アットウィキロゴ

白鯨航路:LOG02_CHEGA_DE_SAUDADE

ヴォルフレッド・サールタリアは、少なくとも今この船のなかにおいても一、二を争う稀有な経歴の持ち主である。
それは二十五歳と言う若さで、この最大規模の宇宙コンテナ船の所有者であると言う事実から十分に証明することが可能だろう。
──正確にはもっと難しい経緯が絡み、船籍そのものは中東に拠点を置くエイハブ・コズミック・キャリアー社が主有しているのであるが、少なくとも、この船を構成する主たる部分は彼の所有物として、ACC社に貸し与えられているものだ。

とは言え、彼は決して宇宙クルーザーを乗り回すどこぞの良家の子息ではない。
むしろ、彼の人生の多くはその真逆、想像もつかない底辺にあったも同然だった。

明るい光が船窓から差し込む中、ボルトことヴォルフレッド・サールタリアは未だ微睡みの中にある。
そして、その腕の中では、概ね一日前には密航者として認識されていた得体の知れない青年が、彼より少し先に目覚めて状況の整理に追われていた。

タナカが夢だと信じたかった、それこそ熱にうなされている時に見るよう突拍子も無い夢だと思いたかった一連の出来事は、目覚めてなお継続しているらしい。
ボルトの腕はしっかりとタナカの細い肩を抱いたまま、微かなイビキと共に眠りの中にある。
その寝顔は、日中の睨み眼の表情からは想像つかないほどに穏やかで、一方、思っていたより少年の様なあどけなさを思わせる顔をしていた。

イグナシオ・タナカは昨晩の出来事を反芻する。
そしてこの度に、なにか凄まじい出来事が起き、自身が最早戻れない一線を助走つけて踏み抜いて行った事実と後悔が襲いかかる。

いったい、なにが、おきたんだ。

それを詳細に思い出すことは容易だったが、それでもタナカは自身のためにそこで思考を停止させていた。

「……ん、んッ……」

ボルトが僅かに身を捩り、薄目を開ける。

「……起きたか」

「あ、は、はい」

そして視線を巡らせる。

「……おれ、今日は十時から稼働だからもうちょい寝ていいか……」

「いや、僕に聞かれても──」

と、言ったものの、タナカは彼の睡眠時間を奪ったのが自分であることを思い出す。

「──昨日は、ありがとうございます──」

「んぁ、いい加減気にすんなって……」

そう呟きながら、ボルトの腕は身を起こしかけたタナカの肩を掴んで引き留めた。

「……じゃあよ、代わりにさ」

「……はい?」

「もうちょい……一緒に居てくれや」

とろりとした目で微笑みかけたボルトの様子に唖然としたまま、ボルトは再びタオルケットの中に引き込まれた。

「……」

どうしたものか、判断をつけられないままのタナカの頬を、ボルトは優しく撫でる。

「──付き合わせて、悪いな」

「い、いや……その」

「でもよ、オメーもおれ達に面倒なこと付き合わせたんだから、こんくらい許せよ」

そうボルトは、意地悪気に笑う。

「──怒って、ないですか」

タナカは、胸中の不安をひとつ吐露する。

「……怒っててもしゃあないからなぁ。キャプテンが決めたんだから、おれはそれに従うだけだよ」

欠伸混じりにボルトは応えた。

「……でも、この船……ボルトさんのだって、聞きました」

「んぁ、誰だよ面倒なこと吹き込みやがって……どうせガノフかゲイルだろ」

概ね予想は当たっている。

「“拾ったのはおれ”で、“この船はキャプテンの”、ってとこなんだけど……まぁ、そこもめんどくせえ事情があってさあ」

「?」

「──あいつ、記憶がねえんだと」

あいつ、とボルトが称するのは、脈絡的にキャプテンを指すのだろう。

「おれがこの船を見つけた時──まぁその辺の事情は話すつもりねえけどさ、面倒だから」

「あ、はい」

「“あいつ”は、良くわからねえ装置の中で“冷凍保存”されてた。コールドスリープなんて言うけど、今のご時世だろうが、ンなもんフィクションの産物だよ」

タナカを腕枕したままボルトは仰向けに寝直り、天井を見る。

「そいつをおれが知らずに起こしちまったわけだ──て言うか、再起動かけたら勝手に起きてきたんだけどよ」

「それが、キャプテン、ですか」

「そう、ただおれが、先にあいつが船に保存されてたからそう呼んでるだけで、実際あいつがナニモンなのかは本人にもわかってねえ」

タナカはきょとんとした目で、ボルトの顔を見る。

「……そんなようには見えないですけど」

「だろ? あいつおかしいんだよ。変にカリスマ性あるし、船の諸々は大体理解してる。その癖一般常識は無い上にやたら飯を食いまくる──」

「た、確かに、得体の知れない感じはありましたけど……」

ボルトは再びタナカに向き直る。
その表情は日中の険しさを取り戻していた。

「あいつホント得体が知れないんだよ、だからほっとくわけには行かねぇと思って、船ごとあいつを会社に縛り付けてるわけさ、おれだけで面倒見切れないからな……」

「苦労、してますね……」

深い深い溜め息が肺の底から逃げ出ていく。

「だろー、だからちいっと労ってくれ……」

そしてボルトはタナカを胸の中に納めた。
されるがままタナカは、そのまま身を固めていることしかできない。

タナカは困惑する。
ヴォルフレッド・サールタリアという男への印象は大幅に改められたものの、また新たに評価を下さねばならない事情が現出した。

他人の性的志向について考えたことなど今まで一度もなかったからだ。

「その……僕でいいんですか……」

「今のうちに強気に出とかないと、生意気されねえようにな」

要するにこれは一種のマウントなのかもしれない、と、タナカは考えた。

「──まあ、何も知らねぇお前だから、強がれないってのもあるんだけどよ」

そしてその考えはどうも正しくないようで、微かにボルトの唇が近づいた事に気づき、タナカは表情を固くする。

「──と、ちょいと調子に乗りすぎたか」

その様子を察したか、ボルトは再び仰向けに寝直った。

「“おれ達の都合”に、ちょっと付き合わせ過ぎちまったな……後でゲイルにちゃんと聞けばいいよ」

表情を見せないよう、ボルトは顔を背けてそう呟く。

──タナカは困惑する。
それこそ、強制的に行為を迫られて、不愉快な気分になったのであれば明白に答えを得られたのだろう。
しかし、そうではなかった。
何故なら昨日の出来事を反芻するならば、現れてくる感情は“安堵”に始まり、いずれも不快とは真逆のものばかりだからだ。

そしてなにより、タナカは自身から“求めてしまった”。

その事実が、自身の決定と思えない事実が、今だ受け入れられずにいる。

「……」

「……もう行っていいぞ、おれはまだ寝る」

「……」

タナカは少し思慮してから、ボルトの胸板に身を預けた。

「……僕も、もう少し、こうしてていいですか……」

「……」

ボルトは答えなかったが、代わりにその背中に腕を回した。
タナカはその暖かさに甘え、少し目を閉じる。

「なんか、ボルトさんは兄に似てます」

「……あ?」

そして、自分の胸中を少しでも明かそうと考えた。
対等になりたい、その思いが“秘密の共有”に至った故の思考だった。

「兄はなんでもできちゃう人で。僕は何もできない人で……母親に何で兄貴みたいにできないんだって言われて──」

「……そんで?」

「母親と口論になって、家を飛び出しました」

それが、タナカの密航の理由に繋がる。
ボルトは概ね、それを察することができた。

「──父親が死んだって、宇宙に来て納得がしたかったのかもしれません。でもまだ、会えるかも知れないって甘いこと考えてるんだと思います」

「──」

「それかたぶん──逃げ出したかっただけかもしれません」

ボルトはただ、タナカを抱いたまま何も応えなかった。
その胸中を吐露することもないまま、軽く寝息を立て始めたタナカと共に、再び微睡みの中へ落ちていく。
少なくとも、人肌の温もりには抗えなかった。
そして、そういう温もりを求めながら、それに甘んじていられないとして素直になれないのも、ヴォルフレッド・サールタリアの人格なのかもしれない。

