ひとりの青年が、深夜特急に揺られている。
年齢にしておよそ二十歳を過ぎた程、その若さのわりに、表情はどこか重く、疲れているようだった。
席の傍らに投げ出された大きな鞄には、それほど対したものは詰めていない。
纏う薄汚れた服は、二日前に解雇を言い渡されたばかりの運送会社の制服である。
見渡す車内には青年の他に旅客はいない。
ただ、くたびれた一人の青年が、流れ行く街灯の光を虚ろな瞳で眺めているばかりだった。
青年は名を
イグナシオ・タナカと言う。
日系の何世であるかは彼の親すら忘れてしまった程度の事柄であるが、その痕跡たる特徴的なファミリー・ネームはしばしば彼に災難をもたらした。
このことからも解るように、彼の二十数年の人生遍歴にはことごとく理不尽で不運なできごとばかりが連なる。
人並みに真面目なつもりではあるが、彼がなにかで評価を受けた経験はあまりにも少ない。
それは別に彼が何かしら能力に劣るわけでも、性格的に問題があるからでもなく、ただそうしたチャンスやタイミングに恵まれてこなかったというだけの不運でしかない。
ただそれだけの、どうしようもない不運。
それ故の劣等感というものが、彼の心を苛んでいる。
父親の死を告げられたのは五年も前の話だった。
その時すでに歳の離れた兄は成人しており、社会的な安定を得ていた為に大黒柱を失ってなお、彼の家庭はどうにか持ち堪えることが出来た。
その事実、あるいは伴侶を失った寂しさと焦燥があった故か、母親はイグナシオ青年とその兄を事あるごとに比較する。
それは母親なりの愛情のつもりであると言った。
柱を失い、いつ崩れるやも解らぬ家庭からしっかりと自立してほしいという想い。
兄が勝ち得た成功経験に対する自負、弟にも同じように大成してほしいという切なる願い。
それらはイグナシオ青年にとっては相応のプレッシャーとしてのし掛かった。
正直なところを言えば、イグナシオ青年には彼の兄のような類稀な努力家としての才能も無ければ、それを維持しうる成功体験にも欠けていた。
ただ“平凡である”というそれだけの事が、彼の存在意義の根本を揺るがしている事には、兄も母も気づけなかったのだろう。
そのプレッシャーさえ無ければ、彼は平凡ながらそれなりに安定した職に就けたのかもしれない。
だが彼に求められる人一倍、いや人三倍以上の努力は着実に彼を病ませていた。
その空回りした彼の努力や、虚栄にも見える強制された向上心アピール等が、彼の社会的地位を地に落とす結果となる。
幾度目かの解雇通告の後、耐えかねた彼は遂に母親と口論になった。
だか愛の後ろ楯を持つ母親を論破するのに、彼は既に自信も虚栄も失っていた。
もはやこの“家”は彼にとっては牢獄に等しかった。
“女手ひとつで育ててくれた、その不安を汲んであげないと”
母の愛を理解する出来の良い兄はそう諭す。
だがその愛はまるで看守と囚人のそれのごとく、どこか歪で一方的に感じられた。
家族の言い分の正しさは理解できるし、それが自身の未来のためと言うのならばそうなのだろう。
でも、それでも、何故自分は責められなければならないのだろう。
イグナシオ青年が腑に落ちないのは、その一点が決して解消されないからだ。
努力をしていないわけではない。
むしろその是非こそ別として、彼は誰より努力してきた。
ただ一つ、彼はことごとく不運だった。
その、自力では解消できないファクターを改善せよと責め立てたところで、彼はまたその理不尽に苛まれるだけなのだから。
青年が最後に勤めたのはそこそこ大きな運送会社だった。
勤続期間にして三ヶ月、そもそもまともな研修も職業訓練も組まれておらず、言われるがままに指定した納品先が間違っていた責と、その他身に覚えのない数々の炎上案件に対する責に巻き込まれてそのまま解雇と相成った。
そも、そのような劣悪な職場環境で続けていける自信が彼には無かった。
それでも彼の自尊心は職場と家庭の板挟みでことごとく傷つけられ、かつ失業という最悪の結果の渦中にある。
それが今、こうして深夜特急にひとり揺られ、虚ろな目で窓の外を見つめるくたびれた青年の子細である。
──未だ暗い窓の外に、イグナシオ青年は亡き父を思う。
彼の父親は船乗りだった。
一度出掛けると半年は家に帰って来なかった。
それでも父親は家族を愛していた。
そう言葉なくして伝わるだけの態度を決して崩さなかった。
イグナシオ少年は、その中でも格別に父親の愛情を注がれていたと母親と兄は語った。
父親が家に帰ったその翌日には必ず何処かへ遊びに連れ出された。
イグナシオ・タナカの胸にはそんな折に父親が呟いたひとつの言葉が延々と残っている。
──「宇宙(うみ)はいいぞ」と。
最後に見た父親の顔は深く疲れているようで、目もどこかに虚ろだった。
受け答えも少し曖昧だった父親の様子に恐怖を覚えて、最後の日にはあまり口を利かなかった。
──どこか体調でも悪いのだろうか。
そんな思いより、記憶の中の父親との乖離が恐ろしかったのかもしれない。
送り出しの朝でさえも、イグナシオ少年は寝たふりをしてベッドから起き上がらなかった。
記憶の中に居る父親が、上書きされてしまうことを恐れての拒絶だった。
父親はそれきり帰ってこなかった。
今も、どこか遠い宇宙に漂っているのだと母親は言った。
──ある古い映画がある。
無実の罪で中東の刑務所に入れられた米国人の男は、釈放の日を夢見て三年もの間、暴力と理不尽を耐え抜くが、中東と米国の関係悪化によって刑期が三十年に延長される。
絶望に打ちひしがれる男に刑務所仲間がこう呟いた。
「この刑務所に入れられたら、半病人になるか“深夜特急に乗るか”のどちらかだ──」
囚人服にも等しかった前職場の制服を身に纏い、虚ろな目で青年はひとり、深夜特急に揺られている。
青年はただ、父に逢いたかった。
そして父の遺した言葉の真意を求めて、彼は港を目指す。
中東の刑務所に於て、“深夜特急(Midnight Express)に乗る”という言葉は、“脱獄”を意味する隠語だった。
「おはようございます──」
未だ夜も明けきらぬ蒼暗い空の下、薄汚れた運送会社の制服を纏った青年が、港のゲートで警備員に声をかける。
「何?」
「ラピッドアクセス社ですが、昨日の最終便で納品しましたサモトラケ・エイジアのコンテナの解錠コードにミスがあるとご連絡を頂きまして」
警備員は怪訝な顔をする。
「はァ!? 連絡来てねぇけど……なんか書類ある?」
「それがサモトラケのミスで別の車が持ってったみたいで……」
「クソがッ、またサモトラケかよ! 出港まで時間がねぇンだからよ……」
警備員は苛立たしげにゲートを開く。
「書き換え終わったらすぐ戻れよ、通行書ねぇのに開けたってドヤされたくねェからなあ!」
「ありがとうございます、助かります!」
運送会社の青年はゲートを潜り、足早に駆けていく。
「おいコンテナは──」
「E-6集積所です! 大丈夫!」
この場所には過去に数度納品に来たことがある。
