ある日の比呂美3



翌日、眞一郎は最悪な気分で朝を迎えた。
時計を見ると、まだ起床時刻より三十分も早い。
だが、眠る事が出来ないというのに、これ以上ベッドに入っているのは苦痛でしかなかった。
気だるさの残る体を起こして目覚ましのスイッチを止め、一階の洗面所へと向かう。
歯を磨いている間、眞一郎は鏡に映る情けない男の顔を、苛立ちをもって眺めていた。
コイツをぶっ飛ばしてやりたい…… そんな衝動に駆られる。
(……また同じ事を繰り返してる……俺は……)
比呂美の涙を拭うと誓ったくせに…… 誤魔化して……また泣かせて……
欲望に負けて…… その上……錯乱して…朋与のことまで……
(…………なにが……『おぎゃあ』だよ……)
自分は何も変わってない……生まれ変わってなんかいない……
歯ブラシを動かす手が止まり、自分への怒りが身体を震わせる。
眞一郎が拳を握り締め、鏡の中の自分を殴りつけようとしたその時、ドアの向こうから母の声がした。
「眞ちゃん、いつまでやってるの? ご飯食べちゃいなさい」
「……あぁ……分かってる……」
口をすすいで口内の汚れと一緒に苛立ちを吐き出した眞一郎は、歯ブラシを放り投げると居間へ向かった。


今朝の食卓に比呂美は現れなかった。
母の話では、部活が忙しくなるので、暫く食事を食べに行けないと電話があったらしい。
バスケ部の練習時間が、そう都合良く変わるはずはない…… その話が比呂美の嘘である事はすぐに分かった。
(……でも……当然だよな……)
自分の顔など、比呂美は見たくもないだろう。当たり前だ。
モヤモヤした気持ちを抱えたまま登校し、校門をくぐる眞一郎。
……どうしてこんなことになってしまったのか……
(俺の中に…………朋与への甘えが残ってる……からか……)
比呂美へのプレゼントを買おうと思ったとき、真っ先に朋与の顔が浮かんだのは何故か。
電車の中で、絡めてきた朋与の指を払い除けず、応えてしまったのはどうしてか。
比呂美の身体に触れたとき……朋与の肌を思い出してしまったのは……
(……朋与を……比呂美より……)
逃げ出して、混乱して、思わず掛けた電話で口走った言葉。「ふざけんなっ!」と一喝された、あやふやな気持ち。
そうなのだ。『仲上眞一郎』が愛しているのは『湯浅比呂美』……この事実が揺らぐことは決して無い。
夕べ眠れなかったのも、身体と心を震わせて泣く比呂美の後ろ姿が、瞼の裏に浮かんで消えなかったからだ。
比呂美を愛している。朋与の言うとおり、『仲上眞一郎』の一番は、変わる事無く『湯浅比呂美』だ。
……なのに……この朋与への気持ちは……一体……
…………
思いつめた顔で生徒用玄関へと向かう眞一郎の横を、覚えのある香りが通り過ぎ、思考を中断させる。
ふわりと風に舞う栗色の長髪と薄紫のコート。
それをまとった少女は、眞一郎に一瞥もくれる事無く、足早に自分の下駄箱のある方へと消えた。
「…………」
眞一郎の脚が、思わず止まる。それは比呂美に無視されたからではない。
(……あの顔……)
凍りついた横顔…… 一年前の『あの』顔に、比呂美が戻ってしまった……
しかも、そうさせているのは誰あろう自分なのだ……
…………
「うぃ~っす、眞一郎」
眞一郎の姿を見つけた三代吉が肩を叩いて挨拶してくるが、すぐに反応出来ない。
「? ……どした?」
三代吉のセンサーは敏感だ。自分の大切な人たちの小さな変化を、彼は決して見逃さない。
(まずい)と咄嗟に思った眞一郎は、「何でもない」と短く言って、自分の下駄箱へ向かった。

