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結局、雨が降る#02:静島修吾はプリンセスからの長い恋文を待つ

昨日の雨はなんだったのか、土曜日は雲ひとつない真夏日の空だった。

日曜のレスリング大会は怪我の具合が芳しくなく、静島 修吾は残念ながら欠場と相成った。
まだアスファルトの焼けるような日差しには至らないものの、前日の雨もあって空気はべたつき不愉快な休日だった。

「修吾、なんか食べて帰るか」

修吾から見れば小柄な父親がタバコの煙を吐きながら微笑みかける。

「いや、後でちょっと学校寄るから」

「……そうか」

灰皿にタバコを押し付ける父親の顔は寂しげだった。

静島 修吾の母親は永く闘病している。

修吾の人生の中では五度目になる入院でありながら、母親の方がよほどしっかりと心を保っており、右手の包帯を見つけられた時にはまたくどくどと小言を並べられた。
むしろ父親の方が気を張りすぎてくたびれた様子である。
修吾の目に父親の笑顔は痛ましかった。



静島 修吾はわからない。
自分になにか出来ることはないのだろうか。

口の悪い親戚から遠回しに木偶の坊と呼ばれたことを根に持っているつもりはないが、こう言う時には胸中が無力感でもたれてしまう。

まったくの偶然だが修吾が通う学校と母親の伏す病院とは最寄り駅が同じである。
だが学校に寄るというのは方便で、いま修吾が立っているのは延明と別れた踏み切り近くの十字路だった。
ただ昨日のことを謝りたくて、この道を延明が通らないものかと黙して待つ。

雨に濡れずに帰れただろうか。
長く待たせて怒っていたりはしないだろうか。

母親との面会の間にも、そんなことばかりを思っていた。



傾いた日は黄金の色をしていて、雨で繁った雑草も眩しく輝いている。
手の甲で汗を拭うその腕の影が、修吾の顔に影を落とした。

列車が三度通りすぎる。
偶然は無いと言わんばかりに、延明がこの道を通ることはない。

ふと携帯電話の振動に気づいて我に返る。

『静島、いま電話いいか』

「おう」

『明日の大会、観に来るか?』

「おう」

その実、自分が出場出来ない試合を観に行くのには気が引けていたところがある。
だが、部活の仲間を応援しに行かないと言うのは選び得ぬ選択でもあった。
恐らくそれは、それを言い訳にしたいだけの自分の弱さなのだろう。

『それなら、親父が車出してくれるから、一緒に乗って行けよ』

「大島ん家が大丈夫なら……」

『うちはいいよ、なんなら今日これから泊まりにこいよ』

「これからかよ」

『タイガーアモールの新しいDVD届いたし』

「……いく」

電話口の相手は修吾の見せた微かな間が気にかかった。
互いに敬愛し友情のきっかけになったプロレス選手の話題を出して、こんな間があったことが過去に無いからだ。
それほど大会に出れないことを気にしているのか。
静島 修吾にそれ以外の事情があるのを、電話口の相手はわからない。

電話を切り、まだ割りきれない気持ちのまま、静島 修吾は焼けた道を一瞥する。
やがて列車がごうと走り抜け、その場を立ち去る言い訳を得た修吾はひとり、来た道を引き返す。



ラジオから流れてくる不愉快な流行歌をイヤホンで遮断して、後部座席にどっかりと体を沈めながら、鳴海 延明は車窓に流れる緑の影をぼんやりと眺めている。

「のぶちゃん、やっとお婆ちゃんのお墓参りこれたねえ」

「疲れちゃってるんじゃないの」

「おかあさんも疲れたわ、行きの渋滞がすごかったもん」

両親の会話にはいつも自分が居ない。
別にそれでよかった。

祖母の顔は写真でも見たことがない。
それでも死んでから何度めかの節目であるらしく、両親がどうしても墓参りに行くと言うので連れてこられた体である。

「あっこのお蕎麦もっと美味しかったわよねえ」

「変わんないよ」

「もっと美味しかったわよ、あんなボソボソじゃなかった」

鳴海 延明には少なからず後悔があった。
昨日あの場を立ち去ってしまったのを、静島 修吾が腹を立てているのではないかと考えていた。
なるだけ早く謝りたかったが、延明は修吾の連絡先がわからない。
少なくとも次に会えるのは月曜日の放課後だ。
それまでの間、延明は胸が圧搾されるような気分の悪い罪悪感に苛まれなければならない。

「のぶはあそこの蕎麦どうだった」

「のぶちゃんは蕎麦食べてないもん、カツカレーだったじゃない」

「そうか、カツカレーか。美味かったか?」

「せっかく家族で出てきたんたからもっと美味しいとこ連れていってあげた方がよかったわよ」

両親の夫婦仲は悪くない。
20年近く一緒に飲み屋をやっていられる程なのだから、他所と比べても仲は良い方なのだろう。
ただあまりにも仲が良いので二人の会話に延明が参加する余地がない。
あえてそこに能動的に加わろうという意思もない。
両親は一人息子の扱い方がわからない。

「晩御飯、レストランとかにしようか」

「いいんじゃない、家族で出るなんて滅多にないし」

「何食べたい、のぶ」

「ステーキとかで良いんじゃない、ステーキ食べさせてあげようよ」

「ステーキか、ステーキいいな」

延明はただ全て成り行きに任せていた。
そこに何の感慨もない。



大島 大河にはわからないことがある。
高校二年、レスリング部、副部長。
頭の出来は並である。

大島 大河は静島 修吾のクラスメートで数の極めて少ない友人の一人である。
一年の頃の最初の体育で、修吾が敬愛するレスラー団体のオフィシャルティーシャツを着ていた事から興味を抱いて交流を始めた。

大島 大河は勘が鋭い。
洞察力がむやみに高い。
そんな大河は修吾の変化に目敏く気づいている。

『おおッと───! 場外です! 場外乱闘です!』
『菅原の卑劣な攻撃を見かねたタイガー、二人の間に割って入る!』
『“暗黒外道”菅原ッ、レフェリー制止できませんッ』

