0
蒼ざめた馬の疾駆するがごとくに
見えざる疫病の風、境界を越えゆく。
阿鼻叫喚、慟哭の声、修羅、巷に溢るる。
逃れうるすべなく、
喪われしものの還ることあらざる。
時の流れは不可逆なればなり
1◆
――――ハ長調ラ音。
ピアノの鍵盤を弾く様な音が響く。
「――――ここ、は……」
気か付けば、ハセヲは黄昏色の空の下で佇んでいた。
この場所には酷く見覚えがあった。……ないはずがない。
カルデラ湖の中心、陸地には至らない石橋の先に建てられた建造物。
「グリーマ・レーヴ大聖堂」
女神アウラが祀られていたという、ロストグラウンドの一つであり、
ハセヲにとっては、終わりと始まりを告げる、運命の地とも言える場所だったのだから。
「けど、なんで俺はここにいるんだ? たしか俺は、さっきまで………」
マク・アヌにいたはずだ。と口にしながら、ハセヲは最後の記憶を辿っていく。
レオの指示に従って、俺はマク・アヌを調べようとしていたのだ。
道中で白い
スケィスと、AIDAに感染していたボルドーとも遭遇したが、特に問題はなかったはずだ。
だから問題があったとすれば、マク・アヌの中でだ。マク・アヌの中で俺は――――
「そうだ、志乃……!」
未だ意識不明となっていたはずの志乃を見つけたのだ。けれど……
その時にはもう、白いスケィスにキルされてしまった後だった。
……俺はまた、間に合わなかったのだ。
そうして俺は、怒りと憎しみの感情のままに、そこに現れた黒いスーツの男と、そして『三爪痕(トライエッジ)』とよく似たPCへと襲い掛かった。
けれど、その戦いは……憎しみは長くは続かなかった。黄昏色のそのPCが、志乃と同じことを口にしたからだ。
俺は、そいつらを『敵』にして、憎悪に身を任せることで、志乃を守れなかった喪失感と悲しみを誤魔化していただけだった。
そうして戦いは終わりを迎えた。
黄昏色のPCは、黒いスーツの男に対してデータドレインを使うと、蒼炎を纏って男を圧倒した。
機能拡張(エクステンド)による強化と、データドレインによる弱体化が要因だろう。
俺の攻撃をものともしなかった男は、蒼炎の攻撃に成すすべなく追い詰められた。
だが、蒼炎のPCが男に止めを刺そうとした瞬間、蒼炎が何かに驚いたように動きを止めた。
その隙を突いて、白いスケィスが蒼炎を赤い十字架に磔にし、データドレインを放ったのだ。
そして黄昏色のPCは蒼炎を失い、そのままデリートされてしまった。
残されたのは、俺と白いスケィスだけ。
黒いスーツの男は黄昏色のPCがデリートされた隙に逃げ去っていた。
だが白いスケィスもまた、俺を無視して去っていった。
結局のところ俺は、あの場にいた誰にとっても『敵』ではなかったのだ。
そうして、気付けば限界を迎えていた俺は、そのまま気絶したのだ。
……そうだ。俺は気絶したはずだ。
ならばこれは夢か? 夢だとしても、一体何の夢なのか。
もしかしたらあの後、PKに見つかってキルされたのか?
直前に遭遇したボルドーの事を考えると、決して可能性がないとは言い切れない。
だとすれば、俺はとっくに死んだのだろうか………。
「ちくしょう……。何も……わからねぇ」
自分がまだ生きているのか、それともすでに死んでいるのか。この状況ではそれさえも不確かだ。
だがこのままじっとしていても、何もわからないままだ。なら今は、この状況でもできる事をするべきだろう。
そしてカオスゲートが存在せず、メニューも開けないこの状況では、大聖堂だけが残された唯一の導だ。
そう考え、大聖堂へと向けて足を進めた。
「それにしても、あいつは……あの白いスケィスは一体なんなんだ」
その合間に、そんな事を考える。
自分の『憑神(アバター)』と同じ、輪をあしらった赤い十字架を持つ白い石像の巨人。
あいつは俺の事は完全に無視したくせに、黄昏色のPCのことは執拗に狙っていた。
思い返してみれば、あいつの反応は『三爪痕(トライエッジ)』に似ている気がする。
蒼炎を纏った謎のPK。憑神とよく似た力を持つあいつの正体も、結局は謎のままだ。
だがあいつは、間違いなく何かを狙っていた。
それが何かは判らないが、あいつが俺たちと戦った時の反応と、白いスケィスの反応が似ている気がした。
ならばあのスケィスにも、狙う対象に条件があるということか。
その条件に黄昏色のPCは当てはまり、俺は完全に外れていたのだろう。
だとすれば、その条件は何なのか。
通常の仕様から外れている、と言う意味では、碑文使いの俺も、データドレインを使ったあのPCも一緒だろう。
だとすれば、あのPCと『三爪痕(トライエッジ)』が似ていることと、何か関係があるのか?
