はじめての外泊-4

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はじめての外泊-4 - (2009/11/16 (月) 00:17:20) のソース

<p> <br />
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 <br />
《 四 ふるえちゃった……》<br />
 <br />
 比呂美にはその三文字が、太古で使われた記号のように見えた。視覚で捉えていても、無数に<br />
枝分かれした脳の回路が、千年前の記憶を辿っていくみたいにすぐには繋がらず、ちっとも解析<br />
が進まない感じなのだ。それほどに意表をつかれた三文字だった。<br />
 携帯電話のディスプレイには、次のように表示されていた。ト、モ、ヨ、と。<br />
┏━━━━━┓<br />
┃ トモヨ ┃<br />
┃ 0:29┃<br />
┗━━━━━┛<br />
 でも、その混乱はほんの一瞬のことで、比呂美はすぐに自分の大失敗に気づき、胸のど真ん中<br />
に風穴ができるのを感じた。比呂美は携帯電話の筺体(きょうたい)を開いて、まっさきに「ご<br />
めんなさい」と謝ろうとしたが、そうする前に、相手の音声が小型スピーカーから飛び出してき<br />
た。樹木をなぎ倒す雪崩のような轟音を伴った感じで。<br />
『おっそぉ――――いっ、もうっ!』<br />
「ご、ごめん……なさい」<br />
 朋与の声はすでに怒りを通り越していて、比呂美を心配する口調に変わっていた。比呂美には<br />
それが分かるのだ。比呂美の両親が亡くなったあとずっと比呂美のそばにいてくれた朋与のこと<br />
だからこそ、間違えることはない。罪悪感が肌に突き刺さるのを感じ、比呂美はただただ謝るし<br />
かなかった。比呂美にとって朋与は、岬に立つ灯台のように見失ってはならぬ存在で、そんな彼<br />
女に心配をかけるということは、片翼をもがれる鳥の絵を見て感じる悲痛と同じくらい心が痛む<br />
ことなのだ。<br />
「ほんとうに、ごめん……。ごめん……」比呂美は繰返し謝り、肩をすぼめた。<br />
 朋与は、しばらく言葉を失っていた。その沈黙がなにを意味するのか比呂美には分からなかっ<br />
たが、朋与に複雑な感情が渦巻いていることは想像ついた。眞一郎と同じように、比呂美に「ご<br />
めん」と何度もいわせてしまったことを後悔しているのかもしれない。<br />
 おふくろじゃないの? と眞一郎が比呂美の肩越しに声をかけると、比呂美は慌てて振り返り、<br />
ひとさし指を立てて口の前にもっていった。そして携帯電話のディスプレイを眞一郎に見せた。<br />
 電話をかけてきた相手が、母の理恵子じゃないと分かると、眞一郎は切り倒される大木のよう<br />
に布団に突っ伏した。眞一郎の股間で薄膜をまとった根幹がしぼんでぷらぷらと揺れるのを、比<br />
呂美は横目でちらっと見てから電話に集中した。<br />
『なにしてたのよぉ―――、比呂美らしくない。約束すっぽかすなんてっ』<br />
 気を取り直したみたいで、ようやく朋与は口を開いた。言い方はきつくても、比呂美に何かあ<br />
ったわけではないと分かって、朋与の声から緊張感が取り払われていく。それを感じて、比呂美<br />
もほっとする。<br />
「ごめん、朋与……。こんど、なにかおごるから」<br />
『いいわよ、そんなことしなくても』朋与としては比呂美にお金を使わせるのはあまりいい気が<br />
しない。『あっ、でも、夏休みの課題は見せてぇ』と慌てて思い直した。これでチャラにするつ<br />
もりなのだ。<br />
「抜け目ないんだから」と、比呂美はいつもながら呆れた。電話の向こうでは朋与が、にひひ、<br />
と笑っている。気味の悪い笑い方だけど、硬直しかけた空気をほぐす力だけはもっている。<br />
 比呂美は、今夜九時過ぎに電話することを朋与に約束していた。このアパートに無事着いたあ<br />
とに電話入れるつもりでいた。例の、朋与が幹事を務める、女バスの三年生の引退セレモニーの<br />
件である。その会場として仲上家の客間を使わせてもらえないかと、比呂美はヒロシに尋ね、そ<br />
の結果を報告しなければいけなかったのだ。<br />
『で、どうだった?』と、朋与が早速切りだしてきた。<br />
「そ、それが~、ね……」<br />
『なに、その口ぶりだと、まだってこと?』<br />
「うん、話しそびれちゃって……。ごめん」と、比呂美は軽くおどけって言ったが、それが返っ<br />
て朋与を心配させた。少し間をあけて、『もしかして……』と、おそるおそる善くない事を確か<br />
めるように朋与は話しだした。<br />
『やっぱり、言いにくいのかな、こういうことって……』比呂美に嫌なこと押し付けてしまった<br />
と、反省しているような口ぶりだ。さらにつづけた。<br />
『わたしが直接、話そうか? 比呂美のその……、なんていうか……、立場を考えると、ちょっ<br />
とどうかな、とは思ったんだけど、比呂美がわたしに任せてっていうから……。ほら、引退セレ<br />
モニーていったって、女の子がワーワー、キャーキャー、ドンチャン騒ぎやるわけだし……』<br />
 比呂美は慌てて言葉を返す。<br />
「朋与、ちがう、ちがうって。言いにくいとか、ぜんぜんそんな心配いらなから。きのうは、ほ<br />
んとうにバタバタしていて、話すタイミングがなかったの。それだけのことよ」<br />
『…………』朋与は比呂美の喋り方から本心を確かめているようだ。<br />
「それに、眞一郎くんのお母さんにはインターハイのあと、この話、したし。お父さんのほうに<br />
は正式にお伺いを立てていないだけなの。ただそれだけ。場所提供に関しては問題ないんだけど、<br />
ほら、親戚事と重なるとちょっとまずいでしょ? ドンチャン騒ぎやるわけだし」<br />
 比呂美が眞一郎のほうに目をやると、案の定、眞一郎も比呂美のほうを見ていた。なんのこ<br />
と? という風にきょとんとした顔をしている。なにか言いたそうでもあったので、比呂美は再<br />
度ひとさし指を立てて口の前にもっていった。こんな夜中に眞一郎と一緒にいることが知れたら、<br />
朋与はどんな悪知恵をはたらかせるやら――。<br />
『ほんとうに、それだけぇ?』と、まだ疑っている朋与。<br />
「わたしが心配しているのは、眞一郎くんの鼻の下がのび、わっ」<br />
『どうしたのっ! 比呂美ぃー』<br />
 眞一郎が比呂美のスポーツバッグの横にあったティッシュペーパーの箱を取ろうとして身を乗<br />
りだしたのを、眞一郎が抱きついてきたと比呂美が勘違いしたのだ。こんどは、眞一郎がひとさ<br />
し指を立てている。比呂美は眞一郎の背中にもみじ饅頭(※平手によるアザ)を作ってやろうか<br />
と思ったが、思いとどまった。相当すごい音が響くはずだから。(当然、眞一郎の奇声も)<br />
「なんでもない、なんでもないっ」比呂美は慌てて取りつくろう。「片足でストレッチしてて、<br />
バランスくずしただけっ」<br />
『ふ~ん』なんでまたこんな夜中にストレッチ? と朋与はいぶかしげにうなずいた。<br />
 ゴマかしきれたかどうか、注意深く朋与の反応に耳を澄ませている比呂美の横で、電池を逆に<br />
入れた子犬のロボットみたいに眞一郎が這って後退していく。右手にはティッシュ、左手にはト<br />
ランクスが握られ、股間のアレはまだ晒されたままだ。どうやら、眞一郎は洋室へ撤退するよう<br />
だ。<br />
「『ロ○キー』見てたら、なんか体、動かしたくなって」と、比呂美はさらに理由をでっちあげ<br />
た。(この一言が墓穴を掘ることになるとも知らずに)<br />
『○ッキー? スタ○―ンのアレ?』<br />
「そうそう、映画」(そうそう、その調子、その調子。うまくゴマかせそう)<br />
『たしかに、気に入らないヤツ、ぶん殴りたくなるよね、あれ見てると』<br />
「べつに、そこまでは……」と比呂美は苦笑した。<br />
『……あれぇ~、もしかして、仲上君と一緒に見てたんじゃないの?』比呂美が妙に連れない返<br />
事をしたので、朋与はそう勘ぐらずにいられなかった。<br />
 <br />
 ドキンッ!!<br />
 <br />
 比呂美は息をのんだ。なんの前触れもなく、ずばり言い当てられて言葉が出てこない。いや、<br />
なにを言っても暴かれるような気がしたのだ。どんなに巧妙に否定しても、朋与が次々と確たる<br />
証拠と突きつけてくるように思えた。なにせ、ずばり言い当てるだけの勘の鋭さを朋与がもって<br />
いるから。でもそれはあっさり杞憂に終わった。朋与の次の一言があっさり終わらせた。<br />
『あ、そんなわけないか。仲上君、金沢に行ってるんだっけ』<br />
「うん、そうそう」(朋与、えらいっ! よく思い出したっ)<br />
 比呂美は、当たり前の事実のように平淡にうなずいたが、心臓はバクバク鳴ったっきり治まる<br />
