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白鯨航路:LOG04_ADEN_ARABIE

深夜のランドリーでは彩りの殆ど変わらない、男物ばかりの衣類がバスケットのなかで縺れている。
傍らの男は半裸にスウェットを履いただけのラフな格好で、鼻歌交じりに汚れ物を洗濯機に詰め込んでいく。
彼は常々、こう飄々とした態度を貫いてはいるのだが、その実、三十分ほど前にシャツが汗に濡れるほどの悪夢で目覚めたばかりだった。

一般的感覚ではアビゲイルという名前は女性名として認知される。
アビゲイル・コルモルトが男性でありながらこう名付けられたのは父親の意向であった。
初めは当時、日本かぶれしていた父親が、“サムライの時代、男児は尊ばれたが女児より身体が弱かったので、悪魔が男児をつれていかないよう女児の名前をつける風習がある”と聞いてそれに倣ったと説明された。
その後、父が死に、養子縁組で養父となった叔父から真実を伝えられる。

曰く、母親が身重の時に、男児なら父が、女児なら母が名前をつけると決めていたのだそうだ。
母は元々身体が弱く、出産に耐えられないかもしれないと伝えられていたそうだが、それでも授かった命だからと出産を諦めなかった。
結果として男児を出産したが、直後に出血性ショックを起こし、母は他界した。
残された父親は、産まれた男児に母親が用意していた名を与えたのだという。

それが、アビゲイルという名前の由来だった。

不幸続きであったとはいえ、アビゲイル・コルモルトは親からの愛情を十分に受けてきたと言える。
彼がティーンエイジャーの時に事故に遭い、左腕と父親を失ってからも、それは変わらないと彼は応える。

だが、その無償の愛が、どこか彼を歪めているのも事実ではあった。

彼は悲嘆する余地を与えられなかった。
それほどの愛を受け、嘆くことを許すことはできなかった。
誰かの為に生き、誰かの生き様を認め、それを助けることを自身の生き様と定めてしまった。
それ故に、異様に奉仕的で、浮き世離れした人格が形成されたのは否めない。
父親、あるいは養父である叔父と同じ医師の道を歩んだのも、それ故と言えるだろう。

一方で、社会が抱える不条理や理不尽に対しては非常にナーバスで、あいまいな物事の影にそれらが巣くうことが許せなかった。
だから彼は物事を“好き”か“嫌い”かのふたつで判断することを好んだ。
彼の正義観は社会に対して複雑だが、倫理観に関してはシンプルなのだ。
“社会的に正しいか否か”で判断するのは好きでは無いが、“倫理的に正しいか否か”で判断するのは好きだ。
彼の理は人理に重きを置いている。

イグナシオ・タナカという犯罪者を匿ったのは彼の倫理観で、それを悪と断ずることができなかったからだ。
彼をそこまで思い詰めさせた事情がなんであれ、それはゲイルの倫理観では好ましくないことで、そこから逃げてきた彼は庇護の対象となるのは明白だ。  

──そしてなにより、イグナシオ・タナカというその青年には自分を重ねて見てしまう部分があった。

「──っと」

どうせ自分の汚れ物を洗うのならと、他のクルーが出した汚れ物をドラムに詰め込んでいる最中、やたら大きなジャケットから一冊の本が転び出た。

「──っぶねぇーっ、これオヤジだろ……ッたくよぉ」

これまたボロボロになるまで読み込まれたペーパーバックを拾い上げ、ゲイルは胸を撫で下ろす。

「ポール・ニザンねえ……インテリぶりやがって」

ゲイルは小さく鼻で笑い、洗濯機のスイッチを入れると、スツールに腰掛け徐に文庫の表紙を開いた。



──僕は二十歳だった。
それが人生でもっとも美しいときだなんて誰にも言わせない。

何もかもが若者を破滅させようとしている。
恋、思想、家族を失うこと、大人たちのなかに入ること。
この世界の中で自分の場所を知るのはつらいものだ──



ボルトが倒れた木星寄港の日から三日が経つ。
丸二日をかけた荷物の積み替えを終え、モビーディックは次の航宙に向けての準備を進めている。

「あ、もしもし、それって二列目の奥って言った? あー……」

通信端末を片手にガノフが渋い顔をする。

「だよね、俺じゃ入れないや……タナカくん!!」

「あ、はい」

「ごめん、あのサーバの下の方だって……二列目の、一番奥」

ガノフが指差したのは、機関室の制御盤の裏にところ狭しと立ち並ぶサーバ群だった。

「あれですね、端末借ります」

「もしもし、タナカくんに代わるね」

ガノフから端末を受けとると、タナカはサーバの間に滑り込む。

『二列目の奥だぞ、絶対他のモン触るなよ!』

「大丈夫ですよぉ、08って書いてあるやつですね?」

『おう、気をつけて開けろよ……オメーはいつも悪気なくヤベーとこ触ってどうにもならなくなるまで自分でなんとかしようとすっからなぁ』

タナカは少しムッとしながら、サーバのカバーを上方に迫り上げた。

「──開きましたよッ」

『おーし、したら、左下の方にモデムがあるだろ、ケーブルがたんまり刺さってチカチカしてるやつ』

流石にモデムくらいは判るとボヤくつもりだったが、内部はまるで野生ロボットが棲むマシンジャングルと表現できそうなほど、ケーブルと機械とがグロテスクに絡み合っていた。

「たんまり刺さってチカチカ……あ、ありました!」

『そしたら、もう一個の端末に刺さってるケーブルを空いてる穴に突っ込んでくれ』

言われるがままにケーブルを繋ぐと、端末が自動的に何かの作業をし始めた。

「あ、画面光りました」

『オッケー、そのまま一旦出てくれ、蓋は閉めなくていい』

繋がった端末を床に置き、タナカは狭苦しいロッカールームのようなサーバの群れから這い出した。

「わっ」

すると、制御盤も勝手に光り出し、窓の向こうで吊るされた作業ロボットの一体が、二人に向けてマニピュレータの指をパラパラ動かして挨拶した。

「──ビックリした、ボルトかぁ、気味悪いから止めてよ」

『ブハハ、悪ィ悪ィ、少し時間かかるから一旦切るぞ、終わったらまたサーバ閉めに行ってくれ』

そう通信を切ると、医務室のボルトに操られた作業ロボットはレールに沿ってどこかへ消えていった。

「……ボルトさん、休んでればいいのに……」

「ゲイル先生も“あいつはこういうタイミングじゃないと休まないから”って言ってたけどね……」

タナカは促されるまま制御盤のスツールに座り、ガノフはその対面で、気にするでもなく床に胡座をかく。

「……ボルトも心配だけど、ゲイル先生も心配なんだ」

そして、徐に呟く。

「……キッチンにも立って、ずっと働きづめですもんね……」

「それもあるけど」

ガノフは眉尻を下げたまま、窓の外を眺めている。

「土星でさ、ゲイル先生、子供の時に事故に遭ってるんだって」

その言葉に、タナカは思わず顔を挙げる。

「……左手の……」

思い当たる節はそこだ。

「うん、だからなのか──ゲイル先生、土星付近で体調崩す事が多くてさ、このタイミングで休養することが多いんだけど」

だが、今回はボルトが倒れた為にそのタイミングを逃している。
雑務はタナカが肩代わり出来ても、医務関係はそうはいかない。

「ただでさえ土星周りってナーバスでさ……俺の時みたいな変な企業が居座ってるし……」

「……あと……」

と、ボルトの過去の話に触れようとしてタナカは口を噤む。

「……宇宙海賊が出るって聞きました」

「そうだね、それもあって土星近くの宙域はハイリスクエリアに指定されてる。それに、ほら、ゴローさんが予報してた空間乱流」

「──あぁ!」

出発のころから、ゴローが警告していた空間の乱れ。
木星で船が輻輳した原因でもある。

「あれがそろそろ土星圏を横切るはずなんだ。あれが起きちゃうとまた土星に着く前に足止めを食らっちゃうから、その前に足周りを万全にしとかないと」

「──だからボルトさん、遠隔で──」

「そう、万が一の時に全速力出さないといけないからね」

ガノフは、ため息混じりにそう答えた。

「……こう言うとき、俺、なんも出来てないなぁって思うよ。みんなが頑張ってるから、俺は船を動かせるけど」

「……」

「でも、みんなの代わりに出来ること、ほとんどないからさ」

気弱な表情のまま、ガノフは微笑む。

「──ゲイル先生の代わりに、俺がキッチン立てたらな……って思ったんだけど、ここのキッチン、狭くてさ」

確かに、ガノフの図体では身を捻る事も難しそうだ。

「こないだなんか、お尻で電気コンロのスイッチ入れちゃって──火傷する前に出てけーって言われちゃった」

「ガノフさん、料理できそうなのに……」

「しなくはないけど、先生みたいに自慢できるような腕じゃないかな──おっと」

話を遮る様にガノフの端末が鳴った。

『悪ィ、制御盤の数字見てくれ、ジェネレータ四基分の回転数が欲しい』

「あ、はい、えっと……」

たまたま座していたタナカが制御盤の画面を覗き込む。

「あれ、ボルトさん、ジェネレータ01から05までありますけど、どれ読みます?」

『あー、それ五番は違うんだわ』

だが、違うと言われた五番ジェネレータも確かに稼働はしているようだ。

「──なんですこれ?」

『あ? 秘密兵器』

「はい?」

端末の向こうのボルトは、少し得意気に言った。

『“一撃必殺の鯨銛”──なんつってな』



土星は火星開発の次に最も早期に開拓が行われた。
求められたのは、土星の環を構成する氷から手に入る水資源だった。

──地球生命にとっては水は切り離せない資源だ。
それこそ惑星クラスの開拓を行う火星にとっては、地球から水を汲み上げているのでは当然足らず、さらには地球の重要資源を減らすわけにも行かなかった。
そこで白羽の矢が立ったのが土星の環の氷だった。
惑星資源としては僅かな量であり、自然に放置されていたとしても約一億年で消失すると予測されているが、人類が掠め取って消失が少々早まったところで問題になる年月でもないだろう。

