「トゥルー・ティアーズ・アフター ~春雷~」 true tears after ―rumble in their hearts―
――『目次』――
序幕 『そんなのいや』(湯浅比呂美) 第一幕『どうする?』(仲上眞一郎) 第二幕『私を守ってね』(湯浅比呂美) 第三幕『戻ってこないか?』(仲上眞一郎) 第四幕『こっちを向きなさい』(仲上寛) 第五幕『幸せをひとつひとつ』(湯浅比呂美) 第六幕『男の子でしょ?』(湯浅比呂美) 第七幕『あなたの大切って、なに?』(湯浅比呂美) 終幕 『背中をポンポンしてくれて』(湯浅比呂美)
――『予告文』――
ようやく春が訪れ、眞一郎と比呂美は ちょっとずつお互いの距離を縮めていっていた。 そんな中、あることを切欠に二人の間に波風が立つことになる。 比呂美を傷つけないと、自分に言い聞かせる眞一郎。 乃絵の笑顔のチカラに、心がざわめく比呂美。 母親として、比呂美を叱りつける理恵子。 比呂美に優しい眼差しを送るヒロシ。「わたしたち、恋人ごっこの、ままだわ」 眞一郎と比呂美が、お互いの絆を深めるために取った行動とは。
「トゥルー・ティアーズ・アフター ~春雷~」
本編のその後を描いた、こころ温まる物語。……あなたの大切って、なに?
――序幕 『そんなのいや』――
4月に入ったある土曜日、陽も大分傾いた午後。 体育館の勝手口の階段に腰掛け、オレンジ色を基調としたユニホームを身にまとった少女が、携帯でメールを打っていた。背番号は『6』……………………。『件名:プレゼント もうすぐ誕生日ね プレゼント何がいい? 高いものは買って あげられないけど…』……………………。『件名:Re:プレゼント そんな何でもいいよ 気持ちだけで充分うれしい』 少女の目が、一瞬だけ曇る。『件名:Re:プレゼント そんなのいや ちゃんとリクエストして』……………………。『件名:Re:プレゼント 目覚まし時計とか』……………………。『件名:Re:プレゼント それにするね それと誕生日に 二人でケーキ 食べようね それじゃ』……………………。『件名:Re:プレゼント ありがとう 楽しみにしてる』「よし!」 携帯電話を折りたたむ音が心地よく響く。 重力をまるで感じさせない身軽さで、勢いよく少女は立ち上がると、体育館の中へ消えていった。春の日差しのような何か暖かいものをそこに残して……。 彼女の想い人、『仲上眞一郎』の誕生日はもうすぐ。『4月16日』だった。
――第一幕『どうする?』――
麦端高校では、すでに入学式が過ぎ、校内はクラブ活動の新入生勧誘合戦に祭りのような賑わいを見せていた。もともと中高一貫校なので、新入生のほとんどは中学のときのクラブを続けるのだが、制服が替わるのを契機にそれを覆そうと、クラブ転向合戦に熱くなるのが麦端の伝統となっていた。 二年生となった『湯浅比呂美』はその転向合戦の主戦場で忙しい毎日を送っていた。すでに副キャプテンに任命されており、今年の夏のインターハイ(高校総体)で、三年生が引退すると、キャプテンになることが確定していた。 そこで、男子のみならず女子にも熱烈なファンを持つ『優等生・比呂美』を武器に攻防を繰り広げてはいたが、現実はかなり厳しいものだった。
一方『仲上眞一郎』は、『デザイン部』に籍を置いていた。 麦端高校で、絵心のある者が集まるところといえば、『美術部』と『デザイン部』しか存在しないのだが、美術部へ見学に行った時、真面目に油絵等を描いている者はいたものの、三分の二くらいの部員が、いわゆる『オタク化』しており、速攻でパスしたのだ。次に、あまり期待をせずに見学に行ったデザイン部は、グラフィック・アート(文字・線・絵・写真などの美術)というよりは、造形創作を主体としたクラブ活動で、演劇部や写真部などとの連携の多いところだった。演劇の舞台装置、衣装やきぐるみ、看板やオブジェなどを制作する活動内容は、図工を得意とする眞一郎にとって、大変魅力的なものだった。 さらに、、顧問が父のヒロシと同期という驚きもあったが、文化祭と体育祭以外は基本的にまったりなクラブだった。
さて、数ヶ月前、全校生徒が注目していた『恋の三角関係』の二つの頂点であった眞一郎と比呂美は、『あの竹林』の告白の後、交際を始めていたものの、学校では、特に目立った感じではなかった。親友の朋与と三代吉にはすぐに打ち明けたものの、乃絵の入院の事情を説明して、学校では自分らを冷やかしたりしないように強くお願いをしていた。 乃絵が学校へ復帰すると、生徒達は、『恋のバトル』の続きを固唾を呑んで期待したが、いっこうに始まらなかったので、事の『終焉』を悟った。やがて、二人の『恋の関係』は、音を立てずに静かに広がっていったが、学校でまるで『甘いムード』を漂わせない二人に半ば白けていた。 そもそも『高二』という時期は、他人のことよりも自分の『恋の物語』で精一杯。
学校の外では二人はどうだったか――。 眞一郎は、告白の後、比呂美のことを『一人の女性』として大切にしていこう、という気持ちをさらに強くしてた。それは、比呂美の存在する空間も含めての事だった。 この比呂美の『存在する空間』も大切にしようというのは、男女交際の先輩である愛子と三代吉の普段のやり取りが、少なからず影響していた。愛子の店で、呆れるくらい仲良く談笑する愛子と三代吉だったが、時折、険悪のムードになることがあった。その理由を考えて導き出した結論が……
『女性のプライベートの空間は、男性がそう易々と踏み込んではいけない』
ということで、比呂美と間近に生活したことのある眞一郎は、かなり神経を使うようになっていった。比呂美に対して思い当たるシーンがいくつもあったのだ。 それでも、当然のことながら一緒に居る時間を増やしたかった眞一郎は、逆に自分の部屋に比呂美を多く招くようにしていた。もともと比呂美は、仲上酒店をよく手伝い、そのまま夕食を取ることが多かったので、気兼ねなく誘え、一緒に宿題をしたりと、二人にとっては最善策のようだった。そんなふたりを、親の『ヒロシ』と『理恵子』は、何も言わずに安心して見守っていた。 そうして、一日一日ちょっとずつ順調にお互いの距離を縮めていた中、眞一郎の誕生日での『ある事』を切欠にして、二人の間に波風が立つことになった。 二人の関係を強くするための試練が、やって来たのだ。
誕生日を控え、ここ数日間、眞一郎は、無意識の内にそわそわしていた。あまり見せない眞一郎のそんな様子に水を差したのは、やはりこの人だった。 誕生日の前日、朝食の時に、母・理恵子は、前触れもなく提案してきたのだ。いや、決定事項を告げたと言った方が正しいかもしれない。
「眞ちゃん、明日……比呂美ちゃん連れてきてちょうだい。あなたの『誕生日』でしょう?」「ぅぐ!」 ちょうどご飯を飲み込もうとしていた時のことで、眞一郎は喉を詰まらせそうになる。 理恵子は、そんな様子を気にもせず、愉快そうに続けた。「一緒にケーキ食べましょうって。もう頼んであるのよぉ」「えぇッ」 反射的に不満を漏らした眞一郎は、『しまった』と思った。「なんなの、その顔ぉ」「いやぁ……そのぉ……」「ふふ、比呂美ちゃんと約束でもしてたの?」「……まぁ」 照れくさそうにしていると、理恵子は急に神妙な顔になった。「まったくこの子は……親に内緒で何やってるんだか。去年は、比呂美のこともあって、祝ってあげられなかったでしょう?」「でもぉ……母さん」 眞一郎は、手を止め、去年の誕生日に何もしなかったことを言おうとする。「比呂美ちゃんの『誕生日』もちゃんとしてあげるわよ。親の楽しみを奪わないでちょうだい」 理恵子のこの言葉。
……比呂美ちゃんの誕生日もちゃんとしてあげるわよ……
眞一郎は、『6月3日』の比呂美の誕生日のことだと思ったが、理恵子には『別の意味』があった。「でも、比呂美が……」
……比呂美は大丈夫だろうか……
比呂美を仲上家で預るようになってから、仲上家では親子の関係を見せつけるようなイベントは控えていた。その最たるものが『お誕生会』で、去年、眞一郎と比呂美の『お誕生会』は仲上家で行われていない。 理恵子が何故、前日になって、仲上家で『お誕生会』をすると言い出したのかは、よく分からないが、『お誕生会』を封印することは、比呂美にとって先々よくない事だと眞一郎は感じていた。
……今の比呂美に、どう映るのだろうか、『お誕生会』の光景が……
それに、眞一郎には、比呂美の内面についてまだ知らないことがありすぎるのだ。両親が亡くなってまだ二年も経っていない。そう簡単に強くなれるんだろうか――そんな心配が広がった。 理恵子は、そういう『心配や恐れ』を抱く眞一郎を、痛いほど察知していた。「それじゃ、母さんから比呂美にお願いしようかしら? あの娘ォ、断れないわよ」と、意地悪っぽく言う。「わ、わかったよ。伝えておく」『二人きりの誕生日』に浮かれていた眞一郎だったが、比呂美の内面の状態を量るチャンスだと思った。眞一郎はそう返事し、学校へ行った。 理恵子は、ヒロシの湯呑みに新しくお茶をそそぎ、新聞を掲げて空気と化していたヒロシに声をかけた。「これで、いいわよね?」「……あぁ」 ヒロシは微動だにしない。「……もぅ」 理恵子は、ヒロシに何か言って欲しかったのだろう、苦笑いしながら軽く不満を漏らした。
放課後、眞一郎と比呂美は、体育館の勝手口のところで、朝の『理恵子の提案』について話していた。「えっ、おばさんが?」「どうする?」「どうするって……」 言葉が止まりしばらく考える比呂美。「おばさん、私に気を遣ってるんだよぉ」 その通りなのだが、眞一郎は敢えて自分の考えをを口にしない。「気を? いや~からかってるだけのような……」「もう、わかってないな~眞一郎くんは。去年は私の両親が亡くなって間もなかったから、眞一郎くんの誕生日、何もしなかったんだと思う。この先、誕生日に何もしなくなると、私がどんどん負い目を感じるからって、一緒にやりましょうって言い出したんだと思うの」 比呂美がひょうひょうとそう返してきて、眞一郎は少しほっとしたが……。「そうかなぁ……」「そうだよ。それに、一緒の方が私としても、うれしいしぃ……」 少し遠くを見るような目で比呂美はそう言った。「ぇ?」 眞一郎がそんな比呂美の様子に少し困惑していると、比呂美はニヤッと笑って眞一郎の顔を覗き込んだ。「ふたりっきりに、なれないけどね」「どっちがいいんだよ」
……どっちがいいんだよ。両親と一緒に祝うのと、ふたりきりで祝うのと……
眞一郎は少し照れてプイッと横を向くと、その照れた様子を見て冷やかしネタを思いついた朋与が近づいて来た。「なぁになにぃ、『家族計画』について相談?」「朋与ォッ!!」「ぬははははは、練習始まるよー」 朋与は、身を翻して比呂美の攻撃レンジから離れていった。 結局、明日は『仲上家』で眞一郎の誕生日を祝うことになった。
眞一郎の誕生日を、眞一郎の両親を一緒に祝うのと、ふたりきりで祝うのと――比呂美はどちらでもいいと思っていた。 比呂美自身も気になってはいた。眞一郎の誕生日が近づくにつれ、『今年は』どうするのだろうと。 比呂美と理恵子の関係は、現在、たいぶ打ち解けたものになっていた。仲上の家の台所で二人が一緒になると、弁当に『バナナ』を付けないで欲しいとか、もう少し『かわいい下着』を身に着けなさいなど、お互いに意見をぶつけ合っていた。 それなので、理恵子の提案は、比呂美にとって予想済みだった。 しかし、『お誕生会』のことよりも、別のことの方が気になっていた。眞一郎自身のことが……。
その夜、比呂美は、自室で眞一郎へのプレゼントを準備をしていた。 先日、街まで買いに行った『目覚まし時計』の包装紙を丁寧に剥がした。そして、別に用意したダンボール紙を『時計』の梱包箱の底面と同じ大きさに切り、中央をくり抜いた。そのカットしたダンボール紙を梱包箱の底面にのりで軽く接着させ、くり抜いた部分に、小さなアクセサリーの付いた『鍵』を収めた。 次に、新しい包装紙を手ごろな大きさに切り、その『鍵』と一緒に『時計』の箱を新しく包装し直した。 途中、何回か『鍵』が飛び出していないことを確認する。包装紙を剥がすと『鍵』がこぼれる仕組みに何故かしたかったのだった。 今度は、『メッセージカード』を書き始めた。しばらく空中を見つめ内容を考える。やがて四行ほど書き記すとそのカードを、カードとセットになっている封筒に入れ、『時計』の箱の天面に置き、リボンを掛けた。 それらを紙袋にそっと収め、ハート型のシールで封をした。 比呂美は、しばらくの間、眞一郎へのプレゼントをじっと見つめていた。 そして、こう呟いた。
「わたしを……守って……かぁ……」
『カレ』に送るこの『メッセージカード』と『鍵』は、皮肉にも、想い合うふたりの『波乱』のトリガーとなるのだった。
――第二幕『私を守ってね』――
次の日、誕生日当日、眞一郎は慌てて学校から戻ってきた。 朝食の時、理恵子が、今日の誕生日のことに大して触れなったのがかえって不気味に思えていたからだった。
……まさか、ド派手なことを考えているのではないだろうか……
いくら比呂美が賛同してくれたといっても、それはあまりにも無神経というもの。 眞一郎はずっと、どちらかといえば質素な誕生日を、迎えていた。ヒロシがあまり騒ぐのが好きではないし、酒蔵の従業員がいつも近くにいる中で羽目を外すことは出来なかったのた。だが、今年は少し『状況』が違う様に眞一郎は感じた。 家へ帰りついた眞一郎は、台所に居る理恵子を見るなり、ほっと胸を撫で下ろした。何かの料理の下ごしらえはしていたが、周りを見渡しても特別変わった様子はなかった。普段と変わらない。「比呂美ちゃんは?」「あー部活の会議で遅くなるって、6時過ぎるって」「あらそう」 理恵子は特に表情を変えずに頷いた。大丈夫だ、母に変わった様子はない、眞一郎はそう思った。「手伝うよ」「あら、めずらしい。着替えてきなさい」
結局、比呂美は夜7時前に仲上家に着いた。私服に着替えず急いで台所へ向かう。「おばさん、ごめんなさい、遅くなって……ぷっ」 台所の扉を開けた途端、比呂美はすぐに噴き出した。眞一郎が『うさぎさん』の絵の描かれたエプロンを着てそこに立っていたからだ。「笑うことないだろう」「あはははは、無理言わないで。あっ、そうそう、携帯」「こんなの撮らなくていいから」 眞一郎は、さっさとそのエプロンを脱ぐと比呂美にそれを押し付けた。「えぇ~もったいないぃ」 残念がりながら比呂美はエプロンを受け取り、そして装着。
……おまえ、似合いすぎ……
と心の中で興奮しながら眞一郎はその場にいられず、台所から出て行った。 眞一郎をからかった比呂美は、この後『母の反撃』を喰らうことになった。「それにしても、かわいいですね、このエプロン」「若い頃、『使って』いたのよ」「え?」(使う?) 比呂美は、『その先』を理恵子に訊けなかった。
仲上眞一郎の『17才の誕生日』の夕食は、普段のそれと大して変わらなかったし、眞一郎が今まで祝ってもらった『お誕生会』とも変わらなかった。『湯浅比呂美』が同席している以外は……。 居間のテーブルの真ん中には、DVDディスクの大きさの円と変わらないチョコレートケーキが置かれていた。さすがにこの小ぶりのケーキに17本のローソクを立てるのは無茶なので、装飾の施されたローソクが3本立てられた。 そして、静かに理恵子が説明をはじめた。「1本は眞一郎の17歳の……となりの1本は16歳の……そしてこの1本は……『湯浅比呂美』の16歳の誕生日……」
えぇ…!?