「おお……」

前ならこんな局面があればもっと興奮していたのだが、

『アァッー! 菅原、パイプ椅子に手を掛ける─── 』
『あぶない、あぶないですよ!』

「ッ……!」

なぜだがいつもよりも上の空だ。

『ああ───!!』
『卑劣な、卑劣なパイプ椅子がタイガーアモールに振り下ろされた───ッ!!』
『虎のマスクが血に染まる───!!』

「あ、あ……!」

静島 修吾はこの頃、妙だ。

『───だがタイガー動じないィィイイイ!!』
『ォィ……打ってこいよ……』
『“外道”菅原、完璧にビビッちゃってますねー』
『気が済むまで打ってこいよォッ!』

「───!!」

「はぁー、たまんねぇなあ……」

「……おう……」

DVDが最高潮まで達してようやく、大島 大河は親友の充足した顔に安心を得た。
修吾ほどではないが大河もまた友達が少ない。
学校で集団を作るのは大半がヤンキーであり、大河のような体育会系でありながらチームがあるわけでもなく、かつ比較的マニアックな趣味を持つ人間はどの集団にも属しがたい。

大島 大河が静島 修吾の顔色を妙に気にしているのは、彼にとって誰にも代えがたい友人だからだ。
なにも高校生活に限ったことではなく、彼の17年間の人生史に残る親友の頂点である。
その修吾の心が自分から離れていくことに、大河はそんなことはないと理解しつつも不安にはなってしまう。

「静島」

「ん?」

「お前、彼女できたろ」

「は?」

静島 修吾はわからない。
大河の発した言葉の意味がわからない。

「彼女できたろ、お前」

「その……どのようにして?」

「……」

修吾は過去に見たことの無いほど目を丸くして大河を見ている。

「……まぁ、出会いがないのは理解してるけど」

「お前に彼女が居ないのに、俺に彼女がいるわけない」

分類するのであれば大河の顔はイケメンに該当する。
ただしやはり趣味がマニアックなのが影響するのか、共学だった中学時代でも女子からなにがしかのターゲットにされることはなかった。

「おれは別にそういうの要らんもん」

「俺も」

「……ふぅん」

なにか、奇妙な間。

「お前の方がモテると思うけどな」

「意味がわからん」

「おれは、お前のことかっこいいと思ってるから」

「はぁ?」

大島 大河のなにかがおかしい。

「おれより背高いし、身体はでけぇし、部活でも勝率高いからモテると思うんだけどな……」

「お前はプロレスの価値観からちょっと離れろよ」

「タイガーみたいだなって、初めて会った時から思ってたんだぜ、おれ」

畳にごろりと転がりながら、ひとりごとのように大河は続ける。

「……大島?」

「……ちょっとの怪我くらいで落ち込むなよ」

静島 修吾はわからない。
話の展開がわからない。

「お前はタイガーアモールになれるんだからさ、そんくらいで凹むなよ」

「……俺べつに落ち込んでねーけど……」

「……あ?」

大島 大河はわからない。
ならなぜこいつは妙に上の空なのか。

「……おれ、てっきり大会出れなくて落ち込んでんだとばかり思ってたんだけど」

「……俺、落ち込んでるように見えるのか?」

「いや、なんつーか、上の空というか、なんか一緒に帰る日も減ったな、とか」

その言葉に修吾の顔が僅かに強張ったのを大島 大河は見逃さなかった。

「……いいんだけどさ」

その言葉に寂しさが色濃かった。



落ち着かない気持ちを紛らすために、日曜日の延明はずっとゲームにのめり込んでいる。
ひとまず次にこんな気持ちにならないように、修吾に連絡先を教えておく必要を感じていた。

無論、次があればの話ではあるのだが。

鳴海家の家族関係は不器用だ。
両親は延明を深く愛しているのだが、それ故に互いの距離感は遠い。
その愛はどこか押し付けがましく、だがそれが良くない事も両親はわかっているつもりで、それでも改善の方法がわからない。
延明はただそれを受け止めてさえいれば面倒ごとにならないと考えている。
故に黙って部屋に引きこもり、買い与えてくれたゲームや頻繁にもらう小遣いで一人遊びをするばかりである。

ただそれだけの、それだけの人間である。
彼は自分をそう評価する。
だがそれだけの人間に興味を抱いた静島 修吾という人間がわからない。
捕食者であるならば延明は既に餌食になっているはずで、用意周到に罠にかけなければありつけない御馳走でもあるまい。

あるいは静島 修吾もまた被捕食者に類する人間なのかもわからない。
ただし、彼の場合はそれこそ捕食者が陰険に追い詰めて初めて仕留められる御馳走であって、あの学校にはそこまでグルメな捕食者が居るとも思えない。

だが、その静島 修吾は、なぜ周囲に隠れてまで自分との触れあいを求めるのだろう。

確かにどこか恥ずかしくも快い時間ではあった。
その触れあいが快いという感覚もわからないし、なぜその相手に自分を選んだのかもわからない。

憶測としては、恐らく自分が弱く、無気力で、抵抗の意思もないというのを相手がよくわかっているからだろう。
おもちゃにして遊ぶにちょうど良いのだ。

ならそれに応えていれば面倒がない。
なにかに抗うのは面倒なことだ。

鳴海 延明はそれで良かった。



静島 修吾は自分の不器用さを嘆いている、という話を大島 大河は大会後の打ち上げで聞いていた。
どうやら友達になりたい相手が学校にいて、そいつとどう接点を持っていったらいいのかがわからない様子である。

なんだか愛の告白でもしたいような様子だと思った。

「接点ねえのに友達になろうってのか?」

「友達、すくねえし」

「別にいいじゃねえか、気の合う奴とだけツルんでれば」

気付けばファミレスのテーブルをひとつ、たった二人で独占している。
レスリング部の中でもこの二人は絡みにくいようで、大概こういう場ではこの二人はいつの間にかフェードアウトするのがパターンだ。
レスリング好きとプロレス好きは見ている未来がどうも違うようなのである。

