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涙を流すには…

「雷轟丸とじべたの物語、できた…」
「ありがとう、眞一郎」
乃絵はしっかりと目を見て、絵本を受け取る。
「俺は飛ぶことを決めた」
「…」
黙って眞一郎の言葉を待つ。
「誰からも逃げない、どんなに困難でも…。だから、言うぞ…。
 俺はこれ以上お前とは付き合えない」
「…」
それは自分でもわかっていた。
しかし、改めて眞一郎から言われた言葉は、深く心に突き刺さった。
絵本を抱く手に力が入る、指先が痺れていても気付かないくらいに。
足元がぐらつくような錯覚を覚えるが、何とかその場に踏みとどまった。
「俺にはずっと昔から好きだったやつがいる。
 今まで、逃げてきた。ちゃんと向き合わなかった。
 でも、もうそんな事はしたくない。だから、お前とは付き合えない」
「…」
それも分かっていた。
あの事故の時に"あれ"を見てから、不安に押しつぶされそうになった。
祭りでは直接その相手からも聞いた。何も言い返せなかった。
「乃絵を騙していたつもりは無いけど、結果的にそうなったかもしれない。
 だから、その絵本を描いた。踊りも本気だった。俺が飛ぶところを見せたいと思った。
 乃絵が信じてくれたから俺は飛べたんだと思う。
 それは俺からのお詫びと感謝だと思ってくれていい…」
それきり、眞一郎が黙った。
乃絵の手に、ぐぐぐっとさらに力が入る。震える口を開く。
「眞一郎、私も飛びたいと思ったわ…。眞一郎の気持ちが分かったから…。
 踊りを見て、眞一郎が飛んでるのを見て、私も飛びたいと思った…。
 でも、できなかったわ…。私、まだ、飛べないんだわ…。
 高いところなら、少しでも天空に近い所なら、
 眞一郎が見ているものが見えると思った…。
 見えないわ…、私には見えない…。私、飛べないんだわ…」
悲痛なまでの、叫びに似た細い声。
眞一郎が答える。
「俺は、乃絵が飛べないとは思わない」
「っ!」
その言葉に衝撃を受け、乃絵は目を見開いていた。
「乃絵は、誰の為に飛びたいんだ?」
「…」
「誰かの為に飛ぶのか? 自分の為、大切な人の為に飛ぶんじゃないのか?
 俺は…」
「待って!」
眞一郎の言葉を遮った。

「私…、飛びたくない…。そんなことなら、飛びたくない…」
想いが溢れ出そうになる。祖母の顔が目に浮かんできた。
「だめだ!」
眞一郎が押し留めた。
「それじゃあ、飛べない。飛べないんだ…。
 怖がっていたら、何もできない。俺は自分の事を認めなかった。
 自分の力が足りないと思うのが怖かった。だから、一度雷轟丸は飛べなかった。
 でも、分かったんだ。力が無くても、届きそうになくても、飛ばなきゃだめなんだ。
 俺は…、俺と比呂美の為に飛ぶ。決めたんだ」
「ぐっ」
とうとう眞一郎はその言葉を声に出した。現実が乃絵の心に突き刺さる。
「乃絵は、自分と誰の為に飛ぶんだ?」
非情な言葉が乃絵を襲う。
「今、乃絵にとって大切な人は誰だ?」
 俺が飛ぶというのは、こういうことだったんだ。
 自分が何を言っているのか、分かっている。分かっていても言わなくてはならないんだ。
 乃絵…、涙って何だ?」
「…」
かつて、眞一郎に聞いた問いが、乃絵に返って来た。
「答えるんだ。涙って…何だ?」
「瞳の…洗浄と…保湿…」
聞き取ることが困難な程に小さい声が、乃絵の口から発せられた。
「乃絵…、自分に嘘はついちゃだめだ。それでは、飛べないんだ。
 本当に大切な人、いるはずなんだ…」
その時、眞一郎の目から一滴の涙が流れた。
「っ!」
乃絵はその美しい涙を見て衝撃を受けた。
「俺は…、俺が自分に嘘をついて、大切な人を泣かせたんだ…。
 何度も、何度も…。だから、もう嘘はつかない。自分の為にも、大切な人の為にも」
そう言った時、眞一郎の目から涙がもう一滴流れた。
「乃絵の大切な人、いるはずだ…」
「…」
言葉が出なかった、
「乃絵…、自分に嘘をつかないで大切な人のことを想うんだ…」
「もう、いいわ…。眞一郎…」
乃絵には、それ以上耐えられそうになかった。逃げたい、逃げたい。
「おばあちゃん…」
「いや!」
咄嗟に否定の言葉が出た。だが、眞一郎はその嘘を見抜いた。
「おばあちゃん、だろ?」
「いや!」
否定の言葉が全身を駆け抜ける。心が拒む。

「認めなきゃだめだ」
「いや!」
乃絵の心が張り裂けそうになり、眞一郎へ怒りとして向けられた。
「そんなことを言う眞一郎なんて嫌い! さよならだわ!」
「乃絵っ!」
絵本を抱いたまま、乃絵は眞一郎に背中を向けて歩き出す。
「さよなら! 眞一郎! 湯浅比呂美と仲良くすればいいじゃない!」
自分を追い詰めるような言葉を発して、歩く速度を上げていった。

