ある日の比呂美3

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ある日の比呂美3 - (2008/04/21 (月) 08:43:21) のソース

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翌日、眞一郎は最悪な気分で朝を迎えた。 
時計を見ると、まだ起床時刻より三十分も早い。 
だが、眠る事が出来ないというのに、これ以上ベッドに入っているのは苦痛でしかなかった。 
気だるさの残る体を起こして目覚ましのスイッチを止め、一階の洗面所へと向かう。 
歯を磨いている間、眞一郎は鏡に映る情けない男の顔を、苛立ちをもって眺めていた。 
コイツをぶっ飛ばしてやりたい…… そんな衝動に駆られる。 
(……また同じ事を繰り返してる……俺は……) 
比呂美の涙を拭うと誓ったくせに…… 誤魔化して……また泣かせて…… 
欲望に負けて…… その上……錯乱して…朋与のことまで…… 
(…………なにが……『おぎゃあ』だよ……) 
自分は何も変わってない……生まれ変わってなんかいない…… 
歯ブラシを動かす手が止まり、自分への怒りが身体を震わせる。 
眞一郎が拳を握り締め、鏡の中の自分を殴りつけようとしたその時、ドアの向こうから母の声がした。 
「眞ちゃん、いつまでやってるの? ご飯食べちゃいなさい」 
「……あぁ……分かってる……」 
口をすすいで口内の汚れと一緒に苛立ちを吐き出した眞一郎は、歯ブラシを放り投げると居間へ向かった。 


今朝の食卓に比呂美は現れなかった。 
母の話では、部活が忙しくなるので、暫く食事を食べに行けないと電話があったらしい。 
バスケ部の練習時間が、そう都合良く変わるはずはない…… その話が比呂美の嘘である事はすぐに分かった。 
(……でも……当然だよな……) 
自分の顔など、比呂美は見たくもないだろう。当たり前だ。 
モヤモヤした気持ちを抱えたまま登校し、校門をくぐる眞一郎。 
……どうしてこんなことになってしまったのか…… 
(俺の中に…………朋与への甘えが残ってる……からか……) 
比呂美へのプレゼントを買おうと思ったとき、真っ先に朋与の顔が浮かんだのは何故か。 
電車の中で、絡めてきた朋与の指を払い除けず、応えてしまったのはどうしてか。 
比呂美の身体に触れたとき……朋与の肌を思い出してしまったのは…… 
(……朋与を……比呂美より……) 
逃げ出して、混乱して、思わず掛けた電話で口走った言葉。「ふざけんなっ!」と一喝された、あやふやな気持ち。 
そうなのだ。『仲上眞一郎』が愛しているのは『湯浅比呂美』……この事実が揺らぐことは決して無い。 
夕べ眠れなかったのも、身体と心を震わせて泣く比呂美の後ろ姿が、瞼の裏に浮かんで消えなかったからだ。 
比呂美を愛している。朋与の言うとおり、『仲上眞一郎』の一番は、変わる事無く『湯浅比呂美』だ。 
……なのに……この朋与への気持ちは……一体…… 
………… 
思いつめた顔で生徒用玄関へと向かう眞一郎の横を、覚えのある香りが通り過ぎ、思考を中断させる。 
ふわりと風に舞う栗色の長髪と薄紫のコート。 
それをまとった少女は、眞一郎に一瞥もくれる事無く、足早に自分の下駄箱のある方へと消えた。 
「…………」 
眞一郎の脚が、思わず止まる。それは比呂美に無視されたからではない。 
(……あの顔……) 
凍りついた横顔…… 一年前の『あの』顔に、比呂美が戻ってしまった…… 
しかも、そうさせているのは誰あろう自分なのだ…… 
………… 
「うぃ~っす、眞一郎」 
眞一郎の姿を見つけた三代吉が肩を叩いて挨拶してくるが、すぐに反応出来ない。 
「? ……どした?」 
三代吉のセンサーは敏感だ。自分の大切な人たちの小さな変化を、彼は決して見逃さない。 
(まずい)と咄嗟に思った眞一郎は、「何でもない」と短く言って、自分の下駄箱へ向かった。 

