創尾市を流れる川の一つに、『尾ノ先川』という長い川がある。海の方へ向かうにつれ次第に川幅が狭まっていくことと、街の名前からその名が付けられたと伝えられている。
日本各地で海や川の水質汚染が何かと騒がれているこのご時世に於いて――それもそこそこに工業が盛んな街であるにも関わらず――不思議と綺麗な水が昔から流れ続けており、近隣住民や川マニアの間では『隠れた清流』『創尾七不思議の一つ』として知られている。
広い河川敷がある事でも有名で、天気の良い休日などには、バーベキューで団欒をとる家族や、キャッチボールを楽しむ少年たちなどの風景が度々見られる憩いのスポットでもある。
しかし、この河川敷にはたった一つだけ暗黙のルールがある。『金と命が惜しければ、鉄橋下には近づくな』――憩いのスポットに到底相応しくない、嫌に物騒なルールが設けられたのには、勿論理由がある。
河川敷の鉄橋といえば、ケンカと相場が決まっている。尾ノ先川に於いても例外ではなく、平日だろうと休日だろうと、街の若者達――所謂、『不良』と呼ばれる類の――がその熱き血潮を滾らせ、やり場のない感情をぶつけ合っているのだ。
彼らとしては欲求が満たされて満足かもしれないが、近隣住民からすれば迷惑以外の何者でもない。オマケに彼らは、ケンカにより感情の昂ぶりがピークに達し分別のつかなくなる場合が殆どで、近づく者全てに突っかかっていく傾向にある。
よって、触らぬ神になんとやら――鉄橋には近づくなというお触れが密かに出回っているのだ。問題の鉄橋が、普段憩いの場となる地点から随分と離れた場所にあるので、滅多な事では巻き込まれる事は無いのがせめてもの幸いと言える。
そんな、色々な層から大変人気のあるスポットであるココ尾ノ先川河川敷。先ほどよりも日が落ち、空が夕方から夜へと変わりつつある微妙な時間帯。
昼は賑わっているこの辺りも、すっかり人通りが少なくなり、この日は部活帰りの高校生が3人通っている程度である。会話をしながら帰路に着こうとしている彼らの様子は、和気藹々、とは到底言えないものであった。
「いやー、でもさっきはビビったよなぁ。目ぇ合っちゃうんだもん」
「うん……俺、マジ死ぬって思った。顔覚えられてたらどうしよ……」
「だからやめようって言ったのに……あんなトコ通るなんて」
三者三様の声だが、言葉の意味としてはほぼ共通している。おまけに3人とも声は震え、恐怖と安堵が入り混じった表情をしている。
「あの橋の辺り、ほとんど毎日いるらしいもんなーあのテの連中」
「明日から、普通の道通って帰ろうよ……」
「うん……やっぱ危ない橋渡るモンじゃないな。もうヤメとこ」
自分達の安全のために、震え声のまま今後の相談を始める学生達。その一人が口にした『あのテの連中』とは、言うまでもなく街の不良達である。
事の発端は、彼らの一人が帰宅ルートの変更を提案したコトから始まる。危険地帯と悪名高いあの鉄橋付近をわざわざ通るという、言わば度胸試しのようなものだ。
他の二人も最初は乗り気ではなかったが、提案者の『大丈夫だいじょぶ!』という根拠のない自信に負ける形で同行する形となった。
そして、土手沿いの舗道から現場を見下ろした所で、橋の下でたむろしていた不良の一人と不運にも目が合ってしまい、必死に逃げて現在に至る、というワケである。
追跡が無かったのがせめてもの幸いと言えよう。今思えば不思議だったが、あったらあったで困るどころのの話ではない。
想像したくもなかったが、恐ろしいコト程想像したくなってしまうのが人間の悲しいサガだ。
全員が同じ事を考えていたのだろう。三人同時に全くズレることなく、先ほどまで必死に逃げ帰ってきた道を振り返るが、誰もいない。
揃って安堵の溜息を吐く。まるでホラー映画の登場人物のような心境だ。見る立場ならいいものだが、実際に味わう立場にはなりたくないものだ、と痛感した。
「な、なぁ……アイツら追っかけて来る前に早く帰ろうぜ……」
振り返った体勢はそのままに、言いだしっぺが他の二人に呼びかける。
ホラー映画よろしく、向き直るとそこには先回りしていた不良が――というビジョンが浮かんでしまい、怖すぎて一人では振り向けないのだ。