こうして土星の軌道上には、氷を採掘するために無数の企業がステーションを建設したが、この際には明確なルールが制定されていなかったことで後々大きな問題を生じるようになる。
最終的に行き着いたところでは、一部の土星企業連体は地球からの独立を宣言し、一種の企業国家を名乗るようになっていた。
地球側は未だこの独立を認めていない上、既に土星企業国家の運用はつまづいているらしく、半ば無政府状態と化した状況でまともな貿易の術を失い、困窮した自称国民らが海賊行為に手を染めるのもやむ無しという状況が発生している。

同じく金属水素が産出することから同時期に開拓が行われた木星では、土星の二の舞にならないよう国連軍が駐留し、明確な採掘ルールも制定されている。
一方で混沌極まる土星圏は無用の摩擦を避けて国連軍は駐留できず、だが水資源の為に捨て置くこともできないという膠着状況が長く続いていた。

木星が宇宙のサウジアラビアと揶揄されるならば、言わば土星は宇宙のアデン・ソマリア海域。
土星の環に隠れた宙賊たちがタグボートを乗り回し、人食い鮫がごとく狡猾に、行き交う商船を狙っているのだ。



「あれ、珍しい」

機関室から引き上げ、ブリッジ横デッキでワッチを行っていたタナカは、意外な訪問者に笑みを返した。

「よーっす、働いてるか青年」

珍しく白衣を脱いだラフな姿で、ゲイルはタナカに片手を挙げる。

「ボルトの心配はもう要らないし、タナカにも大分無理なスケジュール押し付けちゃったの、ごめんなさいしにきた」

「いやいや、お陰様で寝付きが良くて助かります」

タナカはそう微笑むが、その表情に隠れる疲労を医師であるゲイルに隠すことは出来なかった。

「木星スフレ買ってきた。一緒に食べようぜ」

「スフレ……?」

「木星圏で流行ってンだと」

ゲイルはタナカの隣に座り、ケーキ屋の包みを開く。

「そんなのもあるんですね……」

「まぁ、どうせ作ってンのは地球だろうけどな、こう言う娯楽でもねぇと宇宙生活なんてままならねえって」

プラスチックのパッケージに包まれたケーキがタナカに手渡される。
なるほど、ケーキの断面が黄橙色の層になっており、これが木星の雲に現れる縞模様に例えられているのだろう。

「ん、マンゴー風味」

一口目でゲイルは縞の正体を言い当てる。

「……なんかゲイルさん、かわいいですね」

「だろ?」

あっけらかんとしたその答えに呆気にとられつつ、タナカはケーキに匙を入れる。
口の中に、濃厚なチーズの風味に絡んだ爽やかな甘味が広がった。

「──まさか人生で木星眺めながらケーキ食べる日が来るなんて思ってもみませんでした」

「まぁ、普通は考えないわな」

眼前に広がる木星の空は、まるで水面に浮かぶ洗剤の泡のようだ。
あまりにもスケールが大きすぎる光景は、現実味から大きく外れて大画面の映画でも眺めているような感覚でタナカに知覚される。
そも、宇宙服も何も無しに、不可視の力場一枚を隔てて地球外惑星を眺めている、という事実を有り体に受け入れることの方が余程難しいだろう。
神経質な人間ならばパニックに陥りかねない。 

「……ゲイルさんて、船乗りになってどのくらいなんですか?」

ふと、タナカは疑問を口にする。

「んぁ、この船に来てから……四年は経ってないかな。二十六から火星で医療従事してた時期はあるから……宇宙(うみ)に出て七年くらい?」

「そんなに……」

「いやぁ医者としちゃヒヨッコ中のヒヨッコだよ。なんかこう、縦社会って性に合わなくてさ」

溜め息混じりにゲイルは微笑む。

「船医になったのは気楽だったから。お偉い先生にペコペコしたくなかったし、かといって町医者できるほど度量も経験も無いからさ」

匙を進めながら、特に感慨も無さそうにゲイルは告げる。

「まあ、火星のステーションで宇宙(うみ)の男と関わってくのが一番気が楽だなって。叔父貴は渋い顔してたけどな」

「……すごい、勉強されたんですよね」

「まぁね。若いころはカリカリしてて嫌われものだったけどな」

それをタナカは意外に思った。

「想像つかないです、ゲイルさんが嫌われものって」

「……そっか? 割と敵を作りやすいタチだと自分では思うけど」

ゲイルにとってはタナカの言葉こそ意外だったようだ。

「なんか顔色伺ってるのキライだし、自分がするのもされるのも。それでいて言えないことを態度から汲めって言うのもキライだしさ。医療現場ってヒトの命扱うわけじゃん、そう言う場にそういう空気があるのが何よりキライだった」

「……」

「そんで医局長とソリが合わなくて、病院に居づらくなって飛び出してきた。運良く出向先があって助かったわけ」

やはり、面倒見のよいゲイルが対人関係で悩んでいたとは意外だった。
そして、顔色を伺うきらいのある自分が、もしかして嫌われてはいないか、嫌われるのではないかとも一瞬思った。

「……タナカさ、聞き上手だよね」

「へぁ!? は、初めて言われました」

が、さらに意外な言葉にタナカは面食らう。

「なんだろうなぁ、この毒にも薬にもならなさそうな雰囲気のせいで身の上話しちゃうのかな」

「そ、それ、あんま誉められてる気がしないんですが」

「いやいや、たぶんだけどさ」

ゲイルは微笑む。

「……“聞いてくれてんな”って、安心感があるんだよ」

「……そう、ですか……?」

「ん、オレの憶測だけどさ」

体勢を楽に崩して、ゲイルはタナカの様子を眺める。

「まぁ、今さら船の連中となんて隠し事もなんもないけどさ、だからこそ今さら言えなくて蟠る気持ちってのがあるんだよ」

「……だから、何も知らない僕には話しやすい……」

「そういうことかなって。今話すからこそ気持ちに整理がつくこともあるし」

涼しい表情でゲイルは微笑み、真っ直ぐにタナカを見据えている。
それが、妙にそわそわとタナカの胸中を擽っていた。

「そういやさ」

「……はい?」

「家族とはあれから話した?」

──その言葉に、タナカははっとする。
火星で一言メールを交わし、それきり端末の電源は落としたままだったのだ。

「──火星でちょっとバトっちゃって。それから……」

「ありゃりゃ……家庭事情に口出しすンのもなんだけど……あんま時間かけると後々めんどいよ?」

「……それは……そうなんですけど」

タナカは、目を反らす。

「……なんでしょうね。親心とか、そういうのなんだとは思うんですよ。でも、どうして自分で痛い目見たあと追い討ちかけられなきゃいけないんですか……」

「追い討ち、かぁ。案外そういうの、相手は気づいてないパターンだよね。良かれと思ってやってて追い詰めてるって言うのはよく聞く話だな」

頬杖を突いてゲイルが答える。

「……ゲイルさんは、親にそういう気持ち抱いたりしませんでした?」

「んー、親父とはそう言うの経験する前に死に別れちまったし……叔父貴とは割と冷静に話し合って来たからなあ。親父とだったらそうなってたかもしれんけど」

少し、ゲイルは考えてから口を開く。

「──あるいは、本当は親父に言いたいことあんの、諦めちゃってるフシはあるかもしんないな」

「あ──」

「何言っても、もう変わらねーもの。そう諦めちゃってる部分はあるかもしれん」

そう、アルカイックスマイルを浮かべたまま語るゲイルに、タナカは少し悲痛な思いを抱く。

「──まだ、木星のステーションに居る間って、一般回線使えますかね」

「うん、明日の朝の出港までなら間に合うと思うよ。ワッチ代わってやっから、話してきたら」

ゲイルの言葉にタナカは小さく会釈し、タブレットを手渡して立ち上がる。

「──少しだけ、甘えさせてもらいます」

「ん、行け行け。納得行くまで話してきな」

タナカは、足早にブリッジへと戻っていく。

「あ、ケーキ、ごちそうさまでした!!」

そう言い残すタナカに、ゲイルはやはり微笑みを浮かべて応えた。



「──あれ、先生!?」

「よっす」

ワッチの交代に来たガノフが、意外な人物に目を丸くする。

「タナカは今、己と向き合っている頃さ……」

「……どういうことですか……」

ゲイルからタブレットを手渡されたガノフは、対面にどっかりと腰を下ろす。

「それより、体調大丈夫なんです?」

「んぁ? オレ?」

「……ほら、土星圏入る前に休んだほうが……」

心配そうなガノフの表情に、ゲイルは少し考えてから笑顔を返した。

「──心配してくれンだ」

「当たり前ですよ……仲間ですもん」

ガノフは口を尖らせる。

「……そんときはよろしく頼むよ」

「……もう」

笑うゲイルに、ガノフは鼻を鳴らした。
ただ、少しだけ、その頬は紅潮しているようだった。

「──リクエスト、いい?」

「……何がいいですッ?」

不満そう言いながらもガノフはギターをケースから取り出す。

「──“Coracao Vagabundo(コラソン・ヴァガボンド)”」



火星圏で電源を切った後、タナカの端末に届いていた母親からのメールは、ほぼ三日に一度あるか無いかの頻度まで落ち着いていた。

母親のほうが先に冷静になったらしく、小さな謝罪の言葉と、警察への失踪届けを取り下げたこと、そして無事に帰ってきて欲しいとの願いが綴られていた。

以降は、寂しさの徒然に認められた何気ない日常の様子が数日おきに報告されている。
その上で、父親が生きていたころのやり取りを思い出したらしい。
結婚する前から船乗りであった父と、こうして何気ないやり取りを繰り返してきたのだと。

