地面に転がったジャンクデータは数知れず、気を抜くとすぐ踏みつけてしまう。その度に無茶苦茶なソースコードが血液のように飛び出て来て顔をしかめる。
そんな不可思議な景色と、やたらとひらっぺったい、ハリボテのような大地の感触も相まって、少し行くだけ奇妙な酩酊感が滲んでくる。
それに加え住人どもの意味の分からない言葉が延々と続くのだから、このネットスラムという場所は本当に居心地が悪いと思う。

とはいえこのエリアから離れる気はなかった。
少なくとも彼、モーフィアスはこの場に明確な目的を持って留まっていた。

彼は今一人だ。
同行者を得たはいいが、別行動を取っている。
それには無論効率の面での意味合いもあったが、少し一人になりたいという思いもあった。

揺光、そしてロックマン
あの二人の語って見せた『現実』はモーフィアスの知る『現実』とは全く相いれない、しかし全く違うという訳でもない、そんなものだった。
二人の『現実』と自分の『現実』の相違――特にロックマンの語る『現実』はモーフィアスにとって意味深いものを感じさせたのだ。

自分の知る『現実』が機械と延々と続く戦乱の『現実』であるとすれば、
揺光の知る『現実』はそもそも機械が反乱を起こさなかった、何もしなかった『現実』といえ、
そしてロックマンの知る『現実』は機械との共存ができた『現実』といえる。

それを聞いたとき、モーフィアスは気付かされた。
そんな未来が存在しえたこと、戦争は不可避のものではなかった、ということに。
だから、どうだということはない。当たり前といえば当たり前の話だ。しかし、こうしてその証拠を突き付けられると、今の『現実』は決して絶対的なものではないのだと実感できた。

この場において『現実』は決して一つではない。
どれが真であるかという問はナンセンスだ。
己が知覚できるものは全て等しく『現実』であり、同時に現実に客観的な観測視点を求めるならば『仮想』ともなる。

『現実』とは大地であり、地盤である。それを大前提として人は動いている。
もしそれが絶対的なものでないのだとすれば、ともすれば人は何も信じることはできなくなる。
そんな中でどう動くべきか――どう選択していくべきであろうか。

(その答えは恐らく……意志と呼ぶのだろうな)

モーフィアスは無言で空を見上げた。
青い青い澄んだ空がずっと広がっている。大地も偽物染みていて信じるこのできない、ハリボテの空間だが空だけは本物らしかった。
決して手に届くことはなかろうが、それでも真と見えるものはある。

「トリニティ」

思わず仲間の名を呟いた。
数時間前に告げられた名。元より何時こうなってもおかしくはない環境に彼女は身を置いていた。覚悟はしていた。
だから敢えてそれ以上は何も口にしない。ただ確からしい空を見ていたかった。

「そこの貴方」

不意にかけられた声に、モーフィアスは意識を切り替え身を引き締める。
明瞭な響きを持って語られたその声は、明らかにネットスラムの一員の焦点のズレたそれではなかった。
警戒を持ってモーフィアスは振り向く。念のためウィンドウを開き何時でも武器を取り出せるようにしておく。

そこに居たのは、褐色の肌をした一人の少女だった。
彼女はスラムの危ういビルのポリゴンの上に立ち、モーフィアスを見下ろしている。眼鏡越しに注がれる視線は凪のように落ち着き、そして冷たかった。
小柄な体にかけられた白衣が風に吹かれゆら、と揺れる。

「……何だ」
「貴方はネットスラムの住人ではありませんね。私が推測したところ、貴方はこのゲームのプレイヤーです」

すらすらと語られる言葉にモーフィアスは身を硬くする。
沈黙を肯定と取ったのか少女はモーフィアスをじっと見つめ、

「そしてここに更なる推測があります。
 貴方がこのエリアに残っている理由……それはアイテム探索にあるのでしょう?」
「ほう、何だ。私が何を探しているというのだ」
「noitnetni.cyl」

少女は加えて言った。「意志の破片です」と。

「このエリアではどうやら探索クエストが進行しているようです。
 察するに誰かがフラグを立てたのでしょう。結果としてエリアのNPCたちから容易に情報を得ることができました。
 これはメールにも記載されていなかった隠しイベント……やる価値は十分にあります」
「それで、何故私に接触を?」
「私は無駄が嫌いです。こういった探索クエストは複数人で行う方がずっと効率が良い。それは間違いないでしょう?」

