Gate,Gate,Paragate-第五話-:菩提樹の木の下で

Gate, Gate, Paragate.
彼方へ、彼方へ、往くものよ

Para Samgate, Bodhi Svaha.
幸いなれ往くものよ、彼方の菩提に至りしものよ──




「……少し、頭を冷やしたらどうかしら」

赤の女王は騎士に言った。

「気持ちはそうね、わからないでもないの」

異形のものに踏みつけられ、身動きの取れない黒の騎士は、それでも赤の女王を睨み付ける。

その背後には、巨大な白い、門があった。
そしてそれは、開きかけている。
向こうからは黄金色の光が、それこそ後光か何かのように、赤の女王の背後から照りつけていた。

だがその門が開くことは未だない。
巨大な“蜘蛛の巣”が張られているのだ。
強靭な糸が、門が開くのを阻んでいる様に見える。

「でもそれは、あなたの独りよがりではないかしら」

少女の声で赤の女王は淡々と告げる。

「それはとても──“あなたらしくない”」

「……ッ」

騎士はそれでも、女王を鋭く睨み付けた。

「……でもね、わかるわ……わたしには、わかるの……」

女王は玉座を……“蜘蛛の巣”の玉座を離れると、黒鋳薔薇の脚を巧みに操り、その中心で淡く光る“繭”を長い足で抱いた。

「わたしだってそう……今にも……“たべてしまいそう”」

「──貴様ァ!!」

黒騎士の叫びに、女王は微笑む。

「大丈夫よ……あなたとは違うもの」

“繭”は変わらず、淡く輝く。

「……彼を……もうこんな目に遇わせておけないッ」

「……そうね。でも、こうせざるを得なかったのはあなたも承知のはず」

赤の女王は“繭”をやさしく抱擁し、頬を寄せる。

「このまま“門”を開くわけにはいかないわ──そして彼を止めるにはこうせざるを得なかった」

「だがッ……このままではッ!」

騎士は叫ぶ。

『──役割(ロール)は──《救者》──』

「──いけない」

“繭”は、先ほどよりも光を強めていく。

『──権能(ルール)は──』

「だめ、まだだめよ」

赤の女王は、脚の鋳薔薇を伸ばし、“繭”を包み込んでその光を阻んでいく。

「目覚めるには……あまりに早すぎる……」

女王は、あたたかな光のなかで微笑む。

それは、まるで黒の騎士に見せつけるかのように。

「──貴様ァアアアア!!」

玉座に這い寄る騎士を、鋳薔薇の怪物が絡めとる。
そして玉座の間から、黒の騎士を引き摺り離す。

「彼をッ──返せェェェェ──ッ!!」

騎士は、その鎧より昏い闇へと呑まれていった。



──これは、ユメ。

──ぜんぶ、マボロシ。

──そういうことに──しておくの──。



深く、深く、沈んでいく。

いや、沈むというにはこの身はあまりにも軽い。

重い錨から放たれた我が身のなんたる軽いこと。



なのに、何故?



自由が無い。

身はこんなにも軽いのに。

何故このように我が身は沈み行く?



だれか、と呼ぶ口は無かった。

どこだ、と探す手足も無かった。

ただ、ただ、沈み行く。

深きへ、深きへ。




天にも昇るとはほど遠き、昏い、昏い旅路を往く。

彼方へ。

彼方へ。

果てしなき彼方の果てへ。



“救えない”。

苦しきを見る眼もなく。

痛みに添える手もなく。

嘆きに向かう足なく。

虚しきに届く口もない。

見つからぬ。
見つからぬ。
見つからぬ。

わたしは──誰も“救えない”。



ああ、我が師よ。

これがわたしの試練だと仰ったのですね。

この末法、光明なき闇に“救い”を探せと。

それは確かに、この“空”のからだで衆生を救うに等しきこと。



ならばわたしは捜さねばなるまい。

見る眼無く、添える手なく、向かう足なきこの身で“救う”妙法を。

眼は届かぬ。
手は届かぬ。
足は届かぬ。
言葉は誰の胸にも届かぬ。

それを“救う”。

わたしが“救う”。



わたしは、“救うもの”だから───



「……ッ」

溺れた水面から顔を出したかのように男は目覚めた。
周囲で汗を拭っていた僧たちが驚愕の眼を向ける。

「……お目覚めになられたのですか」

「……」

男は暫く狼狽した様子で周囲を伺い、自らの状況を理解したようだった。

「……そのようですね」

男は小さく応えた。

鐘が鳴る、鐘が鳴る。
“目覚めた”との鐘が鳴る。

──“救者”が目覚めた。

誰かがそう呟いた。



鐘の音を聴いた全てのものが香堂に集まった。
久方ぶりに目覚めた“救者”の姿を有り難がろうと、誘い合わせてやって来た。

姿を現したのはただ一人の“沙門(サモン)”である。
皆がその姿に頭を垂れた。
沙門の男は少し困惑した様子でそれを見る。
男は極めて謙虚で誠実だった。
故に“救者”として皆が自分を祀ることをあまり良いとは思えなかったし、なにより自身に相応しい言葉ではないと考えた。

だが、それを決めるのは彼ではなく民衆だ。
民は心から“救者”の目覚めを喜んだ。
こと最近は、“女王”の圧政に皆が苦しみ、心の拠り所が求められていたが故の喜びでもあった。

“覚者”入滅より末法を迎え、人々の心に影が堕ちる。
その寄る辺なき時代に“救者”は目覚めた。
それだけでどれ程の民が救われただろう。

“救者”が目覚めた。

“救者”が目覚めた。

みな口々に広めていった。
そして誰もが“救者”を訪ねた。


──黒騎士はそれをずっと見ていた。
鎧兜に隠れたその目で冷ややかに見ていた。

“時間がない”。

“物語”が侵食されている。
あまりにも強大な“救者”の力は如何なるものでも抑えきれない。
急がなければ。
急がなければ、手遅れになる──



民たちの声を聴いた“救者”が、二人の沙門を伴い出立する。
目指すは“赤の女王”の城だ。
民たちはいま、赤の女王のあらゆる理不尽に嘆いている。

聞けば女王は、世界中の嘆きを集めるために、世界中から夢と希望とを奪っていったのだと言う。
誰もが“救済”を乞うた。
誰もが“救者”を乞うた。
そして彼は目覚めたのだ。
長きに渡る瞑想の果てに。

“救者”が巡礼の旅に出る。
多くの者がそれを称え、旅の無事を祈った。

「どうかお救いを」

光を奪われた老婆が彼の手を握った。

「どうか子供たちに希望を」

空を奪われた男が懇願した。

「どうか安息の日々を」

時を奪われた老人が頭を垂れた。

「どうか愛の息吹を」

命を奪われた母が嘆いた。

「ああ、我らが“救者”──いや、“救世主(マイトレイヤ)”よ」

口々に彼を民が称えた。

Om Maitreya Svaha.(ああ、我が救世主よ)
Om Maitreya Svaha.(ああ、我が救世主よ)

彼はその様を、他人の夢でも見ているような面持ちで眺めていた。



霊山サハスララに斜陽が輝く。
アジュナの香堂を出発し、目的となるムラダナの城に向かうまで、彼らは四つの街を抜けなければならない。
一晩の内にひとつの街を抜けるのが限界だろう。
長い旅だが、悠長に歩みを進めるつもりは彼には無かった。

なぜなら、人々が苦しんでいるから。
なぜなら、彼は救うものだから。

それ以外に理由は無かった。

「──救者様」

街道を横切る別の一行に、僧たちは足を止めた。

「……」

それは葬列の一団だった。
悲しみに深く頭を垂れながら、硝子の棺を背負い街道を進んでいく。

「ああ、これは僧侶様、どうぞこの娘にお慈悲をいただけないでしょうか」

葬列の一人が声をかけた。

「──この娘は」

棺のなかには、白薔薇に包まれた黒衣の少女が眠るように身を横たえている。

「夢詠みの娘です」

「赤の女王に心臓を奪われ、替わりの硝子の心臓が恋に高鳴りひび割れたのです」

「身の丈に合わぬ夢を見たばかりに……」

さめざめと泣く葬列を前に、付き人の僧たちが合掌する。
救者は、それに倣って手を合わせ祈った。

──何を祈るのだろう。

──見ず知らずの、この乙女に。

『──其処の沙門に問う』

不気味な声が祈りを妨げる。

「ああ!!」

茂みの中から黒い怪物が飛び出した。
葬列の人々がそれに怯え、蜘蛛の子を散らす様に霧散する。
取り落とされた硝子の棺が音を立てて砕け散り、娘の躯が投げ捨てられた人形の様に幾度か地面を跳ねた。

「何者か!」

僧たちが救者の盾となり、錫杖を構える。

『──沙門に問う。貴様はその娘の何を祈る』

「魔羅(マーラ)よ、去れ!!」

その怪物は“黒豹”だった。
ぬばたまの毛皮を輝かせ、トパーズの瞳で鋭く救者を睨み付ける。

『答えよ沙門。その娘の救済とは何だ』

「──」

救者は、口を開く。

「──せめてもの、冥福だ──」

『……』

苦しい。
あまりにも苦しい答えだ。
だがそれは事実だった。
救者には、この憐れな娘の冥福の他に祈るべきものがわからない。
この娘の憐れな死に、悼むべき言葉が見つからない。