「……」

──眠りに落ちる直前、ボルトは腕の中の青年の額に、軽く口付けをした。

それが、彼の求めているものであり、慰みでもあった。



「──ほれ、タナカ、起きろ」

「……ん……」

数時間の後、ボルトに促され、タナカは眠い目を擦って身を起こす。

「……すいません、寝ちゃいました」

「寝起きがいいならそれでいい」

書く言うボルトも寝起きの様子で、寝癖で乱れた髪を撫で付けている最中だった。

「……ずっと気になってたんですけど、その……」

「んあ、デコの傷だろ、あんまいい思い出じゃねえんだ、見て見ぬフリしといてくれ」

そう言いながら、いつものヘアバンドで傷を隠す。
彼のトレードマークはそのためにあるものらしい。

「……」

ベッドから立ち上がりながら、タナカは部屋を一瞥する。
男の部屋と一目で分かるそれなりに汚い部屋だが、何よりも目立つものがある。

「──プラモデル作るんですね」

「っうるせーなぁ、趣味だよ、悪いか」

「全ッ然悪くないです、なんか、いいなって……」

棚やら机やら、ところ狭しと飾られたプラモデル群は、まるで中高生の部屋を思わせる。
様々なジャンルがあるらしいと言うのはタナカも承知しているが、ボルトは特に何かに特化した拘りを持っている訳では無さそうで、実在の乗り物とおぼしきキットから、見るからにフィクションの産物まで、雑食的に作っている様子だった。

「あ、これ、もしかしてこの船ですか?」

タナカが目についたのはやたらと巨大なコンテナ船のプラモデルだ。
積まれたコンテナの一つ一つまで、丁寧に塗り分けられている。

「あ? 違ぇよ、それはコロンボ・エキスプレス。すげぇ骨董品のキットだぞ。まあ、おれ達の船はそいつの設計流用してるからご先祖様みたいなもんだけどな」

「えっ、こんなおっきい船がそんな昔に?」

「物流に関しては規格もなんもその時代から変わってねぇからな、そもそも、PPATHOSドライブのフィールド安定装置が小型化できねえから搭載できるのが船舶レベルの乗り物に限られるし、それで物流を行うとなると問題になるのはむしろ積み込み施設の方で──」

あ、この人、たぶんメカ好きなんだな。
得意気に語りだしたボルトを見て、タナカはその人となりにようやく触れられた気がして思わず微笑む。

「──なんだよ、可笑しいかよ」

「いや、ボルトさんのそういうとこ、好きです」

「んなッ……」

ボルトは唐突に顔を赤らめる。

「あ、あれ、ダメでした? なんか、ゲイルさんがそんなようなこと言ってたんで、皆さんそんなコミュニケーションしてるのかなって」

「い、いや、その真似だけはしないほうがいいぞ……あいつ誤解されやすいからな……」

実際には、ただ単純にボルトが誉められ慣れていないだけである。

「……あの、よ……昨日のこと、本気にすんなよ」

「……はい?」

「その……つい、流れで……その……」

ボルトは赤い顔のまま目を背ける。

「そのッ、言ったろッ、宇宙(うみ)の掟ってやつだ、誰にも、言うなよ」

タナカは丸い目のまま固まっている。
まだ理解が追い付いていない。

「誰にも言うな、だけど──く、詳しくはゲイルに聞け」

「は、はい……?」

「じゃ、じゃあ、おれ、行くから、お前先に医務室寄って、飯食ったらブリッジで待ってろッ」

雑に作業衣に身を包むと、ボルトは部屋を出ていってしまった。
タナカは呆然と、立ち尽くすことしかできない。




「──ん、ログは見た。典型的な症状。ボルトに後でゴメンナサイしなきゃだな──」

医務室の大型端末に写し出される、タナカの医療用マイクロマシンが記録していた脳内物質分泌量のログをなぞりながら、ゲイルは呟く。

「しんどかったよねー、ごめんなぁ、本当はオレがモニターしてなきゃいけなかったんだけど、悪いタイミングで“別件”がね」

「あの……薬飲み忘れちゃったのが行けなかったんでしょうか」

タナカは対面の椅子に座して小さくなる。

「あー、あんなのお守り程度だから。あれ、ただの“精神安定剤”だよ」

「あんていざい?」

「親父さんから聞いてないか、“宇宙船乗り特有の病気”の話──」

少し思慮してから、ゲイルはハンディ端末を片手に取って口を開く。



「──“サウダージ症候群”って、聞いたことない?」



タナカは首を横に振った。

「本当は長ったらしい名前がついてるんだけど、まだ研究の途上で正式名称もころころ変わっててさ……まあ、サウダージ症候群って言えば大体の船乗りには通じる」

「それが、昨日のあれ、ですか」

ゲイルは肯定する。

「まあ、概ね共通する項目としては、副交感神経優位の状況で、唐突に脳内物質のバランスが急激に崩れ、抑鬱症状に始まりやがて“耐え難い郷愁”から不安や恐怖感を覚える──急性の精神疾患、って言っていいかな」

「精神疾患って……なんかすごい病気の気がするんですが」

「うん、実際、ショック死の事例もあるけど──正直に話すね、初回に発症した場合、そこそこの確率で、“事故死”や“自傷”──“自殺”に繋がる」

ゲイルはドライに告げた。

「……え、ぼ、僕、知らなかった……」

「下手に知識与えちゃうとパニックに繋がるからね……パニック障害にも似てるけど、発症率はそんなに高くない上、明確な切っ掛けもわかってない。それに、交感神経優位の時──つまり起床時にはまず発症しない。そしてこれは何故か“ホエールライン航行中にしか発症しない”って特徴がある」

読めないと思うけど、と小さく告げてから、ゲイルは端末に学術資料を表示してタナカに手渡す。
そして、その内容は、タナカが一、二行目を通して止めてしまうほど難解だった。

「こないだもね、密航者が居たんだよ……半年前くらいかな、まあそいつはどうも麻薬の運び屋だったっぽいんだけど」

「……」

「そいつは最初の夜に船室から飛び降りて死んだ。みんなそれでナーバスになってた訳さ、見ず知らずの他人だとしても見たくねえもん、死体」

ゲイルの言葉に背筋が凍る。
あのとき、もし、ボルトが居なかったら──

「な、なんでそんなヤバい病気なのに、誰も知らないんですか……ニュースになってもおかしくないのに」

「んー……理由としてはまず、学術的な裏付けがあまりに少ないことかな、そもそも、なんで発症するかのメカニズムがわかってない」

ゲイルは真摯な眼差しでタナカに語りかける。

「ただ、いまんとこの仮説では、“人間の帰巣本能”に関係すんじゃないか、って言われてる」

「帰巣本能……って、あの、犬とか鳥とかがひとりでも自分の家に帰ってくる、ってアレですか」

「そう。今までの歴史のなかで、人類がここまで地球を離れたことが無いからさ、それを体が察知して、どうにか“帰る”方向に精神を持っていこうとする働きが起きてるんじゃないかってのが今の見解。だから“郷愁”にかけて“サウダージ症候群”って呼んでる訳さ」

──動物の本能と言うのは、概ね自己の保全の為に働く。
誰にも教えられずに食物を採ろうとするのは餓えれば自己の死に直結するからで、その中でも味覚や嗅覚、視覚と言ったあらゆる感覚が、摂取していいものと悪いものとを区別しようと機能する。
その機能を如何に保全の為に作用させるかというのは、先天的に生命に組み込まれた機構(システム)がそうさせることで、どれだけ人間が自身のコントロールを自我優位に切り替えて来たとしても決して消し去ることはできない。

“帰巣”というのもまた、動物が自己、あるいはその子孫の保全の為に機構として予め組み込まれた本能だ。
何故ならそこは比較的安全を約束された場所であるし、場合によってはそこに食物を持ち帰り、自身の血を引く子供に分け与えて保全を行う必要があるからだ。
“巣”を失うと、それだけ固体の死が近づくし、種族全体としても、巣を失った固体が増えれば滅亡に繋がる。
利己的な遺伝子の働きかどうかはさておいて、それ故に、生命は本能的に“帰巣”を望むようにできている。

「一時は“致死的なホームシック”とか揶揄されたこともあったけどね──まあ、この説明がいちばん腑に落ちる」

ゲイルはコーヒーメーカーが暖めたブラックコーヒーをカップに注いでタナカに薦めたが、そう言えば胃が悪いんだっけと思い直って自身で呷った。

「──もうひとつは、そんなワケわからない病気が蔓延してるとわかったら物流そのものが滞るからだよ、そうすると経済にバカでかい損失が起こるし、未だ自給自足の賄えない外惑星のステーションとかで働いている人達が見捨てられることになる……止めるに止められない、てのが事情、かな」

──タナカは、最後に視た父親の疲れ果てた姿を思い出す。
そして──

「正直やれることは、向精神薬の投与とかで外部から脳の働きを阻害する対症療法くらいなんだよね……そしてそれは常用できない……理由はわかるよね」

──それによって、薬物依存に始まる中毒、自我の破壊に繋がるからだ。
また、そのような状況下で船を運用するのは難しくなるだろう。
タナカは、最後の父の姿に、それらの事情を重ねて理由付けていく。

