R62号の発明 安部公房
1. 著者紹介
安部公房。1924年3月7日東京生。幼少期に両親とともに満州奉天市に渡る。1940年東京の成城高等学校理科乙類に入学、ドイツ語を学ぶ。翌年肺浸潤にかかり、1年間奉天市の自宅で休養をとる。1943年、処女作と思われる「(霊媒の話より)題未定」を完成。(生前未発表)同年9月、成城高校を在学年短縮により繰り上げ卒業。東京帝国大学医学部医科に入学。1944年、奉天市に戻り、医者である父安部浅吉の助手として働く。1945年、終戦を迎える。同年、家族全員が発疹チフスに罹患し、父浅吉が死亡。1946年、満州から引き揚げ。引き揚げ船の中でコレラが発生し、治療活動を行った。1947年、山田真知子と出会い、結婚。夫婦で行商、紙芝居の絵描などを行い、生計を立てる。同年に詩集「無名詩集」を自費出版。また後に「終りし道の標に」として出版される長編の第一章を埴谷雄高に送り、雑誌『個性』に紹介される。1948年、花田清輝、埴谷雄高、岡本太郎らが結成したアヴァンギャルド芸術会《夜の会》に参加。「終りし道の標に」を刊行。東京大学医学部を卒業。1951年、「壁―S・カルマ氏の犯罪」を発表し、芥川賞を受賞。また、前年発表した「赤い繭」で第二回戦後文学賞受賞。同年、日本共産党へ入党を申し込む。1953年、シナリオを担当した映画「壁あつき部屋」が完成。一般上映は三年後となったが、この辺りから戯曲やラジオドラマなどの表現を模索するようになったと思われる。1954年、長女ねり誕生。1962年、日本共産党を除名される。同年、「砂の女」を刊行。「砂の女」は翌年には第十四回読売文学賞を受賞したほか、1968年にはフランスで一九六七年度最優秀外国文学賞を受賞するなど国内外から高い評価を得た。1973年演劇グループ《安部公房スタジオ》を結成。旗揚げ公演として「愛の眼鏡は色ガラス」を演出。1975年、コロンビア大学から名誉人文科学博士の称号を受ける。1977年、アメリカ芸術科学アカデミー外国人名誉会員に選出。1986年、国際ペンクラブに招待されたが、滞米中に体調不良を感じる。同年簡易着脱式タイヤ・チェーン「チェニジー」が第一〇回国際発明家エキスポ‘86で銅賞を受賞。1990年箱根の山荘で倒れ、二ヶ月間入院。1991年、最後の長編となる「カンガルー・ノート」を刊行。1992年にはアメリカ芸術科学アカデミー外国人名誉会員に正式に認められたが、同年脳内出血による意識障害を起こす。翌年退院はできたものの、再び重態となり1993年1月22日死去。
2. 登場人物
R62号(彼)…元機械技師。現無職。ロボットとして第二の生を得る。
学生…自殺者から死体をもらいうけるアルバイトをしている。生活状況は厳しい。
花井…事務所で働く女性。膜のようなまぶたをしている。秘書として働いている
草井…事務所で働く男性。目が離れている。契約係として働いている。
所長…事務所の所長。国際Rクラブの結成メンバー。
ドクトル…本名ヘンリー石井。「彼」をロボットに改造する。
高水…製作所の社長。「彼」を馘にした張本人。
3. あらすじ
機械技師であった彼は、職を失い、死に場所を求めてさまよっていたところ、自殺者から死体をゆずりうけるアルバイトをしているという学生から声をかけられる。自らの死体を売り渡した彼はR62号という名前を与えられ、紹介された事務所へ向かう。その事務所で脳手術を受けたR62号はロボットとして生まれ変わり、事務所の小部屋で過ごすことになる。ある日R62号は所長に導かれ、国際Rクラブ第一回大会で新たなロボットとして紹介された。そして同時に、R62号をある製作所に貸与することが宣言された。皮肉にもその製作所は、かつて彼が解雇された製作所であった。七ヶ月後、R62号は自らが発明した人間合理化を目的とする新式機械の試運転会の場で、製作所社長の高水を実験台に立てて彼を死なせてしまう。直後に発生した労働争議の中で、一人残された所長は恐怖にゆがんだ表情で、「何をつくるつもりだったんだ!」とR62号に問うのであった。
