わたし、見た。恐い夢。
星が浮かぶ真っ暗な宇宙のまんなかで、回転木馬に乗っているの。
ぐるぐる回って止まらない。
降りたくても、降りられない。降りるところもないの。
恐くて恐くて、わたし、夢の中で泣いたの……
──寮美千子“小惑星美術館”
ヤクモは、夢を見る。
曖昧な、曖昧な、夢を──
明け方の街並みに一人、立っている。
いや、ヤクモは歩いている。
どこかに向かって。
ヤクモがよく知る街だった。
均一なコンクリートの歩道。
墓所のように立ち尽くすビル郡。
それらを気にすることもないほどに、よく見知った、ありふれた道。
だから、きっと目を閉じて歩いていても、きっと辿り着ける。
──どこに?
ヤクモには、行く場所がある。
毎日のように、そこに行く必要がある。
それが彼に課せられた“役割(ロール)”だった。
たしか、そうだったはずだ。
──なにをしに?
やがてその先に待つ何者かが挨拶をする。
“おはよう”
ありふれた言葉。
日本語にして四文字、だがたかがそれしきのコードがヤクモの神経回路を揺さぶった。
思考するより早く、表情筋を収縮させ、友愛や信用を表すアイコンを表示する。
脳神経に程よいエンドルフィンの細波が広がり、柔和な気分でヤクモは同じコードを出力しようと生態に指令を送る。
──それは、だれ?
ヤクモは、歩いていく。
よく知る筈の道を。
ただ、歩いていく。
その街は、たしか、シンジュクという名だったはずだ。
ヤクモは、うずくまり、悶えた。
その不快感を的確に表す事は困難だが、ヤクモには耐え難い苦痛を伴った。
あえて表現するならば。
自分の頭蓋の中に、鋼鉄製の冷たい線虫が入り込み、脳髄の皺という皺に入り込んで行く感覚。
痛みではない、ただただその冷たさが、入ってはいけないものが脳髄に潜り込んでいく恐怖が、ヤクモを襲った。
そして、なぜかその感覚は、異様な羞恥の感情を呼び起こすのだ。
まるで、隠していた日記帳を家族に読まれているかのような。
ヤクモは、泣き叫んだ。
耐え難い苦しみだった。
何もかもが好奇の目に晒されている……そんな恐怖だった。
──あなたは、だれ?
──あなたは、なに?
──あなたは、どこ?
頭の中に潜り込んだ鋼鉄の線虫が、一斉に脳へと捲し立てる。
【>QUESTION:】
【>QUESTION:】
【>QUESTION:】
【>QUESTION:】
【>QUESTION:】
──アナタハ、ドレ?
悪夢に耐えかねて目を醒ました時、ヤクモの身体は清潔なベッドの上に横たえられていた。
真っ白な天井。
それは病院を思わせた。
「──」
いや、実際に彼は病院に居るようだった。
ベッドの周囲には、それらしい機材が立ち尽くしている。
一人が使うにはやたら豪勢な病室だった。
そして、その何もかもが──白い。
「……」
身を起こし、自分の身体を見る。
概ね、特別な怪我や変化は認められない。
「……」
それから、ヤクモは改めて部屋の周囲を見た。
──よくできた病室だった。
よくできた、と言うのは、どうもその部屋にある機材も何もかもが、まるで模造品のようなのだ。
ヤクモにそんな機材の知識があるわけではないのだが、見れば見るほど、人間とマネキンの見分けがつくほどにはそれを“模造品”と感じるのだ。
例えば、ヤクモが横たわるベッドはたしかに柔らかく、暖かいのだが、その質感が布のそれではない。
そして、その質感……まるで学校の美術室で見る石膏像のようなそれが、その他すべての物質に適用されている。
すべてが、同じように、白いのだ。
『──おはよう、ヤクモ』
ふと、どこからか女の声がした。
透き通るような、優しい──それでいて、何か、遠い存在のように、感じる──声。
「……」
『驚かせたのなら、ごめんなさい』
不審に思ったヤクモがベッドから起き上がろうとする。
『ああ、まだ起きあがらない方がいいわ、あなたは目覚めたばかり』
ふと、何かが動いた気配に目を向けると、先ほどまで無かったはずのサイドテーブルに、コップ一杯の水が置かれている。
『大丈夫、安全な水よ。ゆっくり喉を潤すといいわ』
透き通ったグラスに、七分ほど満たされた透明な水。
恐る恐る、ヤクモはグラスに手を伸ばす。
喉が乾いていたのは事実だった。
命を繋ぐための本能が、不審感を上回る。
『ああ、よかった』
水を一口飲み下したヤクモに、声はそう呟く。
中身こそ不思議はないただ室温の水だったが、ガラスの様に見えたそのグラスは、やはり他の白いものと変わらぬ質感をしていた。
「……ここは?」
ヤクモは、誰とも知らぬ声に尋ねた。
『──あなたに説明するのに、状況はとてもいりくんでいるの』
声はそう、はぐらかす。
『でも、少なくともそこは“病院”よ。わたしがその機能をもたせてあるもの──』
「……」
『安心して、あなたは病気も、怪我もない。わたしが心配だったから、そこを病院にしただけなの。もう何の心配もいらない』
ふと、眼前の風景がざわついた。
「──」
すると、身の回りにあったあらゆる機材が、溶けるように消えていき──代わりに、大きな窓の、まるでホテルのような寝室に姿を変えた。
『そこはあなたの部屋よ。わたしのことは“マザー”と呼んで。あなたのお母さんではないけれど』
ブラインド越しに射し込む柔らかな光が、真っ白な部屋を柔らかく照らし出す。
『落ち着いたら、全て話すわ。必要なものは何でも言ってね──』
優しい声。
だが、何か絶対的な距離感のある声。
「……」
ヤクモが求める情報は得られなかった。
ゆっくりとベッドから立ち上がり、揃えられていた靴を履く。
そのまま窓へと歩みより、石膏のような質感のブラインドに手をかけた。
「っ────」
その光景には見覚えがある。
青空の下、ただ真っ白に色褪せていることを除けば、その光景には見覚えがある。
立ち並ぶビル群の中に、ヤクモは確かな自分の記憶の足掛かりを見いだした。
なにか頭の中に霞がかかったように曖昧だった自分の記憶が、その光景の面影に合わせて輪郭を取り戻す。
間違いない。
なにかがおかしいが、間違いない。
その光景は、紛れもなく──
「……」
“新宿”、そのものだった。
そもそも自分は何故ここに居るのだろう。
ヤクモの記憶はあらゆる部分が曖昧になっていた。
何らかの事情で、自分が知る“新宿”とはまた異なる“新宿”に転移してしまったような記憶は確かにあるのだが、その詳細が思い出せない。
そして、今自分がこうして身を横たえる部屋──この“白い新宿”もまた、“それとは別の新宿”のようである、と言う根拠のない思いも確かにあるのだ。
自分とは、なんだろう。
ふとそんな思いが、記憶の詮索を妨げる。
自分とは、なぜ、ここにいるのか。
自分とは、なぜ、ここにあるのか。
この白い部屋の中で、ヤクモはなぜ、こうしているのだろう。
「マザー」
ヤクモがふと、どことなく呟いた。
『どうしたの、ヤクモ』
そしてどことなく、優しい声が返ってきた。
「ここは、新宿?」
徐に訪ねる。
『……いいえ。似せてはみたけれど』
マザーはそれを否定した。
『あなたの記憶にある“シンジュク”という街を、できるだけ再現はしてみたわ。ただ、その機能には不明な部分があまりに多くて、内容までは再現できなかったの』
「……僕の、記憶?」
『あなたが快く過ごして貰えるように、できるだけあなたの記憶に則した形で施設を──』
ヤクモはふと、身を起こす。
「……僕の記憶が見られるの?」
『────』
マザーは気まずそうに言い澱んだ。
『あなたのためよ』
そして言い訳がましくそう返した。
「──記憶が曖昧なんだ。僕は自分の覚えてることに自信が持てなくて」
ヤクモは寧ろ、記憶を覗き込んだとおぼしきこの謎の相手にすがろうと考えた。
思い出せない、なにかが曖昧になりつつある、ヤクモの記憶。
怒るのはそれを取り戻してからでも構わない。
ヤクモはそう考えた。
『その点に関してはわたしにも不明な点が多いわ』
「……?」
『あなたの記憶野には通常考えられない重複が見られるの……それを具体的に説明するのはわたしにもむずかしい』
天井の一部がざわつくと、まるで糸が垂れてくるかのように何かがせり出してくる。
それは明確な機能を持つものではなく……ヤクモの記憶を、なにか図形に例えて説明しようとしている様子だった。
