Gate,Gate,Paragate-第二話-:ポーラー・エクスプレス

ずいぶん昔、まだ子どものころ、クリスマス・イブの夜中に、ぼくは静かにベッドに横になっていた。
シーツのすれるこそりという音さえたてなかった。
ゆっくり静かに息をし、耳を澄ませ、ある音が聞こえてくるのをじっと待っていた。

サンタのそりの鈴の音が、ちりんちりんと鳴り響くのを。

ぼくのともだちのひとりは、そんなもの聞こえるわけがないさと言ったけれど。
「サンタなんて、どこにもいないんだよ」とそのともだちは自信たっぷりに言った。

でもぼくはそんなことを信じなかった。

夜もふけてから、もの音がきこえてきたが──

──それは鈴の音じゃなかった。

──C・V・オールズバーグ “急行「北極号」”



凍える程の冷たさで目を醒ます。
飛び込んできたのは一面の灰色の空だった。
その光景は明確な冬の姿だった。

ふと、左門 ヤクモは冷えた背中より腹の暖かさが不釣り合いなことに気がつく。
そして同時に息苦しさにも気がついた。

温かく、微かに鼓動まで伝わってくる。

「ん……ッ……」

もぞり、と覆い被さるものが身悶えた。

「ん……ひゃあ!?」 

そして、ヤクモに気づいて飛び退いた。

「め、メリークリスマス!?」



「ヤクモ、あそこで少し休もう!」

目覚めてしばらくもしないうちに深々と雪が降り始め、やがて吹雪き始めた。
お互いに何が起きたのかを考える間も無いままに、ヨウルは機転を利かせて身に纏っていたダッフルコートや長いマフラーをヤクモに着せて、ひたすら吹雪を凌げる場所を探し歩いた。
ますます悪くなる視界のなか、ヨウルが鞄にくくりつけた鈴の音だけが頼りだった。

「教会?」

遠目の利くヨウルが見つけた建物とおぼしき影がヤクモにもはっきりと見てとれた。
だが足を進めるに伴って、徐々に希望が潰えていく。

「ほとんど崩れてるね」

「でも、風を凌げるだけ大分いいよ」

足取りの重くなるヤクモのかじかむ手を取って、ヨウルは雪を掻き分け教会の戸を開いた。

「……」

小さな教会だった。
問題なのは、その建物の三割ほどが、大砲の直撃でも受けたように崩壊していたことだ。
冷たい風が吹き込んできているが、それでもヨウルの言う通り、あのまま外に居るよりは遥かによかった。

「天に在す我らが父よ、どうぞ吹雪の止むまで、我らをお匿い下さい……アーメン」

ヨウルは徐にそう祈ると、唐突に椅子を動かして空間を確保し、てきぱきと砕けた木材を拾いあつめ、何が入っているのか毎度うかがわしく思っていたパンパンの鞄からライターを取り出すと、積み上げた木切れに火を点けた。

「ちょちょちょ、火ィ炊いて大丈夫なの?」

「ヤクモも神様への日頃の感謝を忘れずにね」

椅子の間にワイヤーを渡し、雪に濡れたカーディガンを干しつつ、鞄から毛布を床に広げてヨウルは微笑む。

「石造りの床は冷えるからね」

「……なんでそんなに準備いいわけ?」

「え、サンタ学科では雪山でのサバイバル術は必修科目だよ? ゲート近辺にプレゼントを配る時には何が起こるかわからないからね」

平然とした顔で言い放つその内容は端から聞けば狂人のそれであった。
しかしそれはこのトナカイの男子の狂言でもなんでもなく、彼は大真面目にサンタクロースになるために学んでいる。
東京にはサンタクロースが後継者育成のための学校を開いていて、サンタクロースはクリスマスに子供たちへ奇跡を届けにくる。

ヤクモが今生きている“東京”は、そういう街だ。

「ほんとヨウルってサンタだよね」

「やだなあ、僕なんか全然見習いだよ」

ヤクモの皮肉をそれと気づかず笑顔で返す。

否、世間一般から見れば、このヨウルというトナカイはやはり狂人と言えるかもしれなかった。
なぜなら彼はサンタのソリを引くトナカイとしては最高の“権能”を持ちながら、サンタクロースになりたがっているのだから。

「でっかい鞄だなとは思ってたけど、まさか毛布まで持ち歩いてるとは思わなかった」

「もう一枚あるよ、使う?」

「……うん」

だが、それだけだ。
すこしばかり、世の中の常識にそぐわないと言うだけで、ヨウルはただの男の子だ。
いや、むしろ、その願いがあるからこそ、彼は清く正しくあろうとするのだろう。
ただ、世の規範的であろうとする以上に、それは尊い願いだ。
ヤクモはこの少年の、そういうところが好ましかった。

「ヤクモ、濡れた服あれば今のうちに乾かしちゃおう」

ヨウルは笑顔で、シャツもズボンも靴下も脱いでしまった。

「……」

目のやり場に困りつつ、ヤクモも続いて服を脱いだ。

「それにしても困ったね……なんでこんな場所に来ちゃったんだろう」

「なんか最近こんなことばっかりのような気がする……」

あいかわらず、ヤクモの頭の中はなにか霞がかかったようだった。
前後の記憶すらはっきりしない。

「ヤクモといると、本当にいろんなことがあるからね……」

「ごめん」

「なにを今さらだよ。ボクは楽しいし」

なんと言う無邪気な笑みか。
優男と見せかけて思いの外竹を割った性格をしているのがヨウルだ。
だからこそ、こう見えて彼は強情だし、それでいて素直だ。

「吹雪が止んだら、《コルヴァトゥントリ》で飛んでみよう、とにかく人里を探さないとね」




吹雪は収まってきたものの、すでに日が沈んでしまったので、ふたりは教会で一夜を明かすことになる。
火を絶やさぬよう木片を集めながら、ヤクモとヨウルは二人で毛布にくるまっていた。

「ヤクモ、焼けたよ」

溶けたマシュマロをヨウルは差し出す。

「あとは乾パンと缶詰くらいしかもってないから、食料をなんとかしないと」

「軍隊か……」

ヨウルと知り合ったいつぞやかのクリスマスを思い出せば、そう思うのも無理はないと思った。

「……寒いから寄っていい?」

「うん、どうぞ」

ヨウルは微笑んでヤクモの肩を抱く。

「ッ」

「どうしたの?」

「……なんでもないよッ」

むしろ暑いくらいまで顔が赤くなる。

「……そういえば、ヤクモと二人きりで夜明かすの、初めてかもしれないね」

「言われてみれば。寮の門限あるし、ヨウルのところも厳しかったよね」

「そうだよね。遊ぶ時も大体リョウタがいたし」

──リョウタ。
ああ、リョウタか、思い出せなかったのは。

ふと安堵してから、ヤクモは再びもやついた気持ちになる。

──リョウタのこと、何で思い出せなくなったんだろう。

「ボクはもう、誰かと泊まるってこと自体が久々だから」

「それでなんかニコニコしてるのか」

「そうだね。非常事態なんだろうけど、ヤクモと一緒だとなんか安心しちゃって」

もやつきがまた大きくなる。

「……僕は何もしてないし。むしろヨウルに助けられてるし」

「ううん、ボクってなんか、一人だとうまくいかないことの方が多いから」

ヨウルはヤクモの頭に頬を当てた。

「……サンタになる、って言っておきながら、そうしたら、ボクは一人なんだよなあって」

「また僕とリョウタでソリに乗ってようか?」

「そうもいかないよ、あの時は一応体裁を整えるのにそうなっちゃったけど、そうならないサンタになりたいって、ボクは決めてるから」

「……」

マシュマロをあぶりながらヨウルは続ける。

「やるって決めたあとに、度胸がないんだ。ヤクモたちが背中を押してくれないと、なんにもできない」

「普段は割と暴走トナカイのくせにね」

「いッ、言うほどじゃないだろう!?」

ヨウルの強情さをヤクモはよく知っている。
そして走り出してから、だんだん不安になるのも知っている。
ただ、彼がやっていることに間違いが無いのも確かなのだ。
度胸がないというヨウルの自己分析は正しいのかもしれない。

「……ヨウルさ、鞄のなかに何入ってる?」

ふとヤクモは尋ねた。

「え、っとお……」

ヨウルは巨大な鞄をまさぐる。

「教科書とノート、筆記用具……お財布でしょ」

「これは?」

「これは替えの靴。あとこれがさっき言ってた非常食の袋」

「っていうか非常持出袋だよねそれ。あとは……」

嫌な予感がしてきた。

「これは一リットルの水。あと辞典とスケジュール帳、あ、これはアドレス帳と、非常用のお財布」

「待って」

「救急箱とお裁縫セッ……なに?」

まだまだいろいろ入っているのは察したが、もう十分に理解したのでヤクモは制した。

「……それさ、全部持ってないと不安なやつでしょ」

「……うん」

ヨウルはしょんぼりした。

「で、でもほら、備えあれば憂いなしって言うし、重くてひったくりにも遭わないし、ボクは体力もついて良いことずくめっていうか」

「ヨウルはそういうとこがなぁ……」

ヤクモは呆れてひとつため息をつく。



窓から差す明かりで目を覚ます。

焚き火は半ば消えかけていたが、吹雪は止んだらしい。
ヤクモが凍えないようにと、ヨウルは彼を抱いたまま静かに寝息を立てていた。

ついこの間、似たようなことがあった気がするのだが。

ヨウルを起こそうかと思ったが、その腕の中が心地よく、ヤクモは再び彼の胸元に潜り込んだ。
顔に似合わず、引き締まった力強い身体つきだった。

「う、ぅん……」

ヨウルが起きたらしい。
ヤクモは思わず寝たふりをする。

「……ヤクモ、起きて」

結局起こされた。

「吹雪が止んでる、また降りださない内に町を探そう」

「……ん」

すこし勿体ないような気持ちになりながら、ヤクモは身を起こす。

「……今さらだけどすごい恥ずかしい格好で抱き合ってたね」

「あはは、ほら、服乾いてるよ」

ほとんど下着姿で一晩抱き合うというのは、緊急時とはいえやはり如何なものなのか。

「で、でも、雪山で遭難したら裸で抱き合えってよく言うよね」

「あ、それ迷信だからね」

「え!?」

ヤクモは目を丸くする。

「濡れた服を着たままにすると体温が奪われちゃうから脱いで乾いた服に着替えたほうがいいって話が尾鰭ついて伝わってるだけ」

「……」

「むしろ“矛盾凍死”って言ってね、錯乱状態になると身体が熱を外に逃がさないようにしてるのを“暑い”と錯覚して裸になって死んじゃう人がいるくらいだから、危ないんだよ」

