「理恵子って誰だ?」
眞一郎くんの疑問は居間の雰囲気を沈黙させたが、自分の口で破る。
「痛いよ」
おばさんが眞一郎くんの左耳を引っ張っていた。
「私しかいないでしょ」
おばさんは頬を膨らませて反発した。
「猫を被っているのかもな」
「いつもあんな感じだった。踊り場で他の大人たちと接するときも」
眞一郎くんの見解におじさんは即答で否定した。
「おばさんの写真のからあのようだと思えますよ。幼い頃から接している方々だと、態度はあ
まり変わらないし」
何か出来事がなければ改める機会はないのだろう。高校生という成長期であっても、好きな
男の子の両親の前では、誰もが似たような状況にはなりそうだ。
何があっても受け入れるしかなく反論なんてなかなかできない。
「眞ちゃんが私のことをどう見ていたかよくわかったわ」
おばさんは眞一郎くんの右耳のあたりで囁いて恐怖を煽る。眞一郎くんは震えていて、夢に
うなされそうだ。
「もっと明るい感じかなと思っていたんだ。お袋のほうから話し掛けるような。結婚後は向こ
うから話題を振ってもらうまで控えるのはわかるが」
眞一郎くんは写真のおばさんを指差しながらだ。同年代と写っているものばかりで、大人た
ちのとはないから想像しにくい。
「学校では積極的だったけどね。さすがに目上の方々には無理よ」
「でもおばさんは祭りのときの公民館で男の人たちをうまく扱っておられました。年齢なんて
関係なしに」
私が眞一郎くんを迎えにいくときに冷やかされていたときにだ。他にも酒で酔っている方々
に対しても、仲裁をしていた。私には対応できないときには、おばさんに視線を向けて助け
てもらっていたのだ。
「比呂美はああいうあしらい方を覚えないといけないわよ。まずは酒造の娘としては女将さん
のように毅然と振舞わないと。男の人に呑まれてはいけないわ」
かすかに呆れ顔で指摘された。
「慣れるようにします」
「あなたなりのやり方を身に付けて欲しいわね。そういう意味でも踊り場は練習になるわ。お
茶なら素面でいられるから」
おばさんは踊り場にも通っていたから、年季があるのだ、続きは踊り場での出来事だろう。
「親父も踊りたくなかったとは思わなかった。踊り場では立派に花形をこなしたとしか聞かさ
れていなかったから」
眞一郎くんは話題を変えた。私も知らなかったことなので、様子を窺う。
「ああいう場所では仮に俺が失敗しても立派だったと言うさ。眞一郎のことだから比べられて
いると思っていたのだろうな。俺のときとは違って、俺と眞一郎はまじめなので一致している
からだ。俺の親父は踊り場をさぼるのを武勇伝のように聞かせてくれていた。だからまわりは
さぼるなよとだけを言われていた。理恵子と千草がいるから、さぼろうとは考えていなかった。
親父は殴られようとも胸倉を掴まれようとも、さぼり続けていたからな。だが先輩方はお袋に
直談判をして、親父を踊り場に来るように仕向けてくれと頼んだんだ。お袋は親父の顔を見か
けると、踊りを話題にしていた。最終的には一緒に下校して踊り場に通うようになったのだ。
それからはさぼろうとはせずに、親父はお袋を祭り当日も見て欲しくて誘った。そんな話を以
前から聞かされていたから、親父の前でも愚痴れた」
おじさんは
ゆっくりと過去を語ってくれていた。私には初めて知る内容だった。どの世代に
も花形や仲上家に恋の話があるのだろう。
おじさんと眞一郎くんが似ているのはよくわかる、生真面目で不器用なところが典型的な職
人気質でありそうだ。眞一郎くんにはさぼる度胸はないだろうから、ひとりで悩んでいた。
「比べられているとは思っていた。失敗談なんてまったくなさそうだし、最初はぜんぜんうま
くなれなかったし。俺が花形に選ばれたのは仲上だからだ。それしか求められていないのなら、
何とかして踊り終えることだけを考えていた」
踊り終えているので眞一郎くんは苦笑いを浮かべていた。本番まではつらい想いをしていた
のだろう。私が眞一郎くんの花形を応援するのを伝えていたときに、反応が鈍かった。お父さ
んだったら、腕まくりして期待させようとしていたはずだ。お母さんは両手を合わせて成功を
