true MAMAN 最終章・私の、お母さん~第八幕~


 朋与が眞一郎に感情をぶつけた日から、二日遡る。
 理恵子は比呂美の病室にいた。
 前日の、自分が帰った後起きた件については既に医師から聞いてい
る。
 聞いて尚、比呂美にかける言葉がなにもなかった。
 どうすればいいのかわからない。何を言えばいいのかわからない。
 花を生け、窓と反対側に飾る。外の雪はなるべくなら見せたくな
い。
「・・・・お花、ここに飾るわね。少しは華やぐでしょう」
 花は赤いガーベラだった。香里の好きだった花である。比呂美が好
きな花かどうかはわからないが、嫌いはしないだろう。
(私は、この娘の好きな花すら知らない)
 理恵子は、自分が比呂美の事を何も知らないのだと思い知らされて
いた。この二年間で比呂美の理解者になれたと少しでも考えていた事
が、ただの思い上がりでしかなかったと、このたった二日間で教えら
れた。
「・・・・お母さんの好きな花です」
 比呂美の返答も当たり障りのないものである。言外に自分の好きな
花とは違う事を匂わせる。
「比呂美ちゃんはどんな花が好き?」
 比呂美の気を紛らわせる為に、話を続ける。
「・・・・桜」
「え?」
「桜の花が好きです。お花見で見たような」
「ああ、桜ね。持ってきてあげたいけど、少し早いわね」
 手に入るものであれば飾れば少しは気分も晴れるかと思ったが、こ
れではしょうがない。
「早く元気になって、また皆でお花見に行きましょうね」
 理恵子は努めて明るくそう言ったが、比呂美の返事はない。
「そうだ、お見舞いにもらったメロンがもういい具合に冷えてる頃だ
わ。ちょっと待ってて、切ってくるから」
 そう言うと理恵子は冷蔵庫からメロンを取り出し、給湯室に向かっ
た。
 給湯室で大きくため息をつく。空気に耐えられずに逃げてきたのだ。
 昨日は家に一度戻ったものの、一人にしておくことが不安で、結局
午後には病院に戻ってきた。そこで医師から事を聞かされた。
 ショックだった。眞一郎の独断もだが、それに対し比呂美が流産を
望むような発言をしたことが理恵子には衝撃だった。理恵子が眞一郎
を身篭った時、そんな事を考えた事はない。
 比呂美と同じ経験をした身として、それだけは香里よりも自分の方
が比呂美に近いと自分に言い聞かせていたが、それも自信がなくなっ
てしまった。
「香里ならこんな時なんて言うだろう」
 何度この問を繰り返しただろう。
 香里の言葉なら耳を傾けてくれるかもしれない。少なくとも、同じ
事を言っても比呂美の受け取り方は全く違うものになる。
 香里ならもっと上手くやれる。
 私の言葉は届かない――。
 メロンを切り、病室に戻る。
 比呂美は暫らくメロンを見つめていたが、やがておずおずと手を伸
ばし、食べ始めた。
 理恵子は内心でホッと息をついた。とりあえず物を食べてくれるの
はいい事だ。
「少し冷やしすぎたかしら?」
 訊いてみる。
「いえ・・・・」
「もし気持ち悪くなったらすぐに言ってね」
「はい・・・・」
「まだあるから、もっと欲しかったら遠慮なく言ってね」
「いえ・・・・もう結構です」
「そう・・・・それじゃ、お茶、淹れてくるわね。ハーブティーでいい?」
「あの・・・・」
「ん、何?何か欲しいものある?」
「すいませんけど、これ食べたら、少し眠りたいです」
 遠まわしな、しかし明確な拒絶だった。
「あ・・・・そう、それじゃそれ、片付けたら帰るわね」
 理恵子はそれだけ言うのがやっとだった。



 翌日、理恵子が病室を訪れた時、比呂美は眠っていた。
