はじめての外泊-3

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はじめての外泊-3 - (2009/05/17 (日) 00:01:57) の編集履歴(バックアップ)


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(誰だ、この女)
 愛子には失礼な話だが、愛子が電話に出たのかと眞一郎は思った。声の明るさ、テンションが
眞一郎の記憶の中ですぐに愛子と結びついたからだ。それで、電話をかけ間違いたのだと思い込
み、電話の相手を確認しようと、愛ちゃん? と声に出しかけたところで眞一郎はふと気づく。
仲上です、と名乗ったことを――それで、かけ間違いではないと。冷静になってみると、今電話
の向こうにいる女性の声は、明らかに愛子よりももっと年上という感じがする。意表をつかれて
眞一郎は混乱してしまったが、やはりあの人しか考えられないという結論にたどりつく。
『――眞ちゃんなの?』
 それにしても、まるで恋人でも確かめるような甘い口調に眞一郎は頭を抱えたくなり、「かあ
さんなのかよ……」と不満をぶちまけるみたいにぼやいた。
『――あら、一週間、顔合わせないだけで母親の声が判らなくなったの? この子はっ』
 眞一郎は比呂美を見て、眩しいものを見るように目を細めて携帯電話を握りなおした。どうし
たの? と比呂美は目だけで返したが、眞一郎はそれに対して何も答えず電話に集中した。
「酔ってるのかよ」――眞一郎のこの言葉が、比呂美への説明となった。理恵子が他人に酔っ払
っていることを指摘されるなんて珍しいと比呂美は首を傾げたが、眞一郎がどうにもこうにも困
った顔をしているので、苦笑いせずにいられなかった。
『――酔ってるわよ。さっきね、おとうさんとワイン飲んじゃったの。うふふふ……』
(なにっのん気にワインなんかっ飲んでるんだよっ!)
 ごきげんな理恵子の声が今の眞一郎には癇に障り、眞一郎のこめかみをぴくぴくさせた。
『――ところで、比呂美は着いたかしら?』いくらかまともな口調に戻って理恵子が訊ねてきた。
「あ、うん。さっき着いたよ」
『――そ。よかった』と理恵子は大して関心なさそうに言ったが、途端に明るくなって『眞ちゃ
ん、あとはよろしくぅ』とカラオケで次の人にマイクを渡すみたいにおどけた。
「はぁぁぁー?? よろしくって、どうすんだよッ?」と眞一郎は理恵子の悪ノリに対して怒鳴
らずにはいられなかった。すると、理恵子のほうもすごいけんまくでやり返してきた。
『――あなた! まさか! 比呂美を追い返すつもりじゃないでしょうね? いくらなんでも、
それは比呂美がかわいそうよ。眞ちゃんはそんな冷たい人間じゃないわよね? 今晩、そこに泊
めてあげてちょうだい!』
「かあさん! 本気で言ってんのかよッ!」
 すかさず大声で眞一郎が返すと、比呂美は慌てて立ち上がり、眞一郎が携帯電話を持っている
腕のそばに座り、携帯電話に耳を近づけた。眞一郎は一瞬身を反らしたが、比呂美が理恵子の言
うことを聴きたがるのも当然だろうと思い、携帯電話から漏れる音声を比呂美に聴き取りやすく
するために、携帯電話を耳から少し離して頭を比呂美に寄せた。
『――当たり前じゃない。この時間に比呂美をひとり放り出せるわけないでしょう。眞ちゃんの
そばにいるのが一番安全じゃない。そのほうが、かあさんも心配しなくてすむわ』
「そりや、そうだけど……」と尻すぼみ気味に眞一郎はいうと、「もうひとつ心配なことがある
だろう」とごにょごにょっと呟いた。この後半のセリフが理恵子に聞こえたかどうか分からない
が、そばにいる比呂美には聞こえたので、比呂美はいったん目を真ん丸くしてから、あれあれ
~? と意地悪する風に眞一郎の顔を覗き込んだ。眞一郎は、んんっ、とひとつ咳払いをして電
話に集中しなおすと、『――いまさら何言ってんだか……』とぼそっと吐き捨てるような声が耳
に入ってきた。
 理恵子が発したこの言葉の本当の意味を、眞一郎が理解できるわけなかった。比呂美が理恵子
に眞一郎とのエッチのことを白状したことをまだ知らないのだから。理恵子としては、当然、眞
一郎がこの言葉の意味を分かるわけないとふんで、個人的にスリリングを楽しむために、『比呂
美の処女を奪っておいて何言ってんだか』という意味であえて言ったのだが、眞一郎としては、
『比呂美とは一年以上も同じ屋根の下で暮らしておいて……』という意味で捉えてしまう。ただ、
この言葉が比呂美に聞こえてたらどうなっていたか、というところまで理恵子の考えは及ばず、
幸いにもといったらいいのか、比呂美の耳にはこの言葉は入らなかった。
「と、とうさんは、何か言ってた?」とおそるおそる切り出した眞一郎に、ほらきた、と理恵子
は思う。
『――あら、気になる? 知りたい?』
「そりゃ……、そうだろう。……あんなこと、あったんだし……」
『――そうね……』
 眞一郎が途端に真剣な表情になったので、比呂美はさらに携帯電話に顔を近づけ、横目で眞一
郎の表情の変化に注意を払う。比呂美の視線を感じながら眞一郎は理恵子の言葉を待つ。
『――比呂美を泣かしたら、ぶっとばすって言ってたわよ。おとうさんと電話、替わる?』
 理恵子の最後の言葉に、眞一郎と比呂美はごくりと生唾を飲み込んだ。ほぼ同時に。ふたりに
とって、眞一郎の父・ヒロシは『威厳』のそのもの。実の息子の眞一郎はそれを意識的に感じて
しかるべきなのだが、比呂美も同じように感じているのは、比呂美が小さいころからヒロシに対
する眞一郎の態度を見てきたせいがあるのかもしれない。それに、比呂美にとっては今は経済的
な柱なのだ――だから、この人の言うことはちゃんと聞かなければいけないと誓っている――比
呂美の両親の名誉のためにも。ただ、ヒロシは見かけの雰囲気とは違ってそれほど厳しい父親で
はない。どちらかといえば、優しい親・甘い親の部類に入るだろう。そんなヒロシが、一度だけ
眞一郎を半ば感情的になって殴りつけたことがあった。理恵子と比呂美の目の前で――。そのこ
とがずっと、眞一郎と比呂美の頭の中に残り続けている。
 そのときのことを思い出した眞一郎は、携帯電話を持ったまま固まってしまった。その硬直の
様子が、どうやら理恵子にまで届いたらしく、容赦なしに大笑いした。
『――あははははっ、バカね~。冗談よ』
「へっ?」と眞一郎は素っ頓狂な声を上げ、比呂美も理恵子の冗談にずっこけて眞一郎にどんと
頭をぶつけてしまった。それで眞一郎は携帯電話を落としてしまい、比呂美と同時に慌てて拾う。
『おとうさんは特に何も言ってないわよ。安心しなさい』
 眞一郎の動揺ぶりに少しかわいそうに思った理恵子は、同情交じりに優しくそう伝えた。
「そ、そうなんだ……」と大きく胸を撫で下ろす眞一郎。その横で比呂美は、砂浜に打ち上げら
れたクラゲみたいにちゃぶ台に突っ伏している。
『――でもね、眞ちゃん』
 眞一郎を甘やかすばかりではいけない。理恵子の声が、水晶のように冷ややかで透きとおった
声に変わる。電話越しでもそういう印象がほとんど劣化なしに伝わってきたので、眞一郎は心の
中で静かに固唾をのんだ。
『――おとうさんが、あのとき、なぜ殴ったのか……。その意味を考えなきゃダメよ』
(殴った、意味……)
『自分なりに答えを見つけなきゃダメよ』
(自分なりに……)
 眞一郎は、理恵子の言葉を頭の中で反復した。眞一郎だって、比呂美と付き合うと打ち明けた
あとに父・ヒロシから殴られたことをずっと考えてきた。ヒロシの行動を比呂美との交際を認め
ないという意思表示だと当然理解したが、それ以降、ヒロシがそのことについて一言も触れない
のと、眞一郎と比呂美がお互いに真剣な気持ちで付き合うと確認し合っていることで、なんとな
く今までずるずると『父の拳』の意味を深く考えずにきてしまった。もちろん、比呂美との交際
をつづけたまま。
 眞一郎は、ちゃぶ台に突っ伏したまま顔を横に向けて自分を見ている比呂美を見た。比呂美は、
眞一郎が理恵子に何か言われたんだと感じ、少し目を細めた。
『――かあさんは、もちろんその意味が分かってるし、たぶん、比呂美も分かってると思うわ』
「比呂美も?」と比呂美を見たまま眞一郎は訊き返した。自分の名前を聞いて比呂美は体を起こ
し、また眞一郎の腕のそばまで近寄った。
 少し間があって、理恵子は眞一郎の問いに対して、比呂美も分かっているはずだと自分自身で
も確かめるように『そう……』と答えた。そして、いくらか明るい口調に戻ってつづけた。
『――女はそういうことに、ピンとくるものなのよ』
「お、女の勘ってやつ?」
 なんか自分だけ仲間外れになった気分の眞一郎は苦し紛れにそう返したが、理恵子に『あはは
は、違うわよ』とあっさり否定されて少しむっとした。理恵子の笑い声は、携帯電話に耳を近づ
けずにいた比呂美にも聞こえた。比呂美は、眞一郎の受け答えの様子をただじっと見ていた。眞
一郎が理恵子の言葉に対して真っ直ぐに集中しているのがひしひしと伝わってきたからだ。その
姿を見て、いきなり訪問せずに昨日のうちに連絡を入れておくべきだったと比呂美は少し悔やん
だ。そうしていれば、今ごろ『行為』に突入していたかもしれない……。
『――女はね、愛されることで幸せを感じるということよ』と、笑いが治まってから理恵子は言
ったが、眞一郎にはピンとこなくて、『ま、眞一郎にはこういう話、まだ早いわね』と理恵子に
付け加えられてしまう。比呂美が見ている手前、「なんだよっ」と眞一郎は強がって見せること
しかできない。
『――とにかくね、眞ちゃん。おとうさんが比呂美の外泊を許したのは、おとうさんなりに意味
があると思うのよ。おとうさんは、はっきりと口には出さないけど、かあさんはそう思うのよ。
だから……』ここでいったん、何かに思いあたったように理恵子は言葉を止めた。
「だから、なに?」
 肝心なところでなんだよ、と眞一郎はせっかちに言葉の続き求めたが、理恵子は、『比呂美の
こと……』と呟いただけで、眞一郎に続きを言うべきか迷った。はっきりとセックスについて言
うべきかどうかということを。そして……。
『――この先は、言わなくても分かるわよね?』
 理恵子は、言いかけた言葉を言わないことを選択した。もちろん、ふたりのために……。正確
には比呂美のためにといったほうがいいかもしれない。
「ま、まぁ~。なんとなく……」
 頼りにしてますよ、という感じに理恵子に言われたので、信一郎は、母・理恵子が何を言おう
としたのか分からないまま分かった風に答える。そんな自信の無さは理恵子にはお見通しで、お
叱りを受けることになる。
『――もう。しゃんとしなさい! 比呂美がそばにいるんでしょ!』
「う、うん……」と、眞一郎は人差し指でぽりぽりと頬を掻く。
 細やかに眞一郎と比呂美の仲に気を配っているというのに、眞一郎が曖昧な返事をするもんだ
から、理恵子は声を荒げずにはいられなかった。その余韻は『――まったく』と吐き捨てさせた。
 比呂美くらいにしっかりしてほしいものだというセリフが喉まで出かかったが、理恵子はそれ
を言うのを止めた。実は、比呂美に負けないくらい眞一郎も芯がしっかりしていると思っていた
からだ。実の子供であるとか、両親を亡くした比呂美にはまだまだ情緒不安定なところがあると
かということを差し引いても理恵子はそう思っていた。眞一郎が金沢に滞在中、理恵子たちに内
緒で比呂美をここに呼び寄せようと思えばいくらでもできたはず。急行電車に乗れば片道一時間
とかからないのだから。バレずに一晩を過ごすことなど簡単なことだ。この年頃は、目の前に
『甘い状況』があれば気持ちを抑えられずにすぐそれに飛びついてしまう。現に、比呂美のアパ
ートで眞一郎と比呂美は体を重ねている。一度そうなると、高校生の男女というものはそういう
ことに加速して止まらなくなってしまう。でも、眞一郎は流されずに、意識的にそうしているか
どうかは分からないが、性欲をコントロールしている。比呂美のほうが痺れを切らせて金沢へ飛
び出してしまうという始末だ。案外このふたりは『名コンビ』なのかもしれないと理恵子はふっ
と思った。
『――ところで。あした、帰ってくるんでしょ?』
「うん」
『――ちゃんと、比呂美に楽しい思い出を作ってあげるのよ。これは、おとうさんとおかあさん
からのお願い。比呂美にはお店のこと手伝わせてばかりだったから……』
「…………わかってるよ……」と噛み締めるように眞一郎は頷いた。
『――それじゃ、おやすみ。比呂美にも、おやすみって伝えてね』
「うん……。おやすみ」
 理恵子との電話はここで終わった――。携帯電話を静かにちゃぶ台の上に置いてから、眞一郎
は、ふーっと息を吐いた。比呂美は、三つ編みの毛先をいじるのを止め、眞一郎に訊ねた。
「おばさん……何て?」
 どのことから言おうかと眞一郎は迷う。いや、それ以前に、母・理恵子にすべて見透かされて
いると今の電話から感じたことに頭がいっぱいだった。比呂美のアパートでの『素肌の語らい』
について見透かされていると――。でも、そのくらい理恵子が察知していて不思議はないと眞一
郎は思うのだが、それを知っていて、理恵子たちが、なぜ比呂美の外泊を許すのだと訳が分から
なくなる。眞一郎は俯いたまま比呂美に顔を向けずに、とりあえずこの場のふたりにとって最重
要事項をしゃべった。
「……比呂美を、泊めてあげなさいって……」
 かすれてしまって、やっと押し出されたように出てきた言葉――。あまりにも力を失くした感
じだったので、眞一郎の男としてのプライドを深く傷つけてしまったのではないかと比呂美は思
った。眞一郎は、セックスのことを遊び半分で考えたことなど一度もないのだ。比呂美にそんな
素振りを見せたことなど一度もないのだ。なのに、夜を共にするためにいきなり訪問してくるな
んて、眞一郎の理性が許すわけがない。眞一郎とはそういう男の子だったではないか。比呂美の
胸はちくちくと痛んだ。
「……あ……あの…………怒った?」と、比呂美はおそるおそる眞一郎に声をかけた。
「初めから……その……泊まるつもりで来たのか?」
 まだ俯いたまま眞一郎は比呂美に訊ねる。真剣に考えた末にそうしたのだという意味をしっか
り込めて「うん」と比呂美は返事した。比呂美のその気持ちが伝わったのか、眞一郎は顔を上げ、
語気を強めて「おまえ……いいのかよ……」と比呂美に念を押した。「うん。いいよ」と比呂美
は迷いなく返した。眞一郎は、ぷいっと横を向き「どうなっても、知らないぞ」と吐き捨てた。
「うん」――どうなってもいいよ、あなたとなら。比呂美の気持ちは揺らがない。
 比呂美のその返事を聞いて、しようがないやつ、と眞一郎は口元を緩め、体にまとわりついて
いた緊張感を流れ落とすように大きく鼻から息を吐いた。比呂美もそれを見て少し安心したが、
ただ、眞一郎がセックスのことについて、どうなっても知らないぞ、などと無責任なことを言う
なんて珍しいなと思っていた。珍しいなんてものじゃない。眞一郎はそんなこと一度も言ったこ
とがないのだ。母・理恵子にからかわれ、比呂美には『ふたりきりの夜』を予告なしにセッティ
ングされてしまう。そのことで眞一郎が強がって出てきた言葉なのだと比呂美はそう納得してい
たが、眞一郎はその言葉を文字通りの意味で発していたのだ。ほんとうに、どうなっても、知ら
ないぞ、という意味で――。ほんとうに、そうだったのか、と比呂美が気づくのはもう少しあと
になってからだった。
「それにしても、おふくろ……。その……おれたちのこと応援しすぎというか、なんていうか…
…ふつう、許したり……」
「あの、そのことなんだけど……」と、比呂美は眞一郎が話している途中で割り込んだ。昨日、
仲上家であったこと。理恵子と話したこと。そして、ずっと理恵子に対して感じてきたことを眞
一郎に早く伝えたかったからだ。
「なに?」まだ何かあるのかよ、と眞一郎は顔をしかめて比呂美の言葉を待った。
 眞一郎がまた深刻そうな顔をしたので、そんなに難しい顔しないでという意味を込めて、比呂
美は「うんとね……」と朋与のバカ話でもするみたいに話を切りだそうとした。そのとき、眞一
郎の注意が急に別のことへ移る。眞一郎は、左右を向いたり、天上を見たりして鼻をくんくんさ
せた。「あれ? なんか……いい匂いしないか?」と言いながら匂いの正体が何か考える。香ば
しくて、バーベキューを思い起こさせる匂い……。すぐに「これって、ニンニク?」という結論
にたどり着く。
「あっ、そうだ。忘れてた」
 比呂美は飛び上がり、和室からバスケット持ってきてちゃぶ台の脇に置き、そのふたを開けた。
ニンニクの匂いがさらに強まったが、バスケットの中身がビニール袋に包まれていたので一気に
広がるという感じではなかった。比呂美は、ビニール袋の縛った口を解いて、その中身を眞一郎
に見せた。
「サンドイッチ、作ってきたの」
「ふ~ん」といいながら眞一郎はバスケットの中を覗き込んだが、ニンニクの匂いがダイレクト
に伝わってきてのですぐにのけぞり、嬉しいやら悩ましいやら「うわはっ」と奇声を上げた。そ
して、またバスケットに顔を近づけ、こんどは匂いを楽しんだ。
「ん~いいにおい。でも、すんごぉい(すごい)におい」と、眞一郎は鼻をつまむ。
「ニンニク風味カツサンド、ひろみスペシャル2008秋バーション。夏バテ気味のあなたっ、
おひとつどうぞっ」
 比呂美が店頭販売の売り子みたいにおかしなことを言うもんだから、眞一郎は「な~んだよ、
それッ」といって、ふきだした。やっと笑ってくれた、と比呂美は内心ほっとし、ここでいった
ん眞一郎の気持ちを和らげてから昨日のことを話したほうがいいかな、と思う。
「たべてみる?」
「うん。たべるたべる」と、眞一郎は犬のように首を縦に振る。その仕草にくすっと笑いながら、
比呂美はバスケットから取り出した紙製のお皿をちゃぶ台に置き、そのうえにスペシャル・カツ
サンドをひとつのせた。それから、また立ち上がり、和室に置いてあるスポーツバッグの中をあ
さった。銀色の円筒形の水筒を取り出す。眞一郎は、カツサンドにかぶりつこうとしたが、比呂
美が戻ってくるのを待った。
「コーヒー。いれてきたの」比呂美は、紙コップもバスケットから取り出し、それにコーヒーを
注いだ。
「いつもの香りだ……」
 比呂美の部屋でしか味わえないこの味、この香りが、いま目の前に広がって、感無量という感
じに眞一郎は目を閉じ、それらすべてを独り占めにするかのように大きく息を吸った。いま眞一
郎のまぶたの裏には、白とピンクに彩られた比呂美の部屋が映し出されている。瞳を開けば、比
呂美もいる。目を開けようか、まだ閉じたままでいようか少し悩んでしまう。でも、やはり、目
を開けよう。比呂美を見ていたい――。そう思って眞一郎が目を開けると、思いがけない『感
触』が待っていた。目を開けたとき、比呂美の顔がすぐ目の前にあって、比呂美の目はすでに閉
じられていた。そう、目を閉じていても眞一郎の唇を捕らえることができるという距離に比呂美
はいたのだ。刹那を経ずして、眞一郎は柔らかな感触と鼻孔から漏れる息遣いを知る。
 うまくできた。とびっきり優しくキスできた――という達成感を比呂美はようやく味わえた。
こんな触れ合うだけのキスでも、こんなにも胸が熱くなる。ずっとこのまま触れ合ったままでい
たいけれど、長くこのままでいると逆に苦しくなってトキメキがマイナスに転じてしまう。引き
際を見極めるのもキスでは肝心なこと。眞一郎と比呂美のキスは、ほんの5秒くらいだった。さ
て、このキスが感動的なものだったかどうかは、お互いの顔が離れたあとの眞一郎の表情を見れ
ば分かる。視線をすぐに逸らし比呂美をまともに見ることができない眞一郎は、少しすねたよう
な顔をした。当然、顔を赤らめながら。「おまえ……」ととがめるように言いながらも、その次
の言葉が紡ぎだせないでいる。眞一郎もたまらなく胸が苦しくなっている証拠だ――たったキス
ひとつで。
 そんな眞一郎の様子に、比呂美は眞一郎の胸に飛び込みたくなる衝動に駆られた。しかし……。
しかし今は、それを必死に堪えた。今、眞一郎に飛びつけば、眞一郎は反発してしまう。そんな
気がする。
(あせってはダメ。とびっきりの『夜』にするんだから)
 比呂美は胸の内でそう繰返しながら、「さ、サンドイッチ、たべてみて」と明るく促した。

