かつて、1人の魔導師がいた。
管理外世界の生まれでありながら、類稀なる才知を持った、優しくも力強き少女がいた。
少女は幾度もの苦境を乗り越え成長し、エース・オブ・エースの名を授かり、英雄となった。
エースの操る魔導師の杖は、一振りで百の敵を薙ぎ払い。
エースの発する号令は、一声で百の味方を奮い立たせたという。
新暦73年5月。
この時はまだ、生きながらにして伝説と謳われた英雄は、そこにいた。
びゅん――と。
風を切り裂く音が鳴る。
無限に広がる闇の下、くの字の鉄塊が夜天に舞う。
漆黒の夜空を駆け抜けるのは、鋭く鍛え上げられたブーメランだ。
人の身の丈ほどある巨大な刃が、轟転と轟音を引き連れ殺到。
さながら死神の振るう禍々しき刃鎌。
すなわち命を刈り取る凶器であり、凶器には殺めるべき対象が存在する。
ひゅっ、と。
微かに衣服の先端を撫でながら。
天空に躍り出た女性の脇を、鋼鉄のブーメランが勢いよく掠めた。
栗色の髪が闇に踊る。二房のツインテールが鮮やかに舞う。
純白のドレスを身に纏った、美しき女性が凶刃をかわす。
ブーメランを回避したのが女性ならば、ブーメランを投げつけたのもまた女性。
暗色のフィットスーツを纏った、桃色のロングヘアーの女が、手元に戻った刃を握り締めた。
同時に、疾駆。
更なる風切り音が鳴り響く。
入れ替わるようにして飛び出したのは、鈍色に輝く1枚のボードだ。
さながらサーフィンのそれに似た金属の板が、しかし海上ではなく虚空を駆ける。
ボードの駆り手は赤髪の少女。
まとめたワインレッドの髪を揺らし、顔には不敵な笑みを浮かべ。
高らかに飛翔したサーフボード女が、その先端を下方へとシフト。
標的は茶髪と白ドレスの女だ。
そしてこのボードこそが、移動手段であり攻撃手段だ。
瞬間、撃発。
どどどどどっ、と音を立て。
赤き閃光が弾丸をなし、一気呵成に射出される。
さながらマシンガンのごとき連射だ。弾頭はバレーボール大の大口径エネルギー弾。
この激烈なスコールをまともに食らえば、当然ただでは済まされない。
故に、避ける。
馬鹿正直に受け止めにかからず、全てをことごとくかわしてみせる。
ぎゅん、と。
戦闘機が機首を下げるかのようにして。
眼下の地上を向いた栗毛頭が、猛烈な速度で急降下。
地面に激突するよりも早く。
下ろした機首を持ち上げる。
大地すれすれの低空飛行で、押し寄せるエネルギーの嵐を回避。
右へ曲がり、左へ曲がり。
高速で蛇行する女性の両脇を、断続的に弾丸が襲った。
右で1つの爆発が起これば、左でまた1つ爆発が起こった。
次々と地面に着弾する中を、縫うようにして着実にかわす。
連射が止まった。攻め手が止まった。
ならばここからが反撃の時間。
再度上昇した女性の腕が、その手に握ったものを持ち上げる。
左の手のひらが掴むのは、黄金に輝く魔導師の杖。
真紅に煌くスフィアが明滅。
足元に顕現するはミッドチルダ式魔法陣。
槍の穂先のごとき先端を中心に、続々と魔力の弾丸を形成。
連弾のお返しはこちらも連弾。
放たれたのは射撃魔法だ。
さながら散弾銃のごとく、桃色に輝く魔力弾を、10発同時に発射した。
闇に描かれる桜花の軌道。さながら晩春の桜吹雪か。
上から。下から。右から。左から。前から。後ろから。斜めから。
縦横無尽な軌跡を描く、光の桜の花びらが、ボード娘目掛けて襲いかかる。
されど、当たらず。
先ほどの顛末を再現するかのように。
巧みに空を掴むランディングボードが、するりするりと反撃をかわしていく。
カット、カット、続いてターン。
さながら曲芸師の軽業だ。
舞い散る桜吹雪の中、無邪気に遊びまわる子供のように。
変幻自在の金属ボードが、時間差で迫る全方位射撃の中、踊るようにして華麗に回避。
ち、と。
栗毛の女魔導師が、消え入るような舌打ちを鳴らした。
ぴくり。
肌色の耳が動く。
更なる気配を察知する。
ぐいっと振り返ったその先には、長髪を舞わせるもう1人の少女。
1つ前はボードからの射撃。
もう1つ前は巨大ブーメランの投擲。
今まさに迫らんとする敵が握るのは――双剣か!
