視界に映る、人、人、人。向けられてくる視線の多くは怒り、嘆き、疑問、そして憎しみか。両手で握るMP5、込められている弾は実弾ではなく非致死性のゴム弾に過ぎない。あくまでも自衛用である――雷管を叩くのは、ごく微量であっても魔力だが。
ベルカ公国を名乗るテロリストの電波ジャックが行われて三日後。ミッドチルダの地方都市から始まった反管理局デモは、今やミッドだけでなく各管理世界にまで及んでいた。人口の多いクラナガンなどはその規模、人数、どの点でも他の地域のデモを上回っている。
地上本部にまで続く大通りを埋め尽くす市民たちは、それぞれの思いを描いた横断幕、プラカードを掲げてゆっくりと前進しつつあった。おかげで交通機関は一部が麻痺し、テロリストの放送により治安悪化を防ぐために出動した陸士部隊の展開は、遅々として進まない。
「アルファはD-1ブロック、チャーリーはD-3、デルタはD-4、ブラボーは俺と一緒にD-2ブロックだ。いいか、穏やかに退去させるんだ」
やむを得ず、地上本部は陸士部隊の一部を徒歩にて展開し、デモの排除を行うこととした。ベルツ二尉率いる陸士B部隊もその中の一つである。
排除と言っても、相手は市民たちである。テロリストの扇動により、怯えているだけだ。銃口を向けて強制退去など出来るはずがなく、なるべく会話によってゆっくりとお帰り願うほかない。
「隊長、言うこと聞かない場合はどうすりゃいいんですか?」
「聞かせろ。大丈夫だ、お前みたいなナイスガイなら男でもころっと言うこと聞くさ」
不安がった部下を、冗談を交えて勇気付ける。男は勘弁かなぁ、と笑顔で答える部下は、しかしやはり不安そうだった。
事前に命令があった地区に分隊を振り分け、ベルツたちも受け持ちの区画であるD-2に到着。普段は華やかなアーケード街も、この時ばかりはほとんどの店がシャッターを下ろしていた。代わりに街を喧騒で包む、市民たち。彼らはベルツたちを見つけると、獲物を見つけた狼のように一斉に群がってきた。そうして、質問と言う矢を一斉に浴びせかける。
「おい、あんたたち管理局だな!? あの放送は何なんだ、俺たちは大丈夫なのか!?」
「いきなり攻撃されたら避難も出来ないぞ、どうすればいいんだ」
「もうあいつらの好きにさせてやれよ。どうせ他の世界のことだろう?」
「そうだ、好きにさせてやればいい。向こうは手を出さないと言ってきてるんだ」
はいはい、落ち着いて落ち着いて。ベルツはMP5を市民たちの目から逸らすように背中に回し、両手を振って彼らに落ち着くよう促す。
「いいですか皆さん。まず冷静に、落ち着いて下さい。騒げば騒ぐほどテロリストを助長させるんです。どうか静かに、我々の指示に従って下さい。もう一度言いますよ、皆さん落ち着いて――」
「これが落ち着いてられるか。二三管理世界は、現に攻撃されただろう!」
駄目だこりゃ、と聞く耳を持たない市民たちに、兵士たちの多くは腹のうちで諦めの表情を浮かべていた。彼らはもう、怯えきってしまっているのだ。
隣にいた副官が、指揮官の耳元で囁く。ここは任務達成を優先しませんか、と。MP5の黒い銃身をわずかに見せて、しかしベルツは部下の提案に首を振る。
そんなことをすれば、市民たちはますます管理局に対し反発的な行動を取る。最悪、銃撃戦すらあり得るだろう。
突然、ベルツの耳にガラスの割れたような音と悲鳴が入る。何事かと視線を向けると、部下の一人が尻餅をつき、仲間に助けられていた。地面には割れた瓶。部下に問うと、デモ団体の方から投げつけられたと回答が来た。
「この野郎……っ」
「寄せ、ベアード。余計なトラブルを背負い込む気か」
怪我はないようだが、尻餅をつけた兵士は怒りの表情を露にして市民たちを睨む。MP5のコッキングレバーに手を伸ばそうとして、慌てて周囲の同僚が止めに入っていた。
