第四章・思惑の行方
1
「まずは、西のグノースへ逃げようと思う」
ファドはそう言って、広げた地図の上に指を走らせた。そして説明を続ける。
「グノースとスワラージは長く敵対関係にある。だから、いくら罪人の捕獲の為とはいえ、グノースはこっちの兵の入国を出来る限り拒むはず。独立心と反抗心が異常なほど高い国だから、しばらく追手の足止めをしてくれるだろう」
「…オーグランドは?確か、オーグランドとも敵対していたと思うんだけど」
「オーグランドはチェックが厳しいんだ、国王の妹君が暗殺されてから。…まだ犯人が捕まっていないからね。その上、もし『スワラージの王女』と『スワラージの軍人』ということがバレたりしたら、それに託けてスワラージに攻めてくる可能性がある。スパイだとかなんとか言って。この国は血気盛んで命知らずな人間が多いから」
呟いて、頭をひねる。だがすぐにグノースに向かうのが最善だろう、ということになった。あたしはファドに、色々な国の事を知っているのね、と笑いかけた。ファドは苦笑してあたしの頭にぽんと手を置いた。
「まぁ、仮にも元軍人だからね。スワラージの周辺諸国のことは頭に入ってるよ。ああ、そうだ。それから、これ。知人に頼んで作ってもらったんだ。無くさないように、持っていて」
「ファド、これってまさか…」
あたしは手渡された物とファドの顔を交互に眺める。
だって、これって明らかに…。
「そう、偽造の旅券。それが無いと国外には行けないから。素直に自分のものを使ったらすぐに見つかってしまうし、だからと言って国内ばかりうろうろしていても、逃げ切れないからね」
名前、レオノーレ・ウィルソン。
出身国、グノース。
そしてその他諸々、自分の物ではない細かな設定。
「申し訳無いけど、国境を超えるときはフィオナでもマリアでもなく“レオノーレ・ウィルソン”になってくれ。それから、私は“フィデリオ・ウィルソン”。設定は兄妹だ。良いね?」
「うん、分かった」
頷いて、変装用にとファドに買ってもらった丈の長いコートを着込み、そのポケットに偽物の旅券を仕舞う。そして同じように帽子と伊達眼鏡を身につける。
「それじゃあ、そろそろ行こうか、レオノーレ」
差し出された手を取り、あたしは笑みを浮かべた。
「えぇそうね、フィデリオ兄様」
少し芝居掛かったように言って、あたし達は互いに顔を見合わせてクスリと笑う。
そして宿を出て、二人でセレンダインの背に跨った。
ファドはそう言って、広げた地図の上に指を走らせた。そして説明を続ける。
「グノースとスワラージは長く敵対関係にある。だから、いくら罪人の捕獲の為とはいえ、グノースはこっちの兵の入国を出来る限り拒むはず。独立心と反抗心が異常なほど高い国だから、しばらく追手の足止めをしてくれるだろう」
「…オーグランドは?確か、オーグランドとも敵対していたと思うんだけど」
「オーグランドはチェックが厳しいんだ、国王の妹君が暗殺されてから。…まだ犯人が捕まっていないからね。その上、もし『スワラージの王女』と『スワラージの軍人』ということがバレたりしたら、それに託けてスワラージに攻めてくる可能性がある。スパイだとかなんとか言って。この国は血気盛んで命知らずな人間が多いから」
呟いて、頭をひねる。だがすぐにグノースに向かうのが最善だろう、ということになった。あたしはファドに、色々な国の事を知っているのね、と笑いかけた。ファドは苦笑してあたしの頭にぽんと手を置いた。
「まぁ、仮にも元軍人だからね。スワラージの周辺諸国のことは頭に入ってるよ。ああ、そうだ。それから、これ。知人に頼んで作ってもらったんだ。無くさないように、持っていて」
「ファド、これってまさか…」
あたしは手渡された物とファドの顔を交互に眺める。
だって、これって明らかに…。
「そう、偽造の旅券。それが無いと国外には行けないから。素直に自分のものを使ったらすぐに見つかってしまうし、だからと言って国内ばかりうろうろしていても、逃げ切れないからね」
名前、レオノーレ・ウィルソン。
出身国、グノース。
そしてその他諸々、自分の物ではない細かな設定。
「申し訳無いけど、国境を超えるときはフィオナでもマリアでもなく“レオノーレ・ウィルソン”になってくれ。それから、私は“フィデリオ・ウィルソン”。設定は兄妹だ。良いね?」
「うん、分かった」
頷いて、変装用にとファドに買ってもらった丈の長いコートを着込み、そのポケットに偽物の旅券を仕舞う。そして同じように帽子と伊達眼鏡を身につける。
「それじゃあ、そろそろ行こうか、レオノーレ」
差し出された手を取り、あたしは笑みを浮かべた。
「えぇそうね、フィデリオ兄様」
少し芝居掛かったように言って、あたし達は互いに顔を見合わせてクスリと笑う。
そして宿を出て、二人でセレンダインの背に跨った。