そして同じような内容の尻拭いをさせられたことだってある。
青年の嘘がまかり通る程にはこの港も腐っているのだろう。
運輸系の業態は今や閑散期など夢のまた夢、自動化がどれだけ進んでも人手不足には変わらない。
横行するその場逃れの空気の隙間を潜り抜け、イグナシオ青年は港への侵入に成功した。
血気の濃そうな港の男たちや警備車両の目から逃れつつ、未だ暗い夜明けの影に隠れて青年は目的のコンテナを探す。
「──サモトラケ・エイジア……あった」
過去に同車した酒癖の悪く悪態が鼻につく好ましくないドライバーが、酒がらみついでに語っていたことがある。
“サモトラケ・エイジア社の検体用冷蔵(リーファー)コンテナはセキュリティが緩い”
“だから、業者の間ではこっそり密輸に利用している奴がいる”
“サモトラケはでかくてガサツな会社だから、足がつくことはほとんどない”──と。
携帯端末とコンテナのコンソールを有線で繋ぎ、運送会社の暗号鍵アプリを立ち上げる。
「──やっぱり」
こんな重要なアプリケーションを個人携帯端末に入れさせた上、解雇したはずの彼のアカウントはまだ生きている。
青年はいとも容易くリーファーコンテナのロックを解錠した。
設定温度は六度、耐えられない温度ではないはずだ。
──青年は意を決して、コンテナの中へと潜り込む。
そして扉を内側から閉めると、即座に彼は鞄に詰めていたジャンパーを着込み、同時に飛び出た寝袋の中に潜り込んだ。
この場所に来た目的は、あまりにも稚拙で大胆な“密航”にあったのだ。
かつて、宇宙は“地から手の届かぬ場所”として“そら”に例えられた。
地表から高度100kmの先、そのさらに向こう、深遠なる宇宙への挑戦は人類史においてあまりにも小さな一歩の積み重ねでしかなかった。
地球の重力、自らの質量の壁を莫大な燃料と金を費やして突き破り、そうして得られたものはあまりにもわずかな宝だった。
だが人が翼を欲するように、“そら”は常に、見果てぬ夢と情熱とを掻き立てた。
手の届かぬ先へ、宇宙への“浪漫”は消えなかった。
いま、宇宙は“うみ”に例えられる。
どこか知らない彼方から“宇宙鯨”がやって来て、広大な宇宙に横たわる長大な距離を“食べてしまった”。
そんな馬鹿げたお伽噺のような出来事が、この太陽系では起こったのだ。
月面軌道で暫く佇んでいたそれを、いまの老人世代は地表から肉眼で見てとれたと言う。
こうして宇宙鯨が食い破った“宇宙の孔”は、やがてやって来たお節介な使者たちによって整備され、地球人類は大宇宙なる海原へと漕ぎ出す権利を得た。
「おめでとう、幸運な人々」
次なる発展の機会を得た人類に、“異星文明の使者”──地球人が揶揄するところの“ペイガン(異教徒)”はそう告げていった。
こうして始まった大航宙時代であるが、距離の壁を乗り越えてなお、人類は未だ地球というゆりかごから逃れられずにいる。
ただ経済に関して言えば、地球の枠組みに囚われない莫大な資源を他惑星から得られると言う事実が消費と物流とを高次元に進歩させた。
クリーンで無尽蔵のエネルギー、あらゆる新素材の誕生──
そして異星文明からもたらされる新次元のテクノロジー。
時代はたしかに飛躍した。
それでもまだ、車は地上を走っている。
それでもまだ、旅客機が空を飛び交っている。
──ただ唯一、“海”を行く“船”だけが。
無限の宇宙、星の大海を往く権利を与えられた。
物流の王と謡われてきたコンテナ船は、宇宙時代になってもその座を譲る気配は無い。
外宇宙への進出口、所謂“ホエールライン空間”と呼ばれる三次元の隙間を航行するためのデバイスの小型化、効率化が難しく、必然的に船舶クラスの構造体に搭載が限定されることから、現状、地球で使われる宇宙船の多くが船舶の設計を流用して製造されている。
そもそも、荷の積み降ろしに既存の湾岸設備を利用できることが最大のメリットでもあった。
宇宙船の係留に新しい設備を必要とせず、既存の物流ルートを外宇宙に拡大できることは産業に新たな革命をもたらしたと言える。
イグナシオ・タナカが確認したこのコンテナの行き先は天王星と書かれていた。
──天王星。
それは彼の父親が、最後に告げた行き先であった。
青色の雲の下にダイヤモンドの雨が降る。
詩的なその光景を、父親は虚ろな目で告げていた。
父親の死を、イグナシオ・タナカは未だ飲み込めずにいるのかもしれない。
手の届かない空の向こう、それこそ天王星にたどり着けさえしたならば、もしかしたら父に逢えるかもしれない。
そんな奇跡は無かったとしても、父親が見た宇宙にたどり着くことが出来たなら、もう心残りも消えるだろう。
ただ、彼は逃げ出したかった。
家庭や社会という牢獄からの脱獄こそが目的であり、その先に待つのが例えほんとうの牢獄だとしても。
すべてを失うその前に、彼は宇宙(うみ)を見ておきたかった。
その想いひとつが彼を“密航”に駆り立てたのだ。
「ッ!!」
コンテナが揺れた。
おそらくガントリー・クレーンが、船への積み込みを始めたのだろう。
「────」
逸る気持ちを圧し殺して、青年は冷気に耐える。
冷えきった身体の感覚はなくなりつつあり、異様な眠気が彼を襲う。
やがて大きな金属音の後、揺れは収まったように感じ取れた。
「……大丈夫、大丈夫、大丈夫……」
イグナシオ・タナカはそう繰り返す。
船が宇宙に出るまでの、ほんの数時間の間を耐えればいいだけの話だ。
そのあとは、なるようになればいい。
「……フゥー……」
吸う息で肺が凍りつきそうな感覚だけが、暗闇のなかで自分の輪郭を思わせる。
ただ、数時間の辛抱だ。
そう頭のなかで反芻しながら、青年は浅はかにも眼を閉じる。
──それは僅か数分の出来事のように彼は思えた。
実際には一時間程の合間があったのだが、青年がその時点で目を醒ます事が出来たのは、不運続きの彼の人生に於てあまりにも幸運であったと言わざるを得ない。
「……あれ」
顔中が凍りついている。
それは、揶揄ではなく、表情筋を微かに動かしただけでも何か霜の様なものが落ちていく感覚があったことから事実のようであった。
「……あれ!?」
寝袋姿のまま上体を起こせば、床面に張りついていた背中がバリバリと音を立てた。
──おかしい、何かがおかしい。
咄嗟に彼は寝袋を脱ぎ捨て、携帯端末を取り出した。
ディスプレイのバックライトに、霜ついた周囲がキラキラと輝く。
「──ヤバイヤバイヤバイヤバイ!」
血の通わない痺れた肢体を無理矢理に動かして、凍る床に脚をとられながらも彼は内壁のコンソールにかじりつく。
内部温度は、マイナス五十二度。
おそらく、港から船に搭載された時点で電源が切り替わり、予備冷却から本来の温度まで冷却するようプログラムされていたのだろう。
──凍死。
唐突な死のヴィジョンが青年をパニックに陥れた。
とにかく、脱出しなければ。
青年は迷わず、緊急解放のコマンドを実行した。
「──!!」
──BEEP!! BEEP!! BEEP!!