こりゃあ、テロリストを止めるどころじゃないな――疲れたような表情を見せ、ベルツはそれでも市民たちへの呼びかけをやめようとはしなかった。
市街地での喧騒はその勢いを増し、ついにクラナガン郊外の航空基地にまで及ぶようになってきた。基地を覆う金網の向こうには、本来守るべきはずの市民たちが群がり、疑念、失意、絶望、ありとあらゆる負の感情を視線に集め、投げつけてくる。ゲートにさえも詰め寄る者がおり、警備部署は対応に追われていた。
いたずらに市民たちを刺激せぬように、と戦闘機の離陸は一切が禁じられている。普段はジェットの轟音が響き渡る滑走路も、この時ばかりは静寂に包まれていた――否。外からの罵声が代わりに現れ、その場を支配していた。
閉め切られ、飛ぶことを許されない鋼鉄の翼たちが潜む格納庫。ティアナはそこで、一人のパイロットが装具を身につけ、ヘルメットまで持ってふらついているのを見つけた。肩に縫い付けられているのは、リボンのマーク。
飛行禁止の通達を知らない訳ではないだろう。今にも戦闘機に乗って飛び立たんとするかのようなメビウス1に、彼女は怪訝な表情を持って声をかける。
「ちょっと……メビウスさん、何してんです?」
「何って、離陸準備だが」
当然のことを言ったように返事をするリボン付きに、ティアナはますます眉をひそめた。まさか、と思い振り返り、背後にあった彼の愛機に眼をやる。支援戦闘機F-2A、羽ばたくことを許されない鋼鉄の翼は、しかし戦うための爪や口ばし――ミサイルを搭載していた。短距離用のAAM-3が四発、中距離用のAAM-4が四発。思わず、少女は不安に駆られた。もしや、彼は飛ぶつもりなのか。外に出れば、無数の負の感情と言う対空砲火に晒されるのを承知で。
「安心しろよ、通達は知ってる」
そんなティアナの心中を見越したか定かではないが、彼は苦笑いを浮かべつつ言葉を吐き捨てた――吐き捨てる。そんな表現がぴったり当てはまるほど、メビウス1は苛立ちを露にしていた。うろうろと落ち着きなく格納庫内を歩き、ときどき天を見上げてため息を一つ吐く。復帰した矢先に飛べないことへの苛立ちなのか、ベルカ公国を名乗ったテロリストのやり口に対する苛立ちなのか。たぶん両方だろうな、とリボン付きの後を追いながらティアナは察して見せる。
「人間の汚い面だ。誰がやってもこうなるんだ……」
不意に、メビウス1が誰に向けてでもなく呟いた。
市民たちの反感を買い、それが暴動に発展するのを恐れ、管理局のほとんどの部隊は現状動けないでいる。次元航行艦隊でさえ、各管理世界での暴動を恐れて釘付けにされていた。次元世界の平和と秩序を守るのが管理局の存在意義であるが、テロリストの排除のためには、自分たちの活動を拘束する市民たちを抑えなければならない。使命か、任務か。正義か、平和か。思考の板挟みにあった陸士たちの中には、当然過激な意見も出始めていた。いっそのこと市民たちを先に排除してしまえと。それが独裁への第一歩であることを理解している者は、果たして何人いるか。
「それで、一人でやろうとしたって訳ですか」
そこまで考えて、ティアナは一つの結論を得た。このリボンを付けた異邦人は、管理局にも市民にも付かず、自分一人で戦闘機を飛ばして事態の解決を図ったのだろう。もっともいざ離陸したところで、何をどうすればいいかは分からない。それに気付いて、今は立ち往生していたと言うところか。
「お見通しか。さすがだ、ランスター。その通り。いても立ってもいられなくてな――?」
予想は、当たっていた。肯定したメビウス1は苦笑いし、ふと気付く。同じリボンを付けた少女、無言で彼女が歩み寄り、自分を見上げていることに。
