われます。

戦場から追放するって、上海から南京まですべて戦場だったんですよ。何万人も「追放」したら兵士の日記に記録が残るはずですが、発掘された日記には、多かれ少なかれ、殺したという記事がほとんどで、追放したなんて見たことがありません。

「片端よりこれを片づくる」を捕虜開放の意味に使いますか?言葉を置き換えても意味が通るという問題ではないと思いますが。
だいたい、捕虜開放になぜそんな遠回しな言い方をしなければいけないのですか?そのまま言えないことだから、遠回しに言っているのでしょ。
また、昭和13年になぜ、捕虜は殺す「方針」だったと石川達三は書いたのでしょうか?そういう事実があったからでしょ?

>まず、「捕虜」とは戦意を失しなった者のことです。

これは、なぜ捕虜が従順であっかを説明したもので、捕虜の定義は話題にはなっていませんでしたよ。

捕虜がどのように集められ、処刑されたかという実例は、小野賢二「南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち」(大月書店)に収集された兵士の日記や偕行社「南京戦史資料集」に掲載の日記などにあります。
多くの場合は、処刑されるとは知らないので従って行ったのです。また、その事実を知って嘆願して泣き叫んだというものもあります。
想像だけで、恣意的にこうとも言える、こういう意味にもとれるとやっていれば、こういう言葉で置き換えたら意味が変わると部分的にはいくらでも解釈ができます。
しかし、他の資料でも、捕虜を開放した事例はほとんどありません。
また、いなかに防空壕はありませんし、なぜ防空壕に捕虜を収容しなければいけないのでしょうか?

戦闘詳報には捕虜殺害の事実がちゃんと書かれていますよ。例えば、偕行社「南京戦史資料集」にある33連隊の戦闘詳報では12月13日に捕虜約3000人を殺害したと明記しています。

「交戦資格」というのは「民兵と義勇兵」に対する条文です。第1条をごらんください。制服は義務ではありません。これは、ゲリラを交戦者から除外するための条項で、正規兵の服装のことではありません。現に交戦していないのですから、「特殊徽章」も問題にはなりません。
また、なんらかの制裁を加える場合は軍律裁判を開く必要がありますので、その場で殺害することはできません。
なお、当時、南京やその付近で軍律裁判をした事実はありません。それから「交戦資格」がないことは犯罪ではありませんよ。

>そのたの記事は伝聞や風聞なので、...

さかなのエサの件は断定です。また、なぜそんなうわさがたったのでしょうか?それは、そういう事実があったからです。書かれたままではないかもしれないが、うわさの元になる事実があったのでしょ。実際、下関で捕虜が殺害されていたことは複数の証言があります。

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柳。 - 01/07/04 00:10:16
電子メールアドレス:一理ありますね。皆様へのレスです。


コメント:
まず、最初にお願いしたいのですが、鹿児島の某掲示板では、どうも論点が散逸してしまうので、ここに場所を移したいのですが、よろしいでしょうか。
ぼくとしても、単身、乗り込んでゆくようなものですから(笑)相当の覚悟がいるわけですが。
ところで、何ゆえか掲示板本体の記入フォームが機能しないのですが(前の記事を参照しつつ書くと言うことができないので非常に不便です) 、私の側の問題でしょうか。
動作確認をお願いします。

■戦意を失ってぞろぞろついてくることに関する疑問について
『一、此七八千人、之を片付くるには相当大なる壕を要し中々見当らず一案としては百二百二分割したる後適当のカ処に誘きて処理する予定なり』
これを、処刑と捉えた場合ですが、やはり疑問が残ります。
>中国兵側から考えれば、すでに戦意を失っており投降
>したつもりになっていたのでしょう。だから、無駄な
>抵抗をせず、「ぞろぞろ」ついて来たのだと考えられ
>ます。
しかし、それでは「片端より之を片付くる」という前文
と矛盾しませんか?
処刑ではなかったとしたら、矛盾しませんが。
なぜなら、最初の数百人の時点で、銃撃音や悲鳴が響き
渡る筈で、それでもなお、「捕虜にされるものだと思っ
てゾロゾロついて」くるわけがないでしょう。

>中国兵は捕虜にされるものだと思って「ゾロゾロつい
>て来」たのであり、処刑(殺害)されるとは考えいな
>かったのだと思います。
当然、そうですが、だからこそ不当な大量処刑が行われ
ていなかった、と考えるのが自然ではないでしょうか。

■「壕」に関する渡辺氏の指摘に関して
これは、私の推論で、根拠はないものなのですが、「防
空壕」や「退避壕」という言葉もあるので、細長いもの
と断定はできないと思います。

■投降兵の収容に関する件
>「収容」するのに誘い出す(「誘きて」)必要はある
>のでしょうか?
「誘導」といった言葉もあるので、膨大な投降兵に通訳
不足した日本軍がなんとか誘導する、という意味ではな
いでしょうか。