……そう言えばそもそも、俺はどうして、あの白いスケィスが『スケィス』だと確信したのだろう。
“似ている”でも“近い”でもなく、“同じ”だという確信。それは一体、どこから来たものなのか。
その手掛かりはおそらく、あのスケィスと始めて遭遇した時に感じ既視感(デジャブ)にあるはずだ。
“ハセヲ”となる前に出会っていたという、あの感覚。俺は一体、いつあのスケィスと遭遇したのか……。
その答えを求めて記憶を探り―――しかし、答えが見つかる前に大聖堂の入り口に辿り着いた。
「……とりあえず、あいつの事は後回しだな。今はこの状況を何とかしないと」
白いスケィスの正体が何であれ、生きているのなら、また遭遇する可能性もあるだろう。
そう考え、大聖堂の扉を開け中へと入る。するとそこには、“鎖に繋がれた女神アウラの像”と、そして――――
「な! し、志乃……!?」
俺の目の前で、二度も消え去ったはずの、彼女の姿があった。
「――――ハセヲ」
俺の声が聞こえたのか、志乃がゆっくりと振り返る。
彼女の無事な姿に、俺はこれが夢だという事も忘れて安心した。
だが。
「来てくれたんだ。
……でも――間に合わなかった……」
その言葉とともに、志乃の身体が、ゆっくりと宙に浮かび上がる。
同時にその背後に、あまりにも見覚えのある黒い杖と、その持ち主である、黒い死神が出現する。
間違えようなど無かった。形態こそ初期の物ではあったが、その姿は紛れもなく、俺がよく知る方のスケィスだった。
その、自身の『憑神(アバター)』であるはずのスケィスが、白いスケィスが黄昏色のPCに対してそうしたように、志乃を杖に磔にしていた。
「ま、まて! やめろ……っ!」
直観的な恐怖からそう口にして、志乃へと向けて駆け出す。
だがスケィスは両腕を大きく振り上げると、その両手を大きな鎌のように変化させ、
「やめろぉぉォォォォオオオオッッッ!!!!!!」
全力で志乃へと走りながらも、有らん限りの力で叫ぶ。
だが、スケィスはその声など聞こえてないかのように、両手の大鎌をギロチンの様に振り落した。
ザン、と言う音がして、血のように赤いエフェクトが飛び散った。
志乃のPCボディは両断され、その断面からこぼれるようにデータ片を撒き散らす。
それによって磔刑から解放されたのか、大聖堂の床へと崩れ落ち、そのままガラス細工のように砕けて消えた。
……懸命に伸ばした俺の手は、また今度も、あと少しの距離を残して届かなかった。
「志……乃……」
一歩、二歩と、たたらを踏んで、そのまま崩れた様に膝を突く。
また間に合わなかったのか。と、喪失感と自己嫌悪に襲われる。
これが夢であることを思い出しても、その感覚が拭えない。
そんな俺に構うことなく、スケィスは次の獲物を定める。
己が杖を手に取り、大聖堂の入り口へと向けて突き付ける。
慌てて振り返れば、そこには三尖二対の双剣を手にした、黄昏色のPCの姿があった。
「おまえは……!」
あのPCが『三爪痕(トライエッジ)』の双剣を装備している理由は、自分があの姿に対して持っているイメージからか。
いずれにせよ、彼は、まっすぐにスケィスを睨み付けると、黒いスーツの男を圧倒した蒼炎を纏うと、三つ又の双剣を構えた。
それと同時に、スケィスが先制攻撃を開始した。
スケィスは左手を突き出すと、そこから無数の光弾を射出する。
だが蒼炎は光弾を双剣で弾き防ぎきり、即座にスケィスへと一気に飛びかかる。
対するスケィスも、杖から光の刃を展開して大鎌とし、蒼炎へと振り被り迎え撃った。
「くそっ。一体何がどうなってやがんだ!」
現状の理解が追い付かない。自分が見ている夢のくせして、自分自身を置き去りにしている。
蒼炎のPCもスケィスも、俺のことなど意識もしていない。目の前で始まった戦いに対して、俺はあまりにも無関係だった。
今できる事は、ただこの戦いを――夢の結末を見届けることだけだった。
2◆◆
――――
シノンが目覚めた時には、既に全てが終わっていた。
重い瞼をどうにか持ち上げ、辺りを見渡す。
霞む視界の中に見えたのは、四つの人影。
蒼い炎を纏う黄昏色の少年と、黒いスーツを着たあのPK。
黒く禍々しい鎧の少年と、赤い十字架を構える白い石像の巨人。
朦朧とした意識では、どういう状況なのかを把握する間はなかった。
なぜなら、それよりも遥かに早く、決着が付いてしまったからだ。
まず黄昏色の少年が赤い十字架に磔にされ、白い巨人の放った極彩色の極光に撃ち抜かれた。
その間に黒服のPKは逃げ去り、黄昏色の少年はデータ片となって四散した。
そして白い巨人は黒い少年を意にも留めずに立ち去り、残された黒い少年は気を失って倒れ伏した。
ここで一体何が起こったのか。それを教えてくれる者はいない。
辛うじて残された戦闘痕から、彼らが争っていたことが予測できるだけだ。
ただ気絶する直前に見た、アトリと似た黒い少女の姿がなかったことだけが、僅かに気にかかった。
