東北大SF研 読書部会
「円」 劉慈欣
著者紹介
1963年,山西省陽泉生まれ.1999年に『科幻世界』でデビュー.発電所でエンジニアとして働く傍ら,執筆活動を行う(職場で暇な時に書いていたらしい).代表作〈三体〉三部作(『三体』『暗黒森林』『死神永生』)は中国内外から高い評価を得る.
部会の題材となった「円」は2019年星雲賞海外短編部門を受賞.
あらすじ
秦の首都咸陽,紀元前二二七年.荊軻は燕王の降伏の証たる地図を献上するために秦の政王のもとを訪れた.巻物から暗殺用の短刀が現れて場は騒然となるも,荊軻が政王への敬意を吐露すると即座に許され,臣下として重用された.
ある日荊軻は不老不死を求める政王から円周率を二年で一万桁,さらに五年で十万桁を計算するように命じられた.五日かけて中国全土を探してもこの計算ができる数学者は集まらなかったが,もしできなければ命は無いという.
四日後,荊軻は単純な手旗のリレーによって計算する計算陣形「秦一号」を考案し,秦の全兵力三百万をもって実行に移された.
1ビットのエラーを「メンテナンス」するなど事件はありつつも秦一号は順調に稼働し,一月で二千桁以上の計算を達成していた.しかし四十五日目の朝,隧道を通り濃霧に紛れて忍び寄っていた燕,斉,匈奴軍に陣は一方的に破壊される.これはすべて荊軻の手引であった.荊軻は燕の間者だったのだ.
秦は滅亡した.処刑台に座る政王の横に荊軻が並び,自らも燕王から死罪を宣告されたことを告げた.新たな計算陣形を燕王に奏上したためであった.
しかし荊軻は死の間際に天啓を得る.計算陣形の門を機械によって置き換えた計算機械を閃いたのだ.だが荊軻の必死な叫びも虚しく,新時代の幕開けは潰えた.
登場人物・用語
政王
中国大陸の覇権を争う七国がひとつ秦の王で,始皇帝となるはずだった男その人.不死のためなら死んでもいい.
荊軻
燕国側から一転して政王の腹心となったが,実はスパイ.漢数字しかないであろう古代中国において計算機理論を一気に飛躍させた,アラン・チューリングとジョン・フォン・ノイマンとクロード・シャノンを足して濃縮したとんでもない天才.
論理積門,論理和門,......
機械による演算を可能にする構成要素.シャノンは論理式と電気回路が対応関係にあることを修士論文『継電器及び開閉回路の記号的解析』で示し,デジタル回路の概念を確立した.
フォン・ノイマンアーキテクチャ
プログラムカウンタ(PC)という記憶装置を持ち,
- PCが指すメモリ位置の命令を読み込む
- 命令を実行する
- PCを更新する
という実行を繰り返すことで計算を実現する近代的なCPUアーキテクチャのひとつ.
このアーキテクチャによってプログラムをパンチカードなどの補助的な記憶装置に頼らず,コンピュータそれ自身の中に保持しておける「プログラム内蔵方式」が実現され,現在のコンピュータに至る.
バス
CPU内部・外部での通信線(の接続形式)のこと.語源は乗り物のバスで,ひとつの線に様々な命令が「乗合い」することから名付けられた.
フォン・ノイマンアーキテクチャの弱点として,どんなにCPUの処理速度が向上してもバス通信の速度が遅ければそれに律速されてしまうという「フォン・ノイマンボトルネック」というものがあるが,秦一号はこの悪影響をもろに受ける形となっている.
中国人民(中国脳)
本文中で直接に出てきたわけではないが,連想させられたものとして取り上げる.
思考実験の一つで,「人間の脳内で何十億ものニューロンが行っている単純なリレー動作を,十何億もの中国人民を集めて人力で再現したら,そのリレーに現象的意識(≒クオリア)は生じるか?」というもの.政王と荊軻の会話に「……一人一人のふるまいは単純そのものだが、集まると複雑な知性があらわれている」「陛下、これは機械が機械的に動いているだけです。知性ではありません。……」とあることからも,意識の創発には否定的とはいえ,著者は多少気にかけるくらいはしていたんじゃないか,と思われる.
所感
この短編は同著者による長編「三体」の第二部第17章「三体 ニュートン、ジョン・フォン・ノイマン、始皇帝、三恒星直列」を抜き出して短編としてアレンジしたものですが,サブタイトルの通りに時代と場所が入り乱れた人員配置を呈する,長編の中の部分としての「三体」版(これはこれでVRコミュニティの雑多な感じが出ていて面白いですが)よりも,登場人物と取り上げる題材を絞り,その中での思弁的大暴走をもって読者をカオスな世界に連れて行き,権謀術数を展開しながらオチもきっちりつける「円」の方が収まりが良くて,個人としては好きだなぁ,と感じます.
バーチャル会員の卜部理玲ちゃんも評していたように,場所や時代の設定を抜きにしてもなお普遍的な仕掛けの中から匂い立つ「中国らしさ」がいいですね.「赤上げて,白下げないで,赤下げない」な手旗信号ゲームは政王の言う通りただの単純な遊びでしかないですが,とにかく物量でゴリ押す戦略をとるというか,物的・人的リソースの桁が島国住民が想像する域を軽く超えてしまうというのが,かつての「上山下郷運動」や,現代中国のプライバシーを度外視したAI学習用データの大量収集などにつながっていくように感じます.センター試験程度でしか中国古典エピソードを知らない自分には,300万もの人の海の中で個人が単なるいち部品として軽んじられるところや,荊軻も秦王もすぐに死ぬだの殺すだの言うところにそれっぽい,と思わされます.
また,情物の学生として,人力コンピューティングシステムには心躍らされないわけがありません.現実には「クロックどうやって合わせるの」とか「バス通信が遅すぎる」とか「メモリ担当の二十人力兵士の役割は」とか色々問題がありそうですが,そこにワンダーがあるならば,そんなことは瑣末事でしょう.
関連・参考
小川一水「アリスマ王の愛した魔物」
数学で国を隆盛させたご立派ァな王様とその従者の物語.こちらは計算陣形ならぬ「算廠」で巨大人力スパコンシステムを作り,軍事・政経を解析し最適化します.だだっ広い土地に大量の兵士をずらずらと立たせる計算陣形と,風通しの悪い建物の中に人員を集積させる算廠とで,東洋・(多分)西洋モチーフ間の違いが見て取れる,というのはステロタイプが過ぎるでしょうか.
劉慈欣「三体」
既述のとおり,「円」はこの物語の一部を取り出して再構成したものです.「円」の方が……とは述べましたが,OSを実装した上で三体問題計算プログラムを走らせていたり,ディスプレイが付いていたり(某国のマスゲームみたいな感じでしょうか?)とこちらで描かれる人力計算機の仕様も興味深いです.
Noam Nisan,Shimon Schocken.斎藤康毅『コンピュータシステムの理論と実装』
ハードウェアシミュレータ上でNAND回路素子からメモリ,CPUそしてコンピュータハードウェア全体を組み上げ,その上で自作OSを走らせてテトリスで遊ぶための指南書,もとい仕様書.実際に作ってみると単純な回路素子から本当に計算機構が作り出せることを実感でき,結構感動します.これで君も荊軻だ(?)
春尋孝
最終更新:2019年12月02日 22:11