音楽を訊きながら帳簿を付ける作業をしていた。
眞一郎くんが帰宅すると、通り過ぎてくれるのを願いながら。
眞一郎くんは私に何も言わないようにしてくれていたけれど、私から声を掛けた。
おばさんとおじさんとうまくいっているのと、アイスクリームで良好な雰囲気にできた。
夜十時、静寂な闇が仲上家を覆っている。
おじさんとおばさんの朝は早い。
パジャマ姿で自室の扉を開けて左右を確認。
誰もいないけれど、慎重に歩を進める。
階段を上がって二階にある眞一郎くんの部屋にたどり着く。
明かりが灯っているので寝てはいないようだ。
前回は四番のことを否定する覚悟をしていたのに、手を伸ばせなくて自室に戻ってしまった。
勇気を出して扉をノックする。
眞一郎くんが顔を出してくれた。
かなり驚いているようで放心している。
そんなに予想されていない行為だったのかと不安になってくる。
「少しだけ話をしたくて」
眞一郎くんは上目で瞳を動かす。
「入れよ」
大きく扉を開けてくれた。
私はさりげなく部屋の内部を記憶するようにする。
さすがに私の部屋よりも広くて大きなベッドがあり、本棚や箪笥がある。
意外ときれいに整頓されていて好感触だ。
「立ったままよりも座ったほうがいいか?
比呂美が椅子を使うと、部屋の奥になるな」
眞一郎くんなりに考えてくれているようだ。
何も言わないで私の位置を確保させるほどに手馴れていないのが嬉しい。
「椅子を借りるね」
そっと机の上を見ると、閉じられたスケッチブックがある。
そばにある本棚にも美術関連の書物が並んでいる。
以前の朝食でおばさんがおっしゃていた東京の出版社とは、このことだろう。
今、訊いてみたいけれど、時間が限られている。
もしおばさんに見つかれば、眞一郎くんと話す機会さえも奪われるかもしれない。
眞一郎くんはベッドに座り、私が打ち明けるのを待っているようだ。
「今までのことを話したくて。
時間は戻せなくても、状況なら変えられると思って」
私の漠然とした台詞に眞一郎くんは頷いてくれたので、先に進める。
「私ね、
夏祭りのことをよく覚えているの。
眞一郎くんとお酒を届けに行くときには、嘘をついてごめんなさい」
私は軽く頭を下げた。
「いいよ。俺が話題を探していて振っただけだから。
急に昔話をされても困るだろうし」
眞一郎くんはきまりが悪そうにしている。
「今ならしてみない?
私ね、すごく寂しかったんだよ。
そして眞一郎くんに驚かされて心臓が止まりそうだった」
優美に語る私は、ちょっとだけ眞一郎くんを睨む。
きっと眞一郎くんに事故現場で抱き締められたときと同じだろう。
手を繋ぐ代わりに身体全体を触れられた……。
「俺なりに和ませてやろうとしたんだ。
それから踊りや山車を見て回った。
緒が切れた比呂美の下駄を持ちながら。足が痛かっただろう?」
「少しだけね。古傷にならなくて良かった」
眞一郎くんと話題を共有できる出来事は少ない。
私はいつもあの夏祭りに依存するくらいに、何でも結び付けてしまう。
私の初恋が眞一郎くんで、結果がまだ出ていないからだろう。
初恋は成就しにくいと思っているけれど、まだ諦め切れていない。
あの抱擁が望みを託させるものだったし、眞一郎くんの本心がわからないから。
「そうなれば後味が悪いし、もうすぐ麦端祭りだな」
眞一郎くんは何かを言いたげに、私には見えた。
「私ね、仲上家に来たときにすべてを封印したの。
そうしようと、決めたの。
できる限り大人しくていようと。
でも耐えられなくて一昨日のようになってしまったわ」
逸らさずに眞一郎くんを見つめる。
「封印か、何かの物語みたいだな……。
すまない、そんなことを言って。
でも封印はしなくてもいいと思う。
父さんは最初からだけれど、母さんも比呂美を認めてくれたし。
俺も比呂美と話をしたかったし、学校にいるときの比呂美のようにはいかないだろうが」