「地~べた。ほら、ご飯だよ」
朋与が赤い実を鶏小屋の中に投げ入れると、地べたは喉をコッコッと鳴らしてそれをついばみ始めた。
鶏小屋の管理は用務員のおじさんがしているので、本来なら生徒が地べたの世話をする必要は無い。
だが、朋与と比呂美、眞一郎の三人は、麦端を去っていった乃絵との約束を守って、昼休みに交代でここを訪れていた。
赤い実は昨年の秋に、三人でストックした物である。
(楽しかったな……あの時……)
まるで子供の頃に戻ってしまったかの様な素敵な時間……
木に登り、枝を揺すって実を落とす眞一郎…… それをレジャーシートを広げて、比呂美と二人で受け止めた……
しゃがんだ姿勢で地べたの様子を見ながら、思い出にふける朋与。
……でも……今は…………
…………
(……乃絵……アンタならどうする?……)
助けて欲しかった。
乃絵なら、自分が今、何をするべきなのか、どう行動するのが正解なのか教えてくれる気がした。
しかし……それは叶うはずもない。
それに、石動乃絵ならば「自分の事は自分で決めて」と言うに違いない。
乃絵自身が苦しみの末に、自らの道を選択したように……朋与にも、そうするよう求めてくるに違いない。

《本当は分かってるんでしょ? 自分がどうすればいいか》

いつの間にか、こちらを見ていた地べたと目が合った瞬間、乃絵にそう言われた気がして、朋与はハッとなった。
地べたは朋与から視線を逸らさず、決断する事を要求してくる。
朋与は何かを吹っ切るように、フッと笑った。
(……うん……分かってる。……分かってるよ)
分かっているから……自分は今、この場所にいる。『あの時』選択した道を……貫き通すために……
…………
…………
近づいてくる足音に気づき、朋与は立ち上がった。
振り返った視線の先に、虚ろな表情でこちらにやってくる比呂美の姿が見える。
鶏小屋の前に朋与がいることに驚き、比呂美の脚がピタリと止まった。
今日は比呂美が地べたに餌をやる日で、朋与はそれを待ち構えていたのだ。
半開きだった唇がキュッと噛み締められると、比呂美の表情は見る見る険しくなっていく。
……まるで汚いモノでも見るかのように……
クルリと身を翻し、もと来た道を戻ろうとする比呂美に向かって、朋与は叫ぶ。
「逃げんのっ!!」
痙攣するように肩を震わせて振り向く比呂美。その目尻には醜い嫉妬がシワとなって浮かび上がっていた。
憎悪に燃える瞳が「誰が逃げるか」と訴えてくる。
睨み合ったまま互いの距離を詰めて相対する二人の少女。
手が届く位置まで二人の身体が接近した時、朋与の右手が空を切って、比呂美の左頬を張った。
「!!」
身体がよろける様な強い衝撃ではなかったが、予想外の先制攻撃を受けて、比呂美は出鼻を挫かれた。
「昨日のお返しだよ。私、比呂美に殴られるようなこと、してないから」
「な…!!」
思わず言葉を失う、毒針を突き刺すような朋与の口振り。
比呂美は体内を駆け巡る血液の温度が、一気に沸点まで上昇していくのを感じた。