いそいそと服を着ながら、ヨウルは答えた。

「……ラッキースケベはありえないのか……」

「ん、なんだって?」

「なんでもありません」

「ほら、凍死はしなくても早く着替えないと風邪ひいちゃうよ」

大人しくヤクモは自分の学ランに袖を通す。

「ボクのコート、着てていいからね」

「いや、コートは大丈夫。サイズがちょっとね……」

ヨウルの方がすこしばかり背が高いとはいえ、胴回りはそうもいかない。

「あ……気が回らなかったや、ごめんね」

返されたコートにヨウルは袖を通す。

「じゃあ、せめてマフラーと手袋は貸してあげる」

ヨウルは微笑んで、ヤクモに自分のマフラーを巻いた。

「……そう言うとこがなあ……」

「あ、ごめん、聞いてなかった、なに?」

「何でもないよッ」

顔を赤らめながら、ヤクモは手袋を嵌めた。
妙に暖かい手袋だった。



「はッ!?」

教会を出てすぐ、スマートフォン片手にヨウルは青ざめた。

「や、ヤクモどうしよう、ボクのスマホ壊れちゃったみたいなんだ! 昨日の吹雪で濡れちゃったのかな……!」

それを言われてヤクモも自分のスマートフォンを取り出したが、画面は真っ暗なままだ。

「……なーんか前にも似たようなことがあったような……」

「どうしよう、ごめん、これじゃ神器が出せないよ……」

「ん、多分大丈夫」

なぜかはっきりしないのだが、根拠だけははっきりあるような気がしてヤクモは答える。

「なんかこう、気合いを込めて……」

「き、気合い……」

「こう……掛け声とか……」

「……どんな?」

すこし考えてヤクモは両手で宙に弧を描き、

「……サ──ンタッ、とうッ」

小さくジャンプした。

「……とか?」

「サンタ馬鹿にしてる?」

ヨウルの無表情には異様な凄味があった。

「……とにかく、騙されたと思ってやってみてよ」

「……何も起きなかったら怒るからね」

渋々、ヨウルはどことなく気合いを込めるようなポーズをした。

「──ハッピー、クリスマ──ス!!」

その声と共に、目前に雪色に輝く一台の橇が現れた。

「す、すごいよヤクモ! アプリを使わないで神器が出せた! 出せたんだ!」

ヨウルは鼻を真っ赤に輝かせて喜んだ。

「あー……うん、よかった」

ヤクモはむしろヨウルを怒らせなかった事に安堵して胸を撫で下ろす。

「さあ、さあ、早く行こう、人里を探すんだ」

ヨウルは橇に座し、自らその手綱を握る。

「さあ、橇に乗って! 雪空を翔んでどこまでも!」

「ちょっと浮かれすぎじゃありませんか?」

「《天郵神助》──《コルヴァトゥントリ》ッ!!」

ヨウルの高らかに挙げた声に応じて、雪色に輝く橇がひとりでに奔りだす。
快い鈴の音を響かせながら、やがてふわりと浮かび上がり、速度を上げて寒空を駆けて行く。

──ヤクモは縁にしがみつきつつ、考えを巡らせる。

なぜ、アプリが使えない状況で神器が使えるのか。
なぜ、神器を使えるかもしれないと考えたのか。
やはり、ここにも“生きた人間”が他にいないからだろうか。

──いま、“やはり”と考えたのはなぜだ。

──僕は何かを忘れている?

──そして、その“忘れているもの”は、なんだ?

「ヤクモ、寒くない?」

「え、あ、お陰さまで」

ヨウルが貸した赤いマフラーが風になびく。
顔は凍るように冷たいが、身体が凍えることはない。

「少し高度を上げるよ、ヤクモは向こう側を見て」

ヨウルが手繰る手綱は橇にしか繋がれていない。
本来はサンタクロースが手綱を握り、トナカイたちが橇を引くものだ。
このひとりで完結した奇形のサンタクロースは、子供たちが夢見る姿から逸脱する。

故に子供の夢を壊しかねない。
それがトナカイがサンタクロースになれないとされる由縁だ。

ヨウルが夢を語るとき、その嬉しそうな口許と裏腹に、瞳はいつも寂しげで不安な色を湛えていた。
その不安に似た気持ちを、ヤクモも抱いているからこそ、ヤクモはからかいはしてもそれを否定はしなかった。

男は男を愛してはならない。

だからヤクモは、常々もやついた気持ちを形に出来ないまま日々をやり過ごす他になかった。

それはクラスメイトやギルドの仲間と過ごしているときも変わらない。

むしろ、それが明らかになって友情が壊れてしまうことの方がいろいろと面倒だ。

──面倒だ、と考えてしまう立ち位置に、今ヤクモは立っている。

ふと、風に流れる赤いマフラーが視界にちらつく。

こう言った心尽くしもまた、彼にとってはちくりと痛む心の棘だ。
身寄りなく、由縁なく、頼れるものは友しか居ない。
その不安のなかでは、彼の心はあまりに靡きやすい。
心を許せば、求めすぎてしまう。
そうなれば、終わりだ。

だから彼は優しくされるのが嫌だったのだ。
優しくされたら、求めてしまうから。

彼は決して強かな心は持っていない。
だが、強かでなければ、壊れてしまうのだ。

それが“あのとき”、彼が──の腕に飛び込むのを躊躇った理由だ。

“あのとき”──

“あのとき”、心を許してしまったのは、誰だ?

「ヤクモ、街だ!」

ふと、我に返る。
だが心にはまだ引っ掛かりがあった。

「大きい街みたいだけど……あれは……なんだろう」

ヤクモが目を凝らすと、遠くになにか堅牢そうな建物が見える。

「……お城かな」

「それにしてはなんだか地味じゃない?」

「もうちょっと近づいてみよ……」

そうヨウルが橇の高度をわずかに下げた時──

「──なにこれ!?」

聞きなれない、気味の悪い連続音が耳をつんざく。
明らかな不協和音、あえて不快に、焦燥感を強く煽る目的で調整された、警告の音色。

──“サイレン”。

「掴まってッ!!」

ヨウルは急行下を試みる。
雪原に橇の影が近づく。

──直後。

「ッ!?」

橇の右側面が“弾け飛んだ”。
襲いかかる衝撃に、橇は空中で“転覆”する。

「──!!」

振り落とされた二人は、空中で橇が掻き消えるのを見た。

風の音も聞こえなかった。

強く、強く、恐怖に任せて瞼を強く閉じた。

そのあとはただ、闇だった。



──ふと、暖かな風が鼻を撫でた。

闇の中に青空を見た気がした。
否、それは闇か、青空か。

五月の太陽に木の葉が揺れる。
小さな、黄色く咲いた花の香りが優しかった。

気づけば、学舎の机に座っていた。

無数にある机の中央に座し、向かいの教壇に恩師が立つ。

その顔は曖昧で、思い出せない。

「──お前だけが頼りだ」

恩師は笑った。
その笑みは、悲しげだった。

「おまえはおそらく、数年のうちに死ぬ。だがそれは肉体の死だ、肉はただ、この目に見えるだけの世の楔でしかない」

ただ、その言葉を、黙して聞く。

「お前の清い魂は、その後、天に昇り──ある大いなる目的のための、長い修行に入る。長い長い修行だ」

ふと、風が空を撫でる。

自分は教室に居たのではなかったのか。

「恐れるな。お前は今、そう運命られてここに在る。そして、私の死後、お前を求める時代に再び舞い降り、私が救いきれぬ全てを救うのだ」

師が笑った。

不安と恐怖すら感じる隙を与えない、包み込むような笑みだった。

「──“救者”よ、私を越えるものよ。どうか、どうか──」

「──」

「──皆みな、救いたもう──」



ざりり、と、耳の下を何か得体のしれないものが舐めた。

「んギッ」

気色の悪さに跳ね起きる。

「にゃあ」

黒猫がそう鳴いて、鈴の音と共に消えていった。
一度だけ、アイスブルーに輝く瞳を彼に向けて。

「……」

「起きたのか」

ふと気がつけば、自分がベッドに横たえられていたのに気づく。
質素なものだが、いつぞやかに比べたら見違えるほど清潔で上等だ。
声の主は髭を蓄えた初老の男だった。

「傷どころか凍傷ひとつ無かった。幸運だあんた」

「その……ありがとうございます」

そう礼を言いながら軽く辺りを見回した。
古い石造りの建物で、妙に薄暗い。
やや湿った空気から地下にでも居るのかもしれないと考えた。

「サイレンを聞いて様子を見に来れば……あんたまさか空から来たんじゃあるまいな」

男の言葉にヤクモは急に血相を変える。

「あッ、あの、もうひとり男の子が居ませんでしたか!? 僕より背が少し高くて、何て言うか、トナカイ的と言うか」

「何言ってんだあんた……お連れさんならあんたより先に目を覚ましたよ。半日くらい前だったがね」

その言葉に、ヤクモは安堵する。

「とは言えずいぶん憔悴してた。おれが見つけた時には半ば埋もれてたからな」

男の足元に、あの黒猫が現れる。

「こいつに感謝するんだな、あんたが連れてた猫かどうかは知らんが、こいつの鈴の音であんたらを見つけた」

にゃあ、と小さく鳴いた猫は、琥珀色の瞳でヤクモを一瞥してまたどこかへ消えてしまった。

「もう少し休んでおけ。飯の支度をしておいてやる」

男はそう告げて、部屋を出ていった。

「……」

そのまま再び身を横たえて、白く漆喰で固められた天井を見る。

──思い出せないことばかりだ。

なにかとても、とてもたくさんのことがあったような気がする。
そして、その全てが雑に抜け落ちていて、記憶の片隅に残滓だけが残っている。

そのうち、自分がだれであるか。
それすらも忘れてしまいそうだ。

──左門、ヤクモ。

僕は、誰だろう。



「ヨウルッ!!」

およそ一日ぶりに顔を合わせた親友は、鼻先を真っ赤に染めてヤクモを抱きしめた。

「あは、よかった、本当によかった!!」

ヨウルがヤクモの背中を何度も摩り、何度もその額に頬をすりつける。
そして人目に気づいて、顔を赤らめながら離れた。

「おまえさんたち、一体どうしてあんなところに倒れてたんだい?」

介抱してくれた夫人が尋ねる。

「その……橇遊びをしているうちに吹雪が来て遭難してしまって」

「ああ、それでここいらで見かけない顔だったワケね。こないだのサイレンの理由がどことなくわかったわ」

「戦時中に不用意すぎる……おまえさんたち、危うく撃たれてしまうところだったよ」

それなりの理由で誤魔化す算段だったはずだが、ヤクモはその言葉にうっかり口を滑らせてしまう。

「……戦時、中?」

「坊主、頭でも打ったかい? この国はもう七年も戦争を続けてる。この要塞都市だけが最後の要さ」

食事の支度を進めながら、家の主人が応える。
それは先ほどの男とは違う人物だった。

「徴兵がなくて本当によかった。この国の軍備はすばらしい。天然の山壁、止まない吹雪、それに最高の対空防衛」

──対空防衛、“墜落”の原因は、おそらくそれだ。

「我々は皆の資産の為に働く。すばらしいことだ。国は我々を守ってくださる」

主人は芝居ががった大げささで自国を湛えた。
その様子には、妙な薄気味悪さを感じた。

「さあ、朝食にしよう。ラジオをつけて」

夫人が少し疲れた顔で、壁に埋め込まれたラジオの電源を入れた。

軽快な音楽が食卓を包む。

「さあ君たちも。名前を教えておくれ」

「……ヤクモです」

「僕はヨウル」

席に着く前に軽く会釈して挨拶した。

「おもしろい名前ね、兄弟かしら」

供されたのは、パンにわずかなスクランブルエッグ、薄く切られた一枚のソーセージだ。

「今日は豪勢だな」

「お客さんの手前ね、育ち盛りにはちょっとかわいそうな量だけど許してね」

夫人は申し訳なさそうに笑った。

「あたしはエカテリーナ、仰々しいからカーチャって呼んで、旦那のイヴァンよ」

「宜しくお願いします」

ヨウルが会釈する。
転光生であるヨウルの姿をそれほど不思議がっていないことから、この世界にも獣人は居るのかも知れない。

「そろそろ時間だ」

イヴァンが姿勢を正す。

『おはようございます! 朝の国民放送のお時間です』

さわやかな女性の声だった。

『本日も早朝から、生産工場より高らかに響く国民の皆様の力強い挨拶が、国営放送局まで届きます──』

にこやかに、夫婦は放送に耳を傾ける。

『目覚ましいこの五ヵ年の成果、工業生産数はグラフを突き抜け、天にも届かん我らの高らかな歌のようです──』

パンを口に運ぶ手が、徐々に重くなっていく。

『本日も、我が国を敵国の脅威から御守り下さる、偉大なる国軍同志、勇敢なる志願兵同志のため、我々も力強く躍進しましょう!──』

この、居心地の悪さはなんだ。
この、薄気味の悪さはなんだ。

にこやかに、不気味なまでににこやかに、夫婦は放送に耳を傾ける。

『──さて、今月の標語の唱和、および業績表彰のお時間ですが、本日は内容を変更し、我らが同志、ハリトー・シャリアピン司令より、国民の皆様へ大切なお知らせがございます』

