project nemo_13

ACE COMBAT04 THE OPERATION LYRICAL Project nemo



第13話 飛びたい理由


クラナガン郊外、地上本部の航空基地――。
風が、耳元で唸っていた。アスファルトの大地を足がしっかり踏みつけ、蹴飛ばすようにして身体を前に押し出す。胸の鼓動は、やはり高い。酸欠に
あえぐ身体の各部が、もっと酸素をと心臓に心拍数を上げるよう働きかけていた。
ごほ、と軽く咳き込む。胃の中から酸っぱい液体が喉まで駆け上り、込み上がってきた吐き気をどうにか堪える。この程度、戦闘機のコクピットで強
いGをかけた時に比べれば――自分にそう言い聞かせても、苦痛を訴える身体は楽にならなかった。
やはり、体力が落ちている。必死に外気から酸素を取り入れようと、荒い呼吸を繰り返す彼の表情は思わしくない様子だった。しばらく寝たきりだっ
たことを考えれば当然なのだが、それで気分がマシになるはずもない。借り物のトレーニングウェア、流れた汗が接着剤のようになって肌にまとわり
つく。戻ったらすぐにシャワーでも浴びたい気分だ。

「ハッ……ハッ……ハッ」

舗装された道路は、この基地に所属している管理局員がよくランニングに使っている場所だ。今この瞬間でさえ、澄み切った青空の下で自分と同じ持
続走中の局員とすれ違う。一人で走っている者もいれば、集団で掛け声を上げながら走る者たちもいた。中には顔見知りの整備員もいて――懐かしい、
かつての機動六課の仲間――短く挨拶を交わす。顔見知りは大抵、「なんでここにいるんだ?」という表情をしていた。
そりゃそうだろうな、と彼はわずかに走るスピードを緩め、苦笑いを浮かべた。本来なら、自分はここにはいない存在。JS事変で名を馳せたエースは
もう、その後幾度か突発的にミッドチルダに現れた例を除けば、戻ってくるはずもない存在なのだ。誰が決めた訳でもなく、自然と永久欠番になって
しまったコールサイン"メビウス1"が何よりの証拠である。
スピードを落としたおかげで、いくらか呼吸が楽になった。だが、それはこれから始まる最後の難関への準備に過ぎない。目前に迫ったコーナー、そ
こを曲がれば一気にダッシュだ。ゴールに定めた休憩所のベンチまで、速度を落とすことなく駆け抜ける。
三、二、一と心の中でカウント。コーナーを曲がりきった瞬間、彼は抑えていた足の動きをどっと速めた。腕を大きく、速く振って。嫌だ嫌だとごね
る身体に鞭を打つようにして、速度を上げていく。心臓は跳ね上がったように強く、短い間隔で鼓動を繰り返していた。

「!」

頭上、突如として轟音が走る。走ることに集中していたはずなのに、自然と首が上がってしまうのは戦闘機乗りの性なのか。轟音の正体は、ジェット
エンジンの咆哮。脚を出し、自分の巣に帰ろうとするF-16Cファイティング・ファルコンの姿が青空に浮かんでいた。たぶんウィンドホバーだな、と
酸欠気味の思考が呟いた。
早いとこ、俺もあそこに戻りたい――青空に浮かぶ戦闘機を見て、望郷の念に近いものが沸いて出た。それが、鈍ってきた足の動きに喝を入れる。
休憩所のベンチが見えてきた。風を切って、身体の衰えた戦闘機乗りは力強く大地を踏み、駆ける。あと少し、もうちょっと。

「っ――ぷはぁ……」

己が肉体がゴールを横切った時、ブレーキをかけたように彼は足の速度を急停止させていった。たん、たんと何歩かアスファルトを踏みしめ、疾走か
ら徒歩に戻る。荒い呼吸を隠しもせずに、道路の脇に広がる芝生に向かった。
出来ればこのまま転がりたいが、汗でべたつくトレーニングウェアである。そんなことをしたら全身葉っぱまみれ、妖怪ギリースーツの誕生だ。耳元
で「スタンバーイ……」なんて聞こえたのもきっと幻聴に違いない。
芝生の上には、あらかじめ用意しておいたタオル。それを手に取り、汗の流れる顔面に当てた。タオルの白一色に染まった視界の中で、ふと気付く。
しまった、飲み物を忘れてしまった。