…………それでもシノンには、迷っている暇はなかった。
自分が気を失ってから、どれくらいの時間が経ってしまったのか。
黒服のPKの傍に残されたアトリは、果たして今も無事でいるのか。
それを考えれば、状況の不明などに立ち止っている暇は微塵もない。
だがシノンは、すぐには動きださなかった。
焦りがないわけではない。むしろ今すぐにでも駆け出して、アトリを探したいとさえ思っていた。
彼女がそれをしないのは、焦りに急かされた行動では、往々にして望んだ結果に至らないことを理解していたからだ。
――――冷静に。
努めて冷静に、シノンは状況を把握していく。
アトリがすでに殺されている可能性は非常に高い。もはや確実と言っていいレベルだ。
だがそれでも、諦めるにはまだ早いと、アトリはまだ生きているはずだと、シノンは信じていた。
その希望を持つに足る根拠が、彼女にはあった。
一つは、ランルーくんの存在。
黒服のPKに自分が殴り飛ばされた時、彼女はまだ気絶していた。
だがもし彼女が目覚めていれば、あるいは時間稼ぎぐらいはできるかもしれなかった。
そしてもう一つが、あの黒服の言葉。
あの黒服はイニスを使ったアトリを見て、“君だけは絶対に取り込まなければ”と口にした。同時に“君が死なないでくれて助かるよ”とも。
それはつまり、あの時点では黒服のPKに、アトリを殺すつもりはなかったという事だ。
“取り込む”という言葉の意味は気になるが、それでもこの言葉は、アトリが生きている可能性が残されている証だ。
そしてあの黒服がアトリを捕らえているのなら、まだそう離れてはいないはずだ。あとは致命的な状況になる前に、彼女を助けだせばいい。
……だから問題は。
今の自分の手札では、あの黒服は絶対に倒せないという事だ。
自身の状態を確認する。
現在持っている手札は、ファイブセブンとプリズム、そしてアンダーシャツのみ。
そしていかなる理由からか、一ポイントしか残っていなかったはずのHPが全快している。
………おそらくは、あのアトリに似た黒い少女のおかげだろう。
彼女はアトリと同じゲームのPCで、同じ職業(ジョブ)なのだろう事は予測できる。
ならばヒーラーのアトリと同じように、あの彼女も回復呪文が使えてもおかしくはない。
だが黒服は圧倒的なステータスを持ち、さらにはこちらの三枚の手札の内二枚を知っている。
そして黒服が自分たちを見つけ出した手段と、あの黒服が二人いた理由を、自分は理解できていない。
ファイブセブンとプリズムも、使い方次第ではまだ有効だろう。
黒服の攻撃も、アンダーシャツの効果で一撃だけならば耐えられる。
あの黒服に銃弾を当てることも、回避距離のないゼロ距離からならばおそらく有効だ。
つまり、どうにか不意を突き、プリズムを囮にし、懐への接近に命を懸ければ、もしかしたらあの黒服を倒せるかもしれないのだ。
が―――しかし、そこで終わりだ。
黒服が自分たちを見つけ出した手段を使えば、それだけで奇襲の成功率は激減するだろう。何しろ相手は、放たれた銃弾を見てから回避するような化け物だ。
加えて、もし仮に黒服に発見されず、奇襲も完璧に成功させ、奇跡的に黒服を倒せたとしても、“あの黒服はもう一人存在する”。
そのもう一人をどうにかしない限り、結局アトリを助けることは出来ない。
現在の状況でもう一人の黒服に対抗しようと思うのならば、アトリのイニスに頼るしか方法はない。
だがしかし、イニスは一度あの黒服に敗れており、さらにその前提は、アトリの状態が良ければの話に過ぎない。
そんなまずあり得ない可能性に縋るなど、もはや希望的観測ですらない。ただの現実逃避だ。
不確定要素に頼って倒せるほど、あの黒服は決して易しくないのだから。
……そう、勝ち目はない。まったくのゼロだ。
シノンにアトリを助けだす術は、何一つとして存在しない。
「………それでも、やるしかない」
圧倒的不利を理解しながらも、シノンは覚悟を決めてそう口にする。
そう、やるしかない。アトリを助けるには、その不確定要素に頼るしかないのだ。
それに手札が少ないのであれば、増やせばいいだけの話だ。そう考え、シノンは視線をある場所へと向ける。
目覚めた時には終わっていた戦いの場。黄昏色の少年が、データ片となって消え去った場所。
そこには黒い鎧の少年が地面に倒れ伏し、そのすぐ傍に幾つかのアイテムが散らばっている。
そちらへと近寄り、散らばるアイテムの内の一つ――古めかしい装丁をされた巨大な本を手に取る。
【薄明の書】
使@す*とPCEータに#%がイン@トーWされる。
表示されたウインドウの説明にはそう記載されていた。
文字化けしていて、正しく読むことができない。
辛うじて読める文字から推測するに、おそらくこれはインストールブックの一種なのだろう。
しかしその肝心な部分。インストールされるデータが何なのかは、まったく読み取ることができなかった。