何か温かいものが居間を包む。ヒロシ、理恵子、そして眞一郎は、比呂美を見ていた。 比呂美は、涙がこぼれそうになるのを必死に堪えた。今日は眞一郎くんの誕生日、台無しにしてはいけないと……。 あまりにこの沈黙が続くと、比呂美が泣き出してしまうと思った理恵子は、『定番の儀式』を促した。「さ、二人で消しなさい」 眞一郎は右手を比呂美に差し出し、比呂美はその手を握り締める。二人は、ローソクへ顔を近づけ、ふっと炎を消す。「誕生日、おめでとう」 ヒロシが優しさ一杯に、ふたりに『祝福の言葉』をかけた。
食事をする手が落ち着き、ケーキを切り分けた後、比呂美は眞一郎に『例のプレゼント』を渡した。「はい」「あ、ありがとう。開けていいか?」「だめ」「えっ、これあれだろう? 別に恥ずかしがることないじゃん」「『手紙』が入っているの……だから……」 比呂美は、『二つ』の内『一つ』のことを話した。 眞一郎は、手紙くらいなら別に、と思ったが、「分かった」と頷いた。「お部屋で、一人の時に、開けてね」 比呂美は、少し小さな声でそう付け加えた。 そのとき、理恵子は、その比呂美の最後の言葉に、ある『予感』を感じ取っていた。
比呂美は、夕食の片づけを手伝うと、眞一郎の部屋に寄らず帰っていった。比呂美の訪問を期待していた眞一郎は、自室でベットに横たわり天井を見つめていた。「よかった……」 何事もなく自分の誕生日を終えていたことに安堵した。 ここ数日、比呂美と理恵子の動向を注意深く観察していたので、緊張が解けた今、どっと疲れが押し寄せて来たのだった。 一年前のことを思うと、今日の出来事がまるで嘘のように、幻のように思えた。明るく笑う比呂美、よく眞一郎をからかう比呂美、台所で母に並んで談笑する比呂美。夢じゃないだろうな? と空中に漂う誰かに問いかけてみる。当然、何の返事も返ってこない。
……誰もいない……『一人』……
その言葉ではっと思い出した眞一郎は、机の上に置かれた比呂美からのプレゼントに目をやった。『自分の部屋』、『一人の時』、比呂美がかけたプロテクトを解除する。 眞一郎は、ベットから起き上がり机の椅子に座った。 紙袋のシールを剥がし、リボンの掛かった箱を取り出す。大げさだなと思いつつもリボンを解くと、先ず、箱の天面に置かれている『手紙』らしきものにすぐ気づいた。(これか? 手紙って) まだ開封せずに脇に置く。 箱の包装紙を剥がし始める。半分くらい剥がしたところでチャリッという音がしたが、構わず続けた。全部剥がそうという時に、何かが床に落ち、その正体を拾い上げると。(カギ? 時計の付属品か?) 何の変哲もない鍵。その鍵にはパチンコ玉くらいの大きさのハート型の『輪っか』のアクセサリーが付いていた。 しばらくその鍵を観察していた眞一郎は、自室でプレゼントを開けて、と言った比呂美の様子が頭の中によぎり、手紙の中身を取り出した。
―――――――――――――――――――― 眞一郎君 17歳の誕生日おめでとう 男の人へ手紙なんて生まれて初めて 今までいろいろごめんなさい これからも 私を守ってね ゆあさ ひろみ――――――――――――――――――――
『これからも 私を守ってね』
これって、アパートの鍵か? 鍵の正体をそう断定した眞一郎は、顔をしかめた。 普通に考えれば、『性的な意味』で『誘っている』ということだ。 ここ2ヶ月間、眞一郎は、『比呂美の部屋』へ足を踏み入れてない。その代わり、週の半分くらいは、比呂美が眞一郎の部屋に遊びに来ていた。数回ほどキスはしたが、『その先』はお互いにしっかり自重していた。
……比呂美は、現在の『付き合い』に不満を感じているのか? 『その先』に踏み出したいと思っているのか?
眞一郎は、最近の比呂美の態度、言動を思い返し、比呂美の気持ちを推察してみるが、どうとも判断し難い。比呂美の『悪戯好き』がそれを邪魔をする。 さらに、どう対応したらいいのか、という答えもは辿り着けない。もし、眞一郎も『その先』を望んだとして、それはあまりに安直過ぎないだろうか? 比呂美を悲しませない、比呂美を傷つけない、比呂美を守る、とずっと自分に言い聞かせてきた『自分』に対して安直過ぎないだろうか?
……いや待てよ。『他の意味』はないだろうか……
不測の事態に備えて家族が『合鍵』を持つことはよくある話だ。 比呂美は戸籍上『赤の他人』だが、実質、『家族同然』だ。ヒロシも理恵子も、勿論そのつもりでいる。眞一郎も。 それだったら、ヒロシか理恵子に渡せばいいのだろうが、もう既に渡してあって、誕生日を迎えて『一つ大人に近づいた』という意味で、合鍵を眞一郎にも用意したのかもしれない。 実際、眞一郎が比呂美のアパートに行く回数が、断トツに多い。比呂美に何かあった時に、眞一郎が出くわす確率は、高いはず。それだったら、手紙の、『私を守ってね』、という言葉とつながる。 こっちの意味の方が比呂美らしい、と眞一郎は考えた。 比呂美も『多感な年頃』。『合鍵』の持つ意味は当然分かっているはず。だが、眞一郎も含めて仲上家の人に、今だ『本音』を漏らさないのも比呂美。比呂美に直接確認した方がいいだろうか。だがもし『前者』も含まれているとしたら、男として『デリカシー(心遣い)』に欠けるのでは、とまた眞一郎の頭の中はモヤモヤしてきた。 この調子で眞一郎は延々と悶えつづけて、眠りに落ちたのは新聞配達のバイクの音が聞こえはじめる頃だった。
次の日の朝、空模様は、眞一郎の心を写したように、青空は覗いているものの、黒い雲がいくつか浮かんでいるといったものだった。それだけでなく、この日は異様に生暖かく、案の定、昼過ぎから激しい雨が降りだした。 放課後、部活を退散した眞一郎は、昇降口で比呂美と出くわした。「傘、持ってきてる?」と比呂美は、眞一郎に訊いた。「うん。……でもこれじゃあまり意味なさそうだ」
ザァァァァァァァ――
激しさを増した雨に、強風と雷が加わっていた。 眞一郎は、やれやれという感じで外の様子を恨めしがる。「ちょっと治まるの、待った方がいいな」 眞一郎がそういったとき、比呂美は外の様子を見ずに、眞一郎を横顔を見ていた。「うん。……ねえ……体育館行かない?」「えっ」「そこで時間つぶそ?」「うん……いいけど」 眞一郎はそう返すと、比呂美の後をついていった。 そのとき、移動していくふたりを2階から下りてきていた朋与が見つめていた。
一方、眞一郎と比呂美が体育館で時間を潰そうとしている時、仲上家では理恵子が眞一郎の洗濯物を部屋に運んでいた。理恵子は、洗濯物をベットの端に置くと机の方に目をやった。そこには、昨日、比呂美がプレゼントした目覚まし時計が置いてあった。欧州の童話調のデザインの時計に、比呂美らしい、と理恵子は目を細めた。 まだまだしゃんとしない息子に、『出来たカノジョ』が出来たもんだと苦笑しながら、散乱した色鉛筆の数本を元の位置に戻してあげていた時、ある『モノ』に気づいた。 ハート型のアクセサリーの付いた『鍵』。この『鍵』の正体を推察してすぐに結論を弾き出した理恵子の目は途端に鋭くなった。
……あの子……
比呂美が一人暮らしをはじめれば、遅かれ早かれ、眞一郎とそういう仲になることは充分覚悟の上。今となっては無理に引き剥がすつもりもなかったが、理恵子は比呂美に遠まわしで幾度と牽制をしていた。比呂美も理恵子の心配を察していた。 しかし、そういう信頼関係を揺るがそうとするものが目の前で光っている。理恵子は、どうするべきかしばらく呆然と立ちつくしたまま考えた。「親としては……見過ごせないわね」 そう呟いたとき、近くで雷が轟いた。『波乱』の始まりのゴングのように……
ゴロゴロゴロゴロォ――
――第三幕『戻ってこないか?』――
ゴォォォォォォォ――
体育館には、誰れひとりいなかった。 雹(ひょう)混じりの嵐の所為で体育館の中は、ゴーとすごい唸りを上げている。時折、激しく雷も鳴った。 比呂美は、バッシュ(バスケット・シューズ)に履き替え、用具室から持ち出したバスケットボールを突いていた。「こりゃ、当分治まりそうにないぞ。母さんに迎いに来てもらうか?」「悪いわ。もう少し居よう?」 比呂美は、少し眉をひそめお願いするようにいった。「あのさ、比呂美……」 眞一郎が話を切り出そうとした時、比呂美は、遠いサイドのバスケット・ゴールへドリブル(※)しながら向かった。(※)ドリブル…ボールを繰り返し床に突くこと。また走りながらそれをすること。 シュートを成功させるとボールを拾い、今度は反対側、眞一郎が居る側のゴールへドリブルしてシュートを決める。最初、ゆっくりとしたスピードだったが、段々とスピードが上がり、太ももが露(あらわ)になるほどスカートの裾が広がった。そして、シュート後の着地の時には、下着が確実に晒された。 再び遠いサイドへドリブルする比呂美の背中に、眞一郎は堪りかねて声をかけた。「比呂美ぃ、見えてるぞぉ」「えー?」 比呂美、構わずシュートをすると、ボールを拾いこちら側にまたドリブルして来た。「見えてるぞぉー!」「えー? 聞こえなぁーい」 右手でドリブルしながら、左手を耳に当てた。確かに雹混じりの激しい雨の所為で聞こえにくい。こんどは区切るように言ってみる。「みぃ、えぇ、てぇ、るぅ、ぞぉ」「何がぁー?」 言葉は伝わったらしく、比呂美は眉をあげて目を丸くした。「パ」(パンツが…) 眞一郎はとっさにその単語を口にするのを止めたが、比呂美は、悪戯顔になってクスクス笑いはじめた。(あいつー、わざと言わせようとしたな~)
珍しく学校で『甘いムード』漂わるふたりを、体育館の出入り口の扉の隙間から覗く影があった。「校内で堂々と放課後デート、パンチラ・サービス付き。やるね~比呂美さん」 扉に右手をかけ、左手でカメラモードになっている携帯電話を準備していた。「朋与?」「ヒッ!」 いきなりノーマークだった背後から声をかけられ反射的に全身振り返り、カエルの様に扉に張り付いた。高岡キャプテンが、『下着ドロ』を見るような目をして立っている。「何してんの? 誰かいるの?」「い、いえ、そのぉ、先輩達いないなぁ~なんて、あははは」 なんとか誤魔化さなきゃ、こんな『激写チャンス』滅多にないんだから、と朋与は必死になった。「ちょっと、通して」「いや、今ちょうど、盛り上がって…」「盛り上がって?」 その時、近くで雷が都合よく鳴った。「いや、ほらぁ、雷ですよぉ。くわばらくわばらぁ」 おおかた察しのついた高岡は呆れ果てた。「はぁ~どうせ比呂美でしょ?」「にぃひひひひひ」「やめな、その笑い方。……まったく……明日しごいてやるから覚悟しな」「すみませぇーん」 朋与は携帯電話を挟んで手を合わせると、高岡はため息をしながら去っていった。(比呂美ィ、この貸しは大きいわよ)