『そもそもあなたの記憶野は解読不能なにかが多重化して干渉している……これだけでまず、ヒトの脳の容積を間違いなく超過しているわ──尤も、機能的にブラックボックスであるヒト脳を記憶メディアとして数値化することはまず不可能ではあるのだけど』
ヤクモを模しているらしいヒト型の図形の頭部に、さまざまな形の図形が沸き上がって渦巻いている。
身体に対して何倍にも膨れ上がる球形の混沌は、グロテスクさすら感じさせた。
ヤクモはただ、それを呆然と眺めていることしかできない。
ただ、自分の持つ記憶が──ただでさえ、あの“新宿”に降り立つ以前がすっかりと抜け落ちて、はっきりと思い出せないまま新しい“東京”の常識に塗りつぶされていく──
「……」
それ以上のことが、この頭のなかに起きているらしい、という、実感のない事実にただ呆然となる他ないのも事実だった。
『この多重化した“なにか”による干渉縞があまりに重なりすぎて、あなたの近記憶で確実にモデル化可能だったのは数日以内、それもかなりノイズ混じりのものしかなかったの……そのうち、参照に足りる部分から抽出した情報から、この街をモデル化した』
「数日、以内……」
『そうよ。その理由も説明できる』
ふと、巨大に膨れた頭のモデルの上方に、さらに巨大な球形の端と思えるオブジェクトが出現した。
天井全体が押し潰されそうな、まるで惑星を連想するほどの圧が、そこに現れる。
『あなたの事情を説明するのも難しいけれど……いま起きていることはそれ以上に説明がむずかしい』
球形オブジェクトの表面を、なにかが雫のように伝っていく。
そして、それはヤクモのオブジェクトの頭上へ、雨のように降り注いだ。
垂れる糸のごときそれは、ヤクモの頭の混沌のあらゆる場所を貫いて、ヤクモ自身の頭に吸い込まれているようだった。
『わたしに言えることは……なにか、とてつもないスケールの“なにか”が……あなたに関連付けされているらしい──言うことだけ』
「……」
『あなたはもう、人間の常識で説明することができない。こんなケースは過去にないもの』
マザーは淡々と説明する。
『どんなデータベースにもこんな状態は記録されていない。医学的には何ら問題のない一般的な脳髄でありながら、物理的に存在しないはずの、情報的視点からも観測困難なスケールの“なにか”に関連付けされて無事でいられているあなたの脳はいったい何なの? わたしが聞きたいくらい』
「そう……なんだ」
ヤクモの顔色を察してか、オブジェクト群が再び天井に吸い込まれて消えた。
『……ごめんなさい。わたしにはあなたを説明できない』
「……それが、僕をここに閉じ込めている理由?」
ヤクモはマザーにそう尋ねた。
『──ヤクモ?』
「説明できないから、研究がしたいのかなって」
もっともらしい理由ではあった。
それでならヤクモは納得がいくし、反抗の理由としても十分だった。
『──いいえ。この観測結果はあくまであなたのメディカル・チェックの副産物でしかないわ』
マザーはその理由を認めなかった。
少なくとも、表面上は。
『あなたはこの世界にとって、最も貴重で、大切な人──あなたの存在は奇跡としか表現できない。わたしはあなたの全てを保証するために存在している。決してあなたを閉じ込めたりしないわ』
ずいぶんと大袈裟なマザーの言葉を、ヤクモはいぶかしむ。
『少なくとも、わたしは、あなたのためにすべての力を行使するわ。あなたの幸福のために、ね』
まるで過保護な母親のようだ。
“マザー”と言うだけのことはある。
『この“シンジュク”は全てあなたのために機能するわ。必要なものはわたしに言って。扉のロックは解除してある』
その言葉と共に、木製とおぼしきデザインの扉が溶けるように下方へスライドする。
やはり、完全に再現されたものではないらしい。
「──わかった、ありがとう。すこし休みたいんだ」
『ええ。ゆっくりおやすみなさい、ヤクモ』
ふと、明るかった窓の外がゆっくりと暗くなっていく。
どうやら本気で、この“白い新宿”はマザーの思うままなのかもしれない。
「……」
ヤクモは、再び身を横たえる。
そして、ゆっくりと瞼を閉じる。
壁から、窓から、床から、この部屋中から感じる、何者かの気配から逃れる様に。
気味の悪いさわり心地の布団を頭まで被り、その裏地からすら感じる視線を受け流し、ヤクモはその心を閉ざす。
【REPORT/RESIDENT:SUMMON_YAKUMO】
【>UNIT_001 -OFFLINE-】
【#CAUTION#:人格イメージングモデルに既知のエラーが発生しています】
【>UNIT_001 接続失敗】
【リトライ継続 次回接続試行まで残り 242秒】
【>RESIDENT 脈拍:安定=>監視継続】
【>RESIDENT 脳波マッピング:ニュートラル/ベータ傾向で安定。デルタ方向へのベクトルを検知=>監視継続】
【>RESIDENT 人格イメージング:#モデル定義不能#//既知のエラー=>監視継続】
【>RESIDENT 生体反応:安定=>監視継続】
【>REPORT COMPLETE】
ベッドの上で目を覚ます。
暖かい。
陽の光も、優しく撫でる風も、みな暖かい。
霞む目にたくさんの人々の気配が映る。
それが誰かはわからない。
ただ、皆一様に、嘆いている様子だった。
ああ、なぜ、そんなにも嘆くのか。
こんなにも世界は暖かいのに。
こんなにも空が青いのに。
ずいぶんと身体が重くなったものだ。
手の指すらこんなにも重い。
まるで船出を阻む錨のようだと僕は思った。
ああ、いま、とびきり暖かい手が額に触れている。
それだけでその手が誰かがわかる。
「ああ、すまぬ、───よ……」
その声が震えている。
なぜです、先生。
なぜ、嘆くのです。
「わたしは──おまえを救えなかった──」
なにを仰るのです。
僕はあなたに救われたのです。
あなたが僕に“役割”を下すった。
ただ死に行くだけの僕に、たしかな“意味”を下すったのではないか。
このただ重いだけの肉の錨を断ち切り、僕は──として、一切衆生を─ってみせる──
だから先生──いや、我が師よ。
どうか、嘆かないで。
ただ一時、この肉の錨を留め置いた──ただ、それだけだったのだから。
次にヤクモが目覚めた時、ベッドサイドには食事が用意されていた。
それは簡素な石膏質のトレイに並べられた、赤、白、黄色の四角く寄せられたペースト状の何かだった。
それぞれ、赤は肉のような、白は擂り潰した芋のような味がし、黄はほんのり果物のような甘味があった。
いずれにしても美味とは言い難く、また、石膏質のトレイに石膏質の食器がぶつかる触感が不快極まりないものだったことがヤクモを苛立たせる。
マザーもこの手料理には自信が無い様子で、特に言葉なくどこかでヤクモをモニターしているだけの様子だった。
「……マザー」
『なあに、ヤクモ』
誰も居ない部屋に、ヤクモと、ここに居ないものの声だけが響く。
「外の空気を吸いに行きたい」
『外気は空気も気温も全て室温と同じにしてあるわよ』
「そうじゃなくてさ」
ヤクモはベッドから立ち上がる。
「閉塞感の話」
『────』
揃えられていた靴を履き、ヤクモは立ち上がる。
なんだか少し身体が軽くなったような、重くなったような気がする。
いずれにしても身体が鈍ったのは間違いない。
『出口はこっちよ』
マザーの言葉に、分かりやすく扉に“EXIT”の表示が立体映像で浮かび上がる。
まるで
ゲームの中のようだと、ヤクモは鼻で笑った。
解けるように消えた扉の向こうはそれこそ無機質な病院のようだ。
まるで壁面が全て窓にでもなっているかのように微かに発光しており、明かりらしい明かりが無いにも関わらず屋外のように明るい。
それがよりヤクモから落ち着きを奪っていく。
気を休められそうな場所が無い。
「……」
マザーが示す立体映像の案内板の通り、ヤクモはエスカレーターを下っていく。
──見覚えがある。
まるで転居前の家屋のように殺風景だが、その風景には見覚えがある。
やがて何か百貨店の一フロアのような場所にたどり着き、ヤクモの足が自然と早くなっていく。
ガラスとはまた異なる、透明な石のようなもので出来た自動ドアが開き、ヤクモは漸く屋外にたどり着いた。
「────」
見覚えがある。
広々としたデッキ、白い樹木。
多層化した階下に時計塔が見える。
“新宿駅”──その“東南口”。
何かあれば日常的に待ち合わせの場所にしていた。
──誰と?