本自体も黄昏色の少年と同様に蒼い炎を纏っていたことから、おそらくそれに関するスキルを習得できるのだろう。
だが文字化けするようなバグがある以上、迂闊に使用することはできない。
インストールブック以外のアイテムも、その詳細を確認しながら回収していく。
その内二つは、自分にとっても非常に有用なものだった。上手く使用すれば、アトリを助けだせる可能性はさらに高まるだろう。
それらをもとに、改めて対黒服の戦術を組み立てていく。
同時にシノンは、空のままだったファイブセブンに銃弾を込めていった。
――――弾丸の一発一発に、必殺の意思を籠めるかのように。
ゲームであろうと、リアルであろうと、最後に命運を分けるのは結局のところ意志の強さだ。
だから、たとえ他の何が負けていても、それだけは決して負けてやらないと。
何よりも自分自身に誓うように、最後にファイブセブンの遊底(スライド)を引いた。
そうして全ての準備を整えた後、シノンは気を失ったままの黒い少年へと目を向けた。
少年は何かに魘されているのか、苦悶の表情を浮かべている。
先程、黒服は逃げるようにこの場を後にしていた。
あの男のステータスや余裕ぶった態度から考えて、数の不利が理由ではないだろう。
ならば撤退を選択するほどのダメージを受けたからか、それとも別の理由からなのか。現状からでは、判断できない。
ただ、“もう一人”が現れなかったのは、それが不可能な理由があったからだと推測できる。
考えられるその理由は、他のプレイヤーと交戦していたか、あるいは“何か手の放せない作業を行っていた” か、そのどちらかだろう。
いずれにせよ、あの黒服は“もう一人”と合流しようとするはずだ。
だとすれば、今すぐあの黒服を追えば、同時にアトリの元へと辿り着けるかもしれない。
加えてダメージを受けての撤退だったのならば、戦闘を有利に進められる可能性もある。
……だが黒服を追うのであれば、“余計な荷物は背負えない”。ほんの些細なミスが、即死に繋がるからだ。
アトリを優先するのであれば、この少年は捨て置かなければならない。
そしてこの死に満ちた街に置き去りにするという事は、彼を見殺すという事に等しい。
だが少年に構っていれば、ただでさえ低いアトリの生存確率を、さらに低下させるということだ。
両方を選択することは出来ない。助けられるとしたら、一人だけ。
「――――――――」
それを踏まえた上で、シノンは少年の方へと向き直った。
自分が助けると決めた人物を助けるために。
その表情を、氷のように凍てつかせながら。
3◆◆◆
………………。
……………………。
………………………………。
…………あれから、どれくらいの時間がたったのか。
繰り返される苦痛と吐き気、不快感に、時間の感覚が狂っている。
十数分か、数十分か、数時間か。
メールの着信がないことから、まだ六時間は経ってはいないと思うが、体感的にはもう越えていそうな気がする。
拷問の内容は、アバターのデータ――肉体ではなく精神にダメージを与える類のものだった。
大まかに言えば、失明や失聴、失触などの感覚消失。あるいは逆に感覚を過敏化させるといったもの。
中には『周囲の情報を一気に流し込む』なんていう、頭が壊れそうになったものもあった。
それらはPCの内部データ改竄によるものなのだろう。
元々そういう方法なのか、あるいは碑文の抵抗か、または制限か。状態異常自体は短時間で直った。
だがそれも、幾度も繰り返されればそれもストレスになり、ついには正常な感覚さえ失調する。
現に、私の感覚はその大半が狂い、外界を正しく捉えられなくなっている。
視界はぼやけ輪郭が歪み渦を巻き、音は遠近や音程が狂い割れ鐘のよう。肌に感じる大気はまるで、熱湯と冷水の入り混じった泥水だ。
「ぅ…………ぁ………………」
そんな狂いに狂った感覚と激しい頭痛に、堪らず吐き気が込み上げてくる。
だが0と1の数列の集まりでしかないPCボディに“吐く”などという機能があるはずもなく、行き場のない吐き気はただ胸の中に溜待っていき、それが更なる吐き気を齎すという悪循環に陥る。
―――気持ち悪い。
気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い、この上なく気持チ悪イ――――。
この胸の中に溜まっていく泥のようなナニカを吐き出して今すぐ楽になってしまいたい。
そしてその方法はわかっている。……ただ、抵抗を止めてしまえばいい。そうするだけで、この最低最悪とも思える吐き気は綺麗さっぱり消え去ってくれるだろう。
…………けど、それは出来ない。
たとえ結果は変わらないとしても、抵抗を止めることだけは、したくない。
抵抗を止めるということは即ち、このナニカが自分自身になるという事なのだから。
「ふむ。随分と耐えるな。とうに受け入れていてもおかしくないと思うのだが……。