願っていただろう。
「眞一郎にはあまり踊りに対して想いがなかったようだ」
おじさんはぽつりと一言を洩らした。眞一郎くんと私は息を呑んだが、おばさんは目を伏せ
ていた。おじさんはそんな私たちを見渡してから告げる。
「花形は人それぞれだ。せっかく踊るのだから何かがあったほうが良かった。来年は比呂美の
ためには踊るようだ。今年のも石動さんのためではあったようだな。理恵子から聞かされてい
るが、踊り終えてから拍手をしてくれるほどに感激してくれるなら、踊ってあげたくなるのは
よくわかる。だが自分のために何かがあったほうが良かった。そもそも祭りとは今あるものを
水に流したり、今後のことを願ったりするものだ。せっかくなのだから、来年に向けて考えて
おいたほうが良いだろう」
おじさんも眞一郎くんの踊り場のことを把握していた。ここまで踊りに対して想いがあるな
ら、おじさんのときは眞一郎くん以上のものを背負っていたのだろう。
私はスカートの上に置いている左手を眞一郎くんの太股の上に置いてみた。眞一郎くんの支
えになり切れていなかった後悔があって、来年こそは雪辱を晴らせるように誓うためだ。眞一
郎くんは私の左手に指を絡めて恋人握りをしてくれる。
「親父とお袋のときには何があったか早く知りたくなってきた」
眞一郎くんは握る力を強くしてくる。
「まずは今年のを教えてあげる。眞一郎は受動的すぎるわ。やりようによっては能動的に捕ら
えれば、現状を劇的に変えられたわ。比呂美が逃避行をせずに済むように直談判をできた。私
にはあなたたちに今まで何があったか詳しく知らないけど、花形はかなり効力があるのよ」
おばさんは優しく諭していた。過去でありながら、将来でもあるように繋がっている。
私は眞一郎くんから手を離す。眞一郎くんと私は同じ位置にはいない。
眞一郎くんを屋根の上の猫と下校中に喩えていた。でも今は私が屋根にいる。高い位置にい
ても降りて来てあげてばかりではいられない。
「私と眞一郎くんとは祭りに対しての想いが違いすぎる。今年は踊り場に誘われなくて良かっ
たかもしれない。きっと私は勘違いして、私の願いを叶えてくれて、すべての悩みを開放して
くれたと思ってしまうから」
私は両手の指を絡めて祈りを捧げた。私のために踊ったとしても、ただ眞一郎くんが踊れな
いから踊れるようになるきっかけにされるだけだったのだ。踊り場に通う間に仲が深まって距
離を縮めてくれるかもしれない。でも仲上家に居候の身である私は、地位を一気に格上げして
嫁か同程度までならねばならない。普通の高校生の恋愛をするならば内定を得てからだ。
「やはり比呂美はわかっていたようね。振袖を着て仲上家の娘としてだけ振舞うのではないこ
とを。もし眞一郎と奉納踊りの後、一緒に過ごしていたら、勘違いしてもおかしくないわ」
おばさんは自分の過去とを重ねていそうなので、私は首肯した。言葉ではなく態度で女とし
ての共通認識を確かめ合った。求める相手は違っても花形の男を得ようとしているのは同じだ。
「踊りに願掛けをしているようでわかりにくいな。踊り終えてからは達成感しかないし、他の
花形も似たようなものだと思うけど。それに最中は複数に考えられるほどに器用にできないよ、
俺には。あの状況の比呂美には難しいだろうけど、はっきり言ってくれれば参考になった」
眞一郎くんは抑揚のない口調をしていて、コーヒーを口に運ぶ余裕があった。
私だって何度も言おうとはしていた。石動純さんのことは何とも思っていないし、恋人を番
号でしか呼んでいない時点で気づいて欲しかった。それを指摘されれば白状ができたかもしれ
ない。それに同情されて私の想いに応じてくれても、さらに私は悩むだけだ。
優しい眞一郎くんは、ただ私の要望を叶えただけだと。眞一郎くん自身の判断で私の期待を
わかってもらえるまで待とうとしていたのにだ。
「踊りは本人よりもまわりのほうが多くを求めてしまうかもな。貫太郎のごとくすべてを兼ね
合わせようとしない限りは。もし眞一郎が理恵子や比呂美の要望を満たしていたのなら、花形
と仲上の両方の歴代で最高位に近い花形になっていただろう。それほどまでに難易度が高すぎ