 その場にいた看護士に話を聞いてみたが、引継ぎ記録にも特には何
も書いていないとの事だった。
 それでもこの時間に寝ているというのは、恐らく夜あまり眠れてい
ないのだろう。食事は残さず食べており、点滴等による栄養の補給は
考えていないが、あまりに精神的に不安定な状況が続くのであれば、
カウンセリングを検討するとの事だった。
 不眠は心配だったが、眠っている事にはむしろ安心した。起きて、
今にも泣き出しそうな比呂美を見るのは、正直辛いものがある。
 花を生け直し、布団を掛け直して枕元に座る。
 頬に涙の跡が残っている。
 それを見ただけで、理恵子は胸が裂かれるような思いになる。
「ごめんね・・・・」
 小さな声でそれだけ言う。自分は何の力にもなれない。比呂美が両
親を失ってからの一年半、自分は比呂美を労わるどころか、ひたすら
に追い詰めた。危うく取り返しのつかなくなる所まで追い詰めてし
まった。いや、危うくではない、完全に踏み外していた。後遺症も、
消えない傷も負うことがないなど幸運に過ぎない。
 それから二年、理恵子はそれを償うべく比呂美に接してきた。香里
であればしてあげたであろう事をし、香里の代わりに教えられること
は出来るだけ教えた。失ってしまった一年半の分まで、比呂美に接す
るようにしてきた。
 だが、それが次第に変わってきた。気がつくと理恵子は、自分に娘
が生まれたらしてあげたかった事を比呂美にしてあげたいと思うよう
になっていた。いつの間にか比呂美が自分の娘のような気持ちになっ
ていた。
 これはきっと罰が当たったのだ。分を越えた望みを持ってしまった
自分に、神様が怒ったのだ。こうしてあの一年半が、なかった事に出
来る筈などないと突きつけているのだ。
 思えば眞一郎との交際の仕方について、気付いていながら黙認し続
けたのは、二人が真剣であるからと言い訳しながら、実は比呂美に嫌
われたくなくて言えなかっただけではないのか?これが香里であった
なら、あるいは自分にあのような負い目がなければ、当然のごとく節
度ある交際を諌言していたのではないか?強くなくてもいい、一言で
も注意することが出来れば回避できた事態ではないのか?
「罰なら、私にだけ落せばいいのに。比呂美を巻き込まないで」
 思わず言葉に出す。比呂美を見るが、声で目を覚ます様子はない。
 しかし、比呂美はわずかに身体を動かし、少し苦しそうな表情に
なった。
「比呂美ちゃん?どうしたの?どこか痛い?」
 理恵子が声をかけ、ナースコールに手を伸ばす。
「・・・・お母さん・・・・」
 夢を見ているだけらしい。理恵子はかつて比呂美が熱を出した時に
したように、比呂美の手を握った。
「・・・・おばさん・・・・ごめんなさい・・・・・・・・眞一郎くんの、せいじゃな
い・・・・」
 夢の中で、理恵子は比呂美の敵なのだ。夢の中でさえ理恵子に怯
え、眞一郎をかばおうとしている。
 理恵子の中で、何かが決壊した。
「香里・・・・助けて・・・・比呂美を守って・・・・」
 罰なら私が受けるから。私はどうなってもいいから。



 夢を見ていた。
 内容は覚えていない。ただ、お母さんとおばさんがいたのは覚えて
いる。
 おばさんはとても悲しそうで、私は自分のせいのような気がした。
「おばさん、ごめんなさい。眞一郎くんのせいじゃないんです」
 自分の声で眠りから引き戻された。ような気がした。目は開かない
し、身体も動かないから、まだ夢の中かもしれない。
 誰かが私の手を握っている。誰だろう?泣いている?
「香里・・・・助けて・・・・比呂美を守って・・・・」
 おばさん?おばさんなの?