覚悟していたことではあったが、一人残された眞一郎は苦痛に満ちた表情で、
しばらくその場に立ち尽くしていた。

乃絵は、こんな時でも泣けない自分を責めながら歩いていた。
鶏小屋の前から逃げ出し、堤防にきた。
しばらく空を見上げた後、手に眞一郎から渡された絵本があることに気付いた。
ついさっき言われた言葉を思い出して、それを海へ投げそうになった。
「ぅ…」
投げることはできなかった。眞一郎が自分の為に書いた絵本。
大切にしたい気持ちと、それを忘れたい気持ちが乃絵の心で渦巻く。
眞一郎の言葉がよみがえる。
『嘘はつかない。自分の為にも、大切な人の為にも』
嘘だと思った。それは今の乃絵にはわからない言葉だった。
しかし、眞一郎の飛ぶ姿を見た後では、嘘だと思い続けることができない。
飛べない私に理解できない何かがあるの?
そんな言葉が浮かぶ。より一層胸が苦しくなる。
「ふふっ。でも、涙は出ないわ…」
泣けない自分をあざ笑うかのように呟いた。空を見上げる。
空には多くの雲が浮かんでいるが、青空も覗いていた。
眞一郎のことは今でも嫌いではない。そんな簡単に消えるような想いではなかった。

そして、あの涙を思い出す。
「眞一郎の涙は、やっぱり綺麗だったわ…」
自分の大切な人を想って流された涙。
それは乃絵にとって、まぶしくもあり、辛いものだった。

『そっとしておいて、私達…』
湯浅比呂美の涙を思い出す。

『お前の側にいることが、もう辛いんだ…』
兄の涙を思い出す。

自分には流せない涙。それをあんなにも綺麗に流す眞一郎、湯浅比呂美、兄。
「私の大切な人…」
分からなかった。自分の大切な人は、眞一郎だと思っていた。
でも、泣けなかった。本当に大切だと思っていなかったのか?否定の言葉がよぎる。
「私の大切な人…」
乃絵の体から力が抜けていく。その場に崩れるようにして座り込んだ。
ごぉっ…、風が力の緩んだ手から、絵本を奪い取りそうになる。
「あっ!」
慌てて絵本を押さえる。風でページがめくれて、ある一枚の絵が目に飛び込んできた。
「雷轟丸が…飛んでる…」
それは、天空へ向って力強く飛び立っている絵だった。乃絵の心が震えた。

「お…ばあ…ちゃん…」

乃絵の口から呟くような声が出た。

「おばあ…ちゃん…」

今度は空を見上げて呟いた。

「おばあちゃん」

しっかりと声に力をこめた。

「おばあちゃん、会いたいわ…」

乃絵はまだ気付いていない、流れ始めた涙に。

「大好きな、大好きなおばあちゃん。私、寂しいんだわ…」

寂しい、その言葉を祖母の死以来で始めて声に出した。
自分を理解してくれた祖母の笑顔が浮かんでくる。

『乃絵は、泣き虫さんだからねぇ』

「おばあちゃん」

乃絵はまだ空を見上げている。風が止んだ時、ある音が聞こえてきた。

  ぽっ…ぽっ…。

何の音かわからなかったが、襟の辺りから聞こえている。

  ぽっ…ぽっ…。

下を向いてその音の元を確認しようとした。

  ぽっ…ぽっ…。

コートに水滴が落ちていく。

  ぼっ…ぼっ…。

気が付くと、視界が歪んでいた。

「なみ…だ…」

乃絵は自分が涙を流していることを初めて認識した。風が少し強くなった。
「ありがとう、眞一郎…」
涙を流しながら感謝の言葉。空を見上げる。
「おばあちゃん、私、大丈夫だから。今まで、ありがとう…」
自分を見守る祖母の姿が遠ざかる。最後にもう一度笑顔を見た気がした。
呪いなんて自分でも信じていないことを言った。
眞一郎の心に湯浅比呂美がいることに気付いても、自分に嘘をついた。
その度に祖母の写真に謝ってきた。
『乃絵、嘘ばかりついていると、本当の嘘つきになっちゃうよ?』
祖母の言葉がよみがえってきた。祖母がいないのに、いると思いたかった。
眞一郎に嘘をつかせようとした。
嘘が大嫌いだった自分が、一番嘘をついていた。だから、人の嘘を聞きたくなかったのだ。
「おばあちゃん、もう私嘘つかないわ。だから、大丈夫…」
涙が止まらない。
「私が嘘をついていたから、何も見えなかったんだわ…
 だから、前を向いただけでは飛べなかったんだわ…」
乃絵は呟く。やっと自分の心に向き合うことが出来た。
大切に思っている祖母、眞一郎、失いたくないと思った。それが嘘を呼んだのだ。
「私、眞一郎にいっぱい嘘をついたわ…。
 それなのに、私が飛べるはずだって言ってくれたんだわ…」
自分を理解してくれた祖母と眞一郎の顔が目に浮かぶ。
「おばあちゃん、眞一郎、大好き…」
言葉が風にかき消された。
「眞一郎ー!」
風に負けないように叫ぶ。
「ありがとーう!」
心から叫ぶ。涙は止まっていた。