けたたましい警報がコンソールから鳴り響く。
同時に、コンテナの扉が僅かに開き、差し込む光に凍りついた周囲が煌めく。
安堵のため息が白く輝くのも束の間、青年は新たな不運に見舞われた。
「──開かない!?」
扉に手を突いた直後、激しい金属音と共にそれは阻まれた。
青年は知らない。
船に積み込まれたコンテナは荷崩れを起こさぬよう、ラッシング・バーと呼ばれる金属棒でしっかりと固定されているのだ。
「……なんで」
絶望に満ちたその呟きも、警報音に掻き消された。
「……うそ、だろ……」
わずかに開いた隙間から、差し込む光があまりに眩しい。
これが最期に見る光かと、青年は呆然と眺めていた──
「──った、あった、またサモトラケか──」
……わずかに、声が聞こえた。
「──!!」
「ラッシング外すぞー、ったくよ──」
誰かがコンテナ扉の異常開閉に気づいたようだ。
この状況下にあってなお、青年の心臓は驚きにズキリと疼く。
そして冷えきった脳髄のなかで、焦りと恐怖が反響する。
──密航が、バレる。
「た、助けてぇ……助けてぇッ!!」
しかしイグナシオ・タナカは、凍える声帯を全力で震わせて叫んでいた。
「──待ってボルトっ、人がいる!!」
「あ──!? 嘘だろ、リーファーコンテナだぞ!?」
激しくぶつかる金属音の直後、扉が開け放たれた。
「──!!」
瞬間的に飛び込んでくる、男のシルエット。
大別するなら、大、小。
「助かっ──」
青年はたまらず飛び出してから気がついた。
──高い。
「たぁぁあああああああ────」
自分の潜んでいたコンテナが、他のコンテナの上に積まれているという可能性を、イグナシオ・タナカは完全に失念していた。
「ああああああ────────!!」
──甲板が迫り来る。
そこで、彼の意識は途絶えた。
「──!!」
すさまじく恐ろしい夢から覚醒したかのように、未だ夢から覚められていない身体が言うことを聞かずにのたうち回ろうとする。
「っ、起きた、落ち着いて!」
知らない男の声と共に、青年は両肩を押さえられる。
「──はい目ェ閉じる、ゆーっくり深呼吸するよー」
また別の男の声。
ラバー製の手袋のようなものが青年の目を覆う。
「──すー、はー、すー、はー、そうそう、上手だよー」
抑揚の柔らかい、まるで子供でもあやすような、落ち着き払った声に、否応なく従う。
と、同時に、パニックから抜け出した頭に肉体もついてくる。
──だが、動けない。
「はい、もう大丈夫だろう、目ェ開けてみ」
眩しさに顔をしかめながら、辺りを見渡す。
男、男、男、見える範囲に、屈強そうな男が、およそ四人。
大別するなら、大、小、肉、医者。
「大丈夫、というか──頭、大丈夫?」
「──あ、はい、はっきりしてます」
「じゃなくて」
医者風の男がため息混じりにそう吐いた。
「リーファーコンテナで寝てるとか、どういう神経してんだよッて話をしてンだよ!」
並ぶなかで一番小柄な青年がドスを効かせた声でつっかかった。
「落ち着きなよ、怯えてるじゃんか」
それを制止したのは最も大柄な青年だった。
そしてその後方、最も恰幅の良い男が、太い腹を抱えて爆笑している。
「──さて、船長が出てこないけど適当に始めますか」
「きみ、お名前は?」
「──イグナシオ、タナカ」
タナカの名前を聞いて太った男が再び吹き出した。
「……で、タナカくん、密航の目的は?」
「い、いや、あの、そんなつもりはなくて、作業中にその、閉じ込められてしまって」
出任せの言い逃れにしても苦しい言い訳だった。
「──その割に寝袋だなんだとずいぶんご用意のよいことで……コールドスリープでもするつもりだったのか? 緊急解錠のやり方も知ってたのに?」
「ほら、やめなよ……ほんとうの事かもしれないだろ、俺たちが判断することじゃないよ」
筋肉の塊のような大柄の男、ブライアン・フェルディナンド・ストロガノフ操舵士が制止した。
「だァッはっは、まぁ、あらかたガキの肝試しのつもりだったんだろ、大目に見てやろうぜ」
「──馬鹿オヤジ、こんなナリしてテロリストかもしれないんだぞ」
「一応エコーで腹の中は見たよ、プラスチック爆弾もコンドーム詰めの麻薬も無し、だから余計不可解なんだよね」
アビゲイル・コルモルトがタナカに再び問いかける。
「──なんで密航なんかしたの。高跳び?」
「いえ、それは……」
それらの追求を遮るように、別の靴音が近づいてきた。
「……」
そして、新たな男はタナカの顔を覗き込んだ。
「……ふーん」
眠たそうと揶揄できるほど眼の細い、どこか胡散臭い中年の男だ。
体格はがっしりとしていて、ストロガノフ程ではないにしろ、筋肉量は多く見える。
「──ゲイル」
「はい、船長(キャプテン)」
「めし」
その応えに全員がずっこけた。
「……食堂の冷蔵庫に軽食が入ってるけどその前にやることがあるはずだよね」
「やったー」
「話聞いててワザとやってるよね、オレ、君のそういうところ嫌いだよ?」
キャプテンと呼ばれた男は首を傾げる。
「……ま、いいんじゃない?」
「良くねェよ!」
ヴォルフレットが食って掛かる。
「別に驚異レベル高くないんだろ、自爆テロでも麻薬密輸でもない」
ぼーっとした口調だが、妙にずっしりと重い語気でキャプテンは反論する。
「わかんないよ、逃亡中の殺人犯とか」
「だとしたら逃亡するまで僕たちは安全だよね、せっかく手に入れたアシをワザワザ止めるような真似はしないだろうし、それに」
キャプテンが再びタナカを一瞥する。
「ぶっちゃけそんなタマなさそうだよね」
「言えてるけど」
さんざんな言われようだが、反論もできない。
しかし、イグナシオ・タナカは、自らの目的を諦めることができなかった。
生来の諦めの悪さか、あるいは目的に対して空回りしがちなその性根故か。
「……が、……くて」
「……何?」
──どのみち、信じてもらえないことは承知の上で、かつ、理由にもならないとは理解していても。
タナカは、声を絞り出す。
「……宇宙(うみ)が、見たくて」
「……」
──全員が、口を閉ざした。