ベシッ、と額に痛覚が走る。アイテ!と悲鳴を上げてパイロットは首を折り、次いで怒りの表情を露にした。何しやがんだ、おい。デコピンをお見舞いしたティアナは大して怯む様子を見せず、冷めた視線で彼を迎撃した。
「頭を冷やして下さい。どうせ一人じゃ何も出来ないんだから」
「っ……それは、そうだが」
不意打ちと直撃、たかがデコピン、されどデコピン。ヒリヒリするおでこをさするリボン付きに、彼女はため息を吐く。
「いいから、ちょっと来てください。オーリス准将からお話があるそうです」
「准将から?」
ティアナの口から聞こえた思いがけない人物の名を耳にして、メビウス1は怪訝な表情を浮かべるほかなかった。
「飛行機なんだから自分で飛んで行けよ」
整備員がぽろっと漏らした愚痴を聞き、ぷっと吹き出す。
なるほど確かに、と夜明け前の寒気に息を白くしながら、メビウス1は作業の行方を見守っていた。視線を辿れば、民間向けのそれと同じ型式であるヘリが着陸するなり、後部ハッチから航空機の胴体と思しき部分を下ろしていた。後続のヘリも続々と着陸し、同じように積荷であった航空機の部品を――主翼やエンジン、果てはミサイルなど――下ろしていく。硬いアスファルトの上に広げられた部品は整備員の手でカバーを外され、着々と組み立てられていった。
「オーリス准将もまた、思い切った策に出たもんだね」
模型でも作るかのように、テキパキと整備員が航空機を作成していく模様を見守るのは、何も一人ではなかった。ちらっと横に視線を送り、リボン付きは隣にいた先ほどの言葉の主である眼鏡の青年を見る。長く伸びた、色素の薄い髪。一見女性にすら見える整った顔立ちの彼はユーノ・スクライア。無限書庫の司書長が、何故にこんなところにいるのか――こんなところ。途中で途切れた、四〇〇〇メートルほどの直線高速道路。ミッドの交通関係を預かる役人は全土にまでこの道路を延ばす予定だったらしいが、JS事変の動乱のおかげで既存道路の復旧工事が最優先されてしまった。
「しかし無限書庫がヘリを持ってるとはな。どうして民間の型なんだ?」
走る者のいない道の上。メビウス1は率直な疑問を、ヘリの持ち主に尋ねた。
フムン、と一呼吸置いて、質問を受けたユーノは答える。
「うちはほら、資料を請求される身だから。大抵はデータリンクに突っ込んで送るんだけど、中には現物を要求してくるとこもある」
「例えば?」
「年配の考古学者とか」
彼ら、納得してくれないんだよね、と付け加えてユーノは眼鏡を外す――当の自分自身でさえ、考古学者の一面もある。魔法で投影されたホログラフより現物が見たい。彼らの気持ちも分からなくはないので、現場に資料を持っていくためのヘリを揃えたそうだ。配備が軌道に乗り出した新鋭のJF704式ではなく民間型なのは、単純に機体単価が安かったこと、壊れても民生品なので部品調達が楽なこと、と説明した。
「まぁ、だから今回目を付けられちゃったんだけど。あのキャリアウーマンに」
「使えるものは何でも使う人だ。間違いなくレジアス中将の娘だよ」
「……私が何か?」
ビクッ! 不意に背後から聞こえた聞き覚えのある声、二人は肩を跳ね上がらせ、恐る恐る振り返る。キャリアウーマン、レジアス中将の娘、言葉は違えど視界に映るものは同じ――地上本部司令官、オーリス准将のご登場であった。
どうするのこれ。何とかしてよメビウス1。
いやいやいや、何で俺に振るの。お前がやってよユーノ。
気まずい雰囲気の最中、必死に二人が視線で押し付け合いをやっているとゴホンッと准将殿は咳払い、口を開く。
「――よろしいですか? メビウス1、機体の組み立ては終わります。離陸準備に入るように。司書長、ヘリの提供を感謝します。以後は移動司令室内で待機してください」
「あぁ、はい、了解……」