気配をみせない。何事もなく早く電話が終わることを比呂美は祈った。<br />
『どうしてるだろうね、旦那は』<br />
「寝てるんじゃないの?」眞一郎のことを旦那と呼ばれることには、もう比呂美は慣れている。<br />
いや、諦めている。朋与は、はぁ~、とため息をついた。<br />
『そういうことを言ってるんじゃないの。遠く離れていても、比呂美のことをちゃんと想ってる<br />
だろうか~、って言ってるの』<br />
 この言葉には、少女漫画の一コマを思わせるロマッチックな情感がわざとらしく加えられてい<br />
た。<br />
「そんなこと、わかってるわよ」と比呂美は達観したように返した。「わたしからのろけ話を引<br />
き出そうとしているくらい」<br />
『あはは、バレたか。聡明な比呂美さまには敵いません』朋与はお代官さまにひれ伏すように素<br />
直に魂胆を認めたが、そのあといきなり声のトーンを落とした。<br />
『でもぉ、ちゃんと連絡とってる? 大学生に囲まれてのボランティアなんでしょ? ちょっと<br />
強引なお姉さんだったら簡単に押し倒されちゃうんじゃない、仲上君の性格だと』<br />
 比呂美は少し意表をつかれた。朋与が考えていることは、こっちのほうだったのだ。眞一郎が<br />
浮気するということ。比呂美のそばから眞一郎が一週間もいなくなることを朋与なりに心配して<br />
いたのだ。ただ、眞一郎が浮気をしていないかということが気になったわけではなく、それより<br />
も、比呂美が孤独感を感じていないかということのほうが気になっていたようだ。朋与がそこま<br />
で考えているとは、いまの比呂美には想像つかなかったが……。<br />
「どうかな~。でもけっこう、ああ見えても頑固だよ。譲らないところは、譲らないし、強引な<br />
ところは、強引だし」<br />
『それって、エッチの話?』<br />
「ばかっ。せ、い、か、く、の話でしょ。油断も隙もないんだから」<br />
 比呂美は洋室のほうに目をやったが、眞一郎の姿は見えなかった<br />
『でも、キスマークがどこかに残ってないかくらい、さりげなくチェックしておいたほうがいい<br />
と思うけどな~』とおもしろがって朋与はいう。<br />
「ご忠告を、どうも」(もうチェック済みですよ~)<br />
 朋与は、ほっとしたように鼻を鳴らした。<br />
『そういえば、さっきから気になってたんだけど、電話の声、いつもより遠く感じない?』<br />
「え、ぜんぜん、気にならないけど……」<br />
 どこまでこの女は抜け目ないんだろう、と比呂美は思う。朋与がカマをかけてそういってきた<br />
のか、ほんとうにそう感じたのかは分からないが、ほんとうに油断も隙もない。<br />
『そう、気のせいか。じゃ、そろそろ』<br />
「うん。ごめんね、すっぽかしたりして」<br />
『もう、いいって』といって朋与はそのあと黙った。そして、ヒミツを打ち明けるみたいに口を<br />
開いた。『……比呂美、あのさ……』<br />
「なに?」比呂美は、朋与の中の微妙なざわめきを感じたが、気づかないフリをしてそっけなく<br />
訊き返した。<br />
『いや、なんでもない。夏休みの課題、よろしくぅ』<br />
「はいはい」<br />
 お互いに「おやすみ」といって電話を切った。<br />
 やっと終わった、と比呂美は肩の力を抜いた。携帯電話をスポーツバッグの上に置くと、コー<br />
ヒーの匂いに鼻をくすぐられて、比呂美は振り返った。眞一郎が紙コップ片手に戸のところに立<br />
っていた。濃いグレーに深緑の線の入った新しいトランクスに穿き替えている。上半身はまだ裸<br />
だったが、股間のアレの部分は盛り上がってはいなかった。<br />
「女バスの話?」と眞一郎は尋ねた。<br />
「う、うん」後半はあなたの話だったけど、と比呂美は心の中で付け加えた。「三年生の引退式<br />
を――ていっても堅苦しいものじゃなくて、その女バス集まりの会場として、眞一郎くんちの客<br />
間を使わせてもらえないかと思って、おじさんにお願いすることになってたんだけど、話しそび<br />
れちゃて……。朋与にそのこと、今晩電話することになっていたの。それで……」<br />
 そういっている途中で眞一郎がはっきりと顔をしかめたので、比呂美は「なに?」と訊いた。<br />
「比呂美の家でもあるんだから……」<br />
 どうやら、眞一郎も朋与と似たような心配をしたらしい。正直なところ、仲上夫妻に対して遠<br />
慮する気持ちは比呂美にはあった。それは、誰がなんと言おうとも、一生消えることのない気持<br />
ちだろう。でも、その気持ちはもう、以前ほどの強い気持ちではない。全身の筋肉を収縮させて<br />
しまうほどのものではなくなっていた。でも、心の中でその蟠りが薄まっていても、まだ言葉や<br />
態度の端々で露見してしまっているのも事実だろうと比呂美は思った。だから、こうして朋与も<br />
眞一郎も反応するのだ。<br />
「あ、う、うん、それはわかっているんだけど……」眞一郎の気持ちをあまり逆なでしないよう<br />
に比呂美は言った。「法事とかと重なるとまずいじゃない、だから、きちんと話、しなきゃと思<br />
って」<br />
「そんなの大丈夫だよ、いつだって。比呂美は身内なんだし、それにキャプテンになるんだろ?<br />
女バスのみんなのスケジュール合わせるのだって、大変なことなんだし」<br />
「そうだね」<br />
 比呂美は、肩にかかっているタオルケットを滑らせ、脇の下に通した。眞一郎は、慌てて顔を<br />
背ける。風呂上りにバスタオルを体に巻きつけるように、タオルケットを巻きつけると、比呂美<br />
は立ち上がった。タオルケットの丈が長いため、その一部は畳についてしまう。いま自分はとて<br />
も不恰好な姿をしているだろうなと比呂美は思った。比呂美は試しに、その場で立ったまま眞一<br />
郎を真っ直ぐ見つめてみた。<br />
(なんて言ってくるだろう、いまのわたしを見て)<br />
「どうした?」眞一郎はその一言だけ発した。<br />
 眞一郎がいま飛びかかってこないかな、と比呂美は思った。タオルケットをむしり取り、自分<br />
を押し倒し、コンドームを着けずにいきなり挿入する。眞一郎がそうしてくればいいのにと思っ<br />
た。自分の肉体に夢中になる眞一郎を見てみたいと思った。なぜ急に、こんな率直な妄想に取り<br />
つかれたのか、比呂美には分からなかったが、体の芯が熱くなるような悔しさを感じていること<br />
は分かった。悔しさには、かすかに怒りのようなものも混じっている。<br />
「わたしにも、コーヒーちょうだい?」<br />
 比呂美はそういうと、眞一郎に近づいていった。タオルケットの端を踏んで軽くつんのめりそ<br />
うになったが、すぐコツをつかんで足を運ばせた。<br />
 眞一郎はコーヒーの入った紙コップを比呂美のほうに差し出す。比呂美は左手で胸のタオルケ<br />
ットを押さえたまま、右手でそれを受け取ろうとしたが、止めた。<br />
「飲ませて」比呂美は軽く笑顔をつくってそういった。<br />
「えぇ?」<br />
 驚きと、どういう方法で? という表情が同時に眞一郎の顔を支配した。それらをはっきり感<br />
じていながら、比呂美はあえて何も言わなかった。<br />
「く、口移しでってこと?」<br />
 眞一郎は、声が裏返りそうになるのをぐっと堪えて、そう尋ねた。そんくらいなんでもないぞ、<br />
という含みをいくらか込めて。比呂美は一瞬それでもいいかなと考えたが、そこまでしてもらう<br />
つもりはなかった。眞一郎の手を握って飲みたかっただけなのだ。以前、一回だけしたときのよ<br />
うに。そのことを眞一郎に思い出してほしかったのだ。<br />
 比呂美は、タオルケットが下へ落ちないようにその端を調整してから、紙コップを差し出して<br />
いる眞一郎の右手を両手でつつんだ。そのとき、眞一郎の顔が変化する。どうやら、あのときの<br />
ことを思い出したようだ。そして、「口移しで」と言ってしまったことを恥ずかしく思っている。<br />
 一口飲んで、比呂美は眞一郎の手を引き戻した。眞一郎は比呂美の顔をじっと見たまま、比呂<br />
美が何か言ってくるのを待っている。比呂美の言葉に対して、男らしい返答をいくつか考えてい<br />
るようだ。<br />
 比呂美の唇が、蕾から次の段階へ移るための準備をするように軽く開く。それを見て眞一郎は<br />
何か言いかけたが、口をつぐんだ。奥へ押し戻したその言葉が限りなく求愛の言葉に近いことは、<br />
比呂美には分かった。眞一郎は、おそらく吟味しているのだ。比呂美のいまの気持ちに対して最<br />
も相応しい言葉がどれかを。でも、なかなか眞一郎の口からその言葉は出てこない。<br />
「もう、終わりにする?」<br />
 比呂美はわざと「終わり」という言葉を使った。「終わり?」といわれれば、必ずムキになっ<br />
てそれを否定してくる。眞一郎はそういう性格なのだ。断れない。<br />