嘘は必要無くなったが、祖母と眞一郎が失われたことは事実だ。
それを受け止め、しっかりと両足で立ち上がる。
前を見据えた瞳には確かな力が宿っていた。

「私、飛べたわ! 見た? おばあちゃん! おばぁ…」
今度は自分でも涙が溢れてくるのが分かった。
「あ…嬉しくて、涙が…」
乃絵の笑顔が陽の光に照らされた。手には絵本がある。
頭を振ると、風に流されて飛び散った涙の滴がきらきら光った。
「ふふふっ、とても綺麗な涙だわ…」
涙が止まった。ごしごしと子供の様な仕草で拭う。
「あははっ」
踊るようにステップを踏みながら、乃絵が歩いていく。

       ・
       ・
       ・

-後日談-

「ホントかよー?」
「マジだって」
2年生のバッジをつけた男子生徒が、並んで1年生の教室に近づいてく。
「あれだろー?」
「ああ」
「最近も噂聞くけどよー」
「全部否定されたヤツな?」
「否定されて噂になるってのも、変だけどな?」
「まぁな。でもよ、見れば分かるって」
「それがイマイチ信用ならねんだよなー」
「今まで俺がそっちの話で、嘘言ったことねぇだろ?」
「………まぁ…な」
「だろ?」
「でもよー」
「おっ! 来たぜ」
「あ? ぇ…」
丁度教室から出てきた"噂の主"が見えた。どうやら、友達と一緒らしい。
声が近づいてくる。
「あははっ」
「あははっ」
「そうだっ、どうかな? さっきの?」
「止めてって、何回も言ったわ」
「みんなで決めたんだよ? カワイイじゃない?」
「今まで言われたことないわ」
「名前もいいと思うんだけど、そっちの方がそれらしいでしょ?」
「…よく分からない」
「だ・か・ら、決めたんでしょ? あきらめて?」
「ん゛~ん゛」
「睨んでもダメよ? 怖くないし」
「ん゛っ」
「ぷぷ、面白い顔ぉ」
「あっ! それも失礼だわ!」
「だぁってぇ、自分で見たこと無いでしょ?」
「無い…」
「カワイイけど、面白いのよ~。ぷぷっ」
「あっ! どうしてまた笑うの?」
「ごめ~ん、思い出しちゃって―――」
楽しそうに話しながら、その女子生徒二人が遠ざかっていった。
笑ったり、少し怒って見せたり、拗ねたりと表情が豊か。
しかし、その可憐な顔にはあどけなさだけでなく、何か別の雰囲気も漂わせていた。
どうしても目が離せなくなる、何か。

「な?」
「…あ…あぁ」
「納得できたか?」
「…まぁな」
「別の噂、知ってっか?」
「1年で今年の花形だったヤツと、一時期付き合ってた噂だよ」
「知ってる」
「ソイツは今、別の女だぜ?」
「は?」
「しかも、祭りの少し後で入れ替わりだそうだ」
「何だそれ?」
「ま、そっちは本題じゃねぇ。肝心なのはフリーだってことだな」
「そうだな…」
「でもよ、何人かトライしたらしいけどよ。瞬殺らしいぜ?」
「何でだよ?」
「好きな人がいるわ、だと」
「はぁ? フリーじゃねーだろ、それ」
「相手は今年の花形かって聞いたら…」
「ら?」
「ノー、だと」
「当然だわな」
「それが、そうでも無いらしくてな…」
「意味がワカラン」
「でな?―――」
その少女の噂話をしながら、自分達の教室に帰っていった。

「で、ど~お? 今度の日曜?」
「行く! 絶対に行くわ!」
「そうくると思ったんだ~」
「とっても楽しみだわ!」
両手を合わせて、笑顔で話す少女。
ある日からそれまでとは別人の様に朗らかな表情で登校し、あっという間に人気者になった。
瞳に宿る光、愛らしい顔と仕草。どれをとっても魅力的で周囲の視線を集めた。
まれに周囲を驚かせる言葉も、今ではその外見的な魅力とは別な地位を占めている。
いつも楽しそうに周りを笑顔にして、自分自身がその輪の中心にいた。
既に過去の噂をする者はいない、というよりも周りが積極的に否定したのだ。
少女が何も言わなくても、自然と悪い噂は消えていった。
その代わり否定されたということも噂になるくらい、注目を集めている。


幸せそうな少女の笑顔が、暖かな春を予感させるように咲いていた。




乃絵主人公で書きました。自分ではこの流れでしか涙を引き出せなかったです。申し訳ない…
本編ではどのような涙を流すのでしょうね。もっと綺麗な話を期待してます

容量制限ですか…。ちゃんとした後の話の続きは↓
いくつかさせました

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最終更新:2008年03月26日 20:05
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