「……父が、船乗りでした」
そして、互いに顔を見合わせた。
「船は、帰ってきませんでした。天王星に行くと言って」
イグナシオ・タナカの語る言葉は、だんだん湿り気を帯びていく。
「……見てみたいんです。一度でいいから……父が行くはずだった、天王星を」
「────」
キャプテンは、いや、その場に居る誰もが応えなかった。
「──でだ船長、あと十分で最初の“灯台”の圏内に入るぞ、どうする」
空気を断つ大吾郎の言葉に、キャプテンは少し思慮して応じた。
「──予定通りにホエールラインに突入する。納期は遅らせられないし、どのみち警備公社に引き渡すにしても次の火星でないと間に合わない」
そして改めて、タナカを一瞥する。
「あ……っ」
異様な存在感を放つこの男の雰囲気に、タナカは若干の恐怖を覚えた。
「……それ、取ってあげたら?」
「え?」
だが一方でその“凄味”のかけらもない、まるで眠いのではないかと錯覚するような糸目でキャプテンは促す。
「見たいんでしょ、宇宙」
「……は、はい」
頷くタナカに、渋々ドクター・コルモルトはストレッチャーのベルトを外す。
「……知らねえぞ」
悪態をついたサールタリア整備長兼機関長にキャプテンは微笑みで返す。
「どのみち、この宇宙(うみ)でヘマしたら死ぬからね、いいんじゃん?」
「え」
「キャプテン、“灯台”が見えた。やるならやろうぜ」
大吾郎一級航宙士の声に全員が動き出す。
「よし、総員進入準備。配置に付け」
キャプテンのひと声で、全員が何かしらの機材にかじりついた。
どうやらここはコンテナ船のブリッジのようだ。
窓の外には一面の海原が広がり、眼前には彼らが“灯台”と呼んでいるのであろう何らかの構造物が遠くに見える。
「まあ、君はどっかにつかまっててくれればいいよ」
と、タナカに言い放つと、キャプテンは背筋を正して正面を睨む。
「第一から第四ジェネレータ、出力90%に上昇、PPATHOS(パトス)ドライヴ、アンカーバイパス開け」
「了解、第一から第四ジェネレータ出力90%、バイパス解放」
どこかで、マシンの唸りが聞こえた、気がした。
「“灯台”より空間変位予報受信、メインパス確保、モニターにインポーズ開始」
「フィールド展開、“ホエールアンカー”投錨用意」
眼前の光景に、ワイヤーフレームで表現される何かの揺らぎのごとき光景が重なる。
「フィールド変動率、空間変位予報とリンク開始、セーフティチェック開始」
「投錨準備完了、アンカーの射出タイミングを操舵士に一任」
「了解──投錨します」
船首から、鎖で繋がれた何かが“灯台”めがけて飛び出し、その先端が光って消えた。
「“ホエールライン”アンカー完了。相対速度維持、
ワイヤー巻き上げ開始」
「PPATHOSフィールド変動率固定。セーフティチェックオールグリーン」
「“ACCモビーディック”浮上開始、各員、耐振動防御」
船体が僅かに軋む音と共に、水面がみるみる離れていく。
全長三百五十メートルの鋼鉄の塊が、地球の重量の軛を外れて浮かび上がる。
「シークエンス開始、ホエールライン突入まで二十秒」
奇妙な上昇感に耐えながら、タナカはふと、傍らに立つキャプテンの表情を覗き見る。
「十五秒──十、九、八、七」
その表情を、タナカは、なにか“満足げだ”と読み取った。
「六、五、四、三、二、一、────」
そしてその面影を、なぜかタナカは父親に重ねていた。
「────」
一瞬の閃光の後に広がる光景を、イグナシオ・タナカは呆然と見つめている。
彼の連想したイメージに言葉を借りるなら、それはバーチャルな海で出来たチューブだ。
ホエールライン。
それは“宇宙鯨”が三次元空間を“食べた”ことによって空いた“孔”を、空間が“四次元立体的に折り畳まれることで塞いだ”ことで出来た“折り畳まれた空間”を呼称する言葉である。
その性質を使い、折り畳まれたその“隙間”を通ることで三次元空間の距離を短縮する技術を、人類は異星文明人(ペイガン)に与えられた。
このホエールラインを通じるならば、地球~天王星間、約三十五億キロメートルを概ね八十日で往復出来るとされている。
「──すごい」
船窓にかじりつき、タナカはそう呟いた。
「ゲイル、めし」
「はいはい、ったく……緊張感の無いことで」
ゲイルことコルモルト医師はキャプテンのわがままに付き合わされ、ブリッジを去っていった。
「ゴローさん、オートパイロット設定します」
「おつかれガノフ、プログラム実行、オートラン開始確認、と」
一仕事終えて緊張が解けたのか、船員達は各々をニックネームで呼び始める。
「あっそうだ」
ゲイルがドアの向こうから顔だけ出して告げる。
「キャプテンの餌付けが終わるまでボルトは密航者の監視、そのあとはオレがメディカルチェック込みで引き継ぐ」
「お、おれェ!?」
ヘアバンドの男が心底嫌そうに応じた。
「とりあえず二等客室ひとつ開けたらしいから、そこにでも放り込んどいて。キャプテンは驚異レベル皆無と判断するってさ」
ゲイルは一方的に告げて居なくなった。
「……」
「……」
タナカとボルトは気まずそうに目を合わせる。
「……宇宙、見れたかよ」
「えっあッ」
ボルトことヴォルフレッドは、そう呟いて船窓に視線を逃がす。
それにつられて、タナカは再び窓の外を見た。
虹色に光るバーチャルな海。
「──今、もう月くらいですか」
「……さぁてね。ホエールラインはメチャクチャに折り畳まれた三次元空間だから、物理的に今どの辺りにいるかってのは説明できない」
ボルトはぶっきらぼうな割に、どこか得意気に語り出す。
「そもそも窓の外の光景も、PPATHOS(遍在空間均質化)フィールドを通して可視光がそんな風に見えるってだけでほんとうの宇宙の見た目じゃない、そんなんでよかったのか?」
若干の皮肉混じりにボルトは捲し立てる。
「──いいんです」
だがタナカは、食い入るように窓の外を見つめていた。
「父さんが見た光景だから」
「……」
ボルトはそれ以上の詮索を諦めた。
エイハブ・コズミック・キャリアー所属、大型航宙コンテナ船、AAC Mobydick(モビーディック)。