これほど抵抗を続けられるのは、君達の口にする『愛』とやらが理由かね?」
不意に聞こえた、男の声。あらゆる感覚の狂った世界で、その声だけは、妙にはっきり聞こえた。
それも当然。何しろこの声は、自分の内にあるナニカから直接聞こえてきているのだから。
……いや、正しく言うならば、そのナニカの大本である、私の体に腕を突き入れている黒いスーツの男から、だろう。
観測するものが出来たからか、歪み狂った感覚が、僅かにだが正常な機能を取り戻す。
HPゲージは……それほど減ってはいない。私を取り込むために、殺さないよう気を付けているのだろう。
身体の感覚は……鈍くなってはいるが、まだしっかりと感じられる。どうやら私は、まだ“私”を保てているらしい。
ただ、次第に意識が朦朧としてきている。心よりも先に、体の方が限界を迎えているようだ。
それも当然か。このPCボディは、今はまだ“アトリ”という形を保ってはいるが、これまでの拷問によって散々内部データを弄られている。
一時的なものとはいえ、どこまで正常な数値へ戻っているかはわからないし、AIDAサーバーにも似たこの空間では、PCボディの異常はダイレクトな感覚として伝わってくる。
そもそも、ここまで耐えられたこと自体が、私自身が驚くくらい奇跡的なことだったのだ。
「だが、それもここまでだろう? いい加減諦めて、君も“私”になりたまえ」
それを見越しているかのように、男は私に語り掛けてくる。
その声には威す様な強さも、唆す様な優しさもない。まるで機械のようなシステムボイス。
その無情さに、この男がそもそも人間なのかさえわからなくなってくる。そのことが何よりも恐ろしい。
―――だが、それでも。
「い……や……………、で…………す……………………!」
ゆっくりと、だがしっかりと首を振って、男の言葉を拒絶する。
………負けたくない。
この人にだけは……絶対に負けたくない。
結末は変わらないとしても、諦めることだけは、したくない。
だって、まだ耐えられる。
イジメには慣れてるし、負けたくない理由もある。
リアルでのそれとは比べ物にならないほど辛いし苦しいけど、今の私には、それに立ち向かえる心があるのだから。
だから――――
「そうかね。では拷問を続けよう」
「―――あ、ああああアアアアアアああ唖吾痾合アア亜あ婀ア閼擧…………ッッッ!!!???」
ズプリと、男の右腕がより深く差し込まれ、そのままグチャグチャと私のナカを掻き回す。
混ざる。崩れる。溶け出す。
私と私でないものと私でなくなったものが融けて崩れて混ざり合ってどれが私で何が私で誰が私なのかがわからなくなる。
私が私でなくなって私でなくなったのが私でないものになって私でないものはつまり私で私が私になって私しかいなくなって私の私は私に私を私へ私私私私私――――――――
「ッ――――――――――――――――!」
――――消える。変わる。塗り潰される。
私を私足らしめるものが黒いナニカに汚染されていく。
………………それを、今にも消え去りそうな心だけで耐え凌ぐ。
碑文の力を頼りに、“私”を書き換えようとするナニカに抵抗する。
………だって、あと少し耐えれば、助けが来る。
波の音が聞こえる。
消失していく感覚を浚う様な、ノイズのような音が近づいてくる。
知っている。私はこの音を知っている。私以上に、イニスの碑文が知っている。
この波の音はイニスと同じもの。波の先駆けの訪れなのだと理解する。
だから私は、最後の精神力を振り絞りつつ、同時に安堵もした。
――だってそれはつまり、“彼”が来るという事なのだから。
そうして最後に、水滴の落ちるような音を捉えて、私の意識は波の中に沈んでいった。
†
「フム、気を失ったか」
己の右腕に貫かれたまま力なく項垂れたアトリを睥睨して、スミスはそう端的に呟いた。
腕を引き抜き冷たい床に投げ捨てても、少女が目覚める様子はない。
ここまでの拷問に耐えていた気力も、ついに尽きた、という事だろう。
もっとも、スミスからすれば、アトリがここまで耐え続けたこと自体が意外だったのだが。
アトリへの拷問は、最大限の注意を払って行った。
勢い余って殺してしまわぬようダメージを与える類の拷問は控え、上書き能力を応用して感覚機能を徹底的に狂わせた。
これが正常なマトリックス内部であったなら、彼女は今頃、自分の吐瀉物に塗れていたことであろう。
そうならなかったのは、アトリの肉体を構成するデータに、“そもそもそんな機能がなかった”からだ。
「……仮初の肉体、か」
マトリックス内にいる人間と同じ、0と1の数列によって作り出された虚像。
必要最低限の機能だけを組まれた、どこか別のところにいる人間の映し身。
アトリやワイズマンは、おそらくそういった人間なのだ。
未知のプログラム自体を解明したわけではないが、おそらくそれで間違いないだろうとスミスは確信する。
……しかし同時に、アトリとワイズマンでは決定的に違うものがある。