「プロレス、そいつ好きなん?」

「知らん」

「じゃあそれこそ本当に接点何もねえじゃねえか、なんでそれで友達になろうと思ったんだよ」

「……わからん」

大河はその返答にうっかりあつあつのミラノ風ドリアを口に運んでしまって慌てて水で流し込んだ。

「あづッ! って、なんじゃそりゃあッ」

修吾は汗をかいたグラスの氷を弄びながら唇を尖らせる。

「……思い当たる節なら、無くは無いが」

「なんだよ」

「……小学校のときに、友達になりかたったけど、なれなかった奴に、似てる」



静島 修吾には後悔がある。

小学校五年生のころ、クラス替えで新任の教師が担任を受け持つことになって半年が過ぎようとした、それこそちょうど今時分のころ。
所謂“学級崩壊”というものが起こっていた。

小学生というのは本当に残酷なもので、学校という箱庭の中で大人もやらないような恐怖政治を行う連中が現れた。
新任教師ではそれらを押さえつけるだけの力が無く、最終的に教頭や校長までもが教室に立っていないとまともに授業もできないほどに荒れ果てていた。

そしてそこにはひとり、運悪く彼らに“生贄”としてささげられた少年がいた。

静島 修吾は昔から、周りに迎合することがうまくできない。
周囲のこどもたちが空気を読むという重要な社会性を身につける中、彼にはそんな連中と一緒に手を取り合うということが出来なかった。

そのときの彼は今からは想像が出来ないほど非力で、消極的な少年だった。
その本質は恐らく今も変わっていないのだろうが、それと同時に誰かが苦しむのを黙って見ていられないやさしさも持ち合わせた。

だが修吾は不器用だった。
繊細でかつ傷ついた心を、彼は上手く扱えなかった。

差し伸べた救いの手が少年に届くことは無く、夏休みが明けたころには少年はもうどこか知らない学校へいってしまった。

それから一年半の間は修吾が生贄の役割を引き継いだものの、非力とはいえ元より背は大きく目立ったためか、率先して修吾をいじめようとするものは居なかった。
せいぜい机に心無い言葉を書かれるだとか、体育着が一式、鯉の泳ぐ池に浮んでいただとか、そういう陰気な嫌がらせを受けていただけで、それで連中の気が済むなら別にいいと考えていた。

プロレスに出会ったのは中学生のときで、身体を鍛え始めたのもその体験がきっかけだ。
それは戦う男たちを純粋にかっこいいと思ったからで、別に小学校のころの非力な自分を悔いていたというわけではないつもりだった。

その、つもりだった。



「あ、の」

レスリング部の部室の前で、またあのどんくさそうな奴がもじもじとしている。
一年生はそれがまさか一応先輩であるとも思いもせず、ぶっきらぼうに声をかける。

「なに?」

「ぶひッ……の、……ま、くん、いますか」

「……っ」

鳴海 延明はその微かな舌打ちの音を聞き逃さなかった。

ああ、ここに来るたびに迷惑をかけてしまう。
だが他に彼に会える場所は知らないから、ちゃんと連絡先を聞いておかねばならない。

「副部長ー、なんかまた来てますけど」

なにか少し様子が違う。

「あー?」

知らない声。

「ぶひっ」

鳴海 延明にはビックリすると鼻を鳴らしてしまうクセがある。
これもしょっちゅうからかわれる原因になっているワケだが。

「……誰?」

そして延明が驚いたのは、現れた生徒が目的の相手ではなかったからだ。
一年生に罪はない、辛うじて聞き取れた名前に該当する人物が、今この部室の中には一人しか居なかったのだから。

「あ、の」

大島 大河は困惑した。
が、冷静になってみればこのよくわからないどんくさい奴がなぜここを訪れたのかには心当たりがあった。

「もしかして、静島探してる?」

延明は頷いた。

「たぶんあいつ、先に上がったから君を探してるんだと思うよ、校門に居るって伝えとくからそこで待ってなよ」

「あ、ありが、とう」

「別に獲って食うつもり無いからビビらんでも……名前は?」

「ぶひ」

相手のもつ体育会系特有のさわやかさに、延明はそれこそ住む世界が違うなと思っていた。
なのにまた名前を聞かれた。
考えられないことだ。

「な……ナルミ ノブアキ」

「おれオオシマ タイガ。名字似ててよく間違われるから、静島呼ぶ時は名前で呼んだ方が通じやすいよ」

「は、はい」

大島 大河はわからない。
なぜ静島はこんなどんくさそうな奴に惹かれたのか。
なぜこんなどんくさそうな奴にいろいろ肩入れしてしまったのか。
別にそれがなにか腹立たしいという事ではないつもりだし、人助けは当たり前のことだからそれでいいのだとは思うのだが。

しかし、なんだ。
何か胸中にざわつく想いがある。

「大島せんぱいー! タクヤが目ぶつけて腫れたー!」

「あぁあー、気を付けろッて! じゃ、静島には伝えとくから」

大河は部室の向こうへ消えてしまった。

「……」

鳴海 延明はわからない。
こうも優しくされたことがない。
静島 修吾に関わって、なにかが確かに変わってしまった。
延明は誰も見ていない会釈をひとつして、足早に立ち去った。

今日こそ、会わなければならない。
まず謝らなければならない。
延明は小走りに渡り廊下を進んでいく。

そのとき。

「ッ……!」

肩に、なにかが勢いよく、突き刺すように当たった。

小汚ない上履きだった。

「ギャハハハハ、スゲー、当たった───!」

痛みによろめき、振り向きたくは無かったが、その場を立ち去ることはできなかった。

「鳴海くゥ───ン、無視決め込んじャね───よ───」

その不良二人にとって延明は最新のオモチャだった。
過去にも彼を弄んでいた連中はほかにも居たが、ある周期を過ぎれば飽きて他に乗り換えていった。
この二人にまだその傾向はない。

「……あの、ごめん、急ぐ、から」

「はア? 俺たちは別に急いでねーんだよ」

「遊ぼうぜ───、なるみくぅ───ン」

彼らにとって延明の都合などと言うのは関係のない事だった。
例えば善悪を知らない子供が路上の蟻の脚を引きちぎったり、捕らえたミミズを石で磨り潰したりするように。
彼らにも、捕らわれた側にも、そこに理由も都合も存在しないのだ。