敵意むき出しの朋与の視線を真正面から受け止めながら、比呂美は腹わたが煮えくり返る思いだった。
なぜ、自分が叩かれなければ……責められなければならないのか!
糾弾されるべきは自分ではなく、目の前にいる朋与だ!人の男を寝取った『この女』だ!
「開き直るつもりっ!!」
負けてたまるか、という気持ちが、比呂美の声をついつい大きくする。
「私が眞一郎と寝たのは、彼が乃絵と付き合う前よ! アンタにとやかく言われる筋合いはない!!」
校舎から離れた鶏小屋の前ということもあり、朋与の張り上げる声も、比呂美のそれに釣られて大きくなる。
確かにそうだ。眞一郎と朋与が関係を持った時、自分は眞一郎の『同居人』でしかなかった。
しかも、形だけとはいえ石動純と付き合っていた時期…… 文句を言うのは筋違いである。
だが、朋与は自分の真意に気づいていたはず…… 気づいていたのに、眞一郎を!!
「そんな理屈!!」
認められなかった。眞一郎は……眞一郎の全ては自分の…『湯浅比呂美』のモノだ!
……過去も、今も、未来も…… 欠片だって他人に渡したくない!
「傲慢ね…… そんなの『愛』じゃない」
朋与の指摘は真理を突いていたのだが、比呂美は聞こえないふりをして話を逸らした。
「……横から割り込んで…………セックスするのは『愛』だっていうの?……笑わせないで!」
比呂美の唇が皮肉に歪み、ククッと下品な声が漏れ出した瞬間、朋与は顔を真っ赤に紅潮させて叫んだ。
「笑うなッッ!!!!」
内に秘められた殺気が音の形をとって、比呂美の全身に叩きつけられる!
「!!!」
……殺される…… 本気でそう感じた比呂美の身体は、硬直して動けなくなった。
「私の……私と眞一郎の大切な時間を馬鹿にすることは許さないっ!……たとえ比呂美でもっ!!!」
「…………」
比呂美は改めて思い知らされた。朋与の眞一郎に対する愛情の深さを。
負けている、とは思わない。……でも……朋与の『愛』も本物なのだと認識することは、比呂美には苦痛だった。
黙り込んでしまった比呂美に、今度は朋与が冷笑を浴びせかける。
「……もう信じられないんでしょ?……眞一郎のこと……」
怖じけて逸らしていた視線を戻すと、朋与は失望と侮蔑を混合させた鋭い眼で、こちらを睨んでいた。
「…………眞一郎は私が貰う」
「!!!」
好きだ、愛していると口では言いながら、その実、相手を疑ってばかりの女に、眞一郎は渡さない。
自分以外の女に触れた……その程度の事で気持ちが揺らぐ女に、眞一郎は譲れない。
「……その程度って……」
「『その程度』よっ!!!」
セックスなんて愛情表現の一手段に過ぎない。そんな物に拘って、本質を見失うなんて馬鹿げている。
そう朋与は言い切った。
「……でも…………でも……」
比呂美も、朋与の言いたい事が理解できない年齢ではない。
だが……理解はできても納得できない…… 比呂美の中の『少女』の部分が、そう訴えてくるのだ。
「だから…………アンタのそのガキっぽい価値観に殉じてあげるって言ってるのよ」
『初めて』を捧げ合った二人が結ばれるのだ、文句は無いだろう。
そう宣言すると、「部活では普通にしててよね」と吐き捨てるように言って、朋与はその場を離れようとする。
「ま、待って!!」
顔面を蒼白にし、ガタガタと膝を震わせながら、比呂美は朋与を呼び止めた。
「…………嫌……嫌よ……」
背中に突き刺さる悲痛な声に、朋与は脚を止めたが、振り向こうとはしない。
冷徹な拒絶のオーラを発散する朋与…… その彼女へ向けて、比呂美は懇願する。
「……盗らないで……眞一郎くんを…………盗らないで……お願い……」
それだけ言うのが精一杯だった。滝のように溢れてくる涙を隠そうと、比呂美は顔を伏せる。
……朋与の鼓膜を震わせる、比呂美の慟哭……
しかし、朋与はそれに構う事無く、氷の視線で一瞥すると、とどめの一言を浴びせかける。
「甘ったれないで。……私は二度も道を譲るほど、お人好しじゃない!」
「!!!」
昼休みの終わりを告げる鐘が鳴る中、絶望して立ち尽くす比呂美を置いて、朋与は立ち去った。