「地~べた。ほら、ご飯だよ」 
朋与が赤い実を鶏小屋の中に投げ入れると、地べたは喉をコッコッと鳴らしてそれをついばみ始めた。 
鶏小屋の管理は用務員のおじさんがしているので、本来なら生徒が地べたの世話をする必要は無い。 
だが、朋与と比呂美、眞一郎の三人は、麦端を去っていった乃絵との約束を守って、昼休みに交代でここを訪れていた。 
赤い実は昨年の秋に、三人でストックした物である。 
(楽しかったな……あの時……) 
まるで子供の頃に戻ってしまったかの様な素敵な時間…… 
木に登り、枝を揺すって実を落とす眞一郎…… それをレジャーシートを広げて、比呂美と二人で受け止めた…… 
しゃがんだ姿勢で地べたの様子を見ながら、思い出にふける朋与。 
……でも……今は………… 
………… 
(……乃絵……アンタならどうする?……) 
助けて欲しかった。 
乃絵なら、自分が今、何をするべきなのか、どう行動するのが正解なのか教えてくれる気がした。 
しかし……それは叶うはずもない。 
それに、石動乃絵ならば「自分の事は自分で決めて」と言うに違いない。 
乃絵自身が苦しみの末に、自らの道を選択したように……朋与にも、そうするよう求めてくるに違いない。 

《本当は分かってるんでしょ? 自分がどうすればいいか》 

いつの間にか、こちらを見ていた地べたと目が合った瞬間、乃絵にそう言われた気がして、朋与はハッとなった。 
地べたは朋与から視線を逸らさず、決断する事を要求してくる。 
朋与は何かを吹っ切るように、フッと笑った。 
(……うん……分かってる。……分かってるよ) 
分かっているから……自分は今、この場所にいる。『あの時』選択した道を……貫き通すために…… 
………… 
………… 
近づいてくる足音に気づき、朋与は立ち上がった。 
振り返った視線の先に、虚ろな表情でこちらにやってくる比呂美の姿が見える。 
鶏小屋の前に朋与がいることに驚き、比呂美の脚がピタリと止まった。 
今日は比呂美が地べたに餌をやる日で、朋与はそれを待ち構えていたのだ。 
半開きだった唇がキュッと噛み締められると、比呂美の表情は見る見る険しくなっていく。 
……まるで汚いモノでも見るかのように…… 
クルリと身を翻し、もと来た道を戻ろうとする比呂美に向かって、朋与は叫ぶ。 
「逃げんのっ!!」 
痙攣するように肩を震わせて振り向く比呂美。その目尻には醜い嫉妬がシワとなって浮かび上がっていた。 
憎悪に燃える瞳が「誰が逃げるか」と訴えてくる。 
睨み合ったまま互いの距離を詰めて相対する二人の少女。 
手が届く位置まで二人の身体が接近した時、朋与の右手が空を切って、比呂美の左頬を張った。 
「!!」 
身体がよろける様な強い衝撃ではなかったが、予想外の先制攻撃を受けて、比呂美は出鼻を挫かれた。 
「昨日のお返しだよ。私、比呂美に殴られるようなこと、してないから」 
「な…!!」 
思わず言葉を失う、毒針を突き刺すような朋与の口振り。 
比呂美は体内を駆け巡る血液の温度が、一気に沸点まで上昇していくのを感じた。 

