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Gate,Gate,Paragate-第一話-:ライ麦畑でつかまえて

ある種のものごとって、ずっと同じままのかたちであるべきなんだ。
大きなガラスケースの中に入れて、そのまま手つかずに保っておけたらいちばんいいんだよ……

──J.D.サリンジャー“ライ麦畑でつかまえて”



「……」

目が覚めた時。

眼前に広がっていたのは、ただひたすらに遠い、金の額縁に飾られた真っ青な空だった。
ほんのりと、すこしばかり冷たい風が頬を撫でる。

不思議な気持ちだった。
冷たい水で顔を洗ったあとのような、妙にすがすがしい気持ちだった。
どこまでも遠い空、冷えた風に草がさざめく。
それに比べて、背中の大地は不思議と暖かかった。

「あの」

ふと、背中から声がする。

「目が、覚めたのかい?」

ほっとするような、優しい声だった。

「もし、目が覚めたのなら……」

そして、声の主に思い当たった。

「ボクの上から、どいて、もらえると……うれしい、な……」




空を囲む金の額縁は、背丈よりも高い麦の穂だった。
それが辺り一面、びっしりと群生している。
掻き分けて歩くにも一苦労だった。

「……これは“ライ麦”だね」

ヴォーロスは徐にそう呟いた。

「同じ麦の仲間である小麦に比べて、劣悪で痩せた土壌でも良く育つから、寒冷地とかで良く育てられるんだけど──」

農学生である彼だから、野菜や穀物に関する知識は折り紙つきだ。

「──それは元々、ライ麦が小麦畑に自生していた“雑草”を起源(ルーツ)に持っているからなんだ──」

麦畑を押し退けながら進むヴォーロスの広い背中を、ただただ追って歩く。

「──それこそ、人類が農耕を始めた時代にまで遡るんだけど、小麦畑の雑草のうち、麦に似ていたから除草を免れた種がまた繁殖し、そこからまた小麦に似ているものが除草を逃れ──」

そしてヴォーロスは困ったことに、おっとりした普段の様子が作物の話になると豹変するのだ。

「──意図しないまま人為的に“小麦に似ていないもの”が淘汰されて、やがて環境が合わずに小麦が絶えた畑でもライ麦だけが残るから、そこから穀物として利用──」

と、ようやくヴォーロスは我に返って向き直る。

「ご、ごめん、また止まらなくなっちゃったね」

そして何時ものように、眉をハの字に下がらせて、恥ずかしそうな笑みを浮かべた。



そもそもなぜ彼らがこのような場所に居るのか、お互いにはっきりと思い出すことが出来ない。

気がつけば彼らはこの“ライ麦畑”の只中で倒れていて、それもヤクモはヴォーロスを下敷きにした状態で意識を失っていたらしい。

「前にも何度か似たようなことはあったんだけどね」

ヤクモは徐に口を開いた。

「はじめは友達と気づけば一緒にジャングルの中……二度目は山の中。あー、三度目は海だったか」

「キミ、相変わらずいろいろ苦労してるよね……」

ヴォーロスとヤクモは、当てもなくただ“ライ麦畑”からの脱出を試みてひたすらまっすぐ歩いていく。

「誰から聞いたんだっけか……東京に開いてるゲートの近くでは“異世界”と重なりやすい場所があるって」

「じゃあ、この“ライ麦畑”も、異世界ってことなのかな」

「異世界、って言うにはちょっと拍子抜けけどねー……」

困ったことにこの畑に入ってから、携帯電話の電源が入らない。
こう言うときばかりでしゃばり出てくるサロモンくんも、気配すら見せなかった。

そもそも左門 ヤクモにとって“異世界”とは“東京”そのものだった。
彼が暮らしていた東京と“東京”は明らかに異なっている。

ヤクモの産まれた東京では、新宿の公園に巨大な光の柱なんて立つことは無かったし、側を歩くような“獣人”も、空想の存在でしかあり得なかったはずなのだ。

「とは言っても、ボクの暮らしていたキーテジでも、ライ麦は良く育てていたよ」

「ここがそう?」

「いや、キーテジとはまた別の世界のようではあるんだけど」

当たり障りのない会話が続く。
そうしていたいと思うほど、二人にとってこの牧歌的にも思える光景があまりに物寂しく、心細かったからだ。

人の声、鳥の声、虫の声……それすらも聞こえない。

ざわざわ。
ざわざわ。

風に応える麦穂の声しか聞こえない。

青い空をこんな恐ろしく感じたことは無かった。
このただ広いなかで、二人きりと言うのはあまりにも心細かった。

「……」

稲穂が金色に光っている。
陽が傾いてきているのだと、ヴォーロスは悟った。

「ヴォーロス、疲れた」

歩きづめだったヤクモがしゃがみこむ。

「もう少し頑張ろう、早くここから抜けないと」

その語気はわずかに強かった。

「さっきも言ったけれど、ライ麦は“寒冷地”で良く育てられるんだ……つまり、ここは夜になると“冷え込む”ってことさ」

「……凍えちゃうかもしれないってこと?」

「うん、だから陽が沈む前に、寒さを凌げる場所を探そう」

ヴォーロスがヤクモの手を取る。

その太くてがっしりした腕に支えられて、ヤクモは重い腰を上げた。



左門 ヤクモの日常は、ずいぶんと前に壊れてしまった。

それが何ヶ月前のことなのか、いや、何年前のとこだったか。
肝心な部分の感覚が、霞がかかったように曖昧なのだ。

ただいつもの退屈な日々の手慰みにダウンロードしたスマートフォンのアプリゲーム。
それだけのはずだった。

閉鎖された“東京”。
そこへと重なる“異世界”の存在。
そして、“異世界”から“東京”へと呼び寄せられる、ヴォーロスのような人外の存在……“転光生”。

いまいち噛み合わない常識を記憶喪失ということにして、突然得た謎の“力”で降りかかる火の粉を払ってきた。

そうこうしている間に、この“東京”を取り巻くパワーゲームに巻き込まれ、あろうことか“集団(ギルド)”の長の地位まで得てしまった。

左門 ヤクモにとっては、すべては成り行きまかせの選択だった。

それは果たして自分の選択だったろうか?

ヤクモの中で、なにかが曖昧になってきている。

それに対しての危機感すら、なぜか不思議と曖昧なのだ。



「……だーれかさんっとだーれかさんっがむっぎばったけー……」

みるみるうちに辺りが暗くなりだした。

「チュッチュチュッチュしーていーるむっぎばったけー……」

「キミほんとうは幾つなんだい……?」

心細さを払うように、ヤクモはおどけた歌を口ずさむ。
それすら薄暗くなりつつある空へと吸い込まれて消えてしまった。

「でも知ってるかい、それ、もとはライ麦畑の歌なんだよ」

「そうなの?」

ヴォーロスは時おり背後のヤクモを気にかけながら、軍手を嵌めた手でライ麦の穂を押し退けていく。

「古い昔の民謡でさ」

「じゃあこれ、替え歌なんだ」

「まあね、でも原曲も大体そんな感じの意味合いだよ」

「えっ」

口ずさんでいたヤクモが頬を赤らめて変な顔をした。

「ほら。ライ麦って、大人が隠れられるくらい背丈が高いだろ」

おそらくはヴォーロスのトレードマークである麦わら帽子くらいしか、畑の外からは見えないだろう。
ともすれば、ヴォーロスより背の低いヤクモの姿など、完全に隠れて見えないはずだ。