少女はそう言って僅かに口元を釣り上げた。
微笑み――とまではいかないだろう。あくまで冷静に、冷徹に、自分の考えを述べたに過ぎない。

「私はラニ=Ⅷ」

そう彼女は名乗り、

「《蔵書の巨人》の最後の端末。
 師の教えに従い、一切の無駄は好みません」

そう言った少女、ラニは軽く頭を下げた。
その時風が吹いた。ひゅう、と音を立て吹いた風にその白衣が煽られ下半身が露わになる。
そうして見せつけられた無駄のなさに、モーフィアスはしばし閉口した。







「何というか……ネットスラムって本当に何でもありなんだね」

辺りをちらちらと横見に揺光はぼそりと呟いた。そこではそれなりにお洒落な空間が広がっていた。
少し外れたところにのカウンター席。その向こう側では酒らしきオブジェクトが並んだ棚があり、極めつけにボトルを磨くNPCが居た。
まるで、というか完全にそこはバーだった。

言うまでもなく正規のThe Worldにこんなものは存在しない。
世界観とも合わないし、何かシステム上意味があるようにも見えない。
しかしまぁ、ゆったりとしたソファの感触が意外と心地良かった。立ち話も何なので……ということで連れてこられた場所だが、確かに落ち着いて話せそうではあった。

「ははは、まぁ廃棄データをハッカーが勝手に弄り回してる場所だからね」

犬が朗らかに言った。彼(?)とはテーブルを挟み相対している。
テーブルの上では何だかよく分からない液体が入ったコップが三つ置かれている。
やけに饒舌なこの犬のサービスだった。とはいえ怖くて口に付ける気には全くなれないのだが。

「まぁここを揺光さんが知らないのも無理はない。
 普通のプレイヤーなら先ず来ない場所だしね。それにここはサクヤたちが来た場所だから、本来のリビジョンとしては――おっとこれは話が逸れるかな」

そう言って犬は笑った。何が面白いのか分からない。サクヤとは誰なのだろう。
隣のロックマンを見ると彼は相変わらず落ち着いた様子で犬と向き合っていた。
まだThe Worldの知識のある自分と違い、彼にしてみれば何もかも意味が分からないだろうに、全く取り乱した様子はない。
そのことに彼女は少し心を重くする。

「ところで僕たちに話したいことって」
「(゚益゚)」

ふと犬が威嚇するような顔文字を浮かべた。
顔に当たる部分にモニターがあるので、こうして感情表現するのだが、どうも人をからかっているようにしかみえない。
しかし、一応真面目に話すつもりがあるのか、犬は少しを声色を落として、

「簡単な経緯の説明さ。このクエストはどういう事件を基にして生成されたのか、それを知るフラグを揺光さんたちは偶然にも立てた訳だ。
 これでこのクエストでも優位に立てる……かもしれない」

その言葉を前置きにして、犬はゆっくりと語り始めた。
The World初めての事件。それは一人のプレイヤーが謎のNPCに誘われるままに奇妙なイベントを始めたことが起点だった。
.cyl……聞いたこともない拡張子のプログラムを集めていくプレイヤー。
eye.cyl、ecivo.cyl、rae.cyl、yromem.ryl……幾度かの探索を経て全てのプログラムを入手し、NPCは全てを取り戻した。
プログラムが意味していたもの、それは何てことのないアナグラムだ。
eye、voice、ear、そしてmemory。それぞれ目、声、耳、思い出を意味する。

全てを思い出したNPCは語る。
世界から望まれない形で生まれた自分は、ただのバグでしかなかった。
出来損ないであった自分は世界から消去されようとしていた、と。

だからNPCは自己保存を求めた。自らを幾つかのセグメントに分割し、世界から身を隠す。
そして時が来れば、セグメントを回収し、自らの情報を書き換え世界と同化する。
消去を不可避と知ったNPCの最後の抵抗にして、あきらめの心……それがそのイベントの真相だった。

最後にNPCはsetaf.cylを残す。
fates、抗いがたい運命。そのデータを残しNPCは世界を去った。

あとに残ったのは花のデータだけだった。
フィールドに咲いた一輪の彼岸花。それはもはや何てことのない背景データに過ぎない。
無害故に、それは削除の対象とはならなくなった。
それがNPCの、AURAになれなかった彼女の『意志』だった。

……そのNPCは名をリコリスと言った。

「そりゃあ何とも……」

救いのない話だね。
話を聞き終えた揺光が思ったことはそれだった。

「そうかもしれないね。ただしかし、彼女は『意志』を持って行動することができた訳だ。
 それが例え抗いがたい運命に従うことでも、しかしまぁ自分で選び行ったことではある。
 だからこそ一つの物語として成立している訳ではあるけれど」