敵意むき出しの朋与の視線を真正面から受け止めながら、比呂美は腹わたが煮えくり返る思いだった。 
なぜ、自分が叩かれなければ……責められなければならないのか! 
糾弾されるべきは自分ではなく、目の前にいる朋与だ!人の男を寝取った『この女』だ! 
「開き直るつもりっ!!」 
負けてたまるか、という気持ちが、比呂美の声をついつい大きくする。 
「私が眞一郎と寝たのは、彼が乃絵と付き合う前よ! アンタにとやかく言われる筋合いはない!!」 
校舎から離れた鶏小屋の前ということもあり、朋与の張り上げる声も、比呂美のそれに釣られて大きくなる。 
確かにそうだ。眞一郎と朋与が関係を持った時、自分は眞一郎の『同居人』でしかなかった。 
しかも、形だけとはいえ石動純と付き合っていた時期…… 文句を言うのは筋違いである。 
だが、朋与は自分の真意に気づいていたはず…… 気づいていたのに、眞一郎を!! 
「そんな理屈!!」 
認められなかった。眞一郎は……眞一郎の全ては自分の…『湯浅比呂美』のモノだ! 
……過去も、今も、未来も…… 欠片だって他人に渡したくない! 
「傲慢ね…… そんなの『愛』じゃない」 
朋与の指摘は真理を突いていたのだが、比呂美は聞こえないふりをして話を逸らした。 
「……横から割り込んで…………セックスするのは『愛』だっていうの?……笑わせないで!」 
比呂美の唇が皮肉に歪み、ククッと下品な声が漏れ出した瞬間、朋与は顔を真っ赤に紅潮させて叫んだ。 
「笑うなッッ!!!!」 
内に秘められた殺気が音の形をとって、比呂美の全身に叩きつけられる! 
「!!!」 
……殺される…… 本気でそう感じた比呂美の身体は、硬直して動けなくなった。 
「私の……私と眞一郎の大切な時間を馬鹿にすることは許さないっ!……たとえ比呂美でもっ!!!」 
「…………」 
比呂美は改めて思い知らされた。朋与の眞一郎に対する愛情の深さを。 
負けている、とは思わない。……でも……朋与の『愛』も本物なのだと認識することは、比呂美には苦痛だった。 
黙り込んでしまった比呂美に、今度は朋与が冷笑を浴びせかける。 
「……もう信じられないんでしょ?……眞一郎のこと……」 
怖じけて逸らしていた視線を戻すと、朋与は失望と侮蔑を混合させた鋭い眼で、こちらを睨んでいた。 
「…………眞一郎は私が貰う」 
「!!!」 
好きだ、愛していると口では言いながら、その実、相手を疑ってばかりの女に、眞一郎は渡さない。 
自分以外の女に触れた……その程度の事で気持ちが揺らぐ女に、眞一郎は譲れない。 
「……その程度って……」 
「『その程度』よっ!!!」 
セックスなんて愛情表現の一手段に過ぎない。そんな物に拘って、本質を見失うなんて馬鹿げている。 
そう朋与は言い切った。 
「……でも…………でも……」 
比呂美も、朋与の言いたい事が理解できない年齢ではない。 
だが……理解はできても納得できない…… 比呂美の中の『少女』の部分が、そう訴えてくるのだ。 
「だから…………アンタのそのガキっぽい価値観に殉じてあげるって言ってるのよ」 
『初めて』を捧げ合った二人が結ばれるのだ、文句は無いだろう。 
そう宣言すると、「部活では普通にしててよね」と吐き捨てるように言って、朋与はその場を離れようとする。 
「ま、待って!!」 
顔面を蒼白にし、ガタガタと膝を震わせながら、比呂美は朋与を呼び止めた。 
「…………嫌……嫌よ……」 
背中に突き刺さる悲痛な声に、朋与は脚を止めたが、振り向こうとはしない。 
冷徹な拒絶のオーラを発散する朋与…… その彼女へ向けて、比呂美は懇願する。 
「……盗らないで……眞一郎くんを…………盗らないで……お願い……」 
それだけ言うのが精一杯だった。滝のように溢れてくる涙を隠そうと、比呂美は顔を伏せる。 
……朋与の鼓膜を震わせる、比呂美の慟哭…… 
しかし、朋与はそれに構う事無く、氷の視線で一瞥すると、とどめの一言を浴びせかける。 
「甘ったれないで。……私は二度も道を譲るほど、お人好しじゃない!」 
「!!!」 
昼休みの終わりを告げる鐘が鳴る中、絶望して立ち尽くす比呂美を置いて、朋与は立ち去った。 