「──ただ」

「はい……」

「──ぶっちゃけ、これも学術的に明言化はされていないんだけど、事例として無視できない“解決策”があるのも、業界は知ってるんだよね──」

と言いかけて、ゲイルは眉を歪めて深く思慮する。

「……あんまし言って良いもんだかって気持ちなんだけど……ここまで煽られたら聞きたいよね……」

そこまで促されては、タナカは首を縦に振ることしか出来なかった。
その上、内容が何であるかには、多少の心当たりがある。

「……じゃあ言うね、サウダージ症候群が発症している場合──何故か“同族の身体的接触が劇的に効く”、らしいってのが、統計的に無視できない」

この“同族”と言うのは、同じ惑星の出身者──言うなれば“地球人”であることを指す。
これは、異星文明人(ペイガン)であるとか、将来誕生するであろう地球外出身者は統計に含まれない、含もうにも事例が未だ無いことからこのように表記されている。

「そして、この“身体的接触”は、その度合いが高い程、良好な傾向を示す」

「度合い……親密さ、とかですか」

「そうだね、親密であることも無視できないし、内容のディープさも無視できない……まあそれも“親密さ”に含むのかも知れないけど」

内容のディープさ、すなわち。

「ま、ボカして言ってるけど、要するに“性行為”だよね」

「────」

「あ、かわいい反応したね、若いねー」

タナカは顔を真っ赤にして俯く。
それはタナカはウブだとか純朴だとか、それを理由とするものではなく。

昨晩の、ボルトとの出来事を思い出した故の反応だった。

「──正直、オレも“経験あるから”言うけど、サウダージ症候群が起きてるときは“そうでもしないとやってけない”レベルでしんどいんだよね。ぶっちゃけ、抗えない」

「……っ」

「だから、まあ、宇宙(うみ)では、そういうことが日常的に発生しうる、ってのは覚えておいてほしい。そんで、それは、個人の性的嗜好とかそういうこと言ってらんない状況で起きうる、ってこともね」

──ふと、タナカはゲイルの気遣いに気がついた。

そうか、これは自分のことでも、ボルトや、ゲイルのことでもあって。

──お父さんの事を言っているんだ。

「──だから、“そういうこと”が起きうるけれど、それを外部に話すことで変な偏見がついたり、社会的地位が脅かされる人も居るかも知れない。だから、船乗りはあまり外部に話したがらない──さっきの話にも通じることではあるけどね」

「──“宇宙(うみ)の掟”、ってやつ、ですか」

「──そうだね、そして、できたらそういうことも言わない方がいい」

ゲイルにそう言われ、タナカは思わず口を塞ぐ。

それを知っていると言うことは、それに繋がる行為を経験したからで、その時に一緒に居たのは──

「オレは医療従事者だから自ずとわかっちゃうし、それ故に守秘義務もあるわけで。けど、船のなかって閉鎖空間で何ヵ月も一緒に過ごす相手同士でギスギスするのも良くない訳さ。だからわかってても言わないのがルール、ってワケね」

「──わかり、ました」

思いの外、事情は複雑に絡み合っていた。
ボルト自身の性的嗜好に関係すると思っていた一連の出来事も、全てはこの耐え難い現象に起因し、さらにはその中で、ボルトは自分を救うために身を張ってくれたのだと言うこと。
そして、父親が置かれていた状況──恐らくは向精神薬の長期服用で、感情に何らかの阻害が起きていたかもしれないと言うこと。

「──思ってたのと、全然違いました、宇宙」

「キミは素直だねー……まぁでも、親父さんの事情、少しわかってよかったんじゃない?」

ゲイルは優しげな視線を投げ掛ける。

「──だって、それでもちゃんと家に帰ってきて、みんな愛してくれてたんでしょ、親父さんは、ちゃんとキミのお父さんだったんだよ」

「だめです、それ今言われたら泣いちゃいます」

ゲイルは笑いながら席を立つ。

「じゃ、飯にしよっか、オレも朝飯まだだし」

──結局、タナカは泣き出してしまった。

あまりにも沢山の人が、自分のために気を配ってくれている。

なのに、僕は、なにもできない。



なにも、できていない。



ゲイルに食事を振る舞われた後、タナカは改めて、雑用係としての仕事をキャプテンから任命された。
当然、衣食住を提供する代わりに天王星までは無給の労働となることを念押しされた上での契約であることが繰り返される。

タナカはそれに同意した。
“せめて、恩を返せるだけ働かねばならない”、そんな想いが故だった。

「よッ、“新入り”ッ!」

「ひゃんッ!!」

最初の仕事は食料品を厨房に運ぶことだった。
飲料水の入った重いケースを抱えたタナカは、ふいに背を叩いたゴローに驚いた。

「おっとッ、根性ねぇなぁー」

バランスを崩したタナカを、その太い腕と固い腹が支える。

「す、すみません……ビックリしちゃって」

「油断してるとあぶねぇぞ、宇宙(うみ)じゃあ平気で手足ふっとんじまうからナ」

「えッ」

言われてみれば、この粗暴そうな男の右腕は見るも分かりやすく機械化されている。
ペイガン・ポエトリーに由来するであろう技術によって、今や再生医療も発達はしているが、あえてこの男は義手を選択したらしい。

「へへ、俺が言うと説得力あるだろ、ゲイルも片腕無くしてるしな……」

「え、ゲイルさんもですか──」

と言いかけて、タナカはふと、ゲイルの白衣から覗く左手が、何時も手袋のようなもので覆われていたことに気がついた。

「宇宙(うみ)はよ、地球の海よりあぶねぇのさ、落ちればまず即死、通常空間に出るときにゃ常に死と隣り合わせだ──まあ、度胸つけるこったな」

「────」

ガハガハと笑うゴローの言葉で、タナカはやはり、とんだ大それたことになってしまったと後悔する。

「……でだ、トナカくん」

「タナカです」

「悪ィ悪ィ──で、タナカくんは“どこまでいった”のかな?」

いやらしい笑みを浮かべてゴローは問う。

「へ、なにがですか?」

「──昨日、アレしたんだろ?」

その悪意あるニヤニヤ笑いに、タナカは思い当たる。

「さ、サウダージ症候群の話ですか……」

「そうさな、まあ、どうせボルトにでも世話ンなったんだろ?」

「あ、あはは……ソウデスネ……」

タナカはどうにか誤魔化そうと努めた。
“秘密にしろ”と言われたのだから、どうにかして言い逃れたい。

「んま、アレも宇宙(うみ)でなけりゃ経験できねぇもんだからな、そんときが来たら俺も世話してやるよッ」

下品な笑いを残して、ゴローは階段を下っていった。

「……あれ」

タナカはふと疑念を抱く。

昨晩、タナカをモニターしていたのは“ゲイル”だったはずだ。

何故、ボルトの名前を先に出したのだろう。




ACCモビーディックの最初の寄港地は火星の衛星起動上だ。
ホエールラインの開通から真っ先に開拓が始まった火星は、資源の採掘よりも将来的に起こりうる人口爆発の可能性を見据えて、植民地として利用できるかのテストを行っている。
惑星全体の地球環境化(テラフォーミング)は、ペイガン・ポエトリー技術の出現により完全不可能とは言えなくなったものの、それでも“割に合わない”と結論付けられた。
そこで、火星地表に産出する鉄資源を用いて“囲い”を作り、その内部に、宇宙船が利用しているのと同じ“PPATHOSフィールド”──すなわち、“偏在空間均質化領域”を流用して空間を固定し、その内部に生存可能な環境を作り出すことができないか、という案が提唱された。
現在、マリネリス渓谷に造られた一号コロニーでは、地球から持ち出された樹木と有機物、そして土星の環の氷を用いて造られる水資源を、閉じられた空間で循環させる実験が行われている。
この実験は予想されていたよりはそこそこ上手く行っているらしく、将来的に火星表面に広大な自動化農場を建造することが最初の目標として設定された。

ホエールラインを用いての地球~火星間の航行は、片道概ね七日間ほどの距離になる。
かつての通常航宙技術では二年ほど待って地球と火星の位置関係の好機を待ち、それでも八ヶ月かかる楕円軌道を描いてようやくたどり着いたことを考えれば劇的な短縮である。
ホエールラインが惑星の軌道を無視できるのは、そもそもの三次元座標が滅茶苦茶に折り畳まれている上、各惑星の衛星軌道上に(地球の場合は海上にも)設置された“灯台”と呼ばれるアンカー設備が偏在空間の一部を固定し、通常空間との出入口を担っていることで実現する。
宇宙船が唯一認識できるのは、この“灯台”との相対的距離だけだ。
それ以外の方法で、自身の位置を三次元宇宙上に座標として認識することは出来ない。

AACモビーディックが地球を出発して四日が過ぎようとしている。
イグナシオ・タナカは幸いにもその間、サウダージ症候群の発作に苦しめられることはなかった。
それは、日中の肉体労働がなかなかにハードで、体力的に起床しているのが難しい夜が続いたことが効を成したと言える。
要するに、自意識を保てないほど肉体が疲労してしまえば、サウダージ症候群の起こる余地がなくなると言うわけだ。
それをキャプテンやゲイルが予想してスケジュールを組んだかはわからないが、タナカは少々夢見が悪い時があった以外には無事に夜を越すことができた。