まさか息子が密航などという大それたことをしたとは思ってもいないだろう。
それこそ、それを聞いたら発狂どころじゃ済まない筈だ。
タナカは少しだけ、母親との別離を味わった。
その良し悪しは別として、少なくとも、母親の手の届かない場所に自分はいるのだと、安堵と寂しさを同時に味わった。

その感傷に、一瞬、通話履歴から母親の番号を探そうとしたが、やはり直接の会話には恐怖心が伴った。

代わりに、船窓から見える木星の輪郭を写真に映してそれを添付する。

自分はここまで来たぞと、卑怯にも見せつけるような気持ちで。



数日伏せた後に浴びるシャワーは格別に気分の良いものだ。
ここしばらく無茶をする事がなかった為か、三日経っての体調は、頭痛こそ晴れたものの若干の眩暈が残っている。
以前はこれほど、長引くものではなかったはずだが。
ボルトは、鏡に映る自分の額を撫で付けながら顔をしかめる。

脳インプラントについての詳しい話はゲイルから包み隠さず伝えられている。
電気信号を用いて強制的に脳にイメージを送り込み、無理やりそれを外部出力することでナビゲイターの持つ四次元空間イメージングを擬似的に再現する、という代物だ。
もちろん、こんなものは違法なインプラントだ。 下手をすれば脳に致命的な損傷が起こることもある。

──そこまでして命を張るだけのことか?

ゲイルにそう訪ねられたとき、ボルトはこう答えている。

──どのみち、そうやって死ぬ命だったのなら、役に立ててから死にたい。

「……っと」

顔を洗ったボルトに、タオルを差し出す機械の腕が鏡に映る。

「……」

「……ッ」

ゴローからタオルを受け取り、不服そうな顔のままこれを拭う。

「……ありがとよ」

「おう」

どこか、ギクシャクとした空気が流れる。
互いに何か言葉を待っているようで、それでいて期待していないような。

「……いい加減、そんな目すンなよ」

そう言い放つのはボルトだった。

「……そうだなァ、止めてぇンだけどナ」

眉尻を垂らすゴローが頭を振る。

「おれはッ、別に大じょ……」

「ああ、わかッてる……わかッてて、それでも、だ」

「……」

ゴローの眼は、真っ直ぐにボルトを見つめている。
それは、他の誰もが知らない眼だ。

「だッ、だからって……ッ」

──唐突に襲う眩暈に揺らめいた肩を、ゴローが支える。
そして濡れたままの身体を、そのまま抱き寄せた。

「……ッ」

「……なァ、俺の我が儘なのは承知なンだよ……でもよ」

静かに、抱かれた胸の奥から響く声がボルトを包む。

「……やっぱり、考えとけよ。頼むから」

「……」

せっかく洗った肌に、煙草の臭いが微かに移る。
ボルトは、悲しげな眼差しに背を向けて、身体の滴をぬぐい始めた。

「……濡らして、悪かったな」

「……」

「……木星出たら仕事も落ち着くから……そン時話し合おう」

──その返答は意外だった。

意外だったが、それはゴローが求める返答だった。

「……ああ」

小さく肯定し、ゴローは踵を返す。

そして、一度だけ振り返って注ぐ視線は、確かに“父親”のそれと言えなくもなかった。



数時間後、予定より半日の遅れでモビーディックは木星バシリスクス・ステーションを出港、ホエールラインへ突入を果たした。
次の寄港地、土星までの間に空間乱流との接触の可能性が僅かに高まったそうだが、基本的に地球の嵐や台風とは違い、通常空間への脱出時に影響が出る程度であるとタナカは説明された。

となれば、クルー達の険しい表情の原因は、やはり空間乱流ではなく土星圏の宙賊と、互いの体調変動であろう。

宇宙海賊は、ステーションに常駐している牽引用のタグボートや、コンテナ輸送用の宇宙トラックに身を潜めて機を伺っている。
彼らは、土星圏からホエールラインに入る大型船にこっそりと着いて行き、突入の瞬間にワイヤーを引っ掛けてそれに便乗するのだ。
当然、それは極めて非常識で危険極まりない手法なのだが、ホエールアンカーによる次元固定の叶わない小型船ではこうする他にホエールラインへの突入は不可能なのだ。

隠語で「コバンザメ」と称されるその手法でホエールラインへ侵入した宙賊は、次は逆に“土星圏通常空間へ出ようとする船”にターゲットを移す。
攻撃のタイミングは様々だが、基本的には、ホエールライン内で獲物に対してロケットランチャーなどによる攻撃を開始し、執拗に追い立て、船が脱出しようとホエールアンカーを投錨した瞬間に同じくワイヤーを掛け、通常空間へと共に脱出する。
攻撃下にある商船はまず冷静な判断を失っており、土星軌道の何処に出現するかの試算も不十分なままの脱出を強いられることになる。
そこで彼らを襲うのが“土星の環”の洗礼だ。
下手に逃げ回れば環を構成する氷塊と衝突し座礁する可能性があるため判断力をそちらに奪われ、そうこうしている内に賊の侵入を許し、身柄を拘束される羽目に遭う。

そうなればほぼ、賊の勝利だ。
彼らは船の乗組員の命を盾にして、企業や政府に対して身代金の要求を行う。
そして請求先がまごついている間に、仲間たちが積み荷や最低限の生命維持装置を残した船の部品を片っ端からかっさらい、自治権を主張する政治的に誰も触れたがらないステーションへと逃げていくのだ。
これが、恐るべき土星宙賊の所業である。

この無茶極まりない攻撃により、二次被害も後を絶たない。
土星の環で実際座礁してしまったり、あるいはホエールライン脱出に失敗して宇宙のどこか知らない場所に滑り出してしまう等はありふれた悲劇なのである。
例えばアビゲイル・コルモルトが左腕を失ったのは海賊襲撃時に船が座礁した際の崩落に巻き込まれたからであるし、イグナシオ・タナカの父親が乗った船も、あるいは。

その日もまた、土星圏灯台周辺のハイリスクエリアで座礁したコンテナ船の情報が緊急連絡網に流れてきた。
無惨に横転し、無重力にコンテナが漂うその画像を見て、イグナシオ・タナカは、言い様のない不安を胸中に抱いていた。



ブライアン・フェルナンデス・ストロガノフは、一日の終わりに食堂階下のレクリエーションルームを訪れていた。

「──De um vulto feliz de mulher──(あのひとはやさしく微笑んで──)」

珍しく発泡酒を煽り、カウチに巨体を埋めたまま、サイドテーブルに置いた缶の淵を撫でている。

「──Que passou por meu sonho Sem dizer adeus──(我が夢に現れて、さよならも云わずに消えていく──)」

昼間に口ずさんだその歌を、反芻するようになぞりながら。

「──E fez dos olhos meus Um chorar mais sem fim──(止めどなく溢れる涙を、思い出へと持ち去って──)」

ほろ酔いで重くなった瞼を降ろせば、その裏にしっかりと焼き付いた微笑みを思い出す。
静かに耳を向け、真っ直ぐにこちらを見据えた、その眼差しを。

「──Meu coração vagabundo──(我がさまよえる心よ──)」

「……どうにもならねぇのかよ、やるなら土星圏抜けた後に全速力で──」

唐突に耳へ入ってきた声に目を開く。

「言うても向こうの受け入れが──おおっと」

意外な先客に、ボルトとキャプテンは目を丸くした。

「ああ、すみません、もう部屋戻りますんで……」

「ん、別にいいけど」

キャプテンの静止に、ガノフは立ち上がりかけた腰を降ろす。

「……もしかして、タナカくんの話ですか」

その問いに、二人は無言で肯定した。

「……前々から機会があったら言いたかったんです……キャプテン、タナカくんはうちの船で雇えませんか?」

「ッ……」

ボルトはその言葉になにか言いたげであったが、何故かそれを遮らなかった。

「彼、仕事探してるみたいだし……実際に俺たちも助かってます、だから……」

「んー、でもそれ、感情論だよね」

キャプテンは言い放つ。

「今回は不測の事態が重なって、結果彼が居て助かってるのは事実だけど、普段からってわけじゃないよね」

「……はい」

「例えば、彼に“相応の能力”があるならまだしも、そうなるまでには相応の努力が必要だなって考えるよね。なら、もっとデカい企業とかで纏めて教育するとかしないと割に合わない」