全長約三百五十メートル、総重量約十二トン。
最大積載量九千五百九十二TEU。
重力下航行、すなわち、地球上を自力で離発着する能力を持つ船では最大クラスの規模を誇る。
今時珍しいフリーランスの輸送船で、電子産業最大手であるエノ・ミレニアム社や、同じく生化学工業大手、最近の経営方針転換で悪い噂の耐えないサモトラケ・エイジアなどの多国籍企業も顧客として名を連ねる。
現在の通常船員数は五名。
船の多くの部分がオートメーション化されており、このような最小人数でも一応運用は可能である。
いま、航宙技術がほぼ完成されたとは言え、ホエールラインを行き交う商船はモビーディックのような運輸船ぐらいしか無く、あとは港の牽引船(タグ)や、警備公社の巡視船が僅かに点在する程度である。
そもそも地球以外の惑星は未だ研究と開拓の途上であり、旅客船や貨客船は各惑星のスペースポート職員の数ヵ月に一度の交代程度にしか利用されないほどの数しかない。
故に、なにか突発的な事情で地球外惑星への渡航が必要になると、コンテナ船等の定期便に便乗を依頼する、ということがしばしば発生する。
モビーディックにもそのような場合に備えた客室が一応用意されており、そのうちのひとつがキャプテンよりタナカに割り振られた。
「──いいか、ひとまずゲイルのメディカルチェックがあるまでお前は軟禁する。あるものはベッド、窓、以上だ」
「あ、はい」
タナカの私物、すなわち密航の際に使用したジャンパーや寝袋等は既に部屋に固められていた。
「なんか、すみません……」
そう頭を下げたタナカに、ボルトは少し不機嫌な様子で言い返す。
「すみませんじゃねぇよ密航者、こちとら仕事の妨害されてンだぞ、ただでさえ運送中に開いたコンテナについての始末書も書かなきゃならねェし」
「あ、はい……」
「あ、はい、でもねぇよ、そもそも素性のわからねェやつを最低七日も拘束する労力考えろ、目的もわからねぇ、どっかに爆弾しかけてあっても未知の病原菌に罹患しててもおかしくねぇ奴だぞ、迷惑どころじゃすまねェんだよッ」
ほとんど食いかかる様に怒鳴り散らすボルトに圧され、半ば倒れ込む様にタナカはベッドに腰かける。
「とかく余計なモンは触るんじゃねぇ、このフロアから無断で出たら即、宇宙に放り出す。トイレは出て左の突き当たり!」
「えっ、その、軟禁するって……」
「監禁じゃねぇ軟禁だっつってんだろッ、部屋んなかテメーの排泄物で汚してみろ掃除するのはおれなんだからなブッ殺すぞッ!!」
矢継ぎ早に罵声を浴びせながら、ボルトは部屋から出ていった。
「……」
圧倒されたままのタナカは、ただそこで呆然とする他になかった。
──そして、自分の浅はかさに気づく。
こうして見つかるという可能性を加味していなかったし、そもそも冷蔵コンテナで一ヶ月以上を過ごすというのも無謀だった。
むしろ、自分の行いが誰かの生活を破壊することの是非など、計画の内に入れてなどいなかった。
なんと大それたことをしたのだろう。
その責ばかりが胸の内から押し寄せてきた。
「ちぃーっす」
「ッ!?」
それから十分も間を置かず、唐突に開かれた扉にタナカは飛び退いた。
「あ、偉いじゃん、ちゃんと部屋に居た」
ゲイルと呼ばれた白衣姿の飄々としたその男は、つかみどころのない、喜怒哀楽のどれとも言いがたい無表情ともとれる顔で告げる。
「じゃ、ちょいとアレコレさせてもらうからね」
臆せずタナカに歩み寄るゲイルは、タナカの手首を掴むと手にする医療端末を近づけた。
「お、医療マイクロマシンちゃんと入れてンじゃん、結構結構」
「あ、あの……」
「たまーにねー、どっかの国の難民だかがコンテナに忍び込んでたりするからねー、それやられるとこっちは商売上がったりだからね」
医療端末を操作し、その画面を食い入る様に見つめる。
「あ、イグナシオ・タナカって本名なんだ。めずらしいね」
「……はい?」
「いやほら、マイクロマシンに戸籍とか個人情報入ってるからさ。オレは医療従事者だから閲覧する権利あるし、それで素性がわかるから一石二鳥ってねー」
相変わらずゲイルは無表情、無感情そうにそう答える。
「うん、血中抗体値にヘンなとこないね。薬物反応なし、胃がちょいと荒れてるかな、ストレス貯めない方がいいよ」
呟きながら、ゲイルは部屋の扉をロックした。
「で、だ」
そう振り向くと、ゲイルはどっかりとスツールに腰かけた。
「キミ、何者なの?」
そして漸く、その表情に怒りか苛立ちめいたものが浮かび上がった。
「────」
「船員が言いたいことはボルトが大体言ってくれた。正直、全員ムカついてると思ってくれてかまわない」
だが言葉とは裏腹に、その眼鏡の奥からタナカを観る視線は、病人を診る医師のそれらしく真摯だった。
「──キミは何がしたかったの、こんな大それたことをして」
「……ッ」
タナカは、言い澱む。
なぜなら、これほど大それたことをしておきながら、その理由はそれに充当しないと考えるからだ。
「──ふぅ」
それを感じ取ったか、はたまた諦念がそうさせたのか、ゲイルの強張った表情はため息と共にほどけてしまった。
「……親父さん、船乗りだったんだっけ」
「え、ぁ、はい……」
「……親父さんに逢いたかった?」
──そう問いかけたゲイルの、眼鏡の奥から覗く瞳は憐憫に満ちていた。
「……っ」
唐突に沸き上がる嗚咽に息が詰まり、声に出せないまま、タナカは小さく頷いた。
“主張が認められた”、不思議とそう思った。
嗚咽はその感情が起因となって呼び起こされ、やがて父親とのノスタルジアと縺れ合わせて両目から溢れだす。
「んー、そっか」
アビゲイル・コルモルトは、概ねこの涙を流す気弱な密航者に対する評価をそこで定めた。
「──何があったかとかは正直、どうでもいい。でも、密航の理由に嘘がないと、オレは判断する」
「……そう、ですか」
「まあ、概ねオレが宇宙(うみ)に居るのと同じ理由だったからね」
端末の画面に目を向けているゲイルの表情は、タナカには理解し難かった。
「まあ、若気の至りってことにしておこう」