ただ、流石に法的基準を越えた労働を課すことは出来ないとし、五日目の朝は非番を言い渡された。

「キャプテン、コーヒーです」

食堂で二度目の朝食にありつこうとするキャプテンに、タナカはブラックコーヒーを差し出した。

「気が利くねー、きみ」

元より目が細く、半ば眠いのではないかと錯覚するキャプテンの目付きだが、応じた言葉の張りの無さには明確な眠気が見てとれた。

「……あれ、今日非番だったっけ……」

「はい……今さっき云われたばかりですが……」

タナカも自分用に用意された朝食をブランチに、キャプテンと同じテーブルに着く。

「キャプテン、タナカの分も含めて食料品は追加発注かけるよ、流石に労働量に対して栄養価が低すぎる」

同じテーブルに、ゲイルも端末片手に座した。

「ゲイルさん、栄養士もやってるんですか……」

「まぁ殆どコンピューターがやってるんだけどさ……目に見えちゃうとほっとけなくてね」

タナカ達が体内に入れているマイクロマシンは、血中物質をモニタリングして正確な“体調”を記録している。
例えばそれこそ栄養価であるとか、血中抗体量、酸素量等が明確な数字として表記できる。
本来ならゲイルは医療業務に集中し、これらの雑務は調理師や栄養士が別に在籍して行うべきなのだが。

「なんかもう、お母さんの域ですよね……」

──“飯が美味いから”の理由で、ゲイルは半ば調理師を兼任させられている。
そもそも料理は趣味だからと、彼はそれを苦も言わずに遂行している。
それに。

「連中の言うこと聞かせるのには胃袋掴むのが一番早いしね」

「んグッ」

タナカは思わぬ言葉に喉を摘めかけた。
一番、怒らせてはいけない相手がはっきりとした瞬間だった。

「……んー……」

新鮮なサラダをもりもりと租借しながら、キャプテンは自身の端末と睨み合っている。

「ゲイルくんさ」

「アイアイ」

「最近、メシの量少ないよね」

そう言うが早いか、キャプテンの額に金属製のトレイが飛来し、心地よい音を響かせてヒットした。

「!?」

「──痛ぁ、僕は率直な意見を述べたまでなんだけど」

すさまじく正確なコントロールでトレイが直撃したその光景に、タナカは唖然とし、硬直する。

「いやぁ、員数外の人員が居てその分の消耗品コントロールが必要なのを理解してくれているはずだと思ってたんだけどなぁー! そのつもりだと思ってたんだけどなぁー!」

「えー、密航者の分僕のメシ減らすとは思わなかったからなぁー」

「一日八食は食べてる奴から徴収するのが当然だろッ、安心しろ他の連中からも平等に分けてもらってるよッ」

侃々諤々とした言い合いの中で、その原因を自分に見いだしたタナカが申し訳無さそうに眉を下げる。

「あー、気にせんでいいよ、そもそも、コ、イ、ツ、の、決定だからなッ」

「いたいー」

アームロックを掛けられられたキャプテンが呻く。
そして、白衣の裾から覗くゲイルの腕は、確かにラバー質の素材で包まれていた。

「次の火星でちゃんとまともにするから、タナカは気にしないでいいよ」

「いてて……それだけどさ」

拘束を解かれたキャプテンが徐に口を開く。

「──え、なんか問題あった? オレもう発注かけちゃったよ」

「あー、うん、じゃあいいか……」

「え、気になります……なにかあったんですか?」

キャプテンは襟元を正すと、再び端末と睨み合う。

「──ほら、ゴローがさ、木星辺りで渋滞になりそうだって言ってたでしょ、その予想がアタリそうでさ」

「……まじかよ、ふっかけるなぁ……」

「この仕事で“赤”出したくないしさぁ……となると、やることは決まったようなもんなんだけど……」

端末を除き込むゲイルとキャプテンの会話に、タナカは困惑する。

「──ホエールラインって、入る分には空間が安定してていいんだけどさ、“出る時”にちょっと問題があってね」

キャプテンがタナカの顔を見て、顛末を語りだす。

ホエールラインの内部空間は、“宇宙鯨”によって“食べられた”際に、周囲の空間を無理やり“折り畳んで”空間構造の辻褄を合わせている。
と、口にするのは簡単なのだが、その超自然的メカニズムは科学でも未だ説明しきれない部分が多い。

その“折り畳み”に関しては、通常三次元より高次の空間、所謂“四次元”の世界で行われているらしい。

四次元空間と言うのは、例えばブラックホールを抜けた先に存在する異世界であるとかそういうものではなく、あくまで“世界の見え方”が異なる空間であるとされる。
ひとつの座標しか存在しない一次元に、もうひとつ座標を加えると、二つの座標の間に“距離”の存在する二次元になる。
この“距離”のあり方を“縦、横”と表すならば、そこに新たな“距離の方向”である“高さ”を与えると、それは三次元と呼ばれるようになる。
人類が認識できるのはこの三次元までとされているが、通常人類が知覚できない“第四の方向”と言うものがあり、それによって表されるものが“四次元”と称されているのだ。
例えば、三次元空間において二次元を想像するに、紙を丸めて見かけの座標の位置を近づけてみたり、その間の距離を歪めてみたりすることは容易だろう。
それと同じように、四次元の視点では、三次元の立体を“折り畳む”──“同じ三次元座標に異なる点を同時に重ね合わせる”──といった操作を容易に行うことができるだろう、と推測されている。

ホエールラインは、そんな“四次元の視点”から、失われてしまった三次元座標が強制的に辻褄を合わされた空間であると言われている。
見かけにはなにも変わっていないように知覚されるが、実際には穴空きのジーンズを縫い縮めて平静を装っているようなものだ。
この“縫い縮められた空間”をあえて通ることで、見かけ上の座標間の距離を短縮する、というのがホエールライン航行のメカニズムだ。

ところが、この“縫い縮められた空間”と言うのは、前述の通り、三次元空間に生きる人類には本来知覚出来ないものである。
知覚可能な三次元空間から侵入するのは容易でも、ホエールライン空間の内部は、言わば次元の万華鏡のようなもの。
そこから目当ての三次元座標を割り出し、その場所に出直ると言うのは、本来なら不可能だとされていた。

しかし、その“知覚”が可能である人間というのが存在した。

三次元と四次元は別の空間なのではなく、あくまで同じ空間の“見方”が異なるだけで、次元とは常に同時に存在している空間へのアプローチにすぎない。
故に、知らず知らずのうちに四次元の物事を無意識に知覚できる人間はかつてより存在していたのだ。
ただ三次元優位の生活環境に置かれているために、表現の仕様が無かっただけで。

こうした“物事を四次元的に知覚できる才能(センス)”を持つ人間は、宇宙生活者、特にホエールライン航行を日常的に行う人間の、およそ十人に一人居るか居ないかの割合とされる。
そういった人間は“水先人(ナビゲイター)”と呼ばれ、特殊な機材によって脳内のイメージを映像として投影し、空間座標の歪みを航宙士に伝える仕事を与えられる。
この大役が可能な人材は前述の通り非常に限られており、多くの場合、航宙公社に在籍するナビゲイターを派遣してもらい賄うことになる。

「その派遣料がトラフィックに合わせて跳ね上がっててねぇ……やっぱプロセッサー買う?」

「いや、それはボルトが嫌がるだろ、オレだって嫌だし」

「……え、機械でなんとかなる問題なんですか……」

尋ねたタナカに返された表情はネガティブなものだった。

「──いや、ナビゲイターは人間の“脳”じゃないと勤まらない」

「脳……」

「プロセッサーって言ってるのは、ナビゲイターが出来る人間の“クローン脳”のことだよ。精度は悪いし、値段の割に寿命も短い」

キャプテンはストレートに答えた。

「……ボルトさんが嫌がるの、わかりました」

「だろ、倫理的に誰だって嫌だけど、選択肢からは消えないんだよなぁ……」

ゲイルはそう頭を抱える。

「まあ、火星でちょっと辻褄合わせするしか無いよね……はー、忙し忙し」

そう言いながらキャプテンは大きな欠伸をひとつ浮かべて立ち上がる。

「ごちそーさん、あ、タナカくん」

「は、はい」

「後でブリッジ横のデッキに出てごらん、いいもの見れるから」

キャプテンは飄々とした態度を崩さず、食堂からのらりくらりと出ていった。

「──下げろやコルァ!!」

ゲイルの罵声も、すでに届かないだろう。




人員の少ないモビーディックでは、役職に就く人間でも大半の雑務をローテーションで処理している。
例えば掃除、洗濯は共同で行うし、その他にも、オートメーションされていない細々としたものは個別に行っている。
周辺目視確認(ワッチ)などは主たるもので、ほとんど形骸化してはいるものの、些細な変化でも大事故、大損害に繋がる輸送船では必ず行われている仕事だ。