物語、と犬は語る。なるほど文学を嗜む揺光としても、今の話は物語として一つのオチがついているようにも見える。
問題は、この話が現実に起こった事件であること、そしてそれを基にしたクエストが今まさに進行している、ということである。

「……それで僕たちはnoitnetni.cylを探しているってことなんだよね。
 でもさっきの話にそのプログラムは出てこなかったよね?」

ロックマンが思案顔で尋ねた。
確かにそうだった。その事件を基にしている、ということは分かるが、目標とされるプログラムは先ほどの話には出てこなかった。
noitnetni.cyl。先の話の法則に従うならそれが意味するところはつまり……

「『意志』か」

intention。学生としての英語の知識を引っ張り出し、そう口にした。
揺光の呟きに犬が鷹揚と頷いた。

「そう。このクエストはどうやら『意志』を探してる訳だ。
 だけども勘違いして欲しくないのが、これはリコリスの『意志』ではないということ」
「え? それはどういう……」
「先の事件はあくまでこのクエストの基となっただけだよ。
 クエストを生成するに当たってランダムに現実の事件を参照したところ、こうなってしまった、というだけでね。
 .cylというのもその名残に過ぎない。本当に当時を再現しているという訳ではない。
 だから、これに直接リコリスが関わってくるとは思わない方が良い。だって彼女はもう、居ないのだから」

フィールドに咲く一輪の彼岸花の姿が、脳裏に過った。
無論それはただの想像だ。自分は見たことがない。仮にあったとしても、ただの背景として見逃していたに違いない。
犬はそこでモニターから文字を消した。役目を終えたとでもいうように。
そして付け加えるように一言、

「さて、ならこれは誰の『意志』なのかな。それが疑問になるんだけどね。
 果たして誰の為にこのクエストが生成されたのか。これはちょっと分からない」







「あーのあのあの、チート錬成屋の近くって、何があるんだっけ」

「んん? 彼岸花の女? あー何か聞いたことあるな……えーと呪われてるんだっけ」

「楽園だったよ、あそこは。あの猫も可哀そうだった」

「何だったかのう……ああそうだ、『失意の』じゃ」

ラニとの探索は順調だった。
スラムの住民たちが話す内容を分析し纏めること、それがこのクエストの攻略方法だ。
地味に見えるがこれが最も近道である。こうした諜報任務自体はモーフィアス自体も慣れている。
が、それでもラニの情報分析の正確さには舌をまく。

無駄を嫌う、というだけあって彼女の行動はスマートかつ迅速だった。
各NPCから仕入れた情報を――そのほとんどは意味不明な、要領を得ないものであるにも関わらず――分類し冷静に分析する。
その様は硬い佇まいと相まって、まるで精緻な機械のようである。そんな印象をモーフィアスに抱かせた。

「これが誰の『意志』なのか。
 どうやらそれはどの住民も知らないようですね」

探索の最中ラニが口元に手を当て言った。
情報収集の末、既にこのクエストが何の事件を基にして作られたものであるかは知っている。
揺光が言っていたThe Worldにおいて起こったとある事件。それがベースとなっているようだった。
リコリス……それは恐らくあの少女だ。ネットスラムに来たときに出会った、あの幽霊のような少女。
誰かが、恐らくは自分以外の参加者が、彼女に接触したことで、このクエストは始まったらしい。

「『どこ』にあるのかは今までの情報収集からおぼろげには見えてきました。
 しかしこれがどういう意味を持ったクエストなのかは全く掴めない……これは住民にプロテクトが掛かっている、というよりは元より彼らには情報が与えられて居ない、そんな感触があります。
 それは偶然なのか……必然なのか」
「このクエストには何かしら深い意味があると?」
「はい。このイベントは他のエリアのものと比べ明らかに一線を画しています。
 まず存在が明示されていないこと。そしてプレイヤーにメリットが何も提示されていないこと。
 ……他のイベントに比べ色々なものが欠如しています。それが単なるミスであるとは、私には思えません」

ふむ、とモーフィアスは腕を組む。
ラニの言葉は分かる。メールに記載されてあったようなイベントは、分かりやすく殺し合いを促進させるものだ。
ポイント二倍やアイテム変化は勿論、一見して安全でありそうでありながら穴の見える休戦エリア設定など、ゲーム進行上有効なのは分かる。
では、この探索クエストはというと、違う。ただ指定のものを探せとだけ言われる、ひどく不親切な内容。