「だからね、ライ麦畑は男女の逢瀬の場所だった」

「お、逢瀬」

「“ライ麦畑で出会ったら、男と女のお楽しみ”……大体そんな感じの──」

と、ここまで語ってヴォーロスは急に恥ずかしくなった。

「……ち、違うよ、作物のことを調べるうちに、その作物が育てられていた地域の風習とかにも詳しくなってくるものでさ」

そう言い訳を重ねながら、麦わら帽子を深々と被って顔を隠す。

「まあ、男同士で恥ずかしいもなにもないけど」

ヤクモはそう口を尖らせた。
反らした目線は何か、複雑なものを孕んでいた。

「……んッ、ヤクモ!」

ヴォーロスの大きな身体が麦畑の向こうに消えた。
一瞬の不安にヤクモがその先を追う。

「……」

突然開けた視界のなかに、一軒の古小屋を見つけた。

「良かった、水車小屋だよ! 小川もある!」

たしかにヤクモは小屋の存在に安堵を感じたものだが、ヴォーロスはそれ以上に喜びを見せた。

「当面はこれで大丈夫だ、水の心配は無いし、自生してる麦を挽けばとりあえず食事もどうにかなる」

「当面は、かあ」

特に表情変わらず、ただ疲労の色の濃いため息混じりの言葉を漏らすヤクモの姿に、ヴォーロスは少し胸につかえるものを感じた。

「……出来るだけ早く、もとの世界にもどらないと」



彼を知る多くの人にとって、左門 ヤクモというのは、人一倍とらえどころのない人物だった。

人聞きの悪い言い方をすれば“得体の知れない”人間だった。

それを本人も自覚しているのかどうか、彼のコミュニケーションはどこか、薄皮一枚隔てたような微妙な距離感を思わせた。

ヴォーロスは知っている。
とらえどころのない霞のようでありながら、彼は遥かに強かなのだ。



「げへッ、ェホッ、えほっ」

ヤクモが振った毛布からはずいぶんと堆積したらしいおびただしい埃が舞い散った。

「ヴぉっ、げほっげほっ、これッ……大丈夫なのかなあ」

「背に腹は代えられないね……明日陽が昇ったら一度干しておこう」

小川から水を汲んできたヴォーロスが応える。

「あ、あとヤクモ、すまないけど……」

「ん……ああ」

察したヤクモは毛布をベッドに戻し、徐に釜戸へと近づく。

「使えるかな?」

釜の中には裏手口に積まれていた薪をひとしきり積めてある。
棚の上にこれまた積もった埃を吹き飛ばし、クモの巣絡まるマッチ箱を取り上げる。

「お、点いた」

マッチを釜に放り込む。

「ぅえっほげっほ!! げっほげっほ!」

夜露に薪が湿っていたのか、もうもうと立ち上る白い煙に咳き込みながら、ヤクモは慌てて釜の戸を締めた。

「……」

「ごめんね、でもこれで夜間は大丈夫そうだ。食事もなんとかなりそうだしね」

申し訳なさげにヴォーロスは眉をハの字に歪めて微笑んだ。

彼は火を極端に恐れていた。
“東京”に召喚される以前、故郷の世界でなにかトラウマがあるらしい。
ヤクモはそれについて根掘り葉掘りは聴かなかった。

「でもさ、火がダメってなると、自炊とか出来てたの?」

「学校の食堂に野菜を卸す代わりに三食賄ってもらってたから、自炊はほとんどしないんだよね……」

ヤクモが些か冷たい視線を投げ掛ける。

「でッ、できないわけじゃないんだよ!? 電気コンロだってちゃんとあるし……」

「ふぅーん……」

「けっ、研究者たるもの、官能検査もちゃんとしないといけないからね! あ、官能検査って言うのは検査器機の代わりに、検査員の五感を使ってする検査のことで──」

「それは前に聞いた」

「あっ、ご、ごめん……」

そしてヴォーロスはより眉毛をハの字に歪める。

「まあ、なんか舞い上がっちゃうのもわかるけどさ」

「どういうことだい?」

「ほら、二人っきりってそうそう無かったじゃんか。ハロウィンの時もカーシー達がいたし、学校で会うこともないし」

少しだけヤクモが視線を逸らす。

「なんかさ、初めて友達とお泊まり会する気分って言うかさ」

「言わんとするところはわからなくも無いけど……きみってすごくポジティブなんだね」

そうかもしれない。

明らかに異常な事態の中にありながら、どうしてこう前向きでいられるのだろう。

果たして過去の自分はもとからこうであったのか。

それすらなにか“曖昧”なのだ。

「……ひとりっきりだったら、こうも行かなかったと思うけど」

「そうかい?」

「ヴォーロスがいなかったら、多分僕は今夜にでも凍え死んでたかもしれないわけでさ」

そう言ってヤクモは微笑んだ。

「……さて、じゃあ、考えようか」

「?」

ヴォーロスは真っ直ぐヤクモを見据える。

「ボクたちはどうしてここに来たんだろう?」



どっぷりと夜は更けていき、薪の燃える音だけが小屋のなかに聞こえてくる。

いくら議論を重ねたところで、なぜ二人がここにいるのか、確かなことは何もわからなかったのだ。
それどころか、ヤクモもヴォーロスも、ここに来る直前まで何をしていたのかがはっきりと思い出せないのだ。

「一番考えられるのは……どこかのギルドが何らかの“権能(ルール)”でボクらをここに閉じ込めた」

「そしてその標的はたぶん僕。ヴォーロスはなんかの拍子にそれに巻き込まれた」

“東京”は今……“アプリゲーム”とされるバトルロワイヤルのただ中にあった。
ヤクモが今暮らす“東京”は四方を閉ざされた封鎖都市。
その中で最も強大な力を得、最も多くの集団(ギルド)を従え、最も“多数派”となったものの“権能(ルール)”が、東京を支配する……

そのパワーゲームのただ中に、左門 ヤクモもまた“巻き込まれた”のだ。

「なんかの拍子って……」

「すくなくとも僕には狙われる理由があったからね」

その理由。

ヤクモは曲がりなりにも新宿に乱立するギルドの、それもここ最近で図らずも妙な急成長を見せる要注意ギルドの長であること。

彼が持つその“権能(ルール)”が、なにかゲームの運用上で驚異になり得ると多くのものが考えているらしい、ということ。

そして、少なからず。
彼の“在り方”を疎ましいと考えるものがいるらしい、ということ。

一方のヴォーロスには、それに相応するだけの理由を持ち合わせはしなかった。

「……」

押し黙る相手に対して、ヤクモは表情を変えなかった。
胸中に、もやつく曖昧な気持ちばかりが膨れ上がる。
例えばそれに、相手を傷つけた後悔の念であるとか、どうしようもできない状況への憤りであるとか、そう名前をつけてとりあえずの納得を得ることはできた。
だがそのいずれにしても、沸き上がる感情を適切に表現できる言葉ではなかったのだ。

「腹が立つな」

「ごめん」

珍しく語気を荒げるヴォーロスの怒りの矛先は自分であろうと仮定して、ヤクモはそう謝った。

「キミじゃないよ。前にも話したろう? ボクはそういう、卑劣なやり口が嫌いなんだ」

ヴォーロスの感情は思いの外顔に出やすい。
特にその太い眉を見れば明白だった。
普段はたいていハの字に下がっている眉が、今や平行を越えてその眉尻を吊り上げている。

「確かにボクは巻き込まれたのかもしれない、でも、友達にそういう嫌がらせをするやつをボクは許さないよ」

「……」

「むしろボクは幸運だったかもしれない、キミを独りにしなかったから」

「ヴォーロス?」

拳を握ってヴォーロスが立ち上がる。

「ヤクモ、ボクは、キミを絶対東京に帰してみせるよ!」

「……ありが」

どこか溜め息混じりにヤクモが答えかけた時。

「……」

床が、みしり、と鳴った。

「ッ……」

「……」

みしり、みしり。

なにかが歩み寄って来る。

『どなた?』

嗄れた女の声だ。

『アビゲイル?』

闇の奥から姿を表した。

『帰ってきたの……?』

老婆は杖で足元を探る。

「あの」

声を発したのはヤクモだった。

「ヤクモ……!」

『どなたなの!?』

老婆は怯えた言葉を発した。

「ごめんなさい、僕たち道に迷ってしまって……帰り道を見失ってしまったんです」

『……そう、それでわたしの家に……』

「知らずに上がり込んでしまってすみません、すぐ立ち去ります」

老婆は足元を探りながら、ゆっくり闇から月明かりの下に歩み出る。
彼女の瞳は白く濁っていた。

『いいのよ、普段はこの家には居ないの……もう暗いでしょう、余計に道を見失ってしまうわ』

老婆は微笑み、傍らの安楽椅子を求めて杖で探る。
ヴォーロスが見かねて椅子を差し出し、老婆は軽く会釈して腰かけた。

『あなたたちはどうしてこの村へ?』

「僕らは……」

「隣村の農家です。配達の帰りに、こちらのライ麦畑があまりに見事で、つい道を……」

ヴォーロスがウィンクする。
“話を合わせろ”ということか。

『ああ、そうなの……』

安楽椅子を揺らしながら老婆は穏やかな顔を浮かべる。

『アビゲイルも、そうして道を見失ったんだわ……ライ麦はほら、背丈が高いから』

「アビゲイルって?」

ヤクモは尋ねた。

『孫娘よ』

応じた声には悲痛な色があった。

『村で騒ぎがあって……行方がわからないの』

『サラ?』

今度は男の声だった。

『隠れて、お願い!』

老婆は小さな、鋭い声で二人に告げた。

『サラ、いるのか?』

『お願い!』

その剣幕に二人は急いで粉挽部屋の奥に隠れる。

『サラ……だれか居たのか?』

『わたしだけよ。アビゲイルが帰ってるんじゃないかって』

『……彼女は帰らないよ……ほら、君もこんなところで独りじゃ何言われるかわからないぞ』

『そうね……もう少ししたら帰るわ……心配しないで』

微かにやり取りが聞こえた後、戸の閉じる音がした。

『……旅人さん、もう大丈夫よ』

老婆サラの声に二人が顔を出す。

『ごめんなさい……さっき話したでしょう、この村で騒ぎがあって……皆おかしくなってしまったの……』

椅子から立ち上がりながら、サラは肩を落として二人に語る。

『今晩はこの家を使っていいわ……ただしこれ以上火を炊かないで。だれかが覗きに来たらあなたたち大変なことになる』

「……」

『それから日が昇ったら……すぐこの村を立ち去ったほうがいい』

覚束ない足取りで、老婆は闇へと帰っていく。

『この村は……呪われてしまったのよ……』



それから夜も更けて、薪もすべて燃え尽きた。

微かに黴臭い毛布にくるまり、二人、寒さに耐えている。

「ヴォーロス」

「なんだい」

「寒いのでもうちょっと寄っても構いませんか」

「あ、ああ、構わないよ」

毛布一枚ではあまりに寒い夜だった。
凍えるヤクモの反面、ヴォーロスは暖かい毛皮に包まれていることが救いになった。

「ボクの毛皮、その……ゴワゴワしてるだろ……ごめんね」

「ううん、あったかいよ」

ヴォーロスに背を向けたまま、ヤクモは腕のなかに潜り込む。

「……あったかいよ」

「……」

時おりヴォーロスは、ヤクモと話している最中に、なにか胸につかえるものを感じていた。
ヴォーロス自身、それはヤクモに起因するものではないとそう結論付けてはいたのだが。

彼にはかつて、故郷に無二の親友があった。
彼が嫌う、卑劣で力あるものによって故郷を逐われた。
ヤクモはその親友に、どこかがあまりに似すぎているのだ。

ヴォーロスは時おり、ヤクモと話しているのか、逐われた嘗ての友に話しかけているのが、それがわからなくなる時があった。

それがひどく、胸につかえるのだ。

「……寒いだろ」

ヴォーロスは畑仕事で太くなった腕でヤクモを包み込む。

「ありがと……ごめんね」

「なにがだい?」

「僕が女の子だったら嬉しかったろうなって」

徐にヤクモがそう茶化した。

「そそそ、そんな、ヤクモが男だからこんなことできるんであって、じょ、女性だったらこんな」

「しーっ」

「う、むう」

ヴォーロスは押し黙る。

「……男同士なら恥ずかしくないの?」

ふとヤクモが小声で訪ねる。

「うんまあ……ヤクモは友達だし……」

その実、ヴォーロスはヤクモの“協力者”の一人ではあった。
それがギルド構成員とどう違うのかをヤクモはよくわかっていない訳だが、ヴォーロスはヤクモの他の“友人”たちと一緒に彼のギルドの模擬戦に駆り出されたりもしているし、その終わりに皆で食事をしたり風呂に入ったりと、ヴォーロス自身には特に今さらなにか思うところがあるわけでもなかったのだが。

「あっそ」

「なんだいヤクモ、なにか不満なのかい?」

「べつにー」

ヤクモはそうでもないようだった。



早朝は朝靄の中にあった。
小川沿いの湿潤な空気が、夜間の気温の低下で結露して、日が昇ると共にそれが再び蒸散するのだとヴォーロスが教えた。

おかげで二人は早朝からの移動を阻まれた。
老婆の願いと裏腹に、二人はすぐこの畑を離れることが出来ない。

「それにしても妙じゃない?」

ヤクモが尋ねる。

「この小屋、おばあちゃんが通ってた風ではなかったよね」

「うん、別のところ……おそらくおばあさんのお子さんの家で普段は暮らしてる様なことは言ってたけど」

「僕らが火を炊いたから、その煙を見て孫が帰ってきたんじゃ無いかって見に来たってこと?」

ヴォーロスは首をひねる。

「でもおばあさんは盲目だし……家族が見つけておばあさんに伝えたのかな?」

「だったら親が見に来るはずだよね。おばあちゃんより心配するべきは親だろうし……」

靄が晴れるまで、二人は議論を繰り返す。

「やっぱり、なにかがおかしいんだ。ボクらがこの畑に現れて、結構な時間歩いてきたわけだけど、人には誰も会わなかった」

「まあ、小屋の放置っぷりから人が居ないんじゃないかとは思ってたけど」

「けれど、おばあさんや村人は現れた……ボクが妙に思っているのはね」

ヴォーロスが窓の外を一瞥する。

「稲穂はこんなに実っているのに、だれもライ麦を収穫してないんだよ。粉挽小屋だって使えるのに」

「収穫期じゃないんじゃない?」

「いいや、あの寒さからして収穫期はむしろ過ぎてるくらいなんだ。それにこの畑は管理されてない、麦がほとんど野生化してしまってる」

かつて、故郷では農耕を司るものであったというヴォーロスの見立てに間違いはないのだろう。

「この規模で野生化してるってのは、相当の期間、この畑が放置されたことを意味している。なのに村人はなぜここを放置してるんだろう」

「他に土地があるんじゃない?」

「いや、ライ麦は痩せた土地でも栽培できるって言ったろ。つまり、ここでは他の作物がうまく育たないんだ。それは、このライ麦がこの村の重要な“財源”であることを意味している」