 キスの不意打ちをくらった直後なので、紙皿の上のサンドイッチに伸びる眞一郎の手は、何か
に怯えるみたいにおぼつかない。何か罠が仕掛けられていそうな気がするのだ。サンドイッチを
つかむ直前、最終確認とばかりに眞一郎はいったん比呂美に目をやる。比呂美はわざと、なにか
あるぞ、といわんばかりに無言で笑っている。逆にそれが眞一郎を安心させた。比呂美がほんと
うに悪戯するときは、その気配を微塵も感じさせないからだ。眞一郎は小学生のころからそのこ
とをよ~く知っている。だから、このサンドイッチには何も仕掛けがないのだ。断言できる。
 それにしても、この『ニンニク風味カツサンド・ひろみスペシャル(以下略)』は、見るかに
おいしそうだ。匂いもさることながら、見てるだけで食べた気分になってしまうほどの製作者の
こだわりと熱き魂を感じさせてくれる。比呂美が眞一郎にとって『特別な存在』だということを
差し引いたとしてもだ。――まず、カツなどの具材をはさんだパン。ほぼ正方形の食パンを三分
の一切り落として長方形にし、表面をキツネ色に焼いている。この焼き加減は、表面はサクサク
で、裏側はフワフワといったところだろう。その食パンを二枚重ねて、その間に具材をはさんで
いる。そして、具材――。みずみずしいレタスとをカツが食パンの端からはみ出している。ボリ
ュームたっぷりな具材が、二枚の食パンの距離を見事に押し広げ、このサンドイッチは、サンド
イッチというよりも、欧米人が食べるハンバーカーを思い起こさせる。中身はどんなになってい
るんだろう? と単純に興味をもった眞一郎は、上側の食パンをぺらっとめくってみる。途端に
ニンニクの香ばしさと、ソースの甘酸っぱさと、カツの肉汁が散弾銃のように眞一郎の全身を襲
ってきた。眞一郎は一気に恍惚に捕らわれた。
 眞一郎がこの『ニンニク風味カツサンド・ひろみスペシャル』の迫力に圧倒され、なかなか口
に運ぼうとしないので、「ね~。はやくたべてよ」と比呂美は内心嬉しさを感じつつもすねてみ
せた。その一言で、眞一郎は現実に着地させられ、「あ、うん」と曖昧に返事をしながら、カツ
サンドにかぶりついた。いきなり、三種類の食感に眞一郎は感動した。パンの表面のカリカリ、
カツのころものサクサク、そしてレタスのシャキシャキ。それらを口の中でもぐもぐしていると、
次第にカツの肉汁とマヨネーズと特性ソースの味が口の中いっぱいに広がっていく。それから、
ブラック・ペッパの辛味。それらが渾然一体っとなって、脳天を突き抜けていくような感覚を覚
えた。グルメを題材にしたアニメーションで、試食後のど派手な演出がお約束のようにあるが、
あれはあながち度過ぎた誇張ではないなと、脳みその冷静な部分で眞一郎は思った。ほんとうに、
おいしかった、比呂美のこの、え~と、『ニンニク風味カツサンド・ひろみスペシャル(以下
略)』が……。ベテラン主婦(といってもまだまだ現役と言い張る)・理恵子でも、眞一郎にこ
れほどのものを食べさせたことがなかった。
 最初にかぶりついた一口を完全に飲みこんだあと眞一郎は、感激を言葉に乗せて力強く「うま
い」と比呂美にいった。
「涙が出るほどおいしかった?」と比呂美は笑い返した。
「え?」
 涙が出るほどって……、比呂美は何を言ってるんだろう、と眞一郎は思ったが、自分の目を意
識的にまばたきすると、知らぬ間に目じりに涙が溜まっていて両目がすこしヒリヒリした。慌て
て涙をぬぐって、眞一郎は照れ隠しに豪快にカツサンドにかぶりついた。「ニンニク、きかせす
ぎなんだよっ」と捨てぜりふを吐いて。
「だって、眞一郎くん。電話でさ、なんか、だいぶ疲れてるかんじだったんだもん。せ……」
 精力つけなきゃ、と言おうとして比呂美は慌てて口をつぐんだ。これって、まるで……。この
カツサンドが、『夜における相互理解(つまりセックス)』のために妻が夫に精力材を与えてい
るみたいではないかと思ったからだ。なんか言わなきゃ、と比呂美は目を泳がせたけれども、そ
んなことを気にも留めずに眞一郎はカツサンドに夢中。ほっとするやら、気づいてほしいやら、
比呂美は複雑な気持ちになる。
 それにしても、眞一郎があまりにもおいしそうに食べるもんだから、比呂美もなんだか食べず
にはいられなくなって、カツサンドをバスケットから取り出した。そして、「わたしもだべよっ
と」といってかぶりついた。
 自分で作ったものとはいえ、眞一郎が涙をちょちょぎらすのも無理ないなとカツサンドの出来
栄えに自惚れながらも比呂美は、自分が相当に空腹だったことにようやくはっきりと自覚した。
昨日から、いや、もっと前から比呂美はずっと緊張状態にあった――空腹を忘れるほどの。眞一
郎に会いに行くことを許してもらえるだろうか。許してもらうためには、どう話を切り出せばい
いだろうか。そのことばかり考えていたのだ。そして昨日、いよいよ理恵子と対峙したときに緊
張状態はピークを迎えたが、その修羅場を乗り切っても比呂美の緊張状態は半分くらい残したま
まずるずると続いた。それは、ヒロシと理恵子に眞一郎との外泊を許してもらって興奮していた
のも当然あったが、今日の日を眞一郎との『特別な日』にしなければいけないという、気負いと
いうか、プレッシャーというか、そういうものが比呂美を知らず知らずに追い込んでいた。必ず、
絶対に、何が何でも、この日を、この夜を、いい思い出にしなければならないという……。でも、
そんな比呂美の気持ちなど露知らず、のん気にカツサンドをぱくつく眞一郎に比呂美は拍子抜け
してしまった。この鈍感! と肘鉄を食らわしたくなる感情を一気に通り越してしまうほどだっ
たが、このあと比呂美は、眞一郎のことを甘くみていたなと反省させられる。
 ひとつ目のカツサンドを食べ終えてコーヒーを一口すすったあと、眞一郎はバスケットの中を
覗き込んでカツサンドの数を数えた。残り8個ある。
「これ、いっぱいあるから、あしたの朝食にしよう」
「ん」と、比呂美は口をもごもごさせながら頷いた。
「それでっと……」といいながら比呂美の様子を見た眞一郎は、もう一度コーヒーをすすってか
ら、「おまえ、さっき何かいいかけたよな」とつづけた。
(えっ!)
 思いがけないことを聞かされたときのように比呂美は反射的に顔を眞一郎に向け、口を動かす
のを止めた。自然と目がまん丸になって驚いた顔になってしまった。あとになって思えばそれほ
ど驚くことではないのだが、眞一郎がずっと話を切り出すタイミングを計っていたことが意外だ
った。カツサンドをあんなに感激して食べていたから、比呂美が何か言いたそうにしていたこと
を忘れていても不思議はない。また自分から話を切りださないといけないかな、と比呂美は思っ
ていたが、眞一郎から切りだしてくれたことにすこし胸が熱くなった。でも、比呂美が口の中の
ものを急いで飲みこんで「あのね」と喋りだそうとした途端、眞一郎に笑われてしまった。
「比呂美、ここ」と言って、眞一郎は自分の口の端を指差して、何か口のまわりについているこ
とを比呂美に教えた。眞一郎が指示した口の右端を舌を出してぺろっとなめてみると、特製そー
すだった。こんな肝心なときに、ヘマするなんてっ。比呂美は慌ててちゃぶ台の上のティッシュ
ペーパーを一枚引き抜いて口元をぬぐい、眞一郎のコーヒーを一口飲んだ。眞一郎は特に動じず
微笑んでいる。なに緊張しているんだろう、と比呂美は自分のことが可笑しくなる。ふと、液晶
テレビに目をやると、トレーニング・ウェアを身にまとった主人公が両手を天に突き上げ、雄叫
びをあげているようだった。そうだ、主人公がボクシングの試合をする直前のシーンだ。その映
像を見ていると、だんだんに緊張がほぐれていき、闘志が湧いてきそうだった。比呂美は、ひと
つ、ゆっくりと、深呼吸をしてから話しはじめた。ちょっと遠回りしたけれど、今、自分が抱え
ている気持ちを伝えるべき時だと信じるように、眞一郎との関係がもっと深まることを信じるよ
うに……。
「何から話せばいいのかな……」と不安げに比呂美は切りだしてみた。
「おれ、ちゃんと、聞くから。安心しろ」
「……うん」(いつからそんなに男らしくなったのよ)
 比呂美はあまり顔に出さずに苦笑いしてつづけた。
「えっとね、とりあえず、順番に話すね」
「うん」と頷くと同時に眞一郎は、さっき比呂美が口をつけたコーヒーを静かにすすった。

                   ◇

 比呂美が眞一郎との体の関係を認めた瞬間、理恵子はあからさまに肩を落とした。天井で吊っ
てあった糸がぷっつんと切れたような感じだったが、理恵子は落胆しているということではなか
った。ただ、比呂美には落胆しているように映ったようだった。なにしろ、理恵子のこんな様子
を今まで見たことがないのだから。理恵子のことだから、ふんと鼻でも鳴らして気丈に振舞うだ
ろうと予想していたのだ。それがまるで正反対だったので、比呂美は肩を落とすという様子を目
にしただけでうろたえてしまい、理恵子の細かな心情をすぐには探れなかった。
 嘘――を、つくべきだったのだろうか、眞一郎とは『まだ、交わってない』と。そうすれば、
理恵子との関係は今まで通りでいられるかもしれない。比呂美の頭の中にそのことがよぎった。
でもすぐに、嘘をついて誰のためになる? 嘘をつくことで誰かを傷つけない? と、その弱気
で事態を先延ばしにする発想に集中砲火を浴びせて片っ端から撃墜していった。
 今、ここで、嘘など必要ない。でも……たしかに、学生の分際で、さらに仲上家にお世話にな
っている分際で、眞一郎と体を重ねてしまったことに正直なところ後ろめたさは、ある。理恵子
が肩を落とすのと見て動揺してしまうのが、その証拠だ。しかし、単なる性への好奇心、性欲を
貪るためではなく、お互いの『気持ち』を確かめ合うために『直に』肌と肌を触れ合う必要があ
ったほど、その時の眞一郎と比呂美には切羽詰ったものがあった。そして、その原因の一端は理
恵子にあったのだ。
 でも、だからといって、比呂美は当てつけに眞一郎を求めたわけでは決してない。理恵子のつ
いた嘘などとっくの昔にどうでもよくなっていた。というよりも、その嘘を信じてしまったこと、
母親を信じきれなかったことのほうが深く心に刺さったのだ。その心を癒すためには、とにかく、
言葉以上の『何か』が必要だった。服を着たまま抱きしめ合うだけでは足りなかった。唇を重ね
てもまだ足りなかった――眞一郎と比呂美のふたりの、いまにも心臓が飛び出さんばかりに高鳴
る胸を落ち着かせるには――。そうしなければ、とても不安でたまらなかった。そうしなければ、
とても生きた心地がしなかったのだ。だから、比呂美は後悔などしていない。はじめから後悔な
どない。経緯はどうであれ、愛する人と結ばれたのだから……。
 比呂美が顔上げて理恵子を見ると、そこにはとても懐かしいものがあった。比呂美にとって懐
かしく感じるもの。駄々っ子に手をこまねいて困っているのだけれど、いとおしくてたまらなく
て微笑むような表情……。しようがない子ね、と聞こえてきそうな口元……。理恵子はそんな顔
をしていた。
 いつから理恵子はこんな表情をしていたのだろうか? 比呂美はそのこと考えてみたが、やは
り、自分が首を縦に振った直後だということにしか思いあたらない。だったら、さっきの理恵子
の落胆ぶりは何だったのだろう、と比呂美は疑問に思った。だが、すぐに比呂美は気がつく。あ
れは、落胆ではなく、単なる緊張の糸が切れた瞬間なのだと。そうだ、壮絶なシーソーゲームを
繰り広げてバスケの試合に勝ったあとの高岡キャプテンや朋与の様子に似ている。勝利に歓喜し
たいけれど、それよりも極度の緊張状態から開放されて腑抜けになって、声は出ない、真っ直ぐ
に立っているのがやっとという状態。落胆に見えたのは、以前、理恵子が堂々と宣言してくれた
言葉を裏切ってしまったと、心の隅で思いつづけてきたせいかもしれない。
「比呂美は、わたしたちの子供です。わたしが責任をもって育てます――」
 全身を駆け巡り、下腹に響いた理恵子の言葉。その言葉を理恵子の真横で聞いていたというの
に眞一郎と体を重ねた。それなのに、理恵子は微笑んでいる。わがままをいって困らせたときに
母がよくした顔を思い出してしまうような表情で……微笑んでいる。
 逆に、ここで一発、頬でもぶたれたほうが気持ちが楽だと比呂美は思った。そんな優しい顔を
されたら、ほんとうに『いけないこと』をしたみたいではないかと思えてくる。
(あっ、そうか。わたし、『いけないこと』したんだ。だから、おばさんはこんなに優しい顔を
しているんだ)
 ようやく論理の転換ができるほどに比呂美の心に余裕が生まれた。そうなると、当然のように、
これ以上この人に心配をかけてはいけないという気持ちが襲ってくる。そう思うなら『行為』の
前に思いとどまれ、とつっこまれそうだが、それでも『一線』は守っていることをこの人には伝
えなくてはいけない。いい子ぶりたいからではない。眞一郎の母・理恵子にほんとうに意味で受
け入れてもらうためには、まず、自分からありのままの自分をさらけ出さなければならない気が
したのだった。
 でも、この時――比呂美は的確に言葉を選べるほど冷静ではなかった。背中や掌は冷汗でびっ
しょり。理恵子の目を1秒すら見れない。そんな中で、『眞一郎も自分の体を求めた』という事
実だけが、比呂美にとって唯一の勇気の源だった。だから次の言葉は、理恵子を気遣ってという
よりも、自分を認めてもらうためには言わなければならない、という強迫観念から無意識のうち
に口から出たというものに近かった。
「ちゃんと、避妊してます……」
 その言霊(ことだま)によって、ふたりを包む空気が5℃くらい下がった気がした。少なくと
も比呂美はそう感じた。それは、理恵子の表情が見るからに険しく豹変したからということでは
なく、比呂美の中の物事の基準値が、一気にシフト(横ずれ)したためだった。平たく言えば、
自分寄りに物事を考えていたことを一気に常識の方向に戻させられたということだった。でも、
やはり、その言葉で理恵子の顔がいくらか強張ったのは確かだ。比呂美にもそれが分かった。
 比呂美の胸の内がどうであれ、付き合っている男の子の母親に面と向かって、
『彼とはセックスしました。でも避妊はしています。だから問題ないでしょ?』と言っている状
況と大して変わらないのだから、生意気この上ない。でも、ストレートに『避妊してます』と思
わず口から出てしまった直後、比呂美は自分の『ふしだらな娘ぶり』が目に浮かぶ。そして、も
っとやわらかく、もう少し遠まわしな表現ができなかったものかと悔やんだが、それもあとのま
つり、理恵子もストレートに、容赦なく、真剣に言葉を返してきた。
「わたしを、甘くみないでほしいわ」
「え?」と比呂美が顔をあげきるより先に理恵子の次の言葉は来る。
「眞一郎とあなたが『そういう関係』だと知って、わたしがそのくらいのことで『おたおたす
る』とでも思ったの?」
「…………」比呂美は、生唾をなんとか飲み込んだ。その音ははっきりと頭蓋骨に響いた。
「あなたが妊娠したって、わたしがなんとかしてみせるわよ。よその子供を預かるということは、
特に女の子を預かるということは、そのくらい覚悟してなきゃいけないことなの。もちろん、わ
たしも主人も覚悟しているわよ。
 はっきり言うけど……、あなたの母親はこの世ではわたしだけなの。そして、あなたはその娘。
血のつながりなんか関係ないわ。そうなっちゃったんだから……」
 わたしがなんとかしてみせる――。
 覚悟しているわよ――。
 血のつながりなんか関係ないわ――。
 理恵子が強調した部分。その強い空気の振動が比呂美の肌を貫き体内へしみ込んでいく。そし
て、比呂美の心を優しく包もうとする。そう思えるほどの理恵子の言葉だった。
 比呂美は、ようやく理恵子の顔を、目を、長い時間見ることができた。でも、理恵子のこの言
葉が自分にとって嬉しいことなのか、悲しいことなのか、あるいは残酷なことなのかよく分から
なかった。だぶん、嬉しむべきことなのだろうけど、理恵子にはっきり言われたことで、心の奥
でまだ理恵子に対して壁を作っていたことに気づかされ、そのことに比呂美は愕然とした。そし
て比呂美は――理恵子は、『あの嘘』の罪滅ぼしのために眞一郎との仲を応援してきたわけでは、
決してない――と確信した。確信させられた。理恵子にそういう気持ちがまったく無かったとい
ったら嘘になるだろうが、理恵子は理恵子なりに努力していたのだ。眞一郎と同じように比呂美
を愛するために……。
 理恵子には、眞一郎との仲を応援することで、比呂美の気持ちに接するしか方法がなかった。
いつも真面目で肩肘を張っている比呂美にはそうして近づくしかなったのだ。もちろん、眞一郎
と恋仲になったことは素直に嬉しく思っている。気苦労が増えたとしても、実の息子の眞一郎が
情けなく思えるほど、比呂美は『いい娘』に違いないのだから。
 比呂美は、豆粒を落っことすみたいにぽろりと「ごめんなさい」とつぶやいた。何に謝ってい
るのか、もう訳がわからなくなっていたが、とにかく自然とその言葉が口からこぼれた。
「ばかねぇ。なに、あやまっているのよ」と理恵子は比呂美の頭を軽くぽんと叩いて苦笑した。
でもすぐに表情を引き締めた。
「でもね。比呂美。あなたが眞一郎のところに行くにしても、まだ一つ問題があるわ。わたしは
妻なの。主人を説得しなくちゃいけないの」
 そう、そこが問題なのだ。だから、理恵子としっかり手を組まなければならなかったのだ。
 垂直だった秒針が右に倒れるくらいの沈黙のあと、「……やっぱり、許してもらえないですよ
ね……」と比呂美は肩をすぼめた。
「とにかく、話してみましょう。わたしに任せてちょうだい。なんとかするから」
 理恵子は、女スパイみたいにカッコよくニヤッと笑った。理恵子が妙に楽しそうで比呂美は思
わずふきだしてしまった。