それはスミスの上書き能力に対する抵抗力だ。
ワイズマンはこれまでのプログラムと同様、容易く上書きすることができた。
対してアトリは、救世主の力を持つネオと同じように、上書きに抵抗して見せた。
故に彼女の心を折り、上書きを受け入れさせ、その力を己がものとしようとしたのだ。
だがその面思惑に反し、アトリは未だに上書きが終わらぬほど、耐えに耐えに耐え抜いた。
反抗的な目こそしていたが、アトリは一見、気の弱そうな少女だった。
故に、“私”が戦闘を終わらせる頃には拷問に屈し、上書きを受け入れているだろうと思っていたのだが……結果はこの通りだ。
どうやら彼女たちの口にした『愛』とやらは、余程彼女たちの精神に力を与えるものらしい。
「ふむ。これは選択を誤ったかもしれんな」
「だが、今更結果は変えられん。仮定するだけ無意味だ」
一人呟くスミスに、“同じ声”が掛けられる。
現在アトリを拷問しているスミスと同じ顔をした、同じダークスーツの男、“スミス”だ。
彼は“一人目のスミス”とは違い、ここではないどこかを見つめるかのように、視線を虚空へと向けている。
「わかっている。それよりも今の問題は、“私”との合流をどうするかだ。
すでに“私”が向かっているとはいえ、あの場には“あの力”を持つ巨人がいる」
“スミス”が向ける視線の先には、ここにはいない、先ほどまで
カイト達と戦っていた“スミス”がいる。
“彼”はカイトからデータドレインを受け、『救世主の力の欠片』を失い、通常のエージェントと同レベルまで弱体化してしまっていた。
これが元のマトリックスでの事ならば、“スミス”は弱体化したスミスの事など気にも留めなかっただろう。
だが『この世界』においてはそうするわけにはいかない。何故なら事実上“無限”であったかつての自分とは違い、現在の自分は“有限”だからだ。
故に、たとえ弱体化していようと、貴重な戦力の一人を失う訳にはいかない、と“スミス”は考えていた。
「今は“私”に任せよう。確かにあの巨人は危険だが、強敵という訳ではない。
それよりもここの守りが薄くなってしまう方が、現状においては問題だろう」
現在スミスたちがいるこの場所は、皮肉にもアトリたちが後にしたばかりの@ホームだ。
スミスは妖精のオーブで発見したこの@ホームで、アトリの拷問を行っていたのだ。
デフォルトのマップには載っていないこの施設なら、そう簡単には発見されず、拷問の邪魔もされないだろうと判断してのことだった。
ちなみに@ホームの中にいたデス☆ランディは、既にスミスの手によって“スミス達”の一人にされていた。
現在弱体化したスミスの元へと向かっている個体が、そのスミスだ。
スミスがデス☆ランディを上書きしたのは、自分を増やすという目的の他に、彼のようなNPCを解析するためでもあった。
この『世界』に存在する未知のプログラムを解析することで、榊への対抗手段を得ようとしたのだ。
ただその際、ちょっとした出来事があった。
スミスがいつもの要領でデス☆ランディを上書きしようとしたところ、突き出した腕が弾かれたのだ。
デス☆ランディが防いだのではない。その身体にスミスの貫き手が突き刺さる寸前で、紫色の障壁が出現し割り込んだのだ。
そしてその障壁にはこう表示されていた。
【Immortal Object】――すなわち不死存在と。
その言葉の意味するところはつまり、このデスゲームにおいて、一般NPCへの攻撃は禁止されている、という事だ。
いかに理不尽とも言えるスミスの上書き能力とて、対象に接触できなければその能力を発揮できない。
攻撃的な接触を禁止するその障壁は、スミスにとって天敵ともいえるシステムプロテクトだった。
だがそれは逆に言えば、攻撃的でさえなければ接触できるという事でもある。
そこでスミスは攻撃判定を受けないギリギリの上書き速度を割り出し、一時間近く掛けてデス☆ランディを上書きしたのだ。
ただデス☆ランディに付与されていた不死属性は、上書きが完了した時点で解除されてしまっていた。
これはデス☆ランディがスミスへと上書きされたことにより、NPCでなくなったことが理由だろうとスミスは推測していた。
そしてこれにより、他のNPCにも同様に不死属性が付与されているだろうとスミスは予測した。
仮に不死属性がなくとも、上書き自体を無効化、あるいは無為にするプログラムもあるかもしれない、という事も同時に。
要するに現状において、NPCを上書きして“自分”を増やすのは効率が悪く、利点もあまりないという事が判明したのだ。
そんな風に未知のプログラムの厄介さを再認識しつつも、スミスはアトリへの上書きも並行して進めていた。
システムプロテクト以上に厄介な、人の心というものに苦戦しながらも。
「そうだな。では外敵の排除は任せた。私はこのまま、彼女への拷問(上書き)を続けよう」
「任されよう。だが上書きはなるべく急ぐことだ。“ここ”は未知の要素が多すぎる」