る。でも求められているというのだけは覚えてあげて欲しい。結婚の決意はあるわけだから」
おじさんまでもお父さんの名前を出していた。私の要望をどこまで把握しているのかは不可
解だ。踊りに誘われるだけでは、石動さんと同価値でしかない。それ以上があり、結婚は結果
でしかないのだ。ある意味では通過点でもあり、今後がある。
現におばさんは花形を射止めているのに悩んでいるのだから。
「そうやって結婚という体面だけしか想定していないのが気に入らないわ。結婚なんて紙切れ
にしか過ぎないでしょう? 眞一郎と比呂美は一つ屋根の下にいるのと同じなのだから。今は
比呂美がアパートで暮していようともね」
おばさんは左の肘を机に付けて行儀を悪く溜め息をついた。そこまでがっかりしているのだ
ろう。さっき眞一郎くんが婚姻届を市役所が受理してくれないのを言っていたのにも、同じ感
情があったのだ。結論を急ぐのは血筋かもしれないと、私は心に刻んでおく。
「結婚が紙切れなんて言うなよ」
眞一郎くんは振り返っておばさんを睨む。
「婚姻届のせいで結婚できないと言っていたのは、眞一郎でしょ。じゃあ訊くけど、もし男も
十六歳で父母の同意がいらなかったら、提出していたのかしら? 経済的な理由でしていなか
ったとは思うけど」
おばさんはまったく怯まずに平然と返した。
「理恵子、結婚のことは置いておこう。お互いに解釈が違うようだし、眞一郎なりの誠意を伝
えたかったのだろう。俺は廊下にいたから、中の様子が声だけしかわからなくて、湯飲みを落
としそうになっていた。いきなりそこから話し始めるとは」
おじさんは首を右に傾けていたが、理解を示すかのように縦に下ろした。
「だって、眞一郎は私がおかえりなさいと挨拶すると、ただいまと返すけど、視点が定まって
いなかった。比呂美は見据えていたのに。まるで比呂美が承諾に得に来たようだったわ」
「それは交渉前に聞かされていたな。まあ、緊張していたんだろ。顔の締まりが悪かった朝の
様子から、帰宅後に変わるのは無理かもな」
おばさんの悲哀な感想におじさんは眞一郎くんの援護をしていた。でも眞一郎くんが承諾に
得に来る姿として認めているのではなさそうだ。私は朝の様子をさっき聞かされたばかりなの
で、眞一郎くんがいつ結婚を意識したのかを理解していなかった。下校中の海岸で家族になろ
うというプロポーズは、後押しにはなっていたようだ。
「前提として受け入れて欲しいとしか言いようがない。踊りのことを含めて俺には認識が不足
している。四人のときのことを参考にして、考えを改めるかもしれない」
眞一郎くんは結婚の意志を取り消そうとはしなかった。
ただそれだけでも私の心を満たしてゆく。
「改めるというのではなくて、眞一郎くんなりの判断を聞かせて欲しい。私は結婚そのものだ
けを望んでいるのではないから」
眞一郎くんを見つめながら、緩やかな口調で述べた。
まだ眞一郎くんからはっきりと言われていないからだ。
「眞一郎ばかりを責めるべきではないわね。いつかお母さまのようになりたいと思っていなが
ら、比呂美には何もしてあげていられなかったわね」
おばさんは小さく頭を下げた。さっきの静流さんとの遣り取りで思い出されてしまったのだ
ろう。さりげなくおじさんとの関係が好転するような状況を作り上げてくれていた。おはぎを
差し入れられるようになれれば、おばさんの評価はおじさんだけでなくまわりも高めてくれる。
「おばさんはお母さんのノートでも共著になっています。スーパーでお会いしたときにも、目
利きや安売りの商品を教えてくださいました。豚カツを揚げたいと言えば、仲上家で教えてく
れました。仲上家にお世話になってからも、お手伝いを通してさまざまなことを学べました」
あの頃におばさんに伝わっていたかはわからない。お母さんが亡くなって日々が慌しく過ぎ
ていたからだ。八歳であっても家事全般を担う私には、他人の心情まで気を回す余裕はなかっ
たし、甘えてはいられなかった。でもできないことは理解していて、おばさんの好意には素直
に応じてはいた。
「八歳の女の子が買い物籠を重そうに持っていたら、助けてあげたくなるわ。商品をあまり見