並べ立てられる事実に、ガノフは萎縮する。

「──それ以前に、僕らの目的とタナカくんの目的は合致しない」

「え?」

「天王星到着後、僕らは荷を下ろして一日くらいしたら出なきゃいけないよね、タナカくん、その間にお父さん探せる?」

──そうだった。
イグナシオ・タナカは、天王星に自分の父親を探しに来たのだ。
モビーディックが保証したのはその天王星までの道中であって、彼の父親探しを手伝う時間は存在しない。

「──正直、状況を聞く限りは生存は絶望的だよね。その上で、その事実を一日で飲み込むことは可能なの? 僕にはわからないけど」

「……」

──自分なら、不可能だろう。

それでも、彼をせめて地球まで連れ戻したい気持ちはあったが、納得がいかないままに無理やり連れ帰るのは、酷だ。

で、あれば、せめてタナカは自身の諦めが着くまで天王星に居るべきではないのか。
その先、彼が自力でやっていけるのかを不安に思う気持ちはあれど、それを待てるだけの時間はこの船には無い。

「……まあ、彼の選択に任せるよ。社長(チャーリー)に怒られるの、どうせ僕だし……」

「あんな口だけヤローのこと気にすンなよ……」

「いやいや、僕らはあくまでも“組織”だからねぇ……ただでさえストロガノフの件でも口酸っぱく言われてきたから……」

ガノフのスカウトに関してはキャプテンはそれなりに社長から絞られたらしい。
だが、彼に操船技術があることから将来性を加味して採用を勝ち取ったわけだが、極めて一般人のタナカではそうもいかないだろう。

「……すみません、部屋に戻ります……」

小さく会釈して、消沈した面持ちのまま、ガノフは席を立ち部屋を出ていった。

「……なぁ」

──黙って聞いていたボルトが口を開く。

「正直、薄情モンのお前のことだからさ、密航者なんて火星でポイして出港するモンだと思ってたンだよ」

「?」

「それにしちゃあ、随分恩情かけるじゃねえかって……なぁ、なんかあるンじゃねェのか?」

ボルトの問いかけに、キャプテンは開いているのか開いていないのか定かではない細い目を向けて小首を傾げた。



──冥王星港に到着したのはその日の夕方だった。
タクシーから降りてきた兄と母親は黒い礼服を来ていて、イグナシオの姿を見るなり足早に歩み寄った。
母親は沈痛な面持ちのままイグナシオを抱擁し、兄はそれをいつものアルカイック・スマイルで眺めていた。

ガノフの案内のまま波止場に着くと、そこにはビニール・コーティングされた塊がいくつも並べられている。
その形からして中に人間が入っているのは明白だった。

キャプテン、ボルト、ゴローがその横に並び立ち、無言のまま俯いている。
その背後には、見たことのないボロボロのコンテナ船が停泊している。

──父さんの船だ。

イグナシオは何故か、そう思った。

「タナカさん、ご家族の確認をお願いします」

あるビニール・コーティングのミイラの横で、ゲイルが声をかけた。

「……よろしくお願いします」

小さく呟いた母親の言葉で、ゲイルはビニールに鋏を入れた。

乱雑に切り開かれたその下から、赤紫色に変色し白濁した瞳の父親の顔が



「──おとうさんッ──!!」



「おう、父ちゃんだぞぉ」

応じたその声にタナカは我に返る。
ガクガクと震えるその肩を押さえる肉の壁に気づいたのはそれから数秒の時間を要した。

「父ちゃん、ここに居るぞぉ」

酒焼けした声が優しく肺臓を揺らした。

「……ゴ、ロー……さん……っ……?」

「おうよしよし、“帰ってきた”か……」

ゴローは、タナカを押さえつけていた下着一枚姿のその身を軽く起こした。

「……夢……みてて……それから」

「……白昼夢見ながらアレじゃあ、ゲイル大先生に寝る薬出して貰った方がいいなァ」

見れば、壁にあの“眠るジプシーの女”のポスターが飾られている。
ここはゴローの部屋で間違いない。

「あれ……僕……」

「俺の部屋の前に這いつくばってた、こんなひでぇサウダージみたことねぇぞ」

それをゴローが見つけて、部屋に引き入れたようだ。
呆けたままの表情をしたタナカの前髪を、太い指が撫で付ける。

「……ごめんなさい、僕──」

そう身を起こそうとして、背筋におぞましい寒気が走った。

「おうおうおうッ、無理すんなッ!」

恐怖に歪んだその表情を即座に見破ったゴローは、機械の右腕で乱雑にタナカを抱き寄せると、その分厚い胸板で包み込む。

「……無理に行かんでいい」

「……っ、はい……」

意図せず震える小さなその肩に、ゴローはそっと優しく触れた。

「っと……今何時だ?」

タナカを片手に抱いたまま、ゴローは枕元の端末を取り出した。
画面には四人の美女の水着姿。

「……ん、あ、見せたっけか? これ俺のムスメ」

「……はい!?」

意外な言葉にタナカは顔を上げる。

「え、ど、どれ」

「あ? 全員」

「へ!?」

まるでプレイボーイ誌のピンナップにしか思えなかった。

「長女のエリカ、次女のアンナ、三女のリサ、四女のサアラ……こいつはまだハイスクール」

「え、え、え!?」

「畜生が、俺が宇宙の荒波と戦ってる時にかーちゃんと五人でマイアミビーチにバカンスだとよ」

そう言って笑うゴローは、だがしかし自慢気だった。

タナカは困惑する。
何をどう取り間違えたらこんなむさ苦しい男にこんな美人の娘が四人も出来るのだ。

「ウチの家系は昔ッから多産でよォ、俺だって六人兄弟の末っ子だからな、なのにダイゴローだなんてふざけた名前つけやがって」

タナカは困惑する。
この調子であと五家族が存在する可能性がある。
それほどの大所帯は今の時代には珍しい。

「ま、俺もかーちゃんに仕込みに仕込んで四人もこさえちまったけどナ、ガハハ!」

……タナカは困惑する。
本当に、何をどう取り違えたらこんな下品でむさ苦しい男からあんな美人が産まれてくるのか……

「……奥さんとはどういう経緯で……?」

「あ? まあ、あれだ、港、港にオンナありってやつだな」

先ほどまで下品な下ネタを飛ばしていたとは思えないウブな表情でゴローは返す。

「──土星の飲み屋で唄ってたんだ彼女。それにすっかり惚れちまってよ……身重になったんで地球に戻って籍入れた」

端末を枕元に放り、ゴローは天井を見つめる。

「ま、片腕は宇宙(うみ)のどっかに落としちまったけど、それで腹立てねェほど器のでっけえいいオンナだよ」

「むしろ……怒ってもらった方がよかったんじゃ……」

「はは、違ェねえ」

機械化された右腕に触れながら呟くタナカに、ゴローは笑った。

「……幸せじゃないですか、それなのにああやって他の男に手出して……」

「へっ、オンナじゃねぇから浮気の内に入らねェなんざ思ってねぇよ」

ゴローはタナカの額に口づける。

「ただ惚れちまったモンはしょうがねぇ、火ィついたら止めらんねェのさ」

「……そう言うの、良くないと思います」

──そう呟きながら、タナカは自分の大腿に触れる、硬く隆起したゴローの太い幹に指を回した。
微かに、小山の様な肉体が身動ぎする。

「……あれから……サウダージ症候群のせいだ……って言い訳、出来なくなったんですから」

明確に、見せつけられて、嫉妬してしまったのだ。

「……責任、とってください」

「へへ……困ったなァ」

ゴローは目を背けるタナカの顎を引き寄せると、その唇に舌を挿れた。

「……ッ……」

やはり、舌の痺れるような、燻れた香りが口の中に広がった。

「……」

真っ直ぐ、視線が貫いてくる。

「……やっぱ、やめだ」

ゴローは、そう笑った。

「……っ」

「まぁ、そうムクれんなよ。そうさな……」

背を向けてしまったタナカを、ゴローは後ろから包み込む。

「天王星まで頑張ったら、ご褒美にシてやってもいい」

「……期待しません」

「フン、期待するほど気持ちいいモンでもねぇぞ、たぶんな」

──背を向けたとたんに、胸元にザワザワと不快感が沸き起こる。
それが、ゴローのゴツゴツとした手が触れた途端に消えてしまうのが腹立たしい。

臀部に触れた雄の証を、否応なしに意識してしまう。
既に、戻れない一線は越えてしまった。
あとはそれを、何か言い訳をつけて誤魔化していく他に無いのだろう。



「……って事があって……」

「そんでオヤジに掴まったわけか……眠りが浅かったんだなぁ」

医務室でゲイルの問診を受けながら、タナカは昨晩のもやついた思いを反芻する。

「そもそも、サウダージ症候群って寝てる間に発症したらどうするんですか?」

「割と起きてるはずなんだよ、ただ、寝てる間だから当人が気づいてないだけで……脳に電極つけて取ったデータではそれっぽいのが報告されてる、当人は夢見の悪さくらいしか覚えてないそうだけど」