眼鏡を指で押し上げながらヴォーロスは推察を続ける。

「その重要な“財源”であるライ麦をここまで放置するっていうことは……やっぱり、この村には“人が居ない”としか思えないんだよ」

ヤクモの面持ちが変わる。
なにかと斜に構えた表情の多いヤクモの顔にも、不安の色をヴォーロスは見て取った。

「おばあちゃん、言ってたよね」

わずかに沈黙し、再び口を開く。

「この村は、呪われてる、って」

「……」

二人は押し黙る。

「……大丈夫だよ。二人でちゃんと、東京に帰れるようがんばろう」

ヴォーロスの根拠の無い言葉だけが、当面の心の支えとなった。



日が高くなるにつれて靄が晴れていく。
二人はようやく行動を開始した。

「大丈夫かい?」

「ん、もうちょっと手前」

ヴォーロスに肩車されたヤクモが小屋の屋根に手をかける。

「肩車なんてもう何年もされたこと無い」

「ボクだってそうそうしたこと無いよ……っと、届いたかい?」

「うん、届いたけど登るにはちょっと高さが足りない……」

「そうしたら、ボクの手に足をかけて。そのまま肩までよじ登れるかい?」

言われるがまま、ヴォーロスの手に足を載せ、持ち上げられるままに両肩へ足を運ぶ。

「大丈夫なの?」

「体だけは頑丈だからね、届く?」

「うん、これなら登れる」

こうしてヤクモは小屋の屋根に登り、煙突を伝って畑の端を探した。

「えっと……小川を超えた先だ、あっちの方角に村っぽいのがある」

「やった、さっそく移動しようヤクモ!」

「でも……」

ヤクモは言いよどむ。

「……目の見えないおばあちゃんが、麦を押し退けてこの距離を歩いてきたって……?」

それを聞いてヴォーロスの表情が曇る。

「……やっぱり、なにかが妙だね」

「ところでさ、僕どうやって降りれば良い?」

「あ」

ヤクモが冷ややかにヴォーロスを見る。

「じゃ、じゃあ、ジャンプしてボクが受け止めるってのはどう!?」

「大丈夫なの!?」

「が、頑丈だって言ったろ?」

ヤクモの胸中でなにかがもやついた。

「じゃあ……いくよッ」

「いいよ!」

「どっせいっ!」

かけ声と共にヤクモは屋根からとび降りる。

「ふん、ガッ!?」

ヴォーロスは確かにヤクモを受け止めたが、その反動でそのまま背中から倒れ込んだ。

「……大丈夫?」

「えへへ……大丈夫だったろう?」

そう笑いかけるヴォーロスの顔にさらになにかがもやついた。

「だいたいキミ、ここに来たとき、ボクのこと下敷きにしてたじゃないか」

「言われてみれば……」

それがどういう状況だったのはわからないが、確かに今の体勢と似ていた気がする。
ヤクモはなぜか急に恥ずかしくなって、ヴォーロスから身を離した。

「これがほんとのキャッチャー・イン・ザ・ライ、ってね」

「なにそれ」

ヤクモが差し出した手を取ってヴォーロスは立ちあがり、ジャージの尻についた土埃をはたく。

「道すがら教えてあげるよ」



怖いほど高い青空に、金の麦穂の額縁が揺れる。
まるで一日前と同じ風景。
ヴォーロスはやはりヤクモの先を歩いてライ麦の穂を押し退けていく。

「“ライ麦畑でつかまえて”って知ってる?」

「ああー、名前だけは」

「サリンジャーって人が書いた小説なんだけど、それの原題が“キャッチャー・イン・ザ・ライ”」

ざわざわ。
ざわざわ。

麦穂が風にざわめいている。

「主人公は成績不良で学校を退学になるんだけど、彼は大人の世界は欺瞞に満ちていると思って世間になじむことが出来ない」

ざわざわ。
ざわざわ。

他に聞こえる声はヴォーロスの他に無い。

「学校を去った彼はゆく先々でトラブルにあって、どんどん世の中に嫌気がさしていく。結局彼は一度家に帰って妹と再会するんだけど」

ざわざわ。
ざわざわ。

気持ちは変わらずもやついている。

「妹と話すうちに、彼は一つの夢を見つける……それは“ライ麦畑のキャッチャー”になるってことだった」

「なにそれ」

ヴォーロスの広い背中を追いながら、ヤクモは尋ねた。

「彼のね、イメージの中での話なんだ。どこか広いライ麦の畑みたいなところで、子供たちが遊んでいる」

冷たい風が通り抜ける。

「彼はその畑の、崖の縁に立っていて、子供たちが走り回る中──崖から落ちそうになった子供を捕まえてあげるんだ。落ちてしまわないように」

麦のさざめきが渡っていく。

「そういう人間になりたいって、彼は思うんだよ」

「ふうん」

「なんだかそれって、キミみたいだなーなんて、ちょっと思ったりもするよ」

ヴォーロスはそう言って笑った。

「成績不良で退学ってあたり?」

「そうじゃないよ、いじわるだなあ」

ヤクモの心はもやついたままだ。

「……ボクはそういう人間が好きだし、ボク自身も、そうなりたいなって、思うんだ」

「……」

「キミがハロウィンの時に助けてくれて……よりそう思うようになったよ」

なぜだろう。

喜ばしい言葉のはずなのに、ヤクモの心はよりどんよりと曇っていく。

なにもないほどの青空と、揺れる金の壁の鮮やかさとまるっきり逆だった。

「ヴォーロス」

「なんだい?」

「僕がもし、その崖から落ちそうになったら、捕まえてくれる?」

もやつく気持ちの端の端が、口から言葉になってまろび出た。

「──うん、当然だよ」

「……そう」

その言葉を、ヤクモは受け取ることが出来なかった。

「それはそうと、なんかやたら詳しいよね」

「ああ、東京に来てから勉強の合間によく本も読んでたからね……ライ麦ってタイトルが気になって」

「タイトルって……」

「図書館で食い入るように読んでた時期もあったよ。他にも“サラダ記念日”も読んだし、“にんじん”も読んだし、“大きなかぶ”もかわいらしくて良かったよね」

文学好きと言うには偏りのすさまじいラインナップだった。

「……ほんとヴォーロスって野菜だよね……」

「どういうことだい!?」

「それにしても……」

ヤクモの歩みが遅くなる。

「……おなかがすいた……」

ほぼ丸一日、何も食べていない。
この状況の異常さですっかりと忘れてしまっていたが、二人とも相当に空腹のはずだった。

「そ、そういえばそうだね……ライ麦を挽いてパンでも焼ければと思ってたんだけど……」

「ヴォーロス、なんか野菜だせる“権能(ルール)”持ってなかったっけ」

ふと思い立ってヤクモが尋ねた。

“アプリゲーム”に参加するものが持つ、神なる力を注がれる器、すなわち“神器”。
それら神器には、現実の理(ルール)を上書きする“権能(ルール)”が備わっている。

「えっと、野菜を出せる、ってのは本来の使い方じゃないんだけど……」

ヴォーロスは徐にジャージのポケットからスマートフォンを取り出した。

「でもヤクモ、ここに来てからボクのスマホは使えなくなっちゃってるし、“神器”はバトルフィールドの中で無いと使えないはず……」

そうだった、とヤクモは頭を抱えた。
彼らに与えられた力は“ゲームの中”でしか使えない。
アプリユーザー同士が敵対した際に展開される、擬似的な空間の中でしか、彼らは神の力を扱うことが出来ないのだ。
その空間の中では、肉体の死すらも偽装されたもの、フィールドが消えれば、それすらも巻き戻る。

「って、ええ!?」

ただし、一つだけ、例外が存在する。

“アプリユーザー”と、“転光生”だけしか居ない、“閉鎖された領域”の中では──“権能(ルール)”を使い続けることが出来る。

ヴォーロスの腕の中に、怪しげな光を纏った、大きな“籠”が忽然と姿を現した。

「な、な、な、なんで!?」

二人は狼狽した。
ヴォーロスの権能であれば空腹とは無縁となるが、その喜びよりむしろより強い不安感が彼らを襲った。

いつぞやのハロウィン、二人が出会ったときに起きた奇したる事件、そのときにある少女から云われた言葉を反芻する。

「閉鎖空間内に、アプリユーザーと転光生のみが居る、その状況下で……」

「“神器”は、ゲームの外で動作する……」

その言葉の意味することとは。

「つまり、ここは閉じた世界で……」

「ここには、ボクとヤクモしか、居ない……!?」



“少なきを豊かにする”──それがヴォーロスの持つ“権能”だった。
食物の枯渇するこの状況下で、ヴォーロスの神器は正常に作動した。
籠から現れるライ麦パンの香ばしい香りはヤクモの空腹を十分満たしてはくれたのだが、二人は黙々と、得体の知れない恐怖感の中を歩き続けるほか無かった。

「……ヤクモ」

ライ麦ばかりだった視界が開けた。

たしかに、そこは、村と呼んで差し支えないのかも知れない。

しかし。

「……朽ちてんなー……」

ほとんどの家屋が無人になって久しいという様相だった。
木戸は朽ち落ち、庭は枯れ果て、道のそこらに野生のライ麦が穂をつけている始末。

「おばあちゃん家から動かない方がもしかしたら良かったかも知れないよね」

「そうもいかないだろ?」

廃屋をおそるおそる覗きながらヴォーロスが応じた。

「それにしても……あのおばあさんや、村の人はどこへ行ったんだ?」

「……」

ヤクモが足を進めていく。

「……ヴォーロス」

「なにかあったかい?」

ヤクモは無意識に、その嫌悪感、そして恐怖に表情筋をわずかに強張らせた。

「……」

「ヤクモ?」

ようやく、ヴォーロスが追いすがり、

「……」

その光景に、閉口した。

村の中心だろうか。
ずいぶんと開けた広場の中心、怪しく枝を広げる大樹があった。

その根元に、乱雑に置かれた木箱や机に、どこか祭壇じみた畏怖を感じた。

そしてその直上、一本の縄が、枝からまっすぐに垂れ伸びている。

先端がぐるりと環を描き、執拗に結びつけられたそれは。

「……」

即席の、絞首台だった。



二人の捜索は日の傾きと共に打ち切られ、彼らは比較的原型を留めた廃屋で夜を凌ぐことにした。
間違いなく、この村は遺棄されている。
それも、なにか血なまぐさい背景を抱えて、それを知るものの全てに見捨てられて。