「ゲームしよ? フリースローゲーム」 比呂美は、眞一郎のことろへ戻ると、いきなりゲームを持ちかけた。「えぇー、そんなの俺、勝てないじゃん」「やる前から敗北宣言? 男らしくない」 かなり挑発的な比呂美。「そういう問題かぁ~?」 頼りない眞一郎。比呂美はそんな眞一郎に構わずルールの説明をはじめた。「三本勝負ね。成功した数だけ相手に『お願い』が出来る。相手はちゃんと『叶える』こと、いい?」 ふたりの間に沈黙が訪れる。辺りは異様な空気に包まれ、近くで雷が轟った。ふたりとも真顔になっていた。やがて、おそるおそる眞一郎が口を開いた。「『お願い』? 『お願い』って、相手の言うことをきくってことか?」「そ。それくらいの『モノ』賭けないと勝負は面白くないわ」「おまえ……」「受けてたつ?」 比呂美の滅多に聞かない低い声が承諾を求めた。(こいつ、何考えてんだ……) 比呂美がその気ならちょうどいい、と眞一郎は思った。うまく行けば『合鍵』のこともすっきりさせる切欠にもなるだろうし、また、もう一つ『重大な事』も切り出せるかもしれない。比呂美も『何か』を切り出したいのかもしれない。ただ、比呂美の真意が分からず、ただ不気味だった。「……ああ、わかった」 ルールを承諾すると比呂美は普段の明るい顔に戻っていった。「一本ずつね、先ず私から」 比呂美は、ボールを弾ませながら、フリースローラインに立つ。 肩幅に足を開き、利き足を1足分前へ出す。腰を少し落とし全身の力みを取るために、全身を軽くぶらぶら揺らした。 そんな比呂美の動作をゴール下へ移動しながら見つめていた眞一郎は、ふっとさっきパンチラが頭の中によぎった。「ちょ、ちょっと、待ったぁ! 『ハレンチなお願い』は無しだぞ」「ばか! 当たり前じゃない。想像したんだぁ~ふぅ~ん?」と比呂美は、眞一郎に軽蔑の眼差しを送った。「してねーよ」と眞一郎はとりあえず否定をした。
『お願い』を賭けた『フリースローゲーム』がはじまった。 比呂美、一投目。 比呂美の放ったボールはきれいな放物線を描いた。眞一郎はゴールに入ると思ったが、リングの奥に当たり、撥ね返ったボールは1回床にバウンドして、比呂美の手元に戻った。「チッ、力んだか……」「よし」 舌打ちをする比呂美に背を向け、眞一郎は小さくガッツポーズをした。 比呂美は、ボールをワン・バウンドさせ眞一郎に送った。
眞一郎、一投目。 バスケットボールは、体育の授業で幾度と経験しているので、フリースロー自体初めてではないが、改めてフリースローラインに立ち、ゴールを見つめると、ものすごくリングが遠く小さく感じられた。いとも簡単に比呂美はシュートするな~と、眞一郎は感心していた。なかなかシュート動作に入らない眞一郎を見て、比呂美の悪戯がまたはじまった。「やーい、へっぴり腰ぃー」「お前、素人相手に野次るなよ」 この野次でハートに火が点いた眞一郎は、開き直り、とにかくリングに当てることを考えた。一投目で距離感をつかめばいい、そう割り切ったのだ。それが幸いしたのか、気楽に放ったボールは、リングに触らずゴールネットを揺らし、スパッという心地良い音を響かせた。「うそ!」「……」 まさか入るとは思わなかったが、この成功によって先程の『お願い』というものが現実なものになった今、眞一郎は新たな悩みを抱えることになった――これで確実に一つは切り出せる。『どれ』を選択しようと。 呆然と突っ立て考えている眞一郎を指差して、比呂美は、「はいそこっ、ハレンチなこと想像しない」と言い放った。「してねーって」
比呂美、二投目。 相変わらず美しいシュート・フォーム、奇麗な放物線。 今度はリングの手前に当たって撥ね返ったが、またしても比呂美の元にボールが戻っていく。比呂美は首を傾げた。「あれぇーー?」「やぁーい、それでもレギュラーか?」「はい次、さっさとして」 眞一郎の野次にカチンと頭にきた比呂美は、ものすごいスピードで眞一郎にボールを送った。「わっ」
眞一郎、二投目。 一投目の要領で気楽に放ったがリングにわずか届かず、無情感が漂った。「え、もしかして、リングにかすってもいない?」 業らしく信じられないというジェスチャーをする比呂美。「うっせーよ」
比呂美、三投目。 一度バックボードに当たり、リングを弾いたボールはまたもや比呂美の元に収まる。「そんな……負けるなんて……」と比呂美はがっくし肩を落した。「おいおい、どうかあるんじゃないのか?」 いつもの比呂美じゃないと思った眞一郎は比呂美を心配したが、それとは別にある疑念を抱いていた。おかしい――比呂美の実力なら、一本も入らないということはありえない。まして、あのボールの跳ね返り方。そう、以前バスケットの漫画で読んだことがある。フリースローをわざと外し、自らリバウンド取ってシュートし、1点を2点のプレイにする。比呂美ならこんなの朝飯前だろう。 だがなぜ、自分から言い出したゲームでそんなことする必要がある? そんなことを考えていたら、最後の一本をどうしても決めたい、と眞一郎は思った。
眞一郎、三投目。「あっ、惜しー」 リングに当たったものの、眞一郎の願いは通じなかった。
依然と激しい雨は続いている。「ありえねぇー。お前、わざと外しただろう」 眞一郎は、さっきの疑問をぶつけた。「こんな時もあるわ」 ぶっきら棒に答える比呂美。「さっ、『お願い』、何?」 比呂美は少し表情を固くし、早速切り出してきた。「……あ……あの……」 眞一郎は仲上家が抱えている懸案事項を優先することにした。「うん」と比呂美は優しく促す。 眞一郎は呼吸を整え、比呂美に少し近づき、真剣な目で『お願い』を伝えた。「あのさ……そろそろ、家に戻ってこないか? 仲上家に……」 そのとき。 辺りが青白く光り、すさまじい轟音が鳴り響いた。
バリ バリ バリ バリ ドドォォ――――ン
「きゃッ!」「うわッ!」 比呂美は反射的に眞一郎に飛び付いた。 地響きと共に体育館全体がビリビリと振動する。轟音の余韻は一分間ほど治まらなかった。 しばらくふたりはじっとしていた。辺りが治まるのを感じると眞一郎はもう一度さっきの言葉をいった。「戻ってこないか? 仲上家に」 比呂美は、ゆっくり眞一郎から離れると俯いた。眞一郎に表情を見せないで……。「……」 何も返さない比呂美に歯痒く思った眞一郎は少し焦り、彼には珍しく強引な言葉を口にした。「ゲームのルールだろ? お前が言い出した」「……それだけは……勘弁して……」と答えた比呂美はまだ眞一郎に表情を見せない。 今まで聞いたことのない比呂美の言葉に衝撃を受けた眞一郎は、次の言葉が思いつかない。『女性のプライベートの空間』、『他人の壁』、そんなキーワードが頭の中に浮かぶ。 とてもデリカシーのないことを、比呂美にお願いしたのではないだろうか? と眞一郎は、自分の発言を悔やみ顔をしかめた。そんな苦しそうな表情に気づいた比呂美は、ようやく顔を上げて口を開いた。「ごめん……今は……まだ……もう少し……」 まだまだ気持ちの整理が付かないことがあるのだろうか。 比呂美の両親が亡くなり、仲上家へ来ると決めたのは比呂美本人、比呂美自身が眞一郎にそう告げた。比呂美が一人暮らしをすると決めたのも比呂美本人。 それじゃ、戻るのも……でも……あの『合鍵』は、何だって言うんだ。 この『お願い』はまだ、口にすべきではなかったのだろうか? と眞一郎の頭の中は混乱した。 硬直した眞一郎の顔を覗き込んだ比呂美には、思いもよらぬことが待っていた。「比呂美、キスする」と眞一郎は呟くと、すぐさま比呂美の唇を奪ったのだった。
雨音が響いている。どこかの隙間から冷たい空気が吹き込んでいる。 比呂美の髪が静かに揺らめいた。 しばらくしてお互いの唇が離れると、眞一郎はなんとか笑顔を作ってみせたが、うまくいっていないのが自分でも分かった。「『お願い』は、これで帳消しだ」「…………うん……ごめん」 比呂美は、眞一郎と目を合わせず頷いた。
雷鳴が今だ轟く中、もう一人、体育館の扉の向こうで硬直した人物がいた。「……こいつら……おかしい……」
そのあと、眞一郎と比呂美は、嵐が落ち着く気配がなかったのでヒロシに車で迎いに来てもらった。
その夜、比呂美は、早めに寝床に入り、今日の体育館でのことを考えていた。
……眞一郎くん、ずっとそういうこと考えていたんだ。当然といえば、当然。 私が仲上家を出て行くと話したときも、引き止めはした、 一人暮らしなんて物騒だって。 私の境遇を考えれば、心配で堪らなくなって当然。 それに、あの時はもう、いや、ずっと眞一郎くんは私に恋愛感情を抱いていた。 もちろん今も。好きな女の子ならなおさら心配をするじゃない。 私も眞一郎くんが好き。 いつも私を見てくれている彼が好き。 心配してくれる彼が好き。 私に甘えない、ベタベタもしてこない、 下着を見ても暴走しない彼が好き。たぶん。 私を困らせることは言わない、嫌がることもしない、決して。 何かあれば直ぐ察知して全力で回避する。 去年は私の事で学校でよく喧嘩をしていた。 私のことを大切に思っている、大事にしてくれる。でも…… 眞一郎くんの石動乃絵に向けた表情、笑顔を、私はまだ見ていない気がする。 子供の純真な笑顔。 私がいつも見ている眞一郎くんの顔は、どこかいつも一生懸命な顔。 それって……私が眞一郎くんの重荷になってるってことじゃない? そんなのいや。 今の眞一郎くんが、本当の、眞一郎くん? 私の知っている眞一郎くんが、眞一郎くんの、全て? 眞一郎くんは、本当に、私の隣にいるの? 私の妄想なんじゃない?