 洋室の灯りで逆光になっているせいで、眞一郎の顔や胸など体の前面は薄暗い。その代わりに<br />
体の輪郭が際立って、多くの情報が集まっているような気がする。内部の血管の収縮具合が読み<br />
取れるほどに。眞一郎の血流の一部が再び下半身に向かうのを比呂美は感じた。こんなにもはっ<br />
きりと分かるものなんだ。<br />
 そうそう、それでいい。まだまだ、わたしたちの夜は終わらせない――。比呂美は心の中で、<br />
静かに、そして熱くつぶやいた。<br />
――――――――――――――――<br />
     ふたりの位置<br />
  ┏━┳━━━┳━━━┓<br />
玄関┃ ┃       ┃<br />
  ┣━┻┳━━╋━眞━┫<br />
  ┃  ┃  ┃ 比 ┃<br />
  ┗━━┻━━┻━━━┛<br />
―――――――――――――――― <br />
 <br />
                   ◇<br />
 <br />
 どうも腑に落ちない。あの比呂美が約束をすっぽかすなんて。個人的なことならまだしも、女<br />
バスに関するかなり重要なことをだ。それに、比呂美のほうから任せてほしいと言い出したこと<br />
をだ。朋与は、勉強机の椅子に座ったまま体を反らせ、天井を睨んだ。椅子のサスペーションが<br />
ギギっという軋み音を悲鳴のように発しても、朋与は気にしなかった。むしろ、痛めつけてやり<br />
たい気分だった。その原因は、どうやら比呂美が何か隠し事をしているということにあった。も<br />
ともと比呂美は、異性関係についてべらべら喋るタイプではなかった。親友である朋与に対して<br />
もだ。それはそれで、そういう性格なのだから、朋与としても無理に秘密を暴いたりする気など<br />
なかったが、比呂美の中で別の誰かとのふたりだけの思い出がどんどん増えていくかと思うと、<br />
すがりようのない寂しさを感じた。たとえ、これが一時的な感情であって、そのうちふたりのこ<br />
とを素直に応援できるようになると分かっていても、親友を横取りされたような感覚にときどき<br />
見まわれて眞一郎を恨めしく思ったのは一度や二度ではなかった。朋与には、比呂美がどれだけ<br />
眞一郎のことを好きかは分かっても、眞一郎がどれだけ比呂美のことを好きかはまだよく分から<br />
なかったのだ。<br />
 朋与は右拳を天井に向けて突き上げた。むしゃくしゃした気持ちが少しでも晴れればいいと思<br />
って。ふっと、あのメロディが頭の中に浮かんだ。比呂美がさっき見たといった『ロ○キー』の<br />
テーマ曲だ。朋与は、イントロのあとから始まるトランペットのフレーズを口ずさんでみた。<br />
「♪ パッパァ~パァ――、パッパァ~パァ――……」<br />
 数小節すすんだところで、なにか心にひっかかるものがあった。記憶と照らし合わせてみたが、<br />
音程やリズムが間違っているわけではなかった。もともと複雑なフレーズではない。間違いよう<br />
がない。それ以外のことで何かがしっくりこないのだ。このトランペットのフレーズが、頭の中<br />
で何かとショートする感じがする。朋与は、壁にかかったカレンダーに目をやった。もう日付が<br />
変わってしまったから、今日は土曜日だ。昨日は、金曜日――。<br />
「ああっ、そうだ!」<br />
 金曜ロードショーだ。数時間前、民放で放送されていたのは、『ロ○キー』ではない。『とな<br />
りのトト○』だ。朋与はそのことを思い出したのだ。朋与はその放送を見ていなかったが、トイ<br />
レにいくときに居間で母が見ているのを目撃していた。そのとき『猫バス』のシーンだった気が<br />
する。てっきり、比呂美は金曜ロードショーで『ロ○キー』を見たのだと思い込んでいたから、<br />
記憶が少し混乱したのだ。<br />
 そうなると、比呂美は『ロ○キー』を民放以外のチャンネルで見たことになるのか。あるいは、<br />
ケーブルTVとか、衛生放送とか。録画したものだったり、レンタルDVDということもある。<br />
案外、ほんとうに比呂美は眞一郎と一緒に見たことがあったのかもしれないと朋与は思った。眞<br />
一郎が金沢に行っていなければ、どんな映画だって一緒に見れるのだ。金沢に行っていなければ<br />
……。<br />
 朋与は、中学のときにバスケの練習試合で金沢にいったことを思い出した。比呂美の両親が亡<br />
くなる前のことで、もちろん、比呂美も一緒だ。比呂美は三年生に交じってすでにレギュラー選<br />
手で、朋与は補欠だった。帰りの電車で、騒ぎすぎて顧問や先輩に叱られたけど、とても楽しか<br />
ったのを覚えている。その思い出がとくに輝いていたので、楽しい思い出ばかりがそうやすやす<br />
と続くものではないと分かったとき、怒りのやり場がどこにも見つからず発狂しそうだった。い<br />
までも突然、激しい怒りに身が震えることがある。唇を噛みしめた朋与は、目の前の空気にパン<br />
チを繰り出した。比呂美に訪れた『不幸』というヤツを殴り飛ばしたかったのだ。でも、やはり、<br />
いつやっても、何度やっても、手応えはぜんぜんなかった。もともと怒りのやり場なんてものは<br />
ないのだ。いくら探しても、ないものは、ないのだ。そのことを、朋与はいつも確認させられる<br />
だけだった。朋与の拳は力なく振り下ろされ、机の上に落ちた。<br />
(そういえば、『ロ○キー』、最近見てないな~)<br />
 比呂美が体を動かしたくなるのも分かる気がするなと思った朋与は携帯電話で、〈ロ○キー〉<br />
と入力して、なんとはなしに検索をかけてみた。数秒後、検索結果がディスプレイに表示された。<br />
 第一番目は、配給会社のホームページ。第二番目は、DVD商品の通販のページ。第三番目は、<br />
テレビの番組欄だったが、どこの放送局は分からなかった。朋与は、第三番目のリンクへとんだ。<br />
そこには、次のような番組案内があった。<br />
――――――――――――――――<br />
【8月の金曜ロードショー】<br />
 8/○○ 夜九時より『ロ○キー』<br />
 主演:シルヴェスター・スタ○ーン<br />
 愛知TV、岐阜TV、金沢TV他<br />
――――――――――――――――<br />
 金沢TV――に目が留まる。ふだんはこの文字に目が留まることなどないが、この夜、このと<br />
きだけはそうではなかった。<br />
「金沢TV? きのう、金沢では見れたんだ……」<br />
 そう呟いた途端、朋与の頭の中でカチッと音がしてもおかしくないくらいに、はっきりと何か<br />
がつながった。比呂美と眞一郎に関する情報が、その連結された太い筋に沿って一気に整理され<br />
ていく。<br />
・眞一郎は金沢に泊りがけで行っている。金沢にだ――。<br />
・比呂美は『ロ○キー』を見ていた。<br />
・『ロ○キー』は金沢でついさっき放送されていた。<br />
・さっき交わした比呂美との電話が、いつもと違って遠く感じた。<br />
 これって、もしかして――。「比呂美は、金沢にいるってことぉーっ?」<br />
 だとしたら、まさか!!<br />
 朋与は、その先の仮説を軽々しく口に出すことはできなかった。その言葉は、針の先でつつけ<br />
ば飛び出てしまうくらいのところまで来ていたけれど。いや、待て、落ち着け落ち着け、と朋与<br />
は首を振る。否定的な要素を見つけるのだ――朋与は椅子から立ち上がり、部屋の中をぐるぐる<br />
回りだした。そして考えた。でも、いくらいくら考えても、否定的な要素は何ひとつ出てこなか<br />
った。観念した朋与は6周したところで立ち止まり、両ももをぴしゃりと叩いて叫んだ。<br />
「ああっ、もうっ! なんにも思い浮かばねぇーつーのっ」<br />
 比呂美が金沢にいることを否定する要素は、朋与の頭の中には存在しなかった。いや、朋与の<br />
頭の中だけでなく、実際にどこにも存在しないだろう。これっぽちも。朋与は、比呂美が金沢に<br />
いることを前提として――さらに仮説を発展させて――眞一郎のそばにいることを前提として、<br />
さきほどの比呂美との会話を振り返ってみた。比呂美の喋り方、息づかいを蘇らせてみた。比呂<br />
美と電話で会話しているときにも妙だなと感じていたが、改めて思い返してみても蘇った印象は<br />
同じだった。いつもの比呂美ではない――そう考えざるを得ない。そして、朋与の勘は、朋与自<br />
身にこう告げた。比呂美と眞一郎はセックスをしていた、と――。<br />
 他人のセックスのことなのに、どうして体がむずむずしてくるのだろう。朋与の右手は、何か<br />
が取りついたような手つきで、パジャマ越しに自分の秘部をなぞった。皮をむいたバナナのよう<br />
な肉棒がこの中に入ってくる妄想を、朋与は止めれなかった。痛いのだろうか、気持ちいいのだ<br />
ろうか。そのことを比呂美はすでに知っている。眞一郎を使って今夜も確認したはずだ。<br />