「分かりました……」
スパッと簡潔明瞭に用件を伝え、オーリスは踵を返し無数のアンテナを掲げたトレーラーのコンテナに――彼女の言う移動司令室――向かう。
遠くなっていく将官の背中を見送り、二人はほっと一息吐いた。
「気配をまるで感じなかったぞ。彼女がナイフと殺意を持ってたら確実に殺されてた」
「勘弁してくれ、冗談に聞こえない」
とは言っても、メビウス1の言葉に苦笑いを浮かべる司書長である。彼らは知っている。おそらくは、地上本部で今もっとも苦しい立場にあるのは彼女だろうと。守るべきはずの市民から弾劾され、それに我慢出来ず暴走しようとする部下たちを抑えて、その上であの馬鹿げた放送をぶちまけたベルカ公国なる連中を捕らえるために動く。常人ならあっという間に押し潰される重圧の最中、オーリスはさらに今回の作戦を立案し、自ら指揮所に赴いていた。
なんというタフネス、バイタリティ。女って強いなと胸のうちで呟き、リボン付きはサヴァイバルジャケットを羽織る。アスファルトの上での航空機の組み立て作業はもう終わりのようで、愛機F-2の姿がそこにあった。蒼い迷彩が施された主翼の下、ハードポイントにいくつも装着されているのは五〇〇ポンド爆弾。
「じゃ、そろそろ行ってくる」
「あぁ、気をつけて……幸運を、メビウス1」
ユーノにとって、目の前のパイロットは恋敵である。彼は未だに気持ちをはっきりさせていないけども、気にはしているはずだ。だからこそ、彼はメビウス1の無事を祈る。決着をつける前に、死んでもらっては困るのだ。
そんな彼の意図を知ったか定かではないが、当のリボン付きはラフな敬礼で答え、愛機に向けて歩いていった。
頭脳にも等しいパイロットをコクピットに迎え入れ、蒼い翼が動き出した。心臓からは赤いジェットの炎が姿を見せて、大気を焦がす。滑走路代わりに選ばれた高速道路を蹴り、轟音を撒き散らし、リボンのマークが付いたF-2Aは夜明け前の大空へ羽ばたいていった。
何日かぶりのジェットの音。空へと舞い上がった鋼鉄の翼を見送り、ユーノは外していた眼鏡をかけ直す。遠くの物はぼやけていた視界が鮮明さを取り戻し、周囲の状況を再確認――あれ、と疑問の声が出た。もう一度眼鏡を外し、かけ直す。視界に映るものは、変わらなかった。
「なの、は?」
「――ごめん、来ちゃった」
冷たい夜風に揺れる、栗毛色の髪。見間違えようがない。エースオブエースの姿が、そこにあった。
困った時の何とか頼み、とはよく言うもんだけど――。
酸素マスクの中で愚痴を漏らして、なるほど自分はまだ余裕があるのだと実感する。緊張しているには違いないが、おそらく大丈夫だ。
愛機F-15ACTIVEのコクピット。太陽すらもがまだ寝ている時間、ティアナはじっと正面を見据えていた。忍者の如くの隠密任務、高度は高く取れない。黒々としたのは山だろう、墜落死など御免である。計器にセットした相棒、インテリジェントデバイスの指示する高度を維持し、リボンを付けた荒鷲は大地を舐めるように低く飛んでいた。
飛行とはまた別に、並列思考で彼女は脳裏に作戦概要を思い出させる。
R資金、JS事変において回収し切れなかったレジアスの遺産。オーリスがティアナに渡したその詳細な調査報告書は、資金の行方があの「ベルカ公国」を名乗った男たちの下にあるという結果が出た。その結果を元に、彼らの調達した装備、燃料、糧食などのルートを辿っていくとある事実が判明する。
すなわち、ミッドチルダ東部、フォートノートンにてベルカの保有する核弾頭"V1"が移送されている。真意は不明、一斉摘発を恐れて分散して隠しておいたのだろうか。いずれにせよ、管理局にとってこれを放っておく手立てはない。核弾頭さえ無ければ、ベルカを名乗るテロリストは放送でやったような強気の姿勢を取れないからだ。かくして、移送部隊への襲撃が決定された。