「ん、昨日のサイレンの件かな?」

ヨウルとヤクモは息を詰まらせた。

『あ、あー、諸君、シャリアピンである!』

カミナリ声の男の声だ。

「黒いほうの校長先生みたい」

「シッ」

イヴァンが諌めたが、ヨウルの軽口でヤクモは少し気が晴れた。

『──る事は大層喜ばしいことである! しかして先日! 大ッ変に由々しき事態が発生した!』

気が緩んだのもつかの間、再び二人は手に汗を握る。

『昨日鳴り響いたあのサイレンを誰もが聞いただろう、我らが誇る対空防衛網が、我らが街に“飛翔体”が迫りつつあるのを即座に補足、これを“撃墜”した!』

「まあ……!」

恐怖にひきつった顔でカーチャが声を上げる。

『この七年の間、そして、本国との通信網が寸断され孤立したこの五ヵ年の間! 我らはこの地に鳥一匹もの侵入を許さなかった! “空を翔ぶものは敵だ!” 我らが霊峰を飛び越え侵入するものは全て敵だ!』

「……ッ」

つまり、それは自分達のことだ。
上空で起きたことの全貌を理解した。
今になって、死の恐怖が膝を震えさせる。

『我々は即座に敵飛翔体の調査を行ったが、撃墜した筈のそれは忽然と姿を消した! 今だ調査中である!』

夫妻が顔を見合わせる。

『同志よ、警戒せよ! 敵は我らが要塞都市に侵入した恐れがある! 今まで以上に軍部は不審者に対し厳しく取り締まる! 人民証はしっかりと携帯するように』

「いけないわ、何処にやったかしら」

「カーチャ、静かに」

『また、見知らぬ者には常に警戒せよ! 仕事中の不用意な私語は慎むこと! 諜報員は何処で聞き耳を立てているかわからない!』

そっと、気づかれないよう、ヨウルは隣で青ざめるヤクモの手を握る。
緊張で、指先まで冷たく冷えていた。

『祖国の安全は我ら皆の努力で創られる、以上、祖国万歳!』

「大変だわ、ちゃんと探さないと」

「大丈夫だよ、カーチャ」

『──ありがとうございました。最後に、本日の挨拶の更新を持ちまして、朝の国民放送を終了致します』

イヴァンは妻と、二人の客人を一瞥する。
特に二人に寄せられた視線は、なにか特別な意図を感じた。

『本日の挨拶、“互いの右肩に触れ、元気よく”。それでは、今日も一日、張り切って労働に努めましょう──祖国、万歳!』



「さて、今日は忙しくなるぞ」

食器を片付け、イヴァンが呟く。

「君たち、今日一日は部屋に居なさい。あらぬ誤解を招きたくないんでね」

微笑んだ主人に、二人は顔を見合わせた。

「その……僕ら」

「君達みたいな子供が諜報員かい? 対した怪我もしてなかったようだし、対空砲を受けて無事なものかい」

「そうよ、しばらくはうちにいなさい。山越えは軍部に掛け合わないと無理よ」

温情にほっと胸を撫で下ろしたものの、タイムリミットはどうやら定まったらしい。
さすがに軍部の人間を誤魔化すのは難しいだろう。
こういう、交渉の必要な局面は苦手だった。
全て彼に任せきりだったからだ。

そう、彼──なんという名前だったろう。

「そろそろ、お客さんが来るころさ」

そう言うが早いか、こっそりと窓の外で誰かが手を振った。

「あらミーシャ、どうしたの」

勝手口から入ってきたのは、きれいに髭を蓄えた大柄の男だ。

「おはようカーチャ、今日もきれいだね」

男はカーチャの右肩に触れて挨拶する。
カーチャもまた男の右肩に触れて応じた。

二人は即座に、戸の影に隠れる。

「イヴァン助けてくれ、今朝の放送聞いたろ」

「わかってる、人民証を無くしたんだろ」

「家族全員な、たぶんまだみんなやって来るぞ」

イヴァンは笑って、黒く汚れたエプロンを纏う。

「……うちはね、印刷所なの。軍部のお知らせからお店のチラシ、学校の教科書……証明書の類いも受注してンのよ」

二人が隠れる位置にカーチャが立ち、小さな声で説明した。

「最後に人民証つかったの、もう何年も前よ。みんな無くしちゃうから、軍部に内緒で再発行しているの」

「……バレないんですか?」

「忙しい人たちだし……それに」

「失礼する」

勝手口に軍服の男が、申し訳なさげに現れた。

「その……こちらで人民証の再発行ができると聞いたが」

「この調子だからね」

カーチャの笑顔で、ようやく二人は笑顔を取り戻す。

「旦那が相手してる間にアンタたちにちゃんとした部屋を用意してあげる。おいで」

勝手口にはみるみるうちに近隣住人が集まってくる。
その様子に、どことなく住人たちの気質がわかったような気がした。

「本当は、人民証には役所で振られた番号を載せなくちゃならないんだけど、本土の連絡便で問い合わせなきゃいけないから時間がすごくかかるのよ」

イヴァンの家は想像より大きかった。
中央の印刷所が吹き抜けになっており、巨大な転輪機が威容を放つ。
三人は階段を登り、突き当たりの部屋の戸を開く。

「連絡便の車は吹雪で通れないし、本土への電話線もどこかで切れてしまって。五年も孤立してるのよ、この街は」

いろいろと埃を被っていたが、整頓された部屋だった。

「息子の部屋よ、ベッドがひとつしかないからケンカしないで使うのよ」

カーチャは笑う。

「その……息子さんは?」

ヨウルがふと訪ねた。

「……」

カーチャは微笑んでいたが、少しだけ視線を落としてから言った。

「志願兵として本土に行ったわ。それからのことはわからない」

「……」

「生きているんだが、死んだんだか……便りも届かないここでは、わからないの」

言葉の終わりは、涙声だった。

「……わからないのよ」

カーチャは踵を返して戸を閉じた。

「……」

ヨウルがいたたまれない顔で腰を下ろす。

「……優しい、ひとたちだね」

そして努めて笑顔を作る。

「……今は、十二月なのかな」

しばらく視線を泳がせて、壁のカレンダーを見る。
自前で刷ったのか、紙は真新しいものに見えた。

「……」

ヤクモはヨウルに、うまい言葉がかけられなかった。



質素なシチューの夕食を済ませ、二人はイヴァンから簡素な紙の“人民証”を与えられた。
これでなにか言いがかりをつけられても言い訳が効く。
真面目なイヴァンには、二人を匿うことには異論ないが、やはり思うところがあるようだった。

二人を庇うのは、余所者を招き入れた罪で自分やカーチャ、本土の息子の人生を壊さないためだ。
イヴァンはそう、念を押した。

「……明日から、東京に戻る算段を考えないと」

「……そうだね」

狭いベッドに二人、肩を並べて身を寄せ合う。

「……ヨウルさ、寝るとき、ツノ邪魔にならない?」

「え、ちょっとコツがあるんだけど……あ、でも、こうやって誰かと寝るの、久々だからちょっと心配かな」

空気を変えようとヤクモがヨウルに問いかけた。

「弟と雑魚寝した時に一度絡まって慌てたんだよね」

「弟いるの」

「言わなかったっけ、弟が八人」

特になんの不思議もないという顔でヨウルは言い放ったが、目を丸くしたヤクモの顔を見て少しバツが悪そうにした。

「た、確かによその家に比べたら、多いほうなのかな……」

「多いよ、ビックリしたよ……」

恥ずかしそうにヨウルがはにかむ。

「こんなボクだけど、お兄ちゃんなんだよ」

「うん……なんかちょっと納得した」

身の丈以上の妙な責任感の強さ、面倒見のよさ、それを十分理解するに足りる情報だった。

「ヤクモ、兄弟は?」

「いない──」

と、答えかけて

「──と、思う」

と、自分の“キャラクター”を思い出す。

「あ、そうか……ごめん」

ヨウルもうっかり、ヤクモが“記憶喪失”であることを失念していた。

「でもたぶん、引っ掛かりもしないから、居ないんだと思うよ」

「……そうか」

ヨウルが仰向けに寝返ろうとしたとき。

「うわぁぁッ!」

ヤクモの眼球めがけてヨウルの立派な“角”が迫った。

「あっあッ、ごめんッ、ぶつからなかった!?」

「あ、危なかった……」

「や、やっぱりボク床で寝るよ、毛布持ってるし……」

そう起き上がろうとしたヨウルをヤクモは制した。

「……風邪ひくよ」

「……」

言われるがまま、ヨウルは再び身を横たえる。

「……あっ、そうだ、ヤクモ、ちょっと頭上げて」

言われるがままにすると、ヨウルはヤクモの頭の下に腕を差し入れた。

「腕枕。こうすればツノ当たらないよね」

笑うヨウルを見て、ヤクモはもやついた気持ちになる。

「……こういうことするんだもんな……」

「え、なに?」

「なんでもないよッ」

ヤクモはヨウルに体を預けたまま、顔を背けた。

「──あのね、ヤクモ」

ヨウルはヤクモの肩に手を回しながら口を開く。

「カーチャさんに、今日が何日か、聞いてみたんだ」

「……うん」

「……十二月、二十二日、だって」

ヨウルは、なぜか随分と悲しげにそう答えた。

「……あと三日だよ。クリスマスまで」

そう言われて、ヤクモはそれが、ヨウルにとって極めて重大なことだと気がついた。

「なのに、どこにもツリーが飾られてない。リースもだ。誰も気にも留めてない」

「……あと三日あるんでしょ?」

「そう、だけど」

ヨウルの語気が弱気になる。

「……戦争をしていると、クリスマスもお祝い出来ないのかな……」

「……」

「この街じゃ、サンタクロースだって、きっとボクらみたいに……撃ち落とされてしまうよ」

ヨウルの感受性は、おそらく自分より多感なのだろう。
ヤクモにとってはどうでもいいことだが、ヨウルには、それが耐えがたいに違いない。

「……ヨウル」

「うん」

「この世界には、クリスマスが無いのかもしれない」

「そんな……ッ」

ヨウルは思わず声を挙げそうになって、即座に抑えた。

「……東京には──ヨウルみたいなサンタクロースが居るけれど……」

もっとすさまじいサンタクロースが居たはずなのだが、思い出せない。

「全ての世界に、サンタクロースは居ないのかもしれない。東京がただ、特別なだけなのかもしれないよ」

「……そんな……」

「……まだ、わからないけどね。それとなく明日、調べてみよう」

「……うん」

──励ますつもりで、ヨウルを傷つけてしまったかもしれない。

「……おやすみ、ヤクモ」

「……」

ヤクモは、そっとヨウルのがっしりとした胴を抱き、その左胸に額を寄せた。



『──最後に、本日の挨拶の更新を持ちまして、朝の国民放送を終了致します。本日の挨拶、“両腕を広げ、包み込むように”。それでは、今日も一日、張り切って労働に努めましょう──祖国、万歳!』