彼ら二人はそう結論づけた。

「ん、おばあちゃん家のベッドよりマシそうだ」

毛布の埃を叩きながらヤクモが言った。

「なるだけ早くここを離れよう……おばあさんの言ってたことが気になるんだ」

外からヴォーロスが戻ってくる。

「いいもの見つけたよ」

その手にはなにか萎れた葉がいくつか握られていた。

「セントジョーンズワートにアップルミント。これでお茶を煎れようか」

「ミント?」

「ハーブだよ、時期はちょっと過ぎちゃってるみたいだけど。不安な気分のときにいいんだよ」

井戸から汲んだ水で埃の被ったポットとカップを洗い、毟ってきた葉をそこに入れて、水を注いでおそるおそる薪ストーブの上に載せた。

「ひ、火の番だけ頼んだよ」

「ン」

やがて部屋の中に草の香気が立ちこめた。
たとえるなら、夏の草むらの蒸れた匂いに、涼しげなミントの香りを足したような匂いだった。

「……」

ヤクモは窓の外の広場を見やる。
例の樹は見えなかったのだが、ただの意匠かなにかには見えなかった。

「そろそろいいかな」

立ち上がろうとしたヴォーロスに代わって、ヤクモがポットを手にとり、茶を注ぐ。

「あ、ありがとう」

カップを掲げてヴォーロスが微笑んだ。

「……味のないガムみたいだ」

「はは、そうだね」

好き好んで飲むようなものではなかったが、鼻に抜ける香気と腹の底が暖まるのが心地よい。

「……なにもわからないって、気分が悪い」

「……そうだね」

ハーブティーの湯気を揺らすため息混じりに、ヤクモは胸のもやつきにひとつ、また適当な理由をつけて吐き出した。

「ヤクモ、キミたしか、前にも似たようなことがあったって言ってたよね」

ふとヴォーロスが思い立つ。

「その時はキミ、どうやって戻ってきたんだい?」

「あー……うーんと……」

ヤクモの視線が宙をなぞる。

「うまく言えないんだけど……なにかしらの原因があってさ、それをなんかいい感じに解決したら、帰れた」

「なにかしらの原因?」

「……なんていうかさ」

少しだけ、躊躇い混じりの思慮を巡らせ、ヤクモは口を開く。

「……助けを、求めていたのかな」

「……」

「世界が、こう、助けてほしい、って……なんか、そんな感じ」

そんなつもりは無かったはずなのに、やたらと主語が大きくなった。

「……そんな感じ、しない? ここも……なんかさ」

「うーん……」

釈然としないヴォーロスは、だがその気持ちをひとまず飲み下す。

「……じゃあボクらは……この世界を救うために呼ばれた……?」

「いや、どうかはわかんないけどさ」

広がりそうな話をヤクモは制する。

「前も別に大それた話じゃなかったんだ、もっとこう、個人的な問題が巡りめぐって異界化を起こしてた」

「個人的な……そう考えると思い当たるのは」

「……アビゲイル」

この世界で、辛うじて思い当たる名前だった。

「彼女が居なくなったことが異界化の原因?」

「ちょっと、短絡的すぎる気もするけど……ん」

ヴォーロスが窓際になにかの気配を感じる。



「にゃあ」



ちりん、と首元の鈴を鳴らして、猫が鳴いた。

カラスのような黒猫だった。

「猫だ」

ヤクモがあっけにとられて見るままを口にする。

「……」

ブルーに光る瞳を逸らして、そ知らぬ態度で顔を洗う猫の姿に、ヤクモは思わず立ち上がる。

「ヤクモ?」

「鈴をつけてる」

そろり、そろりと、ヤクモは猫に歩み寄る。

「誰かが飼ってるんだよ」

その推察にヴォーロスも目を丸くした。

「飼い主がどこかにいる!」

ヴォーロスの声に驚いたか、猫は窓の外へ飛び出した。

「ああッ、待って!」

ヤクモは即座に飛び出した。
それに遅れたヴォーロスは戸縁に躓いて大地を五、六度転げ回る。

夕間暮れの空の下、猫は石畳に爪を立てて駆けていく。
まるで誘っているかのように、時おり此方を見返しながら。

「はあ、はあ、はあ」

ヤクモは運動が得意な方ではない。
むしろ小太りと言うべき体格だった。

とは言って、友達にはもっとすごい体格の者がいる。

それは、クラスメイトの──

──クラスメイトの──

「ヤクモぉ、待ってくれよぉ!」

麦わら帽が飛ばないように押さえながら、後からヴォーロスが追ってくる。
彼も心配だったがヤクモは猫を追うので精一杯だった。
急コーナーを曲がった先で再びヴォーロスが躓き転げた様子だったが、気にかける余裕は正直なかった。

「はあ、はあ、教会!?」

村はずれの荒れ道を、足を縺れさせながらも駆けていく。
陽の光のほとんど沈んだ薄闇の中に、朽ちた教会が佇んでいる。
黒猫は相変わらず誘うようにして、その琥珀色の瞳をヤクモに向けてなにかを訴える。

酸欠気味の脳が混線する。

あの猫の瞳は琥珀色をしていただろうか?