>また、7~8千の兵士を、100~200に分割して
>収容するというのは、余りにも手間がかかりすぎると
>思います。
しかし、支那軍の投降兵の中には、小銃などを捨てたも
のの、手榴弾などを隠し持っていたり、こちらが少数と
みるや多数を頼んで暴動を起こすものなどが多く、多人
数を一箇所に収容しておくのは危険です。
むしろ、一箇所に集めていなかった事の方が自然に思わ
れます。

■「捕虜」に関する件
>まず、「捕虜」とは戦意を失しなった者のことです。
それだけでは戦時国際法に基づく「捕虜」にはなり得ま
せん(主にハーグ陸戦規定)。
「交戦者の資格」を満たした者が、はじめて、投降して
「捕虜」としての扱いを要求できるのです。
私服ゲリラ(便衣兵)が投降しても、それは「出頭した
犯罪者」に過ぎません。

■「片付くる」の意味
>収容を「片端よりこれを片づくる」と言いますかね?) そうはいわないでしょう。
日本軍の方針は「適宜、武装を解除したのち、戦場から
追放する」という方針だったと思われます。

中島師団長日記
「だいたい捕虜はせぬ方針なれば、片端よりこれを片づく
ることとなしたる(れ)ども、千、五千、一万の群衆とな
ればこれが武装を解除することすらできず、...」
ですが、「片端よりこれを片づくる」が「片端よりこれを
処刑する」と解釈すると、なぜいちいち「武装を解除」し
たのでしょうか。投降してきたそばから撃つなり斬るなり
した筈です。
逆に「片づくる」を「武装解除の後、追放」と解釈すると
文章に不自然がありません。

■第一一四師団 歩兵第一二七旅団 六六連隊 12月13日
戦闘詳報
これに関しては、はじめてみました。
これだけ読むと、どうもわからなくなります。

>「笠原「南京事件」(岩波新書)は是非ご一読くださ
>い。
ありがとうございます。

■(2)にあげられた資料について。
>彼等の中には支那服を軍服の上に着てカムフラージュ
>してゐるのもあると。
この個所は、支那軍がハーグ陸戦規定「交戦者の資格」に
反して軍事行動をとっていたことを意味しませんか?

>そこで一応しらべて、銃殺なり使役に使ふなり解放する
>なりするわけである。後ろの山には、銃殺された捕虜の
>屍体が山のやうになってゐるさうだ。
「銃殺」されたのは「しらべて」戦時国際法違反であるこ
とが判明したものについてでしょう。これは合法。
「解放」という語は上段で言う「武装解除ののち追放」が
方針であったという主張の傍証になるでしょう。

そのたの記事は伝聞や風聞なので、事実の証拠と即断
はできません十五日には南京城外の捕虜の監視する。第六中隊と共に七千名の支那兵、..

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K-K - 01/07/03 00:15:24
電子メールアドレス:返信:柳さん


コメント:
 K-Kです。
 こんにちは、柳さん。

>第一、処刑するのであれば「戦意を失ってぞろぞろ」とついてくる筈
>ないと思いますが? ふつう、逃げるでしょう。

 これは、以下の文と密接な関係があると思われます。

中島日記
『一、此七八千人、之を片付くるには相当大なる壕を要し中々見当らず一案としては百二百二分割したる後適当のカ処に誘きて処理する予定なり』

 中国兵側から考えれば、すでに戦意を失っており投降したつもりになっていたのでしょう。だから、無駄な抵抗をせず、「ぞろぞろ」ついて来たのだと考えられます。

 そのことは日本軍側も十分理解していたことは、「適当のカ処に誘きて」という文で判断できます。日本軍は、中国兵を捕虜にすると見せかけて誘い出したものだといえるでしょう。

 中国兵は捕虜にされるものだと思って「ゾロゾロついて来」たのであり、処刑(殺害)されるとは考えいなかったのだと思います。


>壕、は彼らを収容するためのものだったのでは?
>と思います。

 「収容」するのに誘い出す(「誘きて」)必要はあるのでしょうか?「収容」するのでしたら通常に引率すればいいでしょう。戦意を失い、抵抗を止めている集団なのですから、誘い出す必要は無いと思います。

 また、7~8千の兵士を、100~200に分割して収容するというのは、余りにも手間がかかりすぎると思います。最小35、最大80の集団が出来るわけですが、その1つ1つの集団に対して警備を行わなければならなくなり、非効率に思われます。

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渡辺 - 01/07/02 23:57:41
電子メールアドレス:追伸:「壕」


コメント:
柳。さん 01/07/02 19:20:33:>
>「片付ける」の意味も即処刑とはいいがたいですね。
第一、処刑するのであれば「戦意を失ってぞろぞろ」とついてくる筈ないと思いますが? ふつう、逃げるでしょう。
壕、は彼らを収容するためのものだったのでは?
と思います。