「うっ!?」

突然、首元にやたら冷たい感触をする物体が押し当てられた。短い悲鳴と共に顔に当てたタオルを跳ね除け、振り返る。視線の先にいたのは――

「三キロメートル、一一分四五秒。充分速いんじゃないですか、メビウスさん?」
「……なんだ、お前か」

ツインテールに結ばれ、風で揺れる二つの鮮やかな橙色の髪。浮かべる表情は、してやったりな笑顔。
缶ジュースとストップウォッチを手にした"メビウス2"、ティアナ・ランスターの姿がそこにあった。



手渡された清涼飲料水をゴクゴク飲んで、ふぅと一息。休憩所のベンチに腰掛けたまま、メビウス1はティアナの持っていたストップウォッチに目を
やった。デジタルで表示される数値は、何度見ても変わる様子はない。
不服そうな表情を浮かべ、タオルで未だ収まる様子を見せない汗を拭き取っていると、ティアナが自分の分の缶ジュースを片手にやって来た。
ストップウォッチの数値に不満そうなパイロットを見て、彼女は一つ問いかける。何かご不満でも、と。

「……一分も遅くなってる。前はもっと速く走れたんだが」
「そりゃあ、何週間も寝たきりになれば」

そうもなりますよ、と頭を抱えたメビウス1にフォローを入れてみるティアナだったが、それでも彼は結果に満足出来ないらしい。
アヴァロン・ダムから救出されたリボン付きは、ひとまず検査のため管理局の医療施設に入院。長期間の催眠と薬物投与の跡は見られたものの、一定の
衰弱のみで身体的な異常は見受けられなかった。その後は事件の捜査のために知っていることを洗いざらい全て話し、現在は次元犯罪の被害者として
保護されている身分。
そのはずなのだが、身体が回復した途端、彼は暇さえあれば自主トレに励むようになった。まるで失った何かを、取り戻そうとしているかのように。テ
ィアナにはそれが、単に体力を元に戻そうとしているだけには見えなかった。
今この瞬間でさえ、リボン付きの視線は青空へと向けられている。遠くの故郷を見つめるような眼をして、決して大地には振り向こうともしない。

「飛びたいんですか、また?」

だから、彼女はもう一度問いかけた。愚問だとは自分でも思った。エースパイロットが、地面で惰眠を貪るはずもない。

「それはもちろん……だがそれ以上に」

同じコールサインを持った少女の問いに、メビウス1はやはり肯定。しかし、付け加える。飛びたい理由は、パイロットとしての本能だけではない。
自身を拉致し、エレクトロスフィアなる魂だけの空間に閉じ込め、作られた夢を見せていた奴ら。彼らはメビウス1のコピーを生み出し、自分たちの
所属をベルカ公国と名乗った――ほんの一〇年前、比類なき工業力を養い、世界に向けて戦いを挑んだ国。猛々しく戦い、やがて自国内で核を使うとい
う壮絶な自爆行為を行い敗れた、あのベルカ。

「Project nemo、か……」
「え?」

呟いたのは、奴らが自分を拘束した際口ずさんでいた言葉。第二段階がどうこうとか言っていた辺り、彼らの計画はまだ終わったとは思えない。
メビウス1はもう一度だけ、空を見上げた。きっと必ず、近いうちに奴らは何かを仕出かす。その時に地面で指をくわえていては、あまりにも情けな
いことになる。自分の役割は、そうではない。
傍らで怪訝な表情を浮かべるティアナに彼は何でもない、とだけ告げる。
微笑みを浮かべるリボン付きに、しかし彼女は笑みを返すことが出来なかった。彼は、パイロットとしてより、何らかの義務感で空を飛びたがっている
のだと。
だから、彼女は一言告げる。無茶だけはしないでください、と。
返答は、言葉ではなく笑みだった。



ばさっと、無造作に手にしていた書類を親友の執務室の机に放り投げる。
綺麗な金の髪を持った部屋の主は、それを見てしかし大して怒った様子を見せることは無かった。書類の内容を見れば、おのずと理由は分かるだろう。
六課時代に比べて伸びた茶髪を掻き分けて、八神はやては深々とため息をついていた。浮かべる表情こそ笑みだが、愉快なことが起きた様子ではない。