                   ◇

「それで、夕飯のときにおばさんがおじさんに切りだしてくれたの、外泊のこと」
 眞一郎は、あんぐりと口を開けたままだった。驚きと羞恥の連続だった。液晶テレビでは、主
人公がリングの上で対戦相手にサンドバッグのように打たれている。音量はゼロにしたままだ。

                   ◇

「比呂美。あなた、どこか友達と遊びにいく予定はないの?」
 理恵子は、湯のみにお茶を注ぎながら、ごく普通な言葉で、ごく普通な喋り方で訊いた。きた
っ! と比呂美は心の中で叫けび、胸を躍らせた。理恵子が外泊の話を取りつけてみせると言っ
てくれたので心強かったが、でもやはり、ヒロシの前では理恵子のときとは違った別格の緊張感
がある。どう話が転ぶか分からない。この段階では、ヒロシは何も反応を示さず、活字の牙城を
崩さない。(つまり、新聞を広げたまま)
「……いえ、とくに、なにも」と比呂美は平坦に答えた。そう、そうでれいい、と理恵子は小さ
く目くばせした。
「ごめんなさいね。夏祭りやら盆の行事やら比呂美に手伝ってもらっちゃったから、お友達と都
合がつかなかったのね。いいのよ、もう、お店のことは気にしなくても」
「はい……」と比呂美は気のない返事をしてみると、活字の牙城がばさっと音を立てて揺れた。
ま、さすがに父親としては気になるわよね――と理恵子の口元が、ヒロシに分からないように、
比呂美には分かるように笑った。
「すまなかった……。残りの夏休み、好きなように過ごしなさい。なんなら、家にお友達を連れ
てきてもいい」
 ヒロシは、4月の春の陽射しのように優しくて柔らかな表情でそういった。そんな顔もいつま
でつづくやら、と内心つっこみを入れながら、理恵子は「そうよ」と夫の言葉に相槌をうった。
 このとき比呂美は、あることを思い出していた――家にお友達を連れてきてもいい、と言った
ヒロシの言葉で。女子バスケット部で、三年生の引退セレモニーとキャプテン引継ぎ式を仲上家
でやってはどうだろうかという話が持ち上がっていたのだ。いいだしっぺは、悪友かつ宴会部長
の朋与。前回は高岡キャプテンの家でやったのだから、今回は次期キャプテン・比呂美の実家で
ある仲上家でしょう、なにしろお家が広いし、などともっともらしいことを言っていたが、本音
は眞一郎と比呂美が私生活で顔を合わせている場所に押しかけたいだけということに決まってい
る。その魂胆はみえみえだった。比呂美としては、眞一郎や理恵子に面倒をかけることになるの
で嫌だったが、現実的にみても仲上家でやる以外ないな、と腹をくくっていた。でも、まだヒロ
シと理恵子に切りだせずにいた――というよりころっと忘れていた、金沢小旅行のことで頭がい
っぱいで。この女バスの話を切りだすにはちょうどいい機会だったが、理恵子の戦略に乗ってい
る以上、今は余計な話をしないほうがいいなと比呂美は思い、ヒロシの気遣いに対してお礼を言
うだけに留めた。
「はい……、ありがとうございます」
 俯きかげんの比呂美を見て、理恵子は今が攻勢に転じる時だと判断する。
「あなた……。好きなようにしなさい、なんて言うと逆に比呂美が恐縮するじゃない。じゃあ、
好きなようにさせてもらいますって比呂美が言えるとでも思っているの?」
 理恵子は拗ねたようにそう言ってふふっと笑った。じゃあ、どう言えばいいんだよ、とヒロシ
は少し顔をしかめてから苦笑いしたが、そんな夫の様子を受け流して理恵子はいきなり核心に触
れた。
「比呂美も、金沢に行ってきたらどう?」と何の前振りもなくさらりと言ったのだ。
 これにはさすがに比呂美も驚いて、顔を上げて理恵子の顔を見ずにはいられなかった。そんな
比呂美の目に不安な色がかすかににじみ出ていたのだろう、理恵子は、大丈夫よ、と目で返して
言葉をつづけた。
「ほんとうに比呂美にはいっぱい助けてもらったから、感謝しているのよ。でもね……、若いう
ちに見聞を広めておいたほうがいいと思うの。社会人になると自由な時間が極端に減るし、女は
結婚して子供ができるともうがんじがらめよ。わたしたちは早くに結婚したからつくづくそう思
うのよ」
 ヒロシは、なぜか申し訳なそうにこめかみを掻いた。
「そのかわり、子育てから早く開放されたけどね」理恵子はそう付け加えて、ふふっと笑った。
それに若いころを思い出しているような含みを比呂美は感じて、もしかしたら自分の母親のこと
も思い出しているかもしれないと思った。
「それにしても、眞ちゃんだけ、さっさと金沢に行って好きなことやってずるいわよね~。比呂
美だけ夏休みの思い出がないなんて……」といって理恵子はヒロシを見た。
「いえ、そんなことありません。インターハイ予選もあったし、盆の祭りの手伝いも楽しかった
です」と比呂美はフォローしたが、理恵子の言葉がヒロシへ襲いかかる。
「……ごめんなさいね。うちがこういう商売してなかったら、どこか連れて行ってあげられたの
にね……」
 そうだな、と納得したようにヒロシは「うーん」と喉の奥のほうで唸った。ヒロシにはこの理
恵子の言葉がけっこう効いたようだ。
 もうひと押しね、と理恵子は比呂美に目で送ったが、理恵子の言葉が言い過ぎのように思えた
比呂美はちょっとヒロシに同情した。旅行に連れて行ってもらえなくても、他のあらゆることで
ヒロシに満たされているのだから。比呂美は、今まで仲上家に対してひとつも不満を感じたこと
はなかった。
「あした、金沢に行って、一泊してきたらどう? 眞一郎は確か……あさって、帰る予定でし
ょ?」
「はい」
「眞一郎と一緒に、金沢見物してきたらいいじゃない。よその地の空気を吸うことは想像以上に
大事なことよ。比呂美にはもっともっと視野を広げていってほしいわ。ねぇ、あなた、どうかし
ら?」
 理恵子は直球勝負が好きなようだ。いまのところ回りくどいことは言ってない。
「……そうだな……。ただ、夏休みだし、知り合いがやっている民宿が空いているかどうか……
あしたのことを無理言って頼めるかな~ ……」
 ヒロシはもごもごと言ったが、一応、比呂美の金沢行きに関しては異論はないようだ。やはり、
問題は『宿』だ。比呂美の掌は自然と汗をかいた。そんな比呂美の緊張感を嘲笑するかのように、
あっけらかんと理恵子はこう言った。
「眞ちゃんのところに泊まればいいじゃない」
 このインコース胸元の直球のような理恵子の言葉に、ヒロシはのけぞって「なッ!」と奇声を
上げた。ここからヒロシと理恵子の睨めっこが始まった。
 比呂美は目の前の光景に息を呑んだ――。現実から隔絶された空間のようだった。ほんのちょ
っとでもそこに近づこうものなら、見えない力で弾き飛ばされそうなプレッシャーを比呂美は全
身で感じた。理恵子の視線は、ヒロシの目を捉えて離さない。ヒロシもまた同じだ。ふたりとも
超能力で相手の頭の中を探り合っているみたいにじっとしている。この場面を漫画で描くなら間
違いなく、精神世界で壮絶なバトルを繰り広げているようなコマになるだろう。効果線がばりば
りに描きこまれた。
 これはダメだ。とてもヒロシは外泊を許してくれそうにない。諦め気味に比呂美はそう思うと、
ふっと緊張感がほぐれ、ヒロシの顔を見ることができた。強張った表情をしているに違いないと
思って見たヒロシの顔は、意外にも穏やかだった。明らかに優しさの色があった。どちらかとい
うと理恵子の表情のほうが硬い。
(これが、夫婦というものなんだ)
 無言で会話をするヒロシと理恵子を見て比呂美はそう思った。誰もこのふたりの視線の絡み合
いを解くことはできないだろう。それほど強固な見つめ合いができるなんて羨ましいな、と比呂
美は思った。ヒロシと理恵子の間には数多(あまた)の愛情の重なりがある。それによって為せ
る業なのだろう。それに比べて眞一郎との恋愛関係は、なんてちっぽけなものなんだろう。眞一
郎と一週間会えなくなるというだけで心がざわついてしまう。理恵子が眞一郎との仲を妙に後を
押ししてくれることに疑念を抱いてしまう。そんなことどうでもいんだ。そんなことよりも、眞
一郎のことをちゃんと見ていなくちゃいけないんだ。眞一郎が何を思い、何を考えているのかを、
感じなきゃいけないんだ。
 ヒロシと理恵子の無言のやり取りは、10秒くらいのことだったが、比呂美には10分くらい
に長く感じられた。どんなやり取りがされているのか比呂美にはさっぱり分からない。表情がま
ったく変わらないのだから想像しようもなかった。そんなとき、比呂美を安心させるかのように
理恵子が口を開いた。
「眞一郎のそばにいたほうが、比呂美は安全だと思うの。いくら知り合いの宿といっても比呂美
をひとりにはできないわ。わたしが安心して夜眠れないもの。もう、バイク事故みたいなことは
二度とごめんなのよ」
「う~ん」とヒロシは唸るだけ。
「それに、眞一郎は案外しっかりしていると思うの。あのとき、眞一郎が追いかけていなかった
らどうなっていたか……」理恵子はここでいったん声を詰まらせ、鼻水をすすり上げるような音
を軽く立てた。
(えっ!? おばさん、泣いてる?)と思って比呂美は理恵子の顔を凝視した。
「眞一郎はいつも比呂美のことを気にかけていたもの……。中学のときなんか、比呂美のことで
しょっちゅう喧嘩してきて……比呂美を守ってきた……わたしたちよりもずっと……」
 理恵子がそう言ったあと、小刻みに震えていた理恵子の表情がようやくほぐれた。それにつら
れるようにしてヒロシの顔もほころんだ。
(えっ!? これって、もしかしてOKってこと?)
 まだよ、まだよ、喜んじゃいけない、と比呂美は気持ちを引き締めた。やがて、ヒロシの視線
が比呂美に向けられる。そして、「いってきなさい」と言ってヒロシは微笑んだ。
(うそぉー!)
 心の中でそう叫びながら、どういう顔をしたらいいのか分からず、比呂美は反射的に顔を伏せ
てしまった。でも、これで正解だったとすぐに気づく。ここであからさまに喜ぶと理恵子と結託
していたことがバレてしまう。話の流れ上、理恵子が気を利かせて金沢行きを提案したことにな
っているのだから。
「あ、あの、ほんとうにいいんでしょうか?」
 比呂美はいまさらながらおそるおそるヒロシに訊いた。ヒロシは、小さく縦に首を振って頷い
たが、そのあとすぐに理恵子が横槍を入れた。
「眞ちゃんが変なことしたら、思いっきり引っぱたくのよ。体力ではあなたのほうが上なんだか
ら大丈夫よね」
 なにも今そんなことを言わなくていいではないか、ヒロシの気が変わってしまう、と比呂美は
焦ったが、ヒロシはとくに動じず、「そんなことあるかっ」と吐き捨てるように言った。本音で
はやはり心配しているのだが、比呂美の前では息子を疑うところを見せられないといったところ
か。でも、そのあとヒロシは、ふふふっと笑った。まんまと作戦に引っかかってしまった、とい
う様な含みがあった。ヒロシも、何もかもお見通しなんだ、と比呂美は思った。眞一郎と体を重
ねていることも、外泊のことを理恵子に頼んだことも……。知っておきながら、なぜとがめる様
なことを言わないのだろう。眞一郎が自分との交際のことを打ち明けたときは、激昂して無言で
眞一郎を殴りつけたというのに……。比呂美は、眞一郎との外泊を許してもらって両手を上げて
喜びたい気持ちだったが、どうしても割り切れない気持ちが残った。

 その次の日、夕方前に比呂美は仲上家の台所を使わせてもらい、例の特製カツサンドを作った。
アパートで作るつもりだったが、ニンニクの匂いが十日は消えないわよ、と理恵子が仲上家の台
所を使うように勧めてくれた。カツサンドを作っている途中、ニンニクの匂いに何事かと台所を
のぞいたヒロシは、わはっと声を上げて去っていった。
 比呂美は、仲上家で早めに夕食を取り、いよいよ金沢へ出かけようと勝手口に向かっていたと
ころに理恵子が駆け寄ってきた。そして、「これ」といって茶封筒を差し出した。比呂美は何気
にその茶封筒をつかんだが、わずかに茶封筒が透けていたのとその感触とで中には一万円札が数
枚入っているのがすぐに判った。
「受け取れませんっ」比呂美は、首を左右に振って慌ててつき返した。
「早とちりしないで。お土産、買ってきてちょうだい」と、理恵子は比呂美の手首をつかんで茶
封筒をもう一度握らせた。
「えっ、あ……そ、そういうことでしたら……」
 比呂美は、少しほっとして茶封筒を握りなおした。比呂美が茶封筒を受け取ったのを確認して
から理恵子は、どういった品物をいくつ買ってくるかというメモが中に入っていることを教えた。
「眞ちゃんの様子、見てきてね。あの子ったら、一回電話よこしたっきりかけてこないんだもの。
比呂美にもそうなの?」
「いえ、毎日話してます」
 一応、眞一郎の名誉のため、自分から毎回電話をかけていることを比呂美は伏せておいた。
「はいはい、ごちそうさま」と理恵子は呆れたように笑った。おおかたそんなことだろうと理恵
子は分かっているようだった。
「それじゃ、いってきます」
「気をつけていってらっしゃい。余ったお金は自由に使っていいからね」
 ここでまた遠慮すると理恵子に叱られそうだったので、比呂美は素直に「はい」と返事した。
 仲上家を出た比呂美は、バス停に向かった。見慣れた景色や毎日のように歩く道など、どれも
が初めて訪れた場所のように感じられる。前へ進むために繰り出される一歩一歩が、嬉しくて、
なんだか恥ずかしい。恋人に会うため、という目的を持っただけで何もかも塗り替えられてしま
う。外泊がどうこうよりも、ヒロシと理恵子は自分にこういう体験させたかったのではと比呂美
は思わずにいられなかった。
 夕陽はすでに落ちている。その夕陽を追いかけるようにして眞一郎のいる金沢行きの電車に比
呂美は乗った。