甲高い鉄の車輪が廻る轟音が、早朝から鳴り響く。
印刷機とはかように五月蠅いものなのかと、二人は部屋に閉じこもりながら思う。
イヴァンの印刷所は夫婦二人だけの経営で、転輪機を廻す夫の横でカーチャは手際よく活字を組んでいく。

彼らの仕事は主に軍部から依頼された諸々の頒布物の製造だった。
例えばそれは新しい教育に使われる子供たちのための教科書や、幼少期から愛国心を養うために執筆された絵本であったり。
あるいは諜報員や売国奴の告発を促すポスター、明るい未来を願って描かれたプロパガンダ。
二人はそれを、黙々と印刷していく。
今、彼らが製造してあるのは月に一度の広報誌だった。
とはいえ、彼らが持つ情報は少ない。
本土から孤立した天然の要塞に閉じ込められた彼らの、小さな戦いの歩みが美化されてそこに書かれている。

「あのっ、なにか、お手伝いできることはありませんか?」

ヨウルがイヴァンに話しかける。
これはヤクモが止めたことだった。
あまり深く関わりすぎると、迷惑をかけると考えたからだ。

「いや、二人で大丈夫だよ。お客さんに汚れる仕事を任せるのは申し訳ない」

「でも、ボクらだけお世話になっているのも、収まりが悪くて……」

ヨウルにも考えがあった。
いずれにしても引きこもってはいられない以上、当たり障りない言い訳がひとつあるだけでも活動がしやすい。
それにヨウルには、止められても確かめたいことがあった。

「こう見えて、力仕事は得意です」

「……まあ、そうだね」

ヤクモはあまり良い手と思えなかったが、ヨウルをひとりにさせる訳にもいかずに、彼に着いていく他に、なかった。

「……ふむ、わかった。じゃあ、そこに纏まっている印刷物を仕分けておいてくれないか。種類別でかまわない」

「わかりました!」

ヨウルは元気にそう応じた。

「働きものだねえアンタ」

「物を運ぶのは得意です」

カーチャはヨウルの心意気に微笑んだ。

「運送かなんかやってたのかい?」

「まぁ……ッ、彼はそうですねッ」

思いの外、重量が嵩む印刷物の固まりを無理矢理持ち上げながらヤクモは答えた。

「サンタクロースになりたいんです、ボクっ!」

ヨウルが笑顔で答えた。

「……ッ」

代わりに、夫妻は笑顔を無くした。

「……あれ……?」

イヴァンが思わず印刷機を止める。

「……今、なんて言った……?」

青ざめた顔で、彼は問うた。

「……ボクは、サンタクロースになりたいんです」

「ッ!」

カーチャが手元を狂わせて、写植を拾うピンセットを取り落とす。

「……この国には、クリスマスは無いんですか……!?」

「ヨウル」

「明日はクリスマスイブでしょう、なぜ誰もツリーを飾らないんですか!? 子供たちは、クリスマスが待ち遠しくて仕方ないんじゃないですか!?」

ヨウルが声を荒げる。

「だれもその話をしていない……まるで避けてるみたいに!」

「ヨウル、止めなよ」

「この国には“教会”があったッ、なのにそこも壊されたまま……讃美歌も聞こえない!」

イヴァンは険しい顔で歩み寄る。

「なぜですか、“戦争”だからですか!?」

「ヨウルッ」

「“戦争”をしてるから、クリスマスもなくしてしまうんですかッ」

「ヨウル!!」

その時、ヨウルの両肩を強く掴む影があった。

「あんたッ!!」

カーチャだった。

「人前でッ……二度と“そんなこと”言っちゃあいけないよッ!!」

顔を真っ赤にして、鬼の形相を纏って、カーチャは怒鳴った。

「だって……ボクは……サンタクロースに……」

「“そんなものはいないんだよ”!!」

あの、優しいカーチャは、何処へ行ってしまったのだろう。

ヨウルは、怯えた。

信じられなかった。

そして、哀しかった。

「カーチャ」

「あんた!!」

「──“なにかあったのかい?”」

イヴァンは、微笑んだ。

「……いいえ、なにも……なにも、なかったわ」

その微笑みが、氷よりも冷たいものに見えた。

「……ヨウル、“手伝ってくれる”んだろう」

「……あ……」

ヨウルの肩が震える。

「──カーチャ、ヨウルとヤクモを連れて“配達”に行ってくるよ」

「ッ、あんた、それは──」

言い澱むカーチャに、イヴァンは意味深げに首を横に降った。

「続きを頼んだよ」

「……わかった。早く帰ってきて」

釈然としないまま、二人はイヴァンに連れられて工場を出る。

「ふたりとも、出掛ける準備をしなさい」

穏やかに語りかける姿勢がむしろ恐ろしかった。

「イヴァンさん……ボクは……」

「ヨウル、頼みがある」

イヴァンはヨウルの肩に手を置いた。

「外に居る間……君は口を聞いてはいけないよ」

影がちょうど、彼の顔に落ちた。
蒼く澄んだ瞳が、ぎらりと輝いたようにも見えた。

「……」

悲しい顔のまま、ヨウルは黙して頷いた。

「ヤクモもなるだけ黙っていなさい。そしてこれから見聞きすることは……特に誰にも話しちゃならない」

「……」

「……罰しようという話じゃない。君らに手伝って貰いたいのは事実だ。もっとも、情けない話なのだが……」

イヴァンは頭を振る。

「……おそらくこれは最後のチャンスだ。僕らにとっても、この国にとっても……」



街外れの倉庫街に、一台のトラックが入っていく。

「……」

二人は幌張りの荷台に揺られながら、空いた穴から時おり外の様子を見た。
イヴァンのトラックは寂れた倉庫街の奥へと進む。
停車している大半の車両は朽ちて氷柱が垂れており、どうやらここに遺棄されたものを集積しているようだった。

「止まれ!」

並走してきた軍部のバイクが呼び止めた。

「ロモノーソフ印刷社です。広報ポスターの納品に」

「……了解した。ご苦労様です!」

何かの書類を確認すると、バイクの男は去っていった。

「……」

ヨウルが心細そうに、ヤクモに肩を寄せる。
もとはと言えば、ヨウルが自分で撒いた種だ。
彼が自らのエゴを通さなければ、こんな変な流れにはならなかっただろう。
ただ、それにしても、ヨウルの稚拙な思想(イデオロギー)に対して、あまりに大人げない対応であったのも事実だ。

たかが、クリスマスがなんだと言うのだろう。

ヤクモはそう思いつつも、ヨウルの肩を抱き寄せた。

──それからしばらくして、ある倉庫のなかにトラックが滑り込む。

「やあ、イヴァン」

誰かの声。

「“彼”はどうだい?」

「ああ、ピリピリはしてるがな。他の連中もすぐ集まる」

イヴァンが車を降り、幌を解く。

「二人ともおいで」

言われるがまま、二人は荷台から飛び降りる。

「……そいつらは?」

出迎えたのは、みるからに屈強な厳つい男だ。

「……詳しくは彼らから聞こう」

イヴァンの言葉はいまいち的を得なかった。



倉庫の敷地の外、トタンの波板で粗雑に据え付けられたバラックの扉の中には、今は使われていない上水道のポンプ室に通じるマンホールが隠されている。
その先には、同じく未使用になった軍の秘密航空機工場があるのだという。

それが彼ら──言うなれば“レジスタンス”の隠れ家だった。

彼らは一部の軍部内通者と、他は全て街の労働者だけで構成される。
特別な武器も、戦力もなにもない。
ただ、彼らは“このままではいけない”と言う気持ちだけで、この場所に集まるのだという。

「──軍部と本国の通信網が寸断されたのは五年前……それから軍部は、当時の命令のまま、山を飛び越えようとする敵国の飛行機から本土を守ることだけを考えてきた」

イヴァンが入り組んだ道を進みながら二人に答える。

「ところが、ある日……とんでもないことがわかった」

「戦争は、とっくの昔に終わってたのさ」

「……えっ」

ヨウルが思わず口にして頭を振る。

「ああ、もう少しだけ辛抱しといてくれ。誰が聞き耳立ててるかわからない」

この言葉で、ようやくヨウルはなぜ口止めされたかの意図を汲み取った。
だが、それにしても、カーチャのあの剣幕は未だに理解に及ばない。

クリスマスに、なにがあるのだろう。

「──二年前のことだ。本土から、ある飛行機が街に来る予定だった」

「……」

「この街が何故、要塞が建てられるほどの重要拠点とされたのか……そこから説明しよう」

吐く息が白くたなびくのを、二人は必死に追いかける。

「この街は元から、秘密都市として計画されたものだった。地形的にね、ここはとても攻略しにくいんだ」

「絶壁の谷、凍える雪山……おまけに風が強く吹き込む。お陰さまで四六時中が吹雪だ」

「この山を越えられるのは“空”だけだ。敵国の“山越え”を塞き止めるために、ここには最新の対空防衛網が敷かれている」

それは身をもって体験したものだ。
よく命が繋がったものである。

「この荒れた空を飛べるパイロットはそう居ない……敵からもこの要塞は恐れられ、攻め落とそうなんてことすら起こらなかった……」

やがて開けた場所に出た。
どうやら目的地らしい。

「……」

二人は、その開けた空間に、紅の翼を見つけた。

「この街に“彼”がやって来たのは──寸断された通信網に代わって、軍部に本土からの“知らせ”を届けるためだ」

その翼には、痛ましい被弾の痕が残る。

「……それは終戦の知らせだった。戦争は痛み分けのまま終わった。なのに……」

「……」

「軍部は、彼を“撃墜”したんだ」

四人はそこで、足を止めた。

「……誤射……?」

「いいや。識別信号は出していた。俺は“意図的に”撃たれたのさ」

紅の飛行機のコクピットから、別の男が顔を出した。

「ッ!?」

ヨウルがその顔を見て驚く。

「……こうちょ……」

そう言いかけて、言い淀んだ。

確かに、その男は厳めしく、髭を蓄えていた丈夫だったが、ヨウルが思い浮かべた人物とは雰囲気が似ているだけの別人であった。

「紹介しよう、彼がリーダーのニコライ・マラーコフ少佐だ」

「なんでぇ、有力な協力者ってのはあの時のチビスケどもか。メンテナンスが水の泡だ」

ニコライは葉巻に火を点ける。
その様が余計に、ヨウルが慕う恩師の姿に重なる。

「……君たち」

イヴァンはひとつ深呼吸してから訪ねる。

「君たちは……“空から来た”んじゃないのかい……?」

その言葉に振り向いたのは、ニコライだった。

「あのサイレンが鳴り響いた日……僕は確かに、撃ち落とされる“なにか”を見たんだ。その先に……君らが居た。関係性もわからないまま……“もしや”と思って、匿ったんだ」