「……ッ」

延明は拳を握りしめる。
だがそれ以上のことはできなかった。
抗いがたい感情が、延明の足をこの場に留めてしまう。
その感情を恐怖という。



あの時のように遠雷が分厚い雲の中で唸っていた。
風に運ばれてくる土の臭いが、夕立がそこまで来ていると知らせている。

校門に、鳴海 延明は現れなかった。

静島 修吾はどうした事かと、ただそこに立ち尽くしているだけだ。
徐々に胸中には寂しさと虚しさ、それから悲しみが沁み出してくる。

「……振られた?」

声の主は置き傘を二本携えて、同情の笑みを浮かべている。

「おれはちゃんと伝えたかんな」

「……」

「帰ろう、たぶん、なんか事情があったんだろ」

大河の言葉にため息をひとつ吐いて、修吾は傘を受け取った。



空の水が全部落ちてきたかのような雨の中、二人は駅までの道を足早に進む。

「でかぶつの癖にヘコんでんなよ」

置き傘が小さかったためか修吾は肩を窄めてばつが悪そうにしている。

「おれん所に来た時は、お前に会いたそうにしてたよ」

「……そうか」

「別に女子が会いに来たわけでもあるまいし……何をそう落ち込んでるのやら」

そして大河自信もまるで恋に悩む友人を宥めているようで何か変な気分だった。

「……そういうもんか」

「端から見たら憧れの女子に振られたみたいなカオしてんだぜ、大事に考えすぎなんだよ」

大河の言い分はよくわかった。
だが修吾は開き直り方がわからない。
落胆する気持ちに変わりはないのだ。

「ま、明日またチャレンジすればいい。どうせあいつから来るだろうからな」

「そうか?」

「あの様子だしな」

漸くアーケードに差し掛かり、二人は傘を閉じ、両肩についた滴を払う。

「ちくしょー、なんか妬けるなあ」

「あ?」

「静島、ラーメン奢れ」

「は?」

「傘、持ってきてやったろ」

修吾は仕方なく財布を覗いた。

「……200円しかない」

それを聞いて大河はその丸太のような肩に軽く一発パンチをくれてやった。



翌日、鳴海 延明は学校を休んだ。



別に何か大きな怪我でもしたわけでもなく、財布から5000円ほど抜かれたこと、二度ほど鳩尾を殴られたこと位でそれは彼の日常だった。
ただ、連中がまた何時現れるかわからない状況で、修吾と会うわけにはいかなかったのだ。

巻き込みたくない。

初めて出来た友達のようなものに迷惑はかけたくないと考えた。
その上で、第三者を巻き込んで余計な面倒を広げたくないとも考えた。
ほとぼりが冷めるまでこうしているつもりだった。

連中に絡まれている間、そしていまその記憶が呼び起こされる度に、まるで逃避のようにあの日が思い起こされた。

自分の手を引く掌の質感。
顔を埋める胸板の堅さ。
大丈夫だからと繰り返す、低く、静かな声。

静島 修吾に逢いたい。

カーテンを締め切り、灯りも点けない部屋のベッドの中で、慟哭と共に溢れだした延明の本当の願いだった。

ただ、それだけの事なのに、延明の心は弱く、機会を掴む腕を伸ばすことが出来ない。
それを例えば天候や不良のせいにして逃れることは簡単なのだ。
だが結局、元を正せば原因はおそらく自分にある。

静島 修吾に逢いたい。

またあの手に触れたい。

あの胸に抱かれたい。

あの声が聞きたい。

でも、その願いが届かない。



「うス、おはようございます」

頭をひとつ下げてから、静島 修吾は体育準備室の戸を潜る。

「おう、おはようさん」

「先生」

なにやら今までになく神妙な面持ちで切り出した修吾に、顧問はなにかただならぬものを感じていた。

「……どした」

「その……そ、の、しょうもないことですが」

「“つかぬことですが”だ……んで何だ」

「その……」

顧問は息を呑む。

「鳴海 延明って生徒のクラスが知りたいンです」

「鳴海……ああ、コロちゃんか」

「え?」

「あの、なんかコロコロしてる奴だろ」

顧問が付ける渾名のセンスは並以下である。
絶対に定着しない渾名をつけることにだけは定評がある。

「……そっすね、たぶんコロコロしてますね」

「なンでまた」

「そ、その……俺の鞄になんかそいつの持ち物が紛れてて……」

限りなく苦しい嘘だ。

「あー、なんかそういう変なイタズラあるからなあ。あいつはたしか……ちょっと待て」

どうにか通じてしまった。

「えーと鳴海は……二年の……五組だな」

「あ、ありがとうございます」

「あーでも俺、二限目に五組の体育だから預かっといてやろうか?」

「エッ、あ、いいっス、なんか、俺が盗ってった訳じゃないって、その、言いたいんで」

顧問は訝しんだ。

「まあ、えーけど……ほら一限目始まるぞ」

「あ、やべッ、ありがとうございますッ」

押し出される様にして準備室から転び出てきた修吾を、柱の影でそれとなく見守る者が居た。
修吾はそんな大河に向けて、仏頂面ながらも嬉しそうに親指を立ててみせた。



昼時は鳴海 延明にとって試練の時だ。

人の往来は多くなるし、教室に引きこもると言うのもあまりに危険だ。
クラスメートに能動的に関わってくる者は居ないものの、他所のクラスの連中に見つかれば大変な災厄を引き込んでしまう。
こうして延明は厄介者の目で見られるのだ。
それなら最初から居ない方が平和である。

延明が校内に見いだした潜伏場所は11ヶ所に及ぶ。
昼休みや放課後直後の人が往来する時間を、延明は息を潜めてやり過ごすのだ。
小学校の時にはトイレの個室に潜んだが、それが見つかったことで品のない噂を立てられて以来、延明は学校のトイレの個室を利用しない様に努めている。

