5◆◆◆◆◆
マク・アヌの路地を小走りで進む。
鉛のように重かった手足も調子を取り戻し始め、普通に動かす分には問題ない程度まで回復している。
少年の腕輪から放たれた“あの力”の影響に、ようやく身体が馴れたのだろう。
……いや、その表現は少し正しくない。慣れたのではない。思い出したのだ。
現在感じている身体能力の“狭さ”は、エグザイルとなる前、エージェントとして活動していた頃のものだ。
マトリックスと繋がっていない分、閉塞感では現状が上回るが、これが本来の自分の能力値だ。
自分はただ、『救世主の力の欠片』によって物理法則による制限が緩くなっていたに過ぎないのだ。
「完全にではないが、初期化されている、という事か」
それがあの力の正体なのだとスミスは理解する。
マトリックスを支配するエージェントとも、マトリックスを無視する救世主(ネオ)とも違う能力。
マトリックスそのものを改竄するその力は、自分のような情報生命体には致命的とも言える。
何しろ自分の根幹を構成する情報を書き換えられてしまえば、肝心な自分が歪んでしまう。
今回あの力を受けて初期化された程度で済んだのは、純粋に運が良かったからでしかない。
「だが、だからこそますます興味深い。
つまりあの力を掌握できれば、私はまた一つ、アンダーソン君を超えられるという事なのだから」
と口にして、スミスは獲物を定めた獣のように笑みを浮かべる。
確かに“自分達”には救世主以上に脅威となる力だが、逆にあの力を手に入れることができれば、間違いなくネオを超えられる。
何しろ上手く使うことができれば、自分のデータを、限界を超えて強化することができるかもしれないのだから。
いや、それだけには収まらず、自分がマトリックスそのものとなる事も可能かもしれない。
あるいは、マトリックスを作り出した“機械仕掛けの神”になり替わり、現実を支配することさえも。
そのために必要なものは、既に手に入れている。
アトリ。あの腕輪と同じ力を持つ少女。
彼女を取り込めば、必然、あの力も手に入る。
予想外に抵抗を続けているようだが、それも長くは続くまい。
あとは、現在こちらに向かっている“私”と合流し、私を上書きし直せば、あらゆる問題は消えてなくなるだろう。
……だがしかし、その障害となるものが一つ、スミスの前に現れた。
「――――ウラァッ!」
そんな声とともに、スミスの頭上から影のように薄っぺらな、無数の黒い手が襲い掛かってくる。
「――――――――」
だがスミスは、それを知っていたかのように紙一重で回避する。
黒い触手はスミスの体を掠めるだけで、傷一つ突けることはない。
何のことはない。声が放たれた時点で、その攻撃を把握していただけの話だ。
が、しかし。
「ム――ッ!?」
回避され体を掠めるだけだった触手は、不意に硬質化しスミスの動きを縫い止めた。
その隙を突かんと、新たに現れた黒手がスミスへと襲い掛かる。
だが。
「ふんッ!」
スミスは全身に力を込め、自身を拘束する黒手の檻を粉砕する。
同時に迫り来る黒手を回避し、その発生源――建物の屋根に立つ襲撃者へと向けて跳躍した。
「なっ――ガッ………!」
スミスの行動に驚くその襲撃者を、スミスは容赦なく殴り飛ばす。
襲撃者はゴッ、と言う音とともに宙を舞い、屋根から地面へと叩き付けられた。
だが、殴りつけた拳の感触は固い。おそらく、咄嗟に防御していたのだろう。
「チィ……ッ」
その証明に、襲撃者は大したダメージを受けた様子もなく立ち上がっていた。
奇襲の失敗故か、その表情は忌々しげに顰められている。
「奇襲するのならば、声は抑えたまえ。敵に自分の存在を教える事になるぞ」
そう口にしながら、スミスは機械のような能面で襲撃者を見据える。
一見すれば、赤い短髪の黒人女性。その右手には禍々しい剣が握られている。
それだけならば、物珍しさはすでにない。これまでに遭遇した人間と同じように対処するだけだ。
だがしかし、これまでに遭遇した人間とは決定的な違いが、この女にはあった。
その左腕と右脚は赤黒く蝕まれており、その周囲には無数の黒い泡が、幾度も現れては消えていたのだ。
―――そう。このデスゲームを主催した、あの榊と同じように。
「い#う、リーマン野郎。随分ハデに遊&でたじゃねぇか。
今度は*タシと遊ぼうぜぇ、ックハ@は派琶……!」
女はスミスをねめつけると、そう言って愉快気に笑い出した。
ノイズ雑じりの、耳障りな声。発声プログラムに異常が生じているらしい。
赤黒いバグの影響か、それとも別の理由からか……。解るのはただ、この女が榊の同類であるという事だけだ。
「…………榊の仲間か」
「あ&ん!? 誰が誰の仲*だってぇ!?