「……」

「君らがこの街の人間でないのもすぐにわかった。そして君らみたいな迂闊な人間がスパイじゃないのも」

それは確かに言い返せない。

「どんな方法かはわからない……でも状況は、君らがどこかの“空”からやって来たとしか思えない」

「こいつらに航空技術が!?」

ニコライは目を丸くした。
軍属のパイロットからすれば、確かに信じがたい言葉であろう。

「……はい。ボクらには、その技術があります」

ヨウルが口を開いた。

「そしてボクらは命を救われた……そのご恩は、返したい、でも」

ヨウルが言い澱む。

「……要するに、僕らが切り札になりそうだから助けて、そうでないなら見殺しにするつもりだった?」

代わりにヤクモが、胸中に溜まりこんだものを吐き出した。

「ヤクモ、そんな言い方……」

「いまいち納得がしきれないよ。それに、何を手伝わせるつもりかわからない」

ヤクモは言い放つ。

「ヨウルは、要塞を爆撃して皆殺しにしろって言われたら、手伝うの」

「……ッ」

「この人がしたいことが復讐じゃないって、言いきれるの」

ヤクモの眼は、冷たかった。

そしてヤクモ自身、なぜこうも冷たくなれるのか、わからなかった。

「……それに、なぜヨウルの言葉にそうムキになるのかもわからない。クリスマスになにが?」

「──クリスマス」

ニコライが割って入る。

「おまえら、クリスマスって、言ったのか」

その言葉には、妙な暖かみがあった。

「……そうだ。教えてください。ボクが“サンタクロース”だと言って……止めたのは、なぜですか」

ニコライは、その言葉を聞いた。

「……ぶわっはっはっはっは!!」

そして、笑い出す。

「クリスマス、サンタクロース! ああ!!」

馬鹿にされたのだと、ヨウルは思った。

「まさか、まさかそんな、ぶわっはははは!!」

「……ッ」

「ああ、“何年ぶりに聞いただろう”!」

ニコライの声に、ヨウルは握りこぶしを解く。

「……若ぇの、おまえさんら、本当に街の外から来たんだな」

「えっ」

ニコライの目付きが変わった。

「今……この街じゃあ、“夢見ること”を禁止されてる。クリスマス、サンタクロースなんて言葉は、真っ先な禁止された!」

ニコライは飛行機を降りた。
真っ赤なコートが目に眩しい。

「そして空を飛ぶことも禁止された! あらゆる夢想が禁止だ! ファンタジーもすべてだ!」

「……何故」

「軍部はこの街を“閉じた国”にして本土に反旗を翻すつもりなのさ、夢を奪い、思想を奪い、思考を奪ってな」

「クーデター、だよ」

思いの外、壮大な言葉に繋がった。

「子供たちから、夢を奪うことになんの関係が?」

「“考えること”をやめさせる為さ。空想は想像力を働かせる。それはつまり、想像力がある人間はいつか軍部の考えをはね除けるかもしれたいからさ」

息を飲む。

そのために、そのようなことのために。
子供たちは、クリスマスを奪われている。

「軍部の教育はもはや洗脳のそれだ。朝のラジオを聞いてきただろう。あれをちゃんと聞いていないものは処罰される。毎朝、挨拶の仕方が更新されるのはそのためだ」

「“異なる挨拶をしたものには厳罰が与えられる”……そうして、人はあのラジオを聞かざるを得なくなるわけさ」

あの朝の、気味の悪さを思い出す。

それは“強制的な空気”を感じ取ったからだったのだろうか。

「二足す二は四だ。だが、軍部が“その答えは三だ”と言えば、そうだと考えざるを得なくなる」

「いや、もう始まっている。やがて皆、二足す二は三と言われたことに疑問すら抱かなくなる。そう言われたならそうだとしか考えられなくなる」

「そのために“夢”が邪魔なんだ。“サンタクロースは本当にいるの?”なんて疑問すら、もうすぐ抱かなくなる」

二人は押し黙る。

「軍部も暴走しているんだ。シャリアピンすら利用されている」

「あいつは愚直の極みだからな……大統領からの親書を見れば目を覚ますだろうが、それもまだここにある」

ニコライは懐から、一通の手紙を取り出す。

「こいつを直接、シャリアピンの元に届けたい……しかし、軍部に直接掛け合えば握りつぶされる。誰が糸を引いているのかはわからず仕舞いだ」

「そのために、あの防空網を掻い潜り、要塞の司令部に直接突入する作戦を立てた。飛行機も有り合わせの部品をなんとかかき集めて、飛ばせられる程度には修理した」

「だが、それも辛うじて、だ。あの掃射を掻い潜る自信は無え。チャンスはいちどきりだ」

彼らの目的は理解した。
だが。

「……ボクたちが出来る手伝いとは、なんですか」

「……」

イヴァンは一度躊躇ってから、口を開く。

「……“陽動”だ。“囮”だよ」

「ッ……」

「君たちの飛行機──そう言っていいのかはわからないが、それを回収して、残りの資材で修復する。君たちに防空網が釘付けになっている間に、マラーコフ少佐が要塞に突入する」

イヴァンは辛そうに答えた。

「……カーチャには反対された。あたりまえさ。君たちのような若者に頼む仕事じゃない」

「……」

「……ヨウル、それでも……」

ヨウルの身体の強張りは、隣に立つヤクモにすら感じ取れた。

「私は耐えられない。子供たちの教科書からおとぎ話を削除して、狂った軍部のスローガンや夢の無い話で塗りつぶしていくのが!」

「イヴァンさん」

「……ヨウル……どうか……」

頽れたイヴァンにヨウルは駆け寄る。

「子供たちに……クリスマスを取り戻させてあげたいんだ……」

「……」

ヨウルはふと、傍らのヤクモを見た。

「……ヨウルのやりたいように、やればいいと思う」

「……」

「たぶん僕らは、そのためにここに来たんだと思うよ」

ヤクモの表情はあいかわらず乏しかった。
そしてどうしようもない大人たちを見る目も、あいかわらず冷たかった。

だが、それ以上に、ヤクモの投げ掛ける視線は、不思議と慈愛を感じ取れた。

こんなにも、冷徹なのに。
こんなにも、悲しげなのに。

「……明日、決行しましょう」

ヨウルは、まっすぐニコライを見て答えた。

「明日!?」

「そんな早く飛行機は用意できない!」

「大丈夫です。むしろ明日やるべきなんです」

ヨウルは立ち上がる。

「ボクは、サンタクロースだから」



軍部は迅速かつ確実な情報伝達の為に、街中に通信インフラ網、すなわち“電話回線”を敷き詰めている。
彼らが発信している“ラジオ”も名ばかりで、ラジオ電波ではなく電話回線を通じて配信されるものだ。
これは街の中央に聳える対空レーダー塔からの捜査電波があまりに強力で、他の電波通信を妨害してしまうことに起因している。
レーダーが飛翔体を捉えた場合、司令官であるシャリアピンへの直通電話(ホットライン)にてその到来が告げられ、そのまま各対空砲への指揮を取ることができるようになっている。
それが、この要塞が最強の対空防衛を誇るメカニズムだ。
あまりにも対処が早く、また、確実で隙がない。

シャリアピンへの直通回線へ、レジスタンスが直接連絡を試みたことがある。
軍部も一部の革新派を除けば深く疲弊しており、情報の入手はそう難しいことでは無かった。
しかし、彼は終戦の言葉を信じなかった。
売国奴からの甘言だと断じて信じはせず、より厳しい規則を敷かせてしまったことで、レジスタンスは己の首を絞める結果に終わった。

シャリアピンもまた、深く疲弊し、その一方で強すぎる愛国心から、おぞましいほどの猜疑心に苛まれていた。
故に彼は、その隙を革新派に利用された。
彼の心は壊されてしまった。
もはや、その愛国心は民をも、自身をも、滅ぼそうとしているのだ。

「……そのレーダーって、無効化できないの」

ヤクモがふとニコライに尋ねる。

「警備は厳重だ。あそこに民間人は入れない。如何なる理由があっても、だ」

「電話回線もすべて軍の敷地内だ、深く埋められているし、切断は不可能だ」

「ふうん……」

ヤクモは広げられた地図をのぞき込む。

こういうとき、頼りになるものがいつもそばに居たはずなのに。
今は、その名前すら思い出せない。

なぜ、忘れてしまったのだろう。
いや、忘れているというより、覚えていることが曖昧なのだ。
断片的に覚えている気がする、だが、それが繋がり合おうとしない。

記憶が薄まっている。
霧散していく、という方が近しいだろうか。
まるで、暗いコーヒーの海にほんのひとしずくしかない記憶のミルクを垂らしてしまったかのように、溶けて、曖昧になってしまいそうだ。

「あのレーダーをどうにかできたら、もう少し可能性は見えてくるのかな」

「そもそも、なんで無線を使わないの?」

曖昧になる自分をどうにか奮い立たせてヤクモが問う。

「雪が原因だ。ここの吹雪は、工場の煤を巻き込んで電波の通りを悪くする。それを突き抜けるだけの電波があのレーダーからは発されてンだ」

「そしてその相乗効果で無線通信はほぼ使いものにならない、逆に言えば、対空防衛の“目”は、あのレーダーしか無いと言って良い」

「つーことは……レーダーをどうにかしなくても、指令を送る電話回線がどうにかなればいい、ってことか」

ヤクモの思慮を、ヨウルが不思議そうな顔で見つめる。

「一般電話の普及率は?」

「だいたいの家庭には電話がある。もちろん、その内容は全て軍部に傍受されているがね」

「レジスタンスの連絡も隠語を使ってどうにかって感じだ。細かい指示を送ることはできない」

「そう、それは別にいいや」

表情変えずに応えるヤクモに、全員が変な顔をする。

「くだらないけど、いいこと思いついた。かも」



その後、綿密な打ち合わせの後に、二人はイヴァンに連れられ、彼らの家に戻ってきた。
早々に、カーチャは二人を強く抱擁した。
それがヨウルの中に、強い決意と不安とをかき乱した。