眞一郎くんの創作スタイルは日常から何かをヒントを得るようだ。
頭の中のスイッチはつねにオンになっているのだろう。
封印の一部しか伝わっていないのは、保留。
「学校のようにいかないかもね。
男の子とあまり話をしないし。
でも少しずつなら、宿題でわからないところとかあったらとか」
「ちょっと、待て。
学年トップクラスの比呂美が解けない問題を俺に求められても……。
それ以外なら挨拶とかなら、父さんたちもしっかりするようになったな」
私の妄想をさりげなく否定しつつも、話題を変えてくれた。
「私が何を言っても返事がなかったのは寂しかったわ。
でもおじさんはおばさんがいないときには、相手をしてくれていたの」
それがきっかけでおばさんに、いじめられるときがあるが、おじさんには罪がない。
「俺も母さんの目があるから避けていた。
避けなくていいなら挨拶はする」
「おばさんはしてくれるようになったわ。
ぎこちないけれど」
「それにしても変わったなあ。
少し空気が良くなった気がする」
仲上家では会話が少なかったと思う。
今でも一般家庭に比べたら、不足しているだろう。
「学校に三人で説明を受けに行ったときに、
おばさんが私を責任を持って育ててくれると宣言してくれたから。
それからアイスを買って戻ってからは、三人でいろいろ話し合ったの」
学校側は私に進学を薦めていた。
成績優秀だから奨学金をもらいながらでも、有名大学に入って欲しいようだ。
おじさんは私の自由にさせてあげようとしていて、仲上家で作業するとしても、
大学勉強しておいたほうがいいと、おっしゃってくれていた。
おばさんは進学については無言だった。
「何だよ、それ。
俺だけが、のけ者にされたみたいだ」
ふてくされた子どものようだ。
「眞一郎くんが喧嘩したのは知っているよ。
朋与からメールが届いているから。
鼻に絆創膏を張っているのが、やんちゃでいいかも」
私は微笑みながら褒めた。
朋与は眞一郎くんが私のために喧嘩をして乃絵に止められたのを、感情的に伝えてくれた。
語弊はあるだろうが、大筋は合っているのだろう。
「何かと絡んでくる奴はいるからな。
俺にも三代吉のような味方が大勢いるから助かっている。
比呂美が復帰しても支えてくれる友達がいて心配してくれているようだ」
「何か訊かれたの?」
「元気にしているとは伝えておいた。
余計なことを言いそうだから、伏せてはいる」
「私もそうするね。そのほうがいいから、お互い」
学校でも眞一郎くんの評価は低くない。
めだっているわけでもないけれど、信頼はされている。
同じクラスで若い男女が一つ屋根の下で暮らしているという特殊な環境でもだ。
「俺のノートで良ければいつでも見せるよ。
後でまとめて受け取るのは大変だろうし」
「考えておくね。
眞一郎くんに話したいことがあるの」
私は改まってから一呼吸を置いた。
眞一郎くんの瞳には輝きが増している。
「私、四番と別れるから」
眞一郎くんにはっきりと宣言しておいた。
これで私の意思は伝わるはずだ。
「好きではなかったのかよ……」
最初は見開いていたが、ためらいがちに洩らした。
「憧れみたいなものかな。
四番が試合をしているときに活躍するから、好きと思っていたの。
でも付き合ってみたら、相性が合わないみたい」
朋与に四番のことを訊かれて話したことを、眞一郎くんにも聞かれていた。
おばさんに言われた相性という単語を使いこなしている自分が、怖い。
「そういうことなら、ありえるかもな。
あいつ、女子に人気があるようだし」
眞一郎くんは納得してくれたようだ。
できるだけ眞一郎くんには嘘をついていた私の姿を晒したくない。
「私がそうしたいだけだから」
乃絵や眞一郎くんが交換条件について把握できているかは不明だ。
四番の言葉を鵜呑みにはできない。
「あいつが比呂美に何かしてくるようなら、自転車に乗ってでも行くよ。
携帯に電話やメールをくれたら」
