アパートの
帰り道では、眞一郎が旅行の話を続けていた。
「でも温泉でもいいかな、て気もするんだよな。一生分頭使った疲れを温泉で
ゆっくりと
取るのもいいよなあ」
「一生分って、大袈裟すぎ」
「しかし朋与が推薦さっさと決めるとは思わなかったな。ちょっとショックだぞ」
「朋与の行く所は麦端からの実績も多いから。高岡キャプテンもそうだし」
「・・・・すっげえ危険なタッグが結成される気がする」
「キャプテンはいい人だよ。そりゃ、ちょっと野伏君や愛ちゃんには迷惑かけてるけど」
比呂美はルミの名誉のため、最大限控えめな表現をした。
「いや、いい人なのはわかるけどさ・・・・それはそうとお前はどこか希望無いのか?あまり
話しにも参加してこないけど」
「うーん、眞一郎くんと一緒ならどこでもいいかな」
比呂美の言葉に眞一郎は赤くなる。この辺り、眞一郎はいつまでも変わらない。比呂美
が最も好きな眞一郎の美点だった。
「なあ、卒業旅行とは別に、2人で旅行行かないか?」
「え?2人で?」
「ああ、みんなとスキーに行くなら温泉、温泉に行くならスキーに行けば、どっちも行く
ことが出来る。な、そうしようぜ」
眞一郎の提案は嬉しいが、実際の所、今の比呂美は入試後の事を考える事が出来
ないでいた。
考えたくない、と言うべきであろうか。
年始に最初の兆候を感じた後、比呂美は一人で行動した。
知り合いに会わないよう3駅も先の薬局まで出かけて検査薬を購入し、自分の予感が
間違っていない事を確認した。図書室では参考書と共に医学書を手に取り、今の自分
の状態を自己診断した。
恐らくは今11週目、3ヶ月前後の筈である。まだ外見上は他人が見てわかるような変化
はない。私服もタイトな服は好まないし、制服もウェストを強く絞るデザインではないから、
もう暫くは隠していられるだろう。
問題はその先、である。いつ打ち明ければいいのか?生むべきなのか、堕ろす事が
正しいのか?
それ以前に眞一郎はどうするのか?彼の性格上堕ろせとは言うまい。考えられるの
は責任を取ると言い出すことか。進学を諦め、自分と、生まれてくる子供の為に働くと
言い出すかもしれない。
それだけはいけない!自分は眞一郎の夢を応援しようと決めたのだ。自分のせいで
眞一郎が夢を諦めるなど、絶対にあってはならない。
「――比呂美?比呂美?」
「え?あ、ごめんなさい。えーっと、2人で旅行よね?うん、私も行きたい」
「どうしたんだ?最近ぼんやりしてる事が多いぞ」
「ごめんなさい。やっぱり、少しは受験勉強が響いてるのかもね」
精一杯明るい笑顔で眞一郎を安心させる。
眞一郎は議論の余地無く比呂美の幸福を最も願う一人である。しかし、悲しいかな今
の比呂美の苦悩を察するにはあまりにも若すぎた。気にはかかるものの、この笑顔が見
れる間はまだ心配ないだろうと思った。
そして2人は部屋の前に着いた。
「いつもありがとう、眞一郎くん」
比呂美がいつも通りの礼を述べる。いつもの眞一郎なら
「こんなの礼を言われるような事じゃねえよ」
と、謙遜して見せるのだが、今日は
「なあ・・・・部屋、上がっていいか?」
と言ってきた。比呂美が一瞬身を固くする。アパートまでのエスコートの後、上がっ
てお茶を飲むのはほぼ毎回の事である。眞一郎がわざわざ部屋に上がりたいと言い出す
のは、彼からの「サイン」なのだ――
「ごめんなさい。やっぱり今日、疲れてるみたい。今日はここで失礼させて」
「え・・・・あ、いや・・・・」
今まで拒否(こば)まれた事がない眞一郎が、戸惑った反応を見せる。
眞一郎の表情に比呂美は思わず後悔しそうになるが、別の想いがすぐに上書きする。
「それに、まだセンターが終わっただけなんだから。まだ試験が全部終わるまでは、ね?」
「あ、ああ・・・・そうだよな。ごめん、俺、ちょっと気が抜けてたみたいだ」
――謝らないで。
「――比呂美?」
「ううん、なんでもない。ね、2人だけの旅行、楽しみだね」
「ああ、必ず行こうな!」
眞一郎が部屋を離れるのを見送ってからドアを閉める。
そのままドアにもたれかかり、玄関にしゃがみこんでしまう。自分が肩で息をしている
ことにも気付かない。
(隠し切れない)
比呂美が考えたのはまずその事だった。
あと一ヶ月もすれば段々腹も目立ってくる。服を着ていればともかく、卒業旅行などで
皆で風呂にでも入ればとてもごまかせない。
眞一郎のこともある。今日は帰らせることが出来た。受験が終わるまで、再び今日の
ような事を言ってくる事もないだろう。
しかし、終わったら?拒否み続ければ眞一郎も不審に思うだろう。まさかとは思うが、
愛想尽かしされる事も、絶対にないとは言い切れない。朋与やルミから、
『一度体を許したなら、男は頭じゃ繋ぎとめられない』
と、何度も脅されてきた。その時は聞き流していたが、今になって不気味なまでに現
実味を伴ってくる。
しかし、だからと言って今打ち明ける事は論外である。今打ち明けた所で周りを動揺
させる以外に何も起さない。
今のうちに、人知れず中絶・・・・だが比呂美は、この選択肢を意識的に排除している。
比呂美は既に、この新しい命に対して愛情を感じ始めていた。愛する男との間に受け
た生である。消す事など出来る筈もない。むしろ、自分の命に替えても守り抜くつもり
であった。
しかし、ならばどうすればいい?比呂美の思考は完全に出口を失っていた。
「誰か、助けて・・・・・・・・」
思わず、声に出した。
脳裏に人の姿が浮かんだ。顔はよくわからない。母親に似ている気もするが、違う気
もする。
その影は比呂美を優しく抱き寄せた。何も言葉はかけないが、頭を撫で付けてくれた。
比呂美の不安が少しだけ癒された。もしかしたら自分は独りではないかもしれない。
そう感じることが出来ただけでも気持ちが楽になった。
比呂美は立ちあがった。今は目の前の試験だけを考えよう。それから後はそれから考
える。順番を決めて、ひとつづつ。最後に全部ちゃんと出来ればいい。
何一つ問題は解決していないが、今の比呂美は、悲観的ではなかった。