                   ◇

「――というわけなの」と締めくくってから、比呂美は空になった紙コップにコーヒーをそそい
だ。液晶テレビの画面には、エンディング・テロップが流れている。ひとつの物語が終わり、そ
してまた新しい何かが始まろうとしているかのように。
 眞一郎は、しばらくの間、黙って考え込んでいた。紙コップを握ったまま……。
 比呂美が外泊を許してもらった経緯を話しているときの眞一郎の顔は、まるでサーカスショウ
のようにめまぐるしく変化した。焦ったり、恥ずかしがったり、いらついたり、驚いたり、納得
したり……。でも段々に落ち着きを取り戻していった。いや、そうではない。正確には、比呂美
が話す出来事ひとつひとつに反応することに疲れていったのだ。それで、挙句の果てに眞一郎は
黙り込んでしまったのだ。眞一郎がそうなるのも無理もないなと思いつつも、比呂美は話をつづ
けた。
 比呂美の話が終わると、当然のようにやってきた沈黙――。液晶テレビの画面には、さっきの
映画とは明らかに違う派手な色使いのコマーシャルが何かに追い立てられているように次々と移
り変っていく。視界の左端からその様子が飛び込んできて、眞一郎は否応なしに自分が追い詰め
られているような気分になる。何か、言わなくては、と……。言葉の選択という脳内格闘の末、
ようやく眞一郎の口から出てきた言葉がこれだった。
「お、おふくろのこと……、そんなに気にしていたのか……」
 その言葉が正確な音となり耳に返ることによってようやく気づくこともある。自分の気持ちを
正直に発していないなと感じた眞一郎は、比呂美に対して少し申し訳ない気持ちになり、また口
ごもった。これじゃまるで父親の話題を避けようとしているみたいではないか――嘘を見抜かれ
てしまったときのように眞一郎の胸は苦しくなる。そして、歯痒さに変わっていく。比呂美はひ
とりで母親と真正面で向き合ったというのに、自分は、父親と未だに向き合えていないと……。
 その胸の内の動揺が眞一郎の顔に出てしまったので、比呂美もどう返事していいのかためらっ
たが、比呂美にとっては理恵子のことが一番気になっていたことなので、「うん」と迷いなく返
せた。
「えっと……、……なんか、さ……」
 はぎれの悪い眞一郎を見かねて比呂美は慌てて「ごめんなさい」と謝ってしまった。今まで比
呂美の口から何度も聞かされたその言葉を耳にして、「なんで謝るんだよっ?」と眞一郎は少し
ムキになった。その苛立ちは当然、比呂美にではなく眞一郎自信に向けられている。困ったよう
な態度が比呂美を謝らせてしまったのだと気づいた眞一郎は、下唇を噛んだ。
「眞一郎くんに相談しなかったこと……」と比呂美は謝った理由を答えたが、眞一郎には比呂美
が謝った理由などどうでもよかった。比呂美にその言葉を言わせてしまったことが問題なのだ。
でも、ここでそのことについて悶々としていても仕方がなかった。
「……べ、べつに、いいよ。いろいろ驚いたけど、来てくれて嬉しかったし……。ほんとうなら、
おれのほうからさ……」
 金沢に誘うべきだった――と、眞一郎は言おうとしたが、言えなかった。比呂美がここに来て
しまったあとでは、何を言っても格好がつかないと思った。そして、またしても次の言葉がうま
く出てこない。眞一郎が液晶テレビに目をやったり、紙コップをもてあそびながら言葉を探して
いると、比呂美は眞一郎の苛立ちを察して眞一郎の言葉を待たずに話しだした。
「あの、わたしね――。ほんとうに、おばさんに宿、取ってもらうつもりだったの。眞一郎くん、
疲れが溜まっているだろうし、押しかけないほうがいいかなって……」
 ここで一呼吸置いた比呂美は、眞一郎の顔をちらっと見た。比呂美と目が合った眞一郎は、
「わかってるって」と返して視線を外した。
 わかってる――って、何がわかっているのだろうと比呂美は思った。
「でも、こうなること、予想していなかったわけじゃないの……」
 比呂美はそういうとうっすらと頬を赤くした。比呂美の体のまわりに妙な空気がまとわりつく
のを感じた眞一郎は、はっと気づく。比呂美がなんの考えなしに金沢までやってくるわけがない
のだ。比呂美には明確な目的があると。眞一郎の心臓の鼓動が少し速まる。そのことを隠すため
に眞一郎は、「お、おまえな~」と比呂美の挑発的な発言に対して非難めいて呆れたフリをした。
でも、比呂美はそのことに特に気にも留めないようだった。
「電車に乗っててね、ふっと思ったの。なんかひどいことしているって」といって比呂美は窓の
外に目をやった。
「なにがだよ。おれにひどいことしているってこと?」
「ううん、そうじゃない。おじさんや、おばさんによ。おばさんに相談しなくても、金沢に来よ
うと思えば来れたわけだし。それをあえて、おばさんに相談して、なんかさ……脅迫しているみ
たいだなって」
「脅迫? どこが脅迫だよ」眞一郎は心底びっくりしていった。
「だって、許してくれなきゃ、勝手に金沢に行きますってとられてもおかしくない。簡単にそう
だきるんだから……」
 比呂美は眞一郎を見る目に力を入れてそういうと、眞一郎は比呂美の感情の高ぶりを代わりに
冷ましてあげるように大きく鼻から息を吐いた。
「比呂美……、考えすぎだって」
 考えすぎなのだろうか。比呂美はそのことについて考えてみた。そうかもしれない、そうでは
ないかもしれない。うまく考えがまとまらない。ただ、比呂美を含めた仲上家はまだ微妙なバラ
ンスの中にあるのは確かなような気がした。それに加え、眞一郎と比呂美は今、難しい年頃なの
は間違いないのだ。
「わたしたちが想像している以上に、おじさんやおばさんは、わたしに気を遣っている。今回の
ことで、なんかそう思っちゃった」
 比呂美は昨日のことを振りかえってしみじみとそういった。なんでもひとりで背負い込もうと
する比呂美の悪い癖が顔をのぞかせたなと思った眞一郎は声を荒げた。
「だったら、かあさんはなんでずっと比呂美に冷たくしていたんだよ」
 思いもよらず激しい口調で眞一郎が返してきたので、比呂美はびっくりして目を丸くした。そ
れに、眞一郎の心の中ではまだ、以前の理恵子の比呂美に対する冷遇がはっきりとした形で残っ
ていることにも少なからず驚いた。ふつうに考えればそれは当然のことかもしれない。理恵子の
とった態度は比呂美の心に傷を作ったのは確かだし、眞一郎も少なからず心を痛めたのだから。
でもそのことは、あまり長く引きずっていてはいけないことだと比呂美は感じていた。理恵子も
当然そのように思い、お互いにその傷を癒すために努力してきたが、眞一郎だけはそれに少し取
り残されてきたようだった。
「それは……だぶん……だけど……」比呂美は表情をほころばせて言った。
 比呂美の穏やかな表情を見て、眞一郎の心の中に渦巻いていた熱気がすうっと薄らいでいく。
洪水の後で水が引いていくときのような感じがする。眞一郎はその流れに自分だけ取り残された
ような気持ちになりながら比呂美の言葉を待った。
「いろいろ、あったんじゃないの? ……わたしたちみたいに……」
 比呂美はちゃぶ台の上に置かれた両手を組んたままの状態で指を伸ばしたり曲げたりした。
「いろいろ?」と訊き返してみたものの眞一郎には比呂美の言っていることがまだよく分からな
かった。
「そのことは、もういいじゃない。ね?」
 眞一郎の頭上にうごめく靄(もや)をはらうように比呂美は笑顔を作った。その笑顔は、比呂
美に恋してしまったと自覚したときのことを眞一郎に思い起こさせた。それで、眞一郎は急に胸
の辺りがむずむずして、「ん~なんだかな~」と口ごもりながら頭を掻いた。まだ完全に靄は晴
れていないようだ。比呂美を崖っぷちまで追い込んだことだから、比呂美に「もういいじゃな
い」といわれても、それをそのまま受け入れるのには抵抗があった。比呂美の笑顔にごまかされ
てはいけないと心の奥の方がざわついていた。でも、比呂美は今の自分を信じてほしいと思う。
「それより、これからのこと、考えよう」
 比呂美は、ひとつひとつの言葉を丁寧に、眞一郎の心にしっかり届くようにそういった。それ
ともうひとつ、別の含みを持たせた。眞一郎にはそれがなんとなく分かり、少し照れた。
「ん~、ま~そうだな」
 いまひとつすっきりしない感じで眞一郎は苦笑いしてそわそわしたが、その態度を一掃するよ
うに比呂美はあっけらかんとしていった。
「ねぇ、シャワー浴びてもいいかな?」
「えっ」と反射的に眞一郎は声を上げて比呂美の顔を見たが、そのときにはもう比呂美は立ち上
がっていて、隣の部屋に置いたスポーツ・バッグのもとへすたすたと歩いていった。眞一郎は、
比呂美の背中に返事をするかたちになる。
「あ、あぁ、うん……」
 比呂美はスポーツバッグの前に膝をついてしゃがむと、まず胸元にきていた三つ編みを後ろへ
はらった。その力加減がまだうまくつかめていないのか、三つ編みは勢いよく背中に回され、二、
三度背中をバウンドした。その様子を、そよ風に揺られる細長い葉っぱを観察するような目で眞
一郎は見つめていた。比呂美が三つ編みにしたのはいつ以来だろう。高校生になってからは、初
めてのはずだ。もっと正確に遡れば、比呂美の両親が亡くなってからは比呂美は三つ編みにした
ことはないはずだ。眞一郎の記憶にはっきりと三つ編みの記憶が残っているのは、十一歳のころ
のことだ。そのとき、小学校からの帰宅途中に比呂美を偶然見かけ、比呂美は眞一郎を見るやい
なや顔を伏せて走り出してしまったのだ。もうすでに学校一のスプリンターになっていた比呂美
の姿はあっという間に消えてしまった。当時の眞一郎には何がなんだか訳が分からなかった。次
の日、比呂美はいつものヘアースタイルに戻していた。眞一郎が比呂美の三つ編みを見たのはそ
の一日だけだった。
 比呂美はスポーツバッグから体をすっぽり巻けるくらいの大きなバスタオルを取り出すと脇に
置き、次にそれよりも小さいバスタオルを取り出して上に重ねた。それからシャンプーのビンな
ど、ひと通りのものを出し終えると、大きなバスタオルの両端をつかんでそれらをくるみ、胸の
前で抱きかかえて立ち上がった。眞一郎は、慌ててテレビを見ているフリをする。
 比呂美はまるでわが家にでもいるみたいに迷いなくすたすたと眞一郎の脇を通り過ぎたが、眞
一郎は比呂美の姿が視界から消えたところではっと気づき、比呂美を呼び止めた。無意識に近い
行動だったが、比呂美がシャワーを浴びてしまう前に決めておいたほうがいいことがあったのだ。
「ちょ、ちょっと」
「なに?」比呂美は振り返ってきょとんとした。眞一郎の慌てぶりから、下着でも落ちたのかと
思い、さりげなく床を確認して眞一郎を見た。眞一郎はいったん和室に目をやってから比呂美に
向かって言った。
「寝るところ、決めておいたほうがいいと思って」
「あ……、そうね」
「比呂美はこっちの和室」といって眞一郎は和室に向かって指差した。「このふとん、使ってい
いから。タオルケットも」と付け加えた。
「うん。でも……」
 比呂美はそういうと、和室に戻って戸の開いた押入れをのぞいた。もう一組、布団がない。あ
るのは、敷布団の下に敷く、スポンジが中に詰まったマットレスとタオルケットが一枚。眞一郎
も和室にやってきて、「おれは、このマットでごろ寝でいいから。どうせ、暑いし」と比呂美の
懸念を振りはらうようにいった。
 眞一郎の提案は妥当なところだろうと比呂美も納得し、「ごめんね」と返した。『ありがと
う』に限りなく近い『ごめんね』のつもりだったが、眞一郎は比呂美を謝らせてしまったことを
気にしたらしくフォローした。
「べつにいいって。いっつも暑くて、布団の上で起きたためしがないんだから」といって眞一郎
は笑った。
「じゃ~、いつもほっぺに畳の跡がついてたんじゃない?」と冗談半分で比呂美は訊く。
「そうそう」比呂美の言うとおりだったので眞一郎は感心したようにいった。
「もう、マンガみたいなんだから」
 比呂美は少し呆れてそういうと、ふたりは何かを思い出したみたいで同時にふきだした。
 窓から夜風が静かに訪れる。それは決して偶然の流れとしてではなく、誰かの意思によって届
けられたようにふたりのもとにやってきた。眞一郎と比呂美は、その風で肌の上にうっすらとか
いた汗が冷まされるのを感じ、無口になった。ふたりとも、相手がなにか喋りだすのを待ってい
た。眞一郎は比呂美が、比呂美は眞一郎が、次の言葉を紡ぐのを――。それで、見つめ合っては
いなかったものの無口になり、ただ突っ立ったままになった。でもやがて、このままこうしてい
てもしようがないだろうと思いはじめたとき、ふたりとも猫の鳴き声のようなものを聞いた気が
した。それは、窓の外のかなり遠くのところから届いたような音だったが、鼓膜を確実に通過し、
ふたりの脳裏にはっきりと焼きついた。そのことが、この沈黙を破った。
「じゃ~、わたし……」といって比呂美は眞一郎の脇をすり抜けてバスルームへ向かった。
 眞一郎は、比呂美がバスルームに入ってしまう音を確認すると、窓に寄って、外の音に耳を済
ませた。相変わらず、虫たちの声は盛大だったが、猫の鳴き声を耳にすることはできなかった。
 しばらくして、シャーというシャワーの音がはじまる。眞一郎は、ちゃぶ台を壁によせて、和
室へ向かった。押入れからマットレスとタオルケット取り出したあと、押入れの戸を閉め、洋室
に寝具を広げた。それから、洋室と和室の境の戸も閉めた。きっちりと。

 およそ三十分後――比呂美がバスルームから出てくる。
 マットレスの上であぐらをかいて小さい音量でテレビを見ているうちにうとうとしてしまった
眞一郎が振り返ったときには、比呂美はバスルームから出て洋室に一歩入ったところで立ってい
た。
「パジャマ、忘れちゃった……」
 眞一郎が振り返ってから比呂美はそういったが、眞一郎には比呂美の言ったことがどういう意
味なのかすぐに理解できなかった。確かに比呂美はパジャマを着ていなかったが、少し丈の長い
Tシャツを着ていた。夏場は比呂美はTシャツを着て寝ていることを眞一郎は知っていたので、
何かの単語を『パジャマ』と聞き違えたのだと思ったが、比呂美の姿を見ているうちに妙に足が
すらっとしているなという印象が膨れ上がり、衝撃的な事実にようやくたどり着いた。そして、
『パジャマ』という単語を聞き違えていなかったのだと気づいた。
 比呂美はショーツの上になにも身に着けていなかったのだ。Tシャツの丈が長かったせいで、
ショーツそのものは露になっていなかったが、Tシャツの上から薄く透けていて紺色のショーツ
を履いているのは間違いなかった。
 今となっては、心臓が飛び出るほどの驚くことではなかった。今まで比呂美のそういう姿をた
くさんではないにしろ何度も目にしてきたのだから。眞一郎みずから比呂美をそういう姿にした
こともあったのだから。でも、比呂美の行動はいつも眞一郎の想像の斜め上をいく。
「おれも持ってきてないし」といいながら眞一郎はひねっていた体を元に戻した。
 あれ、意外と慌てなかったな、と比呂美は口元を微笑ませ、歩き出した。和室の戸がきれいに
閉められていることにも比呂美は感心した。和室はすでに『女の子の部屋』になっているのだ。
 比呂美が和室の戸を開けたところで、眞一郎はもう一度振り返って比呂美を見た。斜め後ろか
ら見た比呂美の姿。三つ編みが解かれている――。この角度からでははっきりと紺色のショーツ
が確認できた。Tシャツの下にきれいに隠れていてもおしりのふたつの膨らみがTシャツを外へ
押し出し、ショーツの色と輪郭が浮き上がる。眞一郎はべつに比呂美の下半身を見たいがために
振り返ったわけではなく、比呂美が何か言ってくるような予感を感じたからだった。でも、比呂
美は眞一郎の予想に反して素通りしていった。着ていたワンピースやバスタオルを胸の前でしっ
かりと抱えて……。
 和室の戸が閉められてから、比呂美が通り過ぎていく姿に眞一郎は違和感を感じた。下半身が
ショーツ一枚だけということとは別にだ。下半身のほうに目を奪われていたから、すぐには気づ
かなかったが、背中を少し丸めた姿勢だとブラジャーの輪郭が目立つはずだと。それなのに比呂
美の背中には……なにも、なかった。
 比呂美は、今、ブラジャーを着けていないということになる。比呂美の行動はいつも眞一郎の
想像の斜め上をいく。斜め上どころではない。遥か上だ。眞一郎はマットレスに横になり、ミジ
ンコのように体を丸めた――和室に背を向けて。
 スポーツバッグをあさる音がしばらく続いた後、髪を乾かすドライヤーの音が鳴り出した。
 女の子って大変だよな、と思いながら眞一郎はドライヤーの音を懐かしく思った。比呂美が仲
上家で暮らしていたころは、比呂美の部屋からよく聞こえていた。比呂美の部屋の匂いがよみが
えり鼻腔をくすぐる。仲上家、比呂美のアパート、そしてこの部屋……。それぞれの場所の感覚
が混ざり合って、今どこにいるのか訳が分からなくなるほど、頭がふらふらした。でも、比呂美
はそばにいる。手を伸ばせば届くところに。比呂美が、そばに来てくれたのだ。
(こんなんじゃ、おれ、ダメだ……)
 眞一郎は唇を噛みしめ、さらに体を丸める。
(おふくろは、なにもかも知っている……)
 今、三つ編みを解かれて温風と戯れる比呂美の長い髪を眞一郎は想像することができなかった。


――次回予告《 三 あせっちゃった……》
 いつもと様子が違う眞一郎。
 内心、首をかしげながらも眞一郎の言うことに従う比呂美。
 それでも、だんだんとふたりの想いが重なり合ってきて……
 突然、電話が鳴った。