そして、顔を上げたゲイルの視線が、妙ななにかを孕んだ視線が、微笑みと共にタナカを射抜いた。
「──そういうの、好きだよ、オレ」
「──えっ!?」
ゲイルは立ち上がり、踵を返す。
「んじゃま、とりあえず軟禁は継続。おっかないボルトが癇癪起こさないよう、このエリア外への立ち入りは禁止。しばらくはね」
呆然としたままのタナカを置いて、ゲイルは部屋を出ていった。
「──天王星まで連れてく!?」
二度目の朝食を平らげてから告げられたキャプテンの言葉に、ボルトは絶句した。
「積み荷がね、今回急ぎのアレらしくて」
端末片手にキャプテンが応じる。
「今から火星でしょっぴいてもらうにしても、場合によっちゃあ僕ら事情聴取で足止め食らうわけだよね。今回の航路ちょっとシビアでねー」
「土星辺りで空間乱流の予報が来た。幸い今の行程ならそれほど苦もなく抜けられる……がだ」
ゴロー航海士が補足する。
「ちょいとスタートダッシュで出遅れると木星あたりで日和見の船がダンゴになりそうだ。それで予想されるロスが累積すると……天王星入りは三日遅れる」
ホエールラインは流動する。
この不可思議な空間は惑星の運行等で起きる重力の影響を受けやすく、空間湾曲率の異なる通常空間への出入りに影響が出る。
三次元の谷間に起こる乱流に、“ホエールアンカー”と呼ばれる小型の飛翔体を先行させ、比較的安定した“隙間”から通常空間に錨を打ち込み、歪曲率を合わせて“引っ張り出す”と言うのがホエールライン脱出のセオリーだ。
だが、乱流があまりに激しいものになれば、三次元曲率の安定までどこかでおとなしく待機する必要性が生じてくる。
渦潮に錨を降ろした所で呑まれてしまうのは想像に難くない。
「まあ幸いテロリストでも難民でもないし、根性はあるみたいだから、片道くらいなんとかなるでしょ」
「────っ!!」
ボルトは言い返そうとして、できなかった。
「まあまあ、俺がタナカくんの面倒見るから──」
「いや、操舵士にそんな暇ないだろ」
キャプテンの言葉がガノフの気遣いを悉く砕いた。
「とりあえずタナカはボルトの下に付ける」
「っ、はぁ!?」
「機関長に整備士にその他諸々兼任しててかわいそうだなぁと思うから」
眠たそうなキャプテンの目がボルトを見据える。
「いやいやいや、お、おれは、この船(の主要機関部及び電気系統)を他人に触らせたくないから進んでやっているわけで」
「じゃ、雑用とかでいいんじゃん? オレはその方が助かるし」
クルーがあまりに丈夫なので普段暇していると思われているのか、船医という重要な立場にありながら半ば雑用をさせられているゲイルがぼやいた。
「じゃッ、げ、ゲイルの下に付ければいいじゃんかッ……」
「あのさ、オレが医療従事者で名目上出向してる立場なの理解してる?」
「──ま、諦めな」
四面楚歌のボルトの背中を、ゴローの機械の右腕が小突いた。
「とりあえず“一晩越えりゃ”、なんとかなんだろ」
──ゴローの言葉に、若干だが、食堂に集まる全員が険しい表情をした。
「とりあえず今晩はオレがモニターしてるつもりだし、二手三手は考えてあるからボルトは安心していいよ」
「それで済んでくれりゃあなぁ……こないだみたいのは御免だぜ」
「……」
“こないだ”、とボルトが語るその時を思い出し、ガノフが沈んだ面持ちになる。
「まあ、今回は監視下にあるってだけで万々歳でしょ、夜間監視は僕がやるから後はまかせた」
「てめぇだけ毎度楽しやがってよ……ったく」
悪態を吐きながらも諦めがついたのか、ボルトは食堂を後にする。
続けてガノフ、ゴローが退出し、ゲイルとキャプテンが残された。
「さて、こちとら“クスリ”を処方しますかね……」
「ゲイル」
呼び止めたキャプテンにゲイルが向き返る。
「めし」
と、発声された瞬間に、ゲイルはキャプテンの眉間めがけて食器トレーを振り下ろした。
簡素なサンドイッチだけの夕食でも、朝からなにも食べられなかったタナカには有り難かった。
食事を運んできたストロガノフを名乗る筋骨隆々の青年が言うには、雑用係として労働することを条件として、天王星までは連れていってもらえることになったのだと言う。
なにかすさまじいことになってしまった。
イグナシオ・タナカは、自分の理解を越えてしまった物事から逃避するように、ぼんやりとただ、薄暗くなりつつある窓の向こうを眺めていた。
「……入っていいかな?」
丁寧にノックしてから、男は身を屈めてドアを潜った。
「ちょっと次の火星まで、一週間くらいこんな食事だけど、辛抱してね」
「い、いえ、むしろごめんなさい……」
タナカが食べ終えた食器を片付けながら、ガノフは優しく語りかけた。
「……少し話しても?」
「は、はい」
タナカが頷くと、ガノフは彼が身を預けているベッドの端に腰掛ける。
重い巨体で、タナカの身体が少し浮き上がった。
「なんだかすごいことになったね」
「……全部、僕のせいです……」
「まぁまぁ、過ぎた事だし、キャプテンもそれで良いって言ってるから。俺たちも怒ってないし」
──先ほどまで聞いていた状況とは大分異なる言葉が出てきた。
「……怒っていると思います、その、ボルト……さんだって」
「ボルト? ああ、あいつはいつもあんなだから。なんだかんだ、面倒見いいんだよ」
ガノフは微笑みを絶やさない、タナカは若干、それが不安になる。
なぜなら目の前の大男は素手で十分人が殺せるような肉体をしているからだ。
生殺与奪の権利は間違いなく、この男にある。
「あいつがいろいろ五月蠅いのは、この船が本当はボルトの船だからだよ」
「……えっ?」
「ユニットを取り付けてコンテナ船として利用してるけど、この船はもともとボルトの持ち物なんだ、だから五月蠅いわけ」
ガノフは少し口を滑らしたようで、ばつが悪そうに口元で人差し指を立てた。
「ボルトとキャプテンはその頃からの知り合いみたいだよ。それで、いろいろあって、他の船員が集まって今の船になった」
「いろいろ……ですか」
「まあ、タナカくんみたいな派手な登場はしなかったけどね」