雪が再び、深々と降り始める。
深夜を回ってなお、階下の工場から転輪機の音が停まることはなかった。
明日への準備が着々と進んでいく。

「……ヤクモ」

狭いベッドの中、ヨウルはその腕に抱くヤクモに語りかける。

「ボクは、怖いよ」

「……うん」

「あのときの感じが、まだ全身に残ってる。《コルヴァトゥントリ》が壊されたことなんて、無かったから」

宙に四肢が投げ出される感覚、その恐怖は確かに覚えている。
しかし、ヤクモには、なぜかその感覚に覚えがあった。

崖の上から、飛び降りたあの感覚。
それも、自分で選んで、そうしたのだと。

不思議とあのとき、恐怖が無かった。

なぜなら、あのとき、彼が──受け止めてくれたから。

──“あのとき”。

“あのとき”とは、いつのことだろう。

「それに、もしボクらが失敗してしまったら……この国はどうなってしまうんだろう。そのとき、ヤクモは……って、考えたら」

「ヨウル」

ヤクモはふと起き上がり、ヨウルの身体に覆い被さった。

「……ッ」

「……どうして、そんなに不安なのに……明日やるって、決めたの?」

まっすぐに見据えるヤクモと視線を合わせる。

「……“サンタはクリスマスの日限定で、奇跡を起こすことができる”……校長先生が、そう言ってた」

そして、視線を逸らせる。

「ボクもサンタクロースなら、奇跡を起こせるかもしれない……そう、思ったんだ」

「……」

「でもボクは半人前だし、そもそも、トナカイだから……」

そう目を閉じたヨウルの頬を、ヤクモが撫でた。

「奇跡、ってさ。願うものじゃなくて、起こすものでしょ」

「……」

「それは結果論だよ。信じられないことを成し遂げたから、みんな奇跡っていうんだ」

ヤクモの手が自然と、ヨウルの顔を自身に向ける。

「なら。奇跡を起こしたヨウルは、サンタクロースってことでしょ」

「……そう思う?」

「結果が良ければ、それでいいよ」

ヤクモは、微笑んだ。

「……ヤクモ、ごめん、こんなことに巻き込んで」

ヨウルは再び視線を逸らせた。

「ボクはいつもそうだ。自分がやるって決めたことに怖じ気づいて、いつもキミに助けてもらってる」

「──そうだね」

その応答に、ヨウルの表情は曇った。

「──でも、それはそれで、僕が好きで首突っ込んでることだから」

再び、ヨウルの肩に頭を乗せながらヤクモはそう続けた。

「……どうして」

「なんでだろう、でも」

すこし思慮して、応える。

「──助けたい、って思ったんだ。君を」

助けたい。

その言葉を紡いだとたん、胸が熱くなる。

「……ボク、忘れてた。なんだか、目の前のことに囚われちゃって」

「え?」

「ヤクモ、ボクが助けたいのは、キミだったはずなんだ」

ヤクモはその言葉を意外に思った。
不思議と、胸が暖かくなった。
まるで心臓にナイフを突き刺され、流れる血の暖かさを感じるような、そんな暖かさだ。
ああ、自分に血が通っている。
そういうことを思い出させる暖かさだった。

「……」

「キミをちゃんと東京に帰さないと」

その言葉に、ふと、自分も目的を忘れかけていたことに気づく。

全てそのために動いてきたはずだったのに。

“東京”に戻る。

あの“東京”に戻って──僕は何をするんだったっけ。

「……」

呆気にとられた顔のヤクモを見て、ヨウルは漸く笑顔を取り戻す。

「そうだ、あのね、東京に帰れたら……やりたいことあるんだ」

「……ラーメン食べに行く?」

「あはは、それもいいけど」

妙に恥ずかしくなって、ヤクモはそれをどうにか誤魔化そうとする。

「ヤクモに、渡してないって思ったんだ、去年のクリスマスプレゼント」

「……ああ」

そもそも、ヨウルとの出会いもまた、強情な彼のわがままに付き合わされて、即興でサンタクロースをやらされたのだ。

──いや、サンタをやったのは自分で無かったような気がするが。

そのときも、勢いに任せて飛び出した彼が臆病風を吹かせた時に、どうにか鼓舞して良い結果に持っていった覚えだけはある。

「今年のクリスマスこそ、キミにちゃんとプレゼントを贈りたいんだ」

「……うれしいけど、覚えてられるかな」

「ふふ、じゃあ、忘れちゃっていいよ」

意地悪そうにヨウルは笑う。

「そうしたら、キミにサプライズプレゼントできるからね」

「……」

赤くなった顔に気づかれぬよう、ヤクモはヨウルに背を向けた。

「ヨウルは、そういうとこがなあ……」

「へへへ」

ヨウルも赤くなった鼻先を隠そうと、少し顔を背けて笑った。

「……だから、明日……上手くやろう」

「……そう、だね」

一つ溜息をついて、また胸の中で膨らむもやつきを吐き出した。

そして、瞼を閉じる。

この想いも、忘れてしまうのだろうか。



──12/24 00:22AM レジスタンス秘密ドック(旧秘密航空機工場跡地)──

「まだやるのかい?」

レジスタンスの男──セルゲイは、愛機の調整に勤しむニコライにホットワインを差し入れに来ていた。

「明日飛べねえんじゃ話にならねえからな」

満身創痍の赤い飛行機は、この工場に残っていた資材でかろうじて飛行能力を取り戻していた。
だがそれもどれだけ保つか、ほんの一瞬の出来事になるだろうと、ニコライは予想している。

「ぶっつけ本番、やれることはやって後悔の無いようにしたい」

「でもよ、あのガキのこと信じられるのか? イヴァンは見たって言ってたけどよ」

セルゲイはうさんくさそうな顔をする。

「サンタクロースだって、なあ」

彼はそう苦々しく笑ったが、それを聞いていたニコライは、至って真剣な目つきだった。

「居るよ」

「あ?」

少しニヒルな笑みを浮かべて、ニコライは答えた。

「──サンタクロースってのはな、本当に居るんだよ」



──12/24 06:15PM 市街地──

「こんばんは先生」

「やあ、こんばんは」

子供たちが商店から現れた男性に、深々と一礼する。
先生と呼ばれた男性もまた、同様に一礼する。
それが、その日に更新された“最新の挨拶”だった。

「雪が止んで良かったですね」

「そうだね、君たちはお遣いかい?」

「母の買い出しの手伝いです」

子供たちはまじめに、はきはきと教師に答えた。
概ね、彼らの教育が上手くいっていることの表れだった。

「よしよし、大変にけっこ……」

そう言いかけて、隣の道路を一台のトラックが猛スピードで通り抜ける。

「ゲッホゲホゲホ、大丈夫かい!?」

「せんせえ!!」

トラックの荷台からは、なにかの紙が大量にまき散らされていた。

「なんだアイツは……こんなにチラシをまき散らし……んッ」

彼らだけでは無い、通りに居た全ての人間が、そのチラシを手に取って首をひねった。

「……『クリスマス 再開のお知らせ』……?」

「くりすます? なにそれ」

「「……んん?」」



──12/24 06:52PM レジスタンス秘密ドック(旧秘密航空機工場跡地)──

「いくよ」

「うん」

「──ハッピー、クリスマ──ス!!」

ヨウルのかけ声と共に、雪色に輝く橇が再びその形を成す。
同時に、ヨウルの姿が真っ赤なサンタ装束に替わっていた。

「気合い入れすぎじゃない?」

隣に立つヤクモは呆れた顔でその姿を見る。

「これがボクの“戦闘服”なのッ!」

目の前で突然サンタに変わったヨウルを見て、セルゲイが目を丸くした。

「……サンタクロースだ……」

「はは、まだ半人前ですけど……」

「おいサンタ!」

カミナリ声と共に、ニコライが大きな身体を揺らして駆け寄ってくる。

「こいつ、持ってけ」

そう言って差し出したのは、薄汚れた白い袋だった。

「サンタに袋が無えとはサマにならねえじゃねえか」

「あ、ありがとうございます……」

ヨウルが呆気にとられたのは、ニコライが妙に子供っぽい笑みを見せたせいだ。

「……トナカイが居ねえじゃねえか」

「あ。ボク、トナカイでもあるので……」

「何言ってんだ……まあサンタにそれ言っちゃアレなんだけどよ」

どうやら、ここの人々はヨウルの姿を正しく認識していないようだ。

「とにかく、飛べンだろ」

「はい、大丈夫です」

「てめえの命だけは大事にしろ。子供の目の前で撃墜されるサンタだなんだ、見せられたもんじゃねえからな」

「……はい」

ニコライはそう言い放ってヨウルの胸に拳を当てる。
それが不思議と、新宿で待つ恩師の言葉のようで、ヨウルの心を強く奮い立たせた。

「っといけねえ、ヨウル、時間だ!!」

「は、はい!!」

「打ち合わせ通り、上手くいけば防空機構は混乱する。お前さんは良い感じに攪乱してくれ。俺は頃合いを見て突入する」

ニコライは踵を返し、自身の愛機へ駆け寄った。

「行くぜ!!“北極速達便作戦(オペレーション・ポーラー・エクスプレス)”、開始!!」

「ヤクモ!!」

力強い号令と共に、ヨウルとヤクモが橇に飛び乗った。

「いくよ、《天郵神助》ッ──《コルヴァトゥントリ》!!」

ヨウルの高らかに挙げた声に応じて、雪色に輝く橇がひとりでに奔りだす。
快い鈴の音を響かせながら、やがてふわりと浮かび上がり、速度を上げて寒空を駆けて行く。

「……サンタクロースって本当にいたんだ……」

その様を見ていたセルゲイが、ふと呟いた。

その瞳の輝きは、少年のそれであった。



──12/24 07:05PM 防空要塞司令室──

ハリトー・シャリアピンは疲弊していた。
一時間に十五分程の感覚で、彼は椅子にもたれかかったまま、宙を眺めて微動だにしない時間があった。

彼は狂気の中にあった。
いや、狂気の中に身を浸して居なければ、五年もの歳月のなか、精神を張り詰めて“自国”を護ろうとなど考えては居られなかっただろう。
それは職務への誠実さであるとか、愛国心であるとか、そういう理由を超えた、彼の“正義感”が成した狂気だった。

彼の“正義心”を利用した狡猾な革新派は、彼の威光を隠れ蓑に、この街を本国から切り取る手はずを整えていた。
人質はこの閉鎖された都市全ての住人。
全てが意のように管理された国として独立し、彼らは徐々に版図を広げていく算段だった。

無論、そう簡単に事が運ぶ事はなかっただろう。
しかし、軍部が“戦争”という妄執(パラノイア)に囚われている以上、流血沙汰は避けられない。
少なくとも、彼らが目覚めないことには、街の人々が解放されることはないのだと言うことは認めざるを得ない。