まず、「捕虜」とは戦意を失しなった者のことです。
「壕、は彼らを収容するためのものだったのでは? 」とのことですが、「壕」は具体的に何んだと思われてこのようにおっしゃっているのでしょうか?
壕は戦闘中に身を隠すためのもので、通常は長細く直線的ではありません。こんなところに捕虜をどうやって収容するんでしょうか?捕虜は柵で囲うか、適当な建物に収容するのが普通です。
「七、八千人」の死体を入れるには「相当大なる壕を要」する(生きたままなら、壕の長さは何キロにもなります。)のでできない。
だから「百、二百に分割したる後、適当のヶ処に導きて処理する予定なり」ということになったのです。「適当のヶ処」は文脈から「壕」のことではありませんよ。

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渡辺 - 01/07/02 20:01:43
電子メールアドレス:「片づくる」の件再び


コメント:
柳さん:> 01/07/02 19:20:33
>さて、中島16師団長の日記を虐殺の根拠としてあげていらっしゃるようですが、「大体捕虜はせぬ方針」が即ち全員処刑だったというのは短絡的ではないでしょうか。
「片付ける」の意味も即処刑とはいいがたいですね。

こんにちわ、何度も同じような内容の質問がありますので、以前こちらに投稿したものを2つを再度掲載します。(捕虜収容を「片端よりこれを片づくる」と言いますかね?)

----(1)-------
「捕虜はとらぬ」方針とは、「捕虜は殺す」という意味であることは明白です。

第一六師団 中島今朝吾日記 12月13日
---------------------------
だいたい捕虜はせぬ方針なれば、片端よりこれを片づくることとなしたる(れ)ども、千、五千、一万の群衆となればこれが武装を解除することすらできず、...<一部省略>
その仙鶴門付近に集結したるもの約七、八千人あり、なお続々投降しきたる。
この七、八千人、これを片づくるには相当大なる壕を要し、なかなか見当たらず、一案としては百、二百に分割したる後、適当のヶ処に導きて処理する予定なり。
--------------------------

第一一四師団 歩兵第一二七旅団 六六連隊 12月13日戦闘詳報
--------------------------
[一三日午後二時]連隊長より左の命令を受く。
旅団(歩兵第一二七旅団)命令により捕虜は全部殺すべし。その方法は十数名を捕縛し逐次銃殺してはいかん。
--------------------------
[以上、偕行社「南京戦史資料集」に掲載されていますが、ここでは笠原「南京事件」(岩波新書)P154-155 と P156 から再引用しました。]

石川達三「生きている兵隊」より中島今朝吾日記の内容を支持する個所
--------------------------
(句容付近の追撃戦での中島師団[本文中では中島師団は高島部隊とされている]についての記述。)(今回追記:なお「生きている兵隊」は十六師団三十三連隊に取材したものです。)

「捕虜は捕らえたらその場で殺せ」それは命令というわけではなかったが、大体そういう方針が上部から示された。
[石川達三「生きている兵隊」中公文庫,1999年 P115](「生きている兵隊」は昭和13年中央公論3月号で発表されましたが、ただちに発禁になりました。)
--------------------------

「方針」はどこからきたのだろうか?一六師団長 中島今朝吾の「上部」は皇族の朝香中将、その上は松井岩根大将、その上は天皇しかいない。
具体的な方針は中島今朝吾が出したと思われますが、第十軍でも同様な命令が出されていたので、上海派遣軍だけの「方針」ではなかったようです。中島今朝吾日記の記述からはさらに上部の方針とみられるので、中支那方面軍の総責任者 松井岩根大将がこの方針を了解していたと考えざるをえません。

笠原「南京事件」(岩波新書)は是非ご一読ください。
----(1)終わり----
-----(2)--------
江口圭一・芝原拓自編「日中戦争従軍日記」(法律文化者)=小原孝太郎の氏の日記
----------------
十二月十五日 (丹陽を少し南京方向に行ったあたりの村での記述)

そこに驚くべき光景にぶつかった。竹矢来で囲まれた広場の中に、無慮二、〇〇〇人の捕虜が我が軍の警戒裡にうよ[うよ]してゐるのだ。これには驚いた。後で分ったのであるが、これは南京総攻撃に於てこれだけの捕虜があったのだと。話によると、約七〇〇〇人の捕虜があったさうだ。彼等は白旗を掲げて降参したのを武装解除させたものである。
中には勿論戦闘中に捕虜になったものもあり、色々だ。
彼等の中には支那服を軍服の上に着てカムフラージュしてゐるのもあると。そこで一応しらべて、銃殺なり使役に使ふなり解放するなりするわけである。後ろの山には、銃殺された捕虜の屍体が山のやうになってゐるさうだ。

十二月十七日 (白水橋?あたりで記述

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