「かわいい笑顔。そんな無邪気な顔で簡単に眞一郎の気持ち、掴んじゃうのね……」
……眞一郎の……気持ちを……掴む…… 私は、眞一郎の気持ちを、心を、本当に、掴んでいる? 眞一郎くんは、ただ、私という『存在』が放って置けないだけじゃないの? たった一つの『笑顔』を思い出すだけで私の心がざわめく。 これって……石動乃絵が残した『時限爆弾』? もしくは『呪縛』? 私は、眞一郎くんのために、 笑った? 泣いた? 怒った? 優しく包んであげた? 好きな男の子を手に入れて、もうすでに満足しちゃってない? わたし、『バカ』だわ。 微かな……『予感』。 漠然とした……『関係』。 広がっていく……『不安』。
……このままでは……いつか……だめになる。 わたしたち……恋人ごっこの……ままだわ……
まるで闇底に落ちて行く様に眠りに引きずり込まれた比呂美は、この夜、ひどい『悪夢』にうなされた。
――第四幕『こっちを向きなさい』――
「今の仲上家と比呂美の間に何か問題があるだろうか?」 眞一郎は自室のベッドの上で現状を整理していた。
……比呂美はしっかりしている。料理は出来るし、掃除や洗濯もまめにしている。 だらしないところは何もない。 ただ16歳の少女の一人暮らしは、とにかく物騒なのは変わらない。 幸い比呂美のアパートは、近い。走って10分もかからない。 何かあったときの合鍵も預っている。 経済的にも問題はないはず。
……比呂美の気持ちは? 比呂美にとっても『ひとりの空間』は、一番安らげる場所であろう。 母と打ち解けている今でも、 仲上家より断然、羽が伸ばせるのは間違いない。 比呂美の友達も気兼ねなくアパートに呼べる。 比呂美を支えてくれるの何も俺だけじゃない。
……俺の存在は? 相思相愛とはいえ、 同い年の男に見られたくない、知られたくないことは幾らでもあるだろう。 例えそれが相手に嫌われることではないと分かっていても。 そういう障壁がなくなるのは、結婚してからの話。 だが、俺らは若い、未熟だ。 自分を抑えきれずに淫らな行為に走るかもしれない。比呂美も同じはず。 でも俺らは抑えきれている。 離れている分、恋しくなることはあるが、 逆にこの距離が理性の介在をしやすくしている。 何も問題無いではないか。
……でも何か、引っかかる……
……じゃあ、なぜ比呂美は最初から一人暮らしをしない? 仲上家に来ないで。 親父とお袋は何故何も言わない。 比呂美の精神の安定を最優先に考えている? 親父達は、俺にはまだ分からない『何か』を理解しているというのか? もしそれが分かったとしても、今の俺にはどうすることも出来ない気がする。 そんな気がする。 今の俺には、今の俺に出来ることで、比呂美を守ってやるしかないんだ。 俺に出来ることで、比呂美を……
嵐の次の日、学校での比呂美は特に変わった様子はなかった。眞一郎も落ち着いていた。 それぞれの心に、いろいろな思いが渦巻いていても、現状を壊してまで解決への糸口を探すという結論には至らなかったのだ。 このように、ふたりの間に一回激しい波が押し寄せたはしたものの、またいつもの平穏な関係に戻りつつあった。 しかし、そこに大きな一石が、またしてもこの人によって投じられた。
この日、比呂美は夕食を仲上家で取った。食後、お得意様から頂いたアップルパイを比呂美と一緒に居間のテーブル並べた後、理恵子は前触れもなく話を切り出した。このときヒロシは不在だった。「いただく前に、お話があります」 無表情な理恵子の声に反応した眞一郎と比呂美は、おそるおそる理恵子の顔を伺った。「これなんだけど……」と言いながら理恵子は、スカートのポケットから例の『鍵』をテーブルの上に置いた。 ハートの『輪っか』の付いた『鍵』、比呂美のアパートの『合鍵』。「!!!!」 眞一郎は全身硬直し、比呂美は両手で口元を押さえた。 そして、ゆっくりお互いの顔を見た。比呂美は、「どうして?」と目で眞一郎に尋ねた。 その様子を伺っていた理恵子は、この『鍵』の張本人が比呂美だと確信すると、比呂美に向かって説明を求めた。「比呂美……どういうことなのか、話してくれるかしら」「母さん、それは!」 眞一郎は、とにかく自分に矛先を向けさせねばと必死に割り込んだ。「あなたは、少し黙ってなさい」 叱りつける様な理恵子の声が部屋に響く。 そのあと、沈黙を経て、理恵子は優しい口調に変わった。比呂美がガタガタ震えはじめていたからだ。「比呂美……」「……ごめんなさい」 俯いた比呂美がなんとか声を絞り出すと同時に、涙が一つ、二つ落下した。「これが、どういう意味なのか、分かっているわよね?」「……はい……ごめんなさい」 もう声になっていない比呂美の返事。「謝っているってことは、『そういう気持ち』があったってこと?」「母さん!」 これ以上はダメだと思った眞一郎は、理恵子の追及を制した。「……ご…めん…な…さい」 比呂美は両手で顔を隠し、本格的に泣きだした。眞一郎はすぐに比呂美の傍により肩を抱く。 思いの外早く崩れてしまった比呂美に呆れ半分同情半分で、理恵子は優しくつづけた。「……比呂美。あなたたちのこと、今更とやかく言うつもりはないけど、まだ高校生でしょう? 少し行き過ぎじゃないかしら。そりゃ……私にも身に覚えの一つや二つはあるけど……親としては見過ごせないわね」「……ウッ……ゥッ……」 比呂美は、変わらずヒクヒク泣いている。 理恵子は、比呂美に自分の気持ちを何でもいいから話して欲しかった。眞一郎を誘ったなら、誘ったでいい。ただ、このまま放って置いては、比呂美がどんどん大人になるにつれ、取り返しのつかない大きな障害になりそうな気がしていたのだった。『本音』が言えないという……。親として見過ごせない、というのはそういう意味もあった。「何か思っていることがあったら言ってちょうだい」「母さん! もう、いいから……」 そこへヒロシが帰って来た。「ただいま。……ん? どうした」 居間の戸を開けて入ってきたヒロシは、比呂美の泣き声に顔が険しくなった。「いえ……そのぉ……」 比呂美がまだ落ち着いていなかったので、理恵子は曖昧な返事をしてしまう。「眞一郎、何があった」 ヒロシは眞一郎に説明を求めた。眞一郎は、比呂美から離れ、自分の決まった位置に正座した。「あ……その……俺が……」 眞一郎は、自分に矛先が向く言い訳を考えていたが思いつかず、しどろもどろになった。 そんな眞一郎に痺れを切らしたヒロシは怒鳴った。「ちゃんと話さないか」 このままでは、比呂美がまた泣き出してしまうと思った理恵子は、ヒロシにお茶を入れはじめた。「あなた、座ってください」 ヒロシも深刻な内容だと感じて、しばらく誰かが切り出すのを待つことにした。…………。「あなた、これなんですけど……」 理恵子はヒロシが帰って来た時に慌てて隠した『鍵』を再びテーブルの上に出した。「これは?」 もっと重大な事だと思っていたのだろう、ヒロシはこの可愛らしい『鍵』を見てきょとんとした。「比呂美が、眞一郎に……」と理恵子がつづけると、意味が分かったらしく顔色が少し渋くなった。眞一郎も比呂美もヒロシが事態を呑み込んだことを感じた。 ヒロシ以外誰一人として動かなかった。いや、動けなかった。だが、眞一郎はヒロシの顔をずっと見ていた。 比呂美は、ようやく落ち着きつつあったが俯いたままだった。頬に髪の毛が張り付いている。 ヒロシは、しばらく比呂美を見つめていた――優しく深い眼差しで。そしてお茶を一口すすった後、比呂美に言葉を発した。「比呂美、こっちを向きなさい」 とうとう来たと、居間に再び緊張が走る。 比呂美は、もう泣いてばかりではいられないと思っていた。先ほどの理恵子の言葉を思い出し、叱られてもいい、とにかく自分の気持ちを伝えようとした。「ぉじ…さん……ぉ…ばさん……ご…めん…なさぃ……わた…し……」 だが、比呂美の口はガクガク震えて、まともに喋れなかった。 比呂美のそんな様子に苦笑したヒロシは眞一郎の顔を見た。息子の顔を。自分と妻が17年間育ててきた魂。眞一郎もヒロシを真剣な顔で見つめ返す。決して目を逸らさない。比呂美は責められることは何一つしていないと目で訴える。自分も同じだと。 その訴えが伝わったかどうかは分からないが、ヒロシはその『鍵』を手に取ると、その手を眞一郎へ差し出し、こう言った。「おまえが、持っとけ」「!」 その言葉に信じられないというような顔をした理恵子は、ヒロシに叫んだ。「ちょっと、あなた!」「自分の息子が信じれないのか!」 ヒロシも理恵子の勢いをそっくりそのまま返した。「そんな……」 半立ちだった理恵子の腰がガクッと落ちた。 そんな理恵子の様子に構わず、ヒロシは、理恵子が聞きたくない言葉を言った。「どうして比呂美の気持ちを信じてやらないんだ」 理恵子は、その言葉に無性に腹が立った。「そういう話では……」「そういう話だ。今の比呂美の心の支えは眞一郎なんだ。おまえも分かっているだろう?」「それは……」 理恵子の苛立ちは、ヒロシへではなく自分自身に方向転換させられた。ヒロシの言うことは分かっていた、最初から。でも女として、母親としては、『合鍵』のことは見て見ぬ振り出来ないのた。自分に向けられたヒロシの言葉に、事態の収拾は、理恵子の範疇を越えてしまったことを、理恵子は納得せざるを得なかった。 呆然としている眞一郎と比呂美。「ほら、受け取れ」 ヒロシは軽く腕を上下させ、眞一郎に受け取るよう促した。 チャリッと音を立てて眞一郎の手に渡る『鍵』。「父さん」 そう眞一郎が呟くと、二人の動作がピタッと止まり、無言の沈黙が続いた。 その親子の姿を真横で見ていた比呂美は、今何か『誓い』みたいなものが、男同士の間で交わされているのだと感じた。
……比呂美を絶対傷つけたりしないよ……
眞一郎はそう誓ったのだった。
ヒロシと理恵子の夫と妻のやり取り、ヒロシと眞一郎の父と子のやり取りを間近に見せつけられた比呂美は、自分はとんでもない間違いをしたのではないかと感じていた。ヒロシが言ったように、比呂美にとって眞一郎が心の支えであることは間違いない。比呂美自身も自覚している。だからこそ、仲上家に来たのだ。
――両親を一度に失った比呂美は、その時、自分の目に映るすべてのモノが絶望に彩られた。何を触っても次の瞬間粉々に砕け散る錯覚に見舞われたのだった――。
……私は、今、立っているの? 私は、今、息をしているの? 私は、今、生きているの? 私は誰? 私の親は誰? 何処に居るの? 私は誰の子供? 誰と誰の愛の結晶。 『愛』?
……私を愛してくれるのは誰? 私が愛しているのは誰? 私の『好きな人』は?
……仲上くん 7年間想い続けた想い。
……仲上くん 眞一郎くん。
当時の比呂美の心に1秒先、1分先を考える余裕などある筈が無い。とにかく絶望に彩られていないモノが、何か一つ、たった一つあれば良かった。
……この想いだけ。 仲上眞一郎くん。 会いたい。 会って確認したい、絶望に彩られていないことを。 彼がその一つであることを。
「比呂美……」 照れくさそうにする彼。「あの……」 モジモジする彼。「みんな……そばにいるから……」「!」
……みんな……そばにいるから……
比呂美の両親が亡くなったあと、眞一郎が比呂美かけた最初の言葉がそれだった。
……絶望に彩られていない。 私には、まだ、ある。絶望に彩られていないモノが。 わたし、ここなら、前を向いて、生きていける。 みんな、そばにいるから。 みんな……
あの日から、もう二年になろうとしていた。 今までどれだけの愛情が比呂美に注がれただろうか。 一日一日、一つ一つ希望に彩られていくのを確認しながら、心の落ち着きを取り戻していった比呂美は、今、冷静になって考えてみた。
……私が、生きていかれるのは、誰のお陰。 私が、毎日、ご飯が食べれるのは? 私に、毎日、帰れる場所があるのは? 私が、毎日、眠られるのは? 私が、毎日、学校へ行けるのは? 私が、眞一郎くんと出会えたのは? 誰のお陰? そう、目の前に居るこの二人。『仲上寛』と『その妻、理恵子』。 私が、今しなければならないことは、 この二人の自分への愛情に対して素直になること。 私を、子供として叱ってくれる理恵子さん。 私を、信じれと言ってくれる寛さん。 ごめんなさい、寛さん、理恵子さん。そして……。 ごめんなさい、お父さん、お母さん。 ごめんなさい。 ありがとう……
眞一郎とヒロシの親子の誓いのあと、比呂美は、仲上家の人に今まで見せたことのない清々しい顔を眞一郎へ向けた。「眞一郎くん、鍵、返して」「え?」「ごめんなさい、返して」 透き通っていて力強い比呂美の声に、眞一郎は一瞬と惑ったが、比呂美の考えに気づくのにさほど時間を要しなかった。「比呂美……わかった」 優しく微笑みながらゆっくりと鍵を返す。 鍵を受け取った比呂美は、すぐさまヒロシに向き合うと深々と頭を下げた。「寛さん、理恵子さん、何かあったときこの鍵を使ってください。よろしくお願いします」 そうして鍵をヒロシの前へ差し出した。 ヒロシと理恵子は、初めて比呂美が自分の名前を呼んだことに目を丸くした。二人は、お互いの反応が気になって、ほぼ同時にゆっくりとお互いの顔をみた。理恵子が先に表情を柔らかくすると、ヒロシは比呂美に手を伸ばし軽くポンと頭に触れた。「……わかった。預らせてもらうよ」「よろしく、お願いします」 比呂美、さらに頭を下げる。 この時、ヒロシと理恵子は、比呂美の『父と母』のことを思った。 ようやく、一つ、クリア出来たかな? 二人は、天国にいる彼らに向かって心の中で報告した。 そして、この場を和ませにかかったのは意外にもこの人だった。「母さん、ケーキ、俺の分はないのか?」「ぇ、あ、はい、持ってきます」 ヒロシは、理恵子が立ち上がろうとするときに鍵を渡し、比呂美を優しく気遣った。「比呂美、顔、洗って来なさい」 比呂美はすぐ立ち上がった。 眞一郎は、比呂美が脇をすり抜ける時、自分が比呂美を好きな理由の一つを確認していた。
――第五幕『幸せをひとつひとつ』――
仲上家を出た眞一郎と比呂美は、ゆっくりとした足取りで比呂美のアパートへ向かっていた。車道に出てしばらくすると下り坂になり、正面には夜の海が広がっている。その手前で、赤く光るものがある。三叉路の信号機。 比呂美は、自分が今のアパートに引っ越すときに、眞一郎が自転車で追いかけて来てくれたことを思い出していた。 比呂美に追いつく前に滑って、自転車から転げ落ちる眞一郎。 眞一郎の元へ辿り着く前に滑って転び、眞一郎に体当たりする比呂美。 傍目からではとても感動的なシーンには映らないな、と比呂美は心の中で噴き出したが、ふたりの関係は、あの日、あの場所、あの台詞から変わっていったのは間違いなかった。「眞一郎くん、ごめんね、私……」「いや、俺の方こそ…そのぉ……」 眞一郎は、比呂美が何のことで謝っているのかすぐに分からず曖昧に返した。「うぅん。私、ちょっと浮かれてた。もちろん、その……いやらしい気持ちで……渡したんじゃないけど、鍵……その……少し期待はしていたかも……」 ごめんねの意味は、合鍵を渡して困らせてしまったことらしい。 比呂美は少し肩をすぼめた。 そんな比呂美の様子に、比呂美は今、自分の正直な気持ちを話しているのだろうと眞一郎は感じた。
……浮かれていた……少し期待をしていた……それは俺も同じだ
「比呂美……」 眞一郎は、自分も同じ思いだったことを伝えようとした時、比呂美は立ち止まり、両腕を組んだまま頭の上へ持っていって背伸びをした。そして、星を見上げたまま、話はじめた。「今でもね……たまに……考えるときがあるの……。眞一郎くんいなかったら……私どうなってたんだろうって……。それ考えると、急に目の前が真っ暗になって……深い深い闇に沈んでいく感じがして……」 眞一郎が初めて耳にする比呂美の心の闇の話だった……。
私は、暗闇の中に立っている。いや、浮かんでいるという感じ。 遠くで、潮騒が聞こえる。 ここは何処だろう? 麦端の海岸? それとも…… お母さんのおなかの中? 潮騒はだんだん、大きくなってくる。 すると、今度は、遠くで男の子の声が聞こえた。 無邪気に笑う声、痛がって泣く声。その声もだんだん、近くなってくる。 あなたは、だれ? おねえさんと、お話ししましょう? 男の子の背中が見えてきた。この方向で間違いない。男の子に近づいている。肩まで手が届きそう。手を伸ばして、その子の肩をつかむ、すると。「ひろみの、ばぁーーか」 振り向いてあかんべぇをすると、男の子は走り出した。「待って!」 姿はもう見えない。潮騒も聞こえない。 しばらく、何も見えないけど、辺りをきょろきょろしていると、 8才の男の子の声がした。「泣くな、いっしょに歩いてやる」 9才の男の子の声。「やぁーい、なきむしぃー」 10才の男の子の声。「おんなと、遊べるかよぉ」 11才の男の子の声。「バスケット、始めたんだ」 12才の男の子の声。「髪、伸ばしてるのか?」 13才の子の声。「一緒の、クラスだな」 14才の子の声。「おれ、ばかだからさ」 15才の子の声。「みんな、そばにいるから」 16才の子の声。「全部、ちゃんと、するから」「眞一郎くん?」 天井の方に、何か白いものが見える。先が5つに分かれて。『手』? その手がだんだん、下りてくる。「比呂美ィ、つかまれっ」「眞一郎くん! 私はここっ!」「つかまれっ!」 私は、必死に右腕を上へ、眞一郎くんの手に向かって伸ばす。だんだん距離が縮まる。「ここだ、もっと伸ばして」「んーーーーもう少しぃぃ」 一度指先が触れ合う。もっと、もっと腕を伸ばす。大丈夫、今度はつかめる。 もう一度眞一郎くんの手の位置を確認して、全身を使って眞一郎くんへ伸ばす。
(よし! つかんだ。…………………………あ!!!)
