結局、雨が降る#01:鳴海延明には傘が無い

静島 修吾にはわからないことがある。
高校二年、レスリング部。
頭の方はそれなりに良くはない。

静島 修吾は人相が悪い。
ついでに言えば人付き合いも良くはない。

ただし不良ではないのは事実である。

中学の頃から頭がそれなりに良くなかったので進学先は限られた。
辛うじて中の下くらいの男子校に進学したがタイミング悪くやたらと荒れたグループが台頭していたころで、と言うよりは、静島 修吾の通う学校には大抵一人や二人、学校史に残るワルが居るという嫌なジンクスに苛まれている。

静島 修吾はわからない。
それはある生徒のことである。

そもそも何故その生徒が気になるのかがわからない。
それが例えば学校唯一の美人女子生徒であるとか、そういうことなら青春の一言で済みそうなことであろうが、残念ながらそんなコミックのような展開は起こらない。

静島 修吾はわからない。
何故あいつの存在が気にかかるのか。
それが彼にはわからない。



六月初頭。
窓の外は重苦しく灰色に曇っていて、空気はべたつき、それでいて妙に肌寒く、生徒も教諭もだいたいが陰鬱な顔をしていた。

そのなかでも極めて陰鬱な顔をしている生徒がひとり、気だるい授業を聞き流しながら、ノートに小さく落書きをしている。

鳴海 延明にはわからない。
例えばいまここで自分が受けている授業が自分の未来に役に立つのか。
何故いま自分はこうして学舎に籍を置いているのか。
何故自分という存在がここにあるのか。

鳴海 延明は自己評価が極めて低い。
他人に認められるような事が出来たためしがない。
小学校の頃から持ち前のドンくささから残酷なまでの無邪気さの餌食となり、未だ短い人生の大半が他人からの蔑みの記憶で埋められていた。
夜の仕事が長い両親との仲は悪くはないが関係性は良くはない。
顔を合わせるのは大半が店の休日か稀に朝の短い時間だけで、彼は孤独を当たり前として過ごしていた。

鳴海 延明は自分というものがわからない。
ロールプレイングゲームで他人のレベルを上げるために駆逐され続けるスライムのようなものだと認識はしているが、そんな自分にやたらと担任が気をかけてきている理由がわからない。

いまの状況に満足しているかどうかすらわからない。
むしろ他になにかあるのかがわからない。
あったとしてもそこまでの至り方、あるいは努力の仕方などがわからない。

それでいいのかもわからない。



延明にとって学校生活の大半がどう時間を潰すかに費やされる。
小学校の頃のように仮病を使うわけにもいかず、中学の時に行方をくらましてゲームをしていた時には大騒ぎを起こしてしまった。
延明の人生観において重要なのは如何にして他人の面子を保つかであって、その為には提示されるなんらかの水準、例えば授業を受けているフリをするだとか、相手の気が済むまでヤンキーに蹴られるだとか、その為に人生を費やしている。

無論、漫画やゲームで見るような輝かしい青春のようなものに憧れなかった訳ではないが、憧れている方がより惨めだと気づいてからは望みを捨てた。
いま彼の心配事は来年に控える卒業までに誰にも迷惑がかからずに済むなんらかの指標を持っているフリをしなければいけないことだ。
ただでさえいま奨学金を借りつつ学校に通わなければいけない状況で進学という道は選び得ず、かといってまともに就職ができるほどの度量は持ち合わせていない。
かといって親や先生に心配をかけてはならないという矜持もあって、進退は極まりつつある。

鳴海 延明は常日頃から、他人の視線に怯えている。
誰にも迷惑をかけたくはないが、誰にとっても迷惑なのではないか。
その不安から、現実から延明は逃れ続けていく。
それがより退路を絶つ結果をもたらすことが、いまの彼にはわからない。



