ドンドンドン、と扉を叩く音がする。その音を聞きながら、少女はただ一人、部屋の真ん中で体を丸めていた。
少女が能力に目覚めたのは半年前の事、食事中に触れたナプキンをもう一度使おうと思った時、それが独りでに飛んで来たのが最初である。既に姉が能力者として目覚めており、家族も能力に対する知識と理解はあったが、数万人に一人と言われる能力者が我が家に二人も、しかも自然に目覚めるなんて思ってもみなかったらしく、一同は驚いたものだ。両親は娘を抱きしめておめでとうと言い、姉や兄は手を叩いて喜び、メイドは本当に嬉しそうに笑っていた。だが、少女だけはそうでは無かった。
元々姉が能力を使って遊んでくれたり悪者を追い払うのを見て、自分もああなれたらなぁなどと思ってはいた。裁縫が好きで、布を操る自分を夢見た事もある。しかし実際に能力を得て感じたのは、心躍る熱意でも無く力漲る高揚感でも無く、ただただ不気味な感触だけ・・・夢はあくまでも夢であって、彼女の心は急激な常識の変化についていけず、動き出した布を見ても得体の知れない、信じていた世界が崩れ去る様な不安を覚えた。
一夜にして、世界が変わってしまった。少女がそう実感したのは、能力に目覚めた翌朝の事である。自分の着ている衣服が、いやらしく自分の体を舐めている様な気がした。口を拭うハンカチも、寒さから守ってくれたベッドシーツや絨毯さえもそうであった。下着など、言うに及ばずである。また、家族や友人と話している時も、衣服が勝手に動いて生き物の様に蠢いている気がして、大切な人を汚されている様な、とても嫌な気分になってしまった。更に一度など、メイドの衣服に触れた拍子にその衣服が暴れだし、結果壁に叩きつけられたメイドに怪我を負わせてしまった。彼女は気にしないと言っていたが、少女は家族と触れ合う事すら出来なくなってしまった。
ある時などは、授業中衣服が気になり「脱ぎたいな」と思った瞬間上着も何もかもが脱げだし、慌てた先生と女生徒が人の壁で彼女を隠し、服を落ち着けるまで男共の好奇の視線に晒される事となった。誰かが勝手に撮影したらしい、その時の写真(脱ぎかけの衣服を押さえつけている姿で、さして露出は無いが小学生には十分であろう)が出回りかけ全校集会が開かれた事もある。これらは能力の暴走による物と診断され、治すには自然に収まるのを待つしか無いと言われた。
・・・彼女は、まるで何もいない空間に「実は幽霊がいるんですよ」と言われたかの様な、あの後ろを振り返りたくなる恐怖を四六時中、全方位から感じる羽目になってしまったのだ。
彼女はやがて部屋にある一切の布製品を、気が狂った様に捨て始めた。集めていた裁縫用の生地やカーテン、ベッドカバーや枕に絨毯まで家の外に出し、自分の衣服すら脱ぎ捨ててしまう。そして部屋の真ん中に座り込むと、部屋から一歩も出なくなってしまった。
一日の内、食事やトイレ、お風呂などにはきちんと行く。しかしそれは、家族が寝静まった深夜に、我慢できなくなってこっそりする、という具合だ。ある日トイレに行こうとした際に、家族の誰かがうっかり落としたのだろうタオルを見て、それがまるで自分を襲う蛇の様に思えてならず結局トイレに行けず・・・メイドのマリーが泣き声に気付いたのは明け方、朝食を作ろうと起きた時で、結局お漏らしをしたが拭こうにも布が怖くて拭けず、ただ水溜りの中で泣いている最中だった。
それ以降、恥辱心も混じって更に布への恐怖が増し、やがて彼女のそんな気持ちを察したかの様に布も近寄らなくなった。これで少女と違い衣服を脱げない家族も、少女の部屋へは行けなくなってしまい・・・
本当に少女は、独りきりになってしまった。
数ヵ月後。少女は、部屋の真ん中で震えていた。季節は夏から秋、更に冬へと移行し、絨毯すら無い剥き出しの木の床は外の冷たさを彼女に伝え、その体温をどんどん奪っていった。暖房器具はあるが、折からの豪雪で停電し使い物にならない。歯をカチカチと鳴らし体を丸め、わずかに膨らんだ乳房と腹を温め、細い指で必死に腕を擦る。しかしそれでも間に合わず、背中や脇腹から冷気に晒されて鳥肌を立てていた。足先の感覚は無く、尻など既に凍り付いているのではと思える程だった。