朋与に会って話しをしなければ…… 眞一郎はそう思った。
(顔を見て話さないと……この気持ちが何なのかハッキリしない)
昼休みに校内を捜してみる。
だが、地べたの餌やり以外の日、朋与がどこで何をしているのか、眞一郎は知らなかった。
……間が悪い…… 朋与を見つけられない眞一郎の頭に、乃絵の時と同じ、見苦しい言い訳が浮かぶ。
だが、比呂美が居そうな所には顔を出し辛いし、そうなると接触のチャンスは自然と少なくなってしまう……
(…………理由をつけて逃げたいんじゃないのか……俺は……)
空しい自問自答……
結局、眞一郎は放課後も学校内で朋与に会うことは出来ず、不明瞭な想いを抱えたまま、家路に着いた。


オレンジ色に染め上げられた海岸通りを、一人歩く眞一郎。
その足取りは内心の陰鬱さを鏡に映したように、暗く重い。
「帰宅部のクセに、帰りが遅いんじゃない?」
突然、前方から掛けられた声にハッとなる。
防波堤に腰掛ける線の細いシルエット。金色の逆光に縁取られて顔は良く見えないが、誰なのかはすぐに分かった。
その影は「よっ」という元気のいい掛け声と共にコンクリートから飛び降りると、一瞬で眞一郎の目前まで距離を詰める。
「……俺を……待ってたのか……」
「うん。眞一郎を待ってた」
黒部朋与の笑顔…… 普段と変わらない微笑が、昨日までとは違う何かを孕んでいる……
朋与がこの一年、頑なに拒んできた『眞一郎』という呼び方を使ったことに、その『何か』が込められている気がした。
「昨日の電話……その……」
悪かった…… いきなり訳の分からない事を言って…… 眞一郎はそう言いかけた。
だが、朋与は戸惑いを見せる眞一郎に喋る間を与えず、先に口を開く。
「私と付き合ってよ」
「……え……」
いきなりの告白に固まってしまった眞一郎に、朋与は「驚くことないでしょ?」と笑い、言葉を続けた。
もう比呂美に遠慮なんかしない。だってお互いに気持ちが分かってしまったのだから。
『黒部朋与』は『仲上眞一郎』が忘れられない。『仲上眞一郎』も『黒部朋与』忘れられない。
……それはつまり……
「『終わってない』んだよ、私たち……」
「……『終わってない』……?」
オウム返しに訊いてくる眞一郎から視線を外し、朋与は繰り返す。
「そう……『終わってない』の…… だからこれは、やり直しじゃなくて……あの時の続き」
一瞬だけ絡ませてきた朋与の瞳の奥に、喜びや期待とは別のモノが隠されていることに、眞一郎は気づいた。
そして、その正体に思い至った時、『終わっていない』と言った朋与の言葉の意味と、自分のあやふやな気持ちが繋がる。
(そうか……そういうこと……か……)
行く道を見失いかけていた眞一郎の両眼に、また光が宿った。
……それを敏感に感じ取った朋与の顔が、もうすぐ訪れるであろう現実を予感して、僅かに曇る……
…………
…………
「明日の夕方、家に来て」
その朋与の誘いに、眞一郎は迷い無く「分かった」と即答する。
明日は『あの日』と同じ曜日…… 朋与の部屋は、あの時と同じ二人だけの空間になる。
そこで朋与が眞一郎に何を望むのか、何をしなければならないのか……もう分かっている。
飛ばなければならない…… 本当に大切な人と、ちゃんと向き合うために。
何も変われない『仲上眞一郎』のままだけれども……
自分のやり方で、また……飛ばなければならない……
……信じてくれる瞳が、そこにあるのだから……
…………
「……それじゃ、明日ね」
眞一郎に背を向けて歩き出した朋与の表情からは、明るい声とは裏腹に、先程までの笑顔が嘘のように消えていた。
「うん」と短く答えた眞一郎は、朋与の姿が見えなくなるまで、その場所で彼女を見送る。
暫くして、再び家路に着いた眞一郎の足取りは、そこへたどり着いた時とはまるで違う、力強いものになっていた。


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最終更新:2008年04月21日 08:43
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