東北大学SF研読書会
「For a breath tarry」
作者 瀬名 秀明 (せな ひであき 1968年1月17日―)
静岡県静岡市生まれ、仙台在住。SF作家ホラー作家として活躍。また小説以外にもノンフィクション記事、文芸評論などをこなす。東北大薬学部を卒業。東北大学院在学中にデビュー作「パラサイト・イヴ」で第二回日本ホラー小説大賞受賞を受賞した。メディアミックスされ映画やゲームなども制作されブームを築いた。1998年「BRAINS VALLEY」で日本SF大賞受賞。2006年には東北大学工学部研究科機械系の特認教授(SF機械工学企画担当)に就任しているが、2009年3月一杯で退任している。ついでにSF機械工学企画担当とは「大学の先端研究の現場を見て、夢あふれるSF小説を生み出す」ことが任務らしい。
2.本作について
登場人物
悠樹
本作の主役。物理学専攻の知能ロボット研究者。人間はロボットだが信条。近頃は、生命科学に興味がある。
琉美
悠樹の恋人。同じ大学の工学部出身で介護福祉に関する要素技術を研究している。有望な研究家であったようだが、ある事件をきっかけに消失してしまった。
望月 海
海外で個展を開く程度のアーティスト。科学研究とアートに取り入れるなど現代的なものから伝統的な油絵までこなす。悠樹と琉美とは飲みにいき科学的な論争をするのが好き。
あらすじ
悠樹と琉美は百貨店で催される海の個展を見に行く。入り口の先には2枚の絵があり、道が左右にわかれていた。左には植物の中央に人の顔がついた絵、右には機械を模ったような抽象画が飾られている。さあ、どちらから進もうか。二人は進みたい方向を指しあうことにする。せーのの声と共に、交差した腕がそれぞれの別の絵を指し示す。悠樹は右に、琉美は左に分かれ進んでゆく。
悠樹がしばらく先へ進むと海と出会った。彼女の話によると左回りのテーマは「人はほとんどロボットである」。この言葉は、以前3人で飲みに行ったとき悠樹が発言したものであった。人間はどれほど知性な存在かを議論した末酔った勢いで口にしたものだ。次に悠樹は右回りのテーマを訊こうとするのだが突然その背後で爆発が起る。凄まじい爆風と共にギャラリーがことごとく破壊された。気がついた悠樹は琉美と海をさがそうとする。どうやら海は無事らしいとこは分かったが琉美が、見つからない。それこそ存在そのものが喪失してしまったかのように。まだ見ぬ右回りの世界ともに消えてしまった。
爆発事件から12年後、事件の犯人は未だ捕まらない。悠樹は、あのテロは未来から来た何者かが何らかの可能性を摘みとるために流美を消したのだと考える様になっていた。人類が進化する転機をなきものにするために有望な研究家をけしているではないか。
それから悠樹は教授になり、海は生命現象をテーマとして扱い始めた。二人はここ数年で発達した仮想世界<BREATH>を用いて世界と生命の関係をアートとして発表しようとしていた。そのテーマは「なぜぼくたちはひとつの視点からでなければ世界を見渡せないのだろう」。そのアートはバーチャルな空間で人為的に操作した世界を作り上げ生命を芽生えさせ、各個人の世界観を影として視覚化するものである。生命とコミュニケーションが一体化した世界で悠樹は「ぼくたちはほとんどロボットである。しかし私たちはほとんど生命なのだ」という生命の本質にたどり着く。
さらに12年後。たまたま入ったタリーズコーヒーで、存在しないはずの詩を発見した。それは過去の作家が紙面デビュー前に著名な雑誌に掲載されているというものであった。ありえない発見の喜びを味わっていると見覚えのある人影が横切った。そしてまた爆発。ふとあの事件が頭を過ぎり不安にかられる悠樹だが幸い今回は消えてしまった人はいなかった。
そしてある日の夜、海の展示会場。ギャラリーの入り口を入ると2枚の絵があった。多重に影を重ねた絵はロボットであり花であり琉美であった。またせーので指をさそう。二人の腕はもう交差することはなかった。
用語
ルーベンスの2枚の絵・2枚のドガの絵
作中の通り元ネタはフランダースの犬と刑事コロンボ。前者は有名なネロとパトラッシュの冥土の土産。後者はある絵画コレクターが殺された事件にてコロンボがドガの絵画を鍵に事件を解決するをいう話。
フレーム問題
ある問題を解決するときに、ありとあらゆる可能性が考えられる。もちろん、無限のパターンが存在するので有限な処理能力しかもち得ないロボットは処理することは出来ないということ。ざっくばらんに言うと、何を無視したらいいのかということ。
哲学者ダニエル・デネットがCognitive Wheels:The Frame Problem of AIで示した例を示す。
洞窟の中に、ロボットを動かすバッテリーがあり、その上に時限爆弾が仕掛けられている。このままでは爆弾が爆発し、ロボットは動かなくなってしまうので、洞窟の中からバッテリーを取り出してこなくてはならない。ロボットは、「洞窟からバッテリーを取り出してくること」を指示された。