ストロガノフはそう言って笑った。
その笑顔から、どことなく少年のようなあどけなさを感じたタナカは、少しだけ警戒を緩めて耳を傾ける。
「──俺もね、家族のゴタゴタから逃げ出して、宇宙(うみ)に出て……キャプテンに拾われたんだ。ラッキーだったと思う」
「──家族」
と、タナカが呟くと同時に、ガノフの携帯端末が振動した。
「おっといけね、ボルトにドヤされる……それじゃ、行くね」
「あ、はい……」
「あっ、と」
ガノフは持ち上げたトレイに残るものを認めて、足を止める。
「ゲイル先生から、これ飲んどけって。“船酔いの薬”──」
「──」
「“夜”になってひどくなる前にって」
タナカが手渡されたのは、二錠ほどの錠剤が封されたパックだった。
「そういえば、宇宙にもあるんですね、夜」
薄暗くなりつつある窓の外を眺めて、タナカが尋ねる。
「ああ、よくわからないけど、元の惑星の環境を固定しているから、地球の昼夜の周期もそのままらしいって聞いたよ」
「……」
「じゃあ、また来るね」
食器群を鳴らしながら、ガノフは部屋を去って行く。
掌の錠剤をぼんやりと眺めて、タナカはふと顔を上げる。
「あの、水……」
そう気づいた時には、ガノフはすでに居なかった。
人類が始めて地球外文明を公的に認知したのは、それこそタナカが学んだ教科書に載る程度には昔のことだ。
彼らは最初の地球外生命、“宇宙鯨”が衛星軌道に滞在していた数日の内に既に地球の言語やコミュニケーションを学習しており、流暢な主要数カ国の言語で挨拶を行ってきた。
そして宇宙鯨の空けた穴、ホエールラインの存在を知らしめ、後に“テラ”を名乗ることになる我らが地球の“大航宙時代”の幕開けを告げたのだった。
お節介な彼らは、右往左往する地球(テラ)人に、宇宙を渡る為の術のあれこれを押しつけてきた。
今まで大量の化石燃料や水素を燃やし尽くしてまで地球の重力の振り切っていた頃が馬鹿馬鹿しくなるようなそれらの技術が、今や宇宙を大洋の如く行き交うことを可能にした。
しかしてその技術群は、今の人類では理解し得ない部分が大量に含まれている。
ヒエロニムスの回路が如く、“そんな効果を成すような仕組みも機構も見当たらないがたしかに求められた効果を出力する装置”であるとか、未だ解読不能であるために、異星の詩人が一筆認めた素敵なポエムであるのか、はたまた全宇宙を滅びに誘う最終兵器の設計図であるのかもわからない何かの数式めいた怪文書に至るまで。
そのような魔法じみた異星由来のアーティファクトは、“なにか重要であることはわかるがまったく意味がわからない”、という皮肉を込めて“ペイガン・ポエトリー(異教徒の詩)”と揶揄される。
ペイガン・ポエトリーに由来するホエールラインの突入技術は、船の周囲に地球環境を閉じ込めた泡を作るようなものだ。
その原理は未だ、“そうなるからそうなっている”の範疇から這い出せていない。
ただ、長く宇宙を航行する生活に於いて、出身惑星の時間周期が船に適用されるというのは乗組員の生態活動には都合の良いことだった。
それ故に、彼ら船乗りは過去の宇宙飛行士が成し遂げなかった惑星間移動を日常的に行えているのも事実なのだという。
すっかりと暗くなった船窓を、イグナシオ・タナカはベッドで横たわり眺めていることしか出来ない。
合間合間で、短い睡眠と覚醒を繰り替えしながら、翌朝に渡されるであろう沙汰を待つほかに出来ることはなにもなかった。
自前の携帯端末は当然のように圏外である。
既に自分は、引き返せないところまで来たのだ。
「……」
若干の、胸の閊えがある。
例えるならそれは初めての職場に行く前夜の不安に似ている。
否、実際の状況がそれそのものなのだろう。
一つ違うのは、罪を犯している自身の処遇を彼らがどのように行うか、という、別種の不安が絡むことだ。
軽く身を起こそうとして、若干の目眩を覚える。
もしかしたら、これが所謂“船酔い”かもしれない。
言われた通りに薬を飲んでおけば良かった。
無論、用を足す合間に薬を飲める機会はあったはずだ。
しかしてイグナシオ・タナカは沙汰が出るまで部屋の外を出歩きたくはなかったのだ。
後々からやって来た、悪いことをした、他人に莫大な迷惑をかけたという自責があった。
その上で、誰の目にも付きたくない、誰にも責められたくはないという我が身可愛さももちろんあった。
さらに言えば、この“船酔いの薬”が本当にそうであるかという疑念もあった。
例えばこれが麻薬かなにかかもしれず、中毒にされて薬ほしさにタダ働きをさせられる、そんなフィクションのようなことも広い宇宙ではありえるやもわからない。
ただ、喉が乾いていたのは事実だった。
最後に水分を摂ったはどのくらい前だったろう。
なにか息苦しいのは脱水症状のせいかもしれない。
そうだ、僕は脱水症状を起こしている、これは危険だ。
水、水はどこだろう、このままではミイラになってしまう。
部屋から出なければ、いや、部屋から出たら何を言われるかわからない。
僕は犯罪者だ、しかももう逃げる場所もない。
ここは海だ、いや、海じゃない、宇宙だ、地球ですらない。
僕はどこにも逃げることができない、だってこの外は宇宙なのだ、地球ではない。
外に出たとたんに僕は真空の宇宙に放り出されてしまう、そんなのはダメだ、僕は死んでしまう。
そうだ、早く逃げないと、早く逃げないと僕は死んでしまう。
喉がカラカラだ、おまけに外は宇宙だ、早く、早く逃げないと。早く逃げないと。
早く、早く地球に帰らないと、母さんになに言われるかわからない。怖い。
怖い怖い怖い、はやく、バレる前に逃げださないと。
いやだ、怖い、なんで僕はこんな場所に。早く早く早く、早く帰らないと、僕が居ないことがバレたら。
バレたら僕は怒られてしまう、怖い、いやだ、怖いよ。
早く逃げろ、逃げろ、逃げるんだ、逃げるんだ!!
「──やっぱりッ!!」
見つかった、ヤバい、ヤバい、ヤバいよ、ヤバい!!
「じッとしてろッ、おぃッ、タナカ、タナカッ!」
いやだ、いやだ、やだ、だれ、誰ッ、助けて、怖いよ、こわい!!