『──沙門よ、“貴様に世は救えない”』

「──!」

黒豹は目を細め答えた。

「何を言う魔羅よ!!」

錫杖を突き出す僧たちに怯むことなく、ぬばたまの黒豹は低く唸り声を上げる。

刹那。

「────!!」

娘の躯が、起き上がった。

「────」

あらぬ方向に首を巡らせ、赤く眼を輝かせた躯は、人ならざる速度で二人の僧の首を瞬く間に捻り折った。

「ッ!!」

そして救者へその視線を向けた刹那、黒豹の体当たりを受けて茂みの向こうへと吹き飛ぶ。

『──早いな……たかがこれ程の間に“蛇馬魚鬼”と化すとは』

黒豹の眼が“下がれ”と促す。
救者は、茂みから再び身を起こす娘の躯の対角に走り、大木を挟んで身を隠す。

『よく見ておけ沙門、最早この世では安寧な死すら許されぬ。心残りに闇が潜み、躯は“蛇馬魚鬼”として起き上がり──そしてその無念は“伝染る”ぞ。努(ユメ)忘るるな』

その言葉通り、同じく首をだらりと垂れ下げたままの僧の躯が唸りと共に立ち上がり、黒豹を取り囲む。

「……ッ」

救者はそれを、戦慄の表情のまま茫然と目に焼き付けることしか出来なかった。

『──それで“救う”とは──増上慢にも程があろう』

黒豹の姿が、真夏の影の如く揺らいだ。

『“夕火の刻、粘滑なるトーヴ……遥場にありて回儀い錐穿つ──”』

昏い、昏い、影の中から、人影が立ち上る。

『“総て弱ぼらしきはボロゴーヴ、かくて郷遠しラースのうずめき叫ばん──”』

影と沈み行く陽の黄昏とが、その立ち上る影に輪郭を与えていく。

『“かくて暴なる想いに立ち止まりしその折、両の眼を炯々と燃やしたる蛇馬魚鬼、そよそよとタルジイの森移ろい抜けて、怒めきずりつつもそこに迫り来たらん!”』

そこに立つのはぬばたまの鎧に身を包む“黒き騎士”だった。
引き絞られたその姿は、黒豹から身を転じてなお変わらぬ凶暴性を孕み、油断なき所作でぬらりと腰の剣に手を架けた。

「“役割(ロール)”は《演者》──」

昏き波動を纏いながら、異形の剣が抜き放たれる。

「“権能(ルール)”は《剪定》──」

高々と掲げたその剣の切っ先が、“鋏”のごとくふたつに分かれた。

「“貫きて尚も貫く、ヴォーパルの剣が刻み刈り獲らん──”」

怯えた三体の蛇馬魚鬼は、即座に騎士へと躍りかかる!

「──《剪定(カット)》」

異形の“鋏”が、音を立てて閉じる。

──何が起きたか。

救者にも、躍りかかった蛇馬魚鬼すらも、その“瞬間”はわからなかった。
ただ少なくとも、その“刹那”には、蛇馬魚鬼たちは既にその鋭い爪を振り抜いていたのだ。
だが、その爪は、騎士を傷つけることは叶わず──

「《堪惚脱退(かんこつだったい)》、《ヴォーパル・スウォード》──!」

背を向けたまま、呆然と立ち尽くす蛇馬魚鬼を、騎士は一閃の下に斬り捨てた。
半身と別れを告げた蛇馬魚鬼たちは昏き煙と化して掻き消える。

「──貴方は──」

騎士は真っ直ぐ、声をかけた救者の顔を見る。
その表情は鎧兜に隠され、伺い知ることは出来ない。

「──赤の女王に名を奪われた。知るものは“黒騎士”とでも呼んでいる──」

異形の剣を鞘に納め、黒騎士は応えた。

「名乗れ沙門、貴様には名があるのだろう」

「──」

救者は、視線を落とす。

「──わたしの“役割(ロール)”は《救者》です──故に、我が身より世を常に想い、我が身の執着は棄てました」

「……故に自らの名は忘れたとでも?」

「──はい──」

彼は、自らの名を忘れていた。
それに対して想うところは何もない、彼にとっては課せられた命題の他に執着は無かったのだ。

──でも。

──それでも。

“救者”や、“救世主(マイトレイヤ)”と呼ばれることには、強い違和の感覚を覚えていた。

「其ほど無頓着な者が“救者”とは片腹痛い──それで救えるものが本当にあると貴様は思うのか?」

「──」

言い返す言葉もない。
彼には常に、釈然としない思いだけが渦巻いていた。

──本当に自分は“救う者”なのか──?

「──貴様は赤の女王の居城に往くのだろう。ならば着いてくるが善い」

「──?」

「赤の女王の“討伐”は我が目的でもある──ならば貴様の“救済”と辿る道は同じであろう」

騎士の言葉に、彼は言い淀んだ。

「──貴様は“救う”つもりなのか……? かの悪逆非道の赤の女王すらも」

「──」

「──構わぬ。世の“救済”を貴様が嘯くなら、彼奴の“救済”もまたその道程にあるのだろう……」

騎士は彼に背を向け、街道を進み出す。

「……往くのならば早くしろ。また蛇馬魚鬼に襲われたくないのなら」

「──」

宵闇が二人を包み始める。
“救者”は、その足で騎士を追い始めた。

──歩まねばならぬ。
救うために。
救うために。

「──名無しの“救者”か──」

背を向けたまま騎士が呟く。

「──ならば貴様を“カンダタ”とでも呼ぶとしよう。古き物語にある救いを求めた者の名だ」

「──」

“救者”カンダタは、言われるがままそれに従った。



──夢のなかで、彼は蜘蛛の巣に囚われた羽虫だった。
それを悔やめど、一方で彼はその運命を受け入れている。
それが命の生業であるし、それが命の定めであるなら。
無数に交差するさだめの糸の織物に、やがて彼は織り込まれて消えるのだろう。

けれど。

消え行く彼に、手が差し伸ばされる。
消え行く彼に、“消えるな”と手が差し伸ばされる。

──なんと無意味な。

感謝こそすれど、カンダタの胸中はそんな嘆きで満たされていた。
これは運命められたこと。
そうなるよう綿密に織られた物語だ。

──なのに、どうして。

どうして、“その手を掴みたい”と望んでしまったのだろう。
伸ばす手に絡む糸が、その肉を、その骨まで絶たんと引き絞る。

“消えてしまえたなら楽なのに”

“なぜ、この手を伸ばしてしまったのだろう”

──霞の先に、手を伸ばすその相手を。

その名、その顔、その姿を──

──彼は、“知らない”。



──魘されたカンダタが瞼を開く。

視界の中に入るのは焚かれた火と、そこから離れて座する黒い鎧の鈍い輝きだけだった。
喉元まで流れる汗を拭い、座禅の姿勢を崩さずに、カンダタは闇に融ける隣人を一瞥した。

「──休む時にもその鎧は脱がないのですか」

カンダタは黒騎士に声をかけた。

「……これも赤の女王に呪われ脱ぐことが叶わぬ。人としての営みの全ては奪われてしまった。私はあの暴君の眠らぬ兵隊だったのだ」

騎士はカンダタを見ること無く応えた。

「最後に“心”が奪われる前に逃げ果せた。だがそれすらもこの身に課せられた“役割”に歪んでいる──私は私を“演ずる者”だ。強く意思を持たねば、私は私を演ずることが叶わない」

歪な豹か猫を象る鎧兜は、じっと闇だけを見据えている。

「──演ずる者、貴方は──何故わたしを」

「云った筈だ。只、我が道程と貴様の道程が重なっただけのこと」

漸く、騎士はカンダタに視線を向けた。

「──或いは、私は“演じた”のかも知れないな、貴様が求めたものを」

「──」

「“役割(ロール)”とは斯様なものだ。それは課せられた我が身の有り様──“演ずる者”は求められたがままに演じなければならぬ」

カンダタは何か釈然としない。

「貴様が道に迷えば私は道標を演じよう。貴様が矢面に立つのを恐れるならば私は我が身を盾にと演じよう──それが我が“役割(ロール)”だ」

無論その表情は伺い知ることが叶わないが、その不気味にくぐもった声には何か嘲りの感情が滲み出ていた。

「……貴方はまるで知恵者の猫だ。すべて識っていてわたしを嗤っているかのように見える」

「貴様がそう望むのなら、私はそのように演じてやろう」

やはり嗤うように聞こえるその言葉にすら、救者カンダタは何も思わなかった。

「──救う者よ、貴様だって似たようなものだぞ」

「……と言うと?」

「貴様は“救い”を課せられた者だからだ。何であれ、貴様は救わねばならぬのだろう」

──どう嗤われようと揺らぐことのない言葉が、そう言われた途端に翳りだす。

そうだ。
それがこの身に課せられた“役割(ロール)”だ──

そう、さも当然に答えられるはずのその題目が、カンダタには答えられない。

「それは“そう求められて”いるからではないのか? 貴様の望みがどうあれ、貴様は“そう望まれて”いる──その“枷”が、貴様を“救者”足らしめているのではないか、という話だ」

「──それは」

「尤も、貴様のその誓願は尊い、なればこそ、この末法の世に貴様の尊き願いに縋りたい者は無数に在るのだろう──貴様の願いは、救済の想いは、その重圧に耐えうるのか?」

カンダタは、押し黙る。
今にも否と叫びたかったが、それは出来なかった。

「──貴様にカンダタと名付けた──その理由を教えてやろうか」

知恵者の猫が意地悪くそう切り出したのを、カンダタは小さく頷いて応じる。

「それはある物語に名のある盗賊の名だ。カンダタなる男は人も殺せば火付けもした大悪党で、死してからは当然のごとく地獄に堕ちた──まあ、どのような責め苦の中にあったかは沙門に語る道理は無いか」

騎士は改めてカンダタに向き直る。

「だがその外道は生涯に一度、善行を成したことがあった。それは林のなかで一匹の蜘蛛を踏み殺しかけたところを助けたことだった──」

「──わたしが斯様な悪人であると」

「まあ聞け──地獄で責め苦を受けるカンダタに向けて、極楽浄土から一本の蜘蛛の糸が降りてきた。それはカンダタ唯一の善行に対する慈悲として降りてきたのだ──」

騎士が鋭い爪を空に向ける。
思わず見上げたその先に星は無い、すべて赤の女王が奪ってしまった。

「カンダタはそれを掴むと昇り始めた。ひたすら、ひたすら、地獄から脱け出す為に──」

黒騎士は両手の親指と人差し指を伸ばして長方形の窓を作る。
そして手の甲を互い違いに回しながら、語り部がごとくゆっくりと言葉を紡いでいく。
雨樋を昇る蜘蛛の手遊びだ。
小さな子供をあやすような手遊びでも、この鋭い鉤爪をキイキイと鳴らすその姿は火に照らされて恐ろしかった。