要するにただ見張りをするだけの仕事なのだが、センサーシステムの発達している現在では突然の衝突事故はまず発生しないし、地球上の海と異なり天候の変化のないホエールラインでは時化(シケ)等も起こることはない。
故に、目視確認を指示された船員は、ブリッジ横の見晴らしのよいデッキで四時間程度拘束されること意外は概ね自由に過ごしている。
そのいい加減さたるや、例えばデッキの端にはゴローが下着姿で日光浴をするために置いたリゾートベンチが鎮座し(そもそも日光浴と言えるほど日光が入射することはないはずなのだが)、またその隣にはゲイルの燻製鍋がこっそり隠されている。
あるいはボルトがプラモデルのスプレー塗装をする際に飛び散り防止の為のブルーシートを貼り付けてある一角があったりと、監査など入れば大目玉必至の空間と化していた。

操舵士、ブライアン・フェルディナンド・ストロガノフがその日持ち込んだのは、一目で何が入っているか明確にわかる特殊な形の布ケースだ。
週に一度あるこの時間は、ストロガノフだけでなく、他の船員にとっても楽しみにしている時間だった。

ブライアン・フェルディナンド・ストロガノフ。
その名が示す通り、彼は非常にややこしい混血の出自を持つ。
最早人種のカクテルと称していい彼の血筋は、タナカと十分に張り合えるだけの血脈の呪詛を秘めていた。
特に彼の場合、両親の実家同士の軋轢が激しく、ストロガノフ当人の未来を巡って非常に厄介な摩擦を起こしており、それが現在も進行中であることが大きな頭痛の種となった。
父方は彼をブライアンと呼び、母方は彼をフェルディナンドと呼ぶ。
その度に彼はブライアンを演じ、フェルディナンドを演じる。
そんな二重生活のなかで、彼は自分のパーソナリティの喪失を恐れていた。
ブライアンも、フェルディナンドも、確かに自分の筈なのに、ブライアンでも、フェルディナンドでもないような気がする。

だとすれば、自分はどこにいるのだろう。

彼が宇宙(うみ)を目指したのは、そんな軋轢から逃れ、自分自身と向き合うためだったのかもしれない。
誰の手にも届かないところに行けば、自ずと自分が見つかるはすだ。
そう信じて宇宙(うみ)を目指した。

彼は最初、その恵まれた体格を買われてとある企業から派遣される航宙パトロール隊に配属された。
だがこの企業には少々怪しい部分があり、宇宙生活者向けのサプリメントであるとか、ちょっとしたケミカルドラッグのようなもののモニタリングを密かに傘下のパトロール隊を用いて行っていたらしい。
しばらく土星のステーションに滞在していたガノフだが、同僚の様子が徐々におかしくなっていき、自身の体調にも変化が出てきたことから危険を察して、そのまま退職届を送りつけて逃亡してしまった。
以降、土星から動けず途方にくれていたところを、彼はキャプテンに拾われ、モビーディックの操舵士として働くことになる。

たが、そのスカウトの切っ掛けは、彼自身が本当に良かったのかと疑問を抱くものであった。

「さて、と」

ゴローのリゾートベンチに腰掛け、ガノフは布ケースのジッパーを開く。
そして自身の携帯端末を船内放送のチャンネルに繋ぎ、手近な場所にコトリと置いた。

取り出したのは、少々年季の入ったアコースティック・ギターである。

その巨体、野太い指に似合わぬ繊細な手付きで、ガノフはギターを抱えると、コードをひとつ、ふたつ、アルペジオで爪弾いた。

“ギターが上手いから”

それが、彼がこの船に招かれた理由である。

「────」

鼻唄混じりに爪弾かれるギターの音色が、端末を通じて船内に流れていく。
仕事から逃げたした後、土星のステーションで流しのギター弾きの真似事をしていたころから、ガノフの演奏は拙いなりに評判が良かったものだ。
娯楽の少ない船内で、ガノフのギターはひとつの癒しであった。
海に似合うまったりとしたボサ・ノヴァや、母方仕込みの泣きのフラメンコを得意とはしているが、父方の趣味の古いロック・ナンバーやフォークソングも弾くことが出来る。
おおらかでいて繊細、そんなストロガノフの人間性が、彼の爪弾くギターからも感じ取れた。

一曲弾き終えた所で、ストロガノフは小さく手招きする。
その相手は、ブリッジの隅で耳を傾けていたタナカだった。

「──すごいですね、ギター弾けるなんて……」

「まだ練習中だけどね、昔とった杵柄みたいなもんだよ」

ガノフの巨体では、持つギターすら小さく見える。
ウクレレとまでは行かないが、その指でよく演奏が出来るものだとタナカですらそう思う。

「でも今日はお客さんが居て嬉しいな──」

そう呟きながら、ストロガノフは再び繊細なアルペジオで指を慣らしてから、新たな一曲を紡ぎ始める。

「────」

鼻唄混じりの前奏。
そのメロディに、タナカはふと、顔を上げる。



「──Vai minha tristeza e diz à ela Que sem ela não pode ser──」
悲しみよ、あの娘に云ってはくれないか、君が居なけりゃ駄目だよと

「──Diz-lhe numa prece que ela regresse Porque eu não posso mais sofrer──」
お願いだから戻っておくれ、この苦しみに耐えきれない

「──Chega de saudade,──」
“哀愁”なんてもうウンザリだ

「──a realidade é que sem ela não há paz não há beleza,── 」
君が居なけりゃ平和もトキメキもありゃしない

「──é só tristeza E a melancolia que não sai de mim, Não sai de mim, não sai──」
この悲しみと憂鬱から、もう抜け出せない、抜け出せない、抜け出せない──

「──Mas se ela voltar, se ela voltar──」
もしも、君が戻るなら、戻るなら

「──Que coisa linda, que coisa louca──」
なんて、なんて素敵なことだろう

「──Pois há menos peixinhos a nadar no mar Do que os beijinhos que eu darei na sua boca──」
この海に泳ぐ魚より、沢山のキスをしてあげるよ

「──Dentro dos meus braços os abraços hão de ser milhões de abraços──」
何百万回も飽きるほど君を抱き締めて

「──Apertado assim, colado assim, calado assim Abraços e beijinhos e carinhos sem ter fim──」
言葉もいらない、永遠の愛の時間をすごそうよ

「──Que é pra acabar com esse negócio de viver longe de mim──」
僕と離れて生きるなんて、独りで生きていくなんて

「──Não quero mais esse negócio de você viver assim Vamos deixar desse negócio de você viver sem mim──」
そんな生き方はいけないよ、僕と離れて生きるなんて──


優しい、優しい歌声だった。
爪弾かれる音色と同じくらい、繊細で暖かな歌声だった。
この、大きな身体の青年から最初に感じた恐怖は、彼の歌声の優しさに完全に消しとんでしまっていた。

「……ガノフさん、その曲……」

「有名な曲だからね、知ってるかなって」

そう、タナカは知っている。
まぎれもなく、彼の耳が覚えている。

「いや……父がよく、鼻唄で歌ってましたから……」

タナカの頬を伝う涙を見て、ガノフは端末の接続を切り、席の隣に誘う。
促されるままにタナカはガノフの隣に座すと、その太い腕が肩を包み込んだ。

「……不思議です、なんだか、父さんはもう居ないのに、ここに来てから、父さんの思い出ばかりが過ります」

「……うまく言えないけど、多分、この宇宙(うみ)に居るんだよ、お父さん」

ガノフはふと、顔を上げて空を見る。

そこにあるのは、七色の海だ。
空間固定フィールドが見せる、可視光の揺らぎ。
そこに“そら”は無い、だが確かにここは“宇宙(そら)”の中でもある。

もしも天国が空の向こうにあるのなら、ここはきっと、天国に一番近い“そら”なのかもしれない。
タナカは嗚咽の中でそう願った。

「タナカくん、今夜、俺の部屋においでよ」

「──えっ」

「お父さんの話聞かせて、お父さんの好きな歌、もっと上手に演りたいから」

そもそも、ストロガノフはこの青年に近しいものを感じていた。
あくまで人伝に聞いたことでしかないのだが、同じ血脈の呪詛から逃れて宇宙(うみ)を求めたという点に、強いシンパシーを抱いていた。