眞一郎の手が透け、比呂美の手が空を切る。
ぃいややあぁぁぁぁーーーーーーーー
そう叫んだ途端、比呂美はものすごい速さで下へ引っ張られる。一瞬で眞一郎の手が見えなくなる。
眞一郎くん! 眞一郎くん! 眞一郎くん! 待ってぇぇーーーー! いやぁぁーーーーーーーー! 離れたくない! 誰か助けてぇぇーーーー! おとうさん! おかあさん! ひとりにしないでぇぇーーーー! お願い! おねがい!!
かみさまぁぁぁぁーーーーーーーー!
「――んはっ!!」 比呂美は辛うじて現実に引き戻された。ようやく何かの許しが出たように。 目の周りに何かがこばり付いていて瞬きが出来ない。全身も強張って硬直したまま。 しばらくして、眼球を左右に少し動かすことが出来た。左へ、右へ。右の方を見たとき、何か黒いものが垂直に立っているのに気づいた。 何だろう。よく観察してみる。先が5つに分かれている。『手』? 私の手。 そうか、さっき、眞一郎くんをつかめなかった手だ。 力を入れてみる。動かない。もう一度やってみる。動かない。 諦めかけると、垂直に立っていた比呂美の腕が足の方へ倒れていき、ドスンという音を響かせた。その衝撃で全身の緊張がようやく解けた。「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」 呼吸を実感する。(私、生きてる)……ここは……わたしのアパートだ…… 体を少し起こし、フロアに目をやる。月の光が微かに差し込んでいる。 今度は携帯電話の画面を見る。
4月17日(木) 4:16
(夜明け前……もう一眠りしなきゃ)
……でも……怖くて……眠れない……
(ここは、現実だよね? 眞一郎くんの居る世界だよね?)
「そうなると、もう眠れなくなって……部屋中の明かり全部付けて、テレビも付けて、朝が来るの待つの……」 あまりにも生々しい比呂美の告白に眞一郎の胸に熱いものが込み上げてきた。「そうして……私の名前が書いてあるものを片っ端から探すの。生徒手帳、預金通帳、教科書に書いた名前、後輩からもらった寄書き、眞一郎くんからもらった絵本……」
―――――――――――――― ゆあさ ひろみ のために
『君の なみだを』
なかがみ しんいちろう――――――――――――――
眞一郎の目から涙がこぼれ出した。「比呂美……比呂美……そういう時は、電話しろ。いつだっていい。夜遅くてもいい、夜明け前でもいい。いつでも会いに行くよ……そばに……ぅ……いてやる……ぅぅ……ぅッ……」「もう~泣いてるの?」 眞一郎の泣き顔を覗き込むと、比呂美は少し呆れた顔をした。「だって……おれ……比呂美を支えられてない。まだまだ支えられていない」「そんなことないよ……いっぱい、いっぱい守ってもらってる……こうして今も……」 比呂美は、体の向きを変え歩き出した。眞一郎も涙を拭いながら後につづいた。「そういえば、さっき、眞一郎くんのお父さん、カッコ良かったね。思わず、お父さんって呼びそうになっちゃった」「今度、お父さんって呼んでみな。顔、真っ赤になるぜ」「……それはまだ……」(先の……話かな……) 比呂美は眞一郎に聞こえるか聞こえないかくらいの声で呟き、笑顔を星達に見せた。「え、なんて?」「ううん、なんでも」「……それと、母さんのことなんだけど……」 そんな比呂美の横顔を見ながら、申し訳なさそうに眞一郎は切り出した。「分かってる。おばさんは正しいもの、それに……ちょっと嬉しかった……叱ってくれて……」「うれしい?」「おじさんも、おばさんも、私のこと、想ってくれている。こんなに温かい気持ちになったの、父さんと母さんが亡くなってから初めてかも」「そうか……」「なんか幸せをひとつひとつ取り戻せていけそう……」 比呂美は噛み締めるようにそう囁いた。
いつもよりずっと長く感じられた比呂美のアパートへの道のり。 比呂美が、いまだに訪れる心の闇を告白してくれたことに、最初うれしさを覚えた眞一郎だったが、星を見上げる比呂美の横顔を隣で見ていると、徐々に『不安』と『後悔』が押し寄せて来た。比呂美のそういうところに全く気付いてやれなかった自分に、比呂美を守ってやることが出来るのかと。 比呂美は、何か『信号』を発していなかっただろうか?
……『合鍵』 これは、純粋に闇に対する抵抗の『表れ』。 俺が、夢の中まで駆けつけることが出来なくても、 この鍵さえあれば、物理的に立ちはだかる扉を開け、 比呂美を、抱きしめ、包み込むことが出来る。 比呂美は、この鍵を渡すことで、 自分が決して闇に取り残されない、と確信することが出来る。 『明るい場所』への道標。 比呂美は、いまだに『孤独感』を感じている。 両親が生きている俺には、理解できない感じ……『孤独感』…… 俺は、どうすればいい? 何をしてあげられる?
「ありがとう」「うん、じゃ、おやすみ」 眞一郎が踵を返し、二、三歩進んだところで、比呂美は、「眞一郎くん、待って」と呼び止めた。「ん?」 比呂美は、コートのポケットから鍵を取り出し、特に慌てる風でもなく開錠してドアを開けた。ドアノブに手をかけたまま、首だけ眞一郎へ向け、表情の無い瞳で眞一郎を中へ誘った。「入って」「え、でも……」 眞一郎は、どうするか迷った。 こういう状況は、幾度と経験していた。たぶん、今までそうだったように、比呂美はキスしてくるだろう。だが、こういう時に比呂美は何か『信号』を発しているんじゃないだろうか、とふと思った。今まで自分がすぐ浮かれてしまい、それに気づかないだけで……
……比呂美は、何か『信号』を発している?
何かを警戒するように沈黙している眞一郎に、比呂美は、大丈夫よっと少し微笑んで、「入って」と再びいった。 その言葉に反応したように眞一郎は、ロボットのように足を動かした。 比呂美は、眞一郎が自分の誘いに従ったことを確認すると、ドアの向こうへ移動し、眞一郎も後につづいた。 比呂美は、靴を脱ぐ動作に入らず、背中を壁に付け、眞一郎を招き入れるスペースを確保した。やがて、眞一郎が比呂美の正面にやって来る。 誰も手をかけていないドアが閉まり始め、通路側から差し込む光の束は徐々に細くなり、そして線になり、まもなくバタンと音が響いた。 その音を合図に、比呂美は眞一郎の肩に手をかけ、顔を寄せ、唇を押し付けた。 ほのかにアップルパイの甘酸っぱさと香ばしさが、鼻をくすぐる。 なんてロマンティックなんだろう、私たち少女漫画してる――と自分達のキスが可笑しく思えてきた比呂美は、ゆっくりと唇を離した。 眞一郎も同じこと感じたのではないだろうかと、顔を覗き込んだ眞一郎の目は、青白く光って比呂美を見据えていた。眞一郎は、瞬きせずに比呂美を見ていた。 様子のおかしい眞一郎に「どうしたの?」と比呂美が言おうとすると、眞一郎の中で、何かが弾けた。 突然、比呂美の肩を両手で壁に押し付けると、こんどは眞一郎の方から比呂美に顔近付け、唇を押し付けた。その様子は、もはや押し付けるという行為ではなかった。口と口の衝突と表現した方が正しかった。 口を相手の口にぶつけては離し、首の角度を変えてまた口をぶつける。 比呂美は、目を見開いたまま動けない。何ひとつ反応できないでいたが、眞一郎の格好をした目の前にいる『男』のやっている行為に驚きはしたものの、『恐怖』は感じなかった。 眞一郎は、五、六回、比呂美の唇をしごいたあと、動きを止めた。 比呂美の唇の裏側にわずかに鉄の味が広がる。眞一郎の眼光は、まだ、青白く鋭い。 初めて見る恋人の姿なのに、比呂美は、落ち着いていた。この年頃の女の子なら、ふつう、ガタガタ震えてへたり込んでしまうだろう。だが、比呂美は違った。眞一郎の知らないことがまだ沢山ある、自分に見せない表情がまた沢山あると感じていた比呂美は、何でもいいから、眞一郎の新しい『何か』を獲得したかったのだ。 今は、正にそのチャンス。
……眞一郎、来るなら、来なさい……私が、受け止めてあげる……
その心の声が聞こえたように、眞一郎は、比呂美の腰に腕を回し、引き寄せ、物凄い力で、締め付けた。比呂美は、「あふ」と声を漏らし、一瞬呼吸が出来なかった。 そして、眞一郎は少し腰を落とすと、比呂美を持ち上げ、靴を履いたまま、リビングへ動き出した。 流しを通り越し、リビングに入ると、眞一郎の足と比呂美の足が絡まり、一体となっていたふたりは、バランスを崩し、床にバタンと音を立てて倒れこんだ。 眞一郎は、一緒にその衝撃を受けた比呂美をまったく気にする素振りを見せず、両手で比呂美の両肩を床に押さえ付けた。 比呂美の髪が放射状に広がり乱れた。
……眞一郎、さあ、どうする?……もっと、私に見せてくれる?……
眞一郎は、今まさに、『ウサギ』を捕らえた『野生の狼』そのものだった。欲望のままこの『ウサギ』を喰らうことが出来る。どこからかぶり付こうか舌なめずりをしている状態。 比呂美は、『狼』そのものの眞一郎をじっと観察していた。そして、頭の中で、眞一郎の次なる動作にどう応じようか冷静に考えていた。 どうやったら、もっともっと眞一郎を引き出せるか。 全身の力を抜く、そうすると自分に覆い被さっている眞一郎が少し沈み込んできた気がした。 静かだった。この季節に虫の声は聞こえない。風の気配もない。月の光がカーテンの隙間から差し込んで来ているだけ。
……わたしたち……これから、やっちゃうんだ……
この『狼』はじっとしているが、何か葛藤しているのだろうか。比呂美が大きく瞬きをすると、『狼』次の行動に移った。 比呂美の肩を押さえていた手が、両胸をつかんだ。数回、強い力で上下させると、眞一郎は、その膨らんだ胸の間に鼻を埋(うず)めた。そして今度は力を抜き、優しく、感触を確かめるように揉み出した。
……眞一郎くん……コート脱がした方が、もっと気持ちいいよ……
比呂美は、眞一郎の背中にゆっくり手を回した。そうすると、この『狼』の存在が、『男』へと変化したように感じた。
……私、下腹の奥の方が、熱くなってきている。濡れてきている? 私、生まれて初めて、『男』というものを意識している。 『男の子』ではなく『男』。 私の体に、新たな生命、『赤ちゃん』を宿す切欠になる存在、『男』。 私のお母さんが、そうだったように。 私を、母親にする存在、『男』……
……私が、初めて好きになった『男』、『仲上眞一郎』。 私を心配してくれる、守ってくれる、大切にしてくれる。 私は、彼が初めて好きになった『女』。 今、こうして『私』を、求めている。 お互いに、初めての『行為』。これは、奇跡? それとも必然? 私は、この『男』に捧げてもいい、『女』を。 たとえ、たとえ、この先、結ばれることがなくても、 私は、この『男』に捧げてもいい、捧げたい。 一生、後悔しない。絶対に、後悔しない。 絶対に……
比呂美の目から涙が溢れ、やがてこぼれ、耳へ到達した。比呂美の胸を愛撫しつづけていた眞一郎は、眠りから覚めたように顔を上げ、手を離して床に付きゆっくりと体を起こした。が、まだ、比呂美の涙にまったく反応を示さなかった。
……どうだった? ……さあ、つづきをしましょう……
比呂美の無言で誘ってみたが、眞一郎は、その甘い誘いを無視するように、いきなり比呂美の制服のスカートの中に右腕を滑り込ませた。 比呂美は、一瞬何がはじまったのか分からず、無防備にその進入を許してしまった。 眞一郎の右手は、何の躊躇いもなく、比呂美の太ももをガイドに秘部へ直行した。間もなく到達すると、中指を立て、下着越しに割れ目の形状を確認しだした。 比呂美は、咄嗟に眞一郎の右腕を自分の利き腕でつかむが、まるで歯が立たない。上半身を起こし、もう一方の腕を加勢に回し、何とか眞一郎の手を引き剥がそうとした。 その時、比呂美は、眞一郎の『獣』のような目を見てしまった。 そして、比呂美は、大変なことに気付く。
……眞一郎くんが、このまま『自分』を取り戻さず、私を犯してしまったら、どうなる?