カルテに諸々を書き込みながら、ゲイルは応じる。

「サウダージ症候群が起きやすいのは副交感神経優位の状態の時……日中にアドレナリンが出てる状態の時は平気なんだけど、寝入りの瞬間とかリラックスしてる時、急に脳内物質バランスが崩れて気分を変調させるんだよね」

「逆に寝入りが怖くなりますね……」

「いや、寝ちゃった方がいいんだよ、ただ白昼夢見ちゃってるようだとヤバイかな……」

それらの情報から、ゲイルは安定剤や睡眠導入薬を選定していく。

「……むしろ、寝付かなくてすむ薬とかないんですか?」

冗談混じりにタナカは問いかけた。

「──あるよ、それを処方してる船も無くはない」

ゲイルは作業の手を止め、タナカに視線を移す。

「例えばメタンフェタミン。間接型アドレナリン受容体刺激薬として中枢神経を興奮させる作用があって、昔ッから士気向上、疲労回復の目的で用いられることがある」

「……なんかすごい薬ですね」

「まあ、一般的に知られてる名前を聞いたら、使おうなんて気にはならないと思うけどね」

タナカはゲイルの視線に、何か冷ややかな感覚を覚えた。

「──“覚醒剤”って言うんだけど」

「──」

ゲイルの予言した通り、タナカは言葉を失う。

「この船にも規定で載せてはいるけど……まぁ、オレは処方しない。なら、“寝ない薬だ”っつって偽薬(プラセボ)として整腸剤でも出した方がマシだよ」

「……そう、ですか」

「……?」

唐突に表情を曇らせたタナカに、ゲイルは疑問を抱く。

「──自分のことじゃないんですけど」

「……うん?」

「──父さんを最後に見た時、なんだかボーッとした感じで……“普通と違うな”……って、思ったんです」

──最後に見た父親の顔は深く疲れているようで、目もどこかに虚ろだった。
受け答えも少し曖昧だった父親の様子に恐怖を覚えて、最後の日にはあまり口を利かなかった。

その記憶は、今でも鮮明に覚えている。

──どこか体調でも悪いのだろうか。
思春期のイグナシオ少年は、そう思いながらも記憶の中の父親との解離からか、父親との接触を避けてしまった。

その理由を、タナカはゲイルの言葉に紐付けた。

「……父さんは」

「わからん」

ゲイルは即座に流れを断った。

「こう見えても医者なんだわ、憶測でアタリをつけても確実じゃないことは云わない。ましてや、当人を診たわけじゃない以上はね」

「……すみません」

「まあ、配慮が足りなかったのはごめんなさいだな……今さらかもだけど、普通の医者がそんな軽率な理由でメタンフェタミンなんて処方しないだろ普通、とは言っておく」

ゲイルはタナカの頭を撫でる。

「──愛されてんなぁ、親父さん」

「えっ」

「……オレなんか自分の親父のことで、今さら思い返すことも無ぇからなぁ……」

ゲイルはゆっくりとため息を吐く。

「さて、ロボ薬剤師さんが仕事を完了したので今日はこれまで、ちゃんと取説読んで服用のこと。寝坊したらボルトのゲンコツだ」

「あ、ありがとう……ございます……」

ケースから排出された錠剤を丁寧に袋に包み、ゲイルはタナカに手渡した。
小さく会釈して、タナカは席を発つ。

「……まあ、そんな思い詰めてもしょうがない、まずは天王星に着くことだろ?」

「……はい」

「ちゃんと自分にケリつけてきな、タナカはそうでないと、たぶん先に進めないよ」

事務椅子に深く腰掛け直し、タナカに告げる。
その言葉をうまく受け取れないまま、タナカは医務室を出た。

「……オレも、ケリ、つけられんのかなぁ」

その姿が消えるのを確かめて、ゲイルの口からはそんな言葉が溢れていた。



七色に光る“海”に、見慣れる日が来るとは。
深夜のブリッジでひとり、タナカは窓の外を眺めていた。

──父親は死んだ。
その事実は既に受け入れたはずなのに、なぜ、自分はここまで来てしまったのだろう。

ただ、父親が何を見てきたのかの半分は理解したつもりだ。
ことある毎に幼い自分に伝え聞かせた、言葉の意味は腑に落ちた。

──「宇宙(うみ)はいいぞ」

船とはまさに、宇宙(うみ)に浮かぶ閉ざされた世界だった。
そのひとつ屋根の下で、虚無から遅い来る孤独や哀愁に共に耐える仲間がいた。

まるで家族のように、暖かかった。

他人にこうも優しく触れられたことなど無かった。
なればこそ、自分も優しくならねばと強く思った。
優しくしてくれたひとの為になら、何だって応えたいと、そう思った──

──故に。

タナカはひとつ、踏み外してしまった。

「……っ……」

始めの夜に、ボルトは云った。
“おれたちの間で何があったか”は、絶対“内緒”にしろ。
──それが“宇宙(うみ)の男の掟”だと。

だが、タナカは“知ってしまった”。
“宇宙(うみ)の男たちの秘密”を。

その、耐え難い苦しみを。
その、耐え難い淋しさを。

──「宇宙(うみ)はいいぞ」と、父は云った。

あの“秘密”を知ってしまってから、その言葉の真意を、タナカはわからずにいる。

「……」

窓の外に並ぶコンテナの合間を自動制御のロボットが行き交いながら、固定具(ラッシングバー)を締め直していく。
変化のない光景ばかり見ていると眠気に襲われるし、その隙を狙って背筋にざわつくものがあった。
前にゲイルに言われた通り、地球から離れるに連れてこの無慈悲な郷愁は強さを増して行くようだった。