「──ふと疲れたカンダタは、どれ程地獄から離れたものかとつい眼下を省みた。するとどうだ、次から次へと数多の亡者が同じ糸を昇ってくる。我も我もと地獄から逃れようと、絹より細い蜘蛛の糸を昇ってくる」

「……」

「このままでは糸が切れてしまう。この糸は俺のものだ、手を放せ──そうカンダタが叫んだ途端、糸はぷつりと切れてしまった──こんな話だ」

語り終えた騎士は、再び闇の先に眼を凝らす。

「──沙門よ、貴様は今、救済の糸をその手に掴んでいる──この末法の無限地獄の中にあって、貴様は数多の亡者と共にただ一筋の蜘蛛の糸を掴んでいるのだ」

「──故にわたしを“カンダタ”と」

「左様。貴様は全て救うつもりで蒙昧な亡者もろとも地獄に堕ちるやも知れぬのだぞ……それを努(ユメ)忘るるな」

──カンダタは自らの掌を眺めて想いを巡らせる。

「……夢を見ました」

「──」

「深い深い瞑想の中で──深い深い闇の中にいた」

カンダタは、目覚めの前を回想する。

「苦しきを見る眼もなく、痛みに添える手もなく。嘆きに向かう足なく、虚しきに届く口もない」

「──」

「だが、“それでこそ”」

カンダタは“黄金の瞳”を黒騎士に向ける。

「“それでこそ救う妙法に至らなければ”」

──騎士はその答えに応じなかった。

「──それが恐らく、わたしの“役割(ロール)”なるものなのでしょう」

「……フン」

知恵者の猫は小さく鼻で嗤った。

「──ならば貴様はこの旅の道程で、その妙法とやらを探すが善い」

「……」

「そして一つ、忘れるな……貴様の手には、一つの“鋏”が握られている──それを如何に使うかは、貴様がよくよく考えることだ」

カンダタは、怪訝な顔をした。

「──“なんとかと鋏は使い様”──そんな言葉もあるからな」

黒騎士の胡乱な言葉に呆れたカンダタは、再び座禅の姿勢を正し、救済の妙法に向けて思慮するために瞼を閉じて瞑想した。



ヴィシュッダの街は疫病に襲われ、多くの者が命を喪い、そしてその無念が躯を蛇馬魚鬼として立ち上がらせた。
黒き騎士は道すがら襲い繰る蛇馬魚鬼を次から次へと切り払い、嘆きの救者は死してなお晴れぬ無念に祈りを捧げた。

──その祈りが何になるのだろう。

死屍累々の山を一瞥するカンダタの胸に惑いが去来する。

「……」

ヴィシュッダでの一泊を諦めた二人は、足早に亡者の街を抜けようと試みる。
黒騎士が護ってくれているとは言え、僅かの油断が自身の死を招く。
それでは死んでも死にきれない、そんな自分が蛇馬魚鬼に身を堕とすなどとは皮肉にも程がある。

何より、人ならざる鬼に変生したとは言え、元はと言えば無念を抱いて死んでいった無辜の民だ。
それらが無惨に斬られていく様は、カンダタには耐え難いものだった。
無用の殺生は避けるよう懇願した結果、黒騎士はこう答える。

──では、そのように演じよう。

「……知恵者の猫よ、教えてはくれませんか」

「──」

「貴方はわたしが鋏を持つと仰いました──それは、わたしが手繰る蜘蛛の糸を自ら断つためのものだと仰いたいのですか」

路地裏に身を隠し、蛇馬魚鬼の群れをやり過ごしながらカンダタは尋ねた。

「──貴様がそう望むならそう使うが善い。道具の善悪とは結局、使う者の意思ではないか?」

「──」

「……鋏と言えばこれまた良い物語がある──聞くか?」

騎士はやはり意地の悪そうな言葉で促した。

「──ある国にパルカイなる天女の姉妹がいた。三人の姉妹は“人のさだめ”という糸を紡ぐ役割を担うものだった」

蛇馬魚鬼たちが過ぎ行くのを見定めた二人は、静かに路地から身を出した。

「長女は言った。“一番に年長けたわたくしがさだめの糸を紡ぐために招かれました。その糸がしなやかで、たおやかにあるようにと、一番上等な麻を持って参りました。けれど心配りなさい、この糸はとても切れやすい──宴に踊りに度を超さぬ様くれぐれもお忘れ無きように”」

黄昏に染まる街中に亡者たちの影が踊る。

「三女は言った。“心得ておきなさい、鋏はわたくしの手に委ねられました。大姉樣はつまらぬ無用の糸を光と風に繋いだかと思えば世にも美しき糸を絶ち切っておしまいです。その振る舞いを皆様快からず思っておりましょうがゆえ……けれどわたくしはこの若さというものに任せすぎ。幾度過ちを犯したことでしょう”」

それから逃れて二つの影が宵闇に向かう。

「残る次女はこう言った。“こころ穏やかに居られるのはこのわたくしだけのよう。ゆえにこのわたくしが、さだめの糸を車に巻き取る役目を仰せつかりました。来る糸来る糸を枠に巻き、それぞれの道に導いて、ただの一筋も反らしはしない。糸よ、糸よ、ぐるぐる回って従いなさい。わたしが束ねた糸束は、時を、さだめを織りたもう。そしてその織物を、大いなる御手がお取りになるのです”」

サハスララ山に日が沈む。
二人は漸く、街外れの菜圃が続く街道に出た。
畑は荒れに荒れ、作物は愚か雑草一本芽吹かない。

「──若き救者よ、その手の鋏は、正しくさだめを断つためにあるのだと覚えよ。ほつれた糸が絡んでは糸車も正しく廻るまい──それこそが最も恐るべきことなのだ」

「──」

「そして時にはこの私がその“鋏”を演じよう……貴様がそう望むのならば」

カンダタは、あの異形の剣を回想する。
無慈悲な鋏を思わせるあのふたつの切っ先は、果たしてあの時、何を断ったと言うのだろう。

「……?」

紅の空、鴉が騒ぐ荒れ畑に、一人の男の影があった。
ただひとり鍬を振るい、死んだ畑をひたすら耕し続けている。

「──」

男は近づく二人に気づいて振り向く。

その瞳が──赫く輝いた。

「──やあ。こりゃどうも」

大柄な男はそう挨拶した。

「……」

「──ここ最近は実りが悪くてね……これじゃまるで飢饉だ。酷いものだよ」

合わぬ視線を移ろわせながら発された言葉が、自分たちに向けられたものではないことにカンダタは気づく。

「──“蛇馬魚鬼だ”」

そして、問われるより先に騎士は応えた。

「──確かに“死んでいる”。それでいて──何故」

「なるべく早く、土を肥えさせておかないと……ここ最近じゃあ花一本生えやしない」

人としての理知を失った蛇馬魚鬼と比べれば、この農夫とおぼしき男は赫い目を除いて概ね不審な点は見られない。
だが、やはり。
矯めつ眇めつ見てみれば、やはりこの男はどこかがおかしい。

「──飢えさせたくない人がいるんだ──」

ぶつぶつと。
鍬を振りながら、男は虚空を見つめて問わず語りを繰り返す。

「──ううん。皆、飢えさせたくはないんだよ。疫病なんかも流行っているから、ちゃんとたくさん野菜を食べさせて──栄養をつけてもらわないと」

なにかに憑かれたように男は鍬を振り続ける。
ひたすらに。
ひたすらに。

「その為にはまず土を肥えさせておかないと……ここの土はあまりに痩せている──これじゃあ、野菜たちが元気に育てないよ」

一振りを、一振りを、延々、延々、繰り返す。

「飢えさせたくないんだ……だから、だから、“植えないと”……」

一振りを、一振りを、延々、延々、繰り返す。

「“彼”が──“彼”が運んだ“種”を、ボクは」

延々、延々、繰り返す。

「“ボクは、見たいんだ!”」

繰り返す、繰り返す、繰り返す。

「“一体、どんな花が咲くのかを!”」

男の顔から笑顔が消える。

「“だけど、こんな土では、育たないッ!”」

──振り下ろされた鍬に血飛沫が舞う。

「……ッ!!」

──土に鋤き込まれているそれは。

「──こんな、痩せた……土じゃ……」

男は鍬を取り落とし、膝を突いて項垂れた。
その足元に、“千切れた人の腕”が、土の中から顔を出す。

──この男は、蛇馬魚鬼だ。
やはり、人としての理を、外れてしまったモノなのだ。

──カンダタは、畑に乱雑に鋤き込まれた無数の亡骸に気がついた。
この人道を外れた男は、他人が飢えることがないようにと、痩せた土に息吹を取り戻さんがためにと──

他人の亡骸を、堆肥に代わって鋤き込むのだ。

「────」

その地獄絵図に、カンダタは絶句した。

「──カンダタよ、よくよく見るが善い」

黒騎士が口を開く。

「あの男は救済の為に人の道を外れてしまった。その願いは尊かろう──だが、人の身を外れ、蛇馬魚鬼と成った身では、その無念が故に願いが歪んでしまったのだ」

男は血濡れた土に両手を汚しながら、壊れていく良心の欠片を両の目から溢していた。
濡れた赤い赤い瞳が、沈む陽の紅に爛々と輝く。

「──あれは」

男の手足に、輝く“糸”をカンダタは見つけた。
蜘蛛の糸がごとく細い糸に、男の身体は吊られているかのようだった。

「──そうか、あの男には、そうせざるを得ない“役割(ロール)”があったのだな──それにあの骸は操られているのだろう。意思があるかのように見えるのは、その“役割(ロール)”がそのように課しているだけなのだ」