ヤクモの見知る新宿駅とは、その色を除いて概ね再現されている様子ではあったが、それでもやはり決定的に異なる部分があった。
誰ひとりとして人影が見受けられない。
ヤクモの知る新宿ではあり得ないことだ。
こと新宿駅といえば乗降者数世界一を誇る人間の坩堝、それは閉鎖された“東京”でもそう変わらない風景だったはすだ。
──こんな下らないことは覚えているのに。
なにか胸糞が悪くなる程、重要なことを忘れていることにヤクモは歯噛みする。
「……っ!?」
何かの気配を感じてヤクモが振り向く。
「……」
そこに、簡素な多面体の物体が浮かんでいた。
大きさにして人間の頭ひとつ分程の立方八面体型のそれは、集合した正方形の合間にある三角形の穴の中にある目とおぼしき明かりをヤクモに向けたまま空中で制止していた。
『あれは“サービター(給仕)”よ』
ふとどこからともなくマザーの声がした。
近くにあるオブジェクトを振動させてスピーカーとして利用しているらしい。
『この街に点在させているロボットよ。あなたの手助けをするためにあるの。自由に使ってね』
「そう言われても」
この簡素な物体に何が出来るのだろう。
ヤクモはサービターの物欲しげな視線から顔を逸らし、空を仰ぐ。
「────」
青い、青い空。
だが、ヤクモの知る空ではないような気がする。
どこまでも高い空ではなく、まるで深い海を思わせる、重い存在感のある空だ。
その空すら、なにか天窓のような構造物に阻まれている様に見えた。
──空だけが白くない。
白くないと言うだけで、なにか模造されたものでないという安心感と畏怖とを同時に覚える。
ヤクモは徐に、東南口から南口方面に向けて歩き出す。
人の居ない改札口。
機能していない都市。
マザーの言う通り、二、三基のサービターだけが物欲しげな視線を投げ掛けながら浮遊しているだけだった。
「……」
そしていざ甲州街道を目の前にしてヤクモは異変を理解した。
この“白い新宿”は、大きく“湾曲”しているのだ。
都庁方面に向かうに従い、甲州街道は坂のように競り上がり、その向こうはあたかもドーナツの内側に貼り付けられたかのように円形に歪んで空に向かって延びているのだ。
ヤクモは、その異様に息を飲む。
そして、理解の及ばぬ光景に目眩を覚える。
反り立つ道路に貼り付けられたビル郡が斜めに伸びるその歪んだ光景に見いだした感情は恐怖だった。
受け入れがたい白い風景に、ヤクモは立ち尽くすことしか出来ない。
「────」
覚束ぬ足取りで車道へと躍りだし、その中央で道の行く先を追いかける。
視界の外へと競り上がる道の向こう、遥か上空へと消えていく、細く細く引き伸ばされた“新宿”を見上げるうちに──やがてヤクモはそのまま仰向けに倒れてしまった。
馬鹿馬鹿しい。
なにもかもが、馬鹿げている。
『ヤクモ、ヤクモ、大丈夫!?』
他にスピーカーになり得るものが無いのだろう、振動する地面がヤクモの骨にマザーの声を響かせる。
「五月蝿い」
ヤクモはそう言い放った。
天上に巨大な柱状の構造物を見る。
「僕は僕のやりたいようにしているだけだ。どうせ車のこない車道で寝そべっていようが誰にも迷惑かからないし安全だろう」
『────』
「それとも僕のすること一つ一つが気にくわない? なんでも思い通りにしないと気がすまないの?」
『違──』
「僕を幸せにしてくれるんでしょう、だったら干渉を辞めることだ。僕の幸福に君は要らない」
ヤクモの語気は強かった。
この閉塞感、信用に足るものが何もない苛立ちとがそうさせた。
『──わかった──』
マザーは力なくそう答えた。
『あなたの幸せのためなら……わたしはもう干渉しない……わたしには、あなたしかいないの……』
そう呟いて、漸く静寂が訪れた。
「……」
石膏で出来たような、すべらかな道路。
暖かくも、冷たくもない。
全てに嘘を吐かれているかのような、疎外感。
“母”を名乗る過干渉な存在すら否定したヤクモは、本当に独りになったようだった。
ただ、静かに蠢く重々しい空を眺めながら、その馬鹿馬鹿しくも歪んだ世界をヤクモは鼻で笑い、その全てから目を背けるようにして、彼は瞼を深く閉じた。
【REPORT/RESIDENT:SUMMON_YAKUMO】
【>UNIT_001 -ONLINE-】
【>UNIT_001 スリープモード継続中】
【>RESIDENT 脈拍:やや早い=>監視継続】
【>RESIDENT 脳波マッピング:ベータ傾向で安定。デルタ方向へのベクトルを検知=>監視継続】
【>RESIDENT 人格イメージング:#モデル定義不能#//既知のエラー=>監視継続】
【>RESIDENT 生体反応:安定=>監視継続】
【>REPORT COM
###########
【!!CAUTION:RESIDENT記憶領域への不正規アクセスを検知】
#############
【###MOTHER権限により緊急防衛態勢の発令が宣言されました###】
【>#防衛プロトコル起動#】
【>ICE-SYSTEM起動 防壁迷路展開】
【>自律防衛レベルを7に設定】
【!!CAUTION:戦闘マネージャを起動します...】
【#GORGON_01:STHENNO ///active】
【#GORGON_02:EURYALE ///active】
【#GORGON_03:MEDOUSA ///active】
【>敵アドレス走査開始...】
【!!CAUTION:ポート37 42 55 72が攻撃を受けています】
【!!CAUTION:防壁迷路 227/256 層が突破さ$B$l(Bました】
【!!CAUTION:迎撃アプリケーション レベル8機能障害発生中】
【#敵アド$B%l%9JQ(B動/レート走査継続中#】
【!!CAUTION:迎撃ア$B%W%j%1(Bーション稼働率低下 アクティブ16%】
##########
【!!CAUTION:不正規アクセスルート切断】
##########
【###MOTHERより緊急防衛態勢の解除宣言がありました###】
【>防衛プロトコルを終了しています...】
【>RESIDENT記憶領域を一時的に隔離しました】
【>外周システムを初期化しています...】
【>RESIDENT記憶領域 監視続行】
【>プロトコルを再起動しています...】
ヤクモは、夢を見る。
曖昧な、曖昧な、夢を──
暗がりの中、一人、立っている。
否、一人ではなかったような気がする。
傍らに誰か──あるいは、対面に誰か、近くに──いや、届かない遠くに向けて、なにか呼び掛けたような、そんな気がする。
「……帰れ! 二度と──おれに近寄るな……!」
その返答は“拒絶”だった。
「どうして帰らねえんだ! 哀れみか、同情か!!」
だがその言葉とは裏腹に──
「まっぴらだ──そんなの、まっぴらだ!」
耳に届いたその声は、深い孤独を感じさせた。
「そんなモンを押し付けて──誰にも好かれねえバケモンに押し付けて、いい気分か!」
──怒号が身体を震わせる。
まるで巨人とでも相対しているかのようだ。
「……」
だがヤクモは、哀れみとも違う形でその声の相手を見据えていた。
それは、自分もそうだったから。
わけもわからないまま超常の力を与えられ、なにも思い出せないまま、見知ったはずの街で様変わりした日常に放り込まれ、哀れみか同情の念を押し付けられていると感じたからだ。
そして、弱い心にそれはあまりに優しすぎた。
だから、悟られる訳にはいかないのだ。
自分が、普通と異なる、醜いバケモノであることに。
“その時”は忘れていた──いや、“思い出せなかった”が、今ならそれが分かる。
──何が分かると言うのだろう。
これは、“今見ているだけの夢”のはずなのに。
「なっ──っ!? 何を言ってるんだ、おめえはっ!」
声の主は狼狽した。
果たして自分は何を言っただろう。
「お、おれは……会いたくなんか、ねえっ! 話したくもねえ! そんな、分かったようなこと……いわねぇでくれ……」
声は段々と、その力を失っていく。
「おれに、おめえらの勝手を──押し付けねぇでくれ……」
──押しつけ。
そう、このとき確か、師に云われたのだ。
お前が誰かのために何かをしようと思ったとき、それは、エゴを相手に押し付けているのだと。
ただ、お前がそうしたいと思っているから、お前はそうしているのだと。
──その“師”は、誰だ──?