 手を握る力が強くなる。手に水のようなものが落ちる。やっぱり泣
いている。
 泣かないで、おばさん。私のために苦しまないで。
 ごめんなさい。いつも私の事で困らせて。おばさんだけが悪いん
じゃないのに。素直に向き合えなかった私も悪いのに。
 いつも私を見ていてくれた。私を無視せず、ぶつかってくれた。酷
い事も言われたけれど、心配もしてくれていた。
 おばさんは悪くない。だからもう泣かないで。私の事で悲しまない
で。



 同じ日の午後。
 ひろしは仕事を抜け出し、比呂美の見舞いに訪れた。
 比呂美は目を開け、天井を虚ろな瞳で見つめていた。
「比呂美。具合はどうだ?」
 返事を期待せず、呼びかける。
 意外にも返答があった。
「・・・・いいと、思います」
 全く声に生気がない。それでもひろしは気付かないフリをした。
「あの・・・・お仕事は?」
「出先から帰るところだ。あまり、長居はできない。すまないな」
 時間を割いた、などと言えばまた謝られてしまうだろう。
「ベッド、起すか?」
 返事はなかったが、ひろしはベッドを起した。
 改めて、香里に似ていると思う。
 病床の香里もそうだが、それよりも湯浅に逝かれた時の香里だ。運
命を呪う気力すら失った、死んでいないから生きているだけの香里。
比呂美がいなければ、後を追っていたかもしれない。
 今の比呂美には同じ空気がまとわりついている。俺では何の役にも
立たないというのまで同じだ、とひろしは思った。違うのは、支える
事の出来る人物が一人ではない事、
そしてそのいずれもがその役を果たしていない事だった。
「眞一郎の言った事は、気にするな」
 ひろしはいきなり本題を切り出した。今の比呂美に社交辞令や駆け
引きは通じない。その時間も惜しい。
 比呂美は目を下に伏せたまま、肩をピクリと動かした。
「今は、自分の責任や面子に気を取られて、他の要素が考えに入らな
いだけだ。落ち着けばまた――」
「眞一郎くん、試験はどうしたんですか?」
 比呂美の関心はその一点だった。自分のせいで眞一郎の未来が台無
しになる事を何よりも恐れていた。
「ああ・・・・まあ、東京には行かなかった」
 隠しようがない。素直に認めた。
「だが、まだこっちの大学は残ってる。よくは知らんが、絵本『作
家』なら絵の勉強しかしない美大よりも、逆にいいんじゃないのか」
 どの程度比呂美の救いになるかわからないが、ひろしとしては思う
ところをそのまま伝えた。
 比呂美は何も言わない。しかし、自分を責める事も言わないところ
を見ると、多少なりとも効果はあったようだ。
「お前も、早く調子を戻して、前期は無理でも後期は受けられるよう
にしておけ」
 比呂美がやっと顔を上げた。
「今まで、一年がかりで準備してきたんだろう。今年合格して休学届
けを出す方が、来年一から準備して受け直すより、楽なはずだ」
 健康体であるなら夏休みの間に出産の予定だから、前期は休まずに
通えるかもしれないが、それは難しいだろう。
「受験なんて、もう、私は・・・・」
「生まれてくる子供なら、家内に任せればいい。あれでも昔は一人育
てているんだ。出来不出来はともかくな」
「そんな、これ以上、お家に迷惑は――」
「迷惑なんて思うものか。家族が増えるのはめでたい事だ」
 確認できた事がある。比呂美は子供を生みたいと願っている。その
事だけでも良い兆しだ。
「――今のは、親父の受け売りだがな。家内が――当時はまだ結婚し
ていなかったが、――眞一郎を身篭った時、親父にそう言ってもらえ
て、随分救われた」
 懐かしい光景が蘇ってくる。全てが良い想い出ではない。特に理恵
子には辛い事も多かったろう。
「お袋は・・・・それまではあれのことを可愛がっていたんだが、その日
から全く口を利かなくなってね。一緒に暮していても、まるで存在を
無視しているようだった」