「たしかに。ストレッチには違いないわ……」<br />
 見事というべきか、迂闊というべきか、この比呂美のゴマかしように朋与は苦笑いした。それ<br />
と同時に、眞一郎への怒りがふつふつと湧き起こってきた。比呂美に約束をすっぽかせた原因は<br />
この男にもある。この男が比呂美を狂わしたのだ。比呂美は狂ってなどいないと否定するだろう<br />
が、乃絵との一件以来、比呂美に妙な言動や行動が見受けられるようになり、比呂美が嘘をつい<br />
たのは、事実だ。<br />
 そうだ、あの男にひと肌脱いでもらおう。仲上家の客間は彼に押さえてもらおう。そうすれば、<br />
比呂美は重荷から解放される。そう考えた朋与は、携帯電話を手に取り、アドレス帳で眞一郎を<br />
探す。比呂美になにかあったときのために、眞一郎の番号とメール・アドレスは聞いてある。す<br />
ぐに眞一郎のページが表示される。あとは、ダイヤルボタンを押すだけ。深夜だろうが寝ていろ<br />
うが構うものか。さっきまでセックスしていたなら、まだ起きているはずだ。だが、朋与はダイ<br />
ヤルボタンを押しかけたところで手を止めた。あることが頭の中で閃いたのだ。仲上眞一郎に一<br />
泡吹かせないことには、この高ぶった気持ちを抑えられそうもなかった。<br />
 朋与は、リングに上がるボクサーのような足取りで部屋を出ていった。<br />
 <br />
                   ◇<br />
 <br />
「もう、終わりにする?」<br />
 比呂美にまたこんなセリフを言わせてしまった、と眞一郎は顔しかめた。『終わり』なんてい<br />
う言葉は、どういう意味で使われようが、比呂美に口にさせたくないし、比呂美の口から聞かさ<br />
れたくないのだ。眞一郎がそう思っているのを比呂美も知っているはず。それなのに、比呂美は<br />
あえて使った節がある。眞一郎が何かをためらっていることに対して遠まわしに抗議しているの<br />
だろう。しかし、眞一郎がはっきりとした態度を取れなかったのは、もちろんそれなりに理由が<br />
あった。絶頂を迎えた比呂美が、体が動かせないほどの放心状態になるなんて思っても見なかっ<br />
たからだ。さきほど、勢いに任せて比呂美に二回目の挿入を求めてしまったが、時間を置いて冷<br />
静に考えてみると、短時間に何度も挿入することに対して抵抗を感じないわけにはいかなかった。<br />
「だって、おまえ……」<br />
 だって、おまえ――これだけ聞けば、眞一郎が何を思っているのか比呂美には十分だった。で<br />
も、眞一郎のそんな優しさは今は欲しくなかった。それに、終わりにするか否かを訊いているの<br />
だ。その答えは、『イエス』か『ノー』のどちらかしかない。やりたいのか、やりたくないのか<br />
だ。<br />
 比呂美は、力を抜いたように腰を落とし、その勢いを利用して眞一郎の足元に滑り込む。眞一<br />
郎に考える余裕など与えないほどの素早さで。バスケットでディフェンダーをドリブルで抜き去<br />
るときのフットワークを使えば、こんなことは比呂美にとって朝飯前だ。眞一郎の股間は簡単に<br />
目の前だ。比呂美は、眞一郎のトランクスにためらいなく両手をかけ、ペニスが現れる寸前のと<br />
ころまでトランクスをずらした。ここでセックスを終わりにして、果たして眞一郎の下半身が納<br />
得して治まるのかどうかを問いただすためだ。。<br />
「わっ! ば、ばかっ」<br />
 眞一郎は慌てて後ろへ飛び退こうとしたが、コーヒーの入った紙コップを持っていることに気<br />
づき、右足を半歩引いて踏ん張るしかできなかった。<br />
「だれが、バカだって?」比呂美は、下から眞一郎を睨み上げる。<br />
「い、いや……つい、ごめん」と言いながら眞一郎は、左足も引いて体のバランスを保った。<br />
「ど、どうするんだよ」と眞一郎は比呂美に尋ねる。<br />
「これからキスするようにでも見える?」<br />
「そうじゃなくて。コーヒー、こぼれるだろう?」<br />
 妙なところで冷静なんだから、と比呂美は鼻をならして笑った。でも、眞一郎の問いかけには<br />
耳を貸さずに、トランクスを膝のところまで下ろした。勃起したペニスに引っかからないように、<br />
トランクスの前面を持ち上げなら素早くだ。<br />
「あ゛――っ! たんま、たんまっ」と叫んだところで比呂美が言うこと聞きそうになかったの<br />
で、眞一郎はコーヒーを一気に飲み干し、紙コップをくしゃくしゃに潰してからちゃぶ台のほう<br />
に放り投げた。そして、膝まで下げられてトランクスをつかもうと手を伸ばしたが、その手を比<br />
呂美につかまれ、トランクスをずり上げるのを阻止された。<br />
「往生際がわるいぞぉー、眞一郎くん」<br />
 比呂美はそういうと、眞一郎のペニスをトライアングルを鳴らすみたいに軽く指で弾いた。も<br />
ちろん、ちーん、という音は発しないが、その衝撃は眞一郎の体内を確かに伝播していった。そ<br />
れと同時に、ペニスの充血がさらに促進され、眞一郎のペニスは指揮者のタクトのように小刻み<br />
に、リズミカルに震えることになる。<br />
「こんなになっちゃって……、ふふっ」<br />
「おまえ、少しヘンだよ」<br />
「どこがヘンよ。こんどはわたしが舐めてあげる番でしょ?」と、眞一郎が比呂美の乳首や陰芽<br />
をさんざんいたぶった仕返しをしてやるという風に比呂美はいった。<br />
「そ、そんなのいつ決めたんだよ」眞一郎の喉がごくりと鳴る。<br />
 眞一郎は一刻も早く比呂美の手を振りほどきたかったが、ちょっとでも抵抗すれば比呂美がす<br />
ぐにでもペニスに喰らいついてきそうだったので動けなかった。眞一郎のソレは比呂美の鼻先に<br />
あり、比呂美がソレを制圧したも同然だった。眞一郎は、比呂美の口で性棒を愛撫されるのが嫌<br />
だったわけではなかった。比呂美に完全に主導権を握られたまま、されるのが嫌だったのだ。で<br />
も、この体勢からの形勢逆転は望めそうにない。いや、待てよ、これは……。比呂美の本格的な<br />
フェラチオを体験できるという好機かもしれない。比呂美みずから進んでそうしようとしている<br />
のだ。比呂美に強要することをはばかられた行為をだ。そう考えているうちに、眞一郎の体は先<br />
走って反応し、先端の口から愛汁を漏れ出させた。でもこれは、もともと二回目の挿入の準備を<br />
していたのだから、お預けを食らったペニスのごく当たり前の反応といえるだろう。<br />
 いままさに、比呂美の唇は眞一郎のペニスを求め、眞一郎のペニスは比呂美の唇を求めている。<br />
お互いの意思を無言のまま確認し合い、ふたりとも覚悟を決めた。<br />
 比呂美は眞一郎の手を放すと、右手でペニスの根元を握り、左手を眞一郎の腰にやって自分の<br />
体を支えた。比呂美の口が開いていくと、あたかもその光景をみているかのようにペニスが上下<br />
にぴくついた。比呂美は右手に力を込めてその動きを止める。締めつけたことで先端から愛汁が<br />
さらに噴き出して垂れ、比呂美の手にかかった。いまは透明な液体だけど、このままペニスを刺<br />
激しつづければ、やがて白濁の精子が出てくる。そのときどのようにして受け止めようかと比呂<br />
美が考えていると、眞一郎の両手が比呂美の側頭部に触れ、指先が比呂美の髪の中にもぐってき<br />
た。眞一郎は決して比呂美の頭を引き寄せるように力を加えなかったが、比呂美の唇は、眞一郎<br />
のペニスめがけて吸い寄せられていった。こんなカッコの悪い体制で性棒を舐められるのは眞一<br />
郎にとって本意ではないだろうと比呂美は思いつつも、体の内側から激しく突き上げてくる衝動<br />
はもうどうしようもなかった。<br />
 いま眞一郎の股間で行われようとしているランデブー(連結)は、宇宙空間で行われるものに<br />
比べたらちっぽけなものかもしれないが、ふたりにとっては歴史的な一歩となることは間違いな<br />
いだろう。<br />
 とうとう、ぱんぱんに膨れた亀頭が完全に比呂美の口に覆われる。思ったより大きい――これ<br />
が比呂美の第一印象だ。それに、マッシュルーム・カットの頭をした小人のような格好をしてい<br />
ても、女性の性器の中を押し広げようとする力を内包しているのを比呂美は感じた。口の中をい<br />
っぱいいっぱいに使わないといけなくなりそうだ。やはり、アイスーバーを舐めるのとは大違い<br />
だ。比呂美はいったん口を離し、眞一郎を顔を見上げた。けど、眞一郎は横を向いて比呂美と目<br />
を合わせない。いまさらそんなに恥ずかしがらなくてもいいじゃないかと比呂美は思ったが、眞<br />
一郎が顔を背けた原因をすぐに目にした。眞一郎の亀頭から比呂美の唇にかけて愛汁が糸を引い<br />
ていたのだ。こういう光景を見慣れないうちは、目を背けたくなるかもしれない。眞一郎の手が<br />