「っと!」

唐突に、タブレットに黄色のアイコンが生じた。
場所はレクリエーションルーム、誰かが寝付けずに来たのだろう。

慣れた様子で、タナカは該当箇所のカメラ映像を確認する。

「────」

映し出された映像には、倒れたブックラックに、二人分の脚が見えた。

「ッ……!?」

なにか物々しい異変を感じたタナカは、カメラを操作する。

倒れていたのはゴローだった。

その下に居るのは──

「──ッ」

タナカは、ひっそりと、部屋の集音マイクをアクティブにする。

『おや……じッ……』

『……わ、りい……くそッ……』

微かに震える声、身体の下に居る何者かが広い背中に手を回す。

『……ボルトっ……』

『ああッ、落ち着けッ……ここだぞオヤジッ……』

求めに応じるがまま、ボルトは首元にすがり付くゴローの背を撫でる。

『……』

そして、吸い寄せられる様に唇を重ねた。

「……っ!」

『……すまねぇッ……辛抱たまらんッ』

『あッぐッ、こんなトコでッ……!』

ゴローはボルトの纏うシャツを剥ぎ取り、その脇腹にかじりつく。
ボルトは激しく身悶えし、それに抗う。

『……ッ、……!!』

ゴローは自らの着衣を次々と脱ぎ捨てながら、ボルトの身体に馬乗りになる。

『がッ……つき過ぎだぞッ、大丈夫かよッ』

『フーッ、フーッ!』

『んッ、がぁッ』

首筋に軽く歯を立て、抵抗出来なくなったボルトの着衣をも、ゴローは剥ぎ取る。
そのまま身体を裏返し、臀部を広げ、その合間に顔を捩じ込む。

『んああぁッ、馬鹿ッ……んッ!!』

そして掌に唾を吐き付け、自らの猛り狂った逸物に擦りつけると、自分のせがれほどの年端の相手にのし掛かった。

『ん、ぐぅッ……!!』

呻き声が微かに聞こえ、僅かな身動ぎの後、二人は重なりあったまま動かなくなる。

『……ち、くしょ……う……』

『……すまねぇ……ッ』

ボルトの背中に額を擦りながら、ゴローは小さく囁く。
両腕でがっしりと相手の身体を羽交い締めにし、太いふくらはぎを絡ませ合う。

『ぐッ……はぁ……ッ……へへ……おめェん中は格別だな……』

『つッ……うるっ……せぇ……いきなりッ……挿れやがっ……て……』

ボルトは、苦しそうに呻きを上げる。

『……畜生が……俺が、まさかッ……なぁ……』

──状況は理解できた。
ゴローが、サウダージ症候群の発作に襲われたのだろう。
そして、側にいたボルトの身体にすがったのだ。

『……すまねェな……っ、辛抱してくれッ……』

──タナカを誘った時とも、ガノフを組み伏せた時とも違う弱気な声で囁きながらも、雄の肉体は欲求を抑えきれずに揺れ始める。

『はぁ、ぁ……ッ』

ボルトが情けなく声を挙げる。

──どちらも、タナカが知らない姿だった。

『ふッ……ん……っ、ボルトよォ……』

『なんッ……だよ……っ』

首筋に歯を立てながらゴローが囁く。

『……おめェよォ……やっぱ、養子に来いや……』

『……っ!!…… 』

その言葉に、あるいは、体内に挿し込まれた異物に、ボルトは身を震わせる。

『フゥ……う、やっぱりよォ、おめェを独りにしとくのは……俺が勘弁ならねぇよ』

『んぁッ……そんなことォ……おれン中で……言うンじゃねぇ』

『へへッ……どうしても胸につっかえちまって……こういう時の勢いに任せないとな……』

ゆったりと腰を揺らしながらゴローが笑う。

『ぐぁッ、別に……ッ、今の関係で、いいじゃねぇかッ……』

『養子に取ろうが、何も変わりはしねぇ、ッてか……独り身じゃあよ……っ、万一の時に助けてやれねぇんだ』

『あ、がぁッ……!』

冷静な口振りと裏腹に、徐々に揺れ幅は大きく、早くなっていく。

『んあ、ぁ、あ、ぁッ……』

『おめェが無理すんのは止めらンねぇよ、でもよ……ッ……』

息も、徐々に荒くなる。

『ならよ……っ、その無理の……手助けくらいは、させてくれ』

『ン、なッ……こと……ッ』

『……俺のッ……せがれになれよ……な……?』

──情けない声で、ゴローは呟く。

『ボルト……』

『ばッ、あぁッ、かッ……ヤロっ……』

『ボルト……ボルト、ボルトっ、ボルトォっ……!!』

やがて言葉も追い付かなくなり、ふたりはただ、けだものになる。

『がぁッ──!!』

『──ッ──!!』

そして、動かなくなった。

「……ッ……」

タナカは、また、その一連の出来事が目が離せなかった。
そして、また、知ってはいけないことを知ってしまった。
思わず画面から目を背け、へたり込むタナカの耳に、二人の音声だけが届く。

『ちき……しょう……また中に出しやがって……』

『……すまねぇ、どうも抑えが効かなくてな……』

身を重ね合わせたまま、ふたりは言葉を交わす。

『……そういうとこだぞ……クソ……』

悪態を吐きながらも、ボルトの身体は抵抗をしなかった。

『……あのな……オヤジ』

『……おう』

『……おれだってさ、オヤジの気持ちは……うれしいよ』

小さく、ボルトは呟く。

『……でもよ……やっぱり、思っちまうんだよ』

小さく、小さく、絞り出すように。

『オヤジは、まだ──“おれに重ねてるだけ”なんじゃねえか……って』

『────』

『……だから……オヤジの気持ちには、まだ答えられねぇよ──“うまく、そいつの代わりがやれるか”なんて、わかんねえしな』

──ゴローは、なにも応えなかった。

『……ッ』

『──ごめんな、オヤジ、でも──』

『──いや、いいさ』

ゴローは、出かかった言葉を飲み下す。

『……“おまえに重ねちまった”ままは……おまえに悪いしな』

そして、繋がったままの相手の身体を包み込む。

ボルトは、何も言わないままに、ごつい機械の右手を自分の右手で優しく握った。

「────」

──ほんとうに、見てはならないものを、見てしまった。
ゴローの想いも、ボルトの想いも、タナカの胸中に飲み下すにはあまりにも大きすぎた。

自分にどうすることも出来ないはずなのに、胸が張り裂けそうになった。

──あまりにも、切なすぎるではないか。

それが恋かわからないのは、きっとゴローも同じなのだ。
だから、ゴローは、天涯孤独のボルトとせめて一番近い場所に居たいがために、“家族”にしたいと思ったのだろう。
妻子ある身でありながら──その想いは捨てきれなかったのだ。

だが、ボルトには──

「おいーっす」

「ッ!!」

背後から聞こえた気の抜けた声に、タナカは瞬間的にタブレットをスリープさせる。

「きゃ、キャプテン!?」

「レク室のアラート解除されてないけど、大丈夫? 寝てた?」

しまった、と、タナカは冷や汗をかく。
キャプテンは特に咎めるつもりは無さそうだが、その得体の知れない佇まいは異様に恐ろしく感じられた。

「い、いえ、ごめんなさい……ちょっとボーッとしてたみたいです」

「夜中だしねぇ、体調厳しいなら代わる?」

「いえ、あと少しなんで大丈夫です……キャプテンこそお休みください」

「あ、そう」

キャプテンは大きな欠伸をひとつ浮かべてから、のっそりとブリッジを後にする。

「────」

タナカは、胸を撫で下ろす。
流石に、クルーの秘め事を出歯亀していたとバレる訳にはいかなかった。
ただでさえ、秘密にしておかねばならないことを覗き見していたとあっては心象も悪いし、知られてほしくもない。

タナカはすぐさまタブレットを復帰させ、レクリエーションルームのステータスを“異常なし”に変更する。

「……ん」

すると、黄色く表示される区画が二つに増えた。
ひとつは共用通路。
これはカメラ画像で先ほど様子を身に来たキャプテンが戻る姿を確認した。

もうひとつは、レクリエーションルームの階上、食堂に繋がる通路だ。

「──」

タナカは、そのカメラ画像に部屋着姿のゲイルの姿を見た。



這う這うの体で医務室に戻り、アビゲイル・コルモルトはそのまま壁にもたれ掛かったまま動けなくなった。
レクリエーションルームの異音に目覚め、食堂を通じて様子を見に行ったのだ。

そして、見てしまった。

──ゴローの悪癖は知っていたし、宇宙生活では往々にしてこういうことがあり得ることはわかっていた。

そして、長く船に乗っていれば、クルー達の抱くそれぞれへの感情も、それなりに見えてきてしまうものだ。 

……ゴローが、ボルトに対して、秘めたる感情を持っていることは当然のように理解していた。

そして、ボルトもまた、それなりに特別な感情を抱いている相手が存在することも知っている。

さらに言えば、ガノフが自分を気に入ってくれているらしい、と言うのも、それとなく察しがついていた。

それでいて、ガノフからの感情に甘んじていながら、ゲイルは明確な反応を返したことはない。
その感情からは、卑怯にも逃げ続けていたのだろう。

──アビゲイル・コルモルトは、自分が他人を愛するような人間ではないと、自身をそう定義して目を背け続けて来たのだから。

「──」

虚無感が、全身を空っぽの脱け殻にする。

ゲイルにとって、ひとつ得をしたと考えるのは、彼には“郷愁”を抱くような場所がもうどこにもなかったことだ。
故に、こうしてサウダージ症候群の発作に襲われたとしても、ゲイルには“帰るべき場所が無い”。
だから、ただひたすらに襲い来る虚無感にさえ耐えてしまえば朝を迎えるのをこうして待っていれば良かった。

強いて言うなら、彼の“郷愁”は常に記憶のなかを指向する。

ふたりの父親の記憶。

だがそれすらも、果たしてそこが自分の居場所だったろうかとゲイルは疑問を抱く。

自分の居場所など、どこにも無いのではないだろうか。

「────」

そう考える時、機械化された左腕が、幻肢の如く意に反して勝手に動き出すことがある。
ただの義肢であったならば、辛い幻肢痛にも悩まされたかも知れないが、神経レベルで接続されたMRP義肢であれば幻肢の求めるがままに動かせる。
ゲイルが発作に悩まされる時、左腕は意図せず自身の首を絞めようとする。
一度危うく死にかけたことがあったが、それに気づいてからはソフトウェア面で握力レベルにロックをかけることで対応した。
自身の首に手が届く際にはソフトウェアが自動で握力を最低出力に留めてくれる。
これで無くした腕に殺されずに済む。

「──ゲイルさんッ!?」

ぼんやりとしていた頭に声が響く。

「……あ、れ」

「大丈夫ですか、なにして……ッ」

タナカはゲイルの首にかかった義手を払いのける。
見た目のわりに力は全くかかっていなかった。

「大丈夫だよ……だいじょうぶ」

「大丈夫そうじゃないですからッ! 立てますかッ」

タナカはゲイルの身体を抱きかかえ、立ち上がらせようとした。

「大丈夫だよ、立て──」

そう答えようとした途端、膝がガクガクと震えだした。

「──あれ?」

腰が抜けたゲイルを、タナカは細い身体で必死に支えた。

「うぉおッ、だ、大丈夫ですかッ!?」

「──ご、ごめん──」

ゲイルは視線を合わさない。
まっすぐ、正面方向を見据えたまま──否、焦点の合わないまま、目を見開いたままだ。

──この顔には何度か見覚えがある。
まるで、現実ではなく──その瞳に焼き付いた“郷愁”に、視線を奪われてしまったような──

──そんな相手を如何に“こちら”へ引き戻すべきかを、タナカは知っている。

「──失礼しますッ!!」

そう宣言すると、タナカはゲイルを抱き寄せ、その唇に自らの唇を押し付けた。

「むぐ──!?」

そして、驚いた拍子に開いた口に、自身の舌を捩じ込んだ。

「────ッ、ぷは!?」

驚愕の表情を浮かべたまま、ゲイルはタナカから軽く飛び退く。

「……」

その目は見開いたままだったが、今度はしっかりタナカを見ているようだ。

「だ、大丈夫──」

「──キス、へたくそ過ぎてびっくりした──」

その言葉に、今度はタナカが腰を抜かしかける。

「っ、……悪い、ちょっと持ち直したわ……」

「あ、あは……良かった、です」

能動的に自分から口づけなど交わしたこともなかったし、強いて言えば受動的なキスだってこの船に来て初めて経験したばかりなのだが、それでも下手と言われるのは男としてそれなりにショックを受けた。