 何も話さない。何も頼まない。何もさせない。一家が揃っている時
はまだいい。自分や、父が仕事をしている間、理恵子が家でどんな想
いだったか。一時は本気で親と別居を考えた。
 それでも理恵子は、姑と上手くやっていこうと努力した。ひろしの
前では無理にでも笑っていた。それが報われたのは、三ヶ月も経って
からの事だった――。
「すまん。つまらない話だったな。とにかく、受験の事、考えておい
てくれ」
 ひろしはいささか唐突に、話を切り上げた。この上自分まで感傷に
浸っては、冷静に事を考えられる者がいなくなってしまう。
「横になるか?」
「・・・・いえ、このままで、結構です」
「そうか」
 そこでひろしは暇乞いをした。何一つ比呂美を力づける事は出来て
いないが、最初から自分が比呂美の力になれるとは思っていない。自
分が比呂美の役に立てるとすれば、比呂美を支えられる人物の背中を
押すことだ。
「比呂美」
 帰り際、扉のところから振り返り、起したベッドにもたれかかる比
呂美に呼びかけた。
「・・・・眞一郎の事は、心配するな。お前を悲しませる事はさせない」
 そうして部屋を出、扉を閉めた。残された比呂美の表情について
は、考えないようにした。



 蔵に戻る前に、家を覗いてみた。
 居間で理恵子が、卓に突っ伏して眠っていた。
 無理もない。事故以来ほとんど一睡もしていない。
 コンビニで食料を買い込み、病室に戻った瞬間に、何か決定的な事
が二人の間に起こったことを悟った。
 比呂美は背中を向けたまま声を押し殺しながら涙を流し、理恵子は
言葉もなく立ち尽していた。
 一度病室から理恵子を連れ出し、何があったのか問いただしたが、
理恵子はただ、
「私がいけないんです」
 と繰り返すばかりだった。
 今まで止めていた煙草など吸っていた事を後悔した。もっと早く戻
るべきだった。戻っていればどうにかなったとは限らないが、それで
もその場にいれば場の空気を変える事は出来たかもしれない。
 思えば比呂美が来て以来、理恵子はいつも苦しんでいる。
 最初の一年半は取り憑かれたような愛憎の狭間で。その後の二年間
は己が行いへの後悔で――。
 彼は比呂美を引き取った決断を後悔はしていない。だがその後の、
理恵子への配慮があまりにも足りなかった事は後悔していた。
「すまないな、リコ。俺はいつも、お前を泣かせてばかりだ」
 二十年以上も年も前の愛称で呼びかけ、ひろしは理恵子の髪を撫で
た。
 そして自分の上着を理恵子に掛け、蔵に戻っていった。



 眞一郎は部屋に戻ってしまった。
 前日、比呂美の病室を追い出されてから、家に帰ってきたのは夜に
なってからだった。
 一応、三代吉がついていてくれたのだが、眞一郎は詳しい事情を話
さず、三代吉からの説明でようやく病室での詳細がわかったのだっ
た。
 眞一郎の気持ちは、男のひろしにはわかる。わかるからこそ、その
決意が最善でない事を理解させる事が必要なのだと言う事もわかる。
比呂美の幸せが責任や面子では守れないという現実を、納得させなけ
ればならない。そうでなければどんな選択をしても後悔する事になる
し、逆に納得した上であれば、後悔する選択はしない。
 眞一郎は理恵子やひろしと議論する気はないらしく、ひろしが仕事
を終えた時には食事を済ませて部屋に篭っていた。
 部屋に入って話し合おうか、とも思ったが、頭に血が上っている間
は何を言っても無駄だろうと思った。
 とはいえ、あまり時間もない。前期日程までは十日、後期日程でも
二十日しかない。比呂美が仮退院するのは予定ではあと四日、それま
でに話し合わなければいけない。
 そして、ひろしにはもう一人、背中を押さなければならない人物が
いる。
「今日、比呂美を見舞いに行った」
 そう話しかけた。
「そうですか・・・・もう目は覚ましてましたか?」