「……このクエストは運営側にも管理できていない……? 自動生成に当たって不具合を起こしてしまった?
 いやそれは流石に楽観的過ぎますか」

ラニはぶつぶつと言葉を漏らしている。考えがまとまらないのかもしれない。

「ともかくもラニ、一先ずはクエストを進めよう。
 何か意味があるものならば……その最中に何かが見える筈だ」

モーフィアスの言葉にラニは黙って頷いた。
元よりそのつもりだったのだろう。彼女は迷いなく歩き始めた。

モーフィアスはその背中をじっと見つめた。
少女の外見でありながら、彼女の纏う雰囲気は戦士のそれであった。
彼女もまた戦争の『現実』に身を置く者であった。

彼女と同行するに当たってモーフィアスは彼女がどのような『現実』に身を置いているかは聞いてある。
彼女の語る『現実』には機械が登場しない。また争いも少ないと言う。
あるのは西欧財閥による圧倒的な支配、そしてそれに対する僅かながらの抵抗。

世界のほとんどは平和であるらしかった。だがしかしそれが幸福であるとはモーフィアスには思えなかった。
全てが管理・統制された社会。西欧財閥の支配体制はゆるやかだが絶対的で、どことなくマトリックスを思い起こさせた。
管理されるか、敵対するか、その二択しか人は選べない。どちらもそのような『現実』である。
……違うのは一点。管理者が人間であるか機械であるか、だ。

(機械が台頭せずとも、か)

幸福は訪れないし、争いのない未来が来るわけではない。
彼とて全て機械が悪いなど思っている訳ではない。元はといえば人間が撒いた種である。

その事実に別に何の感慨も抱かない。
有史以来人は争ってきた。機械が登場したほんの最近のことだ。
そして何より、機械との戦争においても、人間同士の争いは頻繁に起こった。
数年前のサイファーの裏切りが脳裏に過る。ドーザー、エイポック、スウィッチ……ネブカドネザル号のクルーが人の手で討たれた。
人は変わらない。変わるとすれば、それは選択をした時だけだ。

「…………」

ふとそこでナイオビの顔が思い浮かんだ。
そしてついでに、ロック司令のしかめ面も。

ザイオンは大丈夫だろうか。
その不安をここ数日で何度反芻したか分からない。

「Mr.モーフィアス」

ついてこないモーフィアスを怪訝に思ったのかラニが呼びかけてきた。
彼は感傷を捨て置き、彼女のあとを追った。「何でもない」そう告げて。
既に向かうべき場所はおぼろげながら見えている。スラムの住民たちの話す言葉は相変わらず脈絡もなく意味不明だ。
しかしその内容はエリアに来たときと比べ明らかに変化している。
その変化を総合すると……

「ここですね」

眼前に灯る青い光を見上げラニは呟いた。
それはこのエリアの片隅にあった。乱立するポリゴンの奥で、青い燐光を放つ球を備えた金の燭台がぽつんと置かれている。
雑然と広がるネットスラムであるが、これだけは小奇麗に整えられており、どこか異質な感じがした。
その直感はどうやら間違いではなかったようだ。考えが正しければこの場所こそが――

「ゲート、か。ここでワードを打ち込めばいいのか?」
「恐らくは。判断するに門はこれで間違いないでしょう」
「ふむ、これは恐らく揺光の言っていたカオスゲートだな」

ゲートを見つめつつ、ラニは虚空に指を這わせる。
すると音を立てウィンドウが開かれた。設定を弄ってあるのかモーフィアスにも視認できる。

「ありました」

ラニが平坦な口調で言った。
その視線はウィンドウの一点を示していた。
【ワードリスト】通常のメニューではなかった項目だ。
ラニは迷わず指を這わせそれを展開する。

「予想通り三つの言葉を要求してきましたか」

ウィンドウは切り替わり、ワードを入力しろ、という指示が出ている。
三ブロックに別れた語群を組み合わせて転送先を選ぶ……揺光から聞いた仕様そのままだった。
ラニは表示される無数ワードをスライドさせながら、

「ここから別のエリアに飛ぶことができるようですね」
「この中のどれかが正解であり目的物がある、ということか」
「そうですね。ですがこの数では総当たり/ブルートフォースアタックは無理です。更に三ワード組み合わせを考えれば実質エリア数は無限と考えてもいいでしょう。
 いや、それでも時間が許すのならばありかもしれませんが、外れエリアを引いたときに何もペナルティがないとは思えません。
 エネミーが配置されている、程度のことは覚悟しておくべきでしょうね」

