ある日の比呂美5



眞一郎の口から吐き出された息が、一瞬だけ彼の周りを白く染めて、すぐに消える。
「……寒っ」
ブルッと身体を震わせて、手の平で肩の辺りを擦ってみるが、コートの上からではあまり効果は無かった。
……比呂美の部屋の前で彼女を待って、もう一時間になる。
夕食には来ないだろうと思っていたが、こんな時間までどこにいるのだろう……
……何かあったら……と心配になる。
だが、電話には多分出てくれないだろうし、闇雲に探し回っても出逢える確率は低いだろう。
(ここで帰ってくるのを待つしかない)
筒状になっているコートの襟に首を埋め、壁にもたれ掛かったその時、ポケットの中で携帯が暴れだした。
(! ……比呂美)
急いでそれを取り出し、開いてみる。
しかし、画面に表示されていた文字は「着信 野伏三代吉」だった。
落胆しつつ、通話ボタンを押す。
「……もしもし」
《眞一郎。お前、今どこに居んだよ》
三代吉の声は不機嫌で、電波の向こう側の態度は、明らかに喧嘩腰だ。
どこでもいいだろう、と返す眞一郎だったが、三代吉は引き下がらない。
《どこに居るって聞いてんだよ!》
「…………」
……まぁ、三代吉と喧嘩してまで隠すことではない。
そう思った眞一郎は、比呂美の部屋の前で彼女を待っていることを、素直に話した。
《……なんだよ……そうなのかよ……》
三代吉の態度が急に柔らかくなり、「だったら、まぁ、別に」などと話し方がトーンダウンしていく。
一体、何なんだ?と眞一郎が訝しんでいると、電話の向こう側が騒がしくなった。
《ちょ、愛子…よせって……》
《いいから貸しなさいっ!》
愛ちゃんが隣にいるのか……と思った瞬間、受話口から凄まじい絶叫が響いた。
《こらあああ!!しんいちろおおおおっ!!!》
反対の耳まで突き抜ける愛子の怒鳴り声。脳みそが振動するような錯覚を、眞一郎は覚えた。
《あんたっ!比呂美ちゃん泣かせたら……ウチの店、出入り禁止だかんねっ!!》
何故、自分が比呂美を悲しませていることを知っているのか?とは思ったが、
延々と続く愛子の説教を聞いていると、そんな事はどうでも良くなってしまった。
……三代吉と愛子が、自分と比呂美を心配してくれている…… それだけは、ちゃんと理解できたから。
《眞一郎!聞いてんのっ!! ……ちょっと、三代吉っ…まだ終わってな………》
どうやら三代吉が携帯を取り返したようだ。
《お~い。耳、大丈夫か?》
普段と同じ三代吉の声。その後ろから聞こえる愛子の怒声。……なんだか勇気づけられる。
「三代吉…………ありがとな……」
ヘヘッと照れくさそうに笑ってから、三代吉は「俺たち『親友』だろ?」と言って電話を切った。
(…………ありがとな……二人とも……)
携帯を畳んでポケットに戻す。
待っている間はそれを握り締めて、勇気を少し分けてもらおう…… そう眞一郎は思った。

    カン  カン  カン  カン

スチール製の階段を登ってくる足音が聞こえる。
眞一郎が視線を廊下の奥に向けるのと同時に、そこに少女の影が現れた。
「…………眞一郎くん……」
無視されることを覚悟していた眞一郎は、比呂美が普通に自分の名を呼んでくれたことが嬉しかった。
と同時に、こちらを見つめる瞳の輝きに驚く。
いつもの比呂美に……いや、一年前に竹林で出逢った比呂美に戻っている。
「…………比呂美……」
今朝、生徒玄関の前ですれ違ってから今までの間に何があったのか……それは分からない。
でも、今の比呂美なら、自分の話を聞いてくれる……受け入れてくれる。
朋与とちゃんとするまで、全部は話せないけど……今、話せることは言わなきゃならない。
…………
眞一郎は壁から身体を起こすと、近づいてくる比呂美に正面から向き合った。