「ッ!!」

シャリアピンの机で電話が鳴った。

それは、有事の際に鳴り響く、緊急ホットラインであった。

「もッ、もしもしもしもしィッ!?」

空白になっていた脳髄にアドレナリンが駆け巡る。

『……』

「もしもーしッ!! こちら司令部ッ、シャリアピンであるッ!!」

『……』

応答、なし。

「もしもしもしもし!! もし!! おいッ、こちら司令部!!」

『……ッ』

「おおおおおとおおおおおせよぉぉぉ!! もしもおおおおおおおしッ!!」

シャリアピンは全力で声を振り絞った。
周りに控えていた部下たちにも戦慄が走る。

『……っ、ひぐっ……』

「ああ!? なんだ!? 聞こええええええんッ!!」

彼は困惑した。
かろうじて聞き取れたのが、まるで少女のむせび泣く声だったからだ。

「も、っ、もしもし……!?」

狼狽しながら、シャリアピンはまず自分を落ち着かせた。

「もしもし、どうした、君は誰だ!?」

『ひぐっ、ひぐっ……』

電話口の声が問いかける。

『……あなた、ほんとうに、サンタクロース……?』



──12/24 07:21PM 防空要塞レーダー監視室──

「んッ!?」

ホットココア片手に寛いでいた監視員が、四時の方角より何かが接近しつつあるのを捕らえた。

「……たいっへんだ!!」

ココアを床にぶちまけながら、監視員は狼狽した。

「し、司令に連絡ッ……」

受話器を取り、直通のボタンを連打する。

「あ、あれ、繋がらないッ!?」

彼は迅速に、有事を告げるサイレンのスイッチを入れる。

「繋がらないッ、何で!?」

けたたましく鳴り響くサイレンのなか、シャリアピンに通じるはずの電話は──繋がらなかった。



──12/24 07:23PM 対空防衛要塞六番キューポラ──

「なんだ!? またなんか飛んできたのか!?」

レーダー施設からのサイレンに、砲手達が慌てふためく。

「おい、連絡来てねーぞ!?」

「誰か司令かレーダーに問い合わせろ!!」

「やってるけど、どっちも繋がらない!!」



──12/24 07:25PM 市街地上空──

「気づかれた!!」

サイレンの音にたじろぎながらも、ヨウルは橇の速度を落とさない。

「高度上げるよ!」

橇の縁にしがみついて、ヤクモは上昇から来る負荷に耐える。

「……撃ってこないね」

サイレンに気づいた時……彼らは既に撃墜されていた。
だが今度は、こんなにも近いにも関わらず、いまだに攻撃の気配は無い。

「効果アリ、ってことかな」

ヤクモはこの機を逃さなかった。

「ヨウル、もっと要塞に寄って、レーダーを盾にして飛ぶよ!」

「わ、わかった!」

鈴の音響かせながらヨウルは手綱を引いた。



──12/24 07:34PM 市街地──

「こらーッ、止まりなさぁい!!」

ビラをばら蒔きながら爆走するトラックに軍警察のバイク隊が追いすがる。

「アンターっ、助けとくれよーッ!」

カーチャが助手席から身を乗り出して叫んだ。

「うちのトラックのブレーキが壊れっちまって、停まんないンだよォーッ!」

「なァンだってぇぇ──!?」

もちろんこれは演技である。
ハンドルを握るイヴァンは血走り眼でアクセルを踏み抜いていた。

「それにしてもこのビラはなんだーッ、破廉恥だ、規則違反だぁーッ!!」

「規制前の古いチラシが倉庫に残ってたンだよォーッ、軍部に処分をお願いするつもりだったのよォー!」

無論、これも嘘である。

──クリスマス 再開のお知らせ──

よいこのみなさんにお知らせです
五年ぶりにこの街にサンタさんが帰ってきます
サンタさんに電話して、おねがいごとをしましょう!

チラシにはこんな文言と共に──

「このままじゃクリスマスが始まっちまうよおォーッ!!」

──シャリアピンへの直通電話の番号が、大っぴらに記されていたのだ。



──12/24 07:40PM 防空要塞司令室──

『ひぐっ、ひぐっ……』

電話口で啜り泣く少女と、外に鳴り響くサイレンとでシャリアピンはパニックに陥った。

その実、彼は子供にめっぽう弱い。
各家庭に配備させた国民ラジオも、本来は秘密都市で暮らさざるを得ない子供たちの娯楽の為に、歌や朗読劇でも流そうと企画したものだった。
それは最早、革新派の手でプロパガンダを垂れ流す装置に成り下がってしまったが。

「し、司令ッ」

部下も狼狽えている。

「うるさいッ、今電話中だッ」

電話の混線か何かだろうか、なぜ子供がここに電話をかけてきた?

「おッ、お嬢さん、おまえさんどこに電話をかけるつもりだったんだい?」

『……サンタさん』

これまた飛び出た意外な名前にシャリアピンは頭を抱える。

『お手紙にね、書いてあったの。サンタさんが帰ってくるって』

「……なぬ!?」

話が読めない。
シャリアピンは革新派が行ってきた数々を、深く精査することを怠ってきた。
それだけ頭を回せるだけの余裕は彼には無かったからだ。
いつぞやかの年末、戦時中にクリスマスを祝うとは不謹慎であるとの進言を鵜呑みにして、自粛を強いた気がするのだが、それがまさか“クリスマス禁止”に差し替えられているとは露知らずだった。