四限目の終盤は概ねその日の潜伏場所の算段ばかりをしていた。
そして鐘が鳴ると同時に、誰にも相手にされないように限りなく息を潜めて教室を出ていく。

「鳴海」

「ぶヒッ!?」

また人前で鼻を鳴らしてしまった。

「やっと会えた」

振り向いた先の巨体は、だがなにひとつ恐ろしげのない柔らかな表情でそこに立っている。

「どう、して」

静島 修吾が自分を訪ねてきた。
延明には信じがたいことであった。

「その……俺、学食行くけど……昼飯、その、一緒に」

静島 修吾にはわからない。
不思議と言葉が出てこない。

「あ……ごめんね、行くところあるから……」

そんな場所は無い。
ただ学食のような多くの人間の目が届く場所に居られないだけだ。
それも、友達を連れてなんて。

「そうか、じゃあ……」

「……ごめんね」

変な噂が立つ前にその場を立ち去りたかった。

「……鳴海っ」

「?」

「その、今日……部活で遅くなるかもしれんけど、帰ろう、一緒に」

本当は、昼食などは二の次だった。
静島 修吾が本当に伝えたかった言葉は、そのたった一つの約束だった。

「……」

鳴海 延明は周囲の目を気にした。
幸い、人の往来は多くは無く、そして特別彼らを気にするような人間は周囲に認められない。

「あ、の」

延明は声を絞り出す。
心なしか目頭まで涙ぐんでくる。

「こ……こうもん、で、まってる」

掌にまで噴き出してきた汗を学ランの裾に握りこみながら、延明はその約束を取り付けた。
そしてその場から逃げ出すように、足早に廊下の向こうへ行ってしまった。

「……」

そのときの修吾の顔の、唖然としたような、どこかそれでもうれしそうな、きょとんとした表情を、大島 大河は見たことが無い。
レスリング部随一の巨体が廊下のまんなかで呆然と突っ立って居るのは別に特別なことではないがそれなりに目立つ。
往来する生徒が不思議そうに横目で見ているが、それ以外は何のことも無い日常の風景だ。

その中で、あの二人が交わした約束の瑣末さと、二人の胸中に秘めているであろう思いの大きさはあまりにも不吊り合いだ。

「……何してんだろ、おれ」

そして大島 大河もまた、自身の胸中に不吊り合いに膨らむ気持ちに苛まれている。
その感情がなんであるか、大島 大河にはわからない。



またもあの湿った嫌な風が、黙々とゲームに逃避する鳴海 延明の肌を撫でていく。
日中は確かに晴れていた。
だがいまや、校庭に被さる空はまたあの日のような重々しい雲がどっかりと圧し掛かっている。

約束というものをしてしまった。

それからの一日を張り詰めた気持ちで過ごした延明は、不良共に見つからないよう物陰に隠れながら、待ち人の到来を待った。

それを空の雲が嗤っている。
腹の中に抱えた雷を時折チラリとちらつかせながら、あのときのように見捨てて帰れと囃し立てる。

だが延明は約束というものをしてしまった。
天候不良程度では覆せない理由を持ってしまった。

鳴海 延明は身動きが取れない。
これで雨でも降ったものならきっと誰かが笑い話にしてくれるだろうし、僕もそんなに悪い気はしないはずだと強がっていた。

おそらく待ち人は現れない。
そういうものだと延明は自分を嗤った。



一方の静島 修吾といえば、授業中はまるでプリンセスからの長い恋文を待つかのように締まりの無い顔をしていて、隣の席の大河はこれもまたどこか面白くない気持ちで眺めていた。

おそらく、静島 修吾が友達と呼べる人間が自分だけだったというのが覆ろうとしているのを不安に感じているのだろう。
本当に瑣末なことなのだ。
それが何故こうも不安に感じるのかが未だにわからない。

だがそんなだらしない顔をしていた修吾も、部活の緊急ミーティングが長引くにつれて苛立った様子を見せ始めた。
こんな顔も大河は見たことが無い。
何事にも動じず仏頂面を保ち続ける修吾にどことなく憧憬を感じていた身としては由々しき事態だった。

ミーティングの内容は数日前に部室前で起きた不良同士の派手な喧嘩に注意を促し、そういうものと付き合うことの無いようにという、ただそれだけの内容だ。
だが我らが顧問は残念ながらそういう出来事に敏感で、既に小一時間がここに居ないものへの説教の時間に費やされている。

修吾も、そして大河も、窓の向こうの雲行きを気にしていた。
喧嘩の事実自体は修吾の口から大河も聞いていて、鳴海と二人でそれに巻き込まれそうだったという話を思い出す。

「……でだ、お前らはガタイもでけえし、そういう連中がよう、喧嘩おっぱじめたってだけで周りが迷惑すんのを……」

「せんせー、わかったから……雨降りそうッスよ」

「雨がなんだ、オレはなあ、お前らがそんなしょーもないことで未来に傷をつけるってことを本当に判ってもらうまで……」

「先生、ちょっといいスか」

大河が話の腰を折った。

「どうした大島」

「静島がそのときの喧嘩、巻き込まれたんスよ」

「お、いッ!?」

唐突な話に顧問は目を丸くした。
同時に修吾が大河を見る顔がどんどん赤くなっていく。

「しッ、しじ、まっ、おま、そういう、だいじな、ことをぉ……」

「いや、先生、こいつそのとき他に巻き込まれそうな奴助けたんすよ」

「へぁ!?」

「なんだっけ、鳴海って奴だっけ、そのときからコイツ懐かれちゃって、また不良に絡まれそうだっつてたんで今日一緒に帰ってやるって約束してて」

周りの生徒がざわつき始める。

「あ、先輩あれっすか、たまに部室覗いてたなんかまるっこい奴」

「そうそう」

「あー……それでお前、あさ鳴海のクラスが何処かって聞いてたのか」

「うちの部はそういう連中ばっかっすよ。んで、その鳴海が校門で待ってるんですけど」

顧問は訝しんだ。

「じゃあ、解散でいいか……ただし、大島と清水は今後の部活指導についての留意点を伝達するので少し残れ」

「わかりました」

部長の言葉に大河も頷く。

「大島……すまん」

「こんど学食のカレー奢りな」

大河はおどけた睨み顔で答えたが、やはりなぜか胸に支える思いがある。
なぜこんなことまでおせっかいを焼いているのだろう。

修吾は慌てて部室を出た。

夕立がもうそこまで来ている。



「すまんッ」

予期しない声に延明は顔を上げた。
あの、大きな体がこちらに駆け寄ってくる。

「ごめんな、ミーティング長引いちまって」

「あ、う、うん」

本当に彼が現れてしまった。
修吾を信じていないわけではなかったが、きっと何かまた良くないとこが起こって逢えないのだろうと思っていた。
彼は申し訳なさそうに太い眉を下げていたが、口元には柔らかな笑みが浮んでいた。