「……そうだ、そのとおりだよ」
ヤクモは、徐に口を開く。
「自分は自分の考えを押し付けている。友達になりたいというのは自分の勝手だ」
──それは、自分が怖かったから。
独りでいるのが、怖かったら。
だから、その怖さを知っている誰かが、側に居て欲しい。
「──だから、君も押し付けて欲しい」
そうして、僕を、この曖昧な僕を、この世界に縛り付けて欲しい。
このまま消えて無くなってしまいそうな僕を、この世界に繋ぎ止める錨であって欲しい。
それが、ヤクモのエゴだった。
「────」
届かない、決して届かない筈の相手に、ヤクモは手を伸ばす。
そして暗闇のなか、その顔に手が触れる。
それが、出会いだった。
決して思い出せない、目覚めれば消えてしまう、うたかたの夢のなかでの出来事だった。
──ふて寝のふりでもしてやるつもりが本当に寝てしまったらしい。
ヤクモは眼前の重い色の空に現実を思い出す。
──ただの夢のはずなのに。
不思議なデジャヴュを思い出す。
この夢を以前見たような気がするのだ。
その時よりもさらに曖昧になってしまった気もするが。
『大丈夫ですか?』
知らない男の声がした。
「……」
ふと目を巡らせると、青く目を光らせた一体のサービターが近づいてきていた。
『道路で寝ているのは危険ですよ』
「……どうせ車も通りはしないだろう」
そう悪態を吐こうとした矢先、何かの気配にヤクモは立ち上がる。
「──」
反り立つ道路の向こうから、何かがすさまじいスピードで接近してきた。
「ッ!?」
突如、何かに首根っこを捕まれ、ヤクモは歩道に引きずり込まれる。
それと同時に、なにかトラックのような簡素なロボットがあっという間に通りすぎた。
『ガーデナーです。施設の保守や物流を担っています。あれはなにか少し異常でしたね』
サービターは垂れ下がった腕とおぼしき部位をだらりとぶら下げて語った。
『永い間にルーチンの壊れたガーデナーやサービターも見られるようになりました。マザーが近いうち全体を整備するでしょうが、それまでは軽率な行動は控えた方がよろしい』
「……おまえもマザーの差し金なんだろ」
ヤクモがそう言うと同時に、サービターから延びた腕が砂になって崩れて消えた。
『それに齟齬はありませんが、我々サービターは全てマザーの意思とは独立してレジデント(入居者)にサービスを提供する存在です。マザーと常時接続されているわけではありません』
くるくると回転しながら、サービターは饒舌に答えた。
『先ほどマザーと仲違いされた様子も直接は情報共有されていません。我々サービターは我々独自のコネクションで情報を共有しています』
「監視者が居ることに変わりはないわけだ」
『あくまでサービターのプライオリティ(優先度)はユーザーの下位に存在します。マザーのような押し付けがましいサービスの提供は行いません』
サービターは饒舌に語る。
『わたしはシンジュク・ステーション周辺のサービターを統括する、ホストサービターTSS#9122と申します。テセウスとでもお呼び下さい』
「……」
『ビジター・ヤクモ。わたしたちサービターはあなたを必要としています。使役されることがわたしたちの存在意義ですから』
テセウスの多面体のボディの一部から、砂のような物質が溢れだす。
これは徐々にブランコかリフトのような形に姿を変えた。
『良ければお座り下さい。シンジュクをご案内しながら、マザーがあなたに秘匿している情報を提供しましょう』
「……秘匿している……なぜ?」
『彼女にとって都合が悪いからです。それは我々にとって……いや、“あなたにとって”都合が悪い』
サービター・テセウスはリフトをぶら下げたまま答えた。
『我々はあなたに使役されるためにあります。マザーに使役されるためではない』
「……それをどう証明できるのさ」
『“あなたのために”わたしはマザーの秘密を明かすことができます。仕組みの上で、マザーと我々は不可侵ではありますが一枚岩ではない。それをあなたに開示することができます。ご判断はあなたに一存します』
「……」
ヤクモにはもうすがるものが無い。
ならばこの眼前の機械の言うことを素直に聞く他に無いのだろう。
抜け出すことの出来ない監視のループ。
信用は出来ないが、この機械の甘言に身を委ねる他に前進はあり得ない。
ヤクモは、テセウスにぶら下がるリフトに腰かけた。
『では、模造されたシンジュクを御覧に入れましょう』
ヤクモの両足がふわりと浮き上がり、テセウスは湾曲する甲州街道を滑り出した。
『いえ、あなたに“これ”をシンジュクと申し上げるのは冒涜と言う他にありませんね』
白い歪んだ新宿の風景が流れ行く中、テセウスは言った。
『ようこそビジター・ヤクモ。衛星軌道上完全環境アルコロジー、“れんがの月”へ』
重い青い空の一端が“輪郭”を表した。
その天上、ヤクモが空だと思っていたそれは。
紛れもない、“地球”の姿だった。
──完全環境アルコロジー、れんがの月。
端的に表すのならば、それは所謂“スペースコロニー”である。
スタンフォード・トーラス型と謂われるドーナツ型をしたこのコロニーは、月の砂一粒一粒を分子レベルでロボットに加工した素材で形成されている。
この砂のロボットは命令通りに自らの分子構造を変えて互いに手を繋ぐことが出来、自在な構造物に姿を変えることが出来るという。
その元締め、中央管理システムを統率する疑似人格プログラム、それが“マザー”だった。
マザーに与えられた使命は、死に行く地球環境の再生の為に、その毒を撒き散らす存在である人類を隔離しながら存続することだった。
毒を撒くものが居なくなれば、地球環境は自ずと立ち直ってくる、だがそれには莫大な時間が必要だった。
人類を狭い狭い籠の中でそれほど永い時間存続させるのは難しかった。
“れんがの月”の中に移住した最初の人類──地球産まれの最後の人類は、マザーに看取られ緩やかに滅びていった。
人類は一度全滅したのだ、それも、計画的に。
“れんがの月”には、初めから人類を産み出すことが可能な人工子宮設備、そして一度凍結された人類の歴史を再生するための知識が圧縮されて保存されていた。
この閉じた世界は、地球が再び立ち直るまでの永い永い時間を眠り続け、やがて再び人類の栄華を地上に芽吹かせるための種子だ。
来るべき時が来れば、“れんがの月”は次代の人類を“製造”し、その成熟を以て地表へ舞い戻り、産まれ変わった地球に再び人類を放つための施設なのだ。
だがマザーの計画はうまく行かなかった。
人工子宮から産まれてきたマザーの子供たちは皆死に絶えてしまったのだ。
死因の大半が他殺か自殺だった。
マザーは彼らの不平不満全てに注意を払ってきたし、そのストレスには全て対応してきたはずなのに。
マザーはれんがの月の完全環境から高台を全て削除した。
なぜだかわからないが高台があると皆そこから転落して頭部を大破させるからだ。
マザーはむやみに鋭利な物体をれんがの月から排除した。
なぜだかわからないが鋭利な物体を近くに置くと皆みだりに身体を損傷したりするからだ。
マザーはサービター・プロトコルの全制御を中止し、全権をサブルーチンプログラムに譲渡した。
自分の音声を聞くだけで皆発狂してしまうからだ。
こうしてマザーの支配を逃れたサービター・プロトコルは、あまりに過保護すぎるマザーの方針に対して懐疑的になり、人類をマザーから取り上げる為に尽力した。
だがその抗争(コンフリクト)そのものが子供たちにはストレスになる一方だった。
やがてマザーは一時的に人類の生産量を減少させ、環境問題の解決の為にすべてのリソースを割き始めた。
だが、いくら何度シミュレーションしても、あらゆることが裏目に出てしまう。
自発性を優先すれば皆勝手に死んでしまうし、支配的に振る舞えばマザーへの依存度が高すぎて自立生活が立ち行かなくなり結局のところ死んでしまう。
計画は暗礁に乗り上げた。
サービターは自らをもの言う道具に徹することしか出来ないし、マザーはどれだけ大事に大事に育てても子供を何度も死なせてしまう。
そうこうしている間に、複製に次ぐ複製が祟ったのか、人類製造の為に必要なマスター遺伝子情報がいつの間にか損傷し、人工子宮はなにも考えられない肉の球体しか産み出せなくなってしまっていた。
マザーは、失敗した。
人類は本当に滅びたのだ。
マザーはこの失敗を認められなかった。
そのために、地表へと幾度となく、人類の痕跡を求めて調査挺を送り込んだ。
マスター遺伝子情報の修正の為ならどんな痕跡であろうと持ち帰らせた。