「起きてはいた。お前が行った時は、寝ていたのか?」
「ええ・・・・」
 あまり話したくないようだ。だが、話さなければ変えられない。
「あれから何か、話せたのか?」
「いえ・・・・あまり・・・・・・・・」
「何もか?毎日通っているんだろう?」
 責められてるように感じたのかもしれない。理恵子が怯えたように
肩をすくませる。
 ひろしは極力声を柔らかくして言い直す。
「いや、すまない。俺は何を話していいかわからなかったから、お前
は、どんな話をしているのかと思ってな。それだけなんだ」
「・・・・すいません」
「謝らないでくれ。責めてはいないから」
 だがひろしが何を言っても、理恵子の表情は沈みこんでしまう。ひ
ろしは内心でため息を吐きつつ、質問を変えた。
「比呂美は、子供について何か言っていなかったか?」
「・・・・・・・・」
 理恵子は無言。
「どうだ?」
「・・・・ずっと、謝っています」
「謝る・・・・」
「皆に迷惑をかけたと言って・・・・それに・・・・その、家の名前にも傷を
つけたと・・・・」
「家?うちの事か?何を馬鹿な――」
「私のせいなんです。私があんな事を言ったせいで・・・・」
 何を言ったのかはわからない。だが何の事を言っているのかはわ
かった。
「過ぎた事だ。あまり引きずるな」
「でも、そうなんです」
 理恵子は弱々しく、だが引き下がらなかった。
「私の言った言葉が、あの娘の心をずっと傷つけ続けていたんです。
忘れてるはずなんかなかった。許してるはずなんてなかった。あの娘
はただ、これ以上波風を立てたくなくて、私に合わせていただけなん
です。それを私が勘違いして、本当の親子になれるかもなんて期待し
て、一人で舞い上がって。何もわかってなかった。あの娘が一人で悩
んでいる間、私はあの娘からお母さんと呼んでもらえるんじゃないか
なんて浮かれていたんですよ」
「前にも言ったろう、それはお前一人の責任じゃない。俺達の誰一人
気付かなかったんだ」
 もう何度目になるかわからない言葉を、ひろしは繰り返す。もっと
理恵子の心に届く言葉が必要なのに、出てこない。
「結局、私はあの娘の事をわかろうとしてなかったんです。香里がい
れば、こんなことになる前に何とか出来たでしょうに」
「仮定の話をしてもしょうがないだろう――」
「私と香里が逆ならよかったのに。一人しか生きていないのなら、そ
れは香里であればよかったのに」
「おい、落ち着け。いくらなんでも飛躍しすぎだ」
「残っているのが香里なら、比呂美も心を開いてたでしょう。私と
違って眞ちゃんに辛く当たる事もないでしょう。それに、あなただっ
て――」
「もうよせ」
「あなただって香里とやり直せるでしょう!」
 ひろしは理恵子の頭に腕を回し、自分の胸の中に引き込んだ。腕の
中で、胸に顔を埋めた理恵子が小さく震えている。
「・・・・ごめんな」
 ひろしが謝る。言わせてしまった、その自分のふがいなさを。
 こんな事が起こらなければ、理恵子も考えなかったであろう。香里
が生き、自分が死んでいる世界など。ひろしと眞一郎、比呂美、それ
に香里の四人による家族の図など。
 だが、言わせてしまったのは自分の責任だ。自分が理恵子を安心さ
せる事が出来れば、こんな事を言わずに済んだはずだった。
「・・・・お前は頑張ったよ、リコ。比呂美がうちに来た時から、ずっと
な。俺はちゃんと知っているよ」
 仲上家の家長ではなく、仲上比呂志として。父ではなく、良人でも
なく、最も旧い友人として。そして理恵子に愛された男ではなく、理
恵子を愛する男として。不思議なほどにこの時、ひろしは言葉を得た。
「リコはいつも、比呂美を見ていてくれたよな。言葉はきつかったか
もしれないが、必ず、声をかけていたよな。金の相談を遠慮する比呂
美に、酒蔵の仕事をさせる事で、バイト代として金の苦労をしないよ