こんな顔を見るのは産まれてはじめてのことかもしれない。

「行こうか、もうじき雨が降る」



日が伸びてきたとはいえ、空はどんどん暗くなって行く。
歩む二人の気持ちはどこか満たされていたようではあったが、交わす言葉は見つからない。
隣を行く修吾の体のなんと大きいことか。
人間の体がこんなに分厚くなるようなこともあるのかと、延明はついつい横目で見てしまう。

修吾は何か相手の楽しめるような話でもないかと言葉を捜し、その目線も泳いでいるが、空は雲が早く流れて行くばかりで適切な話題は見つからない。

「し、」

「?」

「しじま、くん」

修吾、と名前で呼んだほうがいいと、あの大島という生徒には言われていたのだが、やはりまだ名前で呼ぶだけの勇気がなかった。

「このまえは、ごめんね」

「この前?」

「あの……勝手に、帰っちゃったから」

延明は最低限のノルマを達成する必要があった。
これでもう、もやもやとした罪悪感に苛まれることはないだろう。

「ああ……仕方ないよ、凄かったからな、雨」

「ごめん」

「その……気にするな」

不思議と、人の往来はない。
ただ、雨の予感だけがそこにある。

「……雨」

「え?」

「また、降りそうだな」

「うん」

話のきっかけを、まるで藁にでも縋るかのように掴む。

「延明に逢うときは、なんだか、天気悪いな」

「ごめん」

反射的に謝った。

「いや、延明は悪くないだろ」

そして延明は遅れて気がついた。
名前で、呼ばれた。

「……し」

そのとき、鼻先に一粒、決して無視はできない大きさの雨粒が落ちた。

「あ」

それこそ、あっという間に。
空からはまるで機関銃掃射の如く容赦のない雨がアスファルトへと撃ちつけてくる。
あまりにも咄嗟に、修吾は延明の手を掴んで、すぐ傍の床屋の軒先に引き込んだ。

「……」

タタミ一畳分無いわずかな空間の中に、二人は閉じ込められる。

「……すごいな」

修吾は滝のような雨を呆然と眺めながらそうつぶやく。

「……ごめん」

なぜか延明が謝るので、修吾は周囲に人の目が無いのを気にしてから、その頭を軽く撫でてやった。

「しかしなあ。床屋じゃしょうがねえな」

「うん」

「……」

心なしか雨は多少マシになってきたようだが、傘なくまだ歩き回れるほど天候は回復していない。

「……そうだ」

修吾は徐に荷物を下ろし、Tシャツに羽織っただけだった学ランを脱ぎ始めた。

「え」

「くさかったらゴメンな」

そしてその大きな学ランを、延明の頭からばさりとかけてやった。

「え、え」

「ほら、行こう」

修吾は延明の背中を推して、雨の中へと躍り出た。

「え、ぬ、ぬれちゃうよ?」

「俺はタオルあるから平気」

そう言って修吾は手ぬぐいを頭に掛けて微笑みかける。
無論そんなもので雨が防げるわけはなく、白いシャツは雨に濡れて、鍛えられた胸板に張り付いている。

「し、しじまくん……ごめんね」

「いいって、俺はお前が濡れる方がいやだ」

傘代わりの学ランのせいで、修吾がそのときどんな顔をしているのかはうかがい知れない。
そうでなくても結局その表情はいつもどおりの仏頂面で、あえてなにか変化を述べるとすれば、どこと無く頬を紅潮させていたくらいだ。

「……ね、ねえ、きいていい……?」

「ん?」

「ねえ、どうして、こう、いろいろ、気に掛けてくれるの……」

鳴海 延明はわからない。
もうずっとわからない。
なぜこうも、この生徒は自分のためにいろいろ尽くしてくれるのか。

「んん、それがな……俺にも実は、よくわかってないんだ」

「えっ」

修吾の顔を見ようとして、吹き込んできた雨に再び顔を伏せる。

「ただ……なんか、友達になりたくて」

「……そう」

「むしろ、俺のほうが、延明のこと振り回してる気がする」

「そ、んなこと、ないよ」

濡れた地面に自分たちが写る。
修吾はどこか向こうを見ている。

「うれしかった」

「……そうか」

「でも、友達とか、できたこと、なかったから……」

それこそ、誰かとこうして肩を並べて歩くということすら想像すらしなかった。
雨は少しずつ弱まっては来たが、どす黒い空は雨を止めてくれる気配は無い。

「……」

「……」

お互いに話題をなくして、二人きり、黙々と道を行く。

延明を雨から守る修吾の学ランは、やはりかすかに男くさかった。

あの十字路、踏み切りの音も雨音にかき消されそうな道。
修吾は初めて延明の領域に足を踏み入れていく。
すでに着ている服は靴下までぐっしょりと濡れていて、シャツなどはほとんど透けて服としての目的を果たせていない。

それでも、よかった。
むしろなにやら打ち付ける雨すら汗をかいたあとに浴びるシャワーのような清々しさで、とても気分がよかった。

「……ここだよ」

三階建て鉄筋コンクリートのアパートの一室、一階の手前という面白みの何もないところが、鳴海 延明の自宅だった。

「ありがとう……学ラン、濡れちゃった」

「別に、いいよ。また明日、学校で……」

「あ」

修吾は濡れた学ランを受け取り、そのまま踵を返そうとした。

「し、修吾くん」

そしてその足を止めた。

「か、かぜ、ひいちゃう、から……あ、雨が、止むまで……うちに、きてよ」

「……」

「……おねがい」




延明が言うには、両親が夜の仕事をしているので明け方までひとりなのだという。
延明は濡れた修吾の服を乾燥機に放り込み、靴には新聞紙を丸めて突っ込み、学ランを部屋に干して、という作業を修吾が想像し得なかった手際でこなしてしまった。