『それでね、サンタさんに電話して、おねかいごとを聞いてもらえるって書いてあったの』

「司令ッ、その、サイレンが……」

「わアッとる、あッ、もしもし、聞こえるかなー?」

頭が混乱する。
まるっきり話がわからない。

「お嬢さん、どうやらこの電話は違うとこに繋がってしまっとるみたいだ」

『ええ……』

「ごめんよ、もっかいかけ直し……」

『さんたさん……こないの……』

少女がどんどん涙声になる。

「あッ、あ、そのッ」

突如、シャリアピンの疲弊した脳髄に衝撃が走る。

「お嬢さん、今サイレンが聞こえるじゃろ」

『うん、こわい』

「あーっ、それも止めさせてやる、そんでな、もしかしたら、我らが誇るレーダーが、どうやらサンタクロースを捉えたらしいッ」

「ええぇぇぇえええッ!?」

部下が驚愕の声を挙げる。

「お、おい、誰かッ、レーダー施設に連絡をとれ、飛翔体の座標を確認しろッ」

「む、無理です、司令が電話使ってるじゃないですか!」

そうだった。
下手な妨害工作や撹乱を嫌って、レーダー施設や対空砲キューポラへの連絡回線はこの一本に絞ったのだった。

「いったん切らないと連絡取れません!」

「馬鹿かお前はッ、子供がかけてきてるんだぞ!?」

「そんなあ!」

別の部下がハッと何かに気づく。

「あッ、そうだ、司令!」

「なんだ!?」

「旧回線のモールス通信機が使えます!」

連絡の即時性が電話に劣るために、今や埃を被っていた旧式の通信機を部下は引っ張り出してきた。

「でかした、それで確認しろッ、あとこの耳障りなサイレンを停めさせろ!」

「りょ、了解しました!」

「もしもしー、今、サンタさんがどこを飛んでるか確認しますねーッ!」



──12/24 07:53PM 防空要塞レーダー監視室──

「どうして電話が繋がらないんだよお!?」

監視室はすでに地獄のような様相だった。

「ええい、誰か司令室まで走ってこいッ」

「無茶言うなよ、何分かかると思ってるッ」

「飛翔体接近ッ!!」

あちらこちらに怒号が飛び出す。

「まてッ、なにか、聞こえる……!」

断続的な電子音が、半ば監視員の私物置き場となっていた古い装置から流れ出した。

「……モールス信号だ!」

監視員の一人がすがり付き、大急ぎで翻訳を試みる。

「……《ワレ司令室、至急飛翔体座標連絡セヨ》」

「座標割り出し急げッ」

混乱していたはずの監視員達が一丸となって動き出す。 

「《尚、警報ハ即座二停止セヨ》」

「……えっ」


──12/24 07:59PM 対空防衛要塞六番キューポラ──

「おい、サイレン鳴り止んだぞ……」

「誤報か? いつだったかレーダーにシートかなんか引っかかって鳴った時あったよな」

砲手達はやれやれと溜息を吐きながら、中断したポーカーの続きに勤しもうとテーブルに戻る。

「……おい」

だが、銃座に着いていた一人が、スコープをのぞき込む。

「……なんだあれ」



──12/24 08:02PM 防空要塞敷地内上空──

ヨウル達はすでにレーダー施設の目と鼻の先にあった。

「なんか……角の辺りがじんじんする」

「もしかして電波受信しちゃってるの……?」

ただ、確かに肌の産毛に静電気かなにかのような微かな感覚をヤクモも覚えていた。
それはレーダーから出る強力な電波のせいなのだろうか。

「んっ、ヨウル上がって!!」

「え……」

ヤクモが認めたのは、要塞から何かが一瞬輝いた光と、そこはかとない死線の雰囲気だった。

「ッ!!」

流れ弾が一瞬、橇の足をかすめて音を立てた。

「撃たれた!!」

「落ち着いてッ、レーダーを盾にして離れるんだ!」

ヤクモが見たのは、銃座のスコープが何かの明かりに反射した光だった。

「……こっからが本番みたいだよ……!!」



──12/24 08:05PM 防空要塞司令室──

「──と言うわけでお嬢さん、サンタクロースはどうやら基地の近くに来ているらしい、街に着くまで良い子にしているんだよ」

『ありがとう、おじさま』

「それでは電話を切るよ、メリークリスマス!」

笑顔のシャリアピンはそう告げて受話器を置いた。

「司令、第六キューポラから信号入電、《我目視ニテ未確認飛翔体ヘ攻撃ヲ開始セリ》」

「──ッばっかもおおおおん!!」

突如人が変わったようにシャリアピンは怒号を浴びせた。

「サンタクロースだったらどうするつもりだあああああッ!!」

「えええええええええ!?」

「レーダー施設より入電、《通信網不通ニツキ非常事態ト判断シ我各銃座ヘ座標送信ヲ開始セリ》」

その報告にシャリアピンの顔面が真っ赤になった。

「やめやめやめい、子供の前でサンタクロースを撃つ訳にはいかああああんッ」

叫ぶと同時にホットラインの電話が鳴った。

「もぉぉぉしもしもしぃぃぃ!?」

『わあッ、サンタさんですかあ!?』

今度は気の抜けた男の子の声だった。

「司令、どうすればいいんですかあ!?」

「ちょ待て、え、もしもし!? ワシはサンタじゃないがサンタの居場所なら調べられるぞ!?」



──12/24 08:08PM 防空要塞敷地内上空──

「ひゃああッ!?」

対空要塞から発砲の音が続く。
時折、レーダーの鉄塔や橇に流れ弾がかすめて音と火花を立てていく。

「もうちょっと引きつけないとニコライさんが突入出来ないッ……」

「けど、レーダー盾にするので精一杯だよーッ!!」

ヨウルが泣き言を漏らしそうになった瞬間。

「にゃああ」

猫が、鳴いた。

「っ、なんで猫がッ……」

ヤクモが振り向くと、一生懸命爪を立てて橇にしがみつく一匹の黒猫が、ルビー色の瞳で睨みを効かせていた。

「……ッ」

だが、ヤクモが驚愕したのは、その猫より後ろの光景だった。

「よっ、ヨウルッ」

「いまそっち向けない!!」

「い、いや、ちょっとッ」

狼狽するヤクモの声に、一瞬の隙でヨウルが背後を確認する。

「……なにこれえッ!?」

橇の後方に、大量のプレゼントの箱が現れている。

否、プレゼントの箱が“増殖”している。

「ヨウル、またサンタの袋持ち出したの!?」

「さすがにまた校長先生の神器を持ち出したらボク殺されちゃうよ!!」

そんなやりとりをしている間にも、プレゼントはみるみる内に増えていく。

「な、なんだこれッ」

その奥底に、何か光を放つものがあった。

「や、やっぱりこれサンタの袋だっ、プレゼントがどんどん出てくる!!」

「えっ、だってそれッ、出発前にニコライさんが……」

ヤクモが手にした袋は、ずいぶんと年期が入った薄汚いものだったが、その内側からは光とプレゼントがあふれ出してくる。

「まずい、橇がどんどん重くなってきてるッ……!!」

「プレゼントも溢れちゃうよッ」

ヨウルの橇はどんどんコントロールが難しくなっていく。

「ヤクモッ、捕まってええッ!!」

そうこうしている内に、橇の後部を鉄塔の一部に引っかけて、ヨウルはバランスを崩した。

きりもみ回転を始めた橇から、輝く包みがこぼれ落ちて宙を舞う。

「──ああッ、プレゼントがぁ!!」



──12/24 08:13PM レジスタンス秘密ドック(旧秘密航空機工場跡地)──

「ダメだッ、基地のど真ん中で飛び回られちゃ突入出来ない!」

双眼鏡片手にセルゲイが歯噛みする。

「まあ待て待て、頃合いっつうのは来るんだよ」

ニコライは愛機のコックピットに身を埋めて一服していた。

「……んッ」

セルゲイは異変に気づいた。

「……花火……!?」

突然、七色の花火が、基地の上空で花を咲かせた。
一つでは無い。
いくつも、いくつも。

「よぉぉぉぉしッ、エンジン始動ッ、作業員は待避しろっ!!」

「あれが頃合い!?」

耳をつんざく爆音と共に、プロペラが回り出す。
蜘蛛の子を散らす様に、作業員達は物陰へと隠れていった。

「新米サンタに良いとこ持ってかれちゃあ、面白くねえじゃねえか」

ニコライは笑う。

「そうだろ──“ルドルフ”」

彼の“愛機”は、それに答えるように、全力でエンジンを廻し始める。

「──発進ッ!!」

あまりの馬力に巻き起こる旋風で、トタンづくりの簡素な工場は天井も壁も吹き飛ばされ、“ルドルフ号”の真っ赤な機体が寒空の下に晒される。

爆音と共に飛び出した真紅の閃光が、雪混じりの風を切り裂いて夜空へ吸い込まれていった。



──12/24 08:09PM 防空要塞敷地内上空──

「──ああッ、プレゼントがぁ!!」

橇から次々とこぼれ落ちるプレゼントは、銃弾に貫かれると同時に閃光を放って炸裂する。

赤、緑、黄、青、紫、橙……それこそ虹色の閃光と煙とを撒き散らし、ヨウルの橇を隠してしまう。

「……ハッ」

ヨウルは何かに思い当たる。

「──まさか……ニコライさんがッ」

そうとしか、思えない。

「“この世界の、サンタクロース”……ッ!?」



──12/24 08:10PM 対空防衛要塞六番キューポラ──

「くっそ、なんだありゃ、フレアか!?」

「目視で標的を確認出来ない!!」

「司令室からは攻撃やめろって言われるし、レーダーは座標送ってくるし、どうすりゃいいんだよ!?」



──12/24 08:11PM 防空要塞レーダー監視室──

「なんだこれ、煙で電波が攪乱される!!」

「チャフでも撒かれたのか!?」

「どう見ても花火だろ!?」



──12/24 08:12PM 防空要塞敷地内上空──

「──今だ」

ヤクモはふと、そう思った。

「ヤクモ!?」

「ヨウル、高度上げて!!」

出鱈目に掃射される対空機関砲の雨をかいくぐり、大量の閃光を撒き散らしながら、ヨウルは橇を急上昇させた。

「ッ、何を──」

「ヨウル」

ヤクモ、橇の縁に立ち上がった。

「後、よろしくね」

ヤクモは無表情のまま、橇から飛び降りる。

「ヤクモ──!?」

「……」

不思議と恐怖を感じなかった。

「──役割(ロール)は──《流者》ッ!!」

ヤクモの手に光が集まる。

「──権能(ルール)は──《離断》ッ!!」

そして光は一条の“貌(かたち)”を顕わす。

「──我が名において“銘”ずる──出でよッ──」

吹きすさぶ風に溺れながら、ヤクモはその“剣”を降りかぶる。

「──《鉄刀送尾》──ッ!!」

刹那。

銃弾の射線、レーダーの鉄塔、そしてかかる霞の全てが、彼の一振りで“離断”された。

「ヤクモ──ッ!!」

ヨウルの橇が流星のごとき急降下を見せる。

「ッ!?」

ヨウルの目が捕らえたヤクモは、異様な“金色の光”に包まれていた。

だが、それを気にする余裕は無い。

「──ッ!!」

ヤクモの投げ出された身体は、ヨウルの橇に堆く積み重なった大量のぬいぐるみの上に着地する。

そして。

「──」

直後、その頭上を、真っ赤な閃光が過ぎ去ったのを、ヤクモの眼は確かに捕らえた。



──12/24 08:12PM 防空要塞司令室──

「というわけでね、もうすぐサンタさんが着くから良い子にして待ってるんだよーっ、バイバーイ!!」

「しっ、司令ぃぃぃぃッ!!」

二十五件目の子供からの電話を切ったシャリアピンの目前に、その赤い閃光は迫った。

「あ──」

彼の理解が及ぶ間もなく、窓を突き破り、翼を砕き、その飛行機は司令室に突入した。

「──ッ!?」

全員が、唖然とした。

「……」

「いっ、ててて……」

そして、そのコクピットから、大柄な人影がのそりと這い出した。

「ッ!!」

「──待てッ!!」

銃を構えた部下をシャリアピンは制した。

なぜなら、その真っ赤なコートが……

「シャリアピン司令──」

片足を引きずりながら、男は笑って、国の紋章が輝く封筒を取り出した。

「……メリー……クリスマス!!」



──12/24 08:15PM 防空要塞上空──

「……」

ヨウルとヤクモは、司令室に突き立ったニコライの飛行機を見守っていた。

「……攻撃が止んだね」

「うん……」

プレゼントの増殖は停まり、黒猫もいつの間にか姿を消していた。

「上手くいったの、かな」

「……そうみたいだね」

静かになった夜空には、ヨウルの鈴の音だけが響いている。
気づけば雲の切れ間から、月明かりが差していた。

「……ッ!!」

ヨウルは、隣に座り直したヤクモの身体を強く抱きしめた。

「なんであんな無茶なことしたんだよおッ!!」

鼻を真っ赤に染めて、涙まで浮かべながら、ヨウルはヤクモの身体に縋った。

「ったく、大げさだなあ」

そう悪態をつきながらも。

「でも……やめないで」

ヤクモは、ヨウルの背中に腕を回した。

「もう少しだけでいいから、このままで」

どこかで聞いたことのあるような言葉をなぞりながら、彼はヨウルを抱き寄せた。



そのとき、彼らは光に包まれた。

「あっ……!?」

眼下の街も消えていく。

「なんかこれ……新宿に召喚された時に……似てる……!?」

光の中でヨウルの橇が浮き上がる。

「……ヤクモ……?」

だが、ヤクモの身体が、どこかへ異様に吸い込まれていくのにヨウルは気づいた。

「あれは……“門”!?」

ヤクモが吸い込まれていく先に、真っ白な“門”が口を開いている。

「──ヤクモッ!?」

ヨウルが手を伸ばす。

「あー……その」

ヤクモもその手に触れ……しかし、掴もうともせず、笑顔を浮かべた。

「多分、もうちょっとしたら帰るからさ」

「ヤクモ!?」

「なんかそんな気がするから、クリスマスプレゼント、考えて待ってて」

そう言うと、ヤクモの姿はあっけなく消えてしまった。

「ヤクモ──」

そして、それすらも曖昧になり、ヨウルは──



──街中に、クリスマスソングが流れている。

「こんばんは先生」

「やあ、こんばんは」

子供たちが商店から現れた男性に、軽快に手を振り挨拶する。
先生と呼ばれた男性は、それに笑顔で応える。
彼が同じようにして、生徒に手を振り返すことはない。
そんな悪習は昔のことだ。

「雪が止んで良かったね!」

「そうだね、君たちはお遣いかい?」

「うん、今夜は忙しくなるからね!」

子供たちは笑顔で去っていった。

その様を、初老の男性は笑顔で見送る。



──12/24 06:30PM 国土防衛省降誕祭特別対策本部──

「諸君ッ、ハリトー・シャリアピン特別対策本部長であるッ」

壇上でシャリアピンは、老体を推して声を張り上げる。

「毎年恒例の行事にこうして再び指揮を採るのは喜ばしい限りであるッ!」

彼の眼前に広がるのは、礼儀正しく起立し、指示を仰ぐ若き国防軍オペレーターの卵たち。
そして、無数に並ぶ、電話、電話、電話の数々である。

「君たちに求められるのはッ、“目標”の正確な座標を混乱する情報網に正しく伝える技術、そして、“夢を壊さない為の絶え間ない努力”であるッ」

オペレーターは皆、緊張した面持ちで……一方で笑顔を浮かべながら、シャリアピンの怒号を胸に納める。

「諸君ッ、電話口の向こうに居るのはッ、かつての君たち同様ッ“胸に夢抱く若者”であるッ、心してかかるようにッ!」

シャリアピンは胸一杯に息を吸い込む。

「メリーッ、クリスマス!!」

号令と共に、オペレーターは一斉に敬礼した。



──12/24 06:40PM 洋上/対式典航空母艦《コルヴァトゥントリ》──

「特別顧問、ニコライ・マラーコフであるッ!」

杖を鳴らし、白くなった髪を掻き上げてから、ニコライは変わらぬカミナリ声を張り上げる。

「間もなく“プレゼント爆撃”を開始するッ、てめーら“サンタ共”の任務は国中のガキ共に投下地点を気づかれぬよう、撹乱しつつプレゼントを“お届け”することだッ!」

その杖の先端……愛機ルドルフ号が遺した“ノーズ”を撫でながらニコライはニヒルに笑う。

「シャリアピンの野郎が国中のレーダー施設を駆使しててめーらを追跡するッ、ガキ共はその情報を元に投下地点を予測するッ」

選ばれた八人のパイロットが、胸を張って愛機への搭乗を待つ。

「知恵を絞り自ら考えることを忘れた甘ったれたガキ共のウラを掻け! 努力せずにプレゼントを甘受するのは悪い子だと教えてやれッ!」

ニコライは胸一杯に息を吸い込む。

「第五次“北極速達便作戦(オペレーション・ポーラー・エクスプレス)”、開始!!」



──12/24 06:55PM 市街地/とある一般家庭──

『よいこのみなさん、こんばんは!』

ラジオから軽快な音楽と、女性の声とが溢れだす。

「おばあちゃん、始まったよ!」

少女が電話の前に待機する。

「まだあと五分もあるじゃないさ」

祖母は困り顔で言った。

「おねえちゃんまって」

小さな男の子が祖母の大きく広がったスカートを掻き分けて飛び出してくる。

「あらアンタ、なんだいそりゃ、どっちかにしなさいよ」

サンタの服に、角の飾りを頭につけた孫の妙な仮装を見て彼女は言った。

「それじゃトナカイサンタじゃない」

──ふと、自らの言葉に、不思議な気持ちになる。

「アンタぁー、早く来なさいよお」

「待ってくれ、号外の準備をしとかんと、サンタが勝つか子供が勝つか」

嬉しそうに初老の男は活字を組む。

「お母さん、もうすぐ焼き上がるから子供たちお願いしますねー」

「はいよー、こっちはまかせなー」

随分といい娘を貰ったもんだと、自分のせがれが誇らしく思う。

『──それではもうすぐ、サンタさん追跡作戦開始です! 電話番号を間違えないよう、サンタさんに電話をしましょう!』

「おばあちゃん!」

「まだよー、まだまだ!」

祖母は笑顔で孫たちを見守る。

『五、四、三、二、一!』

少女はダイヤルを回す。

「……もしもし、サンタさんですか!?」


「ポーラー・エクスプレス」 -END-


最終更新:2018年04月03日 23:38