眞一郎くんの提案に私は口を開けたまま、頬に熱を帯びてくる。
「四番の家に行くときには、事前に入れておくね。
さすがに何もないと思うけれど。
大切なバイクを燃やしてしまっているし、あのときは謝っていないから」
放心状態で余計な感想ばかりを洩らした。
眞一郎くんに抱き締められてから、ようやく事態を認識できたのだ。
おじさんは弁償しようと考えてくれている。
「ありがとう。心配してくれて。
四番と別れたら、また伝えに来るわね。
こういうことは直接に言いたいから」
もう一度、報告しに来たいから。
そのときの話題を考えておこう。
「待っている。良い知らせを」
眞一郎くんは穏やかに見守ってくれている。
「私はあの夏祭りから変わっていないから」
台詞の中に深い想いを込めた。
四番と別れたら自分の口で本心を明かしたい。
「比呂美にはあのときの面影がよく残っている」
「眞一郎くんもだよ」
「十年以上も前の話なのにな」
「そろそろ行くね」
私がそっと立ち上がると、眞一郎くんは見送ろうとする。
扉を開けてから外に出て振り返る。
「おやすみなさい」
小声で言った。
「おやすみ。暗いけど気をつけてな」
「私をいくつだと思っているの?」
「今度、脅かしてやるよ」
「家中に響く悲鳴を上げそうだから、やめてね」
「さすがにまずいよな」
そば耳を立てても静寂しかない。
私が右手を小さく振ると、眞一郎くんも応じてくれた。
階段を着実に降りてゆく。
一階にたどり着いた先には人影があった……。
おばさんだ。
トイレに起きたのか、それとも今から眠るつもりなのか。
私は正常を装って歩いて行く。
「眞一郎に会っていたの?」
おばさんは私の頭から足元に視線を落としてゆく。
「話をしていただけです」
おばさんを直視して訴えた。
「そうよね」
おばさんは一言だけを残して去ってゆく。
「おやすみなさい」
一応、挨拶だけはしておいた。
「おやすみ」
いつもと同じ調子で返ってきた。
私は唖然としてから自室に戻った。
あれは本当におばさんだったのか。
幽霊か何かと思った。
いつかおばさんとも向き合うときがあるだろう。
相性が悪いから嫌われているというよりも、本音では眞一郎くんを奪われたくないからだ。
絶対に口にしたくない母としての言葉。
それでも私は眞一郎くんと仲を深めたいと思う。
仲上家や学校や世間体などを考慮して節度のある行動をしたいから。
ふたりで相談できるようになれれば、乃絵のような女の子が現れても対処できるはずだ。
今までは封印することで、眞一郎くんへの想いを隠していたけれど、
眞一郎くんが他の女の子に取られるかもしれないのを設定していなかった。
だから今になって困るようになった。
眞一郎くんが私に少しだけでも好意を寄せてくれているのに気づいていたのにだ。
何かあるとおばさんと対立して守ってくれるようにはなっていた。
その分、おばさんの風当たりは強くなっていたけれど。
眞一郎くんが私だけを見てくれていたら、きっといつまでも耐えてゆける。
おばさんに何を言われても、お互いに愛情の込めた視線の遣り取りは阻止できない。
学校でも眞一郎くんの視線に気づくときもあった。
体育でトラックを走っているときに、私は硬直して転んでしまった。
居候として同情されているかもしれないけれど、いつか眞一郎くんと結ばれるためには、
今からでも行動しておきたい。
眞一郎くんは石動乃絵と別れられるだろうか?
優しい眞一郎くんなら無理かもしれない。
ならば石動乃絵が交換条件で付き合っているのを教えてみよう。
きっと四番は石動乃絵を傷つけそうな行為を慎んでいるはずだ。
できれば使いたくないので、最終手段にする。
そんなことまでして眞一郎くんに嫌われるかもしれないけれど、
そうでもしないと頭の中から眞一郎くんが離れてくれない。
私の望みは一つだけ。
眞一郎くんが私をどう思っているのかという結果。
私を愛してくれていれば、本当に嬉しいけれど。