《 三 あせっちゃった……》

(やっぱり、わたしたち……。まだまだ、子供だ……)
 台所を通って、脱衣所のドアを閉めた比呂美は、いつのまにかに少しずつ溜まった心のもやを
一気に吐き出すようにため息をついた。ため息をついた直後、比呂美自身も驚いてしまう。こん
なにも緊張していて、ストレスを溜めていたことに。
(どうして、こんなに、疲れてるんだろう)
 自問する比呂美。知らず知らずのうちに必死になっている自分がいる。確かに、眞一郎への想
いは真剣だし、嘘偽りない。眞一郎のことがいつも心の真ん中にある。だからといって、いまさ
ら眞一郎によく思われたいなどと思って自分を作ったりはしない。そうする必要はないし、それ
以前にそんなことをするのは嫌いだ。でも、なにか、なにか心の奥底に引っかかるものがある。
ずっと、ずっと奥に、意識の光が直接届かない窪んだところになにかある。たぶん、ひとつでは
なく、いくつかあるんだ。石動乃絵とのこともそのひとつなのかもしれない。
(いするぎ、のえ? なんで思い出してんだろう?)
 比呂美は顔を上げ、辺りを見渡した。壁にあるスイッチの常夜灯を頼りに灯りをつける。今ど
きの建築コストをケチったアパートと違って、脱衣所が広く感じられる。ドアを入って突きあた
りに洗濯機が置かれ、左手に洗面台がある。右手が風呂場になっている。洗濯機の天蓋の上に胸
の前に抱えたものを置き、洗面台の鏡を見る。自分がいる。『女』がいる。湯浅比呂美という
『女』がいる。鏡に映る自分を見て、比呂美は自分のことを『女』だと認めざるを得なかった。
明らかに、自分の姿はもう『少女』ではなかった。どんなに幼いフリをしてもそれにはもう戻れ
ないのだ。そう思うと、自分の背中の向こう側にあった、今まで歩んできた道が消し飛んでしま
ったような感覚が襲ってきて、全身がぶるっと震えた。まるで崖に背を向けて立っているような
気分だ。振り返れない。振り返ったら、体の重心が移動して崖から落ちてしまうかもしれない。
比呂美は鏡に右手をついて体を支えた。鏡に寄りかかっていれば少なくとも後ろへは倒れない。
その代わりに鏡の向こう側の自分との距離がおのずと縮まる。ふと理恵子の言葉が頭の中をよぎ
った。
――わたしがそのくらいのことで、おたおたするとでも思ったの?
(おたおた?)
 比呂美は鏡に映る自分の目を見つめる。右目と左目を交互に確認する。その度に小刻みに瞳が
揺れる。定まっていない気持ちを表すかのように。歯痒さがこみ上げてきて顔をしかめる比呂美。
(わたしは、おたおたしている? もしそうだとしたら、なぜ?)
 その問いかけに対して、比呂美は明確な答えを導き出すことはできなかったが、漠然とだが、
ひとつ閃いたことがあった。理恵子の言葉を思い出したことが、その憶測を生んだ。
 金沢行きを直談判したとき理恵子は、金沢行きを許す条件として、初体験の有無を比呂美に白
状させた。ふつうに考えれば、眞一郎に無理やり体を求められ、最悪な初体験を比呂美にさせた
くないという思いやりからだろうが、よくよく考えれば、いや、よくよく考えるまでもなく、眞
一郎と体の関係をもっていることは早い段階でバレバレなはずなのだ。理恵子は巧妙にそのこと
に気づかないフリをしてきたに違いない。
 だとしたら、いまさら比呂美に初体験を告白させる理由がどこにある? 保護者としての最低
限の義務? 比呂美のことはちゃんと気にかけているという意思表明?
 おそらく、こういうことなのだろう――。
 比呂美みずから性体験について語るということに意味がある。比呂美がそのことについて一度
でも口にしてしまえば、理恵子としては比呂美に対してセックスについて言及しやすくなる。暴
露してしまったことを隠そうとすることは意味がないし、不自然だからだ。でも、眞一郎との秘
密をひとつ打ち明けたからといって、比呂美の気持ちが楽になるかといえばそうではない。比呂
美は理恵子に対して今後正直に話さなければならなくなり、性体験において間違った方向に進展
しないようにしなければならなくなるのだ。つまり、比呂美は理恵子にはっきりと、セックスに
ついての責任を背負わされたことになる。理恵子は、比呂美の性格を熟知した上で、比呂美が自
発的に性に対する抑制をもつように誘導したのだ。
(おばさんは、最初からそのつもりで……)
 比呂美は、三つ編みを体の前にもってきて、毛先を縛っている飾りゴムを外した。もともと三
つ編みのクセをもっていないストレートの髪が、花びらが開くように広がった。三つの髪の束を
毛先のほうから順々にほぐしていく。大海に放たれた魚のようにピチピチと髪がはじけ、三つ編
みにするときは大変苦労したのに、そのことが嘘のように比呂美の髪は元どおりになった。
「せきにん……。責任……」と比呂美はつぶやいてみた。
「責任をもって、育てます。か……」以前、理恵子が言った言葉も自然と口から出てきた。
 傍から見るとある程度の放任とも取れるヒロシと理恵子の態度だが、いろんなところにふたり
の熟慮の痕跡があった。こんどは……、これからは、自分たちが考えて行動していく番だと、比
呂美のことを冷静に見ているもうひとりの比呂美が耳元でささやいた。
 ワンピースの一番上のボタンにかけた手が止まり、しばらくその形状をなぞった。その仕草は
ためらいからくるようなものではなく、すぐ先の未来にある選択肢のひとつを手繰りよせるよう
な動きに見える。やがて、指はそのボタンに衣服に設けられたスリットをくぐらせようとする。
思いのほか簡単に第一番目のボタンが外れた。布地が左右にはだけることによって、胸元への道
が開かれたように感じられる。比呂美は、鏡を見てはだけた部分に目をやる。そのあと、鏡に映
る自分の姿の印象を確認する。急に体の芯が熱くなるのを感じ、一気にこのあとのことの妄想が
膨らむ。いずれ裸になり、眞一郎がそばにいることが脳裏に描かれる。さらに次々とイメージが
滝のようになだれ込んできたが、さきほど耳元でささやいたもうひとりの比呂美がその流れを断
ち切ってしまった。
(早く、シャワー、すませなきゃ……)
 二番目、三番目と、ボタンを次々に外していき、胸から下腹まで完全にワンピースがはだけた。
比呂美は、後ろに両手を回して蝶々結びになっている帯を解いてから、ワンピースを足先のほう
へするすると下ろしていって脱いだ。スリップも同じ要領で脱いでしまうと比呂美の体をまとっ
ているものは、ブラとショーツだけになった。淡いオレンジ色の上下お揃いの下着。比呂美がオ
レンジ系統の色の下着をつけるのは初めてだった。夏休みに入ってすぐに新調したもので、まだ
眞一郎の目には触れていない。比呂美は鏡に背を向けて、自分の後姿を確認する。海水浴のあと
の日焼けにまだなじめないような違和感を覚える。オレンジ色って似合わないのだろうかと、考
えながら鏡に体の正面を向ける。
 この鏡の向こうは、和室。比呂美は耳を澄ましてみる。――静かだ。眞一郎が何かしている気
配は伝わってこない。もう寝てしまったんだろうか。大きく深呼吸してから比呂美は下着を脱ぎ、
風呂場へ入った。
――――――――――――――――
     ふたりの位置
  ┏━┳━━━┳━━━┓
玄関┃ ┃     眞 ┃
  ┣━┻┳━━╋━━━┫
  ┃  ┃比呂┃   ┃
  ┗━━┻━━┻━━━┛
――――――――――――――――
 ゴーというガス湯沸器の働く音が壁を伝って届いてきた。その直後、サーというお湯の噴き出
す音がだんだんと、はっきりと聞き取れるくらいの音量になった。それは窓から飛び込んでくる
虫の声や街の雑踏に似た周波数だったため、シャワーの音の聞きはじめに聴覚が軽い混乱を引き
起こしたが、それらの音源の方向がまるで正反対だったので、すぐに耳が慣れてシャワーの音に
耳を澄ますことができた。やがて、ちゃぱちゃぱと水の塊がはじける音が混じりはじめる。いま、
比呂美の裸体に無数の水滴が素肌のラインをスキャンするように着陸して離陸していく。もし、
『水』というものに『記録』という能力があれば、比呂美の体を完全に再現することができるだ
ろう。そう思えるほどの無数の水滴が、比呂美の体を舐めていく。
 もう、いいだろう。比呂美が風呂場に入るのを待っていた眞一郎は、立ち上がった。もうだい
ぶ前から感じていた下半身の立ち上がりを直すため、トランクスの中に手を入れて『それ』をき
れいに垂直にした。完全な勃起まではまだまだだったが、明らかに膨張の一途をたどっていた。
 今夜――比呂美はどれくらいのことを許してくれるだろうか。どれくらいのことを許すつもり
でいるのだろうか。ふっと眞一郎の頭の中にそんなことがよぎったが、基本的にクールに努めて
いる比呂美の気持ちを探るのは、難しい。そのことで眞一郎はいつも頭を悩ませていた。そっけ
ない態度をしていたかと思えば、いきなりスキンシップを求めてきたり、少しリーダーシップを
発揮しようとすれば、妙につっかかってきたりした。とにかく、比呂美は多感でころころと表情
を変えた。このことは比呂美自身も自覚しているらしく、度が過ぎれば素直に謝ったので、仲を
こじらせることはなかった。
 それに、眞一郎の中にはまだ、小学生のころの純真で天真爛漫な比呂美のイメージが多くその
ままで残っていた。だからどうしても、まだつかみきれない比呂美の気持ちと、もともと比呂美
がまとっていた清純なベールを汚してしまわないかと、眞一郎は比呂美に対して何かをするにし
ても無意識的に恐れを抱き、一歩手前のところで抑制していたのだ。その枷を外すのはいつも、
比呂美が表す明確な意思だった。ただ、急速に体の発育が進む時期にさしかかっているふたりは
――特に眞一郎は――そういうことに居心地の悪さを感じはじめていた。なにか違う、なにか不
自然だと。この部屋を訪ねてきた比呂美の姿をはじめて目にしたとき、ほんの一瞬、なにか自分
が非難されているような感じを覚えたのがその証拠だ。素直に喜べないものがあった。
 ちゃぶ台の上に目を移せば、紙コップがひとつと紙皿がひとつ残されている。急に喉の渇きを
覚え、新たにコーヒーを注いで飲んだ。馴染みのコーヒーの香りが眞一郎の緊張をほぐしていく。
(比呂美は、いつもひとりで話をつける。アパートに引っ越すときも、きのうも……)
 やれやれという感じに軽く鼻から息を吐いた眞一郎は、ちゃぶ台の上を片付けだした。残って
いるカツサンドは冷蔵庫にしまっておいたほうがいいだろう。紙コップは流しに持っていってす
すいだ。それから、ちゃぶ台を壁に寄せてマットレスを敷くスペースを作った。
 シャワーの音は変わりなくつづいている。その音よりも大きな物音を立ててはならないような
気持ちが湧き起こる。この音は、いま比呂美が無防備でいることの象徴なのだから、常に意識し
ていなければならないのだ。
 そういえば、比呂美は三つ編みをしたままシャワーを浴びるのだろうか――眞一郎は、ふとそ
う思った。長い髪をしていながら、比呂美は髪型をいじりたがらないことも思い出した。比呂美
の母親も今の比呂美と同じようにさらさらの長い髪をしていたので、なにか特別な想いが秘めら
れているのだろうと思い、眞一郎は髪の話を持ち出すことはしなかったし、ふざけているときも
比呂美の髪だけは乱暴にいじったりしないように注意していた。
 小学五年生の比呂美が三つ編みにしてきた日――比呂美が妙に落ち着きがなかったのを眞一郎
はなんとなく憶えていた。比呂美が珍しく三つ編みにしてきたので、比呂美の周りの女の子たち
は寄ってたかって似合う似合わないだのわいわいやっていた。そのせいで比呂美の微妙な変化に
気づくものはいなかったかもしれないが、その頃すでに比呂美に対して淡い恋心を芽生えさせて
いた眞一郎はそうではなかった。その比呂美の異変が決定的になったのが、その日の学校帰りの
ことだった。比呂美を偶然見かけて(今になって思えば、比呂美は故意に眞一郎を待っていたの
かもしれないが)学校での様子を比呂美に訊こうとしたまさにそのとき、比呂美はすごい勢いで
走り去ってしまったのだった。そのあと、当然のことながら眞一郎は、ほんとうに失恋したみた
いに落ち込んでしまった。――そんな幼い頃の記憶の輪郭をなぞりはじめたとき、急に首から上
が熱くなるのを感じた。その熱気は胸へ下りていき全身へ広がっていった。眞一郎はとんでもな
いことを思いついてしまったのだ。男女の性についてある程度の知識と経験を得たから分かるこ
と――その日、比呂美が三つ編みにしてきたのは、『女の子』にとって特別な意味があったから
ではないかと。
 おそらく、比呂美の体が『女の体』としてはじまった日――。三つ編みは、比呂美の母親が記
念として結ってあげたのだろう。それでは、『今日』という日に三つ編みをしている意味はなん
なのだろう。眞一郎は、いつのまにか右手の拳であごをさすり、部屋の真ん中で突っ立ったまま
考え込んでいた。
 大事なことは、眞一郎あての何らかのメッセージが三つ編みにあるかということだ。
 昨日、比呂美は、ヒロシと理恵子に外泊の許しをもらった。比呂美の語ったことがほんとうに
しろ、そうではないにしろ、相当な覚悟をもっていたことは間違いないだろう。許しが下りなく
てもほんとうにここまで来ていたかもしれない。眞一郎との恋愛関係について理恵子の気持ちを
確かめたかったと比呂美はいったが、いま冷静になって考えてみればそれだけではない気がして
ならない。理恵子の本音を引き出すのには、鋭くて大きな矢のような気持ちをぶつける必要があ
って、ちょうどタイミングよく眞一郎が泊りがけででかけるという状況になったことは比呂美に
とって願ってもないチャンスだったのだろうが、なにかぽっかりと穴が開いた部分があると眞一
郎は思った。そう、眞一郎には何の相談もなかったことがそれだった――。比呂美が外泊のこと
を思いついたのは昨日今日のことではないはず。おそらく、金沢でのボランティアの話が出たと
きから、いや、もっと以前から比呂美は機会を待っていたのだろう。
 それでも、比呂美がひとことも相談しなかった理由を眞一郎はなんとなく分かった。比呂美は
理恵子と完全に一対一で対峙したかったのだ。だとしたら、三つ編みは、比呂美なりのなにかの
けじめ、なにかと決着をつけた証なのかもしれない。女性は失恋のあと髪を切ることがよくある
というように、髪型を一時的に変えるということだけでも、女性にとっては深い意味がありそう
だ。もっと時間の幅を広げて考えてみたほうがいいかもしれないと眞一郎は思った。
 比呂美の三つ編みについて、流れをみてみよう――。
 小学五年生、おそらく初潮があった。
 比呂美の母親に手伝ってもらうかして、三つ編みにした。一日だけ。その日、比呂美は眞一郎
を避けたが、単に恥ずかしかったのだろう。
 高校生になり、眞一郎に長年の想いを告白。交際をはじめ、初体験。
 その事実を、外泊の許しと引き換えに、母親(理恵子)へ告白。
 次の日、三つ編み再び。
 そして、いままさに比呂美の望みどおりの、ふたりきりの、はじめての外泊――。
(比呂美……。まさか……)
 比呂美は、女の子にとっての一大事に三つ編みにしている。初体験のときは、まだ理恵子との
関係が微妙な時期で精神的余裕がなかったのかもしれない。
 眞一郎は顔を上げ、シャワーの音がする方を向いた。虫たちの声が薄れていき、どくんどくん
という鼓動が頭蓋骨に響いた。胸が締めつけられるように息苦しい。どうしてこんなにも苦しい
のだろう。全身にかかる重圧を眞一郎は感じた。この緊張感は、性的興奮からくるものでは決し
てなかった。その証拠に眞一郎は今、勃起していない。以前この感覚に陥ったときのことを眞一
郎ははっきりと憶えている。それもごく最近の出来事。そう、あの、ヒロシにいきなり殴られた
ときのことだ。
 知らぬ間にちゃぶ台で打ったあごをさすっていたことに気づき、眞一郎はハッとなった。夢の
ときみたいに、いきなり部屋の中にだれかが現れたりしていないか、部屋をひと通り見回した。
音を消したままの液晶テレビ、壁に寄せられたちゃぶ台、眞一郎のスポーツバッグ、比呂美がも
ってきたバスケット。となりの和室には、比呂美のスポーツバッグが戸の近くに置かれてある。
そして、白い敷布団。だれかが新たに現れた痕跡はどこにもない。この部屋には、眞一郎と比呂
美以外はだれもいない。眞一郎と比呂美だけしかいない。比呂美のアパートのように理恵子が不
意に訪ねてくることもない。
 シャワーの音がいったん止んだ。比呂美が体をこすっているのだろうか。比呂美がいつも使っ
ているボディ・シャンプーの匂いがほのかに漂ってきた気がした。
 眞一郎は、再び比呂美のスポーツバッグに目をやった。
(比呂美、もってきているんだろうか……)
 比呂美が金沢に来ることをまったく想定していなかった眞一郎は、コンドームを持ってきてい
ない。比呂美はどうだろうか。普段の比呂美なら間違いなく準備してくるだろうが、理恵子に体
の関係を告白したあとで、理恵子と何らかの約束を交わしていたら、そうではないことも考えら
れる。
(あれ? 前にもこんなことが……)
 眞一郎は、既視感にとらわれた。比呂美がここに来る前のうとうとしていたときに見た夢みた
いではないか、と眞一郎は思った。比呂美がいないところで、コンドームの有無を確認しようと
する。夢の中ではプライバシーを侵してその存在を確認したが、いまもそうすべきだろうかとい
う考えが渦を巻いた。だが、眞一郎はすぐ、それを振り払った。
(いいわけないじゃないかっ)
 比呂美のスポーツバッグから視線を切って、眞一郎は和室の押入れへ向かった。マットレスと
タオルケットを取り出したところで、シャワーの音が再び聞こえてきた。押入れの向こうは、脱
衣所をかねた洗面所。さらにその向こうで、比呂美は全身にまとった香りのしゃぼんを洗い流し
ているのだろう。眞一郎は、押入れの戸にそっと手をかけ、音を立てないようにゆっくりと閉め
ていった。ここまで神経質になっている自分がおかしく思えてきたが、こうすることで比呂美を
気遣っていることを確認したいのだ。完全に戸を閉めてしまうとひとつ充足感に満たされた。
 眞一郎はマットレスを洋室に広げると、和室の戸もゆっくりと閉めた。閉めてしまったあとで、
戸の位置がずれていないかも確認した。これで、比呂美に和室を安心して使ってもらえる。だけ
ど、鍵もないし、音もほどんど筒抜けの状態。こんな状態で安心もなにもないだろうが(眞一郎
もそんなことは分かっているが)、『比呂美をちゃんと守る』という配慮を少しでも比呂美に見
せることが大事なのだ。いまから後の展開しだいでは、そんなのことは無意味になるかもしれな
いが、安心感を比呂美に少しでも感じてもらえるのが、なんだか嬉しく思えてくる。眞一郎は、
テレビの音量をほんの少し上げた。スポーツニュースの音が、もんもんとした空気を部屋の外へ
押し出していく感じがした。眞一郎は、マットレスの真ん中にどっかと腰を下ろしてテレビの画
面を見た。
(おれが、どっしり構えてなきゃ……)
 シャワーから出てくれば、比呂美は何かはっきりと態度で示すはず。それまで待っていればい
いんだ、いつものように……。でも、今回はいつもといろいろと状況が違う気がする。なにか自
分だけ取り残されたような感じがするのなぜだろう。その原因はいろいろと自分自身にあると思
った眞一郎は苛立ちと腹立たしさを覚えたが、とにかく今はそれらを心の中で噛み殺すしかなか
った。
(なにか、居心地がわるい……)

