学校から帰ってからすることは、宿題だ。
成績を落としたくないし、おばさんの手伝いは突然だから。
机に向って数学の教科書を広げている。
「早く、見せて」
「急かすなよ。大声を出すな」
石動乃絵の嬉しそうな声がした。幻聴と思いたいけれど、そうではない。
驚愕している顔を上げて、鼓動を落ち着かせてから考えてみる。
何で石動乃絵がこの家にいるのだろう。学校ならいつ現れてもおかしくないけれど。
それにしても眞一郎くんが石動乃絵に何を見せるのだろう。
いてもたってもいられなくて、部屋の扉を開けてみる。
左右を確認しても誰もいない。
そっと足音を立てずに二階への階段の下に行ってみる。
見上げる先には、まだ入ったことがない眞一郎くんの部屋がある。
四番との誤解をとくために、夜に部屋の前まで行ったことはある。
手を伸ばしてノックをしようとしたけれど、やめた。
だって眞一郎くんに誘われてから入りたかったから。
やはり部屋は心の壁のようなものだと思う。
「あなたはそこで何をしているのかしら?」
よりによってもっとも出会いたくない相手に見つかった。
「眞ちゃんが女の子を連れて来たから気になっているのではないでしょうね?
あなたには関係ないでしょう」
まさかそれをわかっていて、わざと遅れて来たの?
「知り合いの女の子だったから……」
自分でも微妙に思える返答。さすがに嘘をつける余裕がない。
「どういう子か教えて欲しいわ。でもまずは部屋に入る前に、私に挨拶ぐらいはすべきよね。
何を考えているのかしら。男の部屋にすぐに向うなんて」
おばさんの判断には同感する。私だったらそうしていた。
やましいことは絶対にないように思われたいから。
でも……。
「おばさんなら、誰が来たって……」
おばさんはきっと眞一郎くんを誰にも奪われたくないはず。
「あなたはそう考えているようね。そんなことはないわよ。
たとえば愛ちゃんなんてどうかしら?
いつも愛想が良くて眞ちゃんの面倒を任せられるわね。
眞ちゃんにはしっかりしたお姉さんのような女性がお似合いだわ」
おばさんは私をしっかり見据えて語った。
その場しのぎの私の嘘に比較にならないほどに、揺るぎのない明確な意志が込められていた。
私は眞一郎くんの妹だから、どうあがいてもお姉さんにはなれない……。
愛ちゃんは私のあこがれの女性だ。
いつも眞一郎くんにちょっかいを掛けながら、私にも微笑んでくれていた。
引っ込み思案な幼い私に決別したくて、勉強やスポーツをがんばろうと思った。
「
私だって学校ではしっかりできています。微笑もうとも思えばいつだって……」
今まで非の打ち所がないようにやってきた。
仲上家での手伝いでも、こなせている自負がある。
「成績は優秀。バスケではレギュラー。先生方の評価は高い。
ますますあなたの母親に似てきたわね」
おばさんは腕を組んで、いつもに増して私に怒りをぶつけてくる。
私ではなくて母を見ているように。
がんばれば、いつか褒めてくれると思っていた。
それとは逆におばさんは憎しみを募らせていたようだ……。
「何、やってんだよ。
ふたりで」
階段の上から眞一郎くんが声を掛けた。すぐに下に降りて来る。
「あの話の次は、よりによって愛ちゃんかよ!」
眞一郎くんは声を荒げていて、階段を降りている石動乃絵も震えた。
「あなた、あの話を眞ちゃんにしたの?」
おばさんは私を今まででもっとも強く睨んでくる。
「眞一郎くんに訊かれたし、知る権利があるからです」
あの月の光を浴びて決意を固めた。それにあの庭はおばさまが私に兄妹疑惑を告げた場所。
もう何があってもいいと覚悟した。
今の私には何もできそうにないから、眞一郎くんに託してみたかった。
結果的に眞一郎くんは石動乃絵を選んだ。
ふたりが鶏小屋で追いかけっこをしているときに、私は背を向けた。
眞一郎くんが帰宅したときにも、おばさんと衝突していた。
何を説明すればいいかわからなくて、眞一郎くんを無視してしまった。
だっておばさんが何を言おうとしていたのか、わからなかったから。
せめて後一分ぐらいは遅く帰って来て欲しかった。
いつもどこかで間が悪いことが起きてしまう……。
「俺は教えてもらえて感謝している。比呂美が何を悩んでいるのかを少しでも知れたから」
眞一郎くんはおばさんに宣戦布告をしてから、私を見つめてくれている。
でも眞一郎くんのそばには、しがみついている石動乃絵がいるのだ。
あのように眞一郎くんに頼れたらと何度も考えた。
そうすればおばさまに、ふしだらな女と軽蔑されてしまう。
「余計なことを……」
おばさまはかすかに言葉を洩らして去って行く。
「あのことの真偽はわからないが、母さんがああいうことを言うには理由があるのだろ。
話してくれよ、昔に何があったのかを。俺は母さんを恨んでないから」
眞一郎くんの口調は荒々しくても優しさが溢れていた。
おばさんは足を止めてくれたが、すぐに歩き出した。
おばさんの背中が儚げに見えた。
「邪魔をしてごめんなさい」
眞一郎くんと石動乃絵に深く頭を下げた。
私もおばさんの後を歩いてゆく。
さすがに私には何の言葉もなかった。
部屋に入ると扉にもたれる。
兄妹疑惑を告げたときのような涙は出なかった。
私なりに整理ができているのかもしれない。
眞一郎くんには石動乃絵がいるのだから、もう見守るだけでいいからだ。
むしろ羞恥心が込み上げてくる。
私は何かをした母を、睨んでくるおばさんを恨んでいた。
こんなことがなければ眞一郎くんに告白できていたかもしれない。
でも眞一郎くんはおばさんのことを考慮してくれているようだ。
たとえ兄妹疑惑がおばさんの嘘であっても、怒らないのかもしれない。
嘘にまみれた私も許してくれるのかな?