「ぅえ……なんでみんな泣かしにかかってくるんですかぁ……」

タナカの瞳からボロボロと涙が溢れ出す。
そんなつもりは無かったのにと困惑しながら、ガノフはタナカの背を擦って宥めた。



──一方、ブリッジでは。

「……君たち何してんの」

計器類に隠れて様子を伺うゴローとボルトに、キャプテンが尋ねる。

「だってよ、歌アリだぜ歌アリっ、こっちがなんかあったのかって思うだろうよっ」

ボーカルありの演奏はかなりのレアケースであった。

「俺ァボルトが面白かったからツケてきただけ」

ゴローはいやらしい笑みをボルトに向ける。

「コイツ、せっかく出来た弟分をガノフに取られてご立腹なんだぜ」

「ち、違わいッ、オヤジがそんなふうに仕向けてンだろッ」

「仲いいねー君たち、ホント」

呆れたような感情すらない抑揚ゼロの語り口でキャプテンが呟く。
そして、その視線は窓の向こうで肩を寄せ合う二人を見据えていたが、それに二人が気づくことはなかったし、気づいたとしてもその表情が如何なる感情を示しているかは誰にもわからなかっただろう。

この男は船の長でありながら、誰一人として腹の内を知るものが居ない男だ。




木星付近でのトラフィック増加に備えてキャプテンとゴローは航海計画を見直し、若干の無茶を通して次の火星入りを一日早めるよう定めた。
通常出力を越えてエンジンを回すことにボルトは難色を示したが、土星行きのコンテナにステーション勤務者向けの生活資材が多数含まれていることから納期遅れを容認出来ないと結論付けて納得した。

各惑星に多数存在する衛星軌道ステーションは、それぞれ企業が運営し、惑星からの資材を加工し、地球ないし他惑星ステーションへと輸出するための設備と宇宙港の二種類が主となる。
例えば、木星で産出するエネルギー資源や、土星の環からは水資源までも産出可能だ。
そして地球からはこういった外惑星向けに生活資材の多くを輸出している。
こうして大航宙時代の経済は流転している。

明日は積み降ろし作業に向けての準備で船内はてんやわんやになるだろう。
消灯時間前には各船員は率先して身体を休め始めていた。

「──こんばんは」

タナカはストロガノフの部屋の呼び鈴を押す。
面白味のないビープ音が微かに扉の向こうで聞こえ、程なくしてガノフが顔を出した。

「いらっしゃい、待ってたよ」

扉が開いたにも関わらず印象が変わらないほどの空間占有率を誇る巨体が出迎える。
頭ひとつ分半は優に越える身長差は、五日を過ぎてなお慣れてはいない。

「あの……おじゃま、します」

「どうぞ、散らかってるけど」

タナカはそう言われて通された部屋のどこが散らかっているのか疑問に思った。
いや、まるでハイスクールの男子寮の様相だったボルトの部屋をなし崩しにせよ先に見てしまったが故かもしれないが。

ストロガノフの部屋は観葉植物まで飾られた小綺麗な部屋で、あえて散らかっていると称される部分を探すのであれば、机の上に何冊かの本が平置きされたままになっている程度だろうか。
壁沿いにはいくつもの本棚が並んでおり、ぱっと見る限りでは専門書が目立つようだった。

「いやめちゃくちゃ綺麗じゃないですか部屋っ、僕の実家の部屋なんて目も当てられないですよッ」

「そ、そうかなぁ……タナカくんが来る前に片付けたからだと思う……」

照れ臭そうに身を縮めて頬を掻く。
視線を泳がせるストロガノフを見て、タナカはようやく安堵の表情を見せる。

「──でも、せっかく遊びに来てくれたのに、明日は朝からバタつきそうでごめんね」

タナカは促されるままにソファーに腰かけた。

「明日、火星に寄港でしたっけ」

「うん、船を港に着けて、荷下ろしと積み込み。コンテナの荷重を計算して、どこに載せるかをプランニングして──あ、ホットミルク飲む?」

「あ、はい、頂きます」

ガノフはどこか嬉しそうにマグカップを二つ電子レンジに納める。

「と言っても、予定されてる貨物の計算はもうコンピューターが済ませてるし、あとは直前に変更があればアドリブでなんとかするだけなんだけどね。そのあたりも自動化されてるし……港に着いたら、あとはほぼ自由時間だよ」

そもそも、火星から積み込まれる貨物はほぼ無いようなものだと言う。

産出されるのはほぼ鉄資源であるが、軌道上ステーションの建設などの宇宙開拓が落ち着いてきた現在では需要はほぼ落ち着いており、無理に火星から輸出することもなくなってしまった。
将来的、火星で行われているコロニー実験が成果を上げ、他惑星に移民を行う計画が実行されるまではそれほど重要視はされないと云われている。

「一番忙しいのは木星、土星かな……むしろ、帰りのルートの方が忙しいと思う。どっちの星でもエネルギー資源を乗せて地球に帰らないといけないからね」

「帰り……」

「その時、人手が多いと助かるんだけどね……」

その頃には、タナカは天王星で船を降りている。
天王星でタナカがどうなるのかは、本人にもわからない。
この五日の間、タナカは“その後”について考えることを止めていた。
和気藹々と過ごしているが、この船にとってタナカは本来、不法乗船者であり罪人なのだ。
良識を以て法的に正しい判断をするなれば、タナカは天王星で逮捕されるべきである。

「──タナカくん」

ストロガノフの声かけに我に返る。

「あ、ごめんなさい……」

「……あの、さ」

ガノフはもじもじと指を絡めながら、小さく言葉を紡ぎ出す。

「……俺、船長は、タナカくんのこと……そんなに悪く扱わないと思うんだ……だから、道中は心配しなくていいと思う」

「……」

「そ、それに、ボルトもそんな悪い気してないみたいだしさ、あいつ、兄貴風吹かせたいだけなんだよ……俺がここにきたときもそうだったし」

それに関してはタナカも同意だった。
あの夜以降、口ぶりは相変わらずなものの、ボルトが随分とタナカを気に入っているらしい素振りは十分に感じとれた。

「──タナカくん、今いくつ?」

「えっ、と──二十一、です」

「あ、じゃあ俺と二つしか違わないんだ!」

ガノフの笑顔にタナカが目を丸くする。

「え、今二十三ですか!?」

「そうだよー、ガタイのせいで全然見てもらえないけど。ボルトが二十五だから、タナカくんが来るまで一番下だったんだ」

確かにストロガノフはタナカの目にもそこまで年齢が近いようには思えなかった。
それは、外見に起因するものではなく──

「……でも、ガノフさんは……そんなに歳違わないのに、操舵士なんですよね……」

「……ああ、父親が海軍の人だったから。入れられた学校で資格取らされて」

その延長線が、あの書架に詰まった専門書の類いかと、タナカは察する。

「すごいですよ……僕にはとても無理です」

「はは……でも、別に取りたくて取った資格じゃないし。言われるがまま、無理矢理にね」

ガノフは小さくため息を吐く。

「進路はほぼ親に決められてて……父親は俺のこと軍人にしたがってたけど、母方が猛反対して……でも結局、自分がやりたいことじゃなかったから、逃げ出してきた」

「……」

「その先で怪しい会社に入っちゃって、変な実験の片棒担がされてさ……周りの人たちがおかしくなっていくのを見て、また逃げ出した。土星での話さ」

ガノフは微笑んでいたが、その表情には陰りがあった。

「なけなしのお金で木星までのチケットを買って、乗せてもらったのがこの船だった──その時、重いサウダージ症候群に罹って、ゲイル先生に助けてもらったんだ……」

「その時からの付き合い、なんですか……」

「うん、それで、たまたまギターを持ってたから、一曲演れってキャプテンに言われて、そしたら、さ」

ガノフは照れ臭そうに鼻を掻いた。

「“ギター聞きたいから採用”って。そんな雑な理由で操舵士やることになって……」

「雑すぎませんか!?」

「ホント、そう思う。今でも、本当にここにお世話になってていいものか、悩んだりもするよ」

タナカは、ガノフの視線の先に立て掛けられたギターを見る。
年期の入った、細かな傷が目立つギターだ。

「だから……タナカくんもさ、もし、よかったら……この船で一緒に働けたらなっ……なんて」

「僕も……ですか」

「うん、俺からキャプテンに、頼んでもいいかな……」

ガノフの視線は、やさしかった。
タナカはそこから、目を背ける。

「ぼ、僕は……密航者だし、ガノフさんみたいに……何でもできる訳じゃないから……」

自分には、何もできていない。
ただ、今は、せめての償いとして雑務を与えられているだけで。

「そ、そんなことないよ、俺だって──」

「ガノフさんみたいに、船を動かせる訳じゃないから──」

そうだ、僕には何もできない。
目の前の男のように、恵まれたものは何もない。
非力で知恵もなく、何の実績も後ろ楯もない。

「ごめんなさい、そろそろ休みます──明日早いですもんね──」

「た、タナカくん──」

急に、恐ろしくなった。
自分には何もないと言う事実が、今、優しい人達に知れ渡ることが。
温情で雑務を与えてくれているだけなのに、これ以上失望されてしまうことが。

誰にも失望なんてされたくない。
──でも、遅かれ早かれ、皆気づくだろう。
否、只でさえ僕は厄介者で、失望される邪魔者なのに、これ以上迷惑をかけちゃいけないんだ。
だからこれ以上僕はこんな場所に居ちゃ行けないし誰の目にも届かない場所に居なきゃいけないんだから何で僕はこんな場所に居るんだろう駄目だ駄目だ駄目だ早く帰らないとでもお母さんになんて言い訳を