 比呂美はこの格好で出ていくことにほとんど迷わなかった。でも、眞一郎がイヤな顔をしない
だろうかという気がかりは当然あった。不意をついて素肌が露出した光景を見せられると、眞一
郎はいつも困惑したように顔を背けていたからだ。これは、どうやら比呂美が仲上家で生活して
いた間にしみついてしまった条件反射のようなもので、同い年の男の子の家に暮らすことになっ
た比呂美の気持ちを眞一郎なりに極度に気遣った結果だった。この癖は、高校生としてある意味
ではまともなのだけど、お互いの体のことを知ってても、もともとシャイな眞一郎にはそう簡単
に拭い去れそうにもなかった。
(マンガとかだったら、眞一郎くんに目をつぶってもらうのかな……。
 脱衣所から顔だけひょっこり出して、
『着替え忘れちゃったの。目、つぶっててくれる?』とかお願いしたりして……)
 あり得ん。自分はそんなキャラじゃない、と比呂美は苦笑いして、クールなのがわたしよ、と
顔を引き締めて洗面台の鏡を見た。比呂美が脱衣所に持ってきそこねたのは、綿素材の白い短パ
ンのみ。ブラジャーはもともと寝るときにつけるつもりはなかったので、比呂美の今の格好は、
紺色のショーツにTシャツを着ただけ。Tシャツは丈の長いフリーサイズのものなので、ショー
ツは見えるか見えないかのぎりぎりところで隠れてしまうが、Tシャツの裾をさらに下へ引っ張
ってパンチラ・ガードを強化すると、胸に二つの頂がくっきりと形成される。おまけに乳輪が識
別できる程度に透ける。このノーブラにTシャツという光景を眞一郎に見せたことがあるだろう
かと比呂美は思い返してみた。たぶん、ないはず。それにしても、改めて鏡に映して自分のこん
な格好を見ると、ブラジャーひとつだけのほうが清純で控え目に思えてくる。ノーブラ&Tシャ
ツは、明らかに胸の部分はいつもと違う挑発的な形になるし、このまま歩けば、抑制が取り払わ
れている乳房がいつも以上に揺れる。比呂美はつま先立って体を上下に揺すり、胸の部分の変動
を確認してみた。二つの頂が、まるで『M』か『N』の字を書くペン先のように動いた。
「うわ~」と、比呂美は惨事を目の当たりにしたときように思わず声をもらした。
 これは、まだ眞一郎に見せないほうがいいだろう。自分の体のこととはいえ、あまりの卑猥さ
に首元がかっと熱くなるではないか。いくら体を許しあった仲であっても、急に交際相手の目の
前でこういうことに無頓着になるのは『女』としてどうだろうかと比呂美は考えた。恥じらいが
あるからこそ、女なのだ。そうでないと、眞一郎に早い段階で飽きられてしまう。
 でも正直言うと、この格好を見た眞一郎がどんな反応を示すか見てみたい気もした。今の比呂
美には、恥じらいよりもこっちの好奇心のほうが強い。それは、眞一郎がまだまだ自分を抑えて
いるところがあったからだ。いままで眞一郎がいきなり乱暴なことをすることはなかったので、
ふたりきりになっても身構えなくて済んだけれども、男の子ってこんなものなのだろうかとささ
やかな懸念を抱きはじめたのは付き合う前からだった。ガツガツしないところが、眞一郎のいい
ところだし、比呂美としても好きなところだったけれど、だんだんと、眞一郎の性的嗜好は実際
のところ、どんなものなのだろうかと考えるようになった。
(これって……物足りなさを感じてるってことなのかな……)
 比呂美はそう思うと、ハッとなった。眞一郎のことよりも、自分の性的嗜好はどうなのだろう
かと。眞一郎が自分の性欲についてどのような感想をもっているのか考えてみたことがなかった。
いつも眞一郎を満足させているという自信があったからだ。でも、その自信はどこからくる?
 眞一郎との『行為』の最中、比呂美はわりと、自分の気持ちに正直にものを言ってきた。痛い
ときは、『いたい』と言い、嫌なことは、『イヤ』と言った。また、自分たちのやっていること
が、同世代のカップルと比べて進んでいるのか、遅れているのかを考えるのは無意味だと思って
いた。当人同士の意思疎通が出来ていれば、何の問題もないと思っていた。それに、ふたりの関
係が、周りの人間にどう映っているのかなど、さほど気にならなかった。しかし、その周囲の目
に対する無関心ぶりのせいで、理恵子は多くのことをキャッチしていた。
 理恵子は、実の息子の眞一郎のことは当然ながらよく知っているし、夫・ヒロシの性格からも
それを裏づけることができる。また、比呂美の母親のこともよく知っている。比呂美よりも、比
呂美の母とかかわった時間のほうがだんぜん長いのだから。そのことから、比呂美の性格も充分
把握しているところがある。理恵子が比呂美だけに、セックスについて釘をさしてきたのは、比
呂美の傾向を見通した上でのことではないのか。
(わたし、普段から、いやらしいと思われているのかな……)
 比呂美は、鏡に映る自分に対して肩をすぼめた。理恵子にすべて見透かされていそうで落ち着
かない。麦端から遠く離れていても、不意に理恵子が訪ねてきそうな感じがする。こんなにも見
えない鎖につながれたような感じがするのは、精神的にまだまだ子供だということなのだろう。
眞一郎も、比呂美も、自らの全ての行動に対して責任をとることは、現段階では難しい。またし
ても、比呂美の脳裏に『責任』の二文字が浮かび上がった。この脱衣所を飛び出して、眞一郎に
抱きつけば、間違いなく『性の交わり』がはじまるという、そんな瀬戸際の状況だというのに、
こんなにも心にブレーキをかけるものがあるなんて……。
(このブレーキが、おばさんのいう責任の果たし方なんだ)
「責任をもって育てます」といわれても、比呂美の心には漠然としたものしかなかった。たしか
に、経済的なこととか、保護者としての責任については充分理解できるし、一生かけてもお礼し
きれないことだと比呂美は思っているが、平たくいえば、それらはお金の問題なのだ。しかし、
理恵子は、比呂美の理性の教育までしっかり踏み込んできている。有言実行しているのだ。
 比呂美の体がぶるっと震えた。理恵子の圧倒的な存在感に心が怯えたような、そんな寒さを感
じた。そして、頭の中は混乱の渦と化した。
 そもそも、理恵子の、ほんとうに言いたいこととは何なのだろうか。ほんとうに比呂美に分か
ってほしいこととは何なのだろうか。ふとそういう疑問が湧き起こった。
 表面的には、セックスはまだ早い、避妊は絶対にしなさい――とういうことだろうが、真意は
別なところにあるような気がする。だいたい、こんな外泊を許すなんてことはあり得ないのだか
ら。それを許したということは、理恵子は比呂美に、あるいは、ふたりに何かを求めているに違
いないのだ。
 混乱しているけれども比呂美の頭の中にはすでに、その答えのもととなる、もやもやとしたも
のがあった。これが理恵子の求めるものだという気がしていた。昨日、理恵子と一対一で話をし
て、何も感じていないはずがないのだ。おそらく、理恵子が口にした『覚悟』という言葉が、答
えへの道標なのだろう。けれど、もう少しのところで答えに辿りつけない。ほんの少し何かが足
りないのだ。
(眞一郎くんは、どう思ってるんだろう……)
 比呂美は、無性に眞一郎の気持ちが知りたくなった。比呂美の独りよがりな作戦とはいえ、半
分は親がセッティングしたこの外泊。親の存在が見守る中で、ふたりきりで夜を過ごすという気
持ちを知りたい。でも、もしかしたら、このことを眞一郎に尋ねれば、今夜はセックスしないで
おこうという結論に至るかもしれない。その確率は少なくないような気がする。さらに比呂美は、
自分からアクションを起こせば、今夜のことは壊れてしまいそうな予感を感じた。そうなると、
あとは眞一郎に頼るしかない。
(眞一郎くん、わたしの気持ちに気づいてぇー)
 比呂美は、鏡におでこをつけて眞一郎へ向けて念波を送った。非科学的なことだと分かってい
ても、眞一郎なら気づいてくれるかもしれないという望みを捨てきれない。捨てたくない。
(絶対に、捨てなくない)
 比呂美は、洗濯機の上の服やらバスタオルやらをひとまとめにして、胸の前で抱きかかえた。
脱衣所のドアを開けたら、現実とつながったような気がしてほっとしたが、下がパンツ一枚だと
いうことを思い出したのは、眞一郎が振り向いたあとだった。

 ふたりの間になにも起こらないまま、日付が変わってしまった。比呂美の髪を乾かすドライヤ
ーの音が鳴り止むと、肌をちくちく刺激するような静寂がふたりのいるそれぞれの部屋を支配し
た。いや、正確に表現するならば『沈黙』という言葉が適切だろう。虫たちの声は変わりなく続
いていて、眞一郎も比呂美も、明らかにお互いの息づかいを意識していたのだから。ふたりとも
意識的に黙っていた。比呂美は、髪を乾かしたあとトイレにいったときも眞一郎に声をかけなか
った。眞一郎も寝転んでテレビを見つめたまま比呂美に声をかけなかった。ふたりとも『おやす
み』のひとことすら言わなかった。その言葉を発してしまうと、ほんとうに終わってしまう気が
したのだ。なにが? なにがだろう。ふたりには、なにかと戦っているような感覚がずっと続い
ていた。たぶん、その戦いに終止符が打たれ、敗北を認めてしまうことになると感じていたのだ。
そうならないための打開策を無意識のうちに探っていたのかもしれない。
 この小康状態を打破せずにこのまま霧散させ、エッチすることを先に諦めかけたのは意外にも
比呂美のほうだった。同情や罪滅ぼしのために眞一郎との恋仲を応援されているという蟠り(わ
だかまり)を理恵子と一対一で対峙することで払拭して、眞一郎に濃密なスキンシップを求めて、
17歳の夏の思い出を作ろうと胸躍らせていた比呂美のほうがである。悶々としているうちに、
打算的な考えが比呂美を襲ってきたのだ――。無理やり眞一郎をセックスに引きずり込むのは簡
単なことだった。比呂美が一芝居打てば、眞一郎もしぶしぶ応じざるを得なくなる。でも、当然
のことながら、比呂美としてはそんなことはしたくない。そうすれば心にほろ苦いものが残り、
しばらく引きずることになるだろう。もっとも、眞一郎に愛撫させる以前に、眞一郎が比呂美の
誘いを拒否するという可能性を、今回の場合は否定できなかった。最悪場合は、喧嘩になるかも
しれない。それが、比呂美としては一番こわかった。それならいっそうのこと、危ない橋を渡ろ
うとせずに流れに身を任せたほうがいいのでは。離れた地で外泊して、ふたりで電車で帰ってく
る――それだけでも充分、上等なデートなのだから、それで良しとしようと。わざわざ妙なすれ
違いを起こそうとせずに、眞一郎に気分よく金沢での奉仕活動を終えさせたほうがいいのでは。
恋人としては、それを優先、応援すべきではないかと比呂美は考えた。
 しかし、眞一郎の心中は、比呂美の静観姿勢とはまるで反対で、感情が沸騰しかかっていた。
――――――――――――――――
     ふたりの位置
  ┏━┳━━━┳━━━┓
玄関┃ ┃     眞 ┃
  ┣━┻┳━━╋━━━┫
  ┃  ┃  ┃ 比呂┃
  ┗━━┻━━┻━━━┛
――――――――――――――――
(おれが比呂美をハズカシめるとは、これっぽっちも思わないのだろうか……)
 もうずいぶん前から――比呂美、理恵子、ヒロシの三人に対して、そのような疑問を眞一郎は
感じていた。恋人同士とはいえ、比呂美はなんのためらいなく眞一郎をアパートに招くし、ヒロ
シと理恵子も、眞一郎が比呂美のアパートに出入りしていると知っておきながら、ふたりきりな
ることにまったく抵抗を示さない。それどころか、理恵子に関しては、比呂美のアパートまで眞
一郎におかずなどを届けさせるしまつだ。ふつうならこうだ――比呂美と恋愛関係になった事実
をヒロシと理恵子に告げてしまえば、そういったことに口うるさくなり、厳しい目を向けるだろ
う。そう予想していた眞一郎は、拍子が抜ける思いだった。ただ一度だけ、ヒロシが眞一郎を殴
りつけたことを除けば、仲上夫妻には監督意識がないように見えた。このことは、眞一郎のこと
を充分に信用していると受け取っていいのだろうか。おそらく、それだけではない。この『信
用』には何かがくっついていると眞一郎は感じていた。そして、急速に心と体の成長が進む眞一
郎には、その正体がだんだんと分かってきた。
(おれが比呂美に対して『そんなことはしない』と同時に、『そんなことはできない』と思って
いるんだ)
 比呂美が筋金入りのしっかり者だということもあるだろうが、眞一郎にはまだ、自分の性欲に
正直に突っ走る『度胸』や『勇気』がないと思っている。そう見ている。そうだと仮定すると、
比呂美、理恵子、ヒロシの三人の言動や行動が、悔しいことに眞一郎には納得できた。
(おれは、安全な草食動物ってか?)
 17歳の男子高校生がそんなレッテルを貼られることに抵抗を感じないわけがはない。眞一郎
だって例外ではない。眞一郎は、いま自分のおかれている状況を、映画のスクリーンにひとつひ
とつ丁寧に映し出すように振り返ってみた――。

 おれは、この部屋にひとりで寝泊りしていた。一週間。明日帰るので、今晩は最後の夜だ。
 そこに、比呂美がやってきた。しかも、堂々と、おやじとおふくろに外泊の許しをもらったと
いうではないか。
『――眞ちゃんのそばにいるのが一番安全じゃない』とかあさんはいった。
 安全って、なんだよ。
『――こうなること、予想していなかったわけじゃないの』と比呂美はいった。
 おまえは最初から一緒の部屋に泊まることを考えていたんだよな。それに、どうなってもいい
と思っている。ほんとうにそう思っているのか?
 そういえば、サンドイッチを食べたな。ニンニク風味、カツサンド。ニンニクってどうよ。
 比呂美は、シャワーを浴びにいく。ノーブラ&Tシャツで出てくる。
『――パジャマ、忘れちゃった』と比呂美はいった。
 けろっとしていうじゃないか。下は、紺色のショーツ一枚だというのに。
 おれが絶対、暴走したりしないと思っているんだな。もしそうなっても、強く拒絶すれば、お
れが手を止めてくれると思っているんだな。
 だんだん分かってきたぞ、おやじがおれを殴った理由。比呂美と恋愛関係になったと言ったす
ぐあと、なぜ、おやじが殴ったのか。一発殴ってびびらせておけば、比呂美に手出しできないと
考えたんじゃないのか? だから、おやじは外泊をすんなり許せたんじゃないのか。
 かあさんは、おやじが殴った意味を考えろと電話でいった。おやじが殴った日から時間がだい
ぶ経っているから、思い出させて、再度プレッシャーをかけたんだ。
 おれはまだ、安全な草食動物なんだ。比呂美に危害を加えない草食動物なんだ。
 それなら、それでもいいさ。じゃー、草食動物で、比呂美を守っていけるのか。
 おれは、比呂美をただ癒しているだけじゃないのか。
 癒し動物がそばからいなくなったから、比呂美は我慢できなくなってここまでやってきたんじ
ゃないのか。
 このままじゃダメだ。
 男を見せなきゃ、男を見せなきゃ、男を見せなきゃ。
 比呂美を守れる『男』を見せなきゃ。
 比呂美を守るためには、『男』でなくては。
 比呂美は『女』なのだから、おれが『男』でなくては、結ばれることはない。
 そうでないと、比呂美を裏切ることになる……。

 おぎゃぁ……

     おぎゃぁ……、おぎゃぁ……、おぎゃぁ……。

 かつて口にした呪文が、眞一郎の口を自然と動かした。それは口を動かしただけで声にはなら
なかった。比呂美をびっくりさせてはいけないという抑制が無意識に働いたのかもしれないが、
心の底からふつふつ湧き起こってくるものを、もはや止めることはできなかった。重力に逆らう
ように上へ駆け上がってきたものは、ほぼ完全に眞一郎の脳を支配した。
 眞一郎は静かに身を起こした。下半身に感じた突っ張った部分に目をやると、当然だよなとい
う風に目を細めた。もう迷いなく固くなっている。じんじんと血液が脈を打っているのが分かる。
 眞一郎は静かに立ち上がった。まだ比呂美を驚かせてはいけないと気遣っている。体にしみつ
いた比呂美を気遣う習慣を、こんなときにはっきりと自覚することになるなんて、ちょっとした
皮肉だった。いままさに比呂美を犯そうとしているのだから。いや違う。犯そうとしているので
はない。眞一郎のほうから比呂美を、比呂美の体を求めようとしているのだ。もし比呂美が強烈
に嫌がれば、断念するだけの心の余裕を眞一郎は残している。眞一郎の性本能は、そこまで侵食
することはできなかった。眞一郎にとって大事なことは、自分のほうから比呂美を求めるという
こと。そのことを行動で比呂美に見せ、伝えることができればいいのだ――。
 眞一郎はTシャツを脱ぎ、短パンも脱いでトランクス一枚になった。窓からのわずかな空気の
流れが非常に心地よかった。それだけ眞一郎の体は火照っていたのだ。
 眞一郎はちゃぶ台にあるティッシュペーパの箱をつかみ、和室への扉を睨んだ。
(比呂美、思い出をつくってやるよ。一生忘れないような、思い出を……)
 眞一郎が和室へ踏み出した一歩は、眞一郎にとって、ここにいるふたりにとって新たな一歩と
なろうとしていた。