「やれやれ、事件はまだ終わってないっちゅうことやな……」

独特のイントネーションを持った声と共に、一度放り投げた書類を手にする。"フェンリア"によるパイロット誘拐、さらに演習中の管理局部隊への襲撃、
首都クラナガンへの奇襲。一連の事件の首謀者たちは捜査の結果、ミッドチルダ北部のアヴァロン・ダムを拠点に据えていることが判明。管理局は本局
と地上本部合同の下、拉致されたパイロットたちの救出と首謀者たちの逮捕のためアヴァロン・ダムに実戦部隊を送り込んだ。はやてが手にした書類は
一連の流れに関する報告書であるが、内容はあまりよろしいものではなかった。

「誘拐されたパイロットたちは一名を除いて全員死亡、作戦に参加した地上本部の戦闘機隊にも戦死者六名、テロリストは一名も発見出来ず、その後の
消息も不明、か――」

紙面に描かれた言葉を読み上げ、整った顔立ちを曇らせる部屋の主はフェイト・T・ハラオウン。執務官として、これまで数々の事件を乗り越えてきたが
今回の結果はほぼ最悪に近い。事件の首謀者さえ、逃がしてしまった。その事実が、彼女の胸に強く圧し掛かる。
気落ちした様子のフェイトを見て、はやてはぽんっと優しく肩を叩く。あまり気に負っても、事態は好転しない。

「それにしても、なぁ。なんでアヴァロンにコイツがおるんやろ」

話題を切り替えるようにして、捜査官はもう一枚あった報告書を手に取る。現場で撮影されたと思しき写真が一枚添付された書類には、解析の結果写真
に映るそれがJS事変に投入されたものとまったく同じであると言う旨の文章が記されていた。
すなわち、ガジェットⅠ型。狂気の科学者ジェイル・スカリエッティが数ヶ月前、ミッドチルダ各地に放った無人兵器である。個体の戦闘能力はそこま
で高くないが、とにかく一度に出現する数が多いためそれなりの脅威として存在感を放っていた。そのガジェットも、他のシリーズ同様スカリエッティ
が要塞メガリス上空での空中戦を最後に、行方不明となってからは姿を消していた。

「……単純に思いつくのは、やっぱり」

フェイトは思い出したように半透明のディスプレイを起こし、キーボードを叩く。表示されるのは、JS事変後のスカリエッティの目撃情報。多くは人違
いであったり見間違い、あるいはデマだったりしたが――いやでも、と文字通り魔法の画面を見て、はやては首を振る。

「メビウスさんが撃墜したあの機体――ファルケンやったか。調査チームが墜落地点を割り出して回収に向かったそうやけど、機体は木っ端微塵に吹き
飛んで、破片くらいしかなかったって話や。おまけに現地は永久凍土の土地やし、運よく脱出しとっても」
「そのことなんだけどね」

捜査官の言葉を遮り、執務官は再びキーボードを叩く。ディスプレイが映し出す情報が切り替わり、フェイトの個人ファイルに。わざわざパスワードに
よるロックも仕掛けられ、さらに個人のファイルだから今のところフェイトと、彼女直属の部下しか知らない情報らしい。
まだ確証はないけど、と前置きして、彼女ははやてに説明する。

「これ、シャーリーに調べてもらったんだ。今回の事件、いろいろとタイミングが良すぎる。マルイ基地が攻撃された時にお前のせいだぞってメールが
届いたり、アヴァロンに突入したらテロリストはもういなかったり」

親友からの言葉を聞きながら、はやてはディスプレイを食い入るように見る。最初のうちはどれどれ、と興味を持ったような表情。それが、時間を経つ
に連れて深刻なものになっていく。全てを読み終えた時、彼女は傍らの執務官に眼をやった。