・
「……髪を、切ってしまったのかしら」
ベアトリクス様は本から視線を上げると、不意にそう呟いた。
「どうか、なさったんですか?」
聞くと、ベアトリクス様は私にゆるりと視線を向ける。
「ねぇエミリア、知ってる?『魔の力』っていうのはね、女性の、特に長い髪に宿るものなの」
以前ベアトリクス様のお部屋を訪ねて以来、何故か私はベアトリクス様の付き人をすることになっていた。ベアトリクス様のご希望だという。
…不思議な方だと思う。
窓の外を眺めて微笑んでいたり、何も無い空間にそっと手を伸ばしたりする。妖精かなにかがそこにいるように振る舞うこともある。時折、違う世界の人なんじゃないのかと思ってしまうほどだ。
私はお茶の用意をしながらベアトリクス様の話に耳を傾ける。
「最近ね、感じないのよ。何も、感じないの。…なぁーんにも、ね」
「…」
「あの子は知らなかったのね。…あの子の髪は、本当に素敵だったのに。とてもたくさんの力を秘めていたのに…」
そして、私には分からない世界の話を唐突に始めたりする。柔らかく、穏やかな表情で。そんな時、私はこう考えてしまうことがある。
この方は世界の全てを知り尽くしているのではないか、この世の全てを知る術を持っているのではないだろうか、と。
「……ベアトリクス様は、何かご存知なのですか?」
ベアトリクス様はゆるゆると首を左右に振る。
「何も知らないわ。…ただ、すべてが見えてしまう」
そして、どこか自嘲するように微かに笑った。
「……本当は、何も見たくは無いのだけどね…」
笑って、ベアトリクス様は私に言った。
“お人形”の話をしてあげる、と。
ベアトリクス様は本から視線を上げると、不意にそう呟いた。
「どうか、なさったんですか?」
聞くと、ベアトリクス様は私にゆるりと視線を向ける。
「ねぇエミリア、知ってる?『魔の力』っていうのはね、女性の、特に長い髪に宿るものなの」
以前ベアトリクス様のお部屋を訪ねて以来、何故か私はベアトリクス様の付き人をすることになっていた。ベアトリクス様のご希望だという。
…不思議な方だと思う。
窓の外を眺めて微笑んでいたり、何も無い空間にそっと手を伸ばしたりする。妖精かなにかがそこにいるように振る舞うこともある。時折、違う世界の人なんじゃないのかと思ってしまうほどだ。
私はお茶の用意をしながらベアトリクス様の話に耳を傾ける。
「最近ね、感じないのよ。何も、感じないの。…なぁーんにも、ね」
「…」
「あの子は知らなかったのね。…あの子の髪は、本当に素敵だったのに。とてもたくさんの力を秘めていたのに…」
そして、私には分からない世界の話を唐突に始めたりする。柔らかく、穏やかな表情で。そんな時、私はこう考えてしまうことがある。
この方は世界の全てを知り尽くしているのではないか、この世の全てを知る術を持っているのではないだろうか、と。
「……ベアトリクス様は、何かご存知なのですか?」
ベアトリクス様はゆるゆると首を左右に振る。
「何も知らないわ。…ただ、すべてが見えてしまう」
そして、どこか自嘲するように微かに笑った。
「……本当は、何も見たくは無いのだけどね…」
笑って、ベアトリクス様は私に言った。
“お人形”の話をしてあげる、と。
・
兵士五十人からなる大隊が十五隊。二十五人からなる中隊が三十隊。十五人からなる小隊が五十隊。
これが城の裏側に造られた軍の施設に常駐している兵士の数だ。およそ二千人。
最近、これだけの人間を束ねていた男が姿を消した。
アイツの本当の名前は知らない。ただ“狼”だの“猟犬”だの、あるいは、“月”などとも呼ばれていた。
…良く考えると、本当に謎だらけな男だった。
軍の志願届けですら名前の欄は空白。十六歳のとき、奴は『武の国』であるスワラージの中隊を一つ潰して軍に入隊した。
入隊試験で一つの中隊と一人で渡り合えというのは、本来ならば有り得ないことだ。クソ生意気な若い志願者に対する虐めのようなものであったが、あの男は見事に渡り合っていた。…というか、中隊の兵士達のほとんどは惨たらしい姿で生き絶えていた。人を殺すことに、何の躊躇もなかった。
生意気で、高慢で、残酷な男だった。教官に名前を聞かれたときでさえ、奴は「好きなように呼べ」と言い放ったのだと聞く。
最年少だったあの男は、初めこそ“子犬(パピー)”などと呼ばれていたが、それは次第に“猟犬”となり、“狼”となった。
…あの男は、狂っていたと言っても良い。
あの月すらも見劣りしてしまいそうな程美しい姿とは裏腹に、異常とも言える驚異的な力と残虐性を持っていた。
「まず、あいつが向かう可能性があるのはグノースか、あるいはオーグランドのどちらかだろう」
“狼”が消えてから隊長に任命された精悍な顔付きの男、デリスはそう言って、広げた地図の上に指を走らせた。