朋与に会って話しをしなければ…… 眞一郎はそう思った。 
(顔を見て話さないと……この気持ちが何なのかハッキリしない) 
昼休みに校内を捜してみる。 
だが、地べたの餌やり以外の日、朋与がどこで何をしているのか、眞一郎は知らなかった。 
……間が悪い…… 朋与を見つけられない眞一郎の頭に、乃絵の時と同じ、見苦しい言い訳が浮かぶ。 
だが、比呂美が居そうな所には顔を出し辛いし、そうなると接触のチャンスは自然と少なくなってしまう…… 
(…………理由をつけて逃げたいんじゃないのか……俺は……) 
空しい自問自答…… 
結局、眞一郎は放課後も学校内で朋与に会うことは出来ず、不明瞭な想いを抱えたまま、家路に着いた。 


オレンジ色に染め上げられた海岸通りを、一人歩く眞一郎。 
その足取りは内心の陰鬱さを鏡に映したように、暗く重い。 
「帰宅部のクセに、帰りが遅いんじゃない?」 
突然、前方から掛けられた声にハッとなる。 
防波堤に腰掛ける線の細いシルエット。金色の逆光に縁取られて顔は良く見えないが、誰なのかはすぐに分かった。 
その影は「よっ」という元気のいい掛け声と共にコンクリートから飛び降りると、一瞬で眞一郎の目前まで距離を詰める。 
「……俺を……待ってたのか……」 
「うん。眞一郎を待ってた」 
黒部朋与の笑顔…… 普段と変わらない微笑が、昨日までとは違う何かを孕んでいる…… 
朋与がこの一年、頑なに拒んできた『眞一郎』という呼び方を使ったことに、その『何か』が込められている気がした。 
「昨日の電話……その……」 
悪かった…… いきなり訳の分からない事を言って…… 眞一郎はそう言いかけた。 
だが、朋与は戸惑いを見せる眞一郎に喋る間を与えず、先に口を開く。 
「私と付き合ってよ」 
「……え……」 
いきなりの告白に固まってしまった眞一郎に、朋与は「驚くことないでしょ?」と笑い、言葉を続けた。 
もう比呂美に遠慮なんかしない。だってお互いに気持ちが分かってしまったのだから。 
『黒部朋与』は『仲上眞一郎』が忘れられない。『仲上眞一郎』も『黒部朋与』忘れられない。 
……それはつまり…… 
「『終わってない』んだよ、私たち……」 
「……『終わってない』……?」 
オウム返しに訊いてくる眞一郎から視線を外し、朋与は繰り返す。 
「そう……『終わってない』の…… だからこれは、やり直しじゃなくて……あの時の続き」 
一瞬だけ絡ませてきた朋与の瞳の奥に、喜びや期待とは別のモノが隠されていることに、眞一郎は気づいた。 
そして、その正体に思い至った時、『終わっていない』と言った朋与の言葉の意味と、自分のあやふやな気持ちが繋がる。 
(そうか……そういうこと……か……) 
行く道を見失いかけていた眞一郎の両眼に、また光が宿った。 
……それを敏感に感じ取った朋与の顔が、もうすぐ訪れるであろう現実を予感して、僅かに曇る…… 
………… 
………… 
「明日の夕方、家に来て」 
その朋与の誘いに、眞一郎は迷い無く「分かった」と即答する。 
明日は『あの日』と同じ曜日…… 朋与の部屋は、あの時と同じ二人だけの空間になる。 
そこで朋与が眞一郎に何を望むのか、何をしなければならないのか……もう分かっている。 
飛ばなければならない…… 本当に大切な人と、ちゃんと向き合うために。 
何も変われない『仲上眞一郎』のままだけれども…… 
自分のやり方で、また……飛ばなければならない…… 
……信じてくれる瞳が、そこにあるのだから…… 
………… 
「……それじゃ、明日ね」 
眞一郎に背を向けて歩き出した朋与の表情からは、明るい声とは裏腹に、先程までの笑顔が嘘のように消えていた。 
「うん」と短く答えた眞一郎は、朋与の姿が見えなくなるまで、その場所で彼女を見送る。 
暫くして、再び家路に着いた眞一郎の足取りは、そこへたどり着いた時とはまるで違う、力強いものになっていた。 


つづく
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