淡々と分析語るラニの指は、しかし止まっていなかった。
候補の中から明らかに特定のワードを探している。

「そこで今までの情報収集を活きてくる訳だな」
「はい、このエリアのNPCの言葉の大半は意味のないものでしたが、しかし一部単語が明らかに重複していました。
 その一部はゲートの位置をほのめかすものでしたが、他は本当にとりとめのない、繋がりの見いだせないものでした。
 が、これで分かりました。彼らは言っていたんです。鍵を、『意志』のありかを」

そう言ってラニは三つのワードを入力した。
無数の組み合わせの中から彼女が選んだのは『呪われし』『失意の』『楽園』
入力を終え、彼女は迷わず決定コマンドを選択する。

すると、ラニとモーフィアス、二人の頭上に燐光が現れた。
その光は彼らを包み込み「ほう」とモーフィアスが声を上げる。
どうやら入力した本人だけでなく、近くにいたプレイヤーも巻き込んで転送されるらしい。
転送の予兆を感知した彼らはそのまま――








――白い白い、何も書かれていない、白紙の空間だった。
空も大地もない。設定されていないのだ。この奇怪な感覚にモーフィアスは既視感を憶えた。
そうこれは、あの開幕の場と同じだ。なくなったのではなく、そもそも何もない、つくって放り投げただけの部屋。

「……違うのはこれか」

モーフィアスは目の前に置かれたベッドに目をやった。
天蓋つきの小さなベッドは小さな子供用の、母が子を育てる為のものだ。
白で塗りつぶされた空間にぽつんとベッドが置かれている。
異様な光景だが、その不気味さを更に強調するように置かれた別のものが目に付いた。

「ぬいぐるみですね」

床に散乱するその一つを拾い上げたラニが淡々と言った。
それは熊のぬいぐるみだった。その生地はくすみ元はどんな色だったかも定かではない。目から飛び出た瞳がひどくグロテスクに見えた。
そんなものがこの部屋には散乱しているのだった。どれ一つとしてまともな造形のものはない。本来とはかけ離れた歪んだ造りでありながら、あたかもそれが正しい形であると主張しているようでもあった。

この子供部屋がどんな意図で作られたものであるにせよ、ここで子供を育てていた母親はロクなものではなかったのだろう。
……それが母親と呼べるのならば、であるが。

「……何だこのエリアは」
「分かりません。現状では情報が不足しています」

どんな意味があるにせよ、不気味な部屋だ。あまり長居はしたくない。
それはラニも同じだったのか、無言でベッドの上を覗き込んだ。

そこには奇妙な箱が浮かんでいた。
正確な直方体をしたそれはゆっくりと回り、艶のある青がじんわりと照り光っている。
デジタルデータらしく0と1の数値が蠢いていた。

「これはアイテム扱いのようですね。【拾う】コマンドが表示されています」

そう言ってラニは箱に手をかざした。
『ラニ=Ⅷはミステリーデータを調べた……』まずはそう表示され、

『noitnetni.cyl_1を手に入れた』

「……手に入りました」
「_1か」

その記号が意味することは、同一のプログラムが複数存在すると言うことだ。
このクエストはまだ終わりではないようだ。
ラニはじっと画面を見つめていたが徐に顔を上げ「出ましょう」と言った。

「あと幾つあるのかは分かりませんが、一先ずクエストクリアに一歩前進しました。
 このエリアの意味も調べたいですが」

そう言って彼女はちら、と横目で辺りを示した。
この不気味な子供部屋に何も意味がないとは思えない。それはラニも同感だったようだ。

「今のところ情報不足です。このワードを入力すればまた来ることも可能でしょうし、一旦は撤退しましょう」
「すぐに出ることが出来るのか?」
「はい、どうやらワード入力者にコマンドが追加されるようですね」

言いつつもラニはウィンドウを開いている。
エリアから出るつもりらしい。無論そのことに異論はない。

異論はないが、言うべきこと。尋ねるべきことはあった。

「ラニ、今まで黙っていたが私には同行者がいる」

転送の光に包まれながらモーフィアスは口を開いた。
ぴくり、とラニはその動きを止める。

「二人だ。近くに居てな、共に高い技術を持っている。戦力としては申し分ないだろう」
「……そう、ですか」

ラニの瞳が揺れる。それをじっと見据えつつ、モーフィアスは転送された。


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最終更新:2014年02月03日 21:09