「……」

「“死してなお役割(ロール)に縛られる”──正に地獄の責め苦ではないか、沙門よ……」

──肩を震わせたまま、蛇馬魚鬼は再び立ち上がる。

「──さあ、仕事を……続けなきゃ……」

男は鍬を手に取り、痩せた土目掛けて振り下ろす。
そしてまた、吹き出す血飛沫が男の身体を汚していった。

「“役割(ロール)”に縛られ続ける限り、あの死体はこの不毛な行為を繰り返すのだろう。二度と芽吹かぬ大地に骸を耕し続ける哀れな男を──カンダタよ、如何にする?」

──騎士の声は嗤っているようであり、嘆いているようであり……それでいて、何も思っていないようにも感じ取れた。

だが、そんな言葉より。
カンダタの胸は、この地獄の光景に強く締め付けられる。

「──“植えないと”──“飢えさせたくない”──」

譫言を繰り返し、一振り、一振り、鍬をひたすら振り続ける反り血に染まった亡者の姿は、カンダタの心痛をその一振り毎に重ねていく。

「──“救わねば”──」

そして同じく譫言のように、カンダタは呟いた。

「──“役割(ロール)”は《救者》──」

「……」

カンダタの身体から、黄金の気(プラーナ)が滲み出す。

「──“権能(ルール)”は──」

黄金に輝く瞳が慈悲深く、哀れな亡者を見据えている。

「──“権能(ルール)”……は……」

言い澱む言葉の代わりに、黄金の気がそれを表した。

「────ッ!!」

──男の手足を操る“糸”が、彼の無念が、彼に残った最期の意思が、ぷつりと断ち離された。

「────」

そして漸く、それはただもの言わぬ骸としての“役割”を取り戻し、男の巨体は膝を突いて血濡れた畑の土に身を委ねた。

「……」

カンダタは、その樣を、凍りついた表情のまま──両目から止めどなく涙を流しながら、一部始終を記憶に焼き付けた。

「──“執着”を失い、最早この骸が立ち上がることもあるまいよ」

「……」

「──往くぞ」

騎士は背を向けて歩き出す。

「……」

カンダタは、倒れた巨体の男の側から離れることが出来なかった。
震える指で、俄に開いていた瞼を閉じてやり、ごわごわの頬を微かに撫でた。

「──どうした。それが貴様の与えた“救済”であろう?」

「……ッ」

知恵者の猫がそう嗤う。
その言葉はカンダタの胸を鋭く痛めつけ、その苦痛に彼は漸く立ち上がる。

「……」

幾度も、幾度も、倒れた男を省みながら、カンダタは騎士の背中を足早に追った。

──心得ておきなさい、鋏はわたくしの手に委ねられました。

けれどわたくしはこの若さというものに任せすぎ。

幾度過ちを犯したことでしょう──



次の日が昇り始めるころには、二人はアナハタの街に差し掛かった。
花吹雪く都として知られたアナハタは今や春を奪われ、身を斬る寒さが二人を襲う。
ここでは続く飢饉で数多くの子供が死んだ。
終いにはその子供の骸すら喰らう餓鬼の境地に陥っていると、カンダタは民から耳にしていた。

「──ある神には六人の子が居た。その神は自らの手で父神を去勢し、その権利を奪いさった過去があった。故に神は何時か自らの子に立場を逐われることを恐れて子供たちを一人ずつ喰らってしまった──」

「……?」

「しかし最後に産まれた子は母が偽って石を喰わせた為に助かった。そしてその子は父を討ち、神々の長として君臨した──」

唐突に語り出す黒騎士に、カンダタは怪訝な顔を向けた。

「──なに、ただふと思い出しただけのことだ──未来を担う子供の飢えより我が身の飢えを癒すとはな」

騎士は意地悪くそう呟く。

「狡猾な知恵者の猫よ、やはり貴方は道を惑わす魔羅ではないのか──」

今度はカンダタがそう返した。

「と、言えば貴方はそう“演じて”くれるのでしょう」

「──言うようになったな沙門。だが貴様は自らそれを望むのか?」

「“覚者”樣は自ら魔羅の誘惑を退けました。ならばわたしも魔羅の言葉の中にこそ学ばなければ」

事実、この狡猾な騎士はその悪意に満ちた言葉で往く道を確かに示しているのだ。
その意図はどうあれ、カンダタはその悪意の中にこそ救済の妙法を見いださんと考えた。

「──苦しみの中にこそ悟らなければ。わたしは“沙門”であるが故」

「……フン」

それが、この地獄の不条理を身に受けるための術だった。
彼に課せられた“救者”としての題目が、この末法を往く為の支えとなった。
恐らくそれが、天が思し召した救済の道程なのだろう。

──凍てついた街を抜け、街道に差し掛からんとする時だった。

「──」

渇れた木陰で、何者かが踞っていた。
ぶつぶつと、ぶつぶつと、なにかを小さく呟きながら。

「──ね──ごめんね──」

二人は、恐る恐る、その影に近づいた。

「──ああ──」

少年は、幼子の骸の胸を切り開き、手を血に染めて何かを探っているようだった。

「──よかった──」

ずるり、と、引きずり出したのは、一本の“蝋燭”だ。
少年は血染めのそれを、両手で慈しむように包み込み、背負う大きな白袋の中に入れた。

「──ッ!?」

二人に気づいた少年はその場から逃げ出そうとし、別の骸に躓き倒れた。
手放した袋から、無数の蝋燭が道端に転がる。

「ああ……ッ!!」

青ざめた顔で少年は転がる蝋燭に縋りつく。

「──そんなもの、我々は奪いはせぬよ」

騎士の声に少年が顔を上げる。

その瞳が──赫く輝いた。

「──それは、なんだ?」

「……“命の蝋燭”……です」

怯えた顔のまま少年が答えた。

「皆……尽きるまえに消えてしまった……ほ、ほら、これなんてこんなにも長い」

血に濡れた手に持つ蝋燭を見せ、それを即座に袋に隠す。

「みんな良い子たちなのに……無くしてしまうから……ちゃんととっておかないと……」

やはり少年の言葉は二人に向けられているようでどこか問わず語りだった。
あの、畑の男と同じように。

「──それを集めてどうするのだ」

「──あげるんだ……その──みんなに」

──少年の視線が泳ぐ。

「そう……良い子たちに配るんだよ……良い子は、ちゃんと生きていないと」

微かに狂気を孕んだ少年の笑顔に、カンダタは背筋を凍らせる。

「……あげたいんだ……そう、良い子にはね……」

「成る程」

騎士は腕を組み、わざとらしく思惟の仕草を見せる。

「──その贈り物が“盗品”であると気づいた子は……果たして“良い子”でいられるのかな?」

──カタリ。

蝋燭が地に堕ちる。

そして、その刹那。

「──ヨコセェェエエエ!!」

「──!!」

胸を裂かれた筈の子供の亡骸が起き上がり、真っ赤に輝く目を見開いて少年に襲いかかった。

「ああぁぁぁぁあああッ!!」

それだけではない。
道中に横たわる骸のすべてが蛇馬魚鬼と化して、少年の集めた蝋燭に群がる。

「ああぁ────ッ! “プレゼント”がぁ──ッ!!」

同じ赫い目を見開きながら、少年は慟哭し、貪られる蝋燭の袋を取り戻さんと餓鬼の山へ飛び込んでいく。
だが、餓鬼の抵抗は凄まじく、幾度となく彼は餓鬼の山から撥ね飛ばされた。

「──“望んでいたものを手に入れたと思い込んでいるときほど、願望から遠く離れていることはない”──と言う言葉がある。あの蛇馬魚鬼もまた、与える者としての“役割(ロール)”がそうさせたのだろう」

「──」

幾度となくカンダタは、少年に手を差し伸べようとして騎士に遮られた。
下手に手を出せば彼もまた餓鬼に貪られるだけだとわかっていても。

「歪められた“役割(ロール)”に、あの少年も縛られている──“救者”は果たして、どのような救済を与えるのだ?」

──やがて餓鬼が散った後には、空になったズタズタの袋と、満身創痍の少年だけが残っていた。

「──“あげたいんだ”──」

慟哭混じりに少年が呟く。

「──“相応しい、おくりものを”──」

カンダタの足元で、踞る少年の手足にもまた、蜘蛛の糸が輝いた。
そしてその糸に吊られるように、彼は袋を手に取り、蝋の欠片を集め始める。

「──もう、ここには──ボクには──」

少年は幾筋も幾筋も涙を流しながら、虚ろな瞳をカンダタに向ける。

「“価値あるものが──無いから──”」

「──」

カンダタは膝を突き、少年の躯を抱き締めた。
その間から、金色の気が立ち上る。

「────ぁ──」

やがて少年の四肢からふっと力が抜け、糸の切れた人形そのものらしく道端に身を崩した。
カンダタはその俄に開いたままの瞼をそっと閉じ、濡れた頬を優しく拭う。
だがその頬に、春雨のごとく涙が落ちる。
しとしと、しとしと、止めどなく。

「──“救者”を嘯くわりにはずいぶんと雑な“救済”が続くではないか」

──騎士の言葉に表情を凍りつかせたカンダタは、次の瞬間には憤怒を秘めた表情で顔を向ける。

「どうした? 魔羅の演目を望んだのは貴様ではないか?」

そして、沸き立つ憤怒を胸の奥に押し込めて、カンダタは再び立ち上がる。

「──演者として嫉妬するほどの良い顔だ。だがまだまだだな」

「──この感情を“演技”だとでも?」

「さあ、果たしてどうかな──“踊らされている”のは私も貴様も変わるまい」

カンダタは頭を振って沸き立つ怒りと嘆きを振り払う。

「まあせいぜい踊る他にあるまいよ。見事に踊ってみせたのならば、“観客”はこう言うかもしれないぞ──」

滑稽に芝居がかった身ぶりで騎士が嗤う。

「──“瞬間(とき)よ止まれ、汝は美しい”──」

「……」

カンダタは無言のまま、そして幾度と背後を省みながら、次の街へと足を進める。

凍てつく道を、祈るように、祈るように踏みしめながら。

──望んでいたものを手に入れたと思い込んでいるときほど、願望から遠く離れていることはない──

──ならば。

望むべき救済がもたらすものは、如何にその願望からかけ離れたものなのだろう。

認めることはできずとも、その疑問は確かにカンダタの胸に根付いていた。



珠の都と謳われたマニプラは今や全ての輝きを奪われ砂の中に埋もれていた。
価値ある物は最早何もない、ただひたすらに砂丘が続くばかりである。
カンダタと黒騎士は、時に視界さえ定かではない砂嵐に耐えながら、辛うじて道であったとおぼしき痕跡を辿り赤の女王の居城を目指す。