「はあ、は、は、ああ」

さすがに心臓が張り裂けそうになって立ち止まる。
二、三度咳き込むうちに同じく息を切らせたヴォーロスが追い縋った。

「はあ、はあ、ずいぶん、ひとっけの無いところまで、きちゃったけど」

吹き出す汗を手ぬぐいで拭いながらヴォーロスは辺りを見渡した。
ほとんど村はずれに見えていた、針葉樹の森の目前と言って差し支えない場所のようだ。

「あ、使う?」

自分の汗を拭った手ぬぐいをヴォーロスは差し出した。

「……」

ヤクモはしばらく思慮してそれを受け取った。

「たぶんここに入ってったみたいなんだよね……」

「ここに……人が居るのかなあ」

手ぬぐいをヴォーロスに返し、ヤクモは教会へ足を進める。

「おじゃまします……」

か細い声でも響くような静寂だった。

「……日が暮れる」

「最悪ここで夜を明かすことも考えないといけないね」

倒れていた燭台の一つにヤクモは手をかけ、一本だけ残っていた蝋燭に拝借したマッチで火をつけた。

ちりん。

その明かりに二つの眼が輝く。

「居た」

上階の手すりであの黒猫が見下ろしていた。

「……今さらなんか罠のような気がしてきた」

「今さらかい!?」

再びヴォーロスの張り上げた声に猫がどこかの部屋へと逃げ込んだ。

「あっ、ごめん……」

口の前に人差し指を立ててから、ヤクモは階段を上っていく。

ぎしり。
ぎしり。

朽ちた階段が嫌な音を立てる。

猫はやはり彼らを待っていた。
二人の姿を認めて、猫は誘うように部屋の一つへ入っていった。

「……」

おそるおそる、中を覗く。
調度品の充実からして神父か司祭の部屋だろうか。
古びた机の上で、猫の瞳が翠色に光る。

「にゃあ」

ひとつ鳴いて猫は机の向こうに飛び降りた。

「あっ」

そして猫は居なくなった。
どの影に隠れたでもない、居なくなったのだ。

「……」

「ヤクモ」

ヴォーロスが机の上のものに気がついた。

『ああああああああああああ!!』

直後。
無人のはずの教会の中に絶叫が木霊した。

「!?」

二人はとっさに机の影に隠れた。

『魔女め、魔女め、魔女めえええええ!!!!』

どうやら階下の聖堂らしい。

『牧師さま、落ち着いて下さい! 牧師さま!』

『これでもう何人目だ! この村にはあと何人魔女が潜んでいる!?』

燭台か何かが突き倒される音がした。

『……おまえも、おまえも“魔女”なのか!?』

『違いますッ、牧師さま、落ち着いて!』

『魔女は男にもなりすますと言う! ああ! 神よ! もはや信じられるものはあなたしかいない!』

張り詰めた空気に息を呑む。
今見つかってはなにかまずいことになるのは明白だった。

『牧師さま!』

別の男の声。

『……レベッカの娘が死にました』

『……“また”か』

『はい、同じです……他のものと全く同じ死に方でした』

牧師は泣き崩れた。

『なぜだなぜだなぜだ!! まだこの村には“魔女”がいる!!』

『……見回りを厳重化します』

『あの娘が……あの娘が呼び寄せてしまったんだ……イリアムの娘と一緒に……』

最後は絞り出すような声だった。

『怪しいものは全て閉じ込めろ……魔女は一人とは限らない、みな、探し出して……処刑するんだ』

──処刑。
その言葉に震えるヴォーロスの肩に、ヤクモは己の肩を寄せた。

『わたしの娘の罪は……わたしが濯がなければ』

靴音と共に声は何処かへ掻き消えていった。



こっそりと教会を抜け出した時には、すでに人気はどこにも無かった。

「あの人たちは……」

「幽霊だったりしてね」

「こ、怖いこと言わないでくれよ……」

村の拠点に戻り、ようやく二人は安堵を得た。

「“魔女に呪われた”、か」

ヤクモがつぶやく。

「なんとなくなんだけど、今までの経験上からすれば──」

残り少ないマッチでストーブに火を点す。

「“異界化”の原因は“魔女”にあって、それをなんとかすれば帰れる、って気がするよ」

「魔女を倒してこの村に平和を取り戻す、じゃないんだ……」

「そう単純だったことがないんだよね」

ヤクモはヴォーロスが座すベッドの隣に座った。

「ん、これなに?」

「あ、ああ、まずいな」

ジャージのポケットからなにかの紙がはみ出していた。

「さっきの教会でみつけて……とっさに持ってきちゃったんだ」

「手紙?」

簡素な封筒のなかに入っていた手紙を取り出す。
同時に、封筒から赤い糸束が落ちてきた。

「……だいすきなアビゲイルへ」

「読めるの!?」

「読めた……なんとなく、だけど」

ヤクモは自分が信じられないという顔をする。

「わたしのおとうさんのせいで、あなたをくるしめてしまってはいないでしょうか──」

拙い読み口で内容を読み上げる。

「あ、あー……」

だがそれを途中で切り上げた。

「どうしたんだい……?」

ヴォーロスが不安そうな視線を眼鏡の向こうから投げかける。

「これ、ラブレターだ」

「ラブレター!?」

大げさにヴォーロスが声を上げる。

「牧師さんが女の子にかい!?」

「いや、これは……うーん」

何とも言えない気持ちでヤクモは読めないはずのラブレターを読み進める。

「──わたしはあなたがだいすき、それはずっとかわりません──」

「……」

「て……てぃ、ティチューバ……? に……なかなおりのおまじないをおしえてもらいました」

核心と思われる部分をようやく見つけた。

「また、いつものライ麦畑で……待っています……」

ヤクモの面持ちが変わる。

「あなたの、ベティより」

その名前にヴォーロスが首をかしげる。

「……それ、本当にラブレター?」

「うん、熱烈な」

「名前に読み間違えはない?」

やはりか。

ヤクモは少しがっかりしたような気持ちになって、胸にもやつくなにかをひとつ、溜息に変えて吐き出した。

「うん、そこはちゃんと読めたよ。内容も女の子が女の子に向けて書いたものだ」

「え、え!?」

ヴォーロスが鼻先を真っ赤に染める。

「アビゲイルはベティと一緒に行ったんだ、おまじないをしに……ライ麦畑まで」

「……」

「これはたぶん、そのおまじないに使うものか……これそのものがおまじないだったのか。何となくわかってきたよ」

赤い糸束を手に、ヤクモが淡々と語る。

「ヴォーロス、言ってたよね。ライ麦畑は“逢瀬”の場所だったって」

その言葉に相手は視線を泳がせる。

「この二人は……ライ麦畑で逢瀬を重ねてた、おばあちゃんのライ麦畑でね。なぜかと言われれば──」

そしてヤクモは視線を逸らせる。

「──見つかるわけにはいかなかったから。だって……」

溜息交じりに、こう結んだ。

「おかしいじゃないか、女の子どうしなんて。そうだろ?」

「……」

ヴォーロスは答えなかった。

「……明日、もう一度おばあちゃんの畑を調べに行こう。二人はそこで“おまじない”をしたんだ」

「……」

「僕は寝るよ、おやすみ」

ヤクモは普段と変わらぬ口調で、しかし突き放すように、ランプを消して布団に身を横たえた。

「……」

ヴォーロスは何も言えないまま、ヤクモの隣に背を向けたまま横たわる。



『誰か居るのか!?』

突然の声に二人は薄闇の中で身を固める。

『誰か来てくれ!! 隠れてるヤツがいる!!』

「ヤクモ!!」

ほとんど月明かりしかない部屋の中、ヴォーロスは必死にヤクモを毛布の中に隠そうとした。

「ヴォーロス、だめだ、後ろめたくするとまずい!」

だが反ってヤクモはベッドから飛び降りた。

『誰だ!? ここで何を!?』

強面の男だ。
声からして昨晩、様子を見に来た男と同じかも知れない。

「し、失礼、隣村からの道すがらで道に迷いまして」

『隣村!?』

男の語気は強い。

「あー、あの、その」

勇んで前に出たつもりが言い訳を考えていなかった。

「そのっ、ボクらはッ!」

慌ててヴォーロスが飛び出した。

「こちら村で“魔女が現れた”と聞いてッ……街からいらした牧師様をお連れするところ、その……道を“惑わされて”しまって……」

『なにッ、街から牧師様が!?』

「あ、はい、ですが、牧師様ともはぐれてしまい……おそらくこれも魔女の呪いではと」

ヤクモもヴォーロスに話を合わせる。
口から出任せにしてはうまい具合にまとまった。

『くそッ……魔女め……』

『どうした、何があった!』

先程の牧師の声だ。

『街から牧師様がいらしたようです』

『なに!?』

「で、ですが、魔女のせいではぐれてしまって」

だが徐々に話を広げすぎたような気がして冷や汗が流れてくる。

『あなた方は!?』

「えっと、道案内の農夫と」

「その……彼は……」

学ラン姿の小太りな学生をどう誤魔化したものか。

「しゅ、修道士です!」

「え」

村人も牧師も怪訝な顔をした。

『……変わった召し物だが』

「作業着として法王様が定められた最新の修道服だそうですッ、法王様がッ」

『そ、それは失礼をッ』

強引に場を取り持たせた。

「……しかし、わたしたちも牧師様を探さねばならなくなりました……それまでこの村に置いては頂けないでしょうか」

こういう交渉はヤクモよりヴォーロスの方が得意だろう。
ヤクモは黙して成り行きに任せる。

『なるほど……街の牧師様がいらしたとあれば我々も心強いが……』

『連日、毎晩のように死人が出る! それも皆おぞましい死に方で!』

「それは、どのような」

牧師たちが顔を険しくした。

『……皆、魔女への恐怖に気を違えさせ……やがて手足が言うことを聞かなくなり……』

『やがて気を失ったかと思うと二度と目を醒まさない、呪いで手足が真っ青になって死ぬものもある』

「……」

ヴォーロスの表情もまた険しくなる。
だが時おり、なにか思い当たるのか、思慮深く目を閉じる時もあった。

「それはいつからです?」

ヤクモが代わりに口を開く。

『それは……』

『最早隠すことは出来まい、わたしの娘が……エリザベスがしたこと、なのです……』

牧師が悲痛な面持ちで口を開いた。

『元をただせば……我が家の奴隷であるティテューバが……わたしの娘たちに、なにかよからぬ“まじない”か何かを教えたようです』

「娘“たち”?」

『わたしも後で知ったのですが……幼馴染みのアビゲイルという娘と、それを執り行った様子でした』

