「決まったんだ……」
「決まった? 何が?」比呂美は思い当たる節がなく、訊き返した。
「決まったんだよ!」
分かんないのかよ、と少し非難めいて語気を強めた眞一郎は、比呂美の肩をゆすった。それで
も、比呂美は何のことなのか思い出せない。
「だから、なんなのよー」眞一郎がさっさと教えてくれないので比呂美もムキになる。
比呂美の態度にかちんときた眞一郎は、「ばかやろ~」と優しく言うなり、また比呂美を抱き
よせた。
「もう、ばか。お店で抱きつかないでよ」
比呂美は体をよじり、まず、店の外から誰かが覗いていないか確認した。車が一台通り過ぎた
だけで通行人はだれも足を止めてはいなかった。そして、玄関のほうに顔を向けると、案の定、
理恵子が立っていてこちらを睨んでいた。眞一郎が大声出したからかけつけたのだろう。比呂美
の背中にじわりと冷や汗がにじみ出る。とりあえず、比呂美は苦笑いして「わたしも被害者で
す」と目で訴えてみた。そうすると、理恵子も無言でこう答えた――。
(お店でいちゃつくのは止めてもらえないかしら。ただでさえ忙しいんだから。
さっさとそのバカを引っ叩いて、夕飯の支度を手伝ってちょうだい――)
それだけ伝えると理恵子はさっさと中へ引っ込んでいった。比呂美はほっと胸を撫で下ろす。
そして、眞一郎のお尻をつねった。「イテッ」と奇声を上げて眞一郎は飛び退き、「なんだよ
~」とぼやいた。
「だからっ。何が、決まったのっ」と比呂美。
比呂美がまだ思い出さないことに愕然となった眞一郎は、一瞬固まったのち、大声を出した。
「ブルーレイだよっ!
ふたりでお金を出し合って買おうって決めたじゃないか。予約数が目標
値を突破したんで、ブルーレイ版の発売が決まったんだよ!」
「ああ~、そのこと。おもいだしたおもいだした」と比呂美は軽くこぶしを打った。
当然のことながら、比呂美がすっかり忘れていたことに眞一郎は抗議した。
「マジで忘れていたのかよ~」
「だって、予約したのって一ヶ月も前じゃない。それに、わたし、推薦の試験とかあったし」
推薦入学の試験のことを持ち出されると、眞一郎はこれ以上食ってかかれなくなったが、それ
でもやっぱり心にもやもやが残ってしまう。しょげている眞一郎を見て、比呂美もすこし眞一郎
に悪い気がした。たとえ、夏休み以降、推薦入学の試験に集中していたとはいえ、恋人が感動し
た作品に自分が同じように共感できた喜びを、眞一郎としてはそう簡単に忘れてほしくなかった
のだろう。もちろん、比呂美は忘れているわけではなかった。ただ単に、比呂美は物欲がそれほ
ど強くなかったのだ。漫画や小説を買って揃えることなどしない。音楽CDもそう。だから、作
品自体に強く感動しても、それが収録されたDVDなどのパッケージには、それほど感心が湧か
ないのだ。
眞一郎の機嫌をどうやって取り戻そうか悩んでいた比呂美は、とりあえず話を別の方向へ進め
ることにした。
「それにして、眞一郎くんが泣いて喜ぶなんて、よっぽど欲しかったのね」
「あたりまえだろ」眞一郎はまだ少しむくれている。
「なんか、ちょっと、悔しい……」と眞一郎から視線をそらして比呂美はつぶやいた。
比呂美の表情が急にかげったので、眞一郎はハッと目が覚め、比呂美の顔を覗き込んだ。それ
と同時に比呂美の気持ちを傷つけるようなことを言わなかった思い返した。
「悔しいって、なんでだよ……」眞一郎はおそるおそる比呂美に尋ねた。
「だってさ。眞一郎くんが涙が出るほど喜ぶところなんて、はじめて見たんだもん。わたしのこ
とじゃなく、わたしたちのことじゃなくて、ブルーレイのことで。なんか、悔しい」
比呂美にここまで言われて、眞一郎はようやく比呂美の気持ちが分かった。確かに、いきなり
比呂美に抱きつくなどやりすぎだったことは否めない。たとえ、相手がブルーレイの商品とはい
え、比呂美がやきもち焼くのも無理からぬことのように眞一郎には思えた。
だから、眞一郎は比呂美のやきもちを吹き払う勢いで言った。
「これから、いくらでもあるさ。おれたちのことで泣いて喜ぶこと」
比呂美の視線が、眞一郎の目に照準を合わす。
「たとえば、どんなとき?」
「え?」
勢い余って先に口走ったせいで、眞一郎は具体的なことまで考えておらず、比呂美の質問に慌
てた。そして……とっさに思いついたことを口にした。
「そうだな~、たとえば、あかちゃんができたときとか……」このセリフを言う途中で、眞一郎
の顔はまたしも赤くなる。今、自分はとんでもないことを言ってしまったと。自分の描いた絵本
が書店に並んだときとか、そういう夢のあることにしておけばよかったかなと眞一郎はちょっと
後悔した。でも、後の祭り。比呂美の顔がすーっと近づいてきて、眞一郎は驚きの声を上げる間
もなく、唇を塞がれた。
その直後、「比呂美っー!!」という叱責の声と共に理恵子の雷が落ちた。