「タナカッ!!!」
「────!!」
──イグナシオ・タナカが我を取り戻したとき、彼は男臭い肩に抱かれ、薄暗い廊下のさき、何らかのハッチに手を掛けようとしていたらしい様子が遅れて脳内に飛び込んできた。
「──大丈夫か、タナカ、大丈夫だから」
「────」
黒いシャツの張った背中しか視界に入らない。
だが、その声で、タナカは今、自分を抱き止めている人物にあたりをつける。
「──ボルト、さん──?」
「おう、もう大丈夫、おれが居るから──」
ボルトはがっしりと、タナカがわずかに痛みを覚える程度に強く、その身体を抱き止める。
「ぼ、僕、何を──」
そう身を放そうとした瞬間、タナカの脳はまるで突然ジェットコースターの固定具が外れたかのような恐怖感に曝された。
「────!!」
「ば、バカッ、大人しくしてろッ!!」
タナカは絶叫した、否、声を挙げてわめき散らしたかったが声すら出せなかった。
ボルトは痙攣するタナカの身体を無理矢理抱きかかえ、彼が手をかけていたハッチを開くとその先に雪崩れ込んだ。
「大丈夫ッ、もう大丈夫だッ、落ちつけッ」
ハッチの先、突き当たりのベッドに押し付けるように、ボルトはタナカを抱き締める。
「あ、ああ、ああ!!」
「そうだ、おれはここだからな!! ちゃんとつかまえてッから……!!」
語気は強かったが、暴れるタナカを押さえつけるボルトの声には、なにか優しい響きがあった。
「あッ、あぁッ……うェッ、おッ……!」
「ゆっくり息しろッ、大丈夫、だぁいじょうぶだから……」
過呼吸に溺れるタナカの背を擦り、ボルトは繰り返し、繰り返し、タナカを宥める。
「はぁッ、はぁッ、はぁッ……」
まるで迷子が母親を見つけたときのように、反射的にタナカはボルトの背に抱きついた。
「おう、大丈夫だろ……おれ、ここにいるぜ」
「はあ、はあ、ぼる、と、さんッ」
徐々に、徐々に、タナカの恐怖感が薄れていく。
船窓から差し込む、なにかしらの光に照らされたボルトの表情は、見たことの無いほど穏やかで、光に透き通る瞳が優しげに見えた。
「はあ、はあ、はあ……」
呼吸が整ってくる。
次第に、ボルトの体温、心音、意外に広い背中を感じる。
「──“戻ってきたな”──よかった──」
ボルトは、涙と汗でぐしゃぐしゃになったタナカの頬を撫でて拭う。
そして、放心するタナカの冷えた唇に、自分の唇を静かに重ねた。
まるで、なにもおかしな事はない、自然な出来事のようにタナカはそれを受け入れると、急に襲った睡魔に意識を明け渡した。
──それからどれだけが経っただろう。
タナカは、ヴォルフレット・サールタリアの腕の中で目を覚ます。
「──!!」
驚きに身を震わせたことで、それを抱き止めていたボルトも目覚めた。
「あ、あの……」
「……ッ、まだ四時じゃねェか……まだ早い、寝てろ」
そう言うと、ボルトはタナカを抱き締めたまま、タオルケットを掛けなおす。
「ぼ、ボルトさん……」
「ん……昨日のことか……“気にすんな”……」
とろりとした目で応えたボルトは、やはり優しい顔をしていた。
「“船酔い”みてぇなもんだよ、宇宙(うみ)に出たらかならずああなる」
「……」
「嫌な予感がして様子見に行くつもりだったんだよ……案の定、お前、おれの部屋の前で暴れてたんだ」
「す、すみま……」
ボルトは謝ろうとするタナカの頭を乱暴に撫でた。
「気にすんな、ったろ……無事でよかったよ……」
そう言いながらボルトは、タナカの頭を自分の胸に押し付ける。
意外に分厚い胸板の奥で響く心音に、不思議とタナカは安堵を覚えた。
「……ただな、大事なことだから言っとくが」
「……はい?」
「“おれたちの間で何があったか”は、絶対“内緒”にしろ」
タナカの頭を撫でながら、ボルトはやや強めの語気で言った。
「……」
「──“宇宙(うみ)の男の掟”だ、わかったな?」
「……は、い……」
訳がわからないままに、タナカは頷く。
「──なら、おまえも宇宙(うみ)の男だ」
そう笑うと、ボルトはタナカの額に口づけた。
「……え」
それが一瞬理解できず、タナカは思わず顔を上げる。
ヘアバンドを外したボルトの眼差しはやはりどこか優しげで、タナカを真っ直ぐ、しっかりと見据えている。
だが、タナカの視線は、ボルトの額に不自然に刻まれた十字の“傷跡”に吸い込まれる。
異様なそれに見とれるうちに、今度は唇同士が重なりあった。
「──っ」
「っ……おれたちも宇宙(うみ)に上がって長ぇからまだ辛抱効くけどよ……しんどいのは変わらねえんだ……」
そう一言告げてから、再び求めるように唇を重ね、軽く舌を絡ませ合う。
なぜだろう、なぜ、こんなことを。
疑問が浮かぶ意識とは裏腹に、まるで乳房を求める赤子のように、眼前の男の唇に吸い付いた。
「……だからこうして、互いにしんどいのを誤魔化し合うんだ……そのうちタナカもわかるよ」
「……っ……」
脚を絡ませ合うタナカの大腿に、熱を帯びたボルトの一部が触れている。
「へへ……男同士だろ……気にすんなよ……」
そしてタナカ自身の状態も、ボルトにはわかっているのだろう。
だがそれを気にせずになのか、敢えてなのか、ボルトはより身体を密着させる。
それをタナカが不快に思わなかったのは、ひどくそれが心地よいことと、むしろ、今、ボルトと身を離すことが未だ恐ろしく感じるが故だった。
あの、耐え難い恐怖感は何だったのだろう。
ひとつ確かなのは、ボルトの肉体に包まれている間は、信じ難い程に安心を覚えるという事実だった。
それを何に例えていいものか、そしてそれに身を委ねていいものなのか、タナカは決めあぐねた。
「……なんだか、ボルトさんの腕のなか、安心します……」
故に、その答えをボルトに求める。
「──そういう“ビョーキ”なんだとさ。宇宙に出ると、かならず掛かる──」
「……“病気”……」
「“同郷の輩に抱かれるのが一番効く”──船乗りはみんな知ってる。だから船乗りに女は向かない」
だがボルトがタナカを抱く様子は、それこそ女を抱くように繊細だった。
「けど、男同士ってのは……その……いろいろとアレだろ、だから、誰にも言わねえんだ……」
「……」
「……おれじゃ、嫌だったか?」
急に弱気になった語気に、タナカは戸惑う。
「い、いや……なんか……受け止めきれてないというか……」
「……悪い、ホントはおれも今キッツいんだわ……弱気になってるだけだから忘れろ」
そう言いながら、ボルトは表情を悟られまいとタナカの頭までタオルケットを被せる。
「……でもっ」
「……」
「……ボルトさんの腕のなか……あったかいです……」
突然身を起こして告げたタナカに、ボルトは目を丸くする。
「……」
「……っ」
そしてまた惹かれ合うように、二人は唇を重ねた。
──それらの行為に対して、タナカはどう気持ちに整理をつけて良いのか解らなかった。
それは罪悪感に似ていたが、ボルトに対してそんな感情は抱きたくは無かったし、なによりそれが心地よいのは事実なのだ。
言われた通りに病気のせいと折り合いをつけるのは簡単だったし、そうしておけと言うボルトの意図も理解できた。
それは一過性の気の迷いなのかもしれないし、ただ、状況に流されただけだったのかもわからない。
「──なあ」
ボルトがふと、口を開く。
「タナカが良ければ──もう少しそばに居てくれないか」
「────」
タナカは無言で頷くと、その身の全てをボルトに預けた。
──その安堵を何に例えるべきか、タナカはひとつの仮説を立てる。
思い出すのは幼少のころ、宇宙(うみ)から帰った日の父親が、かならず添い寝をしてくれた記憶。
その安心感と心地よさを今の状況に当てはめてよいものかは、今のタナカにはまだ決められなかった。
船窓の明かりが少しずつ白んでいく。
──もうすぐ、夜が明けるのだろう。
【LOG#01:MIDNIGHT_EXPRESS】-LOG OUT-
最終更新:2019年07月16日 00:08