……初体験が、『湯浅比呂美』と『仲上眞一郎』ではなく、 『湯浅比呂美』と『狼男』になってしまう。 眞一郎くんは、『私を傷つけない』と、心に誓っている。 もし、自分を見失っている状態で『私』を傷つけてしまったら、 彼は、一生、後悔するだろう。心の傷になるだろう。 私が、どんなに、彼を許しても、彼は、『自分』を許さないだろう。 そうなると……私を見てくれなくなる、見られなくなる。 それは、ダメ! せっかく、お互い好きになったのに。 それは、ダメ! なんとかしなきゃ。 とにかく、この『獣』を『仲上眞一郎』に戻してあげなくては。 それから、愛し合わなくては……
比呂美は、ありったけの力を両腕に込めて、眞一郎の腕を引き剥がそうとする。 眞一郎も両腕を使い、欲望に身を任せた行為をつづける。 比呂美のスカートは捲れあがり、足の付け根まで露になっている。ドタバタと靴が床を叩く音が不規則に響いた。「眞一郎くん、待って!」 比呂美の声は眞一郎の心にまだ届かない。「もぅ……だ…め……いゃ……」 比呂美は、拒絶の言葉を使うか迷う。もう腕が痺れてきていて抵抗を続けられないと感じていた。そして、仕方なく、ありったけの力を込めて叫んだ。
ぃやめてえぇぇぇーーーーーーーー!!!
その悲鳴は、部屋に反響し何倍にも増幅した感じがした。おそらく、3部屋隣くらいまで聞こえただろう。 眞一郎は、電源を強制的に落とされたロボットのように、ピタッと動きを止めた。まるで、彼の『時』が止まったかのように…… とりあえず比呂美の声は、眞一郎の心に届いたようだ。しかし、まだ予断を許さない。何が切欠となって、眞一郎が先ほどの状態に戻るか分からない。 比呂美はおそるおそる眞一郎の下から抜け出す。ゆっくりと眞一郎の両腕を動かし、自分の両腕を床に付いてお尻を滑らす。 眞一郎はまだ動かない。 比呂美は、スカートの乱れを直しつつ立ち上がり、眞一郎の居る場所と反対側のテーブルの向こう側へ移動した。眞一郎の様子をしばらく立ったまま観察する。 眞一郎は動きを見せる気配はなかったが、雰囲気は『眞一郎』に戻りつつあった。 比呂美は、このまま眞一郎を帰してはいけない気がしていた。先ほどの『獣』の正体も『眞一郎』の一部には違いない。その証拠に比呂美は、驚きはしたものの、恐怖はまるで感じていなかった。『男の本性』だと理解していた。 ただ、『男の本性』と『女の本性』を剥き出しにしたからといって、お互いに何か得るものがあるのだろうか? 絆が深まるというのだろうか? 比呂美はそう疑問に思った。 それは、まるで『動物』ではないか。『人』には『心』がある、『感情』がある。 その上で結ばれなければ、私たちの『関係』は、終わる……。
……いま、彼を、優しく包んであげなくては……
比呂美は、コートを脱ぎ二つに折って、テーブルの上へ置いた。 左脇にある制服のスカートのファスナーに手を伸ばしはじめて気付いた、靴をまだ履いていることに。出来るだけ音を立てずにその場で脱ぐ。そして、スカートのファスナーを下ろす。
チーーーーーー
その音が部屋に広がると、眞一郎は、ハッと顔上げ比呂美を見た。「あっち、向いてて」 眞一郎は、体勢はそのままに首だけクリッと反対側の壁に向けた。比呂美は、スカートを脱ぎ、コートの上に重ねる。次にブラウスのボタンに手をかけた。 まず、袖のボタン、そして、体の前のボタンを上からひとつ、ふたつと外し、肩を剥き出させる。両腕を少し後ろに回して、ストッとブラウスを落とすと、下着を胸と腰だけに身につけた少女が、差し込む月の光に浮かび上がった。 比呂美は、ロフトへの梯子に手をかけ上りだし、数段上がったところで留まった。「服、脱いで、きて……」 その言葉に眞一郎はまたハッとし体ごと比呂美に向け、上がっていく比呂美を目で追った。比呂美はロフトの奥へ進み、布団の中へ潜り込む。 そして、上半身だけ布団から出し、枕元の奥に置いてあるティッシュペーパーの隣のコンドームの箱をつかみ、開封した。 眞一郎は、全身、冷や汗を掻いていた。先ほど、この床で繰り広げられた自分の行為がフラッシュ・バックしてきた。
……おれは、好きな女の子を、犯そうとしたんだぞ……
比呂美に許しを請いたくてロフトを見上げても、彼女の姿は見えない。全身がガタガタ震えだした。
……親父との約束は、何だったんだ。 それより、ずっと、自分に言い聞かせた気持ちは? 偽物か? 俺は、未熟だ。俺は、未熟だ。俺は、未熟だ。 比呂美を守る? 比呂美を傷つけない? 比呂美を大切にする? できてねぇーじゃん、おれっ! なにをやってるんだ、おれっ! こんなに好きなのに、どうして傷つけてしまうんだ、いつもいつも! だれか… だれか、教えろぉーー!
「比呂美ッ!!」 いきなり静寂を破る声が響く。 比呂美は、力強く自分を呼ぶ眞一郎の声にびっくりして、つまんでいたコンドームの袋を落としてしまった。 次の瞬間、ドタドタとけたたましい音が、フロアから響いてくる。「許してくれっ!」 比呂美は慌ててロフトから身を乗り出し、どうしたのか確認したが、眞一郎の姿はもうそこにはなかった。
バタン
入り口のドアが、虚しく嘆いた。
ぁあぁぁーーーー 帰してしまったぁーーーー
比呂美は、布団の上に大の字に横たわり、額に手を当てた。「ぐあぁぁーーーー」 大失敗感。バスケの試合で、このフリースローを決めれば勝負が決する時に外したような感じだった。 でも、今ここでのことで、ようやくはっきりしたのだ。眞一郎が抱えているものが、はっきり比呂美に分かったのだ。「はやく……早く……眞一郎くんの呪縛を……解いてあげないと……ね……コンドームくん?」 比呂美は、耳元にあったコンドーム袋を、ポイッと、フロアへ放った。
ペチッ
その音は、何の慰めにもならなかった。
――第六幕『男の子でしょ?』――
次の日、案の定、眞一郎は、教室の自分の席で蒼い顔をしていた。 一時限目が始まる前、比呂美と眞一郎は、自分の席にいながら目を合わせたが、眞一郎は、辛そうに瞼を半分下ろし、目線を外した。 内容が内容だけに、学校ではお互いに話す機会を設けない方がいいだろうと比呂美は思っていたが、眞一郎の方は、堪えられなかったようだ。 放課後、比呂美が体育館へ向かっている時に、眞一郎は話を切り出してきた。ここじゃさすがに朋与が嗅ぎつけると思った比呂美は、出来るだけ明るく努め、早々に眞一郎を帰すことにした。そもそも、比呂美は、眞一郎を軽蔑しているわけではないのだから。「比呂美」「……何?」「……きのうの……事なんだけど……悪かった」「気にしないで。私、気にしてない」 比呂美は、眞一郎に笑顔を向け、肩をポンポンと叩いたが、「本当に、すまない……」と眞一郎は、明るさを取り戻さなかった。「ううん、分かってる……その……ぁ……うれしかったし……」 このとき、眞一郎は、比呂美が言葉を選んで話しているのに気づいた。(比呂美が、言葉を選んでいる) まだ、晴れない顔をしている眞一郎に、比呂美は、胸めがけて軽くパンチを繰り出す。「もう、しっかりしてよね」 眞一郎、全然よろめかなかった。あの時、そのくらい堂々としてくれたら……眞一郎のそんな様子が少し癇に障った比呂美はこんど、拳を眞一郎の胸に押し当て、グッと体重をかけた。さすがに眞一郎も耐え切れず、片足を引いてバランスを取り直した。「男の子でしょ? あのくらい、別に……」「比呂美……」 眞一郎は、無理して少し笑った。「嫌いになったりしないよ、じゃ」 踵を返し、比呂美は体育館へ歩きだした。
そんなやり取りを途中から見ていた朋与は、珍しく心配した顔で比呂美に声をかけた。「喧嘩でもしたの?」「ううん、なんでもない」 比呂美のそっけない態度に朋与はカチンと頭にきた。「ちょっと待ちなっ」 比呂美の手首をつかみ、険しい顔を向ける朋与。「雷のすごかった日、私、見てたんだけど」「!」
……雷……ゲーム……お願い……キス……
睨み合う二人。そんな時、高岡キャプテンの声が響く。「女子、集合ぉ!」「練習終わっても、帰んなよ」 朋与はそう残すと集合場所へ走っていった。「…………」
バスケの練習のあと。 比呂美と朋与の二人は、シャワーを浴び、制服に着替えていた。 もう他の部員はいない。女子バスケ部の部室で比呂美と朋与の二人きり。朋与は、ずっと窓の外を眺めていた。 比呂美にとっては、特にまずいところを見られたわけでもないので、さっさとかわして帰ろうと思ったが、朋与の第一声に焦ることになった。「私……比呂美のこと……好きよ」
……な に !?……
「ずっと、守ってやんなきゃと思っていた。今も思ってる」 そう続けた朋与は、比呂美の方に振り返り、いつもの笑顔を見せた。 朋与のその顔を見て、比呂美は、ほっとした。
……友達として、好きってことか……
「私にはぁ、どうすることも出来ないだろうけどさっ、話してみなよぉ」「朋与ぉ……」 比呂美には、朋与に対して一つ負い目がある。口ではちゃんと謝ったものの、朋与は心に少し傷を負ったに違いない。「4番が好きだ」と言った嘘。今思えば、あの『嘘』が、事の発端。 あの『嘘』がなければ、眞一郎とすぐに気持ちを通じ合わせることが出来たかどうかは分からないが、眞一郎や石動兄妹、ヒロシや理恵子に迷惑をかけることはなかっただろう。 比呂美は、目を瞑って自転車を漕いでいたような過去の自分に苦笑いをした。 そういえば、最近、朋与とゆっくり話したことがなかったことを思い出す。中学からの友達、いや、悪友と言ったほうがいいかもしれない。 比呂美と朋与は、幾度となく喧嘩をしてきた。性格も考え方も違う二人。一方は、成績が良く運動神経抜群の女、一方は、悪知恵が働きド根性の女。一旦喧嘩を始めるとなかなか仲直りの糸口を見出せない二人だったが、朋与が比呂美の心の弱さを見抜いていたことが、今の二人の関係を続かせた。比呂美も両親が亡くなったことで、ようやくそのことに気づいたのだった。 比呂美の両親が亡くなった時、朋与は非常に焦った。比呂美は堪えられない、と。だから、いつも比呂美の見えるところにいて、ちょっとでも比呂美にちょっかいを出す奴がいたら、眞一郎と同じように、ぶっ飛ばしに行っていた、男女構わず。その時、よく口にしていた台詞が……「比呂美に、なんか用?」
…………… なんか用かい? ↓ ようかい ↓ 妖怪 ……
朋与が陰で『妖怪』と呼ばれる所以であった。