「ふぅ……もう、大丈夫だから……これは、ごめんなさいだな」

「本当に平気ですか? 今の、発作──」

立ち上がり、頭を振るゲイルにタナカは問いかける。

「ん、平気平気、俺がへばってたら仕事になら──」

たが、その言葉とは裏腹に、ゲイルの義肢はタナカの肩を掴んで離さなかった。

「──あれ──」

「──歩けますか?」

ゲイルは、タナカにリードされるままに、医療ベッドへと導かれる。

「……情けねぇ」

「大丈夫ですよ、僕もこうやって助けてもらいましたから」

タナカはそう笑いかける。
導かれるままにゲイルはベッドの隅に腰掛け、介助されながら横たわった。

「──側に、居ていいですか?」

「……」

ゲイルは、意地のせいか、イエスとは答えられなかった。
たが、その右手はタナカの手を掴んで離さなかった。

「──オレさ、勝手に──思ってンだわ」

「はい?」

「オレたち、似てるなっ……て」

ゲイルは、タナカから目を背けながら呟く。

「……僕と、ですか?」

「うん」

タナカは、それを意外に思った。

「──十二才の時だった。オレさ、母親産まれたときから居なくて」

「……はい」

「親父は医者で、木星やら土星やら、仕事で行き交うことが多かった。オレはそんなんでエレメンタリースクールは通信教育だったワケなんだけど」

ゲイルの手を握ったまま、タナカは耳を向ける。

「やっぱりさ、子供の身体には堪えるんだわ、サウダージ症候群って……それもあって、船に乗ってる間はずっと精神薬飲んでボンヤリしてた。だからあんま、子供のころの記憶無いんだよね」

「……そう、なんですか……」

「叔父貴はあんまし良くないと思ってたらしいけどな──親父は、無理してでも一緒に居たかったみたいだ」

他人事のように、ゲイルは天井を見つめて呟く。

「土星で乗ってた貨物船が宙賊に襲われたんだ。無理に振りきろうとしないでおとなしく人質にされてたらちょっと無事だったかもしんないんだけどさ……船は無理やり通常空間に出て、みごと土星の環に突っ込んだワケ」

ゲイルは、自身の左腕を見せるように、タナカの目前まで手を上げる。

「宇宙の氷山に見事タイタニック。船は真っ二つにひしゃげてブリッジは大破。オレたちが乗ってた客室は曲がったフレームに押し潰されて……俺は左腕を鉄骨にからめとられて粉砕骨折の上組織断裂。なのに薬のせいでよくわかんないんだわ、激痛が走ってるはずなのにボーッとしたまま、ありのままを受け入れざるを得なかった」

「……ッ」

「親父はそん時死んだらしいよ、遺体の確認も駆けつけてきた叔父貴が一人でやったらしい。あとはもう、義肢化手術もリハビリも、養子縁組も成り行き任せで──正直、未だに“そんなことがあったんだー”って、他人事みたいで」

ゲイルはふたたび、タナカの手を握る。

「まだ親父が居る気がするンだよね……そのせいでさ、そこに“自分の居場所”があって、そこがどこにいっちまったのか、わかんなくなった気がしてさ……」

「──」

確かに、それはタナカも同じだ。
それはタナカが、宇宙に飛び出そうとした理由そのものだ。
地球で、日常で、自分の居場所を見失って、もういないはずの父の面影を探しに来たのだ。
もういないはずの、もう無いはずの、自分の居場所に逃げ込む為に。

「……だから、タナカが船に密航した時、オレは嫌いになれなかった。自分のことは嫌いになれても、それを重ねて他人を嫌うのって、なんかクソじゃん」

「そんな」

「──それに、自分だって似たような立場に甘んじてればなおさらだよ」

ゲイルは眼鏡を外して、裸眼でタナカを見つめる。

「……タナカ、もうちょい、こっち来て」

「え……」

「俺、近眼だから」

言われるままに、タナカは顔を近づける。
そして、左腕に導かれるまま、ベッドの隣に横たわる。

「──自分の欲しいもの、他人に重ねちゃいけねぇよなって、思うんだけどさ……」

「……」

「タナカはちゃんと、自分の居場所、見つけた方がいいよ」

頬を撫でなから、ゲイルは云う。

「この船は……」

「ん?」

「ゲイルさんの居場所じゃ、ないですか」

尋ねたくはなかったが、それでもタナカは腑に落ちなかった。

「……」

ゲイルもまた、それは問われたくない言葉だった。

「仕事は仕事だし……っても、割り切れない気持ちもあるよ」

「……」

「でもなぁ」

船窓からの光に、ゲイルの瞳が透けて輝く。

「他人の恋路にゃ、口出せねぇや」

──その言葉が、タナカの胸に痛かった。

ゲイルにも、父親の像を重ねる相手が居たのだ。
その相手が、かつての恋をボルトに重ねているように。

「なあ」

「……はい」

「……ぎゅって、してくんねぇ?」

弱々しい言葉が、ゲイルの唇から零れた。

「……ぎゅって、ですか」

「……うん」

小さく頷いたその瞳は、微かに潤んでいるようだった。

「……はい」

タナカはゲイルの首下に腕を回す。
自分より背の高い、端整な顔つきの男の頭を、その胸の中に包み込む。
真面目そうに刈り込まれた短い髪を掻き分けて、指先がその頭を撫でる。

「……」

ゲイルは深く瞼を閉じ、やがて鼻を啜り出した。
タナカの背に腕を回し、脚を絡ませ、より深く、タナカの身体に潜り込む。

小さく、小さく漏れる嗚咽を、タナカは腕の中に受け止める。

ゲイルが恐らく、誰にも見せたくないだろう姿を、その小さな身体で隠すように。



「──」

ゲイルさんに体調不良の恐れあり、対応のため席を外れます。

ブリッジの大型タブレットには、タナカの書き残したメモが添えられていた。

当直の為にブリッジを訪れたブライアン・フェルディナンド・ストロガノフは、そのメモを手に取り、ただ寂しく、ただ虚しく、立ち尽くす。




それは土星圏入りを間近に控えた時間帯に起きた。

「警戒警報?」

キャプテンが端末片手に聞き返す。

「“コバンザメ”が出た。一時間前に出てった商船のソナーに映ったらしい」

ゴローがゴーグルモニター越しに報告した。

「一帯の宙域に警戒警報が出てる──くそったれ、空間乱流にかこつけてシビアなタイミングで襲おうって魂胆だ」

「ジェネレータの回転率を上げる。出来れば乱流に巻かれる前に環の内側に出たいだろ」

ボルトが端末を操作する。

「いや現状維持。どのみち間に合わない。むしろ追われたらジグザグ走行で振り切るかもしれないし」

「……了解」

「了解、等速維持します」

ガノフは操舵席に巨体をしっかりと埋め、コントロールバーを握り直す。

「……海賊、ですか」

タナカの問いかけにボルトは頷く。
土星圏からホエールラインに突入した商船に、宙賊の船がワイヤーを絡めて強制的に“相乗り”したのだ。
自身のソナーにその影を捉えた商船は、周囲の宙域に警戒警報を残していった。
船がわかるのは“相乗り”された痕跡だけで、肝心の賊がどこに潜んだのかは分からない。
故に、こうして“相乗り”された事実だけを、これからやってくる船に告げることしか出来ないのだ。

「それとな……周辺空間にちょっと妙なノイズがある」

「なにそれ」

「わからん、見たこともない」

サブモニターに、七色に変異するサイケデリックなグラフが映る。
その波間に、時おり小さな“影”が見えた。

「なんだそれ、小惑星か?」

ボルトが怪訝な顔を向ける。

「遍在空間の偏りかなんかで、近くの天体が透けるようなことはあるが、大体が一瞬だ。だが連続してる」

タナカはボルトに視線を投げ掛けるも、首を傾げるに留まった。

「コバンザメしようとして転覆した牽引船(タグ)とかじゃね?」

「可能性はあるが──なんでかソナーにかからねェんだよなあ」

「まぁ、現状維持でいいでしょう。それより、両弦、“アステロイドバスター”展開」

キャプテンはぼつりと呟く。

「──了解、“アステロイドバスター”展開」

言われるがまま、ボルトは端末を操作する。
随分と物々しい名前だ、これがボルトの言う“秘密兵器”なのだろうか。

「タナカくんさ」

「あ、はい」

徐にキャプテンが口を開く。

「ゲイル、連れてきてもらっていい?」

「──はい」

その意図はタナカにも汲み取れた。
宇宙海賊に対して、ゲイルはトラウマを持っている恐れがある。
昨晩のように、色々溜め込んで滅入っている可能性もあるのだ、そんな時に一人にするのは良くはない。

「──」

甲板に出た時、モビーディックの側面から迫り出してくる装置が見えた。
黒光りするそれは、タナカにも見てわかる形をしていたが、実際に目にするとは思いもよらなかったものだ。

「──バルカン砲──?」

アステロイドバスター。
そのような小洒落た名義で登録されるこの機材は、名目上は文字通り、船の進行を妨げる小惑星や隕石の破砕に使われるものとされている。
その正体は、海軍払い下げの所謂バルカン・ファランクスと呼ばれる兵器である。
孤立無援のホエールラインの内部において、船、及び乗組員の生命、あるいは積載する財産に対して損害を与えうる驚異が迫る場合において、商船はこのアステロイドバスターの使用を認められている。
例えば回避不可能な隕石・小惑星の接近などに際して使用の正当性が認められているが、この“など”のなかには、場合によって“宇宙海賊も”含まれる。