「問題はその手段よね……」
くっと軽く操縦桿を捻り、ティアナは愛機の主翼を翻させる。山頂をかすめるようにして旋回、F-15ACTIVEは夜空を駆けていく。
彼女の言うように、問題となったのは手段だ。高ランクの魔導師では魔力反応であっという間に検知され、逃げられる可能性がある。転送魔法を使うにしても、反応が事前に見つかればAMFをばら撒かれるかもしれない。戦闘機は、ミッドチルダの各航空基地が市民たちのデモに囲まれ身動き出来ない。目の前で爆装した機体が離陸などすれば、彼らの不安と怒りは一気に高まるだろう。
そこで司令官のオーリスは一つ考えた。人目のつかない早朝に、人気のない放置された建設途中の高速道路から、戦闘機を飛ばす。陸路は市民たちの人の壁で封鎖されたも同然であるため空路、それも目立たない無限書庫の保有する民間型のヘリで機体を移送する。発進した戦闘機はレーダーに掴まるリスクを考えなるべく少数、そして低空を飛ぶ。
無茶も度が過ぎる、とブリーフィングを受けた時、ティアナはひっそり感想を漏らしていた。フォートノートンは山岳に囲まれており、視界の悪い早朝に低空を飛ぶのは危険である。ましてや、その後の攻撃まで少数で――具体的には、二機一個編隊――行うなど。よほどの熟練パイロットでもなければ実行はほぼ不可能なはずだ。
そこまで考えて、少女は酸素マスクの中で口元をわずかに歪めた。苦笑い。
"よほどの熟練パイロット"に選ばれてしまったのだ、自分は。これでは自画自賛も同然。
――レーダーに感あり。デバイス、クロスミラージュが短い電子音を鳴らす。素早く反応したティアナ、少女の眼はたちまち戦闘機乗りの眼へ。
「IFFは……あ、味方?」
ディスプレイに浮かぶ光点に眼をやると、浮かぶシンボルマークは友軍を示していた。コールサインを確認する――"Mobius1"?
「よぉ、おい。なかなか様になってるじゃないか」
「……なんだ、あなたですか」
相手もこちらを見つけたのだろう、視認距離に入るなり、気さくに主翼を振って近付いてきた。蒼い迷彩、垂直尾翼にリボンのマーク、メビウス1のF-2Aだ。編隊長を務める彼の機体は、ティアナの前に位置する。
「今回はAWACSの誘導もない。自信は?」
通信機越しにやって来た問いかけ。答える前に、彼女は過去を振り返る。
離陸前、自身が補佐する執務官はデータを渡してきた。調査結果に基づく、敵移送部隊の予想所在地。空中管制機の誘導がない以上、今回はこれだけが目標への道しるべだった。
本当なら、自分が行きたい。震える腕を隠しもせずに、執務官はそう言った。我が子同然の少年と少女、彼らに仕える竜。大切な人が、奴らのおかげで生死の境目を彷徨う羽目になった。込み上がる感情は、法の執行者としての責任感ではなく、私的な憎しみ。
しかし、彼女はそんな自分を理解し、抑えることに努めた。だからこそ、ティアナに託したのだ。きっと、今のままでは冷静な判断など下せないだろうからと。
人の憎しみを背負う。執務官の分だけではない、市民たちが今の自分たちの行動を知れば、憎悪を抱くことは間違いない。失敗すれば、その憎悪が自分や自分の仲間に向けられる――そうはさせない。憎しみの中であっても、自分は飛ばなければならない。その向こうにある、光を求めて。
「自信ならありますよ、たっぷりと」
「いい返事だ。通信、アウト」
二番機の返答に満足し、メビウス1は通信を切った。以後は秘匿行動のため、目標発見まで無線封鎖だ。
あとは独り言に勤しむだけ――ティアナは酸素マスクを付け直す。
編隊を組んだ二つのリボンは、夜明け前の暗黒を突っ切っていった。
最終更新:2010年01月01日 12:18