「の、ノブ、もういいよ」

「だめだよ、風邪ひいちゃう」

そして今や殆ど裸にまでひん剥かれた修吾は、その広い背中をバスタオルで拭われている。
小さく背を丸めてされるがままのその姿は、まるで洗った犬を拭く飼い主の情景のそれである。

修吾はとにかく恥ずかしかった。
照れ臭いというよりもっとネガティブな感情で、かっこいいところを見せるつもりがこんな結果になってしまい、バツが悪くて仕方なかった。

「お茶、いれるね……」

「い、いいって、そんな」

断る修吾に延明は首を横に振る。

「だって……お礼がしたいから」

「……」

より申し訳ない気持ちだった。
延明に気を使わせてしまっている。

部屋を見渡してみた。
棚に積まれたゲーム機、ソフト、漫画本。
ダンベルや雑誌通販で買ってもて余したトレーニング用具の散らかる自分の部屋とはまったく違う。
小汚ない割には殺風景な大島の部屋ともまた違う。

「温かいお茶でいい……?」

「お、おう」

延明自身が驚いていた。
初めて友達が来たにも関わらず、思いの外に気が回る。

「寒くない? 平気……?」

「……おう」

延明はマグカップを二つ、修吾の座す床に置いた。

「……」

「あっ……」

そして隣に座るや否や、修吾の太い腕に抱き寄せられた。

「あったけえ」

腕の中は確かに雨に濡れて冷えていた。
崩れた体制もそのままに、修吾はレスリング仕込みの体捌きで延明の体を包み込む。

「……あったけえ……」

延明は当惑していた。
冷えていた修吾の体には熱が灯り始めた。

そもそも、されるがままにされるのには慣れていた。
胸の奥底には、不良に絡まれたときに似た恐怖心が無かったと言えば嘘になる。
それでも相手は修吾であって、怯えて抗う事はしたくなかった。

「……すまん……」

「え……」

「なんか……こうしたくて」

冷たかった肌がもう暖かい。
共に薄着になった今ではその熱は直接伝わってきた。
怯えを隠せないであろう自分の顔を見る修吾を間近に見たかったが、部屋の電灯が眩しかった。

「はぁ……すまんッ」

しばらく成されるままだった延明は、その一言で解放された。

「修吾くん……」

責めるつもりはなかったが、名を呼んだ相手がわずかに身を竦めたのを見て何も言わなかった。

「……」

「……」

修吾は身を縮めて黙り混んでしまう。
窓に雨の打ち付ける音が再び強まり始めた。

「雨」

「ん」

「すごいね」

修吾は小さくうなずき、それから暫し無言。

「……ノブ、親御さんは?」

「親は飲み屋やってるから……明け方まで帰らないんだよ」

「そうか」

延明は小さくうなずき、そして無言。

「……」

「……」

黙して、ただ、雨の音を聞く。

「ぶひッ!?」

近くに雷がひとつ落ちたようだ。
唐突な閃光と轟音に、修吾は思わず延明の手を取った。

「……あ」

「……すまん」

バツが悪そうにその手を離す。

「……雷、にがて?」

「いや、そんなつもりは、なかった……んだが」

鳴海 延明はわからない。
こんなとき、どうしてあげればいいのかがわからない。

「……修吾くん」

「おう」

「……雨が止まなかったら……その、うち、泊まっていく……?」

「え、え!?」

修吾がより困惑したことで延明は後悔の念に苛まれた。

「あッ……ごめん、変なこと言って」

「い、いや、その」

巨体を揺すって修吾が否定する。

「ほら、の、ノブの家に迷惑かけたくない」

「う、うちは、いいよ、親帰ってこないし」

引き留めたくて仕方がない。
なぜなら。

「……夜、いつもひとりで、さびしい、から」

「……」



結果的に、落雷の為に路線が停まってしまって修吾は帰れなくなった。
延明は自分の服を修吾に貸すつもりだったのだが、胴回り以外の丈が足りずに仕方なく修吾は下着一枚という情けない姿で過ごす羽目になる。

「後ろからローラー来てる」

「えッ、うそ」

やれることもほかにないので二人は延々ゲームをして過ごしている。

「あー……」

スキンシップが異様に多い以外は普通に友達らしいことをしている。
むしろ、友達の出来たことのない延明にとってはその異様さなど知ったところではなく、そも決して悪い気分ではなかったので拒みもしな

かった。

否。
もしかしたらこう言うことを望んでいたのかもしれない。
触れ合いと言うのはかくも心地よく、充足していて、本当はこう言うことを求めていたのかもしれない。

ただ。
まだ二人にはある程度の線引きが存在した。
それは共に異なる理由から踏み出せない一線であった。

「修吾くん、やる?」

「お、俺はこう言うのにがてだから、いい……」

修吾は相変わらず、延明をその胸に抱えている。
その状態から身を離したくない。

「……ちょっと、休憩」

「おう」

延明はどうやらトイレに発ったらしい。

「……」

そしてひとりの時間をもて余す。

「……」

そうしている間に、気持ちが冷静になっていく。

「おまたせ」

延明が帰って来たとき、修吾はなにか憂い気な表情をしていた。

「……ごめん、退屈だよね……」

「いや……」

なにか申し訳ない気持ちになりながら、延明が隣に座す。

「……ノブさ」

「うん」

「……俺が抱きついたりすんの、嫌じゃないのか」

唐突な問いかけに、延明は不安になった。

「え……うん、別に……」

なにか試されているような不安感だった。

「……いや……その、さ」

「うん」

「……友達に、なりたいって、言ったけど」

「……」

「……」

不安はやがてなにか恐怖じみたなにかに変化していく。

「……ノブ」

「うん」

「……俺、さ」

「うん」

「……」

沈黙。
雨音。
不安と怯え。

「……その、さ」

「……」

「お前のこと抱き締めたとき、勃ってたろ」

「……」

言葉に出せないまま、頷いた。

「……それで、嫌じゃ、なかったのか……?」

「……」

意図を図りかねたが、首は横に振った。
事実、恥じらいはあったが拒絶はしなかったのは確かなのだ。

「……俺、ホモかもしんない」

「……」

修吾は、先伸ばしにしていた問題と向き合わなければならなかった。
延明と二度目に触れあった時から、そうかもしれないという自認はあった。
彼がいまだ超えられぬ一線がそこにある。
それをただ、延明と友達になりたいだけ、という考えで塗りつぶして誤魔化してきた。