わずかに振るえ、いまからでも比呂美の頭を引き戻そうかどうかと考えているのが比呂美の頭に<br />
伝わっていく。それを感じた比呂美は、タオルケットをはぎ取りながら立ち上がった。そして、<br />
眞一郎が比呂美の乳房の揺れるのを眺める間もなく、全裸のまま眞一郎の体に抱きついた。あま<br />
りにも唐突だったので、比呂美の体の生温かい感触が、いったいなんのか眞一郎にはうまく呑み<br />
込めなかったが、比呂美の下腹を押すペニスの居心地の悪さが、この体の密着という状況を眞一<br />
郎に理解させた。<br />
「ごめん……。いやだった?」と比呂美がつぶやいた。<br />
「べつに、いやじゃないよ……。ただ、この格好はなんか情けないっていうか……」<br />
 それを聞いて比呂美は、ふふっと笑うと、もう一度「ごめん」とつぶやいた。<br />
「ねぇ、眞一郎くん」<br />
「ん?」<br />
 比呂美の瞳がいったん右に揺れてからまた眞一郎のほうに戻る。その細かな表情を眞一郎は見<br />
ることができなかったが、公園のブランコが一往復するくらいの間のあと比呂美が囁いた。<br />
「こんどはさぁ……」<br />
 比呂美はそこでいったん言葉を止める。当然のことながら、なに? と眞一郎はつづきを促そ<br />
うとした。そのときだった――。<br />
 <br />
 ピピピピ………… ピピピピ…………<br />
 <br />
 またしても、密着したふたりを引きはがそうとする音が鳴った――。<br />
 いまからいいところ、っていうときに二度も邪魔が入るとなると、もう盗聴でもされているの<br />
ではないかと思えてくる。<br />
「おれのケイタイだ……」と苦いものを食べさせられたときのように眞一郎がうめいた。<br />
 愛想のない電子音が、槍の先でつつくみたいに全身の肌を攻撃しつづける中で、携帯電話の電<br />
源を切っておくことができたらどんなにいいだろうとふたりは思った。でも、今夜は、眞一郎の<br />
両親に外泊を許してもらった手前、そうすることはできなかった。親の目の届かないところであ<br />
ってもこそこそなんかしない、という眞一郎の意地でもあったし、比呂美の信念でもあった。そ<br />
れでも、比呂美は眞一郎に電話に出てほしくなかった。自分以外のことは無視してほしかった。<br />
 無情にも、眞一郎の体重が携帯電話のほうに移動しだす。<br />
「いやっ」といって比呂美は抱きつく力を強め、眞一郎をとどめようとする。眞一郎も比呂美の<br />
気持ちが痛いほど分かったが、電話をかけてきた相手を確認しないわけにはいかなかった。<br />
「事務局の人かもしれないし……」<br />
 その説明を聞いて、比呂美は腕の力を緩めた。その直後、なんて自分勝手なんだろう、という<br />
自己嫌悪が鉄砲水のように比呂美を襲った。眞一郎は素早くトランクスを上げ、比呂美が呆然と<br />
していたので、床に落ちたタオルケットを拾って比呂美に握らせた。眞一郎がそうしてくれたこ<br />
とで、比呂美はいくらか落ち着きを取り戻せた。比呂美はちゃぶ台に向かった眞一郎の背中を見<br />
つめた。いつもより大きく見えるなと眺めていると、凍ったタオルを押しつけられたように眞一<br />
郎の肩がぶるっと震えた。だれなの? と比呂美が尋ねるより先に、眞一郎は電話の相手を口に<br />
した。<br />
「黒部さんだ……」<br />
「朋与っ?」<br />
 比呂美の驚きの声に振り向いた眞一郎は、比呂美が何かつづきを言うのを待った。電話に出な<br />
いほうがいいだろうかという思いが眞一郎の頭の隅をかすめたが、比呂美の表情は、そうしてほ<br />
しいとは訴えていなかった。もっと別のことに考えを巡らせているようだった。眞一郎の知らな<br />
い、比呂美と朋与のあいだの女同士の事情がたくさんあるのだろう。比呂美がすぐには何も言い<br />
そうにないので、眞一郎は携帯電話の筺体を開いて、通話ボタンを押した。<br />
 鳴りつづけていた電子音が止んでも、ふたりを取り巻く空気は緊張したままだ。その緊張は、<br />
その度合いを維持したまま有音から無音に形態を変えたにすぎなかった。眞一郎が携帯電話を耳<br />
にあてるのが目に入ったことで、比呂美は考えるのをいったん止め、全神経を眞一郎に向けなが<br />
ら手探りだけでタオルケットを体に巻きつけなおした。そして、背を向けている眞一郎に近づい<br />
た。<br />
「はい」と眞一郎が電話に応える。<br />
『あ…………』という声だけが眞一郎の耳に届き、そのあとの沈黙が戸惑いを物語っていた。朋<br />
与は、電話に出てもらえないとほとんど諦めていたのだろう。その諦め際で眞一郎が電話に出た<br />
ので、気持ちを切り替えるの少し時間が要ったのだ。<br />
『仲上くん? 黒部です。黒部、朋与……』<br />
「う、うん」<br />
 電話で聞く朋与の声は教室で聞くものとはずいぶん印象が違ったので、眞一郎は妙に身構えて<br />
しまった。初対面の女の子と話すような気分になった。そのせいか、自分は電話がかかってきた<br />
ほうなのに、なぜだか後ろめたさを感じだ。そう感じたのはたぶん乃絵とのことが関係している<br />
のだろうと思ったとき、そばまで来た比呂美の気配を感じて眞一郎は振り向いた。<br />
「どうしたの? こんな時間に」乃絵と、比呂美と、朋与の三人から詰め寄られているみたいで、<br />
眞一郎は思わず声が上ずってしまった。<br />
『ごめん。もしかして寝てた?』――そりゃ、別の意味で、寝てたわよね、と内心つぶやく朋与。<br />
『あしたでもよかったんだけど、ちょっと気になることがあって。比呂美のことで……。いま、<br />
話せる?』<br />
「…………」眞一郎はいったん比呂美の顔を見てから答えた。「うん、いいよ。なに?」<br />
 用件はどうやらおまえのことだぞ、と眞一郎は比呂美を指差して教えた。そうだろうね、と比<br />
呂美は苦笑した。<br />
 <br />
――朋与は今、自分の携帯電話を左手に持って話している。そして、右手にはもうひとつの携帯<br />
電話が握られている。片手でその筺体を開き、ボタン配列を目で確認した。<br />
 <br />
『大したことじゃないんだけどね。わたしが気になりすぎてるだけかもしれないんだけど……。<br />
仲上くんにも協力してほしいと思って』<br />
「うん……」えらく慎重な前置きだな眞一郎は思う。<br />
『インターハイ予選が終わって、三年生が引退するでしょう? それで、その引退パーティーと<br />
新キャプテンの就任式を仲上君の家でやらせてもらえないかな~と思って。ほら、比呂美が次期<br />
キャプテンじゃない? だから、そのぉ……』<br />
「うん、知ってる。その、女バスの謝恩会でしょ? 比呂美から聞いてる」<br />
『そう。知ってるなら話が早い』<br />
 眞一郎の受け答えを聞きながら比呂美は頭の中で何かがひっかかった。こんなことで朋与が眞<br />
一郎に電話をするだろうか。緊急な用件ならまだしも、こんな夜中にだ。さっきの電話で朋与の<br />
心配が逆に膨らんだのだろうか。それで、眞一郎に協力してもらおうと朋与が思いつき、眞一郎<br />
に電話した。即実行タイプの朋与らしいといえば朋与らしいけれど、そもそも、こんな時間に電<br />
話をかけてお願いするような内容でもないのだ。なにか、別の用件があるはず。もしくは、別の<br />
企みが。比呂美は眞一郎に、油断しないで、と目で訴える。眞一郎は小さく頷く。<br />
 <br />
――朋与の右手は、携帯電話のボタンを押しはじめる。〈1〉、〈8〉、〈4〉、…………<br />
 利き手の右手で操作しているのに、ひとつひとつの動作を確認して強く右手に命令しないと<br />
ボタンを押せなかった。そのぎこちなさのせいで手が震えたが、その震えは、朋与の心の奥か<br />
ら発せられた警鐘であることに朋与自身はまだ気づけないでいる。<br />
 <br />
『そういえば、仲上君、いま金沢にいるんだっけ?』<br />
「……うん、あした帰るけど……」<br />
 いきなり話題が変わって眞一郎は不思議に思った。<br />
 <br />
――眞一郎の返答に朋与は無性に腹が立った。あした帰る、ということは、今晩はそこにいる、<br />
ということだ。比呂美と一緒に……。いま金沢にいるの? って訊かれたら、ふつう、あれ、<br />
なんで知ってるの、と驚いたりとかするではないか。それが、いきなり「いついつ帰る」とい<br />
う返答だったから、眞一郎に他意はなくても、どうしても何か後ろめたいことがあるのではな<br />
いかと勘ぐってしまう。<br />
 朋与の指が迷いを振り切り力強く番号を押していく。〈0〉、〈9〉、〈0〉、…………<br />
 <br />
『ふ~ん。…………』<br />
 朋与はそれっきり黙った。<br />
「黒部さん? 謝恩会のことだけど、おれからも親父に頼めばいいんだよね? 比呂美ひとりじ<br />
ゃ頼みにくいって心配しているんだろ?」<br />