「フェイトちゃん。これ……」
「確証は無い。でも、事実なら」

大変なことになる。わざわざ口に出さずとも、彼女の言わんとすることは理解出来た。
すなわち、管理局のネットワーク内に、誰も知らない回線が一つ設けられていると言う。いつ、誰が設置したかは不明。だが回線を遡っていくと、ある
場所に辿り着く――最高評議会。管理局の最高意思決定機関、ごく一部の者にしか知らされていないが、主要メンバーである三人はJS事変ですでに暗殺
されているはず。そのはずなのに、回線はまだ稼動状態にある。
もう一つ。回線は一部が枝分かれしており、それを辿っていくと外部に出てしまう。その先でもまた枝分かれしているが、そのうちの一本がすでに途絶
えていた。はっきりと断定は出来ないが、この回線が途絶えたのはJS事変の最中、スカリエッティのアジトが見つかった直後と推測された。
笑っているに違いない。無限の欲望はおそらく死なずに、回線の向こうで。



その日もまた、メビウス1は基地内に定められたランニングコースを駆けていた。
力強く大地を蹴って、昨日より一秒でも速く、速く。連日のトレーニングの甲斐あってか、体力は少しずつ以前の状態に戻りつつあった。これなら、空
に戻る日も決して遠くはないはずである。
あとは申請だな、と規則正しい呼吸を繰り返しながら、空を見上げる。青の世界の向こうで小さく見えた、離陸していく戦闘機。おそらくはアヴァラン
チのF/A-18Fか。
次元犯罪の被害者であり、本来はISAF空軍に所属する戦闘機乗り。機動六課の時は次元漂流者としてそのまま協力と言う形に持ち込めたが、今回はそう
もいかない。色々と複雑な手続きを踏まなければ、戦闘機のコクピットには座らせてもらえないのだ。
面倒だよなぁ。頭の片隅でそんなことを考えながら走れるのは、体力が元に戻ってきた証拠だろう。ゴールに定めたベンチに辿り着いて、腕時計のスト
ップウォッチ機能を止める。三キロメートル、一一分二五秒。最低でもあと二五秒は縮めたいところだ。

「……ありゃ」

汗を拭き取ろうと、今回もあらかじめ用意しておいたタオルを探すが、おかしなことに姿が見えなかった。どこに行った、とキョロキョロ周囲に視線を
やると、道路脇に白いタオルが追い詰められているのが見えた。風に飛ばされたりでもしたのだろう。仕方なく取りに行く。
落ちたタオルに手を伸ばそうとしたその瞬間。いたずらな風が吹いて、メビウス1が掴もうとした白い布を持ち上げる。あっと声を上げた時にはもう遅
く、ゆらゆら大気に乗って一反木綿の如く飛んでいってしまった。
露骨に舌打ちし、タオルを追いかけようとしたその矢先。
風に導かれたように、白い布は偶然そこにいた女の子の前に落ちてきた。緑と赤の大きな瞳をぱちくりさせて、彼女は怪訝な表情のままタオルを拾う。

「おーい、そこのお譲さん。それ俺のタオ、ル……んん?」

瞬間、メビウス1はタオルを拾ってくれた女の子に妙な違和感を感じた。見覚えがある、なんてものじゃない。俺はこの子を知っているはずだ。
記憶に探りを入れて、脳裏に女の子の名前が浮かび上がるのと、彼女がタッタッタと軽い足取りでタオルを持ってきたのはほとんど同時だった。

「はい、メビウスおじさん」
「あ……あぁ、ヴィヴィオか!」

おひさしぶりです、とタオルを渡しながらちょこんとお辞儀してみせたのは、六課にいた頃に出会ったヴィヴィオだった。JS事変の最中において保護さ
れ、そのままエースオブエースに懐いて義理の娘になった女の子。
とりあえずおじさんは違うからな、と
ひっそり狼狽した心中を露にして、タオルを受け取ったメビウス1はふと気付く。ヴィヴィオがいるなら、当然そ
の親である彼女も近くにいるはずなのだが。
ありがとな、とタオルのことで前置きして、リボン付きは彼女に問う。なのはママはどうしたんだ、と。

「んとね、ママはね」
「ヴィヴィオー、もう、勝手に一人で行っちゃ駄目だって……あれ」

ヴィヴィオが問いかけに答えようとしたところで、その必要は無くなった。声のした方向に、パイロットと女の子は揃って振り返る。視線の先にいたの
は、綺麗な栗毛色の髪をなびかせ、教導隊の白い制服に身を包んだエースオブエース、高町なのはその人だった。彼女もこちらに気付いたらしく、瞳を
ぱちくりさせている。