「ありがとうございました」

保健室の戸を後ろ手に閉めながら、曇った顔つきで修吾は自分の右手に巻かれた湿布くさい包帯を見つめている。
大した怪我では無いのだが、右手首を捻ってしまって、今日の部活は早退する事になりそうである。
近々レスリング部の大会を控えている。
それが自分にとって重要かどうかもわからないが、試合をするなら勝ちたいという根拠の無い意思だけはある。
それに向けて怪我は早く直すべきとは思いつつ、頭より体を動かしていたい気持ちではあったのだが。

わずかに重い足取りで静島 修吾は部室を目指す。

「……」

体育館に至る渡り廊下、そこから地下ボイラー室に繋がる階段に座る丸いシルエットには見覚えがあった。

「……」

生徒の名前は鳴海 延明と人づてに聞いた。
入学後しばらくして存在を知った時から妙に気になる生徒であった。
不良グループからいじめを受けているらしいとの噂もあり、関わらない方が良いとも釘を刺された。

「……」

静島 修吾はわからない。
なぜ鳴海とかいうあの生徒が気になるのか。
あの生徒が何をしているのか。
それがわからない。

「……っ」

延明は自分の背後に近寄る影に気づいていた。
不良、あるいは教師ではないと気づいた後で、隠していたゲーム機を再び取り出した。

「……」

背後の影はある程度の距離まで近づいて止まった。
威圧感だけは妙に背中に感じていた。

「……何のゲームやっとるん」

知らない声が呼び掛けた。
野太く恐ろしい声だった。

「……」

延明はそれに応えない。

「……」

静島 修吾はわからない。
接点の無い相手と知り合う方法がわからない。
それなりに勇気を出して声をかけてみたが応答がない。
思い起こせばいま友人と呼べる相手は大概、相手方が痺れを切らして声を掛けてきたのに応じたのが始まりで、それ以外に友達の作り方がわからない。

「……」

なるだけ怯えさせないように近づいて座り込んでみた。
延明は黙々とゲームを進めていく。

「……」

相手がなにか興味深そうにこちらを見ている。
鳴海 延明はそれがなぜなのかがわからない。
いままではそこからすぐ理不尽な目に遭った経験しか無いはずだったのだが。

「……カラス」

「えっ」

「Beast of the Re:eden」

タイトルは答えたがそのタイトルが故にどうせ反応が返ってこないのはわかっていた。

「……」

そしてその通りに無言になった。

「……俺」

「えっ」

「シジマ。シジマ シュウゴ」

鳴海 延明はわからない。
なぜ相手が名乗ったのかがわからない。

「……どうも」

「……」

「……ナルミ、ノブアキ……です」

アイサツは返さねばシツレイに当たる。
古事記にもそう書いてある。

「……」

「……」

だがそれ以上なにもない。

「……」

「……あの、なんですか」

「え、あ、べつに」

鳴海 延明はわからない。
なぜ話しかけられたのがわからない。

「……その」

「……」

「一緒に、帰らないかな、とか」

鳴海 延明はわからない。
なぜこのような展開になっているのか。

そして静島 修吾はわからない。
このあとどうすればいいのかがわからない。

「おい静島ァ」

別の声に二人は共に肝を冷やす。

「サボってないで片付けとけよぉ、お前待ちくたびれて他の奴帰っちまったからな」

顧問の声に延明は即座にゲーム機を隠す。

「着替え終わったら教務室に鍵返しに来いよォ」

「は、はい、すんません」

投げられた鍵を受け取り、修吾は立ち上がる。

「あ……」

延明がそれをぼんやりと見つめていた。

「その……よかったら、すぐ着替えるから……待っててくれないか」

静島 修吾は強面だったが笑いかける表情に妙な悪意が見られない。
鳴海 延明は不思議だった。
不思議がっている間に、修吾は部室へと消えていく。



ジャージを脱ぎ、制服のズボンに足を突っ込む。
鳴海は待っていてくれるだろうか。
少なくとも話しかけることは出来た、それでも上出来かもしれない。

静島 修吾はわからない。
なぜこうも胸が躍るのだろう。
なぜこのような気持ちになるのだろう。

その直後、なにかが激しくぶつかり合う音と怒号が聞こえてくる。
喧ましい金属のぶつかり合う音にガラスが割れ砕け散る音。
同時に何人かの生徒の制止の声も聞こえてくる。