──カンダタの足を支えるのは、ただ“救いたい”というその題目だけだ。
砂すら意に介さずひたすら歩みを進める隣の悪魔が囁く堕落への誘惑すら、その題目の前では無為と思える。
だが、裏を返せば、そう自らの思考を塗りつぶさなければ今にも心は折れてしまう。

いま、カンダタの鋼の意思はこの砂嵐に削られ、あまりにか細く擦りきれてしまった。
それでもカンダタは歩みを進める。

──ならば鋭く、剣のように。
──あるいは鋭く、鋏のように。

「──」

その鋏は何を断つ鋏であるか。
その惑いが己を弱くする。

ただひたすら、ひたすら、鋭くあれ。

カンダタはそう己を奮い立たせる。

自分は、正しい。

自分は、正しい。

自分は、正しい──

「──“涙と共にパンを食べたものでなければ人生の味はわからない”──貴様の足掻く姿を見るとそのような言葉が浮かぶものだよ」

「……」

「“よろしい、底の底を極めてみようか。君のいわゆる虚無の中に万有が見いだされるだろう”──かの者もまた貴様と同じようなことを言ったものだ」

知恵者の猫はまたも嗤う。

「──またなにか物語の中にでも準えているのかい」

カンダタはそう返した。

「──ある日、悪魔と神との間でこのようなやり取りが成されていた。“人間というのは折角の理性をまともなことに使わないではないか”、それに神は“常に向上の努力を成す者がある”とある男の名を出した。“ならばひとつ賭けをしよう、わたしはその男の魂を悪の道へ堕としめてみせよう”、神はそんな悪魔の言葉に“人は努力する限り迷うもの”とそれを認めてみせた」

砂が風に舞い、灰色の空へと飲まれていく。

「──その男は年老いた学者だった。あらゆる学問を極めたが、“結局なにもわからない”と絶望の淵にあった。そこに先の悪魔がやってくる。“奴隷として貴方に仕え、世界のすべてを貴方に教えよう”──ただしそれには条件があった」

二人の足跡すら砂の道には残らない。
全て風が吹く度に消えていく。

「それは“男が満足を得てしまったら、対価としてその魂を貰う”という契約だ。すなわち、その瞬間に対して“留まれ”と思ったそのときに、男は命を悪魔に奪われるのだ──」

「──まるで貴方だ、知恵者の猫よ」

「──」

カンダタは小さく、自虐的な笑みを浮かべた。

「……様々な体験と喪失を経て、男は世界をつくり直そうと──理想郷を自ら建国するために尽力し始める。魔法の力である国の戦争に荷担し、その報酬として得た海岸沿いの土地の干拓事業を推し進めるが……ある老夫婦を立ち退かせるのに失敗し、その二人を殺してしまう」

「……」

「その報いとして憂いの霊に視力を奪われた男の耳に、建国の為に民が振るうつるはしの音が聞こえてくる──それは実際には悪魔とその手下たちが男の墓穴を掘る音だったのだが──理想郷に向けて人々が団結し、正しく労働する姿を夢想した男はその喜びについに叫んだ。“ああ、瞬間(とき)よ止まれ、汝は美しい──!”」

芝居がかって身ぶりで最高潮を演じきる。

「──こうして男は命を堕とした──それだけの話だ」

……だがその割にはあっさりと、騎士は語るのをやめてしまった。

「──わたしをそれに準えて見ていたと……確かにその通りかもしれません」

「──何?」

砂しか見えない景色をまっすぐに見据えたまま、カンダタは乾いた表情で口を開く。

「……わたしはすべてを救いたい……でもその術がわからない。そして貴方が現れ……香堂に詰めて何も知らないこのわたしに世界を見せて下さる──」

「……」

「知恵者の猫よ……あるいは魔羅よ、あなたはこのわたしという観客、あるいはこの“おなじ舞台で踊るもの”の為に、“そのように演じて下さっているのでしょう”?」

鋭い語気に、騎士が思わず足を止める。

「そして“演じる者”よ、わたしは貴方の演ずる脚本通りの結末には辿り着くつもりはありません。物語を“演じる”だけでは、きっと何処にも辿り着けはしないでしょう……」

「……ッ」

「何故なら、物語とは“紡ぐもの”──ただ糸を“手繰る”だけのカンダタではないのです」 

──騎士は、カンダタに背を向けたまま、身動き一つ取らなかった。

だが、その背中は──微かに、微かに、震えているようにも見えた。

「────」

「……あれは」

晴れ始めた砂嵐の向こうに、二人は何かを見いだした。
そしてほぼ頭上に近い位置を、巨大な質量が砂を巻き上げながら通り抜けた。

「……ッ」

そして砂煙の切れ目に、カンダタは恐るべき光景を見た。

「────────!!」

「────────!!」

ふたりの“巨人”が向かい合い、互いの半身を砂に埋めたまま、手に持つ棍棒を振り回す。
よろめき、血の雨を降らしながら、雄叫びを上げて互いを打ち合い続けている。
その度に空気の全てが太鼓にでもなったような衝撃がカンダタの肌を打った。
幾度も、幾度も、容赦なく、“ふたりの巨人”は互いを打ちのめす。

「あれは、なんだ──」

「下がれッ!」

程なくして、打たれた巨人の肉体から、弾丸の如く何かが降り注ぎ、二人が立つ砂漠を穿った。

「──“骸”──蛇馬魚鬼か」

目を凝らして巨人の細部を探る。

──それは、無数の生きた骸で織られた巨大な死体の塊だった。
互いに棍棒で打ち合う度に、千切れた遺体は弾丸の速度で降り注ぐのだ。
下手にこの門番の足元を通りすぎようとでもすれば、彼らも骸の弾丸の餌食になろう。
そうでなくとも、このあり得ない結合はそう強固なものではないらしく、巨人が身を捩る度に振り落とされた骸がそのまま降ってくる。
単純にやり過ごすのは余りに困難だ。
かといって安易な迂回も難しい、半ば砂に埋もれて辛うじて見えている街道を辿るしかない彼らがその道を外れるのは、標も無しに砂漠を彷徨うのと同義なのだ。

「──また突拍子もつかない事が起きた。この“脚本”はとんでもない駄作だな」

騎士は剣を携えてそう吐き捨てた。

「教えてやろう──こう大風呂敷を広げて収集の着かなくなった舞台(オルケストラ)と言うのはな、大概最後に大掛かりな機械仕掛けで“神”の役が現れて、物語を安易で雑な結末へ導くものだ」

騎士は微かに振り向いて、カンダタの顔を見る。

「そう言う粗雑な幕引きを、どこかの国の言葉で“機械仕掛けの神(デウス・エクス・マキナ)”の仕業と言うのだよ」

「──おいッ」

そう語る背後に、骸の弾丸が迫っていた。

「──《剪定(カット)》」

……そう呟くや否か、骸の弾丸はカンダタの後方に堕ちて地を揺らした。

「……貴方は一体“何を斬った”んだ……?」

「──」

騎士が手元の剣に視線を向ける。

「──まあ、解るように言えば“場面”を一つ《剪定(カット)》したのだ」

「……ば、“場面”……?」

「因果律の剪定云々の話をしたところで話が拗れるだけだろう。我が《剪定》の“権能(ルール)”を、我が《演者》の“役割(ロール)”に準えたらそうなったということだ。私は今、“我々の危機の場面”を一つ《剪定(カット)》した、と認識してくれれば構わない」

そう常設に語る後ろで再び骸の雨が迫る。

「おちおち“解説”も出来ないな──《剪定(カット)》──」

そう呟くと共に、異形の剣が二枚に重なる刃を鋭い鋏の如く鳴らした。

そして、次の刹那には、カンダタの後方に土煙が立ち上る。

「ただし“話(シナリオ)”の大筋を《剪定(カット)》するには《演者》の一存では不可能だ──私が斬れるのは、このような些末事程度に限られる──《剪定(カット)》」

瞬き一つしたかと思えば、鋏の音と共に巨人が両膝下を埋めるその真下に居た。

「まどろっこしい場面展開ならこう《剪定(カット)》出来るものだが──流石にこれは出来まいよ」

──二人の目前には、巨人の戦いを見守る一人の男の背中があった。

「……」

男もまた、両の膝下を砂の中に埋めたまま、ただ、呆然と巨人の決闘を見上げている。
それは、倒れることが許されないことを意味していた。

「──何を争っているのだ、あれは」

騎士が男に問いかけた。

「──知らねェよ──」

弱々しく、男は答えた。

「──ああ、でも、知らないなりに答えられることならある」

男は身を捻って視線を向ける。

「……みんな、“ここに呼ばれたんだ”」

その瞳が──赫く輝いた。

「……“呼ばれた”……?」

カンダタが蛇馬魚鬼に尋ねた。

「ほら、見ればいい」

男は巨人の膝元を指差す。

「──」

振り落とされ、なおも動くものも含めて……無数の蛇馬魚鬼が巨人の膝元に集まっている。
そして自ら巨人を登り、その礎となっているようだった。

「あすこにあるのはでっけえ“意思”さ……みなその意思をもってあすこに集まる──そして互いに潰し合うのさ、“自分たちと異なる意思を”」

──その言葉を真に受けるなら、ふたりの巨人の決闘はなるほど確かにその様に見える。

「……ではその“意思”とは何か」

「……知らねえよ」

カンダタの問いに男の答えは素っ気なかった。

「──ただ、結局、その題目なんざなんでもいいって感じだぜ」

「……」

「“自分は正しい”と証明することが出来るのならな」

不退転の巨人たちをその場に繋ぎ止めているのもまた、己が信ずる“正しさ”なのだ。
その“正しさ”の是非はどうあれ、退くというのは主張を撤回を示し、それは即ち“敗北”を意味する。