話が繋がり始めた。
ヤクモは更に深く掘り下げる。

「ベテ……エリザベスが教えてもらったまじないとは」

『わかりません! ですが娘はあの奴隷の女になついていたから何を吹き込まれたかわかったもんじゃない!』

「落ち着いて! エリザベスとアビゲイルはどこに?」

一瞬激昂した牧師は、その言葉の直後に青ざめて静かになった。

『……わかりません……どこかに消えたまま……』

「……ティちゅ……ティテューバさんに、話を伺いたいのですが」

『……それは不可能です』

牧師が首を振る。

『あの女も、魔女に憑かれていたのです……問いただすために閉じ込めていましたが、やがて気の狂ったようになり……やむ無く』

「──処刑を?」

『そうです』

ヤクモの表情はいっそう険しくなった。

閉じ込めていた、というのも恐らく本質ではなさそうだ。

この牧師の語り口なら、娘の行方を知る為に奴隷に暴行も加えかねない。

『それからです、村で怪死が続いています。そうでなくとも、気が触れた者が何人も』

『全て魔女が憑りついています。我々が捕らえ、魔女であると確認が取れ次第、随時処刑を行っています』

「──魔女裁判──」

ヴォーロスが微かに呟いた。

『……だがまだ魔女は居なくなっていない……怪死はいまだに止まりません』

「……ふぅーん……」

ヤクモは冷めた目付きだった。

恐らく、彼の正義の尺度から、彼らを“悪”と判断したのだろうとヴォーロスは考えた。

「……わかりました。我々も深く注意します。陽が昇り次第、牧師様とお嬢さんの捜索を開始します」

『よろしくお願い……』

「あー、そのまえに」

ヤクモは冷めた視線を牧師に向けた。

「エリザベスとアビゲイルはとても仲がよかったと聞きましたが、本当にそれだけですか」

『……』

牧師の顔が更に青ざめる。

『──仲の良い二人ではありました。姉妹のようだった──』

「……それだけじゃ、ないですよね」

ヤクモの言葉が鋭かった。

『──魔女のせいだ──魔女に憑かれてでもしなければ──あんな──』

うわ言のように。
焦点の合わない目で牧師は呟く。

『あんなのは──人の営みから外れている──』

「……」

ヤクモは小さく溜め息を吐いた。

それは、憤りと、哀しみと、絶望の混じった、重い溜め息だった。

「わかりました。ご協力ありがとうございます。我々は明日の為に休みますので。あ、こちらのお宅はお借りします」

矢継ぎ早に定型句を繰り出すと、ヤクモは二人を外へと押し出して戸を閉めた。

『よろしくお願いします……!!』

すがるような声さえ遮断するように、ヤクモは背で扉を押さえつける。

その表情は貼り付けたような無表情だった。

「……ヤクモ……」

ヴォーロスはかけるべき言葉を探り、そんなものは無いと気づいて、差し出そうとした手を引いた。




二人とも、眠れぬままにベッドに身を横たえている。
まもなく夜も明けようとしている、暗闇の最も濃い真夜中のことだった。

「……眠れないかい」

「……うん」

背を向けあったまま、ヴォーロスは声をかけた。
それより先の言葉が紡げなかった。

「……ヤクモ」

「うん」

「……もし、答えたくなければ、そのままでかまわないけど」

だが、彼はどうにか、いびつな言葉を紡ぎだそうとしている。

「ボクはキミの友達になりたくて……でも、ボクは、友達つくるの、へたくそだからさ」

「……」

「うまくこう……言えないんだけど」

ヤクモはきっと、救済(たすけ)が必要なのだ。

ヴォーロスにはそれがわかる。

「ボクはその……植物が、大好きなんだ。だから」

だが、その方法がわからない。

「例えるなら、ボクは当たり前のように、その、被子植物における、雄蕊と雌蕊による有性生殖、つまり、おしべの花粉がめしべに付着することによって──」

「……」

「っと、そういうことが言いたいんじゃ無くて、ようするに」

必死に、必死に言葉を探す。

「……ようするに、ボクが植物の世界が好きなのは、人の世界に比べて、シンプルだったからかもしれないってことなんだ」

ヤクモは黙っている。

「植物にくらべて、人はとても複雑で、ボクには恐ろしいものだったかもしれない。だって、種の継続や繁栄と関係ない感情で、誰かを傷つけたり、否定したりする」

「……」

「ボクは、誰かが傷つけられたり、誰かを傷つけたりするのが恐ろしい。臆病なんだ。だから、ずっと研究室に籠っていた」

やがて窓の外から深い蒼が部屋に落ちてくる。
冷たいすきま風に、鼻先が冷たく凍えている。

「けれど、臆病なままじゃあ、またボクは、友達を失ってしまうよね……」

「……」

「ねえ。ヤクモ」

意を決して、本当に口にしたい言葉を紡ぎ出す。

「例えば、さっきのアビゲイルとベティの話が出る度に、キミが不機嫌になったりするのは……キミも、そうだから、なのかい……?」

しばらくの静寂の後に、ヤクモが口を開く。

「──だったとしたら?」

それからまたしばらくの静寂の後に、ヴォーロスが口を開く。

「──ボクは、被子植物の世界が、当たり前だと思っていて、キミのような世界を、あまりにも知らなくて」

言葉が惑う。

「けれど、キミをボクは、友達だと……友達でありたいと、思う気持ちは……変わらないんだよ」

苦しい。
あまりにも苦しすぎる。
伝えたいことの、守りたいことの全てを、まったく言葉に編み込むことが出来ないまま、苦しい言葉ばかりが並んでしまう。

「……」

ヤクモはしばらく黙っていたが、少しずつ、胸中にため込みすぎたドス黒いもやつきに、また適当な意図を与えて吐き出し始めた。

「……僕に、優しくしないでいいよ」

「……」

「わからないものは、わからないままにしておいてほしい場合も、人の世界にはあるんだよ」

その言葉は、ヴォーロスにとっては聞きたくない言葉であろう。
だからあえてヤクモは、そういう言葉を選んで紡いだ。

「だって……優しくされるほど、僕には辛いから」

「どうして」

「だって……優しくされるほど、僕には君が遠くなってしまうから」

「……」

ヴォーロスは悔しかった。

「……わからないよ」

「……」

「……どうして、ボクが近くに居たいと思うほど、キミには遠くなってしまうんだい……」

きっとわかり合えることはないだろう、ヤクモはそう思っていた。

なぜならおそらく、ヴォーロスは、その答えを紐解くための“鍵”を、まだ知らないだろうから。

「……もう、いいよ。おやすみ」

そう無情に、終わらせてしまえばいいと思った。

「……寒いだろ」

ヤクモの方へと向き返り、ヴォーロスは畑仕事で太くなった腕でヤクモを包み込む。

「……離して良いよ」

ヤクモはそう突き放そうとする。

「いやだ」

「……」

「だって……だって、この手を離したら」

その声は上擦っていた。

「キミも“あいつ”みたいに……いなくなってしまうんだろう……?」

抱きしめる手に力が籠る。

ヴォーロスの肩が震えていた。

それ以上の言葉は無く、ただ、静かな嗚咽だけがしばらく続いた。

その涙がどれだけ続いたのかは、眠ってしまったせいでわからなかった。



まだ靄の晴れない内から二人は行動を開始した。

ヴォーロスには思うところが数多くあったのだが、あえて昨晩のことは掘り返さなかった。
ただ、なるだけ普段と変わらぬようにヤクモに接するわずかな努力は必要だった。

「ヴォーロス、昨日さ」

「う、うん」

「牧師と話してる時、なんか考えてたよね」

ヴォーロスはほっと胸を撫で下ろす。

「……うん、何となく見えてきたものはあるけれど、あとはその証拠が足りてない」

「証拠?」

「たぶんすぐ見つかる気がするよ」

明るくなってから見る村に、やはり人の気配は無い。
昨晩の牧師や村の男たちはどこへ行ってしまったのだろう。

「ヤクモ……ボクは、たぶん、こう思っているんだよ」

「?」

「“魔女”は、どこにもいないんじゃないかって」

……二人は街の広場──即席の絞首台の添えつけられた樹の下に来た。

「ヤクモ、いくよ、せえのッ」

ヴォーロスが再び肩車し、ヤクモを樹の枝に掴まらせる。

「気を付けてよ!」

「ん」

幹のしっかりした樹は小太りのヤクモでも昇りやすかった。
そして、その先端は老婆の家の屋根より遥かに高い。

「うーん……あそこがおばあちゃんの家だとすると……」

金色の海にかかる靄が晴れてゆく。

「見えた、小屋がもうひとつある!」

「そこを調べてみよう、彼女たちが隠れていたなら、おそらくそこだ」

樹の枝を降りてくるヤクモの下で、ヴォーロスはまた彼を受け止めようと手を広げる。
だがヤクモは飛び降りることなく、首締めの縄を伝って降りてきた。

「……よく平気だね……」

「ん……あ、そっか」

「……」

パンパンと手を払うヤクモの様子に軽く溜め息を吐く。



「昨日は、ごめんね」

麦束を掻き分けながら、ヴォーロスは胸のつかえを吐き出した。

「なにが?」

「一人で、泣いちゃったりしてさ」

内心、そういうことか、と、ヤクモは思った。

「……強情かもしれないけど、迷惑かもしれないけど……」

「?」

「でも、独りよがりかもしれなくても、ボクは、キミに居なくなってほしくないんだ」

「……」

その言葉が、わずかに嬉しかったのが、悔しくもあった。

「んッ」

ヴォーロスが何かに気づく。
そして麦穂のいくつかをむしりとり、ポケットの中にいれた。

「ヴォーロス?」

「“犯人”の目星がついたよ」

ヴォーロスは眼鏡を押し上げる。

「さあ、アビゲイル達を見つけよう。彼女たちの“冤罪”を証明するんだ」

突如。

「……あれ」

青空が一瞬にして暗闇に変わる。

『お二方ともこちらで何を?』

背後には、不気味にカンテラで顔を照らした牧師が立っていた。

「……ッ!?」

息を飲む。
一体いつの間につけられていたのか。

否。

空が真っ黒に染まっている。

なにか超常の現象が起きたのだ。

『使いに街の教会へ問い合わせを頼みましたが……あなた方のようなもののことは知らないと』

ヤクモは、彼らが“どういう存在なのか”について、彼なりの憶測を立てていた。
おそらく、彼らには“行動の制限がある”。
だからこそ、彼らに都合の悪そうなことは日中に調べ上げることができれば、そう考えていた。