「俺も……こんな気持ちになったこと、ねえから……わかんねえ……んだけど」

「……」

「の、延明は……俺がホモだったら……嫌だろう」

取り返しのつかなくなる前に、諦められたら楽だろうという気持ちだった。
正体が分かれば延明も快く去るだろうと考えた。
どうせ自分もこの気持ちが恋なのかわからないままなのだから、不用意に傷つけるよりは良いと考えた。

「……わかんない」

延明は一言だけ答えた。

「……」

雨音は小さくなったようである。

「……すまん」

「……修吾くん」

その声を発させた感情は恐怖だった。

「ぼく、は」

苦し紛れに、絞り出したような言葉だった。

「修吾くんが、いなくなったら、さびしくなっちゃう……」

震える手で、修吾の指先に触れた。
すがり付くのにそれが精一杯だった。

「……」

その言葉に修吾の心はおかしくなった。
まるで胸の中にあるべきなにかの臓器がなくなり、空洞になった胸がその喪失に悲鳴を上げたようになり、その空洞をどうにか埋めたいとでも言うかの如き、強すぎる衝動が暴れ狂った。
そして修吾は触れた延明の手を引き、虚ろな自身の胸中に押し込み、怯えて震える唇に舌を捩じ込んだ。

初めてのくちづけは、それこそ初めて学校という場にゲーム機を持ち込んだ時の、なにかとてつもなくいけないことをしているという甘美な罪の味に似ていた。



明かりを消し、床に二人が寝そべっている。
二人にシングルベッドはあまりにも狭かった。
延明はただ静かに、修吾の大きな体に触れている。
太すぎる首、鎧の様な胸板、樫の枝の様な腕。
それから鑢の様な掌。
修吾は黙ってその様を見つめ、隣のちいさくまるまった体を抱えていた。

確かにこの時、二人には過去に無いほどの充足を得ていた。
ただ、それが正しいことなのかについては確証が持てないままで、ただ、言葉も交わさずに互いの実在を確かめ合うばかりだ。

時おり二人は引き寄せられる様にくちづけを何度も交わした。
友達という枠を遥かに逸脱した行為であるという認識は互いに認めるところではあるのだが、寂しさという衝動の前に理性は無力だった。

互いに寂しかった。
それが二人を引き寄せたのだろうか。
寂しさを埋め合わせられる相手であれば誰でも良かったのだろうか?
二人にはわからない。

修吾の大きな体が延明に覆い被さり、もはや何度目かも解らないキスを交わした。

過去にテレビか何かで見た覚えがある。
猛獣に捕食される動物というのは、その命の終わりには不思議と痛みも恐怖も感じず、充足した気持ちで安楽死するのだという。

延明は、この優しい猛獣になら喰われてもいいと思っていた。



目覚めた時には延明の母親が、修吾の学ランにアイロンを掛けていた。
昨日の内に延明がメールをしていたらしく、友達が来るなら何か美味しいものを用意しておけば良かったなどと笑っていた。
一応、コンビニ弁当を持たせてくれようとはしたのだが、流石に学校にそれは持っていけないと延明に止められた。

優しそうな両親だったが、やはりどこか疲れている様に修吾には見えた。
自分の父親を見る様だった。

「ノブ」

二人は少し早めに家を出た。
町に人通りはほとんど無かった。

「……うん」

修吾はそっと、延明の手を取って歩いた。

空はやはり灰色だったが、雨はすっかり止んで、アスファルトの道は鏡のようだ。

握る手はやはりゴツゴツと堅く、そして暖かい。

本当に、こんなことをして良いのだろうか。
それでも、この手は離したくない。

どうせ誰か人通りがあれば離れてしまう手なら、繋いでいる時間は長い方がいい。

鳴海 延明はわからない。
彼はどうして、ぼくのことが好きなんだろう。

この人の為に、なにがしてあげられるんだろう。

ほんとうに、これは、悪いことではないのだろうかと。

「ノブ」

「うん」

「また……こうして、手、繋げられっかな」

ふと修吾は問うた。

「……」

そして延明はその手を強く握り返して応えた。

「……かなしく、なっちゃうじゃん……」

もうすぐ町中に出る。

もうすぐ、その手を離さなければならなくなる。



「起立」

「礼」

四限目のおわり、教室は途端にざわつき始める。

「静島、カレー食いいくぞぉ」

「おう……あー財布がやべぇ……」

その日も修吾はどこか様子が変ではあったが、大河はあえて気にしなかった。
どうせまた例のあいつの名前が飛び出すのだ。
その度に、何か変な気分になるのは御免被りたい。

「うお」

だがそうもいかなくなって、大河はつい声を上げた。

「……」

何かまるい生物がもじもじしている。

「ノブ」

「修吾くん」

名前で、呼びあっている。

「お、おひる、一緒に、いいかな」

眉尻をガクンと下げて、申し訳無さそうに、まんまる生物が仲間になりたそうにこちらを見ている。

「……」

修吾は当惑した様子で大河の顔色を窺った。

「馬鹿か、おれの顔色見てどーすんだよ」

大河は延明の背を叩く。

「今日、静島がカレー奢ってくれるってよ」

「え、え」

「延明いこ───ぜ───」

「お、おおしまァ!?」

結局、静島 修吾は二人分のカレーを奢らされて所持金がほぼゼロになった。
だが大河は何か面白くない。
それでも修吾は何か満たされた様な雰囲気で、五限、六限と締まりのない顔で過ごしたことが面白くない。

あの二人は何かがあやしい。

静島 修吾はそんな端からの目すらも気づかず、今日もまた、プリンセスからの長い恋文を待つ。



─つづく─


最終更新:2016年06月26日 22:44