比呂美自身、今の眞一郎との間にある障壁について、どうしていくべきか、ほぼ解決策を見出していたが、ここは、この悪友の意見も、なんだか聞いてみたくなっていた。「私……眞一郎くんと……結婚してもいいと思っている」「い、いきなりそんな話かいッ!」 せいぜい、エッチがうまくいかない、とかそんな話だと朋与は思っていたのだろう。 朋与は、自分の鞄をつかんで帰ろうとした。比呂美はすぐ朋与の手首をつかんで引き止めた。「わかった、わかったって」 朋与は、眉毛を八の字にして、比呂美の横に腰掛けた。「で?」 比呂美は、静かに語りはじめた。「眞一郎くんと、結婚してもいいと思っている。結婚したいと思っている。そのためには、当然、お互いに社会人になって、大人にならなければいけない。精神的にも、経済的にも。眞一郎くんは、今のところ家の酒造を継ぐ気はなくて、芸術関係に進もうとしてる。とりあえず、自分の夢へ向かって歩き出してる。でも、その道のりは、おそらく険しい。だから、眞一郎くんの今の一日一日を大切にしてあげたい。後悔しないように。私のことで、つまらないことですれ違ったり、もう、したくない。眞一郎くんは、本当に私のことを大切に思ってくれている。私のことになると途端に一生懸命になる。このこと自体は、お互い好き合っているもの同士なら、当たり前の感情よね。でも、眞一郎くんは、恐れている。勘違いをしている……」「……比呂美らしぃ」 朋与は、やわらかく相槌を打った。「眞一郎くんの心の奥に何か壁みたいなものがあるの。理性とかそういうんじゃなくて。これは、たぶん、眞一郎くんが大人になるについて、段々と自分のことを理解して、気づき、乗り越えていくことなんだと思うんだけど……」「だけど?」「私が天涯孤独であることと、それと、石動乃絵と一時期ぐちゃぐちゃになっちゃった私たちにとっては、少し、話が違ってくる。石動乃絵が飛び降りた夜、病院から帰ってきた眞一郎くんは、生気を失っていたって、おばさんが言ってた。……そうよね、一歩間違えば、死んでたんだから」 朋与は、比呂美の手を握る。「まず一つは、そのことが、眞一郎くんの頭の中によぎってしまう」「それが、恐れってこと?」「それと、今度はわたしのこと。両親を亡くした私が、どれだけの『孤独感』を抱えているか、それが眞一郎くんには分からないこと。分からないから、とにかく、私を守り、傷つけることを避け、大切にする。だから、私に…………私に、一歩、踏み込めない」「ふ~ん、さっきの勘違いって何?」「眞一郎くんは、『好きな女の子が、不幸を背負ってしまった』と思っている。それは、間違いないんだけどね。私の両親が亡くなる前から私のことが気になっていたって、言っていたから。でもね、今の眞一郎くんは違う。明らかに眞一郎くんの気持ちは、『不幸を背負った女の子を、好きになった』に変わっている。それに、眞一郎くんは気づいていない。」「比呂美に、二度、恋をしたか……それって、そんなに違うことなの? 好きな子が、苦しんでいるということと、苦しんでいる女の子が、好きになったっていうことでしょ?」 朋与は、比呂美から手を放した。「人が苦しんでいると、その苦しみをなんとか取ってあげたい、て思うよね。でも、その苦しみが、自分では太刀打ちできないと分かると、どうする?」「そうねぇ、一緒に楽しいことしたり、好きなことをしたり、その苦しみ以上に明るいこと考えたり……」「そうよね……それでいいんだけど……ふつうに……」「でも、そんだけ彼のこと分かっていれば、何の問題もないような気がするけど」 朋与は、少し顎を突き出して、お高く言った。「口で言ってなんとかなるなら、とっくにいちゃいちゃしているわよ」「じゃあ、とりあえず、やっちゃってみた方が話は早いんじゃない? まだなんでしょ?」「いきなり、それは……」 昨日のことが比呂美の頭の中によぎる。「いやいや、エッチしか解決策がないって言ってるんじゃなくて。そんくらいのことやんなきゃ、打破出来ないんじゃない? コンドーム、あるでしょ? 私が置いてったやつ」 比呂美は額に手を当て、首をかくんと落とした。この女が過去、とんでもないことをやらかしたのを思いだしたのだ。「朋与ねぇ~あんたっ、あんなところに置いて、おばさんにすぐ見つかったんだからっ」「おぉーまいっーがっ!」 朋与は、両手で頭を挟み絶叫した。
あれは忘れもしない春休み、朋与が比呂美のアパートに遊びに来た日のこと。 比呂美がトイレで用を足していると、その隙に朋与が本棚にコンドームの箱をさりげなく忍ばせたのだ。朋与が帰った後、理恵子が夕食のおかずの残りを持ってやってきた。理恵子は中で一服して、帰り際に……「比呂美、本棚、掃除しときなさい」と言って、ほんの一瞬比呂美を睨んだ、ような気がした。「は、はい…」 比呂美は、その日の午前中に掃除したばっかりだったので特にその言葉を気に留めずにいたが、夜、風呂上り、何気に本棚に目をやると、見たこともない背表紙の『それ』に気づいたのだ。「ぎゃぁああぁぁぁぁーーーー」
二人の女がつかみ合っているシルエットがそこにあった。「ィテテテテテ、それで没収されたんだぁ」 比呂美は、朋与の髪の毛を引っ張っていた。「それっきり、なにも」 比呂美は、首を横に振ると、朋与の髪の毛を放した。「へぇ~意外。結構、寛大なんだ」「いや、逆だと思う」「え? なんで」「中身が減れば、『やった』という物的証拠になるわけでしょう?」「それなら大丈夫ぅ、にひっ」 朋与は、人差し指を立てて胸を張った。「どうして?」「もう一箱、新品用意しとけばいいしぃ」「あんたねぇー」 まったく、その悪知恵をバスケの試合にも発揮して欲しいものだと比呂美は呆れた。「すぐ手配するねっ」 朋与に話をして、何か新しい発見があったわけではないが、比呂美の心は清々しい気持ちになっていた。朋与が最後まで話を聞いてくれたことで、自分の気持ちがそう歪んだものではなかったことに、比呂美は安心していた。比呂美は、あとは自分らしく眞一郎にぶつかるだけだ、と覚悟を決めた。「あ、そうそう、朋与ぉ」「何?」「コンドームのお金」 比呂美は、鞄から財布を取り出していた。「………………まいどっ」 朋与は親友に最高の笑顔を送った。
――第七幕『あなたの大切って、なに?』――
眞一郎と比呂美の『あの夜』からの数日間、眞一郎は、心と体の潤滑油が切れてしまったように、ぎこちなかった。それでも、比呂美がいつも通りの笑顔を向けていたことで、徐々に『なめらかさ』を取り戻していった。 比呂美も、彼が自力で立ち直ることを期待していた。 五日ぐらい経って、比呂美は、眞一郎に自分をぶつける頃合を計っていた。いつもの『寒い冗談』が眞一郎の口から出はじめているのを確認すると、よし、今日よ、と比呂美は『決行の旗』を心に掲げた。
眞一郎と比呂美は、久しぶりに一緒に歩いて下校していた。まだ夕陽は落ちていなかったが、空はきれいな茜色に染まっていた。比呂美は、夕陽が見たいと言って、眞一郎を『あの砂浜』へ誘った。 砂浜に二本の点線が徐々に伸びていく。 比呂美は、スカートの裾を絞って握り『あの地点』へ向かって歩いていく。眞一郎は、比呂美の後につづく。やがて、比呂美が足を止めると、眞一郎は、比呂美の右横に来て、止まった。「……この場所……覚えてる?」「……うん」「眞一郎くんと、私が、初めて……キスした場所」「…………」「初めてにしては、うまかったでしょう?」 ふたりは並んだまま、海を見ていた。「……わからないよ、そんなこと」「もう、キスの感想がそれ?」 比呂美は、正直に不満を漏らして呆れた。「いや……その……や……温かかった」 眞一郎は、やわらかかった、と言おうとして止めた。その言葉は使ってはいけないと思ったのだ。「ふ~ん、私は、冷たかった…かな……寒かったしね」 沈黙。ふたりは、まだ手も繋がない。 ふたりの間を、海風が疾走する。観客のカモメたちは、二人に演技のつづきを求めるように騒がしく啼いた。そんな観客に耳を貸したつもりはなかったが、ふたりの一騎打ちの始まりのゴングが鳴った。
ザッッパァァ――――ン
「…………ねえ」「ん?」 気持ちのない眞一郎の返事。「これから、私の部屋行って……エッチする?」「なっ!!」 眞一郎は、すぐさま比呂美を見て、目を白黒させた。比呂美は、海を見たままつづけた。「セックス、しようか?」「な、何だよ、急に……」 眞一郎は、比呂美と反対側の方へ体を向けた。眞一郎のそんな様子に比呂美は苛立ち、眞一郎の正面へ移動して、射抜くような目をしてこう言った。「私を……抱いてくれる?」「比呂美、どうしんたんだよ」 眞一郎は、すぐさま目線を逸らしたが、怒りのようなものが込み上げてきて、肩が少し振わせた。「私を犯して…」「おまえ! 何言ってるんだよ!」 比呂美を睨み返す眞一郎。しばらく、ふたりの睨み合いがつづいた。 比呂美は、もうスカートも押さえていない、髪も気にしていない。比呂美の心情を表したように、長い髪が水平方向へ伸び、けたたましく揺れた。 そして、この睨み合いに最初に折れた眞一郎は、とても『カノジョ』に対して相応しくない言葉を、我慢できずに発してしまった。「お前って、いやらしい女だな」 比呂美は、この言葉に反応して、目を見開いた。
……いやらしい、『女』……
こんな言葉を、こんなに早く、眞一郎から引き出せるとは、比呂美は思わなかった。眞一郎の『本音』に限りなく近い言葉。例え、自分のことを褒める言葉ではなくても、紛れもなく、眞一郎の比呂美に対する心象だった。比呂美のイメージの一面。比呂美は、芋づるの根っこをつかんだのを感じた。
……大丈夫、このまま吐き出させ、私にぶつかって来させればいい……
だが、恋人としては、この発言を許さないフリをしなければいけない。
パンッ!!
「くッ」 比呂美は、眞一郎の頬を叩いた。 眞一郎は、すぐさま目線を比呂美に向け、そのあと斜めに向けさせられた首を、比呂美の方へ戻し、睨み返した。「なんで、俺が、叩かれるんだよ」 眞一郎の右手が徐々に上がりはじめ、胸の辺りでピタッと止まる。「なによ、叩きたいなら、叩きなさい。ムカついたんでしょ。」「よせよ」「遠慮することないよ。私が『女』だから? 『カノジョ』だから? 関係ないよ」 眞一郎、右手を下ろし、横を向き俯く。「そんなこと言うのやめろっ」「あなたが言わせているんじゃない、私に、こんないやらしいこと」 眞一郎、再び、比呂美を睨む。ここからは、怒涛の言い合いが始まった。
眞一郎「言わせてない!」比呂美「言わせてる」眞一郎「言わせてねーよ。お前、おかしーよ」比呂美「あなたの方がおかしいよ」眞一郎「どこが」比呂美「押し倒した『カノジョ』を残して帰るってなんなの? バカじゃないの?」眞一郎「はあ? 『あの夜』のことを言ってるのかよ」比呂美「そうよ!」眞一郎「したかったのかよ」比呂美「そうよ」眞一郎「そんなにしたかったのかよ」比呂美「そうよ!」眞一郎「じゃあ、怒ってるんじゃないか」比呂美「怒ってるわよ」眞一郎「じゃあ、そう言えよ」比呂美「言う前に帰ったじゃない」眞一郎「嬉しかったとか、嘘つくなよ」比呂美「あなたが顔、真っ青にしてるからでしょ?」眞一郎「やさしくしたつもりか?」比呂美「いいえ、とんでもない」眞一郎「じゃあ、なんだよ」比呂美「おばさんにばれるからよ」眞一郎「な!」比呂美「あのくらいで動揺しちゃってさ」眞一郎「動揺なんかしてない」比呂美「びびって帰ったじゃない」眞一郎「びびるとかそういうことじゃないだろう」比呂美「あのとき、許してくれって言ったよね」眞一郎「ああ」比呂美「何を許して欲しいの」眞一郎「それは……お前を……」比呂美「はっきり言いなさいよ、誰も聞いてないんだから」眞一郎「お前を犯そうとしたことだよ」比呂美「ああ~そっち」眞一郎「そっちって何だよ」比呂美「てっきり、すごすご帰ることかと思ってた」眞一郎「だってお前、あんな大声で、やめてって」比呂美「眞一郎くん、何も分かってない」眞一郎「は?」比呂美「あのとき、自分でも分けわかんなくなっていたよね?」眞一郎「…………」比呂美「あのとき、私に何をしたか覚えてる?」眞一郎「……ああ」比呂美「なんで、あんなになっちゃうのよ」眞一郎「それは……」比呂美「なんで答えられないのよ」眞一郎「お前が……あんなに」比呂美「あんなに?」眞一郎「さびしい思いを……」比呂美「それは違うよ」眞一郎「え?」比呂美「ずっと自分に我慢して溜まっちゃったからでしょう?」眞一郎「な!」比呂美「性欲のことだけ言ってるんじゃないよ」眞一郎「…………」比呂美「あのとき、いろいろ限界だったんだよ、眞一郎くん」眞一郎「…………」比呂美「私も悪い。合鍵渡したり、家にまだ帰らないとか言ったり」眞一郎「それは、お前にとって、心の……」比呂美「要は、私のこと大切に思ってるのに、なんであーなっちゃうかってことよ」眞一郎「…………」比呂美「私のこと傷つけたくない、と思っているよね?」眞一郎「ああ」比呂美「私のこと大切にしなきゃ、と思っているよね?」眞一郎「ああ」比呂美「あなたの大切って、なに?」眞一郎「え?」比呂美「あなたの大切って、なんなの?」眞一郎「…………」比呂美「…………」
「比呂美が、悲しんだり、傷付いたりしないように、気遣う、こと」 比呂美、そのあと、優しい口調になった。「じゃあ、私が、笑ったり、喜んだりするように、気遣ってはくれないの?」
あぁっ……!