『あなた方は、何者なのです』

カンテラの“蒼い炎”が、牧師を不気味に照らす。

「ぼッ……ボクらは……」

『連れていけ』

突如、土壌の中からなにかが現れた。
そして二人はそれに呑まれる。

「ッ!?」

『大人シクシロ……!』

腐って半ば土塊になった稲穂が絡み付いたようなものだった。
強靭な力で二人を締め上げると、それはやがて姿を変えていく。

『さっさと歩け!』

屈強な、木こりのような村の男の姿だった。
ヴォーロスは混乱する。

彼らは何だ。
まるで頭の中が書き換えられたように、彼らを“村人”として認識せざるを得ないような、そんな変化だ。
だがもはや、ただの“村人”とも思えない。

「くッ、ヤクモ……!」

「騒ぎが大きくなるッ……今はとにかく大人しくしよう」

『黙れッ!』

あたりを包んでいたはずの稲穂が消え、無かったはずの道が現れる。
村が近づくに連れて、廃屋にも不気味な蒼い光が宿り、村人のざわつきまで聞こえてくる。

これが“彼らの見ていた光景”なのだ。

ヤクモはそう察した。

『誰なの……』

『変な格好をしてるぞ』

『あいつらが……まさか……』

広場に人が溢れてくる。

『みんなどけ、近づくな!』

『広場に皆を集めよ、“裁判”を開始する!』

牧師の声が響いた。

あの老婆が言っていたのは、こういうことか。
二人ががりで押さえつけられながら、ヴォーロスとヤクモは民衆の前に突き出される。

『村の中に怪しげな男が二人潜んでいた……我々はそれを捕らえた!』

『静まれ、静まれ!』

一層のどよめきの後に民衆の声が止む。

『見よ! この姿を!』

二人の異邦人の姿に皆が息を呑む。
その場の空気が、わずか一つの感情に呑まれているのを、彼らは肌で感じ取った。

──“恐怖”である。

『見て……あの真っ黒な髪!』

『豚のように肥えて……』

『隣の大男は熊みたいな顔をしてるぞ』

民衆が二人を罵るための材料を探し始めた。

「いや、たしかに熊みたいな顔だろうけどさあ……」 

だが、それは二人に向けられた畏怖の感情とは別の指向性を持つ。
民衆が視線を泳がせるのは、互いの顔色を窺っている様にも思えた。

『魔女め』

誰かが呟く。

『魔女め!!』
『魔女め!!』
『魔女め!!』
『魔女め!!』

皆が口を揃え始める。

『魔女め、魔女め、魔女め、魔女め!!』

こうして練り上げた怒りの矛先を、彼らは二人の異邦人の方へと向ける。

それは猜疑の感情を悟られまいとするための儀式。
互いに向ける恐怖の視線を背けさせるための儀式。

即ち、魔女であると罵ることで、魔女であるとの疑いを押し付ける、汚れた集団心理の坩堝。

これが、魔女裁判なのだ。

『魔女に死を!!』
『魔女に死を!!』
『魔女に死を!!』
『魔女に死を!!』

幾度も声が繰り返す。

見えざる恐怖をただ偶像に詰め込んで、膨れ上がるそれに火を点ける。

それですべてカタがつく。

少なくともしばらくは、自分を“魔女”とは呼ぶまいと。

「ヤクモぉ……」 

ヴォーロスがガタガタと震えている。

その隣で、左門 ヤクモは。

「……」

冷たい瞳で、民衆を見た。
悲しい、悲しい、瞳だった。

『──待って!!』

悲痛な叫びに誹謗の声が止む。

群衆を掻き分け、生まれ落ちた仔牛のような頼りなさで転び出たもの。

『その人たちは魔女じゃないのッ!!』

あの、盲目の老婆だった。

『サラ……一体……』

『その人たちは、魔女じゃない……!!』

牧師が驚愕の目で老婆を見る。

『その人たちは……あ……アビーの……アビゲイルの、お友だちよ……』

『な、何を』

『あの娘が居なくなって……心配して訪ねて来たのよ!! わたしのところに!!』

老婆は声を張って訴える。

それに驚いたのは牧師だけではない。
ヴォーロスも、ヤクモも、目を白黒させていた。

『ちがう……ちがうぞサラ、盲いた貴女の眼には見えないだろうが、こいつらは……』

『いいえ! その人たちは魔女なんかじゃない、だってぇ……ッ』

老婆が白く濁ったその眼を見開いた。

『わたしこそが“魔女”なのだから──!!』

全員が悲鳴を挙げて飛び退いた。

『ァア── ハァハァハァハァハァ──ッ!!』

枯れ木のようなその腕を拡げ、震えながら立ち上がり、狂った笑い声を挙げ、老婆は牧師に摺り寄った。

『そうさあ、わたしがこいつらを拐ったんだ、若くて綺麗な目玉を貰ってやるために!!』

「……おばあちゃん……?」

早くも村の男が老婆を取り押さえた。

『触るんじゃないよッ、おまえたちも憑り殺してやろうかぁぁ!!』

老婆は、嘘をついている。

ヤクモは善心からそう思った。
ヴォーロスは真実のピースからそれを察した。

彼女は、ふたりを庇ってまもなく死ぬのだ。

魔女と罵られ。

その最期の姿を衆愚の前で辱しめられて。

「おばあちゃん!!」

ヤクモは思わず叫んだ。

『その二人は西の畑の納屋に連れていけ!! これで疑いが晴れたわけじゃない!!』

男が力付くでヤクモを引き摺る。

「おばあちゃんッ、おばあちゃん!!」

“魔女”は絞首台の上に居た。

その見えない瞳で、縄の描いた環のむこうの暗闇を見つめながら。

『……アビー……』

「──おばあちゃん──!!」

そして村の明かりはライ麦の向こうへ飲まれていった。

村人達の怨嗟の声だけが風に千切れて聞こえてきた。



「ぐッ!!」

「うひゃあッ!!」

奇しくもそこは二人が目指そうとしていた小屋だった。
力任せに床へ叩きつけられ、ヤクモは踞る。

『ここから出られると思うなよ、暴れ牛でも壊せん納屋だ!』

力任せに戸は閉じられ、外側から閂が通された。

「ヤクモ、大丈夫かい!?」

「……うん」

ほとんど何も見えない闇の中で、ヴォーロスはヤクモの身体を支えた。

「おばあさんを助けないと……」

「いや……無駄だよ……もう……」

「そんな……」

ヤクモは頭を降った。

「おばあちゃんだけじゃない……みんなもう、死んでるんだ」

「……なんだって」

ヴォーロスがその言葉に青ざめる。

「村人は“夜”にならないと活動が出来ないんだ、それに皆気づいてない……みんな死んでるって、都合よく気づかないようになっている」

『……そうよ』

納屋の奥から声がした。

『皆、繰り返しているのよ……死ぬことができないの』

「……アビゲイル」

『──そうよ』

あまりの暗さに姿を見ることはできないが、彼女はここにいるようだった。

『見つかってしまったの……ベティと一緒に居るところを……牧師さまに。彼女のお父さんに』

泣きじゃくりながら彼女は伝える。

『思わず逃げ出して……使われてないここに隠れたわ。だって──一緒にいられなくなってしまう』

「……」

『ベティは隠れて……村まで何度か食べ物を取ってきてくれた……でも帰ってこなかった。そしたら、わたし……』

ヤクモの肩を抱くヴォーロスの手がこわばった。

『わたしたちが、村に“魔女”を呼んでしまったの……村が大騒ぎになって、わたしたち余計帰れなかった』

「それで、君は」

『恐くて、恐くて、外に出られなかった。なにもかもが恐いの。目を開けているのも、閉じているのも恐い』

言葉は半ば嗚咽に呑まれていた。
それでもアビゲイルは、堰を切ったように胸のうちを明かしていく。

『やがて体が動かなくなって……死んでいくのがわかった。でもわたし、死ねなかった……』

「ヴォーロス」

「……なんだい」

ヤクモがヴォーロスの手を握る。

「答えは、もう出たんだろ?」

「……ああ、ボクはもう証明できる」

そしてその手を握り返す。

「アビゲイル、ボクらがキミとベティの疑いを晴らしてみせる」

『……え?』

「キミたちは、魔女を呼んだんじゃない」

ヴォーロスは立ち上がった。

「──“魔女”は、どこにも“いない”んだ……!!」

窓の外、雲間に蒼い月が顔を出す。

立ち尽くすアビゲイルの白い頬に涙が輝いていた。

「……それを今から、証明してくるよ」

まるで疲れる夢を見ているようだ。

ヤクモはふと、そんなことを思った。

なにか、大きな筋書きのようなものがあって、なにか、決まった終わりとがあって。
その結末に向かうためには手段を選んでいられない。
よほどのことが無い限り、見る夢の中で選択が効かないのとおなじように。

「ベティに、会いに行こう」

この世界は、結末を望んでいるのかも知れない。

少なくとも、納得のいく結末を。

ヤクモはおそらく、そのためには形振り構っていられないと呼び出された好都合な神(デウスエクスマキナ)なのだ。

このとき、彼はそう悟った。

『でも、あなたたち、閉じ込められてしまったんでしょう?』

「ああ、大丈夫。たぶんもうどうにでもなる」

投げやりな態度でヤクモは答えた。

「……アビー」

『──なに?』

「これから僕たちは、ここから出るために、君が多分見せたくない姿を見ることになってしまうけど……許してね」

ヤクモは学ランのポケットから、最初の夜に老婆の家からくすねてきたマッチ箱を取り出した。

「……」

そして一本、マッチを擦る。

「っ……!!」

視界が戻ったとたんに納屋の中は驚く程狭く感じる。
ヴォーロスが目を背けたのは、目前に居たはずの少女の変わり果てた姿がそこにあったからだ。

誰にも顧みられること無く、短い命を終えて大地へとその身体は還っていった。

だがその魂は、未だ、恐怖と孤独の中で、この場所に囚われている。

──救わなければ。

「ヴォーロス、扉を破るんだ」

「ッ、ボクにできるかい!?」

「見てごらん」

ヤクモのマッチの赤い明かりに照らされた扉はすっかり朽ちていた。
現世の明かりで照らされたものは、幽世の姿では無く現世の姿でしかそこにあることができないのだ。

「……よ、よぉし、いくよーッ!!」

意を決して助走をつける。

「えェいッ!!」

肩からの体当たりで朽ちた扉は砕け散り、ヴォーロスは向こうのライ麦畑まで転がった。

「大丈夫!?」

「か、身体は頑丈だって言ったろ!!」

いまいち決まらない自分を恥じて顔を赤くしながら応じた。

「さて、それじゃあ」

ヤクモがマッチを振り消すと、再び幽世の月明かりが辺りを包む。

「行こうアビー。君の恋人を迎えにいくんだ」

ヤクモが闇の中に手をさしのべた。

『……見たでしょう、わたし、もう』

「何のこと?」

ヤクモは微笑んだ。

『……』

闇から伸びた白い手が、ヤクモの温かく血の通った手を取った。



ライ麦が騒ぎ出す。
強い風が吹きすさぶ。

まるで真実から逃れるように。
それを知るものを拒むように。

「ベティ!! どこだ!! アビゲイルはここに居るぞ!!」

村に向かってヤクモは声を張った。

再び村がざわめき出す。

「みんな良く聞くんだ──」

続いてヴォーロスが声を挙げる。

「──この村に、“魔女”なんて、いない──!!」

『あいつらだ』
『魔女なんて居ないって……』
『でもあいつら、魔女の手下かなんかだったんだろう!?』

異邦人の帰還は村に恐怖を呼び覚ます。

やっとまた逃げ切れたと思ったのに。

あの老婆の犠牲で済んだことだったのに。

『……アビ……ゲイル……』

早速血相を変えて牧師が現れた。
もとから青い顔はしているのだが。

「くだらない魔女裁判を繰り返しても何も解決しない。この娘は魔女なんか呼んでない」

力強く、ヴォーロスが言い放った。

「証拠はこれだ、見覚えがあるだろう!?」

ポケットから彼が取り出したのは、ただのライ麦の稲穂だった。

……否。

それは、見慣れたライ麦の稲穂とは、かすかに何かが違っていた。

『それが何か?』

「あなた方はおそらく……収穫した稲穂の中に、妙なものを見つけたはずだ……それは些細で、大したことじゃないと思ったかもしれない!!」

牧師にヴォーロスは稲穂を差し出した。

「“すこしばかり見栄えが悪くて、出荷に適さないだけ”、そう思って村の中で消費する分には問題ないとしたのでは!?」

『……』

村の知恵者として、農家から相談を受けた記憶があった。
手に取ったその稲穂には、なにかいくつか、黒くて見栄えの良くない胚が混じっていた。
最もそれは、悪魔のいたずらか何かだとして簡単に聖別した水で浄化して消費させたはずなのだが。

「だとすればとんでもない……これは“麦角菌”に侵された稲穂だ!! ライ麦に寄生してとんでもない毒性をもった毒の麦だ!!」

村人が一斉にざわついた。

「この麦の毒は体中の血の巡りを悪化させる、脳に血が通わなくなり、恐ろしい妄想や幻覚を引き起こし、手足が黒く冷たくなって腐り落ちる!! 全てこの毒のせいだ!!」

『ばか、な』

「どれだけ悪魔払いをしたって、どれだけ魔女をでっち上げて死なせたとしても、この毒は消えない……あなた方が今朝食べたパンにすらこの毒が混入しているかもしれないからだ!!」