刹那、激突。
瞬きのうちにゼロ距離へと殺到。
ほとばしるのは眩いスパーク。
桜色の光に染まる刃と、咄嗟に展開した防御魔法陣との衝突。
互いに桃の煌きを放つ両者が、じりじりと音を立て膠着する。
片や剣をメイン武器とする接近戦型。片や目に見えて射撃タイプの遠距離型。
不意を突かれた形でぶつかり合えば、どちらが押し負けるかは明白だ。
ばちっ、と。
電気の弾けるような音と共に、白きドレスが弾き出される。
当たり負けした魔導師が、背中から斜めに地面へと叩き落とされる。
接地の瞬間、歯を食いしばった。
ロングスカートから伸びる両足が、勢いよく地面を踏み締めた。
がりがり、がりがりと。
土を削るようにして足場を滑る。
靴裏に張り巡らせた魔力で急ブレーキをかけながら、バックの態勢で大地を駆ける。
この隙を見逃す敵ではなかった。
地上から追撃をかけるのは、右手を突き出したもう1人の赤毛。
両足に履いたローラーブレードで地を掴みながら、仕込まれた銃口から弾丸を乱射。
ばらまかれる殺意の弾丸の中、魔導師は再び杖を構える。
エネルギーチャージ。
収束される魔力の輝き。
先端にほとばしる桜花の光輝。
先ほどの誘導弾よりもなお強く。
敵の放つ弾丸よりもなお巨大に。
轟、と。
遂にそれは解き放たれた。
さながらダムの決壊だ。
極大の爆音を轟かせながら、地を疾走するのは極太の光条。
巻き上がる塵を焼き尽くしながら。
渾身の力を込めて放たれた砲撃魔法が、ローラーブレードの少女を飲み込まんと迫る。
されど、これも当たらず。
渦巻く魔力の奔流は、しかし虚しく空を貫いた。
攻撃をかわされたのを認知するのと。
両目をくわと見開くのと。
どん――と鈍い音と共に、腹部に衝撃を感じるのと。
それら全てはほぼ同時だった。
突如襲い掛かった痛烈な衝撃に、ゴム鞠のごとく吹っ飛ばされる魔導師。
最後に視認したのは、ゼロ距離にまで迫った人影だ。
青い髪を短く切りそろえた、長身の女性の顔立ちだ。
赤毛と入れ替わるようにして、砲撃をかいくぐって突っ込んできた新手が、がら空きの腹にフックを見舞った。
推測するのは簡単だ。
だが、全く見えなかった。
驚異的速度で接近する軌道を、目視で追うことすらかなわなかった。
背面に更なる衝撃を感じる。
何かが突っ込んできたのではなく、自分から何かに突っ込んだ感覚。
背後に聳え立つ岩山に、その身を激突させたのだ。
更なる追撃が襲い来る。
岩石に叩きつけてもなお、敵は満足するつもりはないらしい。
砂煙を突き破り迫る刃。続々と投擲される投げナイフ。
瞬間、爆発。
轟音と爆炎を撒き散らし、途絶えることなく巻き起こるエクスプロージョン。
めらめらと燃え盛る炎の中。もくもくと立ち込める黒煙の中。
ややあって、それも晴れる。
程なくして視界がクリアになる。
がん、と響く音と共に。
襲撃者達の視線の先にあったのは、杖を地に突く魔導師の姿。
「はぁ……はぁっ……はぁ……っ……」
荒い息が響いていた。
玉のような汗が頬を伝った。
苦しげな表情の顔へと手を伸ばし、浮かんだ汗を拭い去る。
柔らかな肌から離れた水滴が、真に玉になって宙に浮かんだ。
そう。
落ちるのではない。
そのまま宙に浮いたのだ。
この荒涼とした大地に、ミッドと同じ重力は存在しない。
頭上に広がる漆黒は、地上の宵闇のそれではなく。
音声を鼓膜に届かせるのは、空気ではなく漏洩魔力。
そう。
ここは――月面だ。
ミッドチルダの衛星軌道上に浮かぶ、2つの月の片割れだ。
彼女と敵対者達が激戦を繰り広げるのは、数多のクレーターの刻み込まれた月の大地だ。
膨大な魔力を内包した、ジェイル・スカリエッティが陣取る総本山だ。
《あかん、なのはちゃん! これ以上は危険や!》
《なのは! 急いでこっちに合流して!》