「──タナカくんッ!!」

──背部に感じた重量で我に返る。

「……ガノフ、さん……」

「──嫌だよ──タナカくん──行かない、で」

巨体はタナカを床に押し倒し、震える腕でその身体を拘束していた。
表情はひきつり固まったまま目を見開き、明らかに正常ではない様相を呈する。

──サウダージ症候群。

その言葉がタナカの脳裏に過る。

「いかないで──お願い──ッ」

「──」

どうするべきか、タナカは判断に困った。
そもそも、直近に感じたあの恐怖感には覚えがある。
自分がすがれるものが唐突に失われる恐怖だ。

「──」

そして今、目前の男。
B・F・ストロガノフもまた、すがるべきものを失い、辛うじて目前の人間に追いすがったのだろう。

「……大、丈夫です……」

「たなか、くん」

「どこにも、行きませんよ──」

タナカは手を伸ばし、ガノフの頬に触れる。
冷や汗で冷たくなった震える頬を拭い、太い首から後頭部まで手を滑らせる。
そしてそのまま瞼を閉じ、唇を重ね合わせるよう導いた。

「──ん──ぅ──」

舌を絡み合わせる。
まるで乳房を探す乳幼児を思わせる。

あの恐怖は、そうか、母を求めて泣き叫ぶ乳幼児の恐怖のそれなのかもしれない。
大人になる頃には忘れ去り、それ以外の恐怖で理由付けて来たものの、その例えこそが最も腑に落ちる。

地球という揺りかごから取り上げられて、泣き叫ぶ乳呑み子に逆戻りしてしまうのだ。

それならば、もう、惑うべきではない。

どれ程肌を、唇を重ね合わせようとも、それは赤子の道理だと理由付けてさえしまうなら、罪悪感などはそこには無い。

「ッ──タナカくん──」

「大丈夫です……今夜は、一緒に居てください」

「ごめ……ん……」

あの夜、ボルトに施されたそのままにタナカは振る舞う。
もし、ガノフが押し倒したのがもう少し遅かったのなら、自分も危ないところだった。
どうにか互いに触れ合う事で持ち直したが、身の置き場の無いようなざわつきが未だに胸の奥底にある。

「……ありがとう……大分落ち着いてきた」

呼吸を整えながら、ガノフが身を起こす。
だが、今度は無意識に延びたタナカの手が、その肩を引き留めた。

「……あ……」

「……うん」

言葉を交わすでもなく、ガノフはふと表情を変え、タナカを抱き上げる。

「わ、わっ……!?」

そして、まるで乙女を抱くように軽々とタナカの身体を持ち上げ、自身のベッドへと運んでいく。

「タナカくん軽いなぁ、ボルトより軽い」

「えっそのッ、あのッ!?」

動揺するタナカはされるがまま横たえられる。
ガノフは繊細な手つきでタナカの靴を脱がし、自身もその隣に身を横たえた。

「……腕枕、していい……?」

「あ、はい」

据わった眼差しで言われるがまま首を上げると、ガノフは腕を回してタナカを抱き寄せる。
頬を寄せた分厚い胸板の向こうで、心臓か足早に鼓動するのが聞こえた。

「へへ……まだ俺、動揺してる……」

少し恥ずかしそうに、ガノフが囁く。

「……ごめん……なんだか、後輩ができたみたいな気持ちで舞い上がっちゃって……」

「……」

「タナカくんも、なんだか実家のことで悩みがあるみたいだって聞いてたから……俺も、そういう悩みがあったからさ、力になれるかなっ……て……」

ガノフの声は、徐々に弱く、か細くなる。

「……なのに、助けてもらっちゃったね……それに無理やり引き留める真似しちゃって……なさけないなぁ……」

「……いえ……僕も今……危なかったんで……」

ガノフが体勢を変え、互いに向き合う形になる。
合わせた瞳は、微かに潤んでいた。

「……へへへ……連れ込んでおきながら、弱気になっちゃった……」

「……」

そう無理やりに微笑みを浮かべるガノフの頬に、タナカは手を伸ばす。

「……っ」

そのまま、首筋に指が流れる。
胸鎖乳突筋から鎖骨の谷間を渡り、膨れ上がった胸筋に指を滑らせる。

「んっ……」

ガノフは目を閉じ、微かに身を震わせて耐えた。

「もっと……触って……」

「えっ……」

「触って……ほしい……落ち着くから……」

嘆願された通り、タナカの指が胸元で滑る。
時折ガノフは微かに身をよじり、もっと触れてほしいと言葉なくして訴える。
手のひらで包みきれない程の広さを誇る胸板を、タナカは柔らかく揉みしだく。
その指先が乳頭に触れた時、タナカは異変を感じた。

「……?」

何故か異様に指先がべたつくのだ。
汗ではない、だが、ガノフが纏うタンクトップの乳頭周辺が妙に湿っている。

タナカは、それが気になった。

「ん、あっ……!?」

首元からタンクトップの中に手を入れ、乳頭を探る。
そして、指先が何かでじっとりと濡れたのを確かめた。

「……これは……?」

タナカの問いかけにガノフは恥ずかしそうに片手で顔を隠すと、もう片方の手でタンクトップをめくり上げた。

乳頭から、何かが出ている。

その流れ方から血液を連想したが、赤くはない。

「恥ずかしいんだけど……その……っぱいが……出るんだ」

「……えっ!?」

タナカはもう一度聞き返そうとしたが、真っ赤に染まるガノフの顔をみて無理強いはしなかった。

辛うじて聞き取れた言葉と、今見ている光景で、補完するに。



乳(おっぱい)が、出ている。



「昔……いた会社でさ……知らず知らずに、人体実験のモニターにされてて」

「じんたい、じっけん」

「ホルモンのバランスが崩れたとかなんとかで……乳腺が異常発達してるらしくて……」

ガノフが顔を背ける。
だが、その胸から乳が止まる様子はない。

「たまに、こう、胸が張っちゃって……刺激があると漏れちゃう時が……」

「もれちゃう……」

タナカは、理解が追い付かないままに溢れていく乳を見つめている。

「だ、大丈夫だとおもったのにな……おもったのに……」

動揺しているのか声が震えるガノフを前にして、タナカは理解が追い付かないままその乳頭に手を伸ばした。

「──だめッ──」

乳頭を摘まむと同時に、乳が勢い良くタナカの顔に吹きかかる。

「────」

そして意図せぬままにそれを舐めてしまった。

「……」

「……あ……」

タナカはそのまま、ガノフの胸にむしゃぶりついた。

「ああぁあ!? タナカくぅ……んっ……!!」

飲む、という程の量が出た訳ではないが、タナカはその乳頭から溢れる乳を舐め取ってしまった。
左乳が済めば右乳にも舌を這わせた。
冷静さのかけらもなく、理解を遥かに越えた事態に対して本能的に取った行動だった。

「んッ、ん──んッ──!!」

ガノフは身をよじりながらも、タナカを突き放す訳にも行かず、その刺激に声を殺して耐えた。
しかし、彼も既に理性を保ってはいられない状態であったのも事実だった。

下着が張り裂けそうな程立ち上がった自らの愚息を引きずり出すと、その首根っこを掴んで一心不乱に扱き出す。
もう片方の手ではタナカの細い腰を抱き寄せ、硬直した彼自身を自らの脇腹に押し付ける。
唐突に発生した自慰行為にタナカは一瞬狼狽えたが、ガノフの悦びに応えてか再び乳頭に舌を這わせた。

「んぁ──タナカくん出るッ、出るとこ見てッ、あッ──!」

ガノフが海老反ると同時にタナカは身を放す。

「んッ、が、ぁ──!」

身が跳ねると同時に、ガノフの巨根が種を吐き捨てた。
タナカはまず初めて目にする他人の絶頂に驚愕し、遅れて目前の人物の、それこそ初めて目にする猛り狂った逸物の質量に驚愕する。