相手の雰囲気が違うな、と感じたのは眞一郎だけではない。
比呂美もまた、目の前の眞一郎が、昨夜、自分の前から逃げ出した彼とは違うことに気づいていた。
「合鍵あるんだから、入って待ってればいいのに」
「…………」
眞一郎は黙って首を横に振った。
……そうだった。眞一郎はそんな無神経な事が出来る人間ではない。
鍵を開けて「入ったら?」と誘っても、眞一郎は応じなかった。
「今日は……ここで」
「…………そうね……」
シチューの材料が入った袋だけを中に入れ、再び扉を閉めると、比呂美はそこに寄り掛かった。
「何?」
わざわざ来たのだ。話が……大事な話があるのだろう…… 比呂美は眼で眞一郎を促した。
刹那の躊躇いの後、眞一郎の唇が動く。
「明日、朋与と会ってくる」
視線を絡ませた状態で放たれたその言葉が、比呂美の鼓動を急激に早める。
……覚悟していたことなのに…… やはり、気持ちを完全に制御するのは難しい。
「……うん……」
そう短く返事をするのが精一杯…… それでも、比呂美は視線を逸らさなかった。
「ちゃんと答えを出してくる。……今は…それしか言えない」
比呂美は嬉しかった。
朋与に会って答えを出す…… この短い言葉を告げる為だけに、眞一郎が自分を待っていてくれた事が。
時々間違ったり迷ったりしても、『仲上眞一郎』は『湯浅比呂美』に、ちゃんと向き合ってくれる……
それを、改めて確認できた事が……
だから自分も言わなければならない。『湯浅比呂美』が何を望み、どう行動するのかを……
…………
「……一つお願いがあるの」
「?」
呼吸を整えてから、比呂美は今の想いを解き放つ。
「どんな答えでもいいの。答えが出たら……私にも言いに来て。待ってるから」
「……比呂美……」
「…………待ってるから……」
比呂美の顔には、何の色も無かった。涙も、笑顔も、苦しみも無い……透きとおった表情……
この決意に色を塗ることは反則だ…… 比呂美はそう思った。
朋与のシュートを邪魔したくない。卑怯な真似をしてはいけない。
眞一郎にもその気持ちは伝わったようだった。
「うん」とだけ返してきた眞一郎の顔もまた、内に秘めた感情を隠しているように見える。
…………
鎖のように絡み合った視線を、無理矢理に引き千切る二人。
眞一郎はそれ以上喋ることは無く、無言で階段の方へ向かっていった。
遠ざかっていく背中を、比呂美は見つめる。……帰ってこないかもしれない背中を……
(シチューは……明日にするから……)
心の中でそう呟き、目を閉じてささやかな『願掛け』をする。
(帰ってきて)……そんな切ない想いを込めて……
…………
「比呂美!」
その声にハッとして、比呂美は閉じていた目を開いた。廊下の端……階段の手前で眞一郎がこちらを見ている。
「……行ってきます……」
「!」
鼓膜を通して心へと響く、何気ないその言葉。
『行ってきます』…… 当たり前の挨拶が、比呂美には重い意味を持っていた。
(……だめ……泣いちゃ…………だめ……)
反則だ……フェアじゃない…… そう思っても、涙腺はいうことを聞いてはくれなかった。
溢れ出す涙と共に、比呂美の唇から漏れ出す『当たり前の挨拶』…………
「……行って……らっしゃい……」
小さな……とても小さな声で紡がれた想いは、眞一郎の耳に届いただろうか?
顔を伏せて階段を降りていった眞一郎の様子からは、それを推し量ることは出来なかった。
一人その場に残された比呂美は、また瞼を閉じて『想い』を心の中で唱えはじめる。
(……待ってる……私……待ってるから……)
離れていく眞一郎の気配……
カン、カン、と鉄の階段が打ち鳴らされる音が消えるまで、比呂美はその場から動かなかった。


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最終更新:2008年05月02日 13:09
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