“敗北”を認める訳にはいかない。

故に人はその“正しさ”の補強の為に同意を求める。

そして最後には、数がただ多いものが勝利するのだ。

──その“正しさの是非”は別として。

「……連中、ああやって凝り固まることでしかてめえの在り方とやらを見失っちまうんだろうさ……結局ああなっちまったら、“てめえはどこにも居ねえ”ってのに」

「──貴様はここで何をしている」

「──“俺は、あんな連中と違うんだ”」

半身を埋めた男はそうほくそ笑む。

「俺はあんな、てめえの無え人間じゃねえんだ……俺はどっちにも迎合しねえッ!!」

男は力強く叫んだ。
だが巨人の雄叫びが、その残響を塗りつぶす。

「──“ではなぜ、貴様はここにいる?”」

「……ッ」

「──“まるでもの寂しそうに眺めているではないか”」

知恵者の猫は嘲笑を孕む言葉で追い立てる。

「……ああ、そうだよ……」

男は悔しそうに顔を歪めてその胸中を絞り出した。

「“今にも連中に混ざりたい!! 誰にも認められないのが苦しいからだ!!”」

「……」

「“でも俺は退くことが出来ない!! それは俺の負けを認めることになるからだ!!”」

男の慟哭に、巨人がその動きを止める。

「──愚かだろう……俺は負けてしまいたいんだ……もう、俺は……自分の足で立っていたくない……」

「──ではなぜだ、貴様はなぜ今もこうして自らを苦しめる」

「……それは」

──男は──否、“少年”は、赫く光る瞳を潤ませてカンダタを見た。

「──“約束”したんだ──おいらは──強くなるって──」

「……ッ」

少年は、強く拳を握り、震わせる。

「“おいらは、強い男になるンだッ!!”」

そして自らを鼓舞するために、腹のそこから絶叫する。

「──“あのひとを、護りたいから”──!!」

「────!」

カンダタの胸が、高鳴った。

痛みを感じるほどに。
全身が脈打つ程に。

──ああ、“生きている”。

その痛みが、脈動が、この身体が“生きている”と叫んでいる。

なぜだ。
なぜだ。
なぜだ。

──なぜ、こんなにも、“生きたい”──?

「……ッ!!」

カンダタが我に返ったのは、ふたりの巨人が明らかに、“眼下の少年”を見据えたからだ。

「────────!!」

「────────!!」

巨人が、“威嚇”する。

恐るべき敵を。

巨大な意思を。

「……!!」

少年の強固な思想を。
その主張を。

巨人は自身と異なる“敵”として認識した。

「──“救わねば”──」

先ほどまでの胸の高鳴りが嘘のように治まり、脳髄が冷たく冴え渡る。
恐怖に染まっていたカンダタの瞳は、今や慈愛と冷徹さを同時に孕んで愚かな巨人を見据えていた。

「──“救わねば”──!!」

立ち上る黄金の気が、波紋を描いて巨人の足元を包み込む。
その神々しき光が雲を割り、サハスララ山に沈み行く光が巨人を照らす。

そして、それをカンダタは見いだした。

──巨人に巻き付く、輝く“糸”を。

──骸を束ねる、蜘蛛の“糸”を。

「──《役割(ロール)》は《救者》──」

黄金の光が“救者”を包む。

「──《権能(ルール)》は──」

黄金の光が、少年を、騎士を、その手に構える異形の“剣”を照らし出す。

「──《離断》──ッ!!」

──閃光。

「────」

巨人を束ねる、糸が光に断ち斬られる。

そして、その“正しさ”を保てなくなった巨人は、末端から徐々に崩壊し始めた。

「──崩れるな。これは」

「……行こう!!」

降り始めた骸の雨から逃れる為に、二人は足を速め始める。

「──“君も”!!」

カンダタは、半身を埋めた少年に手を差し伸べた。

「……ッ!!」

「──“走れ”!!」

だが、その手を振り払い、少年はそう叫んだ。

「……!!」

「──“早く行けよ”ッ!!」

カンダタは混乱する。

救わねば。
救わねば。
救わねば──

「──《剪定(カット)》」

「っ!?」

鋏の音がしたかと思うと、少年の姿は遥か後方にあった。

骸の巨人が、瓦解する。

「何故──!?」

カンダタは叫び、手を伸ばす。

「──だってよ──」

少年は、微笑んだ。

「──ここで逃げたら、おいら──」

紅玉色の瞳が、斜陽に輝く。

「──“硬派”じゃねェから!!──」

……そして、少年の姿は、骸の山に消えていった。

「────────」

──カンダタは、その無力さに膝を突く。

言葉を失い、ただ零れ落ちる涙さえ、砂に呑まれて残らなかった。

「──“おめでとう、貴様は正しかった”」

「……っ」

「“さあ往け、貴様の思う正しき道を”」

騎士はそれだけ言うと、砂に隠れた道を歩み出す。

「──“正しさ”とは──なんだ──」

だが、カンダタのその言葉で足を止めた。

「──わたしの選択は正しかったのか──?」

「なればこそ貴様はここにまだ立っている」

「“違う”、わたしが未だここに在るのはあの“少年の選択”だ」

カンダタが声を荒げる。

「そしてわたしは──“僕は”、その選択が“正しかった”と思えない!!」

砂を握る。
血が滲む程に握り込む。

「──では貴様の“救済への道程”がここで途絶えるのが正しかったと?」

「“違う”!!」

カンダタが嗤う魔羅を睨む。

「“僕は彼に死んでほしくなかったんだ”!!」

慟哭混じりの言葉が、紅の空に消えた。

「──あれは蛇馬魚鬼だ。既に死人だよ」

「……ッ……」

「──だが貴様の言い分もわからないではない。あの少年の選択は貴様を生かしたが、故に貴様に重責を負わせたことも事実だ」

騎士は思い出したように、その手の剣を鞘に納めた。

「──“自己犠牲”とは、斯様に利己的な行為なのだな」

「────」

「故に貴様はかの少年の為に歩まねばなるまいよ。彼はそれを貴様に負わせたのだ。その歩みを止めることは彼の犠牲を無為にすることだ」

カンダタは浮かぬ表情のまま、騎士の言葉で立ち上がる。

「──“救う者”よ、貴様の“救済”が誰かに負わせるものの重さを、努(ユメ)忘るるな──」

思い足取りで、カンダタは骸の山を去る。
幾度も、幾度も、省みながら──

──“瞬間(とき)よ止まれ、汝は美しい”。

だが、止まってしまっては、その先には進めない。

如何にその瞬間が尊くとも、時は決して止まらない。

結末に向けて、走り続ける他に無いのだ。



月明かりだけを頼りに二人は夜通し歩き続け、空が白み始める頃にはスワディスタナの街に到着した。
ムラダナ渓谷へ向かう最後の街であるが、幸いにもこの街は蛇馬魚鬼禍から逃れ、生き残った人々が集まり避難生活を送っていた。
“救者”の到来を彼らは諸手を挙げて歓迎した。
そしてアジュナの街とほぼ同じ様に、彼らは赤の女王の圧政を嘆き、この末法の世の“救済”を願った。

……“救者”カンダタはそれを、より複雑な面持ちで受け止めた。




──ざわざわ、ざわざわ。
草花が風に歌う。

「……離してよ」

「いやだね」

「……」

空には、満天の星が輝いていた。

「……だって、この手を離したら」

「……」

「キミは……いなくなってしまうんだろう……?」

男はただ、その星を眺めたまま、そう応えた。

「……僕がどれだけそれで辛い思いするのかも知らないで……」

「ん、なんでだい?」

「きっとわからないよ」

男の顔には覚えがあった。
この長い旅路に於いて、忘れられぬ顔であった。

「じゃあ、ちゃんと──に帰ってから……研究することにするよ」

「?」

「君の思いがわかるように、研究成果をレポートしておかないと」

──あり得るはずのない記憶。

──知り得るはずのない記憶。

──なのに──何故──?



「……」

寒空の下──否、寒空の“中”、静かに星の瞬く夜空には、銀の鈴の音だけが響いている。

気づけば雲の切れ間から、月明かりが差していた。

「……ッ!!」

少年は、隣に座り直した彼の身体を強く抱きしめた。

「なんであんな無茶なことしたんだよおッ!!」

鼻を真っ赤に染めて、涙まで浮かべながら、少年は彼の身体に縋った。

「ったく、大げさだなあ」

そう悪態をつきながらも。

「でも……やめないで」

彼は、少年の背中に腕を回した。

「もう少しだけでいいから、このままで」

ああ、この言葉には覚えがある。
それはいつ聞いた言葉で、いつ告げた言葉であろう。

──あり得るはずのない記憶。

──知り得るはずのない記憶。

──なのに──何故──?



次に気付けば海の底に居た。
光すら届かない、深い深い、闇の底。

「でも……おいら……たぶん、まちがってたんだ……」

「ん? なにを?」

「だって……だって」

息も絶え絶えに、少年は泣きじゃくる。

「“女の──先輩”に……胸、借りられねえじゃねぇかよぉぉ……っ」

「……ふふ」

彼は少年を強く抱き締め──

「あはは」

小さく、笑った。 

「わッ、わらうんじゃねぇ……ッ!」

「あははっ、違う、違くて」

嘲笑うつもりは無かったが、その言葉が彼にはくすぐったかった。

そして嬉しくて、どこか恥ずかしかった。

「────、ズルしたなって思って」

「……なん、だよ……」

「──だけ先に大人になろうだなんて」

少年の三角の耳がピクリと立った。

「なッ、なんでズルなんだよッ……おいらは……先輩と……肩、並べたくて……」

「じゃあ、尚更じゃん」

彼は少年の涙を拭う。

「僕だってまだ子供だもん。──と一緒に大人になりたいし」

「──!!」

少年は真っ赤になった。

「ズルして大人になろうだなんて、“硬派”じゃないなあ」

そう笑う彼を小さく突き放し、真っ赤な顔を隠して少年は背を向けた。

「……違ぇねえなッ、ちくしょう!」

彼は、その様子に笑顔を溢す。

そして、次の刹那に、思い出す。
この少年は、あのときの──

──あり得るはずのない記憶。

──知り得るはずのない記憶。

──なのに──何故──?