うにしてくれた。全部が全部善意ではないかもしれないが、ちゃんと
心配していた事、俺は知っているよ」
 腕の中で、理恵子が小さく首を振った。構わずひろしは話を続ける。
「比呂美にきつく当たった後、いつも反省していた事も知っている。
一緒に寝ているんだ、隣で眠れずに何度も寝返りを打っていること
に、俺が気付かないと思っていたか?本当ならその時に俺が何かして
あげなくちゃいけなかったんだ。駄目な男なんだよ、俺は」
 口調も、言葉遣いも、現在のひろしとは違う。学生時代の、少し優
柔不断で、しかし頑なに誠実な仲上比呂志だ。石川理恵子が惹かれ、
恋をした比呂志の声だった。
「知ってるか?お前が比呂美に家の朝食を作らせた時、俺、すごく嬉
しかったんだぞ。お袋がお前にした事を見ていたから・・・・」
 ひろしの母親は、最初から理恵子の味方ではなかった。比呂美に話
したように、結婚初期は理恵子の存在を拒絶していた。何も話さず、
目を合わせることもない。食卓には四人分の皿が並ぶが、一人は母親
にとっては透明人間だった。いないのと同じだった。
 当然、料理などさせなかった。見かねた父が台所くらいは手伝わせ
るよう意見した。
『何故私や比呂志が、あの女の作ったものを食べないといけないの』
 母の返答はこうだった。その場に理恵子はいなかったが、彼女が母
の真意を知っているのは明らかだった。
 何がきっかけで、母の態度が変わったのかわからない。三ヶ月が
経った頃、母は理恵子に夕食を作るよう命じた。
 料理は贔屓目に見ても、惨憺たる出来だった。母の前で失敗出来な
いという緊張と、不慣れな仲上家の味に近づけようとした事が裏目に
出て、完成した煮物は甘すぎ、酒が強すぎた。
 それでも父とひろしは、全部を食べようとした。ここで不味いと
言ってはあまりにも理恵子が可哀想だった。
 しかし、ひろしの母は
『不味い時は不味いとはっきり言わないと、永劫に不味い食事を食べ
る事になる』
 と斬り捨て、食卓からさっさと下げてしまった――。
 だからこそ、理恵子が比呂美に食事を任せたこと、料理に文句を言
わなかった事が、ひろしには嬉しかったのである。
「お前はもっと胸を張っていいんだ、リコ。香里だったらどう言う
か、香里の代わりに出来る事、そんなことばかり考えないで、いい。
お前が、比呂美に掛けてあげたい言葉でいいんだ。お前が、比呂美に
してあげたいことでいいんだ。それが今の比呂美には必要な事なんだ」
 ひろしは腕の力を少し強めた。
 包むように。
 消えてしまわないように。
「お前は、もう、自分を許していいんだ」
 腕の中から、ワッと声が聞こえた。
 理恵子が泣いていた。声を上げ、ひろしの胸にしがみついて泣いて
いた。
 ひろしはそれ以上何も言わず、理恵子が泣き疲れるまで抱きしめ続
けていた。


                 了

ノート
本当に仲の悪い、そして一方的に姑の強い家では、ひろし母とママンの関係のようになります。
もしママンが本当に比呂美をひろしや眞一郎に近づけたくないなら、そんな女の作ったものを食べさせません。
なので、ママンは最初から比呂美を家族として受け入れる努力はしていたと思います。
あと、理恵子の初めての夕食はエピソードに続きがありますが、それは第九幕で・・・・。
ひろしの最後の科白と、それを聞いてママンが泣くというのはシリーズ始めた時から構想していた場面です。
理恵子の「真実の涙」を書きたいというのが書き始めの動機のひとつです。

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最終更新:2008年08月03日 01:15
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