「そ、そうしよう、そうしよう!」
「うん、うん、うん!!」
「よ、よし!じゃあ’いっせーのーで’で振り返ってダッシュな!」
その二人も、動くことなく賛成の言葉だけを放つ。恐らく言いだしっぺと同じ心境なのだろう。
「いっ……」
「せー……」
「のー……」
早く帰りたい気持ちを抑えつつ、呼吸を整え、一人ずつゆっくりと合図の声を出していく。
「「「でっっ!!」」」
そして、全力で振り返り、走ろうとした。
「で?」
「で……?」
――が、出来なかった。振り返った先に、大小極端な二人の人物がそろって首を傾げていたからだ。
兄弟だろうか、はたまた親子か、それともアカの他人か――彼らにとってそんな事ははどうでもよかったのだが。
「…」
「……」
「………」
「…?」
「……?」
視線が合わさったまま、しばしの静寂が訪れる。三人の学生達はまるで時間が止まったかのように微動だにしない。
対する二人の方は相変わらず首を傾げたままだ。体格差こそ凄まじいが、腕組みの仕方から首の角度まで、見事に揃った状態で。
「ぁ、ぇーと……」
「「「ぎゃあああああああああぁっ!!!」」」
「おっ!?」
「わっ!?」
大柄の男が何か声をかけようとしていたが、それより先に沈黙を破ったのは、三人の絶叫であった。その絶叫に、大きい方も小さい方も思わず短い驚きの声を出す。
先ほどの思考を辿っていけば、この大小コンビが自分たちを追撃にやってきた不良の仲間だという結論に達するのは無理もないのだ。
「ぁ、あの、お、落ち着いて……」
「ゴメンナサイゴメンナサイごめんなさいいぃ!」
「オレ達貧乏だからお金持ってないんですぅぅ!!」
「えっ!?や、俺らはそういうのじゃなくて……」
「ボクら何も見てませんし聞いてませんから……だから見逃してください!!」
「うー……」
小柄な方が三人を諭そうとするも、全く聞く耳を持たない。彼らの中で、この二人連れは不良グループの一味と決め付けられているのだ。
三人がただただ喚きちらし、小柄な方も途方に暮れている中、大柄な男が動きを見せた。片膝立ちになり三人と目線の高さを合わせ、その内の一人の肩に、ポンと手を置く。
「ひぃっ!?」
「はい、深呼吸……」
「は、はひ……?」
「いいから、深呼吸」
低いトーンだが、威圧感のない、むしろどこか穏やかさすら感じられる、そんな声で男が三人に声を掛ける。
始めは混乱の極地で彼の言葉の意味が分からなかった――特に、肩を置かれた言いだしっぺは悲鳴をあげる程だ――が、その声に次第に落ち着きを取り戻し、男の言うとおりにする。
鼻からゆっくりと息を吸い、吐き出す時も同じくゆっくりと――それを数回繰り返した所で、先ほどと変わらない、低く穏やかな声で、男が再び口を開いた。
「落ち着いたか?」
「は、ハイ……」
「俺達は別に、お前らをどうこうしようってワケじゃないから、な?」
「はい……」
「す、すみません、取り乱しちゃって……」
「いやいや、分かってくれたんならいいって……ね?ショータさん」
「……分かってくれたし、いきなり後ろにいた俺たちも悪かったワケだし、さ……」
男の言葉と態度から、自分たちに危険が及ばない事をようやく理解した三人は、二人連れに頭を下げ、謝罪の言葉を述べる。
それに対し、大柄の男は先ほどよりも調子の明るい声で答え、同意を求められたショータという少年も、少々申し訳なさそうに首を縦に振る。
「俺はス……ウォルドってんだ。で、あっちはショータ・イシカワさん。良かったら、ワケを聞かせちゃくれねーかな?」
「は、はい。実は……」
自己紹介と同時に事情を尋ねてくる男、ウォルド。名乗りの際に言葉を詰まらせていたが、それを気に掛ける者は、その時には居なかった。
その要求を承諾し、三人は先ほど自分達が経験した出来事を洗いざらい話し始める。
全ては一人の無謀な提案から始まったコト、不良の群れを目にして怖気づいたコト、その不良の一人と目が合って脱兎のごとく逃げ出してきたコト。
時に一人ずつ説明口調で、時に二人掛かりで演技調に、最後には三人全員で、畳み掛けるように。先ほど治まった恐怖がフラッシュバックしたのか、少し震えている者も。