「……よう、エースオブエース。元気かな」
「……はい、リボン付きも」

短く挨拶を交わし、二人のエースは笑ってみせた。アヴァロン・ダムで救出されて以来、初めての再会だった。



汗臭いままではなんだろう、とメビウス1は提案し、一度飛行服とフライト・ジャケットに着替えてまた舞い戻ってきた。
ベンチに腰掛けて待っていた高町親子に、ついでに買ってきた缶ジュースを渡す。

「ほれ。ヴィヴィオはオレンジジュースでよかったかな」
「うん! ありがとう、メビウスおじさん」

可愛い女の子に礼を言われたはずなのに、どうしてこんなに悲しいのだろう。まだ二〇代なのにー、と泣きそうな笑みを浮かべるエースパイロット、母
親の方は気まずそうに乾いた声で笑い、受け取ったミルクティーのプルタブを開けていた。
しばらくジュースを飲みながら取り留めのない話で談笑していると、突然なのはが改まった様子で口を開いた。

「あの……メビウスさん、こっちの方でまた飛びたいって聞いたんですけど」

ティアナ辺りからでも聞いたのだろう。誘拐事件の被害者であるはずのリボン付きが、元の世界に戻りたいとは言わず、こちらの世界で管理局の下、戦
闘機に乗りたいと意思表明した。自分が救出した男が何故そう考えたのか、彼女はそれを知りたかったに違いない。
その通りだよ、とメビウス1はエースオブエースの疑問に正直に答えた。付け加えて、この事件はまだ終わっていない。だからまた飛びたい、飛べるよ
うになっておきたい、とも。

「どうして?」

しかし、答えを得たなのはは怪訝な表情を解かなかった。管理局に任せると言う選択肢だって、存在したはず。それを、彼はあえて選ばなかった。まさ
か、誘拐された挙句拘束されて寝たきりにされた仕返しがしたい、と言う訳でもないだろう。
彼女は見抜いていた。アヴァロン・ダムで、エレクトロスフィアに入ってから。彼の記憶を、覗き見てしまってから。本当は、メビウス1は"メビウス
1"であることを受け入れたくない。それでも他に出来る人間がいないから、彼はエースとして飛んでいる。権利を行使しているのではない、義務をこ
なそうとしているだけだ。所属している組織に、疑いをかけられても。
なのははもう一度問いかけた。本当は、故郷に戻りたいんじゃなかったのか。本当は"メビウス1"であることに疲れを感じているんじゃないのかと。

「自分の意思で飛びたいって言うなら私、分かります。でも、きっと今のあなたは違う。義務とか責任とか、そういうもので自分を無理やり飛ぶように
仕向けている――違います?」

どんな大怪我をしても、無理をしても、身体に支障を来たしても。なのははただ、魔法で飛べる。それが嬉しいから、再びエースオブエースとして舞い
戻ってきた。同じ飛びたいと言う理由があっても、根源が違う。だから、彼女には理解できなかったのだ。義務や責任で自分に飛びたいと思うことを強
制させる、メビウス1の行動が。
リボン付きは、答えない。困ったような笑みを浮かべて、ぽりぽりと後頭部を掻いていた。

「教えて下さい――」

なのはは食い下がる。無理やりにでも飛ぼうとする彼が、心配だったから。同じエースの名を背負う者として、自分を責め立ててまで空を飛んで欲しく
なかったから。
だから、彼女は付け加えた。

「    」

彼の、本名を。
笑みを浮かべていたエースパイロットの表情が、一気に崩れる。宿った新しい感情は、動揺。

「……なのは、どこでそれを」
「――エレクトロスフィアの中で。あなたの記憶が、見えちゃって」

そうか、と彼は力なく答えた。それから自嘲気味に笑ってみせて、口を開く。

「お前の言う通りだよ。俺は連中に捕まって、夢を見させられていた。ユリシーズで消し飛んだはずの故郷も、家族も、恋人も、みんな出てきた。みん
なが俺を、"メビウス1"とは呼ばずに本名で呼んでくれた。それだけで嬉しかった。そのままずるずると、惰眠を貪って……ISAF空軍のエースも、実態
はこんなもんだ」