『……ふふ』と朋与が不敵に笑う。『仲上君って、けっこう鈍いよね』<br />
「え? それって、なんのこと?」眞一郎は朋与の声色が変わったのを感じた。<br />
 <br />
――朋与の右手に持たれた携帯電話のディスプレイには、比呂美の携帯電話の番号が表示されて<br />
いる。そして、発信ボタンに親指がかかる。<br />
 <br />
『となりに、比呂美がいるでしょう?』文末のイントネーションを下げた断定的な問いかけ。<br />
「……………………」<br />
 比呂美以外の辺りのものが、すーっと何も見えなくなっていくのを眞一郎は感じた。そんな中<br />
で、比呂美の顔を凝視することはできた。自分を見失わないために、他に見つめるべきものがな<br />
かったからだ。比呂美が世界の中心であるように思え、また、ここがどこなのかを教えてくれる<br />
『しるし』のようにも思えた。<br />
 バレたの? と比呂美が眞一郎の腕を揺すりながら無言で必死に訊いてくる。でも眞一郎は答<br />
えることができなかった。そうできるほどに精神的衝撃から開放されていなかった。ただただ比<br />
呂美の顔を見つめ、落ち着きを取り戻すまでじっと堪えるしかなかった。そこで眞一郎は、はっ<br />
と気づく。<br />
(堪えるだって? 何に堪えるんだ? いまのおれに堪えるべきものがあるのか?)<br />
 ずっと堪えてきたのは、これからずっと堪えつづけていくのは、比呂美ではないか。<br />
 硬直してしまった眞一郎にいてもたってもいられなくなった比呂美は、とうとう眞一郎の肩を<br />
つかんで揺すった。そうせずにいられないほど眞一郎の顔は血の気が引いたように青くなってい<br />
たが、でもすぐに赤らみを取り戻していった。<br />
(朋与は、なんて言ったのっ!!)<br />
 比呂美は声こそださなかったが、口をはっきりと動かし、そう叫んだ。<br />
 眞一郎はようやく周囲の景色を認識できるようになり、比呂美の顔が真っ青になっていること<br />
に気づいた。比呂美はなぜこんな顔をしているのか? 比呂美にこんな顔をさせてはいけない。<br />
眞一郎がまっさきに思ったことはそのことだった。だから、比呂美の顔からこの不安と恐怖の入<br />
り混じったような表情を一刻も早く取り払わねばと焦った。<br />
 眞一郎は、携帯電話を耳にあてたまま右腕で比呂美を抱き寄せた。そして、電話の向こうにい<br />
る朋与に聞こえないように小さな声で「ごめん、大丈夫」と囁いた。眞一郎がどうやら自分を取<br />
り戻したようなので比呂美は少しほっとしたが、同時に嫌な予感がした。こういうときの眞一郎<br />
は、とてつもなく素直になるのだ。比呂美は眞一郎の胸を押して体を離そうとしたが、眞一郎は<br />
それをさせまいとさらに腕に力を入れた。比呂美にこの言葉を一番近くで伝えたくて。<br />
「……うん。いるよ……。比呂美はとなりにいるよ。ずっと、そばにいる」<br />
 比呂美は口を開けたまま固まる。電話の向こうで朋与が固まるのも眞一郎は感じた。数秒後、<br />
携帯電話のスピーカーからゴトンという固いものの落ちる音が聞こえた。<br />
『それ、なら、ますます、話は、早い……』ひくつきながら、朋与はなんとかそう言うことがで<br />
きた。<br />
「比呂美に、代わる?」<br />
 眞一郎のその言葉で比呂美は我に返る。そして、拳で眞一郎の胸を叩いた。比呂美が電話に出<br />
なければまだゴマかせるかもしれないのだ。でも、眞一郎にはその気はないらしい。比呂美は振<br />
り向いて眞一郎から離れようとしたが、眞一郎はそんな比呂美を背中から片腕で抱きしめた。比<br />
呂美はその腕から逃れようと思えば簡単に逃れられたが、そうはしなかった。眞一郎が無言で、<br />
ここにいろ、という意思がはっきりと伝わってきたからだ。<br />
『あ、あんた、バカじゃないのっ?』比呂美の怒りを代弁するかのように朋与が怒鳴った。<br />
『わたしが、カマかけているかもしれないじゃない。どうしてあっさり認めるのよっ?』<br />
「黒部さんはそんなことしないよ」<br />
『なんでそんなこと言えんのよ。わたしの何を知ってるっていうのよっ!』<br />
「比呂美がここにいる、という確信があったから、こんな時間に電話してきたんだろう?」<br />
『ぁ…………』<br />
 こんどは朋与が言葉を失った。図星だった。でもそれは、眞一郎が指摘したそのことだけだっ<br />
た。他に、比呂美と眞一郎の行為の邪魔してやろうとか、弱みを握ってふたりを利用してやろう<br />
という気はさらさらなかった。あえていうなら、セックスへの関心はあったかもしれない。頭の<br />
中で想像していた比呂美と眞一郎の行為を、万分の一でも覗いてみたいという好奇心はあったか<br />
もしれない。<br />
「黒部さん」と、眞一郎はおそるおそる呼びかけた。朋与が電話の声に集中する気配がしてから、<br />
取り返しのつかない言葉をつづけた。<br />
「……おれたち、もう、そういうカンケイなんだ……」<br />
『!』<br />
 <br />
 ――床に転がった携帯電話の画面のバックライトが消えるのを、朋与は呆然と見つめていた。<br />
 <br />
 もうゴマかしきれないだろう。眞一郎の決定的で致命的な一言で、朋与は確信したに違いない。<br />
眞一郎の性格を少なからず知っている朋与だからこそ、確信することができるのだ。そうなると、<br />
比呂美はこのあとのことを考えなければならない。電話の向こうで朋与は混乱しているに違いな<br />
い。いろんな感情が複雑に渦を巻き、その中で朋与は友情の方向を見失いかけているだろう。比<br />
呂美は眞一郎の左手から携帯電話を奪い取ろうとしたが、眞一郎は比呂美のその手をつかみ、そ<br />
うはさせなかった。眞一郎の目は、自分でけりをつける、と訴えていて、比呂美には一瞬だけ眞<br />
一郎が眞一郎には見えなかった。正確には、眞一郎がこんな態度を取る理由がまるで読めなかっ<br />
たのだ。こんなことは初めてだったので、いつもは押しの強い比呂美もこのときだけは弱気にな<br />
ってしまった。直感で押しすぎてはダメだと感じたのだ。<br />
 朋与の沈黙は、それほど長くはなかった。それでも、心の動揺はうまく隠しきれずに声と一緒<br />
にこぼれてしまうことになった。<br />
『まいったな、もう……。あなた、ほんとうに仲上くん?』<br />
 朋与も眞一郎が普段とは違うと感じている。冗談でもいうような口調でも、声はどうしてもひ<br />
くついてしまう。この声も眞一郎が朋与から初めて耳にするものだった。男性のように低い声で、<br />
一言では表現できないほどに朋与の抱いた感情が凝縮されている感じがした。それで、眞一郎は<br />
とてもつもない不安に見舞われた。自分としては、偽りなく正直に今現在の比呂美との関係を話<br />
したつもりでも、それと同時に、朋与や、比呂美を傷つけてしまったのではないかという気がし<br />
たのだ。いくら親しい仲の相手に秘密を打ち明けるにしても、段階や手順というものがある。そ<br />
れを間違えると、友情を壊すことだって有り得るのだから。それを思うと、眞一郎はこのあと朋<br />
与に対してなんて言ったらいいのか分からなくなってしまった。<br />
「えっと……、その……」<br />
 必死に言葉を探そうとすればするほど、物音に驚いて四方八方に飛び立つ鳩の群れのように遠<br />
のいていく。眞一郎は焦った。目の前では比呂美が難しい顔をしている。比呂美も戸惑っている<br />
のだ。ミラーハウスで迷子になったら、こんな気分になるのではないだろうかと眞一郎は思った。<br />
出口は見つからない。比呂美の姿は見えても、比呂美はそこにはいない。頭がくらくらしてきそ<br />
うだ。しかし、比呂美の大親友である朋与はそんな迷宮に屈するほどヤワではなかった。<br />
『バカッ!! それでも男かッ!』<br />
 雷が間近に落ちたような振動が、眞一郎の鼓膜を打った。それで、眞一郎はようやく目が覚め<br />
ることができた。<br />
『あんたたちが、エッチしようが何しようがあたしの知ったことじゃないわよ。でもね、比呂美<br />
だけはこれ以上悲しい思いをさせないでっ。比呂美がもしそばにいるんだったら、今のあんた、<br />
サイテーよ。比呂美を幸せにする気あるのっ!』<br />
「あるよっ!」朋与の剣幕に一瞬たじろいだが眞一郎はすぐさまそう返した。<br />
『ないねッ!』思いのほか眞一郎が堂々と答えたので、朋与はいじわるしてやろうとムキになる。<br />
「あるよっ!」<br />
『ないねッ!』<br />
「っ…………」<br />
 このままじゃ埒が明かないと感じた眞一郎は別の言葉を探す。自分と比呂美が交際を始めて、<br />
どれだけ比呂美が本来の明るさを取り戻していったかを言おうとしたが、そんなことを言おうも<br />
のなら、それはあなただけの功績ではないと朋与は一蹴するだろう。比呂美を幸せにできるのか<br />