「……と、いうコトがあったんです」
「全部お前のせいだかんな!」
「だ、だからごめんってば!もうあんなのに誘わないから!」
「当たり前だよ!もう懲り懲りだよ!」
「まぁまぁ抑えて抑えて。事情は分かったから……」
恐怖を紛らわす為、言いだしっぺにあたる二人。言いだしっぺの方もすっかり反省しきっているのか、語気こそ強いものの反論はなく、ひたすら頭を下げるのみだ。
そんな三人を、なだめにかかる大男・ウォルド。もう心配ないから、今日はまっすぐ家に帰れ、と付け加えて。
「は、はい……」
「でも、あなた達は?」
「あぁ、俺らこっちに用事あるから」
「こっちって……え?」
「だから、河川敷のトコ」
「いっ!?」
その言葉に素直に答えようとしたが、彼らの行き先を聞いて驚愕する。最初、何を言っているのか分からず聞き直してしまったほどだ。
ショータが何気なく指差した方角は、ついさっき自分達が逃げ帰ってきた道だったのだ。ちゃんと自分たちの話を聞いていたのだろうか、という疑問が三人の頭に浮かんでしまうのは当然である。
「な、何でまた……?」
「多分だけど、そいつら俺と関係してるから。何人ぐらい居たって言ったっけ?」
「えと、7、8人くらいだったと思うけど……」
「やっぱりか……。分かった、ありがと。ウォルド、行こ」
「ぁ、はいっ」
不良たちの規模を聞き、一人で納得した様子を見せた後、短い感謝の言葉を最後に背を向けるショータ。
呼びかけに即座に応じたウォルドも、彼の後をのそのそと付いていく。
「あ、ちょ……っ」
学生の一人が引きとめようとしたが、ショータのただならぬ様子を見て、上手く声に出来なかった。
そのまましばらくの間、彼らを何も言えずに見送る形となった。次第に距離が開いていき、すでに夜も近づいている事もあり、二つの影は闇に消えていった。
……と思いきや、すぐさま一つの大きな影が迫ってきた。その足音は早く、走っているのか、或いは早歩きか、ともかく暗がりの中からあっという間にその姿が現れた。
目元が隠れたボサボサの黒髪、影からも容易に予想がつく程の長身――ウォルドである。先ほどまで一緒に居たショータの姿は見当たらない。
何かあったのだろうか。そう三人が尋ねる前に、息を切らした様子もないウォルドが口を開く。
「一つだけ言い忘れてた!」
「へ?」
「俺らがココ通ったのは、誰にも言わないでくれな!」
「は、はい」
「特に、雪ダルマのマークつけた連中にだけは絶対な!」
「わ、分かりました……」
「絶対に……」
先ほど自分達を落ち着かせた時とは打って変わり、物凄い剣幕でまくし立てるウォルド。そんな彼に三人は呆気に取られ、短い空返事を返すことがやっとであった。
「ぃよしっ!んじゃ、気ぃつけてな!」
それでも首を縦に振った三人を見て満足したのか、ウォルドも満足そうに返す。そしてそのまま振り返り、再び闇へと消えていく。
後には、まるで置いていかれたかのようにポツン、と立ち尽くす三人だけが残っていた。
「な、何だったんだろ……」
「さぁ……」
「悪い人、じゃなさそうだけど……」
「要は、誰にも言わなきゃいいんだよな?」
「そゆこと……だと思う」
「ん……」
唖然とした表情と棒立ちの体勢のままで行われる三人の会話。
ウォルドの最後の言葉の真意は理解できなかったが、早い話が三人だけの秘密にすればいいだけの事である。
誰かに聞かれたとしても、知らない振りでもしていればいいのだ。そう考えると、途端に気が楽になった。三人揃って、大きな溜息を吐く。
「じゃ、帰るか!」
「ん、そうしよそうしよっ」
「このルートだと繁華街通るハズだから、まぁ安全でしょ!」
まだ空元気の域を出ないが、先ほどよりは精神の安定を取り戻し、陽気を含んだ声で掛け合う三人。
そして、軽い足取りでウォルド達がやって来た方向へと歩を進めていく。この先は繁華街。人気も多いから、怖い思いをする事もないだろう、とポジティヴな思考を巡らせながら。
しかしこの後、彼らはウォルドの言っていた『雪ダルマのマーク』の連中の意味を、新たなる恐怖とともに思い知ることとなる。
――が、それはまだちょっと先の話。
最終更新:2009年06月22日 10:41