4. 注釈
アドルム
睡眠薬の一種。非常に強力。坂口安吾はこのアドルムで中毒を起こしたことがあり、その様子が「安吾巷談 麻薬・自殺・宗教」に書かれている
ギブス・ベッド
背中の形状に固めたギブス。患者をその上に寝かせ、安静を保つために使われる。なお、表記としては「ギプス」が正しい。
喧嘩すぎての棒千切
「後の祭」と同じような意味の言葉。喧嘩が終わってから棒切れを持ち出しても役に立たないことから。
ひつぎを覆って事さだまる
人の真価は死後に初めてわかるという意味。なお一般には「棺(かん)を蓋いて事定まる」とされることが多い。
サーブリグ表、タレットヘッド
サーブリグ表とは、おそらくサーブリッグ分析を用いて作業を分析した結果を記した表のこと。サーブリッグ分析とは、人間の作業を18の基本要素に分解する分析方法。アメリカのギルブレスが考案した。タレットヘッドとは、立て旋盤の一種。クロスレールに取り付けられ、タレット、サドル、ラムなどからなるもの。
医療用語の解説
パラフィン…石油から生成される炭化水素類の混合物。医療の他に様々な用途がある。
ゾンデ…体腔などに刺し入れ、器官等の探索、計測、拡張に用いる細い棒。
タラムス…視床。感覚の中継点として様々な働きを持っている。
コルプス・カロースム…脳梁。左右の大脳半球をつなぐ。
プルス…脈拍。
セプトゥム…中隔。ここではおそらく脳の中隔核や中隔野と呼ばれる部分と思われる。
カプスラ・インテルナ…内包。大脳半球における大脳新皮質と皮質下構造物を結ぶ投射性伝導路の通路。
赤旗とプラカード
「彼」の解雇の一つの要因として、弟が組合運動を行っていたことが今後明かされる。R62号が不安を感じた理由は明らかにされていないが、このことと関連しているとも見える。
Rの付く英単語群
文章中に出てきた順に、race, rule, reign, rich, revival, reaction, resettle, right, rob, rationalization, rat, regular, rush, remilitarization, reporter, ring, resource, rake, reclaim, religion, runner, rejuvenation, romance, regalia, rapprochement, randan, roulette, rotary, rose.
ラセツ
漢字では羅刹。羅切と書くことも。淫欲を断つために魔羅(男根)を切ること。
小人閑居して不善をなす
つまらない人物は人の目が無ければろくなことをしないという意味。儒教の四書の一つ「大学」にある言葉。
ツノをためて牛を殺す
細かいことにこだわり全体をだめにしてしまうこと。「角を矯めて牛を殺す」と書く。
死馬にハリをさす
何の効果もないたとえ。また、万一の期待を込めて最終手段をうつことを示す場合もある。「死に馬に鍼を刺す」という表記が一般的。
フォードの流れ作業
フォードは1913年T型フォードの生産ラインにおいてベルトコンベア方式を採用した。これにより一台の完成にかかる時間が大幅に短縮された。
ウナ電
至急電報の俗語。至急(urgent)の欧文符号urを和文符号として読むと「ウナ」になるため。
5. 解説と感想
Ⅰ.導入
この短編に対し、「人間の幸福を願って発展した工業が、いつしか人間疎外へとつながってゆく」という解釈を行うことは非常に容易である。私もこの解釈にはある程度賛成ではあるものの、ただ単純にそのような解釈にとどまっているのは非常にもったいないという気がするし、最先端の技術に並々ならぬ興味を持っていた安部公房が、それだけをこの作品で述べていると考えることは無理があると感じる。この解説では、安部公房作品に通底する思考のひとつを紹介することで、この作品に対する新たな視点を提供すると同時に、今後の安部公房作品の読書体験に有益な視点を提示することを目的とする。