眞一郎に衝撃が走る。「……あのね、今の眞一郎くん見ていると、正直、つらいの」「つらいって……」「いつも、私にね、一生懸命なんだもん。見てらんない」「おれ……」 眞一郎から大粒の涙がこぼれる。 ……眞一郎を私が泣かせてしまった。でも、これでいい……
「私のこと考えると、苦しかったんだよね? 悲しかったんだよね? 好きな女の子の両親がいっぺんに亡くなって、その子から笑顔が消えて。それを間近で見てきたんだもんね。一生懸命にもなるよね。何とかしてあげなくちゃって」 眞一郎の足がガクッと崩れ、膝が砂浜に突き刺さった。「眞一郎くん、言ってくれたよね、私が仲上家に来たとき。みんな、そばにいるからって。」「みんな……そばに……」「その言葉が……その言葉をあなたが言ってくれて、どんだけ私が……私、あなたのそばにいなきゃって思った。そうしなきゃ、生きていけないって。眞一郎くん、いま、こうして、そばにいるじゃない。もう、それだけで充分なんだよ…………充分なの……」 眞一郎の両腕も砂浜に突き刺さった。 比呂美は、そんな眞一郎に覆い被さるように優しく体を寄せた。
「もう……昔の私は見なくていいんだよ。……今の私だけ見てほしい」
……今の、比呂美? 今、昔 昔の、比呂美 両親を亡くした、女の子 両親を亡くした、俺の好きな子 俺の、好きな人 笑顔を失った、比呂美。まるで、死人のように。 ビクビクしていた比呂美。 ずっと、好きな気持ちを閉じ込めていた比呂美。 ………… ずっと、俺を好きでいた比呂美。 ずっと、俺を待っていた比呂美。 俺は、そんな比呂美を、好きになった? 俺は、そんな比呂美を、好きになったんだ。 今の、比呂美を……
ぅうわああああああぁぁぁぁぁーーーーーーーー
ぅぅぅああああああぁぁぁぁぁーーーーーーーー
二度の慟哭。 今、眞一郎の心の奥の『壁』が砕け、ずっと溜め込んできた、『欲心』が音となって全身から放出されている。がんじがらめになっていた眞一郎の『心の光』が、ようやく全て、外へ放たれ出したのだ。『石動乃絵』は、持ち前の純真さで、このバリケードを天使の様に軽々とくぐり抜け、眞一郎の『心の光』を感じては、彼の心を照らした。『湯浅比呂美』は、眞一郎を想い続けた強固な気持ちでもって、このバリケードを一本一本引き千切り、『心の光』を解放させた。 お互いの『心の光』の全てを感じれるようになった今、眞一郎と比呂美は、一緒に笑い、一緒に泣き、一緒に転び、一緒に立ち上がって、励まし合っていくだろう。どんなに悲しい境遇であっても、お互いに好きでい続けたことが、『それ』を手にすることになったのだ。『幸せ』を――。
比呂美は、眞一郎が泣き止んでも、しばらく彼の体を包み込んでいた。 冷たい海風が吹き込んでも、ふたりにはそれを通す隙間はもうなかった。 比呂美は、眞一郎が落ち着いたのを感じると、肩に手をかけ、顔を上げさせた。ひどい顔だったが、優しく笑っていた。 比呂美も、顔に髪の毛が無茶苦茶に絡まっていた。眞一郎は、手に付いた砂を叩いて落とすと、比呂美の髪を丁寧に直しはじめた。比呂美も眞一郎の触っていない部分を自分で直した。ある程度、髪の毛が整うと、比呂美は、右手で拳を作り、眞一郎の口に近づけた。テレビのリポーターつもりである。「本当の眞一郎さん、今の心境はいかが?」「…………」 眞一郎は、そのまま黙っている。「ん?」 比呂美は、首を少し傾け、さらに覗き込む。「お前の……裸が見たい」 比呂美は、その拳を作っていた手で、眞一郎の鼻をつまみ、めっと睨んでこう言った。「……まだ、だめ」 ふたりは、睨めっこをした後、突然噴き出した。 眞一郎が先に立ち上がり比呂美に構わず歩きだした。比呂美は、そんな彼をしばらく目で追って立ち上がり、スカートを二、三度叩いて、後をついていった。
砂浜へ下りる階段を上がり、歩道を歩き、三叉路の信号を過ぎる。 しばらくして、竹林へ続く道に入った。あの『告白』の場所を過ぎ、右に折れれば、白い長方形の建物が姿を現した。 やがて、ふたりは、カンカンと鳴り響く鉄製の階段を上がり、扉の前に立った。 比呂美は、ハートの『輪っか』の付いた鍵をポケットから取り出し、ドアを開け、カレを部屋の中へ誘った。カレの本当の思いを受け止めるために……。 そのあと、一陣の温かい風が吹き込み、降り積もった桜の花びらを、一斉に天に向かって舞い上がらせた。そして、それは、決して落ちることなく、宙に散った。
――終幕『背中をポンポンしてくれて』――
窓から差し込む懐かしい光、柱の木の匂い、微かな畳の匂い、優しくむ迎えてくれた机。 ひとりの少女が、自分の背丈よりも大きい鏡に前に立っていた。服をまだ着ておらず、下着のままで。肩まで伸びた栗毛色のサラサラした髪、胸を包む純白の羽衣、引き締まった体、ぷっくり膨らんだ二つの丘に張り付いた水色の縞模様が、鏡に映し出されていた。 少女は、目線を鏡に固定したまま首だけを横に向けた。そして、左手で後ろ髪の毛先をつまんだ。こんどは首をさっきとは反対方向へ向け、右手で同じようにした。 自分自身に何かOKを出したのだろう、少女は再び鏡に向き直り、両手で自分の頬を軽く叩いた。「よし」 昨日とは違う自分に喝を入れると、その空間の外から、聞き慣れた声がやってきた。「比呂美、朝飯できてるぞ」「今着替えてるとこ」 少女は、白いブラウスを体に引っ掛け、ボタンを留めると、スカートを胴にストンと落とし込んだ。そして、左脇のファスナーを閉めた。「いってきます」 比呂美は、自分の思い出の存在にそう告げると、自分に向けてくれる温かかな笑顔の元へ向かった。
湯浅比呂美は、ゴールデン・ウィークに仲上家へ戻ってきた。 そのこと自体、時間の問題だったのだが、もうひとつ、また、麦端の民を震撼させることをやらかしていたのだった。 引越しの作業が終えた日、比呂美と眞一郎の母・理恵子は、美容室にきていた。比呂美が中学に入る前から伸ばしていた髪をばっさり切るというのだ。そのことを告げられた仲上家の人たちは、全身が凍りついた。そのとき、ヒロシと理恵子は、すぐに眞一郎の顔を注視したが、眞一郎の顔は、穏やかだった。そんな予感をもうすでに眞一郎は感じていたのだった。 比呂美が美容室に出かけるとき、理恵子は一緒について行くと言って聞かなかった。
鏡の前に座る比呂美。比呂美の長い髪がやさしく梳かされる。 沢山の思い出が詰まった髪。いつも、どんなときも自分の傍らにいて、優しく頬をくすぐってくれた髪。でも、今の比呂美には、もう必要ないのだ。それに替わる沢山の愛情を、手にしたのだから。 比呂美の髪に、銀色の切っ先が近付いていく。切っ先が二つに分かれて開き、髪を挟もうとしたとき……。「待って!」 それを制する声が、室内に反響した。 比呂美は、ゆっくり声の主に振り返ると、理恵子の目から、涙が、こぼれていた。 一筋の涙が。 初めて理恵子の涙を見た比呂美は、急に罪悪感みたいなものを感じた。自分は何かとんでもないことをしているのではないだろうかと。でも次の理恵子の言葉で、それが、幸福感へと変わっていった。「私くらい長くてもいいじゃない。髪、結んであげられなくなるわ」「……はい……そうします……」 比呂美は、そう素直に返事をした。
ゴールデン・ウィーク明けの初日、眞一郎と比呂美は一緒に登校をしていた。 いつもの変わらぬ景色、変わらぬ空気、変わらぬ道のりなのに、ただお互いの隣に大切な存在がいるというだけで、それらの全てが塗り替えられた気がした。ふたりは、朝の空気を胸いっぱいに吸い込みながら、今日一日の出来事の予想をしていた。
「また、髪、伸ばしていくんだろ?」「ん~わかんない。髪長い方が好きだった?」「まぁ~そのぉ~でも、今のもいいよ、比呂美らしくて」「それに、エッチのとき邪魔にならないしね?」「お、お前、外でそういうこと言うのは感心しないな~」「ふふ、おじさんみたいな言い方」「え、そうか?」「みんな、なんて言うかな~わくわくしてこない?」「いやーおれはなんだか怖い、もうすでに悪寒が走ってるし」「ちょっと予想してみない?」「ああ、いいよ」 ふたりの横を、軽トラックが過ぎていく。「朋与はね~先ずね、無言で私を抱きしめて、背中をポンポンしてくれて、急に鬼のような形相になって眞一郎くんを睨むの。そして、仲上君、今からちょっと顔貸してくれる? って言うの」「それで?」「それでね、体育館裏に連れて行って、朋与が眞一郎くんに愛の告白」「ないない」「これだから男の子は……朋与、中学のとき眞一郎くんのことが好きだったのよ」「え、マジ?」「………………ウソ」 眞一郎は、比呂美の肩をぺしっと叩いた。「野伏君は?」「みよきちは……ん~あいつは……いきなり殴りかかってきそうだな~」「私、止めないね」「止めてくれよー、お前しか止められないだろ?」「自分でなんとかして」 比呂美は、お高くいなした。すかさず次の人物へ。「あさみはねぇ~」……………………
神社にある藤棚が見事に咲き誇っている。その横を肩を並べて通過するふたり。 二人の予想は、半分くらい的中することとなった。
彼らの物語は、つづく……
――『あとがき』――
「カカ」と申します。最後まで読んでくださり真にありがとうございます。 生まれて初めて、文章というもので創作をしてみました。はっきり言って技術もセンスもありませんが、素人となりに勢いだけで突っ走って書き上げました。何か一つだけでも、皆様の心に残ってくれるものがあれば幸いです。 スレッドの皆様の妄想が発想の原点となっておりますので、この作品は、皆様との合作だと思っております。そういう意味で最後にこう書き記します。
お疲れ様です!
――『おまけ:実録、髪を切った比呂美への反応』――
1)朋与の場合
「仲上君、ちょっと顔貸してくれる?」「なんだよ」……体育館裏。「比呂美、髪、切ったってことは別れたってことよね?」「違うって、あれは……」「ウソ!」「なんで嘘言わなきゃいけないんだよ、あれはな」「好きなの」「え?」「ずっと、好きだったの、仲上君のこと……」「からかうなよ」「からかってなんかいない! 比呂美のそばに居て、ずっと仲上君のこと見てた……中学のときから……」「!! ……うそだろ? ……まさか……参ったな……」「どうしたら信じてくれる? キスしたら信じてくれる?」「ちょ、ちょっと待てよ。比呂美とは別れていないって」「それでもいい……私、もう止まらない」 朋与、目を閉じて顔を寄せてくる。「わっ」「眞一郎くん!」 比呂美が大学ノートを開いて立っていた。「ドッキリ」とマジックで書かれたノートを。 比呂美と朋与が、前日から考え、仕組んだドッキリだった。 比呂美はこのため、朋与の演技料の替わりに一週間、朋与のパシリとなった。 眞一郎も一日、口を利いてやんなかった。
2)愛ちゃんの場合
「いっらしゃい! ひ!比呂美ちゃん!」 悲鳴に近い声を上げながら愛子は、急いで比呂美のところに駆け寄った。「どうして……」というと大粒の涙をボロボロ流して泣きだした。そして眞一郎にこう言った。「あんた、1年間出入り禁止!」 もちろん、すぐ解かれることになったが……。
3)三代吉の場合
「眞一郎!!てめーーー!」 案の定、三代吉は眞一郎の胸倉をつかみ、床に押し倒した。「落ち着けって!」「お前、さんざん湯浅さんのこと泣かしておいて、何も学ばなかったのかよ。こんな奴を親友と思っていた自分が情けねーわ」 売り言葉に買い言葉、この取っ組み合いが意外と長くつづいた。周りに居た男子生徒五、六人でもなかなか二人を止められず、先生に見つかり、二人は生徒指導室送りとなった。
4)あさみの場合
「私、やっぱり仲上君のこと見損なっちゃった」 その日の午後。「私、やっぱり仲上君のこと見直しちゃった」 なんなんだ。
5)石動乃絵の場合
「あなた……仲上君と、エッチしたでしょう?」 比呂美、全身赤面。
――『続編予告』――
愛子と眞一郎は「ファースト・キス」を隠したまま、 それぞれの恋愛模様を描き続けていた。 ある日、乃絵から呼び出された眞一郎は、 心揺さぶられる事実を知ることになる。 いずれ直面するはずの試練に、悶える眞一郎。 二人の居場所を侵されたと、苛立つ比呂美。 まだまだ大人になりきれない二人に、母・理恵子は……「あなた、カノジョ、失格よ」 今だからこそ、眞一郎は、比呂美にラブ・レターを出す。
「トゥルー・ティアーズ・アフター ~ファースト・キス~」
「春雷」続編。本編のその後を描いた、こころ温まる物語。……どうしても、最初に、見せたかったんだ……
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