東北大SF研
地球の長い午後 ブライアン・W・オールディス
著者紹介
ブライアン・ウィルソン・オールディス
1925年8月15日~2017年8月15日
イギリス、ノーフォーク、デアハム生まれ
3歳の頃から物語を書き始める(母はそれを綴じて本棚にしまっていたようである)。幼少期にパルプマガジン「アスタウンディング・サイエンス・フィクション」(現在の「アナログ・サイエンス・フィクション・アンド・ファクト」)を読み、特にウェルズ、ハインライン、(のちにはディック)の小説は全部読んだという。
1943年にはイギリスの戦闘部隊である「ロイヤル・コープス・オブ・シグナルズ」に入り、ビルマで戦闘に加わる。戦後はオックスフォードの書店で働きながら、業界紙に短編を発表する。それが編集者の目に留まり、1955年に初めての本を出版する。
ニューウェーブの旗手としてたびたび名が挙げられており、バラード、エリスン、ディレイニー、ゼラズニー、ディッシュなどの錚々たるメンツとともに見かけることが多い。1962年に「地球の長い午後」でヒューゴー賞短編小説部門、1966年に「唾の木」でネビュラ賞中長編小説部門、1983年に「Helliconia Spring」でジョン・W・キャンベル記念賞を受賞するなど、SF小説家としてものすごい業績を残しているが、アンソロジスト、SF評論家としての業績も大きい。
あらすじ
地球の自転運動は徐々に月の引力によって遅らされ、ついに公転運動と自転運動の周期が一致するに至った。その地球上で、動物はかつての繁栄を失い、代わりに多くの植物が地球を支配していた。人間は進化の過程で体が小さくなってゆき、また寿命も短くなっていた。
多くの子供たちを育ててきたリリヨーは、自らの体の衰えを感じていた。そこで他の数名とともに、月を往復する植物グモ「ツナワタリ」に乗り、月を目指す。鳥人の襲来、過酷極まる宇宙飛行などの困難に打ち勝ち月に着いたリリヨーたちを待ち構えていたのは、鳥人は月に着いた人類が宇宙放射線によって突然変異したものであるという事実だった。鳥人から地球を襲う計画への協力を求められたリリヨーたちは、再びツナワタリに乗り、地球へと帰っていった。
リリヨーがいなくなった後、新たなリーダーとしてトイがたてられたが、グレンは反発ばかりしていた。皆からの反感を買い、群れを追い出されたグレン。やがて彼は、自分に寄生した「アミガサダケ」なるキノコの声を聞く。彼を追って群れから離れてきたポイリーとともに、「牧人」のヤトマーとの出会い、「黒い口」の魔性の歌との戦いを経ながら、アミガサの声に導かれるままに全世界を旅するのであった。
用語解説
ツナワタリ(綱渡)
地球と月を往復する植物グモ。人間には誰かが死ぬと、その人のトーテムである「魂」をツナワタリに乗せ供養する習慣がある。これは植物に襲われた場合、遺骨の回収が難しいことが往々にしてあるためである。ツナワタリが地球と月を往復するのには、トラバチの脅威を避けるという理由がある(これについては「トラバチ」の項で触れる)。地球と月を往復するにあたり、気になるのが宇宙放射線であるが、ツナワタリは進化の結果、宇宙放射線を必要なものとして浴びるようになったらしい。
ベンガルボダイジュ
人間の住む大陸において支配的な樹木。以前にあった多種多様の樹木のうち、徐々に勢力を拡大してゆき、最終的には大陸全土を支配するようになった。現在は一本の木となっているが、実は昔、何本ものベンガルボダイジュが集まってできた集合体が一本の木として成長したものであるようだ。
トラバチ(虎蜂)
現在生き残っている五種類の動物のうちの一つ。かなり狂暴。ツナワタリの神経中枢を麻痺させ殺すことができる。また、ツナワタリの体内に卵を産み付け、幼虫の餌にする。ツナワタリを殺すことができる唯一の生き物である。
ダンマリ(黙)
不完全な知覚をもったフエアザミ(笛薊)の果実。風の動きを感知し、播種に適した風を読む。人間は口笛によってダンマリの知覚を欺き、人間の思うとおりに動かせるようになった。
鳥人
人間を襲う謎の人種。実は月に移住した人類が宇宙放射線によって突然変異をしたものである。人間はそれを知らず、子供をさらう鳥人を忌み嫌っている。鳥人になりそこない、奇形となったものは「とりこ」と呼ばれる。
アミガサダケ