恐怖に婦人が悲鳴を挙げた。
それすらも麦角菌の毒に依るものなのかもわからない。

「落ち着いて! これはただの病気だ、汚染された食物から隔離し、適度に運動させて血流を改善すれば治すことは出来る!」

だがすでに、村人たちはあの黒い麦を混入させた犯人捜しを始めていた。
醜い猜疑と責任の擦り付け合いが、己を責める牧師の目の前で醜く繰り広げられる。

「……みんな、聞いて……!!」

ヴォーロスもやがて、真実を明かした責任に押しつぶされそうになった。

『無駄よ』

喧噪を裂くように、知らない少女の声が響いた。

『魔女なんていない、あなた、そう言ったわね』

歩み出てくる少女に、皆気づかないようだった。

『いいえ……魔女は居るわ、皆の心に』

『……ベティ……』

少女の顔は怒りに満ちていた。

その形相は、“魔女”と呼ぶに相応しかった。

『わたしは許せなかった……私たちの関係を誰も認めなかったことよりも……今にも死にそうなアビーを、誰も助けてくれなかったことが』

「……なにがあった」

“魔女”がヤクモを睨む。

『アビーが苦しみ始めた時……私は急いで村に戻った。アビーが病気なのはすぐにわかった、でも……』

「……皆、聞く耳持たなかったんだね。すべて、魔女のせいにして」

『それどころじゃ無いわ……私は魔女と呼ばれて……そのままあそこで、殺されてしまったのよ』

……二人は言葉を失った。

あまりにも残酷すぎる結末だった。

ただ、病気のせいにしてしまうのでは、解決できない闇だったのだ。

『もうあの人たちは止められないわ。お互いに怯えて、お互いを騙して。もう止められない……』

ベティは、反って笑い出す。
だがその瞳は悲痛な叫びを、声にならない叫びを湛えていた。

『じゃあ永遠に、怯えて殺し合えば良いんだわ……なんども、なんども、死の恐怖を味わえば良いの!! アビーの苦しみを繰り返せば良い!!』

『ベティ……』

『アビー、私は魔女よ、あなたのエリザベスはッ、あの村で殺されたのよ!! 絞首台で吊られて!! パパの命令でね!!』

悲痛な言葉が、ヤクモに、ヴォーロスに、突き刺さる。

『もう、誰も、信じない……この村は……私の居場所じゃない……』

「……あっそう」

ヤクモが口を開いた。

「じゃあ、行こうか」

『……え……?』

「この村は、君の居場所じゃないんだろ」

ヤクモが踵を返す。

「苦しみたいヤツは、ここで永遠に苦しめば良い。それは自分が選んだことだし、苦しみたくないなら、自分から抜け出すことを選ばないと」

『そ、んな』

「その結果が、あれでしょ。全部他人のせいにして。自分は違うって、人に全部なすりつけてさ。そうやって自分を地獄に囚え続ける」

一歩、一歩、村から離れ出す。

「君は永遠に恨み続けるの? あんなのをずっと観ているつもりなの?」

「ヤクモ……」

「世界が君らを認めないなら、君たちが世界を棄てないと。こんな世界要らないって、そうやって君たちは君たちが認める世界に向かわないとね」

そしてわずかに振り返った。

「それとも、こんなクソみたいな世界で、ずっと囚われ、蔑まれ、魔女と呼ばれている方が、ラクなのかもしれないけどね」



『──魔女のせいだ』



そんな声が、遮った。

『魔女のせいだ』
『魔女のせいだ』
『魔女のせいだ』

『みんな、魔女のせいだ』

敵意が、エリザベスとアビゲイルの二人を捕らえた。

『──ベティ』

「どうすんの? あいつらの“魔女”で居続けたいの?」

エリザベスは、ヤクモを見た。

『──私は──』

ペチコートの裾を強く握る手に、別の白い手が触れた。

『──私は──!!』



『魔女を、捕らえろ──!!』



牧師の声が響いた。

「ヤクモ!!」

「逃げるよ!!」

アビゲイルとエリザベス、二人の少女はヤクモの声と共に駆けだした。

背後から、村人たちが追ってくる。

「どこまで逃げるんだい!?」

ヴォーロスが叫ぶ。

「さあね!! 世界の果てまでかもね!!」

ヤクモは笑った。

『魔女め!!! 魔女め!!! 魔女めぇ──!!!!』

四人は走る、走る、走る!!

ライ麦がうねる畦道を、ただひたすら醜い衆愚から逃れて走る!!

「うひゃあああ!!」

ヴォーロスが躓いた。

「ヴォーロスッ!!」

「行くんだ、ヤクモ──ッ!!」

二、三度地面を転がりながらヴォーロスは叫ぶ。
その彼にまもなく狂った村人が追い縋ろうとしていた。

「──いくぞぉ──ッ、《菜穂麦籠》ッ、《バローダ・ヴォロサティヤ》──ッ!!」

転げたヴォーロスの手元に現れた神器から、巨大なカボチャが幾つも転がった!!

『なんだこの──ッ!!』

村人が鍬でカボチャを叩きつぶす!!

「カボチャたちを粗末にするのは──許さないよッ!!」

とたんに、割れたカボチャの中から、怪しい緑の光があふれ出す!!

『キャハハハハハハハハ!!』

それは、カボチャの中に潜んでいた妖精の声。

『な、なんだこれは──!!』

目に見えない妖精の声に、村人たちはパニックに陥った。
そうこうしているうちに、熟れに熟れて割れたカボチャがまき散らした種が発芽し、生じた蔓が村人たちの足を絡め捕る!!

『きゃはははははははは!!』

『土は土に!!』

『灰は灰に!!』

『塵は塵に──!!』

どんどん育つカボチャの蔓に、村人たちの足は止まった。

「一番カボチャを粗末にしたのはボクのような気がしなくもないけど……ありがとう妖精さんたち!!」

ヴォーロスは再び駆けだした。

ヤクモたちの姿はもう小さい。

『いそいで、いそいで!!』

《菜穂麦籠》の籠から飛び出してきたらしき小さなカボチャがヴォーロスと併走して転がってきた。

『間に合わなくなる、間に合わなくなる!!』

「わ、わかってるけどぉ!!」

妖精が必死に語りかける。

『はやくしないと、はやくしないと』

『“あの子”が、遠くに行ってしまう!!』

「あのこ!?」

『遠くへ、遠くへ!!』

『戻ってこれないくらいに遠くへ行ってしまう!!』

「そんなこと言われてもぉぉぉ!!」

ヴォーロスは重い身体を必死に揺らす。

『怪しい術を使ったぞ!!』

『やっぱり魔女だ、全員捕らえろ──ッ!!』

「もう追いついてきた!?」

先ほどより数は減ったが、だが確実に距離が縮まる。

「ヤクモ──ッ!!」

「ヴォーロス!!」

ヤクモが振り返る。

その向こうには……あの優しき老婆の粉挽小屋が佇んでいた。

「──役割(ロール)は──《流者》ッ!!」

ヤクモの手に光が集まる。

「──権能(ルール)は──《離断》ッ!!」

そして光は一条の“貌(かたち)”を顕わす。

「──我が名において“銘”ずる──出でよッ──」

『だめ──!!』

ヤクモの背後まで走り抜けようとしたヴォーロスの足下へ、カボチャが急カーブして迫る。

「うわわわわわぁッ!?」

そして、ヴォーロスは派手に顔面から躓いた。

「──《鉄刀送尾》──ッ!!」

なにかに憑かれたように、ヤクモはその手に“顕れた”神器──ひとふりの“剣”を、大地へと刺し貫いた。

直後。

大地が、割れた。

大別して、ヤクモの立つ岸と、ヴォーロスが転げた、村人たちが迫る岸とに。

まるで目前に切り立った崖が現れたかのような超常の光景に、村人たちの足が止まる。

その間に、ひび割れはみるみる広がり──

『うわあああああああ──ッ!!』

──奈落へと、村人を飲み込んで、闇の中へと崩れていく。

ヴォーロスはとっさに起き上がった。

「ヤクモ……」

見る見るうちに、崖の上のヤクモの姿が小さくなる。
自分たちが沈んでいったのか、彼らが“天上に昇っていくのか”──わからなかったが。

「……ヤクモ……!!」

ヴォーロスは両手を広げた。

行ってしまう。

遠くへ行ってしまう。

その、大切なともだちを、捕まえたかった。

その身体で、受け止めたかった。

「……」

ヤクモは、躊躇った。

今、飛び降りれば、“間に合う”のかもしれない。

──ヤクモは──



──僕のやる仕事はね、誰でも崖から転がり落ちそうになったら、その子をつかまえることなんだ──

つまり、子供たちは走ってるときにどこを通ってるかなんて見やしないだろう。
そんなときに僕は、どっかから、さっととび出して行って、その子をつかまえてやらなきゃならないんだ。
一日じゅう、それだけをやればいいんだな。
ライ麦畑のつかまえ役、そういったものに僕はなりたいんだよ。

馬鹿げてることは知ってるよ。
でも、ほんとになりたいものといったら、それしかないね。

馬鹿げてることは知ってるけどさ──



「……ヤクモ──ッ!!」

「……!!」

ヤクモは、崖を飛び出した。

《鉄刀送尾》が掻き消え、その身を投げ出し、風に委ねる。

その身体を、大きな身体が受け止めた。

そして、強く、強く、抱きしめた。

「……これがほんとのキャッチャー・イン・ザ・ライ、ってね」

「……なにそれ」

ヤクモは小さく笑った。

「……もうなんか、ライ麦畑っていうより、カボチャ畑じゃん」

二人が横たわる大地には、カボチャの蔓がそこら中に巻き付いて、崩壊を防いでいる様子だった。
おそらく、ヴォーロスが躓いたカボチャの種から発芽したものが、彼の権能を受けて急成長したのだろう。

「……帰ってきてくれたね」

ヴォーロスはヤクモを腹に載せたまま抱きしめる。

「……離してよ」

「いやだね」

「……」

空には、満天の星が輝いていた。
その向こうに、おそらく、エリザベスとアビゲイルを載せた大地が消えていくのが見えた。

「……だって、この手を離したら」

「……」

「キミは……いなくなってしまうんだろう……?」

ヴォーロスはただ、その星を眺めたまま、そう応えた。

「……僕がどれだけそれで辛い思いするのかも知らないで……」

「ん、なんでだい?」

「きっとわからないよ」

ヤクモがヴォーロスの胸板に身を委ねる。

「じゃあ、ちゃんと東京に帰ってから……研究することにするよ」

「?」

「君の思いがわかるように、研究成果をレポートしておかないと」

ヴォーロスの言葉に、ヤクモは顔を赤らめた。

「……ばか」



そのとき、彼らは光に包まれた。

「おっ!?」

背中の大地も消えていく。

「これは……帰れるのかな!?」

光の中で二人の身体が浮き上がる。

「──ヤクモ──!?」

だが、ヤクモの身体が、うっすらと消えていくのにヴォーロスは気づいた。

「ヤクモ、いかないで、いかないで!!」

ヴォーロスが叫ぶ。

「ほら、泣くな」

ヤクモが意地悪そうに笑った。

「多分、もうちょっとしたら帰るからさ」

「ヤクモ!?」

「なんかそんな気がするから、納得いくプロポーズの研究して待ってて」

そう言うと、ヤクモの姿はあっけなく消えてしまった。

「ヤクモ──」

そして、それすらも曖昧になり、ヴォーロスは──



──ギイと音を立てて、粉挽小屋の戸が開く。

麦畑は静かだった。

他になにものも無いその場所に、少女は立ち尽くした。

「……ふたりきり、だね」

エリザベスの言葉にアビゲイルは不安そうに頷いた。

「……ふたりきりだけど、わたしたち、やっぱり、さびしく死んじゃうのかな」

そう思ったのは、この世界には二人きりしか居ないような気がしたから。
この場所には、虫の鳴き声すら聞こえない。

「……でも、ベティが居てくれるなら、わたし、さびしくないよ」

「……ひとりきりにして、ごめんね」

エリザベスはアビゲイルを強く抱きしめる。

『魔女だ』

「!!」

ふと聞こえてきた声に、二人は息を呑む。

『魔女だ、魔女だー!!』

『うまれたよ、うまれたよ』

『妖精の森にあたらしい魔女がうまれたよー!』

ライ麦畑から、金色の光が蛍の様に飛び出した。

「あ、あなたたち、だれ!?」

『妖精だよ、妖精だよ』

『あたらしい、かわいい魔女がふたりもうまれたよー!』

光が飛び交い、祝福する。

「魔女って、わたしたち?」

『そうだよ、愛する魔法を知っている、あたらしい魔女がうまれたよ』

二人の魔女は顔を見合わす。

「……なんだか実感がないんだけど」

エリザベスは笑った。

『愛を忘れた森にね、愛するものがやってきたから、妖精がうまれたよ!』

『魔女があたらしい妖精をうんだよ!』

『豊かな愛が妖精をうんだよ!』

妖精に導かれるままに、二人は森へと入っていく。

ライ麦には豊穣の願いが意味付けられているという。

二人の暮らしが豊かであるようにと、老婆の畑のライ麦が、あたらしい魔女の誕生を、風に揺れて祝福する。



「ライ麦畑でつかまえて」 -END-


最終更新:2018年04月03日 23:38