と、真正面から問いただされると、正直言って、今の眞一郎には返す言葉はなかった。眞一郎は<br />
そのことを改めて思い知らされたが、そう簡単に引き下がれない。いずれ、自分の親ともこうい<br />
うやりとりをせねばならない。自分の発言に確固たる根拠がなくても、朋与相手にくじけてはい<br />
られないのだ。<br />
「あるよっ!」<br />
『いまの間(ま)はなんなのよ』<br />
「黒部さんには教えられないよ」とさらりと眞一郎は言った。<br />
『な……』朋与の脳天がカッと熱くなる。もし目の前に眞一郎がいたら朋与は飛びかかっていっ<br />
たかもしれない。眞一郎のこの一言で朋与は自分の感情の源を見失いつつあった。なぜ、眞一郎<br />
に腹がたったのか、そして腹がたつのか。<br />
 眞一郎がいきなり携帯電話に向かって卓球のラリーのように吼えだしたので、比呂美は割って<br />
入って止めるべきかどうかおろおろした。でも、ここでどうやら眞一郎も朋与も治まったような<br />
ので、大きくため息をついてから眞一郎の顔の前に右手を突出し、携帯電話を渡すように無言で<br />
訴えた。比呂美がむすっとした顔をしていたので、こんどばかりは眞一郎も携帯電話を渡さない<br />
わけにはいかなかった。<br />
「ト、モ、ヨ」子供を叱るようときのように比呂美は一音ずつ区切って朋与の名前を呼んだ。<br />
 比呂美の声が聞こえて朋与は一瞬目を見開いたが、すぐに顔をしかめて唇をかんだ。この時点<br />
で真実になったわけだ。比呂美と眞一郎がいま一緒にいるということが。<br />
『あ、ひ、比呂美?』<br />
「そうよ。あなたのよく知っている比呂美よ」<br />
『仲上くんに変なことされてない?』<br />
「ばか……」<br />
『……んなわけないよね。あはははは……』<br />
「あんた、なんか企んでたでしょう?」<br />
『え?』朋与は床に転がった母親の携帯電話に目をやった。『……べつに』<br />
「ま、いいけど」比呂美は肩を上下させて一息吐いた。<br />
「いろいろ心配してくれるのはうれしいけど、ほんとうに引退式の件は大丈夫だから。それと…<br />
…」比呂美は携帯電話を左手に持ち直して眞一郎に背を向けた。<br />
「眞一郎くんにあんまりつっかからないでほしいの。朋与の目から見たら頼りなく見えるかもし<br />
れないけど、それでも、わたしの、好きになった人だから」<br />
 朋与は黙っていた。比呂美は構わずつづけた。<br />
「朋与がいつもわたしのことを気にしてくれるのはすごくうれしいよ。でもね、同じように心配<br />
してくれているのは眞一郎くんも同じ。ちょっと抜けてるけど」<br />
 眞一郎は、んー、と咳払いをする。<br />
『そ、そこが心配なのっ』<br />
 比呂美に堂々と「眞一郎が好き」と言われて、そのことぐらいしか朋与はつっこめなかった。<br />
でも、心のどこかでほっとしたのは確かだった。比呂美の声からいつもの凛々しさを感じること<br />
ができたからだ。この調子なら眞一郎も比呂美にへたなことはできないだろう。なにせ体力では<br />
比呂美のほうに分があるのだから。そこで、朋与はふと思う。セックスの未経験の自分が経験済<br />
みの比呂美のそういう心配をするなんて、まるでトンチンカンではないかと。<br />
「あした、夕方にはそっちに帰るから」出稼ぎの母親が娘に電話をしているみたいだと比呂美は<br />
思う。<br />
『そう……。ねぇ、もしかして毎晩そっち行っていたの?』<br />
「は?」比呂美は朋与の質問の意味がすぐには分からなかったが、朋与が好奇心でそういう質問<br />
をしてくるなら、朋与に与えた情報の修正をするチャンスだと思った。<br />
「そんなわけないでしょ。今晩だけよ。部屋もべつべつ」<br />
 比呂美は眞一郎のほうを向いて肩目をつぶった。確かに部屋はべつべつだ。『部屋』の捉え方<br />
しだいではウソは言ってない。<br />
「おばさんの命令なの。眞一郎くんがぜんぜん家(うち)に電話しないから、様子を見てきてち<br />
ょうだいって」と比呂美はつづけた。これもウソではない。<br />
『じゃ~、さっき、なんでウソついたのよ』と朋与は悪態をついてくる。でも、比呂美は全く動<br />
じなかった。<br />
「ウソ?」<br />
『え~と、ほら。……あれ? 思い出せないー』<br />
 胡散臭いことがありすぎて朋与は逆にこれといって比呂美を屈服させることを思いつけなかっ<br />
た。詰めの甘い朋与に比呂美はしめしめと思う。<br />
「わたし、ウソ言ったかな~。朋与の勝手な思い込みでしょ、いつもの」と比呂美は平然とかわ<br />
す。<br />
『くっーッ』と朋与は露骨にうなった。<br />
 正確にいうと比呂美は、ウソは一つしか言っていなかった。片足ストレッチでバランスを崩し<br />
たということだけだ。でも、朋与が心底悔しがっていたので、眞一郎とは実際どういう仲なのか<br />
自分の口から少しずつ話してもいいかなと比呂美は思った。<br />
「朋与……、眞一郎くんの言ったことはあまり気にしないでね。わたしたちは、なんていうか…<br />
…、お互いのことを、想い合っているの。だから……」<br />
 朋与は比呂美の言葉に耳を澄ませている。<br />
「だから……その……、自然に、だんだんと、お互いを求めていくの。朋与をびっくりさせたこ<br />
とは悪いと思っているけど……」<br />
 朋与は黙っている――。黙らないでよ、何か言ってよ、と比呂美は頭の中で怒鳴る。このとき、<br />
比呂美は朋与の気持ちが分かったような気がした。いつもそばにいた存在がある日突然に遠のい<br />
ていく感じなのだろう。以前、眞一郎が石動乃絵に惹かれていったときのように……。遠い地に<br />
引っ越して離ればなれになるわけでもないのに、心の距離が無理やりぐーっと引き伸ばされてい<br />
く。そして、それは決して元には戻らない。もし仮にその距離を縮めることができたとしても、<br />
もうふたりの間には見えない壁が存在する。壁という強固なものでなければ、薄い膜のようなも<br />
の、とにかく何かが存在するのだ。石動乃絵の一件以来、比呂美も眞一郎に対してそれを感じる<br />
ようになった。<br />
 朋与、ごめん、と比呂美は声に出さずにつぶやいた。<br />
『なーに気ぃつかってんのよ。比呂美の弱みを握ってやろうと思ったけど、だんなに邪魔された<br />
って感じでがっかりしているだけ』<br />
「ほら、やっぱり何か考えてたんじゃない」<br />
 朋与は強がってみせたが、頭の中では比呂美の言葉が繰り返されていた。<br />
 お互いを求めていくの……、お互いを求めていくの……、お互いを求めていくの……<br />
 つまり、エッチをしていたと認めるわけね、と朋与は思った。<br />
『とうぜんよ。いちゃいちゃしているのが分かってて、なんか、からかってやろうと思うじゃな<br />
い、ふつう。あっ、仲上くんに比呂美の力になってもらおうというのは本当よ』<br />
「ありがと」<br />
『……………………。じゃー、電話切るね』<br />
 ちょっとした間のあと、朋与のほうから切りだした。泣きそうになるのが自分でも分かったか<br />
らだ。<br />
「うん。念のため言っておくけど、また電話してきても無駄よ。電源切っておくから」<br />
『読まれてか、あははは。おやすみ』<br />
「おやすみ……」<br />
 電話が切れたあとも比呂美はしばらく携帯電話を握り締めていた。朋与なら、裏の裏をかいて<br />
もう一度電話をかけてきそうだったからだ。でも、朋与は電話をかけてこなかった。このことが、<br />
比呂美と朋与の友情関係が、新たな関係へと変わってしまったことを物語っていた。<br />
 比呂美は振り返り、眞一郎に携帯電話を返した。<br />
「さーて、問題発言をした眞一郎くんの懺悔の時間です」<br />
 比呂美はそう言うとにやりと笑ったが、すぐに「冗談よ……」と言って自分の発言を霧散させ<br />
た。<br />
 <br />
 まるでボールが放り投げられたみたいに朋与はベッドに倒れこんだ。倒れこむ勢いに完全に身<br />
を任せたので、朋与の体はベッド内に仕込まれたスプリングの反発力をもろに食らってバウンド<br />
した。揺れが治まると、携帯電話を持った左腕を天井へ突き上げ、そのあと真横へ、ベッドの外<br />
へ腕を倒した。その勢いで手から携帯電話が滑り落ちた。落ちたところにはちょうど先に落とし<br />
てしまった母親の携帯電話があったらしく、プラスチックの物体同士が弾かれる音がして、それ<br />
から携帯電話が床を転がる音がした。<br />
「……なに、いらついてんだろう……」<br />
 もう朋与にはこの苛立ちの原因が分かっていた――。『嫉妬』と『焦り』だ。それに、単純な<br />
『嫉妬』や『焦り』ではないことも分かっていた。比呂美が自分のことを考えてくれる時間が<br />