人工知能ロボット1号機R1は、うまくプログラムされていたため、洞窟に入って無事にバッテリーを取り出すことができた。しかし、1号機はバッテリーの上に爆弾が載っていることには気づいていたが、バッテリーを運ぶと爆弾も一緒に運び出してしまうことに気づかなかったため、洞窟から出た後に爆弾が爆発してしまった。これは、1号機が、バッテリーを取り出すという目的については理解していたが、それによって副次的に発生する事項(バッテリーを取り出すと爆弾も同時に運んでしまうこと)について理解していなかったのが原因である。
そこで、目的を遂行するにあたって副次的に発生する事項も考慮する人工知能ロボット2号機R1-D1 (D = deduce (演繹) ) を開発した。しかし、このロボットは、洞窟に入ってバッテリーの前に来たところで動作しなくなり、そのまま時限爆弾が作動してロボットは吹っ飛んでしまった。2号機は、バッテリーの前で「このバッテリーを動かすと上にのった爆弾は爆発しないかどうか」「バッテリーを動かす前に爆弾を移動させないといけないか」「爆弾を動かそうとすると、天井が落ちてきたりしないか」「爆弾に近づくと壁の色が変わったりしないか」などなど、副次的に発生しうるあらゆる事項を考え始めてしまい、無限に思考し続けてしまったのである。これは、副次的に発生しうる事項というのが無限大にあり、それら全てを考慮するには無限大の計算時間を必要とするからである。ただ、副次的に発生する事項といっても、「壁の色がかわったりしないか」などというのは、通常、考慮する必要がない。
そこで、目的を遂行するにあたって無関係な事項は考慮しないように改良した人工知能ロボット3号機R2-D1を開発した。しかし、このロボットは、洞窟に入る前に動作しなくなった。3号機は、洞窟に入る前に、目的と無関係な事項を全て洗い出そうとして、無限に思考し続けてしまったのである。これは、目的と無関係な事項というのも無限大にあるため、それら全てを考慮するには無限大の計算時間を必要とするからである。
人工知能においては環境を限定することで、とりあえずよしされている。人間についてのフレーム問題は、現在も解決されていない。そもそも人間はフレーム問題を解決していないという論もある。
エプスタイン・バー(ル)・ウイルス
ヘルペス型ウイルス。発見者にちなんで名付けられた。上咽頭ガンなどの原因。日本人の90%以上が抗体をもつ。また、他のヘルペスウイルスと違いリンパ球に感染し不死化する特性がある。
シンギュラリティ現象
真夜中に強い光を浴びると体内時計が一時停止してしまう現象を指す。体内時計が狂うのではなく、細胞ひとつひとつのリズムが脱同調してしまうために、停止したようにみえる。
また戦闘機が亜音速飛行をする際、機体の回りに水蒸気が発生して雲が出来ることをプラントル・グロワート・シンギュラリティ。通称シンギュラリティ現象という。
そして、将来的に機械の知能が人間の知能を追い越す現象を指すシンギュラリティ現象を信じる一派が組織されサミットをひらいている。現在では機械に限定した使われ方をするが、本来は「おそらく数十年後、いまの私たちの知能をはるかに上回る知能が出現し、生命のありかたが大きく変わる時期のこと 」を指していた。本作ではこの意味において用いられているものと思われる。
BREATH
SIGVerseという社会的知能発生学シミュレータ システムが元ネタ。BREATHと同じように仮想現実においてのシュミレーションが目的とされている。主に物理シュミレーション、学習発達シュミレーション、知覚シュミレーションなどを行っておりアートととしての利用はまだ考えられていない。10月4日にβ版が開催予定なので近いうちに一般公開されるかもしれない。
http://www.sociointelligenesis.org/SIGVerse/
こちらが公式のHPなので興味のある方はどうぞ。
化学浸透共役
ミトコンドリア、葉緑体、原核生物がエネルギーを生物にとって制御可能な形にするために使っている共通の機構。食物の酸化などによるエネルギーから人間が利用する形としてのATPをつくるだす。光合成リン酸化は植物が太陽光をATPに変換することを指す。
マラケシュの贋化石
スティーブン・ジェイ・グールド著のエッセイ集。学生が悪戯で作った精巧な贋化石を世紀の大発見と発表したベリンガー、化石樹を見て樹木は土から生じると断言したチェシなど、科学の教科書には載らない、学者たちの逸話が詰まったエッセイ集。
For a breath I tarry
ハウスマンの詩集の「シュロプシャーの若者」の一片。1896年に出版される。第一次世界大戦時の若者から絶大な人気があった。他にも、ロジャー・ゼラズニイ のSF小説にも同じタイトルのものが存在する。邦題はフロストとベータ。こちらはヒューゴ賞を受賞している。作中の人類が滅亡したあとの世界で二つのロボットが出会う小説はこのフロストとベータを指す。
ディーン・レイ・クーンツ
アメリカ・ペンシルベニア州出身の作家。SF小説からホラー、ミステリー、サスペンスなどジャンルミックスした手法で80年代から現在に至るまでベストセラー作家であり続けている。また小説家としてだけではなく、詩作や児童向け書籍の執筆、映画の脚本なども手がけている。 SF小説『スター・クエスト』(1968年)でデビューしているので1996年に詩を発表したことはない。
最終更新:2011年02月05日 01:05