「鳴海ッ!?」

ズボンだけ履き替えた姿で修吾は外に飛び出した。
体育館前の広場でヤンキー同士の激しい殴り合いが起きている。
その隅で、鳴海 延明は腰が砕けた様にへたり込んでいた。

「ブッコロスぞテメェアぁ!!」
「ア─────なんだとオメェァ誰に口聞いてンだァ」
「───さんダメッスよォマズイですって!」

不良共の抗争だろうか、制止に入る不良たちの間を縫って、修吾は慌てて延明の手を掴み、転がり込む様に部室へと引き込み、入り口をマットで塞いだ。

「はッ、はッ、はッ」

延明は目を見開き、見るからにパニックを起こしている。
それを見た修吾は即座にその丸い身体を抱き寄せていた。

「大丈夫ッ、お前は関係ない……関係ないから」

「はーッ、はーッ、はーッ」

「深呼吸しろ、大丈夫、大丈夫だから」

延明の肩がガクガクと震えていた。

静島 修吾はわからない。
なぜとっさに鳴海を庇い、部室に匿ったのだろう。
少なくとも自分の行動に間違いは無いのであろうが、それにしたって知り合ったばかりの人間にあまりにも肩入れしすぎている。

「はーっ……はーっ……」

外の喧騒から庇う様に、修吾は戸に背を向け、震える延明の肩を強く抱き締め、その巨体で包み込んだ。

「……」

やがて教師の怒声も混じり、その後しばらくして外は静かになった。

「……行ったかな」

気持ちが落ち着いてくると、自分の胸板に顔を押し付けられている延明に気づいて妙な恥ずかしさが襲ってくる。

「す、すまん」

延明を解放し、手を離そうとしたのだが、まだその肩が震えているのに気がついて肩から手を離せなかった。

「……怖かったな」

延明は小さく頷いた。

「あり、がとう」

ひとまずは感謝の言葉を述べた。

だが延明はわからない。
こんな時、どんな顔をしたらいいのかがわからない。
笑えば良いと思うとの金言が在ることは知ってはいるが、鳴海 延明は表情筋に極めて乏しい。

「……あの、さ」

延明の肩から漸く手を放した修吾は思い出した様に学ランに袖を通しながら、視線を泳がせつつも言葉を手繰る。

「まだあいつら、うろついてッかもしれないからよ……やっぱり、一緒に帰ろう」

「え」

「俺……着いててやるから」




鳴海 延明はわからない。
隣を歩く大男の真意がわからない。
その実、肝心の修吾自身もわかっていない。
夕間暮れの空の下、大小の影が街灯に照らされ伸びていく。

「あの」

「ん?」

「大丈夫、だから」

「……」

「家、近いし」

延明は修吾に“迷惑をかけている”と思っている。
あんなことに巻き込まれなければこんな目に遭わせることもなかったはずだと考えている。

「いやあ、べつに」

「……」

「その、なんだ」

「……」

「その……友達、欲しかったから」

不自然と言えば不自然な言葉に延明は勘ぐった。
何かしらの裏があるのではないか。

「……ほら、その」

修吾は必死に言葉を探す。

「俺、顔こわいし」

それには合点が行く。

「図体でかいから、なんか、怖がられてるし」

その言葉にも納得が行く。

「学校、あんなだから、よく不良と勘違いされるし」

むしろそうでない方が意外なくらいだ。

「……部活の連中としか、話さないから」

「……」

「なんとなく、友達に……なりたいなっ、て」

鳴海 延明はわからない。