まったく笑っちまうよな、とメビウス1は手を広げる。言われてしかし、なのはは笑えるはずもなく。幼いヴィヴィオだけが、瞳をぱちくりさせて二人
のエースを意味も分からず交互に見つめていた。
ごめんなさい、と。エースオブエースは謝罪の言葉を呟き、立ち上がった。人の記憶を見てしまったことへの謝罪だったのか。それともメビウス1に、
自嘲させてしまったことだったのか。釈然としないまま、踵を返してどこかに向かい歩いていく。
ママ、と娘の呼び止める声は、しかしあまりにも弱々しかった。なまじ頭が良いため雰囲気を察してしまい、強く呼び止めることが出来なかったのだ。
メビウス1も、それは同じだった。どんどん遠くなっていくエースの背中が、酷く小さく見えてしまった。
暫しの間、気分の悪い沈黙。それを打ち破ったのは、リボン付きではなく幼い少女の方だった。

「……あ、あのね、メビウスおじさん」
「ん……なんだ、ヴィヴィオ?」

おそるおそる、と言った具合で口を開くのは、声を出したはいいが何を言っていいのか分からないからだろう。とにかく気まずい沈黙を破ろうとした
ヴィヴィオにしかし、そこまで求めるのはさすがに酷である。
今更おじさんなどと言われて動揺もせず、エースパイロットは優しい笑みを浮かべて彼女の言葉を待った。

「きょ、今日ね、今日はね。なのはママ、眼の検査に来たの。そしたら、メビウスおじさんが走ってるのが見えて……」

尻すぼみになっていくヴィヴィオの言葉を聞いて、メビウス1は眉をひそめる。眼の検査、どこかおかしいのだろうか。
怪訝な表情を浮かべて考え込んでいると、じわりと突然、少女の目尻に涙が浮かび上がってきた。

「ど、どうした。どっか、身体の具合でも……」
「うっく……ちがうの。これ、誰にも言わないって、ママと約束してた。ヴィヴィオ、約束、やぶっちゃった……」

あぁ――そういうことか。
とうとう堪えきれなくなったのか、ぽろぽろ涙をこぼして泣き出してしまったヴィヴィオの頭を撫でる。いいんだ、ヴィヴィオは悪くない。悪いのはき
っと俺だから。
泣き止む様子を見せない少女を必死に慰めなら、メビウス1の脳裏には別の思考が走っていた。
自分の娘にわざわざ黙っておくよう約束させる。と言うことは、彼女の眼の状態はもしかしたら深刻なのだろうか。検査に来たという事は、自分ではも
うどうしようもないほどに――もしかしたら、飛べないほどに。
真意を確かめようにも、なのはの姿はすでに見えなくなっていた。



何やってるんだろう、私。
駆け込んだ洗面所で顔を洗ってみたが、胸のうちから湧き出た罪悪感までは流せそうにない。蛇口を捻って水を止め、なのはは顔を見上げた。鏡に映る
自分の姿が、直視出来ない。強い自己嫌悪が、彼女の心を蝕んでいった。理由を聞き出したいがために、彼の記憶を使ってしまった。結果として、彼は
自分を自嘲に追い込んだ。酷いことをしてしまった。誰にだって、人に見られたくない部分はあるだろうに。
――ぐらり、と。突然足元がふらついた。洗面所の壁に手を当て、どうにか倒れ込むのを避けた。

「あ……また」

眼をこすってみるが、変わらない。視界が、灰色一色のままなのだ。エレクトロスフィアの中で、防衛システムの中枢であったF-22と戦った時に陥った
のと、同じ症状。魂のみの空間であったはずなのに、肉体すらも侵食しようと言うのか。
しばらくして、眼は元に戻った。灰色しかなかった世界が色と鮮明さを取り戻し、ふらつく頭も落ち着いた。
ふ、とため息を一つ。やっぱり無茶しすぎたかな、と今更ながらの後悔がよぎるが、それで現実が好転するはずもない。
あの人には、こうなって欲しくない。自分が飛びたいから飛んでこうなるならまだしも、義務や責任で飛んで身体を壊すような真似だけは、絶対にして
欲しくない。
だけど、彼は飛ぼうとしている。言って聞くような人ではないから、きっと止めても無駄だろう。
いくらエースオブエースと呼ばれても、人間一人止められない。その事実が、なのはの胸に強く圧し掛かっていった。







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最終更新:2009年12月06日 18:31