 比呂美は敷布団の上で仰向けになっていた。お腹のところまでしかかけていなかったタオルケ
ットを、胸が隠れるところまで引っ張りあげた。どうも乳首が気になってしかたがなかった。朝
起きたときのことを考えて、いまからでもブラジャーを着けようかと思ったが止めにした。でも
やっぱり着けようか――そんなことを考えていたとき、となりの部屋から眞一郎の呼ぶ声がした。
「比呂美……」
 しっとりとした、落ちついたような声だった。いつもの、相手の様子を伺ったような声ではな
かった。戸を挟んでいたのでそう聞こえたのかもしれない。でも、比呂美は胸騒ぎがした。いろ
んな意味で胸騒ぎがした。本能的に警戒のスイッチを入れた。
「なに?」と比呂美は平静を装って返し、上半身を起こした。
 ふたりを包む緊張感とはまるで関係なしに戸が開かれる。速くもなく、ゆっくりでもなく、
荒々しくでもなく、静かにでもなく、ただ単にすっと横へスライドした。あまりにもそのことが
淡々としていたので、比呂美が次に目にするものとのギャップが際立った。比呂美の視線が、戸
の向こうから現れてくるものを待ちわびる。待たせることなく眞一郎は姿を現したが、その格好
は比呂美の予想を大きく裏切った。
 まず目に留まったのは、上半身の裸。眞一郎の胸。寝るときに脱いだのかもしれないが、視線
を下へもっていくと、トランクス一枚なのだ。単なる体温調整で脱いだのではないことは明らか。
それに、右手にティッシュペーパーの箱をつかんでいる。もう一度トランクスに目をやると、勃
起による隆起がある。眞一郎がいま何を考えているのか、充分すぎるほど分かった。比呂美は目
のやり場に困って視線を落とした。
 その仕草を見て、眞一郎は比呂美へ近づいていった。
「あれ、もってきている?」歩みながら眞一郎は比呂美に訊いた。だが、比呂美の脳には届かな
い。急に体の芯が熱くなり、血液が激しく脈打ちだしていた比呂美には、眞一郎の言葉がうまく
理解できず、眞一郎の問いに反応を示せなかった。比呂美が黙ったままだったので、眞一郎はは
っきりと言うことにした。
「コンドーム、ある?」
「ぁ、ん……」比呂美はようやく問いに気づき、なんとか返せた。
 眞一郎は、比呂美の右側に腰を下ろそうとしていた。比呂美はそれを横目でちらっと確認して、
和室の奥に、比呂美の左側に移動していたスポーツバッグに身を近づけた。そのとき、タオルケ
ットが胸からずり落ちないようにすることを忘れなかった。バッグの中をあさっているとき、膝
を畳につけた眞一郎の視線をはっきりと感じた。下着も入っているんだからそんなに見ないでよ、
と抗議してやろうと比呂美は思ったが、そんな余裕はなかった。いつ眞一郎が飛びついてくるか
分からなかった。それほど、眞一郎にまとわりついていた求愛のオーラが濃かった。
 比呂美はコンドームの箱を取り出すと、体を布団の上へ戻し、眞一郎にそれを差し出そうとし
たが、腕を伸ばす前に眞一郎がそれを取りあげてしまった。比呂美は思わずその手を引っ込めて
しまう。
 眞一郎は、ティッシュペーパーの箱とコンドーム小箱を敷布団の縁近くに、布団の上から手を
伸ばせば簡単に届くところに置いた。その置き方は、非常に丁寧だった。比呂美に、ここにちゃ
んとあるから大丈夫、と念を押しているようだった。
 比呂美がいつになく緊張し、警戒しているのが眞一郎にも分かった。当然だろうと思った。そ
れでも構うものか。比呂美がはっきりと拒絶するまでは止めるわけにはいかないのだ。
 眞一郎は四つん這いで移動して、比呂美の二本の足をまたいで膝立ちになった。そして、比呂
美をまっすぐ見た。比呂美も覚悟をしたらしく見つめ返した。俯くと、準備を終えた眞一郎の性
棒が目に入るので顔を上げるしかなかった。瞳に警戒の色を残したまま。
 眞一郎の目を見て、木彫りの人形のようだなと比呂美は思った。微動だにしないのだけども、
しっかりと作り手の魂が宿っているみたいな、愛に満ち、温かさがあった。そのことで比呂美は
少し落ち着けた。眞一郎はこれからどうしてくるのだろう、と考える余裕が生まれた。
(ここまでびっくりさせておいて、なにもしなかったらキンタマ蹴ってやるから)
 そんな比呂美の気持ちを感じたのだろう、眞一郎が口を開いた。
「むしょうに……。比呂美のこと、いじめたくなった」
「なにそれ」比呂美はわざとむすっとして横を向いた。すぐに首を戻すと、「変なことしたら、
引っぱたくから」といって、スローモーションで眞一郎の頬を叩く動作に入った。
 眞一郎は、比呂美の右手が自分の頬に到達するをじっと待っている。最後までそうしていると
比呂美は思い込んで疑わなかったが、そうではなかった。比呂美の手があと10センチくらいに
近づいたところで、眞一郎はその手首をつかみ、上へ引っ張り上げながら比呂美の体に覆いかぶ
さろうとした。比呂美の左手はタオルケットを胸のところで押さえたまま。両手がふさがってい
た比呂美は上半身を支えることができず、見事に背中のほうへ押し倒されてしまった。
 眞一郎は比呂美の右手首をつかんだまま、比呂美の唇を奪った。今日、三度目のキスだ。いや、
日付がもう変わっているから、今日最初のキスだ。そう思うと、なんだか気分がよかった。
 眞一郎が唇を押しあてたまま目を開けると、比呂美も目を開けていた。しかもずっと開けてい
たような感じだった。漠然とした視線がそこにあった。眞一郎の瞳を追い求める動きがない。そ
んな比呂美の瞳から比呂美の気持ちをくみ取ることができず、眞一郎は不安になった。比呂美は
怒っているのだろうか、嫌がっているのだろうか、なにやってんのこのバカと思っているのだろ
うか。まったくわからなかった。
 眞一郎は唇を離して、比呂美の手首を自由にした。そうしたら、比呂美の瞳に変化が表れた。
比呂美が眞一郎の気持ちを探っている瞳の動きだ。
「ねぇ~どうしたの?」と、かすれた声で比呂美は言う。「なんか眞一郎くん、変だよ」
 比呂美は真剣に眞一郎のことを心配している風ではなく、半分はおもしろがっているような感
じだった。
「変にもなるさ。比呂美に一週間会えなかったんだから――。おまえは平気だったのかよ」
 眞一郎の問いかけに比呂美は少しむっとなった。
「そんなわけないじゃない。どうしてわたしがここにいると思ってるの?」
 その問いに眞一郎は答えない。代わりに、唇をまた押しあてた。こんどは強く、比呂美の唇を
包み込むように絡めた。その情愛に反応して、比呂美の両腕が、まるで食虫植物の触手のように
眞一郎の頭部を巻き込んだ。
 あぁ、ようやくここまで辿りつけた――。比呂美は涙が出そうになったけれど必死にこらえて、
眞一郎の唇をまさぐった――これで、『責任』をふたりで分かち合うことができると頭の片隅で
思いながら……。いま、比呂美の頭の中で何かがひらめきかけたが、それを考えるのはあとにし
ようと比呂美は思う。眞一郎がこんなにも激しく口づけを求めてくるので、それどころではなか
ったのだ。
 野生の本能に目覚めたような眞一郎。苛ついたようなに吸い付いてくる眞一郎の唇の攻撃に、
比呂美は必死に応戦した。いまのところ、断然、眞一郎のほうに勢いがあった。それに、比呂美
が少しでも慌てたり、たじろいだりすると、眞一郎はそれを察知して執拗に攻めてくるのだ。な
んて思いやりがないんだろう、と比呂美はムッとしながらも、反面、感激せずにはいられなかっ
た。初めてだったのだ、こんな無理やり奪われるような行為に快感を覚えたのは。お互いの気持
ちがひとつになった先に、究極の快感というものがあると考えていたのに、どうやらそうではな
いらしい。『男』は『雄(おとこ)』に目覚め、『女』は『雌(おんな)』に目覚めないと新し
い扉は開かれないようだ。
 雌(おんな)に目覚めるって、どういうことなんだろう――。
 比呂美がそう思ったとき、眞一郎の顔が離れていった。時間にしてそれほど長いキスではなか
ったけれども、ふたりの息は荒かった。ふたりの口もとには、お互いに付け合った唾液が溢れ、
光っていた。比呂美は、眞一郎がまた顔を近づけてこないかと身構えている。比呂美の視線が鋭
かったので、眞一郎は顔をさらに遠ざけた。
「そんな、こわい顔するなよ」
「へ?」
 眞一郎の思わぬ指摘に比呂美は内心ドキッとした。どんな顔をしていたのだろう。眞一郎があ
えて指摘したくらいだ。眞一郎がはじめて目にする比呂美の表情にかなり近いものがあったのか
もしれない。
「べ、べつに、怒ってなんかないよ。ちょっと、くるしかっただけ……」
「そっか」といいながらも、眞一郎は特に気にしている風でもない。すでに次のことを考えてい
る。眞一郎は体を起こすと、比呂美の腕をとって比呂美に上半身を起こさせた。ここでも比呂美
は胸のタオルケットを押さえることを忘れない。比呂美がノーブラであることを知っている眞一
郎は、思わず口もとがにやっとなったが、まだそのことは言わない。もう少し、楽しみは先に取
っておくのだ。
 比呂美は、ひとつに束ねた後ろ髪を前にもってきて、くしゃくしゃになっていないか点検し、
また後ろへはらった。
「比呂美が三つ編みにしたの、二回目だね」
「うん……。なんか、そんな気分だったの……」比呂美はまた、後ろ髪を前にもってきて毛先を
いじった。その仕草が眞一郎には、あかちゃんをあやすように見える。聡明で快活な比呂美が、
とても女らしく見える瞬間だ。
「比呂美……」胸元から響いてきたような眞一郎の声。
「ん?」と、喉の奥を鳴らして、比呂美は答えた。顔からは先ほどの緊張が取れ、いつもの、眞
一郎だけにしか見せない笑顔が戻っていた。
「おぎゃぁ……」と眞一郎はつぶやく。
「おぎ、や?」比呂美は訳が分からず訊き返す。
「おぎゃぁ……、おぎゃぁ……、おぎゃぁ……」だんだんと語気を強めていく。
「なにそれ?」比呂美は堪らずふきだした。
「おまじないさ」
 眞一郎はそう説明すると、比呂美が胸のところで押さえているタオルケットを引っ張り下ろし、
Tシャツの上から比呂美の右側の乳首に吸いついた。
 まさかっ!!
 まさか、眞一郎にじっくり見られるより先に、いきなりこのまま吸われることになるなんてっ。
いっぺんにさまざまな感覚が襲い、比呂美はくすぐったいやら、おかしくて笑いたいやら、訳が
分からなくなる。
「わっ、ちょ、ちょっと、……あははは。……い、やぁ……」
 比呂美は身をよじりながら眞一郎の頭を軽く数回たたき、心の準備をさせてとお願いしてみた
が、眞一郎はもう比呂美の乳首に夢中。口をさらに広げて、いっそう強く吸い出す。だれかに横
取りされたくないというような必死ぶりだ。
 眞一郎が迷わず胸の突端に吸いついたということは、ノーブラだということを知っていたとい
うことか。いつ、そんなことをチェックしたのだろう、ちゃんと隠していたのに。眞一郎が意外
に目ざとかったことに比呂美は複雑な思いになる。眞一郎もそういうところばかり気にしている
男子高校生のうちの一人だということは分かっていても、あまり素直に認めたくはないのだ。眞
一郎にとって自分だけが特別な存在だと思っていたいから。
 眞一郎の右腕が比呂美の背中にしっかりと回されている。比呂美は上半身を起こされたまま、
体の前後から挟み込まれたかたちになっている。胸側からは眞一郎の顔で、背中側からは腕で、
しがみつかれている。両腕が自由な比呂美は、右手で拳をつくり、眞一郎の背中をけっこう強く
叩いてみた。たん、という音とともに、眞一郎が顔をあげる。
「……なんだよ」邪魔するなよ、とでもいいたげに眞一郎は答える。
「なにって……、Tシャツのびるじゃない」
 眞一郎が吸いついた部分の布地が、できたてのソフトクリームの先のように立っている。
「おれ……今、あかちゃんなんだ」
「はぁ~?」
 さっきの『おぎゃぁ』といい、いったい何なのだと比呂美は眉間を狭める。反対に、眞一郎は
愉快な顔をしている。小学生の頃のやんちゃな面影が溢れている。でもすぐに真顔になって、
「おれのやりたいように、したい……」と比呂美に求めた。それを聞いて比呂美は言葉を失った。
「ぇ……」
 固まってしまった比呂美の返事を待たずして、眞一郎は、こんどは左の乳首に吸いついた。そ
のときの勢いで、比呂美を仰向けにもする。さきほどの体勢と違って、こんどは眞一郎の両手が
フリーになっている。その手は、ためらいなく比呂美の乳房をつかんで捕らえた。Tシャツ越し
だけども、そんなものはもはや何の妨げにもならないといった感じで、その柔らかな感触を楽し
みだした。
「…ぁ……、…ゃ……。……ぅな……」(あ……、いや……。……そんな……)
 衝撃の渦に突き落とされた比呂美は、うまく声がだせない。やりたいようにしたい、という眞
一郎の言葉が、まだ頭の中で繰り返されている。
 やりたい……、やりたい……、やりたい……。したい……、したい……、したい……。
 どういう心境の変化だろう。いままでこんな風に、相手の気持ちを置き去りにして体を求めて
きたことなどなかったのに……。いきなり、コンドームあるか? と尋ねてくるなんて、いまま
での眞一郎ではあり得なかったこと。いったんこの状況をブレーク(中断)して、眞一郎の気持
ちを確かめたほうがいいだろうかと比呂美は迷った。でも、どういうつもりなの、と眞一郎に尋
ねれば、おれのこと信用していないのかよ、とつっかかってくるかもしれない。比呂美としては、
眞一郎にそんなことを、これっぽっちも言わせたくない。いまは、眞一郎の様子を見るしかない
のか。乳房への愛撫が激しいからといっても、いまのところ眞一郎が我を忘れて乱暴なことをし
てくる気配はないのだから。それよりも、眞一郎には明確なイメージがあるように思われた。比
呂美をどうしたい、比呂美をどうしてあげたい、というような。だから、比呂美は戸惑ってはい
たが、ヒロシと理恵子を裏切ってしまうことになるかもしれないという不安はなかった。
 ようやく比呂美の両手は、眞一郎の肩から腕にかけてさすりはじめた。その感触がいつもとは
違ったので、比呂美は眞一郎に目をやった。眞一郎の頭のてっぺんが目の前にあり、乳首を引っ
張ろうとするたびに頭が上下する。幼稚に見える動きであっても、その動きを作る眞一郎の肩、
腕、背中にはたくましさが宿っていた。比呂美は、眞一郎の背中に手を回して、もっと体の情報
を得ようとした。間違いない、眞一郎の体は大きくなっている。ほんのわずかだけども、眞一郎
と裸で抱き合ったことのある比呂美には、それがはっきりと分かった。それは、比呂美にしか分
からないことなのだ。
 眞一郎はまた比呂美の右の乳首を吸いだした。眞一郎の唾液のせいで、比呂美の肌にTシャツ
がぴったりくっついていて、乳房から突端の乳首までの形状を浮かび上がらせている。赤みを帯
びた乳輪まだはっきりと透けている。
 眞一郎の唇や舌先の動きを感じながら、比呂美はふと思った。『おぎゃぁ』といったり、『あ
かちゃん』といたっり、眞一郎がなぜ、突然変なことを言い出したのか。それは、おそらく――
眞一郎の中でいままでの自分を変えたいという気持ちの表れもあるだろうが、それ以前に、眞一
郎ならではの照れ隠しなのだろう。比呂美をリードすることに慣れていない眞一郎には、みずか
ら比呂美にエッチな行為をしようとする羞恥心と、比呂美に嫌がられるのではという不安感を突
き破る『勢い』が、なんでもいいから欲しかったに違いない。
 比呂美が眞一郎の後頭部に手を回すと、眞一郎が顔をあげた。比呂美のことを心配するような
面持ちだった。
「黙ってるけど……。きもち、わるかったりする?」
「ううん、そんなことない」
 比呂美は思いっきり首を振って否定したが、内心、しまった、と思った。眞一郎がこんなこと
を訊いてくるということは、眞一郎はすでに、比呂美がほんの少しだけども抱いてしまった不信
感を感じ取っているからなのだ。
「もう。びっくりしただけ。このTシャツ着れなくなっちゃう」とむくれながら、比呂美は眞一
郎の吸ったあとを指で確信した。
「となりの部屋……」
「え?」比呂美は意味が分からず訊き返す。
「となり、だれも泊まっていないから、大丈夫だよ」
「……?」比呂美は首を傾げて、目だけで訊き返す。
 眞一郎はなんのことを言っているのだろう。すぐには分からなかったが、比呂美は気づいた。
となり近所にエッチな声を聞かれないために比呂美は声を抑えていた、と眞一郎は勘違いしてい
るのだ。そう思っているのなら、それでもいいただろう。比呂美はそんなこと気にも留めていな
かったのに、眞一郎が意外に冷静だったので、おかしくてふきだしそうになった。
「あぁ……」と比呂美はわざと気づいたフリをする。「そういうことは、早く言って欲しいな
~」といって、眞一郎の胸を軽く叩いた。眞一郎は、ごめんも何も言わずに、申し訳なさそうに
顔をゆがめて笑った。そして、黙ったまま比呂美のTシャツの裾を探りだした。
 眞一郎に引っ張り下ろされたタオルケットのえりは、比呂美のおへその辺りにある。まだ、比
呂美の下半身はきれいに隠されたままだ。Tシャツをはぎ取ると、比呂美はもうショーツ一枚だ
けになってしまう。そのせいか、眞一郎の手は、暗闇の迷路をさまよっているような慎重さで、
タオルケットの中へもぐっていく。ふたりともほぼ同時に生唾を飲み込む。これからがほんとう
の『愛の戯れ』のはじまりなんだ。二ヶ月ぶりの……。
 眞一郎の右手が比呂美のTシャツの裾をつかんで上へ滑らそうとすると、比呂美はおしりを浮
かせた。それを見て眞一郎は、両手を使ってTシャツをたくし上げていき、乳房の下辺りでいっ
たん止める。眞一郎が舐めまわしたところは、頑固にも比呂美の素肌に張りついている。比呂美
のおっぱい形状をかたどってしまったかのようだ。それは、眞一郎が容赦なしにしゃぶったこと
を物語っている。眞一郎は思わず、湿地帯と化した部分に指をはわせる。
「きゃ……えっち……」台本の棒読みのような単調で低い声を比呂美はもらした。