「──」

物々しい空気に、タナカは医務室への足を早めた。

「……いてて!? ……」

途中、唐突な偏頭痛を感じたが、足を止めるほどのものではなかった。

「──ゲイル先生!?」

タナカは医務室の戸を開く。

「おう、どした……」

応じたゲイルは、明らかに青白い顔で、額に冷や汗を浮かべていた。

「──ちょっとトラブルがあったんで、キャプテンにブリッジに来てもらうよう言われてきました」

「知ってるよ、宙賊っしょ?」

できるだけ曖昧にするつもりだったが、ゲイルは既に分かっている様子だった。
なればこそ、この青い顔にも納得がいく。

「ちょうど良かった……腰、立たねえんだわ……手伝ってくれる?」

「大丈夫ですよ、肩貸します」

タナカはゲイルを介助し、脇腹に腕を回す。
こうして頼られるのは、不思議と誇らしかった。

「……ん、タナカ」

「はい?」

「“キャプテンに”言われて来たの? ボルトじゃなくて?」

なぜそれを疑問に思ったのだろう。

「はい、キャプテンですけど……」

「ふぅん……珍しいじゃん……」

ゲイルがそう呟いた意味を、タナカはわからなかった。



ブリッジは十数分前より緊迫した空気に包まれている。
サブモニターの波形には、先程の曖昧な影のちらつきの他に、明確な光の点が現れている。

「来たか」

ゲイルは呟いた。

「しっかりケツに着いてきてるな」

「ガノフ、セオリー通りにジグザグ走行で回避。距離を離したあたりでアンカーポイント選定に入る」 

「了解ッ!」

ガノフは両足を踏みしめ、両腕に握るコントロールバーを力一杯動かして左右に船を傾ける。

「──ま、実際の海と違って左右に振ったところで波は守ってくれないし、ロケットランチャー当たりにくいかなーって気休めでしかないんだけどね」

「え」

小さく囁くキャプテンの言葉にタナカは青ざめる。

──直後、なにか眩く光るものが船窓を横切った。

「……え?」

「──撃ってきたッ!!」

「左舷アステロイドバスター十秒射撃。当てんなよー、威嚇ね威嚇」

直後、けたたましい金属音が等間隔で鳴り響く。
ソナーに映る光点が、わずかに距離を離す。

「畜生が、まだ着いてくるか──」

「アステロイドバスターおかわりで、おまけ付き十五秒」

「なんでそう落ち着いていられンだよッ!!」

ボルトの端末操作により、さらに金属音が鳴り響く。
ゲイルの顔色はますます青ざめていく。

「くそったれ、ナビケイターの乗り降りどころの騒ぎじゃねーぞ!?」

「──ッ」

タナカは襲い来る恐怖に耐える。
──自分より、恐ろしいと感じているはずの者が隣に居るのだ。
自分には何も出来ないとしても、不安を煽りたくはなかった。

「キャプテンッ、速度上げますッ」

「無茶しなーい無茶しなーい、横転して宇宙漂流したくないっしょ?」

「でもッ──!!」

──既にガノフはパニックの一歩手前だ、すべての責任を背負い込んでしまったのだ。

「あ」

ボルトが青ざめる。

「PPATHOSフィールドに干渉──ヒモくくられたかも」

どうやら宙賊船がモビーディックにワイヤーを引っ掻けたようだ。
これでさらに振り切るのが難しくなった。

「おいおいおいおいッ、奴等手練れだぞ!?」

「んーやばいねー、じゃあそろそろアラート出しとこっか」

キャプテンは端末を操作し、船内中の警報を響かせて、救難信号を周辺に向けて発信する。

「アステロイドバスター撃つぞっ、ワイヤーを切るッ」

「ああ、ああ──ッ」

「あぁーックソっ、死角にかけやがッ──」

空気が、張り裂ける。
焦りに互いの言葉が荒々しく、刺々しく変わっていく。
タナカはただ、隣で固まるゲイルの手を、強く握りしめることしか出来なかった。

「──お、おいッ、なんだこりゃッ」

「今度はなんだよッ!?」

「ソナーがッ……あぇ!?」

光点が船へとみるみる近づく中、周辺の空間変異に明らかなノイズが混じりだす。

「な、なんだこれ、なんだこれはッ!?」

ゴローは慌ててコンソールを操作し、ソナーの焦点を合わせようとする。

「は!? なんなんだよ、こいつ、“どの空間にいやがる”ッ!?」

「なんなんだよオヤジィッ」

「“質量”がッ、なんだ、“生えてくる”!?」

ノイズはみるみるうちに、曖昧な何かの影を写し出す。

「ボルト」

「なんだよ忙しい時にッ──」

「──“第五ジェネレータ”、バイパス接続」

……その言葉に、ボルトは顔を引き吊らせた。

「──撃つのか、“アレ”を──!?」

「──キャプテンッ!?」

ノイズが酷くなるソナーの辛うじて見える光点は、まもなくこの船に接触使用とする。

「──親父──!!」

ゲイルは、目を見開いた。

「……いッッ!?」

直後、タナカにまた瞬間的な頭痛が襲いかかった。

「──え」

そして。

「──なにか聴こえる──」

タナカの聴覚に。

「なにか、聴こえる──」

「なにかッてなんだよ、何言って──」

「なにか、聴こえるッ!!」

タナカの頭に──“歌声”が響く。

「“左”──!!」

「──ガノフッ、面舵いっぱぁいッ!!」

「──!!」

キャプテンの雄叫びに、ガノフは瞬間的に船を右いっぱいに傾けた。



直後。



──全員が、言葉を失った。

左舷より、船窓いっぱいに、それは、姿を現した。



──なんと表現したらいいだろう。

明確な姿を見た訳でもない。

明確な形を見た訳でもない。

それこそ、何か、見ず知らずの地形が突然そこに現れたような、そんな威容だった。



イグナシオ・タナカは、思わずブリッジ横のデッキへと飛び出した。

その威容を、その巨体を、その目に焼き付けておきたくてたまらなかった。

まるで、呼ばれたかのように。



それは、遍在空間の波間を割って、どこかの別の時空から入り込んできたかのように見えた。

人工物と言うにはあまりにも有機的で、生物と言うにはあまりにも馬鹿げていた。

まるで真昼の月の表面のような白いテクスチャを纏い、翼のように広げる器官の先端が虹色に煌めいている。

極度の緊張がそうさせたのか、あるいは畏怖の感情からか。
一切の聴覚が効かなくなり、変わりに視覚が異様な程に鮮明になって、まるで眼前の光景がスローモーションのように映る。

その“巨体”は暫く宙を泳いだ後、また虹色の波間の中へと溶けるように消えていった。



イグナシオ・タナカは、その巨大な何が消えるまで、ただ、その姿をまばたきも出来ずに見つめていた。

“それ”を、何か生物に例えるとするならば。

──“それ”は、“鯨”に例えられた。



「──」

“鯨”が消えて数分の間、クルーは全員、何も出来ずにただ呆けていた。

空間の乱れにダウンしたソナーがようやく自動回復する。
どうやら“鯨”を避ける為に面舵を切ったその時にワイヤーが切れたらしく、周囲に宙賊の船は見当たらなかった。
“鯨”の出現に飲まれて転覆したか、はたまた流されてしまったのか、その所在は分からず仕舞いだ。 

「──まさか」

ゴローがふと、口を開く。

「あいつが──“空間乱流”の──正体?」

「──」

誰も、それに応えることなく、ただ、窓の向こうを見つめていた。



──“鯨”の出現で、土星圏の周囲はちょっとしたパニックになっていた。
なにより、“鯨”の通った跡の空間潮位が全く安定しないようで、結局多くの船が立ち往生し、モビーディックもまた、宙軍によるサルベージに一晩待たねばならなくなった。

あれが、ホエールラインを開通させた“宇宙鯨”と同一のものか、あるいは別の生物なのか──そも生物だったのかは分からない。
土星に着くころにはニュースにでもなっているかもしれないが、とにかく、彼らはその瞬間を目撃してしまったのだ。

ボルトやゴローはその時の興奮をレクリエーションルームで語り明かし、疲労困憊のガノフとゲイルは共にカウチで肩を寄せて眠っている。
どのみち数時間の間、航宙公社側の入信があるまではどうすることも出来はしない。

──キャプテンは、わからない。
いつの間にか姿を消していて、誰も気にも留めなかった。

イグナシオ・タナカはひとり、レクリエーション・ルームを離れ、落ち着かない様子で自室のベッドに横たわる。

──あの威容が、目を閉じても浮かんでくる。

誰も見たことのない光景。

宇宙の神秘。

そのすべてが、あの瞬間にあった。

──イグナシオ・タナカは、ふと耳を澄ませる。

不思議と、遠くから、あの“歌声”が聞こえてくる。

タナカは、その歌声の向こうに、いないはずの父を思う。

この宇宙の果てまで、聴こえてくる。

そんな──そんな気がして、落ち着かない。



──“鯨”の歌が、聴こえる──



【LOG#04:ADEN_ARABIE】-LOG OUT-


最終更新:2019年07月16日 00:11