グレンに寄生したキノコ。たびたびグレンにアドバイスをするほか、宿主の潜在的な記憶を探ることができ、かつての人間の生活をグレンに教えたりする。グレンとともに世界を回り、世界中に繁栄することをもくろんでいる。
ポンポン
人間に栄養を与える代わりに手足として使役する木、もしくはその木に操られた人間。木の方は「ポンポンの木」と呼ばれる。ポンポンの木に操られた人間は、よく肥り、毛深く、さらには緑の尾(ポンポンの木からの栄養はそこから取り込まれる)が生えている。ポンポンの木のために魚を取り、その見返りとして栄養を受け取っているようである。木の本体はパイナップルに似た形をしている。
アシタカ(足高)
石化した蛇のような根が特徴的な植物。小島に渡り成長したうえで、本土に種を蒔きに行く性質を持つ移動性植物。グレンらはこれに乗って小島から脱出する。
感想
第一に注目すべきは、やはり現在の地球上に全く異なった地球を作り出ししてしまった想像力だろう。やむこともなく登場する架空の生き物、それぞれの際立った生態などが複雑に関係しあう中を、小さな主人公たちはユーモラスに、時にシリアスに冒険して回る。その様子を見守るのはこの上ない快感である。
また、公転速度と自転速度が一致し、長い正午を過ごすこととなった地球の様子を「地球の長い午後」と表し、あまつさえクモの巣すらかけてしまう感性には、ごはん三杯かき込んでもまだ足りないほどの幸せな満腹感を味わった。(このフレーズをタイトルに据えた伊藤典夫氏には脱帽するばかりである)
この作品の主眼はおそらく世界観であるので、何をおいても「まず読め」の一言に尽きてしまうかもしれないが、レジュメを作成するにあたり、それだけではあまりに怠惰であるとの謗りを免れないため、いくつか私が面白いと思ったことについて二、三書いておこうと思う。
まず、この物語が失われたはずの文字をもって書かれていることについて触れておきたい。p247の「オウリンギー」の文字をグレンが見つける場面に象徴されている通り、この世界には文字が存在しない。しからばここで、文字についての概念を揺さぶるような実験(らしきもの)を一つしてみよう。先ほど私は、「オウリンギー」の文字をうつとき、「o」「u」「r」「i」「n」「n」「g」「i」「-」の順にキーボードを打ったわけであるが、この世界には「オウリンギー」と「ourinngi-」との間をつなぐ関連性は存在しない。また、我々は「オウリンギー」が何物も意味しないことを知っているが、この世界では「オウリンギー」が何を意味するのか、はたまた何を意味しないのか、それを知ることはできない。そう考えたうえで、どこか適当なページを開き、本文を眺めて(読むのではなく、文字通りの意味で「眺めて」)ほしい。途端に見慣れた文字が異質に感じられはしないだろうか。果たしてこの文章を書いたのは誰か。むろんオールディス(この場合は伊藤典夫が書いたと言った方が正確か)であるが、そのようなメタな返答を望んでいるわけではない。文字を知らないわけだから、当然グレンらによって書かれたものではない(実際に、グレンらの視点から語り部が離れたりもしている)し、かといって未来を知ることができない以上、文字を知る過去の人間が書いたとも考えられない。文字を解読できるようになるまで文明が発達しなおすとも考えにくいから、未来方向にも道は閉ざされることになる。するとこの物語の視点は何か、書き手は何か、何となく恐ろしくなってくる。「神の視点」と言ってしまえばそれまでかもしれないが、一般的な小説における神の視点はいわばカメラワークのようなもので、誰からも認知されない、誰へも干渉しない、物事を自在にクローズアップできるという「人物」の視点ともいえるものである。ここではその人物も死に絶えているはずだから、どうも収まりが悪く感じられる。
収まりが悪いと言えば会話もそうである。よく「頭の中にヒキガエルがいる」というような罵倒語が出てきたが、これはいったい何なのか。動物は五種を除き死に絶えたのではないか。それともヒキガエルといっても植物ヒキガエルなるものがいるのか、ただ罵倒語として残っただけなのか、そもそも話しているのは英語(あるいは日本語)なのか、などなど。しかしながら、「世界を異化する感覚」がSFの一つの醍醐味である以上、これは決して粗などではなく、まさにこれこそが、この作品を名作たらしめている要素の一つであると言えよう。
最終更新:2018年12月05日 23:04