徐々に削られていき、その代わりに眞一郎のことを思う時間が増えていくという危機感と、自分<br />
に男性と付き合った経験がほとんどないために、比呂美がそのうち抱く恋愛や性の悩みの相談に<br />
すぐにのってあげられないという無力感が、朋与の心の形を棘を持ったものに変えていった。朋<br />
与自身、比呂美との関係がいつまでも今のままではいられないと頭では分かっていても、比呂美<br />
に一番そばに居続けてきた自分が、いざというときに何もしてあげられないことに、ただただ朋<br />
与は悔しかったのだ。そればかりか、その悔しさのはけ口も、まだうまく見つけられないでいた。<br />
「ずっと前から比呂美が仲上くんのこと好きなの分かっていたのに……、だから、ずっと、ふた<br />
りがうまくいけばいいと思っていたのに……。今のあたし、ぜんぜんあべこべじゃない。ふたり<br />
のこと冷やかしたりしていても、本心じゃ別のこと考えている」<br />
 朋与はふっと乃絵の顔が目に浮かんだ。なんで、こんな唐突に乃絵のことが頭に浮かんだのか<br />
分からなかったが、徐々に朋与はそれが必然であることに納得した。乃絵にまつわる噂は数多く<br />
あっても、それらは不思議と噂から真実に変わることはなかった。乃絵と関わった者が、頑なに<br />
事実を語らなかったからだ。比呂美も、眞一郎もそうだ。だから、麦端祭りに乃絵が骨折するま<br />
での経緯を恋愛事情を絡めて正確に把握している者は、当事者以外だれもいなかったのだ。三人<br />
が心に痛みを抱えていると容易に想像がついた朋与は、噂好きな連中から比呂美たちを守る役に<br />
徹していたが、内心は、比呂美が親友である自分だけにはほんとうのことをぽろっと漏らさない<br />
かと耳を澄ませていた。それでも、比呂美は核心めいたことを一言すら喋らなかった。そのこと<br />
で、比呂美たち三人は『心の痛み』を越えて、三人の間で『共通の理解』のようなものを持った<br />
のではないかと朋与は推察した。そのことが朋与にはショックだったのだ。当然のように石動乃<br />
絵に無二の親友を奪い取られたような気分になった。しかし、簡単に逆上してしまうほど朋与は<br />
単純ではなく、比呂美が何かしら劣等感を感じている乃絵の内面もしっかり見ようとした。<br />
「石動乃絵はこんなことしない、こんなこと考えない、はず……。だから、比呂美は特別視して<br />
たんだ。比呂美にとっても石動乃絵は特別な存在……」<br />
 改めてそう考えると、背筋がぞわぞわと痺れるのを朋与は感じた。そのあと冷や汗が全身にに<br />
じみ出て吐き気が軽く襲った。堪らず朋与は体を横に向けてベッドの上で縮こまった。顔が横を<br />
向いたせいで、気づかないうちに両目に溜まっていた涙がこぼれた。頬を伝うことなくベッドを<br />
濡らす涙。サイアク、と自嘲気味に朋与はつぶやいた。<br />
 そのとき、携帯電話が鳴った――。まったく予期していなかったので、暴走族でも来たのかと<br />
朋与は思ったが、身を乗り出して確認した携帯電話のディスプレイには『ひろみ』の文字を確認<br />
すると、慌てて携帯電話に飛びつき通話ボタンを押した。<br />
「もしもし――」と言ったところで朋与は、泣いていたことが悟られそうだったので口をつぐん<br />
で気持ちを落ち着かせた。<br />
『――ごめん……、朋与……』<br />
 比呂美がいきなり謝ってきたので、泣いていたことがバレてしまったと朋与は思ったが、そう<br />
ではなかった。<br />
『――電話、かけてくるな、みたいなこといって……。ごめんなさい』<br />
「ああ、そのこと……」朋与は内心ほっとして立ち上がる。「比呂美、気にしすぎだって。わた<br />
したちの仲でしょ?」と朋与は努めて明るく言ったが、比呂美にはその計らいが通じなかった。<br />
『――なんか、その……、いやな予感がして……』<br />
「は? なにそれ。地震でもきそうだっていうの?」<br />
『――茶化さないで』<br />
 朋与はとぼけていても内心では、比呂美はさすがに鋭いなと感心していた。部屋の窓に歩み寄<br />
った朋与は、右手の甲で涙を拭いながら「……ごめん」と返した。泣いていることを悟られない<br />
ように。<br />
 でも、比呂美には分かっていた。朋与がどんなときに涙がこぼれそうになるのかが。だから、<br />
朋与に電話をかけたのだ。<br />
『――眞一郎くんは、眞一郎くん。朋与は、朋与だから』と、比呂美は朋与の心にすり込むよう<br />
に言った。そんな言い方しなくても、朋与には十分だった。比呂美が電話をくれたことだけで十<br />
分だった。<br />
「わかってるって。いじわるして、ごめん。旦那にも謝っておいて」<br />
『――やだ。自分で言いなよ』<br />
 とても優等生とは思えない駄々っ子のような比呂美の言いぐさ……。比呂美がこんな喋り方を<br />
するのは自分相手だけだろうなと朋与は目細めた。そして、思いっきり鼻水をすすってみせた。<br />
「イジワル」と朋与がダミ声でうらめしそうに言うと、ふたりはころころと笑い出した。<br />
 <br />
 電話越しに朋与と笑い合う比呂美の後姿を見ているうちに、腹の底に滲み出てきた嫉妬心が眞<br />
一郎に汗をかかせた。そして、なんだか落ち着かない気持ちになる。胸のど真ん中に、べろっと<br />
ペンキでも塗られたような気持ち悪さだ。<br />
(おれと話しているときよりも、楽しそうだ……)<br />
 皮肉にも、比呂美と付き合いはじめて頻繁にそう思うようになった。だからどうだというのだ。<br />
自分だって、男子同士でふざけあっているときのほうが気楽ではないか。女子だって同じような<br />
ことを言う。そういうものなんだ、と何度も自分の心を説得してみても、女子同士で談笑してい<br />
るときにしか拝めない比呂美の表情や低い声が、眞一郎は気になってしかたがなかった。こうい<br />
うことも、セックスと同じように慣れていくものだろうと思っても、まだその切欠は訪れてはき<br />
ていないようだった。とにかく、胸がちくちく痛むのだ。比呂美がほんとうに安らげる相手は自<br />
分ではないのではないかと。<br />
(こんなことを比呂美に訊いたら、あいつ、怒るだろうか……。それとも、笑うだろうか……)<br />
 朋与との電話を終えた比呂美が振り返って眞一郎を見たとき、眞一郎は俯いていて、まるで地<br />
中の鉱脈を透視しているように冷ややかだった。<br />
「どう、したの?」比呂美は少し身構えて尋ねた。<br />
「えっ」糸で引っ張られたように顔を上げた眞一郎は、自分でもどうしていたんだろうという風<br />
に左右の景色を確認したあと、「いや、なんでも……」と苦笑した。このリアクションは何かゴ<br />
マかそうとしていると思った比呂美は、眞一郎を問いただそうと勢いよく立ち上がった。どうも、<br />
今日の眞一郎はおかしなところがある。しかし、ここで一気に吐かせてやると意気込んだ比呂美<br />
の踏み出した一歩は、体にかけていたタオルケットの端をふんずけてしまい、つるんと滑った。<br />
 比呂美の体が前へつんのめる。反射的に床を着こうとした両腕に比呂美が自覚したとき、胸元<br />
を隠していたタオルケットは下へ引っ張られていて、乳房のみならず陰毛までもが晒される結果<br />
となった。<br />
「やっ」と声を上げて四つん這いの姿勢に倒れた比呂美は、背中を丸めて縮こまったが、お尻だ<br />
けは隠しきれなかった。眞一郎の居た洋室の灯りが比呂美のお尻の二つの輪郭を照らし、眞一郎<br />
の視線もどうしてもそこへ誘導されてしまう。が、眞一郎はすぐにそれを断ち切った。<br />
「お、おまえ、いい加減に、ふ、服、着ろよ」<br />
 冷静に言ったつもりでも、眞一郎の笑い袋はすでに破けていた。眞一郎の声が震えていたこと<br />
に気づいた比呂美は、タオルケットで胸元を隠しつつ上体を起こした。そして、眞一郎の目線か<br />
ら自分の格好がどう映っていたのかを想像してみた。眞一郎には当然のことながら非はないけれ<br />
ど、何か文句のひとつでもを言わずにいられなかった。でも、比呂美が顔を上げたときは、眞一<br />
郎は背を向けていて、液晶テレビのリモコンを手に取ろうとしていた。眞一郎にしてみれば、比<br />
呂美が下着を身に着けるところを見ないようにするためだが、今の比呂美には逆に癇に障った。<br />
このまま、ふたりとも眠りにつき朝を迎えてしまったら、このひと夏の夜の熱い思い出が、自分<br />
の大失態で締めくくることになってしまう。そんなことに気が回らない眞一郎に、比呂美は信じ<br />
られない思いになる。テレビのチャンネルを操作する眞一郎の背中を焦げるように見つめながら、<br />
比呂美は生唾を飲みこんだ。<br />
 <br />
 つづく……<br />
 </p>
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