「……どうして、僕と?」

「……わからない」

がなるバイクの廃気音に延明はわずかに身を竦める。

「……」

それに気づいて修吾が足を止める。
振り向く顔はどこかバツが悪そうであった。

「……静島くん」

「あ、うん」

「ありがとう、もう家、近くだし……駅から遠くなっちゃうから」

「……そうか」

鳴海 延明はわからない。
素性もわからないこの生徒がなぜ、こう名残惜しいのか。

「……じゃあ、ね」

小さく会釈をして、延明は十字路を曲がっていった。

「……」

静島 修吾はわからない。
また会えるかどうかがわからない。
気づけば連絡先も聞いていない。
その時にはもう鳴海 延明の姿も見えない。

静島 修吾はわからない。
なぜこうも胸が苦しいのか。
なぜこうも切ないのか。

踏切の音が遠くから響く。
やがて列車がごうと走り抜け、立ち尽くしていた道を修吾は引き返す。



鳴海 延明は寝付けない。
友達になりたいと話しかけられた経験が過去に無い。
小学生のはじめの頃にはなんとなくそんなような関係性がなあなあのままに築かれていたような記憶があるが、高学年に上がる頃にはすでにひとりだった。

鳴海 延明はわからない。
彼が僕と友達になって、一体何の利点があるのだろう。
鳴海 延明は友達というものがよくわからない。
なにかしら共通の話題でもあれば、暇潰しの相手くらいは出来るのかもしれないが。
あの静島という図体のデカい男はあまりに住む世界が違いすぎる。
それこそスライムとスイフーくらい住む世界が違う。
なのになぜ、友達になりたいなどと言ったのだろう。

部屋の外が僅かに騒がしくなった。
両親が仕事から帰ったのだろう。
鳴海 延明は深く瞼を閉じて眠れるよう努めた。
時計は午前三時を回っていた。



手芸綿でも広げたような重苦しい雲に包まれた朝だった。
電車の窓の向こうに流れていく景色を目でなぞりながら、静島 修吾は昨日のことを思い出す。
静島 修吾はわからない。
鳴海を抱き寄せた時のあの温もりを、どうしても忘れることができない。
べつに特別なものでも無いのに鳴海の髪の臭いが恋しい。
この妙な気持ちは一体なにか。
静島 修吾はわからない。



「うス、おはようございます」

授業前、体育準備室に修吾は立ち寄る。

「おう静島か、手首どうだ」

「痛みは引いてきたんで、今日練習出れるかと思うんスけど」

「いやいや、こう言うのは無茶すると長引くからな、まだ安静にしとけ」

顧問の言葉に修吾は口を尖らせる。

「じゃあマシンだけ使っていいスか、下半身やりたいんで……」

「まぁ、無理しない範囲でならな。しっかし、なんか詰め込み過ぎじゃないのか?」

普段あまり主張しない静島の変化に顧問は訝しむ。

「その……なんつーか、怪我して運動できないって言われたら、却って身体がウズウズするんで」

「……まぁ、お前はそういう奴か。あと明日ミーティングするって大島に伝えといてくれ、一年と三年の連中とは授業で会うから」

「うス、失礼します」



鳴海 延明は授業が身に入らない。
と言っても普段から真面目に授業を受けている訳でもないのだが。
それでも要点は一応押さえているので赤点をとった事はない。
だがそれにしても今日は筆が進まない。
窓の外は相変わらずの曇り空で、教室の中まで灰色に染まるようだ。