「……なあ、──」

──何処とも解らぬ部屋の中で、その大男は、小さく呟いた。

「きっとまた……この“夢”が醒めたら──記憶が消えて、たぶんまた、ひ、独りぼっちに……戻る……と、思う」

そして、堰を切った様に、押し込めていた感情があふれ出す。

「そう思うと、すごく──怖い……怖え……よ……!」

大男の身体は、すこし、震えたかのようだった。

「……だいじょうぶだよ」

「────っ!」

彼は、そう言って大男を抱きしめた。

「また記憶がなくなっても、必ず──に会いに行く」

彼は、大男の胸板に頬を寄せて告げた。

「だってもう、“初めまして”じゃ、ないんだから」

「────」

その男を、彼は見たことが無いはずだった。

なのに、なのに、“覚えている”。

──あり得るはずのない記憶。

──知り得るはずのない記憶。

──なのに──何故──?

「────指先、焦げてる」

「……えっ、ああ……」

「……護って、くれたんだね……」

そしてこの胸中に、見ず知らずの感情が沸き上がる。
存在しない臓器が凭れているような、胸を焼くそんな苦痛に苛まれながら、それでもそれを“歓喜”に感じる、異様な感情だ。
そして、それが、あまりにも“名残惜しい”──

──それだけで言うならば、まるで今はもう叶わない、己が“師”との語らいを思い出す。
だが、その歓喜とはまた微かに異なった、どこか後ろめたい感情でもあった。

──これはなんだ?

──この、惜しくも苦しい、この感情は一体なんだ──?



「にゃあ」

──夢の果て、一匹の黒猫が彼を見上げて小さく鳴いた。

「────」

彼はそれを、どうすることも出来ないまま、ただ、静かに見据えていた。

ただ、ただ、何も出来ずに、見据えていた──



カンダタが目を醒ます。
見た夢に煮え切らない感情を抱いたまま、与えられた宿の部屋に同行者の姿を探す。

「────」

騎士は、それこそ猫の如く窓枠に座して外を眺めていた。
兜に装飾された魔獣の毛皮が、髪の様にふわりと風に踊る。
陽の光を浴びた鎧は、架空の宝石でも見ているかの様な奥行きある輝きを秘めている。

──騎士は自身を、赤の女王に産み出された兵隊であると答えた。
女王に人としての全てを奪われ、最後に心を奪われる前に逃げ果せたと。

──そして、自らは“演ずる者”だと──そう答えた。

「──長旅で身体も限界だろう。今しばらく休むが善い」

騎士は男とも女とも、子供とも青年ともつかぬ不気味な声で告げる。

「……いえ、いいのです」

「──」

カンダタは真っ直ぐ、騎士を見据えたまま答えた。

「──“演ずる者”よ、ひとつ教えて頂きたい」

「──」

「あなたがもし、“救者”を演じるのであれば──あなたは、如何に救うおつもりですか」

切実な問いかけに、騎士はしばらく思慮して答えた。

「──私は“演ずる者”だ。故に救済を与えることなど出来はしない──私は虚構だ。偽りの救いしか与えられない」

「……ならばおそらく、わたしも同じだ」

「──何?」

騎士が微かに顔を向けた。

「演ずる者よ、あなたは救済を望まれればそれを演じてくれるのだろう」

「如何にも。それが私の“役割(ロール)”だからだ」

「ならばわたしもきっと、救済を望まれているから“救者”なぞを“演じている”のだろうと」

カンダタは自虐的に微笑んだ。

「──“救う者”だと嘯いて、わたしは誰一人として救えていない──わたしの犯す過ちですら、“救者”と言うだけで皆が有り難がるだけなのだ……知恵者の猫、貴方にはさぞ滑稽に写るのでしょう」

艱難辛苦を噛み潰す笑みから目を背けるがごとく、騎士は再び窓の外に視線を落とす。

「──“死は救い”、そのような言葉もある──“来たれ、汝甘き死の時よ”」

「“僕はそうは思わない”──」

「……」

兜に隠れた騎士の表情はわからない。
だが明らかに、カンダタの姿から目を反らしていることだけは明らかだった。

「……貴様の想いは大切にすることだ……せめて私のように、先達の言葉に準える他に想いを紡ぐ術無き者にならないようにな」

「……」

騎士はそれ以上何も言わずに、静かに窓の外を眺めていた。

「──何が見えるのです?」

その視線が気になり、カンダタは騎士に歩み寄る。

「……」

階下に人だかりが出来ていた。

微かに聞こえる言葉に耳を澄ます。

──蛇馬魚鬼を──

「……蛇馬魚鬼!?」

「そう逸るな、様子が妙だ」

本来なら、その名を聞いただけで逃げ惑うはずの人々が、広場に集まったまま動かない。
その視線の集まる先に──カンダタはそれを見つけた。

「──!!」

それに気づいた次の瞬間には、既に彼は駆け出していた。
騎士はそれを黙って見過ごす。
その異様さすらも意に留める間もなく、カンダタは宿の外へと飛び出した。

「──“救者”さま!?」

「“救者”さまだ!!」

駆け寄るカンダタの姿に気づいた民たちが地割れのごとく道を空ける。

「────」

「……」

──その巨体は──明らかに歪に膨れ上がった筋肉に包まれた、“怪物”と形容すべき異様だった。

だが。

「────」

カンダタは、その怪物に、一歩一歩、歩み寄る。

「……」

その顔には、覚えがあった。

「──あなた──は──」

いや、覚えがあるはずがない。

はずがないのに、覚えている。

「……」

幾重にも縄に縛られた怪物が、項垂れた顔を微かに上げた。

「……」

その瞳が──赫く輝いた。

「……ォ……ォウ……ぉ」

「“怪物”ッ!!」

縄を引く屈強な男に押さえつけられ、怪物は無理矢理頭を垂れる。

「ま、待てッ」

“救者”の制止に、男は控えて縄を緩めた。

「……あなたは……」

「……」

──“怪物”は、おとなしかった。

その赫い瞳で、真っ直ぐにカンダタを見つめたまま、大きな身動ぎひとつしなかった。

「──この傷は──」

「街を襲う前にと討伐戦を行いました──だが“死”のない蛇馬魚鬼を滅するに至らず、捕らえるのが精一杯でした」

“怪物”の身体は満身創痍だ。
──だが、戦ってついた傷には見えない。
捕らわれた後に、一方的に痛めつけられたようにカンダタには見えた。

「討伐隊は無事ですか」

「はい、隊員みな怪我も無く──く、苦戦はしましたが」

「そうですか」

カンダタの口調は冷ややかだった。

「──何処かへ移送するのですか」

「はい、牛小屋に捕らえていましたが、破壊されるのは時間の問題と考え……このあと目を潰し、谷間の坑道を利用した迷宮へ封じる算段でした」

「……そうですか」

牛頭の怪物は、哀しげな瞳でカンダタを見る。
だが、哀しさの奥底に……何故か“安堵”の色が隠れていた。

「あッ、救者さま、危ない……!」

カンダタの手が、捕らわれた蛇馬魚鬼に触れる。

──“怪物”は、おとなしかった。

「……わたしは……“あなたを知っている”……?」

それは、当人たちにしか聞こえないほど小さな声だった。

「……ォウ……ぉお……」

怪物が呻く。
必死に唇を動かし、何かを伝えたがっている。

「──救者さま……!!」

「大丈夫です……蛇馬魚鬼と言えど、現世に未練を遺したもの……云いたいことがあるはずです」

「“怪物にそんなものはありません”!!」

街人の強い語気に、カンダタも、怪物自身も、心外な表情で振り向いた。

「それは“怪物”です、怪物が人の言葉を話すなどと……冒涜が過ぎます!」

「──」

同意の声が渦となって二人を取り囲む。

「……ァ……ゥオ……ッ」

「──舌を──」

この蛇馬魚鬼が、過剰なまでに痛めつけられた事実だけは明らかだった。
そしてそれは、この民たちの“総意”なのだ──
根差す感情は異質なるものの“恐怖”であろうか──いずれにせよ、この“怪物”がどうあれ、彼らには“敵”だった。

“敵”は完膚無きまで痛め付けなければならない。

それが“正義”の成される姿だ。

「──縄を解いて下さい」

「……何を……」

「わたしは“救う者”です。万人を救います。如何なる罪人、悪人、怪物であろうとも」

カンダタの身から、常人ならざる黄金の気が立ち上る。
それを見て──人々を畏怖の感情が包み込む。

「──“できません”」

「何故」

「それは──」

縄を解くことが、彼らの“正義”を否定することになるからだ。
いまのカンダタには、その程度の言い分は簡単に予想がつく。
そして彼らが、自らの罪を自分にさらけ出したくないことも。

──それが、この世か。

諂曲なる人々に対して、カンダタは、落胆の感情を顔には出さなかった。

「──あっ!!」

──黄金の気に当てられた縄が、ひとりでに千切れた。
縄の解けた“怪物”の復讐を恐れて、街人が一斉に距離を取る。

「──ァウォ──ッ──」

──だが、そうはならなかった。

「……ァ……ぅお……」

譫言のようになにかをしきりに繰り返しながら、歪んだ手を“救者”に伸ばす。

「──」

“救者”が、それに歩み寄る。

どよめきを意に介さず、“救者”は“怪物”の懐に入り、その歪な顔に触れた。

「──あぁ──」

そして、その双眸から、涙が零れた。

「……ごめん……僕には──こうしてやることしかできなくて」

「──ァウ──」

「それでも──君が望むのなら──」

怪物は、黙して“救者”を抱擁した。

穏やかな顔だった。

「──────」

強い気が二人を包んだかと思うと、“怪物”はそのまま、力が抜けたように倒れた。
投げ出された手の指がぼんやりと開き、微かに上下していた胸も動かなくなった。

「……ごめんな……」

最期まで、穏やかな表情を浮かべたままだった怪物に、救者は涙ながらそう告げた。

「──“救い”だ──」

「“救者”さまが──お救いになられた──」

──歓びの表情で、民たちが口々に称えた。

──どの口が言うか──カンダタは怒りを押し込める。

「おお、我らが救い主よ、救世主よ!」

「Om Maitreya Svaha!(おお、我が救世主よ!)」
「Om Maitreya Svaha!(おお、我が救世主よ!)」

──やめてくれ。

自分が成したのは、ただの“人殺し”に過ぎない。

これまでも、これまでもそうだった。

“僕は誰も救えない”。

ただ、殺してしまっただけなんだ。

「我らにも、我らにも救済を、救者さま!」

「救済を、救済を!」

救済を!
救済を!
救済を!
救済を!