膨大な国土を誇るスワラージには、グノース、オーグランド、ソサエティ、ニーエの四つの小国が隣接している。中でも、グノースとオーグランドは以前からスワラージと長く敵対関係にある。
俺はデリスの指先を眺め、頷いた。
「…そう、でしょうね。ソサエティ、ニーエの二カ国とは国交がありますから。関係も良好ですし。『狼』でしたらすでに手回しのされていそうな所は避けるでしょう。実際、その二カ国には指名手配所を送ってありますし」
「それでだ、お前はどちらだと思う、アギナルド」
そう言って、デリスは俺に視線を向ける。
「お前の所の“エリニュエス”を出して欲しいんだ。少数の精鋭部隊をまさか二つに分ける訳にはいかんだろう」
「隊長の所の“フリアエ”を出しては?」
デリスはふと渋い顔をした。
「…いや、あいつ等では“狼”には勝てんだろう。奴とは経験も力量も違いすぎる。両方を出してもいいが、“エリニュエス”と“フリアエ”は犬猿だしな」
溜息を吐き、遣り難いよなあ、とデリスは呻く。
「…そうですねえ。女はねちっこいですからねー、顔合わせたとたんに嫌味の言い合いとかになりそうすもんね。下手したら殺し合い。触らぬ神に、と言いますし」
「あぁ。そんなとのは是非ともご一緒したくないからな。それで、どちらだと思う」
「…グノースだと思いますね」
「その根拠は?」
俺は地図上に視線をやり、答える。
「半分は、勘、ですかね」
「勘、だと?」
「俺の勘は良く当たるんです」
そして俺は、微かに笑う。
これが城の裏側に造られた軍の施設に常駐している兵士の数だ。およそ二千人。
最近、これだけの人間を束ねていた男が姿を消した。
アイツの本当の名前は知らない。ただ“狼”だの“猟犬”だの、あるいは、“月”などとも呼ばれていた。
…良く考えると、本当に謎だらけな男だった。
軍の志願届けですら名前の欄は空白。十六歳のとき、奴は『武の国』であるスワラージの中隊を一つ潰して軍に入隊した。
入隊試験で一つの中隊と一人で渡り合えというのは、本来ならば有り得ないことだ。クソ生意気な若い志願者に対する虐めのようなものであったが、あの男は見事に渡り合っていた。…というか、中隊の兵士達のほとんどは惨たらしい姿で生き絶えていた。人を殺すことに、何の躊躇もなかった。
生意気で、高慢で、残酷な男だった。教官に名前を聞かれたときでさえ、奴は「好きなように呼べ」と言い放ったのだと聞く。
最年少だったあの男は、初めこそ“子犬(パピー)”などと呼ばれていたが、それは次第に“猟犬”となり、“狼”となった。
…あの男は、狂っていたと言っても良い。
あの月すらも見劣りしてしまいそうな程美しい姿とは裏腹に、異常とも言える驚異的な力と残虐性を持っていた。
「まず、あいつが向かう可能性があるのはグノースか、あるいはオーグランドのどちらかだろう」
“狼”が消えてから隊長に任命された精悍な顔付きの男、デリスはそう言って、広げた地図の上に指を走らせた。
膨大な国土を誇るスワラージには、グノース、オーグランド、ソサエティ、ニーエの四つの小国が隣接している。中でも、グノースとオーグランドは以前からスワラージと長く敵対関係にある。
俺はデリスの指先を眺め、頷いた。
「…そう、でしょうね。ソサエティ、ニーエの二カ国とは国交がありますから。関係も良好ですし。『狼』でしたらすでに手回しのされていそうな所は避けるでしょう。実際、その二カ国には指名手配所を送ってありますし」
「それでだ、お前はどちらだと思う、アギナルド」
そう言って、デリスは俺に視線を向ける。
「お前の所の“エリニュエス”を出して欲しいんだ。少数の精鋭部隊をまさか二つに分ける訳にはいかんだろう」
「隊長の所の“フリアエ”を出しては?」
デリスはふと渋い顔をした。
「…いや、あいつ等では“狼”には勝てんだろう。奴とは経験も力量も違いすぎる。両方を出してもいいが、“エリニュエス”と“フリアエ”は犬猿だしな」
溜息を吐き、遣り難いよなあ、とデリスは呻く。
「…そうですねえ。女はねちっこいですからねー、顔合わせたとたんに嫌味の言い合いとかになりそうすもんね。下手したら殺し合い。触らぬ神に、と言いますし」
「あぁ。そんなとのは是非ともご一緒したくないからな。それで、どちらだと思う」
「…グノースだと思いますね」
「その根拠は?」
俺は地図上に視線をやり、答える。
「半分は、勘、ですかね」
「勘、だと?」
「俺の勘は良く当たるんです」
そして俺は、微かに笑う。
「それに、グノースには“渡り鳥(ワンダーフォーゲル)”が居る」
自由気ままな渡り鳥。
お前はどちらの国へと向かうのだろうか。
お前はどちらの国へと向かうのだろうか。
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