静島 修吾の胸板の固さが忘れられない。
シャツに染みた汗の臭いが忘れられない。
肋骨が軋みそうな程強く抱き締める腕の太さが忘れられない。

友達が欲しかった。

そう語る太い声が忘れられない。

鳴海 延明はわからない。
静島 修吾がわからない。
彼は一体、どうしたいのか。
僕は一体、どうしたいのか。



「……なんか用?」

レスリング部の部室では、昨日見かけなかった多数の生徒がマットの上で格闘している。
柄の悪い生徒の一人が戸の隙間から除く延明に気づいて声をかけた。

「ブひっ、そのッ……し、じま……くん……」

「静島センパイ? たぶん向かいの倉庫にいるよ、積んでるもの触らないよう気を付けて入って」

「あ……ありが」

言い終える前に戸を閉められた。

「……」

振り向けば重々しい鉄の扉。
鳴海 延明は恐る恐るドアノブに手をかける。

「……ッ」

埃と黴の臭い。
うず高く積まれた何か。
奥から何やら物音がする。

「……し、じ、ま、くん……?」

蚊の鳴くように待ち人の名を絞り出す。

「……鳴海?」

奥の方からあの太い声がした。

「……っ」

その方へ向かおうとして、乱雑に積まれただけのなにがしかにせり出した腹がつっかえた。

「わ」

冒険もの映画の遺跡のトラップに引っ掛かったかの如く、崩壊するガラクタ群の雪崩にあわれにも飲み込まれる。

「……大丈夫か?」

もがく手に硬い掌が触れる。
延明の手を握るや否や、修吾は延明をガラクタの山から引っ張り上げた。

「ご、ごめんなさい」

「あ……後で積み直すの手伝ってくれ」

そのまま互いの顔を見つめて数秒。

わからない。
この後何を話していいものかがわからない。

「……その……」

「……」

「……会いにきてくれた」

「……うん」

鳴海 延明は頷いた。
それがなぜかはわからない。

「昨日の……お礼しなきゃ、って」

とりあえずそういう事にした。

「……そうか」

静島 修吾は嬉しかった。
それがなぜかはわからない。

「あの、ね」

「……」

「……何で、お礼したらいいか、わからなくて」

「……」

延明はそのまま俯いてしまう。
修吾は言葉を詰まらせてしまう。
彼はそういう見返りを求めていた訳ではない。

「ごめんね」

「……?」

「なにも、できないから」

だが何か、互いを結びつけておけるものが欲しかった。
あまりにも接点が無い二人を、友達足らしめる何かが欲しかった。

「……なあ」

「……?」

「……」

その求める何かとは何か。
静島 修吾はわからない。

「……鳴海」

「うん」

「ひとつだけ、変なことでも、頼んで、いいか」

「え……?」

ただひとつだけ、思い付いたものがあった。

「その……俺の、膝に座ってくれ」

二段ほど中途半端に積まれた跳び箱に腰掛け、修吾は思い付いたままの言葉を発した。

「……い、いい、けど……」

鳴海 延明は困惑した。
そんなことを頼まれたのは人生で一度も無いし恐らくは今後もあり得ないだろう。
恐る恐る、眼前のジャージ姿の巨体に歩み寄る。
そして恐る恐る、その太い大腿に腰かける。