Ⅱ.動物、植物、鉱物を人間と同列に置くこと
解説でも述べられていることだが、安部公房の作品にはこれらの人間以外の存在と人間を同列にするものが多くみられる。「壁―S・カルマ氏の犯罪」「デンドロカカリヤ」などがその代表的な例である。解説では、この「R62号の発明」は、『肉体つまり物質的条件(マルクス流に言えば生活)が思想、意識を規定するという公理の応用』であると述べられているが、この裏には、物質的条件に規定された思想、意識の根底には、何か普遍的なものがあることが示唆されているように思われる。「彼」はR62号という名前を与えられ、ロボットに改造された。そのため、「彼」の思考形態はR62号のものに変化したが、それでもなお主人公として読者の視点を誘導する役割を保っている。たとえ彼の思考形態が変わろうと、読者は彼を一つの存在として認識するのである。それにより、思考、意識よりも深い、存在の一端ともいえるものへ触れる体験が読者に提供される。
Ⅲ.主客の逆転
前項で安部公房の作品を構成する大きな思考を紹介した。本項ではそこから派生する安部公房の文学手法を紹介したい。人間と非人間とされてきた存在を同列に置くことで、その間(人間間を含む)の主客の逆転が容易に可能になる。重要な内容に触れる場合が多いため、例を挙げることは難しいが、一つの例として「人間そっくり」を挙げておく。(もっと良い例はいくつも挙げられるが、やはりその小説の持つ衝撃を損ねかねないので、気になった方には実際に他の安部公房作品を読むことを勧める。)この短編では一見この手法は使われていないように見えるが、最終場面で今まで一貫して人間に寄り添ってきた物語が、機械の視点によって覆されている。今まで人間に支配されるものとして描かれていたR62号が、突如得体の知れないものと化し、人間もまた、非人間とされてきた存在から見返されているということを認識せざるを得なくなる。この認識の転換が安部公房の作品の重要なスパイスとなっている。
Ⅳ.文体・物語の特徴
ドナルド・キーンは「砂の女」の解説において、安部公房の文体の特徴として比喩の豊富さと正確さを挙げている。この短編においても、『そのつむじ風が倉庫の顎をくすぐったので、油じみた扉を大口にあけて、キキキと笑った』や、『彼はまるで植物のように自足していた』などの比喩表現が見られる。また、短編集「水中都市・デンドロカカリヤ」の解説(同じくドナルド・キーン)においては、小説家として動物を上手に活用することを指摘されている。(残念ながらこの短編においてはあまり活用されていないが。)これらの安部公房の小説家としての特徴は、どちらも上記の思考と密接なつながりを持っているように感じる。この作品を再読する場合は、随所にちりばめられた比喩表現を味わいながら読んでいただきたい。間違いなく上述の思考を理解する一助となるはずである。
Ⅴ.終りに 人間合理化機械の試運転のシーンについて
最後に、今まで安部公房の思考的な側面からこの作品を語ってきたが、しかし何よりもこの作品ですばらしいのは、最後の試運転のシーンの描写であると私は思っている。視覚、聴覚両面をフルに活用し、無機的な恐怖を煽りながら、さびついたような美しさを演出する手腕は見事と言うほかない。(特に「AとOの中間の声で吠えはじめた」という文章を読むたび、その文章の分析力の鋭さ、冷たさにぞっとすると同時に、日本語のテクストに挿入された欧字の異質さに目を覚まされるような美しさを感じる。)この解説のように分析を楽しむこともできれば、ただ感覚に任せて読んでも楽しめるのが安部公房の魅力であると思う。
最終更新:2018年08月15日 00:55