「もう一度……」していいか? と眞一郎がいいきる前に、比呂美は「ダメっ」と断わる。比呂
美が子供を叱りつけるような鋭い目つきで睨んできたので、眞一郎は残念という感じに鼻を鳴ら
して、比呂美のTシャツをさらにまくった。
 比呂美のふたつの乳房が露になる。こんどは何の隔たりなしだ。比呂美の肌の色はそのまま比
呂美の肌の色だし、比呂美の乳房の形はそのまま比呂美の乳房の形だ。今いる和室の蛍光灯が消
されていても、常夜灯と、洋室の灯りと、網戸越しに差し込んでくる外灯の光で、それらを充分
に調べることができる。
 比呂美は背中を浮かして、早く脱がせてと眞一郎に無言で急かす。いつのまにか比呂美のペー
スになりつつあるなと眞一郎は思いながら、Tシャツの胴の部分を滑らせていく。まず比呂美の
頭が首穴を通り抜け、つづいて比呂美の腕が袖を抜ける。そして最後に、長い後ろ髪がするする
と滑り抜けた。
 眞一郎は、はぎとったTシャツを表返しにし、簡単にたたんでティッシュペーパーの箱のさら
に遠いところに置いた。眞一郎が再び比呂美の上に体を戻したとき、比呂美は両手で胸を隠して
いた。動物の生態を観察するように比呂美はじっと眞一郎を見ている。それを感じた眞一郎は、
比呂美を驚かせてやろうと思い、比呂美のおへその上辺りに顔を埋めた。
 その途端、「あはははははっ」と、こそばゆさに堪えきれないといった笑い声が弾ける。
 このケースを全然予想していなかったのだろう、比呂美は眞一郎の顔を弾き飛ばさんばかりに
体をよじって悶え、両手で眞一郎の頭を押しのけようとする。この隙をついて、眞一郎の両手が
比呂美の乳房を包む。
「ぁあ、ぃやっ」比呂美の声色が、一気になまめかしくなる。
 眞一郎は、比呂美の乳房を数回大きく回したあと、右側の乳首に吸いついた。
「ばかぁ……」と比呂美は罵声を上げたが、その声に力はなく、むしろ眞一郎の行為を促してい
るように聞こえる。快感に震えているのだ。
 それを聞いて、眞一郎は何か思い立ったように顔を上げる。比呂美の乳房が目の前にあり、乳
首は眞一郎の目に一番近いところにある。それは、まじまじと見ていると何かのボタンのように
も見えてくるし、苺のクリームのかかったお菓子にも見えてくる。そう思えるほど、比呂美の胸
は人並みはずれた美しさと、女体としての極まりがあった。
 まず、しなやかさ――。バスケットで鍛えられた良質の筋肉とは明らかに違うものが、比呂美
の胸を形作っていた。ただ柔らかいだけでなく、一度力を加えればずっと振動していそうな弾力
を持ち合わせていた。つぎに、かたち――。比呂美の乳房の大きさは、17歳の女の子のとして
は平均的なものだが、見た目が大きく見えた。それにはふたつの要因がある。一つ目は乳輪の形
で、乳輪部分が乳房の曲率のままで形成されているのではなく、そこだけがさらに盛り上がって
いたのだ。大きなお椀を伏せた上に小さなお椀を重ねて伏せたといった形だ。二つ目は乳首の形
で、これが分かりやすい形をしていて、丸鉛筆のような円柱に近い形なのだ。だから、比呂美の
胸を間近で見ると自分に向かって伸びてきそうな印象を受ける。おまけに、乳首を唇で挟んで引
っ張りやすいということもあった。
 眞一郎が比呂美の胸に見惚れていると、比呂美は上半身を一度振るって、その振動で乳首を揺
らした。吸わないの? と眞一郎を挑発したのだ。このやろう、と眞一郎は無言で返して、いま
までやったことがないくらい激しく、比呂美の乳房をいたぶりだした。比呂美が「いたっ」と声
を上げたが、もうそんなのはお構いなしだ、という感じに。
――――――――――――――――
     ふたりの位置
  ┏━┳━━━┳━━━┓
玄関┃ ┃       ┃
  ┣━┻┳━━╋━━━┫
  ┃  ┃  ┃ 眞比┃
  ┗━━┻━━┻━━━┛
――――――――――――――――
 眞一郎は、比呂美の乳房をスイカやメロンなんかと勘違いしているのではないだろうか。溢れ
出る果汁を一滴も逃しやしないという感じに口を大きく開けて吸い上げている。比呂美の乳房と
眞一郎の唇とか縫いつけられてしまったかのようだ。呼吸を整えるために眞一郎が口を離すと、
比呂美の乳房は広範囲にわたって唾液でキラキラ光り、肌の色が赤くなっているのが分かる。そ
れでも、眞一郎の両手は休みなく、それぞれに捉えた乳房の形をさまざまの方向へ押しつぶして
楽しんでいる。いや、むしろ、楽しむというよりも何らかの義務でそうしているようにも見える、
いまのところは。まだまだ準備運動といった感じなのだ。
 こんなに強く、激しく、乳房を吸われるが初めてだった比呂美は、もっと痛いことにならない
かと、眞一郎のやり方に内心びくびくしていた。だって、「いたい」と訴えたぐらいでは眞一郎
はそう簡単にやさしくしてくれそうもないのだ。困ったことになった、と比呂美は思った。でも、
その心配はすぐに解消されることになった。眞一郎の愛撫の仕方が、力から技へ、剛から軟へ切
り替わったのだ。しかも、比呂美の快感のツボをつつくように攻めてきだしたのだ。
 比呂美の乳房を力任せに吸い上げたあと、眞一郎は比呂美の唇に軽く口づけをした。
「がまんしなくていいから……」口づけのあと眞一郎はそうつぶやいた。
「痛くしないで……」と比呂美は切実に訴えたが、「そういう意味じゃないよ」と眞一郎は返し
た。
「え? ……?」言葉と視線の二段階で比呂美は訊き返す。
 この流れからして、ちょっとやりすぎたと思った眞一郎が、痛みを素直に訴えれない比呂美を
気遣っているのだとだれもが思うだろう。でも、眞一郎はそれを否定した。眞一郎は何かを企ん
でいる。いや、正確に表現するならば、何かに挑戦しようとしているといった感じか。眞一郎が
ティッシュペーパーの箱を片手に現れたときから薄々と感じていたことだが、比呂美はようやく
それをはっきりと捉えた。でも、なにを? 眞一郎はなにをしようとしている?
 比呂美の問いかけを無視して、眞一郎は再び、比呂美の顔に自分の顔を近づけていく。またキ
スかと思いきやそうではなく、自分の頬と相手の頬をすり合わせるようにくっつけたのだ。頬同
士の口づけといった感じた。一見、外国人が親愛の情を込めてよくする挨拶のように見えるが、
眞一郎が今しているのは、織物の一本一本の糸をひとつひとつ丁寧に愛でるような触れ方だ。と
ても親愛の情などという言葉で片付けられるもではない。幼い頃に出会ってから今までに積み上
げられてきたお互いの気持ちの層と層を絡み合わせるような、もっと形がはっきりした愛し方の
ように思える。
「……ぁあ……」と、比呂美の口から自然と声が漏れた。比呂美はそれを我慢できなかったのだ。
いや、違う、比呂美の中のどこか別の神経が反応して声を出させたのだ。
 心の深層で湧き立つものを感じはじめた比呂美は、無意識のうちに眞一郎の背中にしっかりと
腕を回していた。比呂美のからだ自体が、眞一郎のからだを求めているようだ。頬と頬を接地さ
せたことによって、心と心の交流だけでなく、体と体の交流がはじまろうとしていた。
「やわらかいね……」と眞一郎はつぶやき、名残惜しそうにゆっくりと頬を離した。比呂美の瞳
はすぐ眞一郎の顔の動きを追う。次は何をしてくるのだろうという期待に満ちている。
 眞一郎の次のターゲットは比呂美のおでこだった。眞一郎は、右手で比呂美のおでこにかかっ
ている前髪をかき上げる。その途端に比呂美の顔を幼く見え、眞一郎にあの祭りの日のことを思
い起こさせる。おそらく、その日は眞一郎と比呂美の恋の出発点。あのとき手をつないで一緒に
歩いたからこそ、ふたりに今この時があるに違いない。
 朝顔の図柄が描かれた桃色の浴衣を着た比呂美を想像しつつ、眞一郎は比呂美のおでこに唇を
押しあてた。
「うふふ……」と比呂美が笑う。眞一郎がおかしいのではなく、純粋に嬉しいのだ。次々と眞一
郎が、比呂美に新たな発見をプレゼントしてくるからだ。『頬ずり』や『でこチュー』で、こん
なにも、深海の潮の流れのように落ち着いた気持ちになるなんて、比呂美はいままで考えもしな
かったが、眞一郎は考えてくれていたのだ。
 眞一郎は、比呂美のおでこからそっと唇を離し、どうだった? と目で比呂美に問いかける。
よかったよ、と比呂美はゆっくりとひとつ、まばたきして答えた。比呂美の緊張感がかなりほぐ
れてきたなと感じた眞一郎は、ちょんと触れるようなキスを比呂美の唇にして、比呂美の首筋に
顔をうずめた。耳下部から肩にかけてあまがみすると、比呂美の全身が再び騒ぎはじめた。
「ぅむぉ~、ゃだったらぁ……」ふだんの比呂美からは到底聞くことのできない舌足らずな声だ。
 構わず眞一郎は比呂美の耳たぶにしゃぶりつく。
「……くぅぅぅぅぅぅ……」と、どうやって発しているのか分からないようなかすれた声を比呂
美は上げ、首を小刻みに震わせた。それから、堰を切ったように「あぁっ」と声を上げて大きく
息を吐いた。単にこそばゆいのではなく、比呂美の性的の興奮度がさらに増したようだ。その証
拠に、比呂美の視線はどこを見ているのかわらないほど、ゆらゆら揺れている。目の前にある眞
一郎の横顔や肩口を捉えているとはとても思えない。いま、眞一郎を捉えているのは、比呂美の
両眼ではなく比呂美の両腕だけ。眞一郎の体を感じているのは、比呂美の胸と腹、そして両脚だ
けだった。
 眞一郎は、唇を比呂美の素肌に押しあてたまま、下のほうへ滑らせていく。首すじを下りてい
き、首の付け根に到達。肩のラインを一往復したあとさらに下へ、鎖骨のでっぱりを通り過ぎて、
二つの乳房の中間地点で止まる。また乳房を狙っているようだ。
「ゃん」と比呂美は子犬のような声を上げる。
 比呂美の乳房は、さきほど眞一郎が強く吸いすぎたせいで、乳輪の外側の回りも充分に桃色が
かっていた。べっとりついた眞一郎の唾液はとっくに乾ききっていたが、濡れていなくても、比
呂美の素肌は輝きを放ているように瑞々しさに満ちている。眞一郎は首をひねり、右耳を比呂美
の胸の真ん中辺りにくっつけた。その瑞々しさの根源を聞きたい――そう思ったのだ。比呂美の
鼓動が眞一郎の頬に伝わってくる。その振動は、バスケットコートを40分間走り回れる心臓と
はとても思えないほど、可愛らしく感じる。
「……あぁ……ひろみ……」
 この音を一生聞いていたい。そう思った眞一郎は思わず声が漏れてしまった。
「なぁにぃ」眞一郎の髪に指をもぐらせ、くしゃくしゃにしながら比呂美は答えた。
「……ひろみぃ……」と再び眞一郎は名を呼ぶ。
「……しんいちぃろぉ、くぅぅん……」比呂美も負けじと愛情たっぷりで呼び返す。たった一回、
お互いに名前を呼び合っただけなのに、ふたりとも急に胸が熱くなるのを感じた。ふたりの間で
は、名前を呼ぶ行為ですら、唇などで体を愛撫するのと同じくらいの力を持っているようだ。
 比呂美の乳房に頬ずりをしたあと、あるべき場所に戻っていくような自然の流れで眞一郎の唇
が比呂美の乳首を覆う。眞一郎の手はすでに比呂美の乳房を揉みほぐしだしている。こんどは、
前みたいに乱暴にしたりはしない。眞一郎の舌先は、まるで水彩画の最終仕上げをしている筆先
のように乳首の表面をいとおしくなぞる。でも、それだけではない。刺激を与えることも忘れな
い。やさしく舌先で転がしたあと、唇で乳首を挟み、垂直にゆっくりと持ち上げていく。どこま
で伸びるか試すみたいに。やがて、乳首をつかんでいる圧力が、乳房を元に戻ろうとする力に耐
えられなくなると、伸びきった輪ゴムを離したときのように眞一郎の唇から乳首が離脱する。し
かし、比呂美の乳房が解放の喜びに震えるのも束の間、眞一郎の唇はすぐそれを追いかけて捕ま
える。もうどこにも逃げ場所などないのだ。
「……くぉあ~、ひぇんたぁぃ……」(……こら~、変態……)
 もう比呂美が何を言っているのか分からない。でも、比呂美にしてみれば、この状況で正確に
自分の言葉を伝える必要はないのだ。次々と湧き起こる衝動に、身も心も完全に委ねていればい
いのだ。なにか言葉が頭の中に湧き起これば口から発すればいいし、眞一郎の体を感じたければ
腕や脚を絡めていけばいい。たとえ見っともなくてもそうすればいい。
 眞一郎は、くねくねと身をよじる比呂美を両腕と両脚の間に閉じ込めたまま愛撫しつづける。
なんでもないようなことに見えるかもしれないが、鍛え上げられた肉体をもった比呂美の体をじ
っとさせるのは容易なことではない。比呂美の全身の筋力は、細身の眞一郎の体など簡単に持ち
上げることができる。比呂美が感じだすと、まるでプロレスでもしているような感じになるのだ。
だから、比呂美をおとなしくさせるためには、眞一郎も本気で全身を使わなくてはならない。比
呂美の体に全体重をかけて覆いかぶさり、両腕をつかむというように。そうすることで、比呂美
も少しは我に返ることができるのだ。
「んぅぅ~」と比呂美が息苦しそうな声を上げる。眞一郎にあまり体重をかけないでと求めてい
る合図だ。
 比呂美の乳房のアンダーラインを唇でなぞったあと、眞一郎の顔は徐々に比呂美の下半身の方
へずれていく。みぞおちを舐め、さらに下へいって、おへその周りの肉を吸い上げて遊ぶ。
「ひゃぁっ……、あぁっ……」比呂美の声が一気に複雑な表情に変わる。こそばゆさに加え、も
うすぐ秘部に眞一郎の軍勢が到着することに対する期待と、戸惑いと、恥じらいと……、ごっち
ゃになったような感じだ。
 比呂美は、首や背中を反らし、背中で敷布団を叩くようになる。それでも、眞一郎は比呂美の
乳房を弄びながら、唇を肌に押しあてたままさらに下へ進ませる。ゆっくりと、みちくさをわざ
としながら比呂美をじらす。この眞一郎の策略に感づいたのか、比呂美の手が眞一郎の頭をぐっ
と下へ押しやる。早く行けといわんばかりに。もちろん、これは比呂美が無意識でやっているこ
と。比呂美がそう急かさなくても、目的地はすぐそこ。眞一郎の唇は、タオルケットをずらしな
がら、比呂美のショーツのウエストラインに到達する。
 比呂美のショーツの色が予想とは違ったので、眞一郎は思わず顔を上げた。一瞬、穿き替えた
のかと思ったくらいだ。比呂美の後姿を見て、てっきり紺色だと思っていたのに、少し青みがか
った鮮やかな紫色だった。眞一郎はタオルケットをずらして比呂美のショーツを露にする。なる
ほど、下腹部を覆う部分だけデザインが違うのだ。じっと見惚れるてしまうくらい、その部分は
細かい刺繍で花柄が描かれている。あまりにも細かいので、紫が単なる紫には見えないほど色彩
感覚が狂わされる。
 それにしても、いま眞一郎は、いままで感じたことのないほど胸が高鳴っていた。気が変にな
りそうなくらい頭がくらくらした。腹のそこから、いままでじっと息を潜めていた何かが横隔膜
を激しく叩いて息が苦しくなった。こうなったのも、紛れもない、比呂美のこのショーツのせい
だ。比呂美の体を一気に大人の女へと演出したせいだ。はじめて見る下着ということもあるだろ
うが、このデザインは反則だ、と眞一郎はそのセリフを喉元で何度もかみ殺した。おそらく、比
呂美がもっているショーツの中でいちばん布きれの面積が小さく、いちばん官能的なデザインだ
ろう。腰骨の辺りを通るサイドの帯(ショーツのウエストラインの一部)は、2センチにも満た
ないほど細く、切れやしないかと思う。だから、比呂美の体がますます美しく、いやらしく見え
てしようがない。『勝負下着』という言葉が、なぜこの世に存在するのか眞一郎は判った気がし
た。だって、どうしようもないくらい、比呂美をめちゃくちゃにしたいという衝動に駆られてし
まったのだ。このショーツのせいで、男の本能という名の箱の蓋が開けられてしまいそうだった。
(やばい、このままでは、射精してしまう)
 びくんびくんと脈打つ性棒を感じながら、先延ばしにする策を必死に考える。挿入する前に果
てるなんてカッコ悪すぎるではないか。比呂美を先にイかしてやろうと思ったのに、パンツを脱
がす前に自分がイってしまなんて、情けないにもほどがある。そんなの『男』じゃない。
 下着からふわっと漂う、あの甘い香りを嗅がないように息を止め、眞一郎は比呂美の両腕をつ
かんで引っ張った。
「あっ、なに? ……」
 いきなり上半身を起こされた比呂美は、目に見えない何かを突っ込まれたみたいに口を開け、
目をくるくるさせた。眞一郎は、比呂美の裸を見ないようにし、大きく乱れた息を整えようとし
ている。眞一郎が顔を背けていたので、比呂美は視線を眞一郎の下半身に移した。トランクスの
前の部分は、いまにも中から性器が飛び出してきそうなくらいぱんぱんに膨れている。それに、
濡れている部分があった。
 まさか! と比呂美は思った。もしかして射精してしまったのだろうか。それで眞一郎はバツ
が悪そうにしているのだろうか。こんなとき、なんて言葉をかけたらいいのだろうか。比呂美は
必死に考えるが、その途中で眞一郎が動き出す。それも意を決した顔つきで。
 眞一郎は、比呂美の左側を這っていき、背中側に回り込んだ。そして、比呂美が今している格
好と同じようにおしりをついて脚を前に投げ出し、比呂美の背中に自分の胸をつけた。
「ごめん……、比呂美……」と眞一郎は比呂美の耳元で囁いた。
 ごめん、ということは、もう出てしまった、とういうこと? 比呂美は振り返って眞一郎の顔
を伺おうとしたが、それよりも先に眞一郎が比呂美の体に腕を絡め、うなじに顔を埋めてきた。
「ね~、わたし、べつに……、その……」つづきに、そんなの気にしないよ、と比呂美は言おう
としたが、眞一郎の手が、利き手が、比呂美の秘部をたどってきたので、それを伝えることがで
きなかった。「そ……、な……。……ぁあっ」と言うのがやっとだった。

つづく

ツールボックス

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