二人のスミスはそう言い合って頷くと、一人は@ホームを後にし、一人はアトリへと向き直った。
「それではアトリ君、拷問を再開しよう。ここから先は、少々強引になるがね」
意識のないアトリがそれに応えるはずもなく、スミス自身も答えなど期待せず、その首を左手でわし掴み、持ち上げる。
「ぅ…………」
咽喉に掛かる圧迫感に、アトリが呻き声を上げるが、それに構うことなく、スミスは再び、少女へとその右腕を突き刺した。
4◆◆◆◆
蒼炎のPCとスケィス。両者の戦いは、一見すれば互角だった。
攻撃力ではスケィスが圧倒的だが、対する蒼炎は身軽さで勝っている。
加えて両者のサイズには大きな差があるというのに、それを感じさせないその姿。
その光景はまるで、自分が『三爪痕(トライエッジ)』に初めて挑んだ時のようだった。
スケィスの猛攻を、蒼炎は見事な双剣捌きで凌いでいく。
攻撃を決して真正面からは受け止めず、受け流して懐へと潜り込み反撃している。
互いのサイズの差さえも利用しているのだ。
長柄の大鎌を振るうスケィスでは、小柄な蒼炎のPCは捕らえ切れない。ましてや懐に潜り込まれれば、迎撃手段はほぼない。
だがしかし、それは決して蒼炎が有利であることを意味しない。
たった一撃。ただの一度でもスケィスの攻撃を防ぎ損ねれば、その時点で蒼炎の負けが決まる。
それほどのステータス差が、両者の間には存在するのだ。
蒼炎がスケィスの懐へと攻め入っているのは、そこにしか勝機がないからに過ぎない。
そうして間もなく、決着の時が訪れた。
蒼炎へ攻めあぐねたスケィスが、大鎌を一際強く振り下ろす。
まさにその隙を突いて、蒼炎がスケィスの懐へと飛び込み、蒼い炎の爪を振り抜く。
《三爪炎痕》と呼ばれるその一撃は、スケィスの身体に三筋の蒼い爪痕を刻み付ける。
同時に、ガラスが砕け散るような音とともに、スケィスの守りが砕かれた。
プロテクトブレイクしたのだと理解するのと同時に、蒼炎が『腕輪』を発動させる。
無数の数列が、薄緑色の光を放ちながら展開されていく。同時に周囲の空間が歪み、ノイズに飲み込まれていく。
データドレインだ。
プロテクトブレイクされたスケィスがこれを受ければ、そこで戦いは決着する。
しかしプロテクトブレイクの影響でスタンしたのか、スケィスは動かない。
そうして極彩色の光が放たれる―――その直前。
スケィスの左手から、無数の光弾が放たれた。
スタンから回復したのか、それともスタンしたと見せかけていたのか。
いずれにせよ、カイトはその光弾を回避できず、データドレインも中断させられる。
だが、それだけでは終わらない。
スケィスは左腕を鞭のようにしならせ振り抜き、一気に腕を“伸ばして”蒼炎を捕獲する。
そして自身の傍まで引き摺り寄せると、蒼炎を勢いよく殴り飛ばし、大聖堂の壁へと叩き付ける。
そして一瞬で蒼炎へと接近すると、杖の柄でその身体を貫き、そのまま壁に縫い付けた。
ほんの一瞬の逆転劇。
僅かな天秤の差が、両者の命運を別けた戦い。
それに完全な決着をつけるために、スケィスが蒼炎へと向けて右腕を突き付けた。
同時にその掌に目のような紋様が現れ、続いて砲身が形成される。
「っ! おいっ、やめろっ! やめやがれ!!」
データドレイン。
蒼炎がスケィスに使おうとしたスキルを、今度はスケィスが蒼炎に対して使おうとしている。
だがスケィスの時と違い、壁に縫い付けられた蒼炎にはこれを防ぐ術がない。
故に、それを止めるために声を荒げるが、スケィスは止まらず、砲口に光を収束させていく。
「このっ! やめろっつってるだ――ろ……っ!?」
堪らずスケィスへと飛びかかり、大鎌を抜いて切りかかるが、
その一撃はスケィスの身体を透過し、何の影響も与えることはなかった。
まるでホログラムでも触ったかのようなその手応えに、俺はようやく理解した。
この夢は、マク・アヌで起きたあの戦いを、配役を変えて再現したただの記録なのだ。
そしてこの夢の中では俺は、あの時と同じように、誰の『敵』にもなれない、ただの傍観者でしかないのだ。
だが一つだけ。黒いスーツの男と白いスケィスが、俺の憑神(アバター)であるスケィスとなっている理由だけが解らなかった。
そうして俺にはどうすることもできないまま、データドレインは放たれ、蒼炎のPCはデータ片となって四散した。
あの戦いでは、俺はこの後気絶した。
ならば、これでこの夢は終わるのか、と考えたところで、ふと自分に向けられた視線に気付く。
この聖堂に残されたものは、あの時と同じく、俺とスケィスの二人だけ。
振り返ればやはり、自分の『憑神』であるスケィスが、ジッと俺へと向けていた。
「くっ……! 今さら俺に、何の用があるって言うんだよ……!」
その意図が解らず、俺はスケィスへと向けて悪態を吐く。
だがスケィスは応えず、何かを責めるように、その赤く光る三眼を向けてくるだけだ。
……責める? 一体何を?