「ぁ、ぁ──!!」

びくん、びくん、と巨体を震わせると同時に、その複雑な隆起を持つ筋肉の鎧に精液が尾を引いた。

「はぁ、はぁ──」

ガノフが潤んだ瞳でタナカを見る。

その瞳に、タナカは唐突に罪悪感を覚えた。

「す、すみま、せん──」

飛び退こうとしたタナカに、ガノフは首を横に振る。

「──みて──ほしかったから──俺の、こういうとこも──」

「え……」

「だって……俺だって……寂しかったから……」

言葉とは裏腹に、ガノフは再び顔を隠す。

「……ごめんタナカくん……へんなとこ……見せて……」

「い、いや、焚き付けたの僕だと思うし……」

上下する、筋肉の塊のような胸に、腹に、精液が艶かしく流れるのを、タナカは思わず見つめてしまう。

「……じゃあ……ガノフさん……僕のも、みますか……」

「えっ」

「それで、おあいこにしましょう──ッ」

タナカはガノフの横に膝立ちになってズボンを下ろす。
そして、その眼前で、自身の愚息を扱き始めた。

「────ッ」

顔から火が出そうな羞恥に、自身の逸物が普段より膨れ上がっている。
そして、それを、目の前の男が、それこそ、仕事仲間が、唖然とした表情で凝視しているのがより恥ずかしかった。
心臓が破裂しそうな程に脈動し、緊張に指先が痺れてくる。
だがそれを越える興奮と、見てしまったからにはと言う妙な責任感とが、タナカを突き動かした。

「──出、ますッ!!」

「──ッ、かけてッ、俺の胸にッ──!!」

一瞬、戸惑ったが、塞き止められる段階でもなかった。

タナカは、ガノフの広い胸筋に、熱い精液を吐き出した。
二人分の精液が、筋肉の上で混じり合う。

「はあ……はあ……っ……」

互いの視線が絡み合う。
次に紡ぐべき言葉が見つからないままのタナカの腕を、ガノフが引き寄せる。

「──ありがとう──」

小さくそう告げると、ガノフはタナカと唇を合わせた。



「気をつけてー、オーライ、オーライ」

火星寄港を目前として、船に見知らぬ技術者が乗り込んできた。
彼らはブリッジの操舵システムの後方にあるスペースに、重そうな機材を取り付けている。
その装置の目立つ部分と言えば、人の頭程の円筒形のシリンダーだ。
不満そうなボルトの表情に、タナカはその内容物を察して肝を冷やす。

「接続完了、よろしいですか?」

技術者がキャプテンに促すと、彼は頷いて応じた。

「ACCモビーディックから“灯台”へ、これより通常空間に出る」

『管制塔了解。任意のタイミングでどうぞ』

無線からの声に、操舵席に座るガノフと横のコンソールを操作するゴローがアイコンタクトする。

「“灯台”より空間変位予報受信、メインパス確保、モニターにインポーズ開始」

「フィールド展開、“ホエールアンカー”投錨用意」

眼前の光景に、ワイヤーフレームで表現される何かの揺らぎのごとき光景が重なる。
それは、通常知覚できない“四次元の揺らぎ”を三次元的に展開したイメージ映像なのだと言う。
目前にある、俗に“灯台”と呼ばれるタワー型の施設と、その周辺に展開する“ベイバード”と言う自律型の飛翔体がもつセンサー、それらが“水先人(ナビゲイター)”の脳とが共鳴し合うことで、周辺宙域の四次元的なマッピングが行われる。

「フィールド変動率、空間変位予報とリンク開始、セーフティチェック開始」

「投錨準備完了、アンカーの射出タイミングを操舵士に一任」

地球からホエールラインに出るときにも見た光景だが、今度のワイヤーフレームは整然としたものではなく混線した様に乱れていた。
その上で、ノイズが酷い。

「もうちょいどうにかならねぇかな」

「すみません、培養脳ではこんなものです──」

ゴローは自分用のモニターゴーグルで確認しながら、“ナビゲートプロセッサ”、すなわちクローン培養された脳から送られるイメージを補正し続ける。

「よし、十一時方向──見えるか?」

「大丈夫──投錨します」

船首から、鎖で繋がれた何かが飛び出し、その先端が光って消えた。
それはちょうど、絡み合うワイヤーフレームの中でも比較的広い範囲で整然とした区画だった。
この“灯台”は、ランダムに縫い縮められたホエールラインの中で、それぞれの惑星の位置で留められたピンのようなものだ。
その先端が、四次元空間であるホエールラインから頭を出しているようなもので、この周辺の空間はその灯台の三次元座標に近しい場所であることが担保される。
あとは、確実に通常空間に戻れるよう、“ホエールアンカー”と呼ばれる子機を先行させて、そこから三次元に船体を引きずり出すのだ。

「“火星軌道”アンカー完了。ホエールライン脱出します、各員、耐振動防御」

アンカーに繋がるワイヤーを巻き上げていく。
すると、みるみるうちに、ホエールラインの海面が目前に迫っていく。

そして、閃光──



「わあ」

タナカは、思わず声を上げる。

そこは、赤い大地。
漆黒の宇宙に浮かぶ異世界、火星。

「ラッキーだなぁ、マリネリスが見える」

眼下に見えるのは、蜂の巣の様に広がる人工の都市。
マリネリス渓谷に横たわるバイオスフィア・スリーと名付けられたその巨大な集落は、前身となるアリゾナの巨大温室に比べて遥かに建設的なデータを大量にもたらした。
宇宙航海時代が始まってなお、惑星地表で人間が暮らせるのは地球と火星の二つしかない。
とは言え、バイオスフィア・スリーの中でもまだ自給自足は成り立っていない。
将来的な建材としての利用を鑑みてラジアータパインをはじめとする樹木が地球から持ち込まれ、どうにか火星の大地に生態系を再現しようと日進月歩を続けているが、成果が実を結ぶまではあと十年はかかるだろう。

モビーディックの様な輸送船は、孤独な研究者達のために地球から生活物資や嗜好品を運び込むことだ。
まだ生活環境こそ出来上がってはいないものの、経済だけは地球と変わらず回っているのだと、ストロガノフが枕物語に教えてくれた。

「ティベリウス・ステーションから入港許可が出ました。入港ルート確定、ナビゲーションに従いオートパイロット設定します」

「了解。これより休息とする」

クルーの各々からため息が漏れる。
技術者たちはプロセッサの接続を切り、早々に帰り支度を始めていた。
ナビゲイターではなくレンタルプロセッサで代用したのは後に膨らむコスト削減のためであるらしい。

「ガノフさん、お疲れさまです」

「あ、うん……ありがとう」

タナカが差し出したタオルを受け取り、少し気まずそうにガノフが両手の汗を拭う。

「その……昨日は」

謝ろうとするタナカに、ガノフがそっと口先に指を立てて沈黙を促す。

「あ……そうだった」

宇宙(うみ)の男の掟。
罪悪感に駈られて忘れがちになるが、これはもう仕方のないこととして忘れ去る他にない。

──仕方のないこと、それで片付けてよいことなのだろうか。

「──さぁッて! タナカもガノフも一杯ひっかけにいこうぜッと!」

「ひゃんッ!?」

背後から忍び寄ったゴローが二人の尻を揉んだ。

「火星ったらウォッカにペリメニだぁ、赤いロシアに乾杯ッ!」

「ウォッカって、ロシアの……?」

「地表は寒いからね火星……マイナス五十度くらいかな、都市の中はまだマシだけど」

それにかこつけて寒い地方の酒や肴が好まれるのか、はたまた将来的な名物を作りたいがだけなのかはわからない。

「なんか赤いからか暑いイメージがありました……」

「馬鹿野郎が、地球より太陽から遠い星が暑いわけねーだろうがよ」

ゴローに小突かれ、タナカは無知を恥じらう。

「はは……あ、ゴローさん先に行ってて、荷物取ってくるから」

「ほいよぉ、酒場で待ってるぜぃー」

上機嫌な様子で、ゴローは階段を下っていった。

「──あの、ガノフさん」

タナカが呼び止める。

「……また、良かったら、ギター、聞かせてください」

「……じゃあ、取りに行ってくる!」

満面の笑みを浮かべると、ガノフは階段を掛け下りていった。

「……」

頭上に広がる虚無、眼下に広がる火星。
ホエールラインとは違う、本当の宇宙の姿。

未知の力場に隔たれた向こうは真空の世界なのだ。
タナカは、まるで夢でも見ているような気分で、辺りを見渡す。

「ほら、見とれてると宇宙に落っこちるよ」

「あ……」

そう声を掛けたのはキャプテンだった。

「どう? 宇宙」

「……なんだかやっと、ここに来たんだって……感じです」

赤い火星の大地を臨み、タナカは答える。

「……父さんも、あの赤い星を見たんですね」

「……」

キャプテンは、タナカの肩を抱き寄せた。

「あ、あの……」

タナカは困惑した様子でキャプテンを見る。

「……僕が“お父さんだったら”、嬉しかった?」

「え……はい、多分……」

いまいち反応に困る問いかけに、タナカは応じる。

「……父さんじゃなくても、つれて来て貰えて、嬉しいです」

「……ふぅん」

そしてこれまた反応に困る応対を返して、キャプテンもまた階段を降りていってしまった。

「……なんだ、いまの……」

タナカは呆然と、赤い大地を見つめる他なかった。



【LOG#02:CHEGA_DE_SAUDADE】-LOG OUT-


最終更新:2019年07月16日 00:10