ずに買い物籠に入れているとね。それに話をしてみると、貫太郎の試合が勝つように縁起を担
いで豚カツを食べさせてあげたいなんて言われると、教えてあげたくなったわ。油を扱うのは
危険だし、揚げるタイミングは実践でしか学べないわ。ついでにから揚げやエビフライも一緒
にしていたわね」
おばさんは懐かしげに微笑を掛けてくれていた。
「私にとっておばさんは憧れです。料理はまだまだ敵いませんし、私のは自己流な部分も多く
てノートや料理本でしか学べていません。微妙な味付けには迷いがあって、私なりのやり方を
確立できていません」
お父さんとふたり暮らしのときには、お父さんは味について文句は言わなかった。おいしく
てもどこがうまいのかまで、伝えられるほどの知識がなかった。仲上家に来てからは、余程の
ことがなければ、おばさんは忠告してこなかったのだ。仲上家では全般的に薄口であるという
一言だけがあった。おばさんと一緒に台所に立つことがなく、最近になってから、おばさんの
やり方である仲上の味付けを教えてもらえるようになったのだ。
「憧れていたのなら、もっと態度で示して欲しかったな。いつも暗い顔していて俯いていたし。
感激していたように見えなかった。せめて無邪気に喜んだらいいのに」
おばさんはかすかに語気を強めていた。おばさんが静流さんに向けていたのとは異なるだろ
う。頬を染めることもなく反応が鈍かったのは自覚している。
「それは私がふがいないからです。もともと私がしっかりしていれば、お手数を掛けなくても
良かったし。自己嫌悪していても、幼いから隠せなかった」
私は顔を下げて過去の恥を告白した。
それと眞一郎くんの前でみじめな姿を晒しているのも同然だった。ちゃんとできていれば、
仲上家に来られなかったという矛盾もあって、考えがまとまらなかった。
おばさんはきょとんとしてから吹き出す。
「比呂美ちゃんはそんなことを思っていたのね。八歳だったんだから、もっと年相応に感情を
出せば良かったのに。そうすればもっといろいろ教えてあげられたのに。私自身のことしか考
えられなくても、親友の娘には何かをしてあげたくなったわ」
おばさんは口を尖らせて反論した。あの頃から私は変わらないといけないと思い詰めていた
から、他人には理解しがたかっただろう。お父さんにも泣き言を洩らさないようにしていた。
「俺は豚カツやから揚げやエビフライが食卓に並んで喜んでいるだけだった」
眞一郎くんもあのときのことを覚えてくれていた。私が揚げたのでもおいしいと言ってくれ
ていたのだ。そのときだけ私は笑顔になった。
おばさんは眉根を寄せてから、眞一郎くんの両耳を引っ張る。
「眞ちゃんがそんなことばかり言っているから、比呂美ちゃんのことがわからなくなるのよ」
「だってさ、魚や煮物が多かったから、今ならうまいと思うけど、幼い頃は肉が食べたいんだ」
眞一郎くんは痛がりながらも訴えると、おばさんはようやく離してあげた。
「比呂美は女の子だから、眞一郎とは違うようだな。貫太郎はいつも比呂美の料理を褒めてい
た。最初は惣菜や冷食ばかりだったが、少しずつ自分で作るようになった。味噌汁がインスタ
ントではなくなったのは喜んでいたよ。季節に応じて旬の食材を使って語るのが千草にそっく
りだとな。あのノートでわからない言葉が出てくると訊いてくれるので、どこまで達成してい
るかが、よくわかるとな」
おじさんは優しい眼差しで私の思考を認めてくれていた。
お父さんは私の話を遮らずにいつも聞いてくれていた。学んで得た知識を披露するのが日課
になっていたのだ。ついでにお父さんに片付けができていないのを叱っていた。
「お母さんで思い出したのですが、お母さんの着物については静流さんから提案していたとお
母さんも思っていました。本当はおばさんからだったんですね」
お母さんの日記にも静流さんからと判断しているようだった。もしおばさんからだったら、
お母さんは絶対に洩らさずに書き込んでいただろう。
お母さんの日記にはおばさんの名前がお父さんの次に出てくるからだ。
「それについては踊り場に行ってからね」