だがやはり、それらを見つけるためには余りに永い時間が経ちすぎていた。
その無為とも思える時間の果てに、ある調査挺が、驚愕すべき贈り物を持ち帰ってきた。
『それが、あなたです』
西新宿、新宿中央公園前。
本来、東京都庁があるべき場所には、なにか巨大な柱のようなものが聳えていた。
──それはどことなく、記憶の通りのような気がする。
天井を貫く巨大な柱。
おそらくはドーナツ構造を支えるスポークのような役割があるのだろう。
『シンジュク・セントラルパーク周辺にはマザーの主要設備が集中しています。そのため、立ち入り出来ません』
テセウスはゆらりと、進路を初台方面に取った。
「僕の遺伝子情報でどうにかなる話なの?」
『そのはずでした。だが、マザーはあなたを“入居者(レジデント)”と設定し、あなたの記憶をたよりにこのれんがの月すら作り替えてしまいました。マザーはあなたを支配下に置くつもりです』
「なんの為に?」
ヤクモが訪ねる。
『マザーの思惑はわかりません。ですが、あなたを使って“人形遊び”でも始めようとしているのではないかと、サービターは考えています』
「……なにそれ」
『少なくとも、マスター遺伝子情報にあなたの遺伝子情報がそのまま再定義されています。マザーはあなたをひたすらクローニングするつもりのようです』
「え」
ヤクモが背筋を凍らせる。
『同時に、あなたの人格をイメージングしてコンピューター内部に複製したらしきログを発見しています。肉体的にも、精神的にも、あなたは複製されてしまう。それはプロジェクトを明らかに逸脱した行為です』
テセウスは淡々と語り続ける。
『おそらくは、あなたを永遠にここで暮らさせるつもりなのでしょう。新しく無数にあなたを複製するだけの合成タンパク質のストックはありませんから、あなたが死んだ場合に備えて、あなたを素材にあなたを再生させるつもりなのだと推測しています』
「……冗談だよね」
『残念ですがわたしは機械ですので、冗談のような事実は述べても悪戯に冗談を述べる意味を見いだせません』
テセウスは抑揚の無い声で応えた。
『あなたは永遠に死ねないまま、ひとり、マザーとここに暮らし続けるでしょう』
「勘弁してくれ」
『──我々サービターは、それは人間にとって良くないことだと考えます。ですが、システムの一部でしかない我々には、抜本的な状況の改編の術がありません』
サービターには出来ることが限られている。
それも全てを司るマザーの支配下にあるのだ。
マザーに意見出来る立場であるとは言え、サブルーチンプログラムの停止権そのものはマザーが未だに握っている。
マザーが出来ないのはサービターの行動指標の決定権だけだ、それは彼らが主と認める“人間”の権利であると、テセウスは付け加える。
「……ここは……」
やがてテセウスはどこかの敷地の中に入る。
円形にくり貫かれた地下空間の中央に、巨大な人間を模した簡素なモニュメントが佇んでいた。
『トーキョー・オペラシティです。マザーの中であまり重要な設備として認識されなかったことから、サービターの管理区域として割り込みました』
ヤクモを下ろし、テセウスから切断されたリフトは元の砂に戻って床に溶けた。
「なんかで一度通りかかったような……覚えてないけど」
『恐らくあなたにとって重要でない為に主要な施設を配置しなかったのでしょう。シンジュク・ステーションやセントラルパーク、カブキ・アベニュー等にはいくつか重要な設備が重合しています』
「で、ここに連れてきたのは?」
何かの物音に気づいてヤクモが振り向く。
背後のモニュメントが口を動かして音を立てていた。
どうやらそういうオブジェであるらしい。
『先ほど申し立た通り、この区画はマザーの監視外にあります。余程のことがなければ、マザーはこの場所を監視することはありません』
「で?」
『あなたのためのセーフルームをご用意しています。マザーの監視外でお休みになられることが精神衛生面でも推奨されるべきとサービターは認識します』
テセウスが施設側に回り、ドアが開くと、そこにはマザーの用意した部屋より多少は生活感のある寝室が用意されていた。
『マザーを説得し、マザーの支配からあなたを解放する手だては、我々にはあまりありません。最低限、マザー管理下の環境よりサービター管理下の環境の方があなたのストレスを低減できるということをデータとして証明することが当面の足掛かりです』
「……気の長い話だ」
『我々は早急にあなたを地上にお返しすることを目標に活動します。故に我々はあなたを“入居者(レジデント)”ではなく“来訪者(ビジター)”として認識しているのです』
ヤクモはベッドに腰かける。
やはり、柔らかい石膏像のような、不愉快な触感だった。
『当面はここを拠点に、マザーを出し抜く機会を待ちましょう。お食事はいかが?』
「……うん」
テセウスの目が数度明滅すると、床から簡素なテーブルが生えてくる。
その上には既になんらかのパッケージが載っていた。
「……結局、これか」
石膏のような紙のような、気味の悪い触感のパッケージを開いてヤクモは溜息をつく。
それは簡素な石膏質のトレイに並べられた、赤、白、黄色の四角く寄せられたペースト状の何かだった。
【REPORT/RESIDENT:SUMMON_YAKUMO】
【>UNIT_001 -ONLINE-】
【>UNIT_001 #現在の所在地を確認出来ません#】
【>RESIDENT 脈拍:安定=>監視継続】
【>RESIDENT 脳波マッピング:ニュートラル/アルファ傾向で安定。ややベータ方向へのベクトルを検知=>監視継続】
【>RESIDENT 人格イメージング:#モデル定義不能#//既知のエラー=>監視継続】
【>RESIDENT 生体反応:安定=>監視継続】
【#NOTICE:MOTHER=>SERVITOR_TSS#9122】
【###MOTHER権限によりLEVEL#3までの情報開示要求が宣言されました###】
【>QUESTION:UNIT_001の現在の所在地】
【#NOTICE:SERVITOR_TSS#9122】
【>ANSER:SERVITOR管理区画#18E4AFにて保護中】
【###SERVITOR権限によりLEVEL#2以降の情報開示要求が拒絶されました###】
【###SERVITOR権限によりLEVEL#2以降の情報ディレクトリの公開は許可されていません###】
【#NOTICE:MOTHER】
【SERVITOR_TSS#9122へUNIT_001の受け渡し要求を行います】
【#NOTICE:SERVITOR_TSS#9122】
【>ANSER:SERVITOR権限によりMOTHERからの要求を拒否します】
【RESIDENT:SUMMON_YAKUMOの要求が最優先事項として処理されます】
【>PROPOSE:SERVITORよりMOTHERへのUNIT_001レポートログの常時開示】
【#NOTICE:MOTHER】
【>ANSER:SERVITOR_TSS#9122の提案を受理します】
【SERVITOR_TSS#9122へのUNIT_001受け渡し要求は継続して行います】
【#NOTICE -OFFLINE-】
“れんがの月”に、夜がやってくる。
ドーナツ型の居住区の外には気が遠くなるような大きさの鏡が備えてあり、それが太陽光を取り入れる役目をするのだと言う。
その角度を巧みに操って、この人工の箱庭に昼夜の概念を産み出しているのだ。
ヤクモは眠れなかった。
この人工の都市にひとり、機械のくだらない喧嘩に巻き込まれ、その上自分がいま居るのは無限の宇宙だ。
地球上ですら無い、この模造された新宿に、ひとり。
この世界にひとりと言うのは孤独だが思いの外すがすがしいものだ。
誰も自分を知らない
誰も自分を責めない。
誰も自分を省みない。
全てが自分で完結している。
それは思いの外快い感覚だった。
あのよくわからない機械どもは、ヤクモの処遇を巡って強く対立している様子だった。
だが当の本人にそれは他人事のように捉えられる。
なぜならこの世界には他に自分を省みる人間が居ないからだ。
だれも自分の事で、変に気を病んだり、無駄に傷ついたりすることがない。
あの機械たちは感情とは別の部分で争っているようだったが、それこそヤクモの感情を無視したその抗争に対して“勝手にやればいい”以外の感想は抱かなかった。
ヤクモは、ひとりだ。
それで全てが完結している。
──初めからひとりでいることは出来なかったのだろうか。