――オ前ガ、二人ヲ殺シタノダト。
「ッ……!」
脳裏に過ぎったその応答に、背筋に悪寒が奔る。
音が発せられたわけではないのに、その“声”は明確過ぎる程に聞こえてきた。
「な、何を、言ってやがる……! 俺が志乃を、あいつを殺しただって?
ふざけんな! 俺が志乃を殺すわけねぇだろ!」
彼等を殺したのは俺ではなく、あの白いスケィスだ。
なのにどうして、俺が彼女たちを殺したことになるのか。
そう目の前のスケィスへと怒鳴り返すが、スケィスはやはり、沈黙して答えない。
ただ、“白いスケィスとまったく同じ”、無機質な三眼を向けてくるだけだ。
「ぁ…………っ!」
そこで俺は、その視線の意味に気付いてしまった。
そうだ。俺は、あの白いスケィスが、自分のスケィスと“同じ”存在であると確信していた。
ならばあのスケィスが成した事は、俺が成したのと同じ事、ということではないのか?
だからこの夢では、自分のスケィスが彼女たちを殺したのではないのか?
……いや、そもそもそれ以前に、彼女たちが殺された原因は俺にあるんじゃないのか?
あの時、ボルドーなんかを相手にせず、マク・アヌに急いでいれば、
あの時、憎悪に身を任せたりせず、あのPCと協力して戦っていれば、
そうすれば俺は、彼女達を助けることができたんじゃないのか?
だとすれば、やはり、
「俺の……せいで……?」
二人は死んだのではないのか?
「違っ……俺、そんなつもりじゃ……っ!!」
ならば一体、どういうつもりだったというのか。
二人はもうデリートされてしまった。その結末は、決して覆せない。
「俺ッ……俺は!」
何のために、戦うと決めたのか。
何のために、『力』を手に入れたのか。
大切な『何か』を守るため? それとも、ただ『敵』を倒すため?
「俺はただ、志乃を助けたくて……!」
けれど、その助けたかったものは、もう存在しない。
自分自身の手で、壊してしまったのだから。
「あ……ああ……ッ!!」
だから俺は、もうどうすればいいのかわからなくなって、
「うわぁぁァぁあアアア――――ッッ!!!!」
その手に握ったスケィスの大鎌を、目の前の自分自身(スケィス)へと振り被った。
瞬間。
――――喰イタイ。
と。そんな奇妙な声が、どこからか聞こえた気がした。
†
「っぁ………ッ!」
ビクン、と痙攣するように目を覚ます。
どうやら、あの夢は終わってくれたらしい。
ぼんやりとした視界には、誰かの脚と、石畳が見えている。
その誰かに担がれている、ということだろう。つまり、俺はまだ生きているという事か。
「あら、ようやく目を覚ましたのね」
「…………?」
俺が目を覚ましたことに気付いたのだろう。
俺を担いでるやつ――声からして、おそらく少女――が、そう声をかけてきた。
「ずいぶん魘されていたみたいだけど、大丈夫?」
「あ、ああ」
「そ。ならよかった」
少女はそう言うと、道の端によって荷物のように担いでいた俺を下した。
そうしてようやく、少女の姿を正面から見る。
細いペールブルーのショートヘアに、アクセントとして額の両側で細い房が結わえられている。
くっきりとした眉と、猫のような雰囲気の大きな瞳。小ぶりな鼻と薄い唇は、声から感じた通りの印象だ。
だが、その藍色の瞳に宿る石の光だけはその印象に反し、まるで冷たいナイフのように思えた。
「荷物みたいに担いでたことに関しては、文句は聞かないわよ。あんたの鎧、刺々しくて背負えないんだもの」
「ああ、それは別に構わねぇけど……あんたは?」
「シノンよ」
「シノ、ン……!?」
志乃とよく似たその名前に、思わず目を見開く。
だがその様子を訝しそうに眉を寄せたシノンに気付き、慌てて俺も名乗り返そうとする。
「し、シノンだな。俺の名前は―――」
「ハセヲ、でしょう?」
「!? なんで俺の名前を!」
「あなたの事を、アトリから聞いたからよ」
「アトリから!?」
アトリが……彼女もまた、このデスゲームに参加させられていたのか!?
……いや、よくよく考えれば、おかしなことではない。
このデスゲームの主催者である榊は、俺の次くらいにはアトリも憎んでいるはずなのだから。
だが、だとしたら。彼女は今どこにいるのか。アトリから俺の事を聞いたという事は、シノンは彼女と遭遇しているはずだ。
その事についてシノンに聞き返そうと顔を上げると、
「っ……!」
シノンは俺へと向けて拳銃を突き付けていた。
わかりやすい脅威を前に、身動きが取れなくなる。
唯一自由な思考で、一体どういうつもりなのかと考えていると、
「余裕がないから単刀直入に言うわね、ハセヲ」
凍り付くような冷たい眼で、シノンはそう切り出してきた。
「アトリを助けるために協力しなさい」
ハセヲにとっては、わざわざ脅迫されるまでもないことを。
最終更新:2014年05月15日 17:03