「……ッ」

背中に太い腕が回り、丸い体を抱き寄せる。
何か異様な恥じらいを覚えた。
汗ばむ手を、修吾の岩のような掌が包み込む。

「……」

皮の厚く、ざらついた指だった。
男の掌としか形容しようの無い掌だった。

「ね、ねえ、重くない?」

「……」

鳴海 延明はお世辞にも軽くはない。
巨体の修吾の方が短躯の延明より重いのだろうが、それでも決して軽くはない。

「お、重くない? だいじょうぶ……?」

不安になって何度も問いかけた。

「う、うるせぇな……他のやつにバレんだろ……」

「……っ」

囁きかけるような声だったが語気は強かった。

「っ……すまん……」

だがその腕はより延明の身体を自らに押し付ける。

「……」

耳が胸板に押し付けられる。
筋肉の壁の向こう側で心臓が跳ね回るのが聞こえてくる。

鳴海 延明はわからない。
なぜこうも恥ずかしいのか。
なぜ彼はこんなにも鼓動を早めているのか。
そして自分の心臓も、なぜこんなに高鳴るのか。

してはいけないこと。
不思議とそのような感覚があった。

延明の膝に、何か硬くて熱い器官が触れている。
それが何であるかを同じ男の延明は理解する。
そして今、自分も似たような状況下にあった。

なぜこうも恥ずかしいのか。
恥ずかしいから身体がこんなに熱くなるのか。

同じ男の生理現象をこのような形で知るのは初めてだった。
同じ男でも恥ずかしいものは恥ずかしい。
恥ずかしいものを見れば身体はそうなる。

そのように延明は修吾の状況を納得することにした。

「静島、くん」 

「なんだ」

「い、嫌じゃないから、嫌じゃないから……ね」

それであの時の礼になるのであれば。
それで修吾が満足してくれるのであれば。
鳴海 延明はそれでいいのだと考えた。

それで“友達”たるメリットを与えられるのであれば。

「……俺、変だよな」

「えっ」

「……あのとき、鳴海を抱き締めた時から……鳴海が腕の中に居ないと、そわそわするんだよ」

「……」

自分も似たようなものだった。
状況は異常であれ、恥ずかしい中に、何か悪くない感情がある。
なにか欠けた部分にぴったりと収まるような感覚。
そのような心地よさ。

「……」

延明は修吾の胸板に頬を寄せた。
ひどくいけないことをしている罪悪感があった。
それは学校にゲームを持ち込んで人目を盗んで遊ぶ時の、よくないとわかっていながら犯す罪の心地よさに似ていた。

「俺、変な奴で、ごめん」

「……僕も……だから」

一時的なものだったのだろうか、気づけば膝に触れていたものは落ち着いた様子だった。

「俺、変だけど……友達に、なってほしい……」

鳴海 延明には、このときなにかが解った気がした。

「……う」

「静島センパ……うわッ、崩れてるし!」

レスリング部員の声に二人は慌てて身を離す。

「すッ、すまんッ、俺がやったッ、片付けるからッ」

「お、大島センパイが探してるっスよ……時間かかるって言っときますね……」

扉が閉まる音と同時に二人は胸を撫で下ろす。

「……鳴海、すまん……」

「ううん……その、手伝おうか」

「いや……たぶん別の奴来るから……今日は、帰ってくれないか」

「……うん」

名残惜しさが後ろ髪を引く。

「あッ、明日」

「えっ」

「明日は、その……一緒に帰りたい」

「……わかった」

修吾の表情が柔らかくなった。

「五時には帰れるから……校門で待っててくれ」

「うん」

延明は頷いて足早に倉庫を出ていった。

「静島ァ─────!?」

背後から響いてきた声を気にしつつ、延明は何時ものように気配を消しながら、レスリング部の部室から離れていった。



鳴海 延明は二日連続で寝付けない。
体育倉庫で起きたことの余韻が抜ける気配がない。
今までに経験してこなかったありとあらゆる事が、あの三十分に満たない時間の間で起きた。

静島 修吾がわからない。
でも少しだけわかったことがある。
彼もまた、自分と同じように臆病で、それでいて寂しかったのだ。

寂しさ。
今まで蓋をしてきた澱んだ気持ちが、あのとき少しだけ清んだような気がした。
彼も同じなのだろう。

思い出すと辛い寂しさが込み上げてくる。
学校でも、家でも、ずっと延明はひとりだった。
その寂しさを、どうしようもないと受け流してきた。

静島 修吾に会いたい。
ただ寂しさを紛らすために互いが利用できるならそれでいい。
恐らく“友達”という関係は、そういうものなのだろうから。



生暖かく湿った風が延明の肩を幾度も叩く。
その風が孕む雨の匂いが、このあとの不安を駆り立てる。
天気予報では夜からと言っていた雨足が、どうやら少し早まったらしい。
鳴海 延明には傘がない。
時計は間もなく六時を回る。
鳴海 延明は悩んでいた。
今、修吾を待つのを止めて家路を急げば間に合うかもしれない。
だが、修吾には、次いつ会えるだろうか。



静島 修吾がミーティングから解放され、校門にたどり着いた頃には、熱帯の雨のごときスコールが遠雷と共に降り注ぎ、ビニール傘を延々叩き続ける悪天候だった。

鳴海 延明の姿はない。
雨音ばかりがそこにあった。



─つづく─


最終更新:2016年06月18日 10:44