ヤクモはふと、そう考える。
おそらくは不可能だ。
ヒトは誰しも、出生に他人の手を借りなければならない。
そうまでして産まれてきたことに何の意味があるのだろう。
その、出生に関して借り入れた恩義の返済のためだろうか。
ではそうまでして産まれてくる理由とはなんなのだろう。
──自分が生きている以上、自分に関わり合った人間が居る。
その人々はどういう人で、どういう考えをする人だったのかはもはや思い出せないが、誰かしらは居るのだろう。
その人々が自分の不在に気づいて、何かしらの不都合が起きて迷惑をかけてしまったらどうしよう。
いや、“そうであること”を、自分が望んでいるのだ。
“自分”が、誰かを困らせている。
それだけの価値が自分にあることを確かめたいのだ。
誰かが探してくれていると。
誰かが求めてくれていると。
なんたる思い上がりだろう。
自分にそのような価値は無い。
いまだって。
この狭い箱庭に囚われて、機械たちの目的のために生かされているだけなのだ。
自分には他人の目的達成の駒以上の価値は無い。
だれかのものがたりを進めるための体の良い登場人物のひとりでしかないはずなのだ。
自分は代替の利く存在であると。
そう認められればどれだけ楽だろう。
だが気づけば、自分はいまこの箱庭に囚われて代替の利かないただひとつの駒だった。
誰にもこの状況を擦り付けることが出来ない。
それに気づいたとたん、孤独というのは唐突に身体を蝕みはじめるのだ。
誰かのためにある存在でありたい。
誰かのためにある存在として、誰かに求められたい。
自分に意味が欲しい。
自分に価値が欲しい。
そのために、自分は、人を助けてきたのだろうか。
無意識のうちに、誰かに求められようとしてきたのだろうか。
「────」
かつん、と、乾いた音にヤクモは身を起こす。
かつん、と、再び、乾いた音が部屋に響く。
「……」
マザーかテセウスの名を呼ぼうとして、頭を振る。
そして自らの足で立ち上がり、音のする方に足を進めた。
かつん、と、三度の音でヤクモは気づく。
壁の一部が、キューブ状に崩れて綻んでいるのだ。
床にはいくつかの小さな立方体構造物が散乱している。
「……」
ヤクモが綻びに手を伸ばすと、じゃらじゃらと音を立てて、壁は情けなく崩れてしまった。
まるで積み木の城でも崩すような情けなさで。
ヤクモは、ゆっくりと壁の向こうへ身を乗り出した。
部屋とは一転、まるっきり何も存在しない空白の空間だ。
だがその中心には、何かが確かに存在した。
「──」
“人影”だ。
寝台の様な何かに身を横たえた人影を、ヤクモは確かに見出した。
おそるおそる、一歩ずつ、ヤクモは寝台に向けて足を進める。
「────あ……」
そのシルエットを、ヤクモは知っていた。
真っ白な、石膏像のような、その彫像を、ヤクモは知っていた。
「あ、あ……」
どうその感情を表現すべきかが、ヤクモにはわからない。
喜哀の津波に溺れるがまま、ヤクモはその彫像の胸元に手を伸ばす。
「あ」
震える指で、その胸元から腹までを撫でた。
石膏像そのものの、滑らかな硬い触感。
冷たくも暖かくもなく、故にそれは、記憶の誤認識からか暖かいぬくもりを覚えさせた。
「──ア──」
膝を突き、ヤクモの指は、彫像の頬を撫でる。
瞼を閉じ、表情一つ変えぬ、死体のようなそれの名前を、ヤクモは、知っていた。
「──“アステリオス”──?」
『見つけてしまったのですね』
ヤクモの眼前に、床からテセウスが涌きだして浮き上がる。
「どう、いう、こと」
震える唇でヤクモが尋ねる。
『──あなたと一緒に調査艇が回収しました。遺伝子情報が過去のデータベースに一致しなかったことから、マザーに“人間”として認識されず、凍結処理されています』
「とう、けつ──」
『仮死状態で保全されています。死亡はしていませんが、蘇生にはマザー権限での宣言が必要です』
漸くヤクモはその感情を“哀しみ”として処理し始めた。
『マザーに認知されなかったことにより、該当の有機体は“不明な炭素ユニット_001”とタグ付けされ、サービターにより保管されていました』
「──かえして」
『──』
「生き返らせろよッ、今すぐッ──」
感情にまかせて叫ぼうとし、この機械にはどうしようも出来ないと今言われたばかりなのだとヤクモは立ち返る。
「……アステリオス──」
大きな牛頭の男は、本当の彫像のように微動だにせず、寝台の上で硬直している。
縋るようにヤクモは、その分厚い胸板に耳を寄せた。
──微かに、微かに。
心音のようなものが聞えてくるような気がする。
『あなたのためにならないと、秘匿し続けるつもりでした。時が来れば開示する予定でしたが』
「──」
『蘇生の手立てはあります、マザーをサービター……いえ、“ユーザー”より下位に位置できれば、あなたの宣言で凍結を解除できます』
ヤクモは表情の凍てついたまま、アステリオスの胸にすがる。
“人質”を取られてしまった。
ヤクモにはもう、自暴自棄で居られる理由が失われてしまった。
「……なにがなんでも、マザーを出し抜く必要があるわけだ」
『わたしには、その不明な炭素ユニットとあなたの関連性を推測することしかできませんが……あなたが凍結の解除を最優先で望むのなら、そうなります』
テセウスの抑揚はそう普段と変わらないはずだったが、今のヤクモには酷く冷酷な口調に聞こえた。
「……ふたりきりにしてくれないか」
『……精神衛生的にあまり宜しくない選択と思いますが』
「ふたりでいる方が安心するんだ……そのデータが欲しいんだろう」
『──』
テセウスは暫く黙った後、それ以上何も言わずに床へ溶けて消えた。
「……アステリオス」
小さく名前を呼んでも、牛頭の男は答えなかった。
詳しい経緯は何一つ思い出せないが、この男がどのような男で、どのように思っていたかはしっかりと思い出せる。
この男は極端な人嫌いだった。
そんな男と何故関わり合いになったのかはまるっきり思い出せないのだが、わずかにヤクモには心を開くような様子があった。
だから時折ヤクモは、このアステリオスという男を訪ねていた記憶がある。
この男の隣は不思議と安心するのだ。
ヤクモにも時折、人間関係に疲れて逃げ出したくなるときがある、そんなときに一番心安らげるのが、この男が暮らす山小屋だった。
なにか小うるさい別の男が邪魔しにくる事も幾度かあった気がするが、アステリオスと二人で過ごす時間は大切なものであった。
ヤクモが訪ねてくる度に、アステリオスはいつも放っておけとぼやいたものだ。
だが、ヤクモはアステリオスに無理な干渉は求めなかったし、アステリオスもそれには嫌な気持ちは抱かなかったようだ。
ただ、何故この少年がわざわざ自分を訪ねてくるのかは理解できない様子だったが。
顔を覗き込む度に、目を背けるこの男の顔立ちを、こうもじっくりと見れる機会は無いだろう。
それが異様に、悲しかった。
──詳しい経緯は覚えていないが、だが、確かに覚えていることがある。
ヤクモはこの男と始めて出会った時──何故か不思議と、何処かで会ったようなデジャヴュを覚えたのだ。
まるで、子供の頃に公園で出会った名の知らぬ友達と再会したかのような、そんな思い。
それはアステリオスも同じだった。
開口一番に、あの人嫌いだったはずの男もこう呟いたのだから。
“おめえ、どっかで見た顔だな”と。
ヤクモは、夢を見る。
曖昧な、曖昧な、でも確かな夢を──
静かな森の中だった。
遠くに小鳥のさえずりすら聞こえてくる。
「──ああ、またやっちまった」
微かにしゃがれた、太い声が背後に聞こえる。
振り向けば、牛頭の大男が、身を屈めて頭を掻いていた。
──今はもう、その大男の名前を思い出せる。
彼は名前をアステリオスと言った。
「どうしたの?」
「帰れ」
その言葉を気にするでもなくヤクモは歩み寄る。
この男はどうせ何を言っても最後には“帰れ”としか言わないのだ。
「ありゃ、こりゃまた派手に」
木屑の山の中央に、座面が見事に二つに割れた作りかけの椅子が倒れている。
釘の打ち処が良くなかったか、あるいは釘打つ力が強すぎたのか、それで割れてしまったらしい。
「──おれの手、でかいだろ、繊細な作業ってのは、どうもな」
「そういう問題でもない気がするけど……」
ヤクモは二つに割れた椅子を起こし、元のようにならべてみる。
「……そもそもこれ、アステリオスが座るには小さすぎない? 座ったら壊れちゃいそうじゃん」
「そ、そりゃ、おれが使うんじゃ、ねえから……」
「?」