ドンドンドン、ドンドンドン。突然、部屋の扉が強く叩かれる。少女は久しぶりのノックに驚いたが、すぐに開けようと立ち上がる。以前、姉が衣服を着ずに彼女を訪ねてきた事があった。一糸纏わぬ白い肌を晒し、顔を赤く染めた姉は、裸体が綺麗だったという事しか覚えていない。何か暖かい物を持ってきてくれたのかもしれない、メイドのマリーが作ってくれるスープが、今は堪らなく恋しい。・・・今は、姉も裸なのか?それは不味い・・・こんなに寒いんだ、早く開けないと。そう考えて少女は扉を開ける。
しかし、そこに居たのはクタクタした熊のぬいぐるみだった。
「・・・クマ吉!?」
少女は驚愕し、腰を抜かして倒れた。子供の頃から愛用していたぬいぐるみだが、今の彼女には昔見たホラー映画の人形よろしく、ナイフを隠し持っている様にしか見えなかったのだ。クマ吉が、一歩こちらに近寄った。「来ないでぇぇ・・・クマ吉ぃ・・・!!」少女は必死で後ずさる。しかし、すぐに冷たい壁にぶつかった。トコトコとクマ吉が近寄り、彼女に抱きつく。冷たい体から更に血の気が引き、一瞬で凍りついたかと思えた。助けを呼ぶ悲鳴と、心臓が酸素を求めるのとがぶつかって、呼吸が出来ない。冷や汗で手や足、尻がぬめって上手くあがけない。
「・・・・・・・・・!?」
しかし、いくら待っても彼女がナイフで刺される事は無かった。その事に気付いて、心臓の鼓動が少しずつ整うのを感じながら、恐る恐る目を下に向けると・・・クマ吉が、少女の腹に綿の詰まった頭を擦りつけていたからだ。その、少しくすぐったい感触と同時に、ある感覚が彼女の全身に行き渡る。
・・・・・・・・・暖かい。
途端少女は、跳ね起きる様にしてクマ吉を抱きしめると、その頬に自分の頬を当て、「ありがとう、ありがとうクマ吉!」と泣き始めた。驚いた家族がとっさに駆けつけた時、彼等の動きを阻むものは何も無かった。そして少女の部屋の扉を開けた時、誰も彼女に駆け寄ろうとはしない。その必要が無い事を、半年も続いた彼女の闇はたった今晴れた事を、彼女の泣く姿から知ったのだ。・・・それ程、その姿は愛に満ち溢れていた。
それからしばらく、彼女のリハビリは続く事になる。能力の影響は中々濃く残り、服を着る事すらままならないのだ。何とか下着は捕まえたが、他の着替えが飛んで行ってしまった時、少女は困った様に笑い、「これじゃぁ外にも行けないよ。」と言うと自室へと向かい・・・そして、クマ吉と寄り添って眠るのだ。
この事の顛末を聞いて、ある能力研究者はこんな疑問を持った。それは、「彼女の拒絶が消えていないにも関わらず、どうしてクマ吉が動き、彼女の元へ行ったのか?」という事だ。彼はそれに、ある一つの仮説を立てる。つまり、少女の能力に長い間影響を受けていたクマ吉は、まるで自我を持った様に見える程の操作を可能とした、そして彼女の心の奥底にある助けを呼ぶ気持ちに呼応して、少女の部屋へ向かったのだ、と。真相はどうあれ、この一件は能力により無生物に対して超々高度な操作が実現された稀有な例として、学会に報告されている。
最後に、事件の当事者である少女へのインタビューを載せておく。
女性記者「どうして、クマ吉君を抱きしめようと思ったの?怖くは無かった?」
少女「だって、クマ吉が顔を擦り付けて「大丈夫だよ、僕は友達だよ」って言ったんだもん。言葉には出て無かったけれど、私にはそれが分かったんだよ!」
・・・私は一介の研究者として、先の学者が唱えた説では無く、「クマ吉君に心が宿り、少女を助けたい気持ちを武器に、拒絶の思念を掻い潜ってあの部屋へ行ったのだ」という・・・この、ロマンチックな説を押しておく。
――――― ■月■日 第六人工能力者研究所の資料より。
「クマ吉、スープ美味しいね。」
少女の隣で、クタクタのぬいぐるみが答える。時刻は明け方、列車はもうすぐ、能力者達の集う世界へと着く頃だ。
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