両肩で息をする女性の頭脳へと、直接流れ込んでくる2つの念話。
既に魔導師の身体はボロボロだ。
その身に纏った白きドレスは、ところどころが破損していた。
魔導師の身を守るバリアジャケットは、今の攻撃を食らう前から、随所にダメージを負っていた。
これ以上長くはもたない。
これまでに力を使いすぎた。
今のこの状況に至るまでに、既に何十何百もの敵を打ちのめしてきたのだ。
「大丈夫だよ……だから、2人は先に行って……」
嗚呼、それでも。
《なのはちゃんっ!》
「ごめんね、フェイトちゃん、はやてちゃん……ユーノ君や……みんなにも、そう伝えて……」
《なのはぁっ!》
それを聞き入れるわけにはいかないのだ。
ここで引き下がるわけにはいかないのだ。
ほとんど悲鳴のような友の声を、強制的に遮断する。
震える両手で杖を掴み、傷ついた身体を持ち上げた。
痛い。苦しい。身体に力が入らない。
幾重にも刻み込まれた傷跡と、限界ギリギリまで魔力を行使し続けているが故の脱力感。
だが、それだけだ。
まだ死には届かない。
ならば、まだ動ける。
戦える。
「うっふふっのふぅ~♪ 随分とまた粘りますことぉ」
おどけたような声が響いた。
人を小馬鹿にしたような、吐き気がするほどに気に食わない笑いだ。
視線を向けた正面には、横並びに並んだ10の人影。
一番右端に立っているのは、先ほどブーメランを投げつけた、長髪にヘッドギアを嵌めた女性。
その左隣に浮いているのは、光り輝く双剣を操る、濃い茶髪をロングに伸ばした少女。
その左隣に浮いているのは、彼女と瓜二つの顔立ちをした、しかしどこか少年のような中性的な人影。
その左隣に立っているのは、恐らくナイフを投げた張本人であろう、背の低い銀髪と隻眼の少女。
その左隣に立っているのは、仕込み機銃の掃射をかけてきた、赤毛とローラーブレードの少女。
その左隣に浮いているのは、今まさに魔導師を嘲笑った、眼鏡と銀色のコートの少女。
その左隣に立っているのは、右肩にランディングボードを担いだ、ワインレッドの髪の少女。
その左隣に立っているのは、水色の髪を持つこと以外、何の装備も持たない素手の少女。
一番左端に立っているのは、茶髪を首の後ろで纏め、右手に巨大な火砲を携えた少女。
「何故そうまでして戦う、高町なのは?」
そして真ん中に割り込んだのが。
「これ以上やったところで、お前には万に一つも勝ち目はない。ただ何も為せぬままに、無様に死体を晒すだけだぞ?」
先ほど腹にパンチをくれた、四肢から光のブレードを生やした女性。
それら10人全員が、一様に同じデザインのフィットスーツを纏っていた。
彼女の相手していたそれら全員が、人間を超越した戦闘機人だ。
多勢に無勢にもほどがある。
向こうの頭数はこちらの10倍。こちらは既に魔力切れ寸前。
絶望的な状況だ。
「……確かに、死ぬかもしれないね」
にやり、と。
それでも彼女は不敵に笑む。
絶望などおくびにも顔に出さず、毅然と笑みを浮かべてみせる。
「私の身体は死ぬかもしれない。でも、私が守ったフェイトちゃん達は死なない。みんなが無事に生き延びてくれれば――」
たとえ肉体が滅んだとしても。
たとえ五体が朽ち果てたとしても。
「――私の希望は、生き続ける」
この胸の魂は決して死なない。
何を恐れることがあろうか。
何故引き下がることができようか。
この身に代えてもこの場は死守する。
自ら引き受けた殿の責務、この命が尽きようとも貫き通してみせる。
「行くよ」
静かに、宣言し。
月の大地を踏み締めて。
純白の装束を纏いし魔導師は、迫り来る敵達へと構えを取った。
これがエース・オブ・エースと呼ばれた魔導師の、現時点までの記録に残る最後の戦いである。
最終更新:2009年09月24日 16:08