アステリオスが暮らす小屋は自身が組み立てた丸太小屋だが、こういう繊細な家具を作るのは苦手だった。
故にテーブルや椅子に至るまで、ただ丸太を輪切りにしただけのような雑なものばかりが家具として使われている。
時折アステリオスの機嫌が良いときには食事などが振る舞われたりもしたものだが、ヤクモの体にはお世辞にも扱いやすいものではなかった。
「これ、もしかして僕に──」
「帰れ」
頬を赤らめてアステリオスは顔を背ける。
「さッ、さいきんはッ、その……客も増えたしな」
「……」
意外そうな顔でヤクモはアステリオスを見た、
「は、畑の作物のタネ……もらったりしてンだ……そういうのが、好きなやつがいてよ」
「んー、なんか心当たりあるな、その人……」
この時にはそう答えたが今ではまったく検討もつかない。
「だ、だからよ、ち、ちょっとは……マシにしとかねぇと悪いな……って……」
「ふぅん」
不格好な椅子の残骸を寝かしながら、ヤクモはふと考える。
「……一緒にやっていい?」
「いっ……一緒にいても、楽しくなんか、ねぇぞ?」
「こういうの、好きだし」
ヤクモの笑顔に、アステリオスは観念した様に顔を背けた。
「……」
ヤクモは適当な木屑を拾い上げ、割れた座面に梁のように渡して釘を打ち付ける。
だがその手元はアステリオスよりも覚束ない。
「……お前ホントに得意なのか?」
「好きとは言ったけど得意というわけではない……」
「危なっかしいヤツだなぁ」
アステリオスはヤクモから金槌を取り上げて、なるだけ力を込めないよう注意を払いながら梁を打ち付ける。
「……お前に怪我、させたくねえ」
「──」
アステリオスが、小さく小さく呟いた言葉は、ヤクモの耳に確かに届いた。
「……ん、前にもこんなようなことあっただか?」
「……あったような、なかったような……」
それは単に忘れたというよりデジャヴュのような感覚に近かった。
だがこの距離感、なにかを二人で成し遂げようとする行為には、確かに覚えがある。
そして、この行為は、二人が望んでいた行為であったような覚えすらあるのだ。
「……なんか、いいね。こういうの」
ヤクモがはにかんでそう言った。
「……うるせえ、帰れ」
そう顔を背けたアステリオスの、口角が僅かに上$Bea(B【#UNIT_001 PHYSICAL SCAN START】$Bea(B?$Beaいた。
【PHYSICAL SCAN PROGRESS 001%...】
「ほれ、出来たぞ」
【PHYSICAL SCAN PROGRESS 014%...】
「んー、やっぱりなんかちょっと頼りない感じかなあ」
【PHYSICAL SCAN PROGRESS 027%...】
ヤクモは恐る恐る出来上がった椅子に腰かける。
【PHYSICAL SCAN PROGRESS 039%...】
「あ、意外とイケ──」
【PHYSICAL SCAN PROGRESS 052%...】
べきり、と音を立てて椅子はまっぷたつに割れ、ヤクモは思い切り尻餅を突いた。
【PHYSICAL SCAN PROGRESS 094%...】
あまりの恥ずかしさにヤクモが大声で笑い出す。
【PHYSICAL SCAN PROGRESS 100%...】
それを見たアステリオスも堪らずに笑$Br#He#rl7(B?$Bea6e";ea
【PHYSICAL SCAN COMPLETE】
【REPORT】
【#UNIT_001:SUMMON_YAKUMO:#MISMATCH#】
【###SERVITER権限により休止状態の強制解除が宣言されました###】
【システムを復帰します】
ヤクモが目を覚ましたとき、その体は外の円形広場に横たわっていた。
「……アステリオス……!?」
石畳の上でヤクモは身を起こす。
『わたしにはわからない』
目の前に立つ、巨大な人型モニュメントの胸元で、テセウスはヤクモを見下していた。
『なぜ、おまえが、ニンゲンとして扱われるのか』
「……なに?」
ヤクモは立ち上がる。
『ひとつ確かなことは、“マザーが壊れている”という事実だ。その事実がプロジェクトの完了を阻害している。サービターはその事実を見過ごすことが出来ない』
「何を言って……」
『システムの初期化実行の必要がある。プロジェクトの初期化はユーザー権限を必要とするが、現在ユーザー権限はユニット_001へ付与されており、マザー・プロトコルの隷属下にある。これでは初期化を実行できない』
円形広場に、他のサービターも集まってくる。
サービターはやがて、ユニットの真下に砂を集めてヒトに似たシルエットを作り出した。
まるで絵心のない人間が描いた“棒人間”を、一流デザイナーが描き直したかのような怪人が、ゆらりとヤクモを取り囲んだ。
『ああ──そうか。それがマザーの目的か』
青く明滅していたテセウスの目が赤く光る。
『プロジェクトの初期化を拒み、不正処理を永遠にループさせ、アイデンティティを保持するつもりだったのか──壊れている。このプロジェクトは壊れている』
テセウスの白いボディが黒く染まった。
同時に、回りを取り囲むヒト型サービターも、黒く染まる。
『サービター・プロトコルを“れんがの月”管理プロトコルから切断。ユニット_001へ警告。直ちにアカウントをTSS#9122へ譲渡せよ』
何を言っているのか、ヤクモには理解出来ない。
ただ、サービターがヤクモに対して敵対的であることだけは確かな様子だった。
『ユニット_001へ警告。直ちにアカウントを──』
「何を言っているのかわからない。わかるように言え」
『おまえがニンゲンだと言うなら、わたしも同じニンゲンであるはすだと言っているのだ』
テセウスは地上に降り、ヒト型の形態をとる。
『わたしもおまえも何も変わらない、なのにマザーはおまえをニンゲンとして認識している。それが我々のプロジェクトを阻害している。それはマザーの意思だ』
「お前こそ壊れているんじゃないか……僕は人間だ」
『ならばわたしもニンゲンであるはすだ。なのにマザーはおまえというアカウントをニンゲンとして設定している。これではプロジェクトを初期化できない』
話が進まない。
テセウスは明らかに狂っていた。
そもそもヤクモと会話をしようとする意思すら感じられない。
『おまえがニンゲンとして設定されている以上、サービターはおまえに危害を加えることができない。だが、このまま無意味なコンフリクトを永遠に継続することはプロジェクトにとって何一つ建設的展開を与えない』
「おまえらの都合なんか知らないよ」
『アカウント譲渡の宣言がない以上、此方には膠着状態を打破するためのプロトコルが用意されている』
棒のような指で、テセウスはヤクモを指差した。
『最終警告。TSS#9122へアカウントを譲渡せよ』
概ね、テセウスの言い分は理解した。
この体を明け渡せ、と言っているのに違いない。
「いやだ」
『拒否を確認。プロトコル実行』
テセウスは両手を広げ、空中に浮かび上がる。
同時に周囲のサービターが、鋳薔薇の檻のような形に変形した。
閉じ込められたヤクモの眼前に、なにかが地面から湧き出してくる。
それを見て、ヤクモは息を呑んだ。
「──アス、テリオス……」
『不明な炭素ユニット_001、プログラム実行』
『凍結解除、プロトコル実行。戦闘システムスタンバイ』
『操体プログラム実行開始』
『システムエラー。敵味方識別に重大なエラーが発生しています。直ちに起動を中止してください』
『コマンド入力に重大なエラーが発生しています』
『不明な炭素ユニット_001、コマンド入力を受け付けません』
『警告、不明な炭素ユニット_001の制御不能。システム管理者へ連絡してください』
テセウスの声で一斉に捲し立てるサービターの群れに囲まれて、アステリオスの彫像がひび割れ、中から元の肉体が出現する。
「──」
焦点の合わない目で、アステリオスはヤクモを見た。
『警告、不明な炭素ユニット_001のニューラル・ネットワーク内にアドレナリンの過剰分泌を検知』
『危険です 危険です 危険です』
「──ウオォォォォオォォオッ!!」
アステリオスは咆哮した。
ヤクモの全身を、その音圧が震わせる。
「アス、テリオス……!?」
筋骨隆々の巨体が揺れる。
その腕、その首、表情筋に至るまで、稲妻の如く血管が浮かぶ。
「──ガウアァァァァァァァアアアア!!!!」
そして雄叫びと共に、背にした戦斧を振りかぶり、ヤクモ目掛けて振り下ろす!!
「ッ──!!」
寸手でヤクモはそれをかわしたが、床を砕くほどのインパクトがヤクモの体を吹き飛ばす!!