「────やめろぉぉぉおお!!」

──カンダタの絶叫と共に、黄金の気が街中に波紋を広げた。

「……」

「……」

「……」

突然、騒いでいた群衆が、ぴたりとその動きを止めた。

「──“救われた”──」

──誰かが、そう呟いた。

「──“救われた”──」

「──“救われた”ぞぉぉおおお!!」

歓喜の絶叫と共に、民たちは一方向へ向けて走り出した!

「──い、一体──」

カンダタはその異様に戦慄し、辺りを見渡すことしか出来ない。
まるで肉食獣に追われる鹿の群れの如く、ただ、その顔に歓喜の表情を張り付けて、群衆が一方向へ向けて走っていく。

「ッ!」

何度かその肩が当たり、カンダタがよろめいた。

何かがまた、狂ってしまった。

その自責と恐怖に、カンダタは身を竦める。

「──往くぞ」

ほぼ群衆がいなくなり、土煙だけが残る広場に黒豹が飛び込んで来る。

「これは、一体──ッ」

「その顛末を見にいこうではないか──貴様の足では間に合わない。乗れ」

カンダタは促されるまま、黒豹の背に跨がった。

「首から手を離すなよ──」

黒騎士が転じた黒豹が、カンダタを乗せ黒き風になる。

街を抜け、街道を外れ、やがて走る民衆たちの後ろ姿にすがり付く。

──そして、二人は見た──

「──な、んで──」

「──」

──歓喜の声を挙げながら、谷底に身を投げていく人々の姿を──

“来たれ、汝甘き死の時よ”

次々と、次々と、人々は谷底に身を堕とす。
その顔に満面の笑みを張り付けて。

“世よ、汝の喜びはわが重荷なり”

黒豹の背を降りたカンダタは、それを止めようと歩み寄った。
しかし、とても止められるものではなかったのだ。

“わが望み、それは”

「──“救いたかった”──」

カンダタが譫言のごとく呟く。

「ただ、それだけなのに──」

“すでにすべて終わりぬ”

「──“生への執着が絶たれた”ようだな」

「……」

再び騎士の姿に転じた知恵者の猫が冷ややかに嗤う。

「ならば“死”とは最高の“救い”ではないか。餓えとも苦しみとも最早無縁だ、生きてさえ居なければ」

“わが神の望みとあらば”

──では何故ひとは産まれてくるのだ。

──何故産まれてきてまで苦しみ、そして救いを求めるのだ。

──何故、救いを他者に求めるのだ。

何故、何故、何故──

“たとえ肉体がこの世にて”

人々は歓喜の中で、次々と谷底に身を投げる。
まるで枷が外れたかのように軽やかだ。
肉体なる錨を捨てて、天上へ昇ろうと、皆、皆、鳥のように飛び出していく。

だが、その行き先は奈落だ。
重い肉体を抱えて皆、谷底の奈落へ堕ちてゆく。

その魂の行く先は本当に救済なのか?

それは“救者”にもわからない。

「────」

慟哭のなか、なにも出来ず、カンダタは最後の一人が谷底へ堕ちていくのを見つめるだけだった。

「──何故──」

「……貴様はあの様を見て、それでも“救える”と思ったのか……?」

騎士は問いかける。
その感情は伺い知れない。

「ただ貴様の与える救済を甘受するだけの諂曲な人間どもが、ただ恐ろしいと言うだけで同じ人間だったものを凌辱してなお、“救う価値がある”と思ったのか?」

「────」

「──貴様は正しく、“救い”を与えた──馬鹿は死なねば治らないのだからな」

騎士は踵を返す。

「──“人は努力する限り惑うもの”──」

「……」

「“彼らにも、思い直す機会はあったはずだ”」

自らの引用でそう返された騎士は、それに対する気の利いた答えを持ち合わせていなかった。

何故なら、騎士は物語を“演じる”ことでしかカンダタを導けない。
そして、カンダタの引用した物語の結末は皮肉なものだからだ。

“人は努力する限り惑うもの”

神の答えに、男は愚直なまでに応え──そして悪魔に魂を奪われた。

──本当は、その物語には続きがある。

騎士がそれを語らないのは、その結末が──いずれにせよ、望ましいものではないからだ。

その配役に自分は相応しくなく、かといって、その配役を他者に奪われたくはなかったのだ。

物語を、終わらせなければ。

だが、その意思はすなわち、演者の役割の終演を意味した。

「──“諦めよ”」

「……なんだと」

「──“貴様に世界は救えない”──」

騎士はそう告げ、街道を遡る。

「──教えてほしい」

「……」

「神と賭けをし、男の魂を手に入れた悪魔の名を」

──騎士はしばしの沈黙の後、こう応えた。

「──“メフィストフェレス”──」

その名を得たカンダタが立ち上がる。

「……では“メフィスト”よ、“契約”に基づき、汝に求め訴える」

「──」

「“わたしを、赤の女王の下へ”」

振り向いた騎士が見たカンダタの顔は、強い意思を秘めていた。

ああ、なんて酷い、なんて酷い展開だ。

「──“対価を捧げよ”」

「……“それは我が魂”……“救えない”とわたしが認めた時、この魂を永遠に捧げよう」

“演者”の“役割(ロール)”が、騎士の選択を縛り付ける。
騎士はいまや、“配役”を与えられてしまった。
その“演目”が、騎士の行動を制約する。

「──“ならばそのように演じよう”──」

騎士は、策に敗れた。
知恵者の猫、あるいは誘惑の魔羅、そして悪魔メフィストフェレスの重合が、騎士の在り方を決定付ける。
縺れて歪んだ“物語”に相応しい、実に相応しい狂言廻しだ。
これで騎士は、この主役を結末まで導かねばならない。

それは、騎士に残された仄かな望みを打ち砕く展開だった。



ムラダナ渓谷は霊峰サハスララの真逆に位置し、サハスララから流れるプラナ河の最下流に当たる。
二つに分かたれた断崖の山に挟まれたその谷底に、赤の女王は確かに城を構えていた。

「────」

だが、河は渇れ、草一本生えず──なにより。

「──これは」

谷合の中央に鎮座するその城は、建物とも植物ともつかない“黒鋳薔薇の城”だったのだ。
二つの山に根を落とし、そこに至る道程の総てを鋭い鋳薔薇の蔦が包む。
生身では到底辿り着くことは叶わない。

「……ッ」

それでも、歩みを止めることは出来ない。

救わなければ。
救わなければ。
救わなければ。
救わなければ。

「──やめておけ」

たとえこの身が引き裂かれようと城へ向かわんとするカンダタを騎士が制した。

「それでも──」

カンダタの言葉を遮るように、騎士が足元で餓え死んだ鼠の遺骸を鋳薔薇に投げ込む。

「ッ!!」

それはもうもうと煙を立てて、骨すら遺さず融けて消えた。

「──凄まじい拒絶の呪詛が形を結んだものだ──只の鋳薔薇ではない」

「……ッ」

歯噛みしながらカンダタが後退る。

「私が城を抜ける時にも難儀したが……より強化されているな。私の鎧でもこれは保つまい」

「だがッ──それでも──」

「“諦めよ”」

騎士が剣を抜いた。

「──ああ、期待するだけ無駄だ。この剣が“剪定”できるのはわかりきった結末までの行程だ。どちらにせよ、あの城には到達できんよ」

「……ッ」

「ここまでご苦労だった、生憎物語はここで“打ち切り”のようだな……心を打ち砕かれてなお、よくぞここにたどり着いたものだが」

カンダタが憤怒の形相で騎士を睨む。

「──こうなると判って──僕を──」

「いいや? だが“演ずる者”として、演目への理解はしているつもりだし、これがこの演目の結末ならばそれに従う」

淡々と騎士は吐き捨てた。

「それに“メフィストフェレス”を演じよと命じたのは貴様ではないか。“ファウスト”の結末は語った通りだぞ」

遠雷がカンダタを嘲笑う。

「あるいは“カンダタ”を演ずる者よ、貴様はすでに蜘蛛の糸に群がる群衆を先の谷で切り捨てたではないか。それとも物語のカンダタ同様、貴様も共に地獄へと堕ちたのではないか?」

「違う──違う!!」

「“生じてきたいっさいのものは、滅びてさしつかえのないものだ。それを考えれば、何も生じてこないほうがましというものだ”。その一切衆生を“救う”ことに何の意味がある?」

“メフィストフェレス”はそう嗤う。

「あるいは演目を変えてやろうか──“ユディットとホロフェルネス”などどうか? 私は貴様の首をこの剣にて斬り落とし、その首を以て赤の女王の元へと凱旋しよう!」

「そうは──いかない──!!」

「では今しばらく“メフィストフェレス”を演じてやろう! “最後の難関を越えるには、忍耐と機智が必要でございます。何事も、もう一息というところが苛烈なものでございます”!」

芝居ががった身ぶりで、悪魔は殺気を撒き散らす。

「“さあ、起きろ、起きるんだよ、髪を思いっきり振って眠気を落とすんだ”!」

明らかな敵意に、カンダタは身構える。

「──僕は、皆を──“救うんだ”!!」

「──まだ言うか、沙門」

カンダタの身体を、“救者”の気が包む。

救わなければ。
救わなければ。
救わなければ。
救わなければ。

「──では果たして“何を救う”──」

「──ッ」

「今一度問おう、この世界の“救済”とは何だ?」

騎士が剣を構えた。
昏い、昏い気が、渦を巻いて“救者”の気とせめぎ合う!



「答えよ沙門──否、“左門 ヤクモ”ッ!!」




最終更新:2020年03月07日 03:36