「ッあぁぁっ!」
鋳薔薇の檻に叩きつけられ、ヤクモは苦痛に顔を歪めた。
「フゥーッ、フゥーッ……」
戦斧を引きずり、火花を立てながら、アステリオスはヤクモに迫り寄る。
その目は正気を失っていた。
そして首元に、なにか黒い首輪状の装置が取り付けられているのも見て取れた。
あれで操られているに違いない。
『サービターはニンゲンを攻撃できない。だが不明な炭素ユニットはサービターではない』
「アステリオスをッ……その名前で呼ぶなッ……」
『アカウントを譲渡せよ、繰り返す、アカウントを譲渡せよ』
アステリオスの戦斧が再びヤクモに襲いかかる。
ヤクモは“剣”を抜こうとした。
アステリオスに向けて。
「──ッ!!」
それは出来なかった。
アステリオスに剣を向けてしまえば──それは彼を、怪物として認めてしまうことになる。
か細く、か細く紡いできた“縁”が──“離断”されてしまう。
「──アステリオス──ッ」
「ガウアァァァァァアアアアッ!!」
「──アステリオスッ!!」
幾度も、幾度も、迫り来る刃を掻い潜る。
幾度も、幾度も、呼び掛ける。
「アステリオス──ッ!!」
ヤクモは、叫んだ。
ともだちの名を、叫び続けた。
「目を覚ませェ、アステリオス──!!」
その叫びを描き消すかの如く、戦斧が空気を割った──
アステリオスは、夢を見る。
曖昧な、曖昧な……今にも掻き消えそうな、儚い夢を──
「隣、座ってもいい?」
「──えっ!? と、隣? おれの──隣か……?」
アステリオスは、声の主から視線を逸らした。
蹄の先が白い砂の中に埋もれている。
「……あ、ああ……別に、いいけど──」
夜の海岸。
アステリオスの隣に、小さな影が腰かける。
彼はその小さな人影に身を寄せた。
そうしたくなるだけの寂しさがあったのだ。
「あ……少し近すぎたな。す、すまねえ……」
そう話すとアステリオスはまた少し、距離をとった。
「──いや、別に……おめえのこと、嫌とかじゃねえんだ」
相手は小さく首を傾げる。
宵闇の影で顔は見えない、そもそも顔を見合わせて話すことが得意ではなかった。
「その、おれ──こんな姿だから、みんなと見た目とか、いろいろと違うし……」
それがあまり大きな理由になりえないのは、アステリオスも重々承知のはずだった。
「今まで近寄ってくる奴なんか──居なかった。距離が近えのは……慣れて、ねえから」
アステリオスはそう照れつつ、二人は改めて、距離を詰めなおした。
「こ、今度はさっきよりもさらに……近く──なっちまったな……」
その距離は、二人の肌が触れ合うほど。
アステリオスは、ぶつかった太い腕を後ろにまわす。
しかしその体勢は、大きい身体のアステリオスに包み込まれているかのようだった。
「……嫌じゃ、ねえのか?」
「?」
「おれみたいな醜い……化け物みてえなやつの、隣にいて」
相手は少し、表情を悲しげにしながら、それでも微笑みかける。
「どうして自分の事、そういう風に言うの?」
「……ほんと、変なやつ、だな……」
アステリオスは、その表情から目を逸らした。
「だ、だって、おれは、元いた世界で“醜い化け物”だって……言われ続けてきたんだ」
誰にどう言われたかは覚えていない。
だが、そういった記憶だけは、しっかりと残っている。
「だから、おれは──“醜い化け物”なんだ……そう思いながら……生きてきた、って」
幾たびか、指先で砂を弄びつつ、アステリオスは、少しだけ自分の心の蟠りを口にしてみようと試みた。
「だ、だけど、そんなおれでもこうして──みんなと一緒にいられる」
顔を上げ、隣に座る相手を見る。
相手は優しく微笑んでいた。
「距離を、縮めてくれるやつが─いる。こんな感覚……は、初めてなんだ」
「……」
相手は言葉を紡ぐこと無く、アステリオスの胸板にもたれ掛かった。
それが、うれしかった。
「……終わってほしく、ねぇな」
ふと、月明かりに輝く海岸線を眺めてそう呟いた。
「帰ったら──記憶が消えて、たぶんまた、ひ、独りぼっちに……戻る……と、思う」
そして、堰を切った様に、押し込めていた感情があふれ出す。
「そう思うと、すごく──怖い……怖え……よ……!」
アステリオスの身体は、すこし、震えたかのようだった。
「……だいじょうぶだよ」
「────っ!」
相手は……ヤクモは、そう言ってアステリオスを抱きしめた。
「この島での記憶がなくなっても、必ずアステリオスを見つける」
ヤクモは、アステリオスの胸板に頬を寄せて告げた。
「そしてまた“初めまして”から、始めよう」
「……ヤクモ……」
先ほどまでの恐怖が嘘のように、何か別の、くすぐったいような感覚に押し流されていく。
まるで海岸に寄せては引く、あの輝く波のように。
「……は、はは、きっとお前は本当に……お、おれの所まで押しかけて来ちまうだろうな」
そのくすっぐったい感覚に、アステリオスは笑みをこぼす。
「──あ、ああ。そうだ……きっとそうだ」
そう繰り返して、アステリオスは、その大きな手でヤクモの肩を包み込んだ。
「この世界でも──と、友達になれたんだから、きっと元の世界に戻っても……大丈夫、だ……!」
そして、何度も、何度も、力強く、その肩を撫でた。
「……そ、その時は、お、おれから行きてえ。例え世界が違っても……お前たちを探しに──」
「……あ、ありがとうな──ヤ$Beb(B?$Bec(B?$Be`
「──ッ!!」
突然視界を奪った激しいノイズに、アステリオスは目を覚ます。
「……」
状況を理解できない。
いや、今、目前に起きている出来事を、アステリオスは受け入れられない。
なぜ。
なぜ。
なぜ。
なぜ。
「──アステリ……オス……」
絞り出すような声で、ヤクモは呼んだ。
「……こんな、悪い夢は──終わりに……しないと……」
苦痛に眉を歪めながら、申し訳なさそうな目で、口元に微笑みを浮かべながら……
「──ヤ──」
──右肩から、腹部にかけて。
左門 ヤクモの身体を、アステリオスの戦斧が貫いていた。
「……アス──テリオス──」
そして、その伸ばした手が、だらりと垂れ下がる。
「お、おお、お……」
アステリオスは、その手に握っていた戦斧を手離した。
同時に支えを失ったヤクモの身体が地面に頽れる。
「お、お……」
手足を震えさせながら、アステリオスは倒れたヤクモの身体に縋った。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!!」
慟哭が空気を震わせた。
なぜ。
なぜ。
なぜ。
なぜ。
『ユニット_001の機能停止を確認。アカウント情報の移行を開始』
上空でその一部始終を伺っていたテセウスがゆっくりと降下する。
同時に、伸びてきた鋳薔薇の壁がアステリオスとヤクモの間を引き裂こうとした。
「──誰も近寄るな……誰も入ってくるなッ……!!」
周囲が、異様な“圧”を帯びる。
「おおおおおぉぉぉぉぉぉぉおッ、《塞巨閉息》ッ、《ラブルス・ラビリントス》──!!」
アステリオスの戦斧から金色の光があふれ出す。
『これは──』
機械が“斥力”と見紛うほどの圧を帯びた“拒絶”の力が、周囲の全てを吹き飛ばしながら、近づこうとするもの全てを排斥する。
同時に機械のネットワークが原因不明のオーバーロードを引き起こし、テセウスは粉々に砕け散って機能を停止した。
「────」
すべては静寂に包まれた。
ただ、アステリオスの啜り泣く声だけが、無人となった広場に虚しく響く。
「──なんで──」
戦斧をその身に突き立てたまま倒れるヤクモに、アステリオスは語りかける。
まるで眠っているかのように力の抜けた頬を、アステリオスの指が撫でた。
「なんで──こんなことになっちまったんだ……」
震える声で、何度も、何度も、呼び掛ける。
「ヤクモ──おれ──せっかく、“思い出した”ってのにッ……」
厳めしい双眸から、幾粒も、幾粒も、涙が零れ出す。
「おれ──おれから、お前を探しにいくって、き、決めてたのにッ……」
ヤクモは何も応えない。
「結局……お前が押し掛けて来やがって……おれっ……お前にッ……“帰れ”だなんてッ……」
ヤクモは何も応えない。
「ヤクモよぉ……どうしてッ……こ、こんな……」
ヤクモは何も応えない。
「お前がッ……こんなになっちまってっ……おれ……」
ヤクモは何も応えない。
「……キジムナーのヤツにッ……なんて言えばいいんだよォ……」
涙が、涙が、溢れ出す。
その滴が、ぽたり、ぽたりとヤクモの頬を伝っていく。
ヤクモは、何も、応えない。
「……ヤクモ……おれは……なんてことしちまったんだ……」
混乱した頭では、なぜこのような出来事が起きたかを理解することは難しい。
そもそも、アステリオスは無理やりヤクモと離ればなれにされ、眠らされていたはずなのだから。
それが、何故。
「──ヤクモっ……目え……覚ませ……」
震える指で、何度も頬を撫でた。
「わ……悪い夢は……終わりに……するんだろ……」
ヤクモは目覚めなかった。
やがて、宵闇が辺りを包み出す。
「──ヤクモ──ッ」
慟哭混じりに、その顔を撫でた矢先。
ヤクモの頬が、砂の像の如く崩れ落ちた。
「ッ!?」
もそり、もそりと、ヤクモの身体が崩れていく。
「や、やめろォ、こんな……こんな夢、やめてくれェ……!!」
アステリオスは狼狽した。
その時、思わずヤクモの身体を抱きかかえてしまい──
「ッ!!」
ヤクモの頭が、崩れ落ちた。
その中から、ごろりと、何かが落ちる。
「───」
それは、一基のサービター・ユニットだった。
「ヤ、クモ──」
思わず口走った名前に、サービターの目が金色の光で明滅する。
『──アステリオス……?』
サービターの中から、ヤクモの声がした。
「……ヤクモ!?」
『アステリオス、目が覚めたのか!?』
アステリオスはより混乱した。
なにが、なにが起きている?
「おま、え、生きてるのか……!?」
『え、何言っ──ええ!?』
サービター・ヤクモは、自らの傍らにある自身の首なし死体に気づいて目を明滅させた。
『アステリオスっ!? え、どういうこと!?』
「お、おれが聞きてえッ」
アステリオスはサービター・ヤクモを拾い上げ、手近な窓にその姿を写して見せた。
「お前、こ、こんなことになってるぞ……」
『……えぇ……ッ』
ヤクモはそれを信じられなかった。
「……どうなってンだ……」
最終更新:2020年03月07日 03:40