このボルドー様>あんな『月の樹』野#なんかと一緒に$るんじゃねぇよ!!」
だがそう判断したスミスの呟きを聞き咎め、女は不愉快気に顔を顰めてそう罵る。
その様子からすると、どうやら嘘ではないようだ。……いや、そもそも、この様子では嘘を吐くという思考能力があるかすら怪しい。
女の眼には、そう察することができるほどの狂気が宿っている。
――もっとも、スミスにとってはそんな事情など関係ないのだが。
「ほう? それは失礼をした。何しろ君達のような人間は初めて見るのでね。
特に君や榊のような、マトリックスに異常が出ている人間は」
スミスの知る限りにおいて、人間を構成するデータそのものに異常が出るようなウイルスはマトリックス内に存在しない。
強いて言えばエージェント、そして制限の外れた“自分達”がもつ上書き能力がそうであると言えるだろう。
だがそれも、厳密に言えばその人間のマトリックスをハッキングしているに過ぎないのだ。
エージェントの持つ上書き能力の対象は、あくまでも相手の肉体のマトリックスだ。
そして“同じエージェントは一人だけ”という制限を守るため、元の人間のマトリックスが失われることもない。
つまりエージェントを殺したところで、エージェントではなく素体となった人間が死ぬだけであり、エージェント自身は別の人間に乗り移ってしまえる。
そしてその際、素体となっていた人間は、『肉体の死』という結果を残したまま、ハッキングされる前の状態へと完全に戻るのだ。
付け加えるなら、スミスと通常のエージェントの違いは、救世主の能力の一部がコピーされたことによって制限が外れていることと、
エグザイルとなったことによってマトリックスの支援が受けられなくなり、上書きするには対象に直接接触する必要があることの二点だけ。
故にこそのハッキングという喩えであり、だからこそスミスは、乗っ取った人間の能力を奪うことができるのだ。
………対して、榊とボルドーのそれは違う。
スミスのエージェントとしての目から見て、彼らのマトリックスは完全に蝕まれている。
つまりハッキングではなくワーム、ウイルスの類による異常だ。
流石に詳細なデータはマトリックスそのものに接触しなければ不明だが、まともな状態ではないだろう。
アトリの力と同じ、完全に未知のプログラム。興味深くはあるが、危険も大きい。
―――だからこそ役に立つ。
ボルドーが榊と同じだということは、即ち、彼女を取り込めば榊への対抗手段となり得るという事なのだから。
「なに笑ってや哦んだテメェ。私を舐めてんの嘉、擧痾ン!?」
「いや失礼。君を調べることができれば、同じような異常の出ている榊への対抗手段が見つかるかと思ってね」
「テメェ、ふざ<や疋って……ッ!」
スミスの言葉に、ボルドーは怒りを滾らせる。
それも当然。
スミスのセリフを要約すれば、「お前は榊を倒すための足掛けだ」と言い放ったのと同じなのだから。
故に、ボルドーは、『力』を顕現させることを決めた。
ボルドーがスミスへと襲い掛かったのは、先ほどの戦いで弱っていると判断したからだ。
しかし奇襲は失敗し、もともと残り少なかったHPも、先の反撃で一割程度まで削られた。
ふざけた攻撃力だ。
咄嗟とは言え防御した上でこのダメージ。絶対にまともなステータスをしていないだろう。
こんなチート野郎とこの残りHPでやり合うなどゴメンだ。常であれば、逃煙球を使って逃げるところだ。
だが、ヤツは私を……私の『運命』を見下した。
見せつけてやらなければならない。味あわせてやらなければならない。
『月の樹』野郎との違いを。『運命』に選ばれた者の力を。『死の恐怖』に勝る、私の力を……!
「私はア蔚ツとは違う。私は3の人に……『運命』に選ば砺たんだ!
見せてやる9……私と婀イツとの違いを……。ワタシの『運命』を――!」
ノイズが奔る。
ボルドーの周囲に浮かぶ黒い泡が、爆発的に湧き上がる。
増殖する黒泡は周囲の空間を、ボルドー自身を飲み込み、そして―――
「これは――!」
世界を塗り替えるその光景に、スミスは驚きの声を上げる。
予兆こそ異なっていたが、この現象は間違いなくアトリの『力』が顕現した時の同じもの。
……でありながら、この現象を発生させた存在の姿は大きく異なっていた。
「蜘蛛……か?」
無数の肢と女性的な上半身を持つ、無数の黒泡を纏った半透明なその姿。
器物的で神聖さを感じさせたイニスと違い、ボルドーのそれは生物的でどこかグロテスクだ。
「成程。『神と悪魔』か」
アトリの『力』とボルドーの『力』。
同じ現象を起こしながら全く異なるその『力』の関係を、スミスはそう結論付ける。
自分達に置き換えるのならば、『エージェントとエグザイル』の関係なのだと。
エージェントはマトリックスを守る監視プログラムとして、「特権行為」を行える能力を持ち、
エグザイルはシステムから外れた不正プログラムでありながら、「越権行為」を行える能力を持つ。
彼女達の持つ『力』の正体は、おそらくそれに類する能力なのだ。
そしてアトリと榊がここに招かれる以前より敵対関係にあるのだとしたら、アトリの『力』は榊に対し有効となり得る可能性が高い。
特にあの『力』……データを改竄するあの『力』は、榊と戦う上で必須となる能力だろう。
「まったく。アトリ君の価値は高まるばかりだな」
そう口にしながら、スミスは拳を構え、半透明の蜘蛛――AIDA<Oswald>へと向けて身を躍らせた。
†
「――――――――」
僅かにだけ踏み出し、一足で<Oswald>の頭部まで跳躍する。
この蜘蛛の能力は未知数。アトリと同じような、データ改竄能力を有する可能性もある。
だが恐れる必要はない。
初期化され『救世主の力の欠片』を失ったとはいえ、この身は本来マトリックスを守護するエージェントのもの。
コンクリートを粉砕するパワーや、銃弾さえも回避するスピードなど、人間が本来持っている能力の最大値をデフォルトで備えているのだ。
加えて、すでに一度イニスを倒している。ならばこの蜘蛛も、同じように排除すればいいだけの事なのだから。
「フン――ッ!」
限界まで腰を捻り、渾身の力で殴りつける。
ドン、という音とともに、<Oswald>の上半身が大きく仰け反らされる。
「むっ……!?」
だが、その手応えは奇妙だった。
直接<Oswald>を殴りつけたというのに、まるで壁一枚を隔てているような、そんな感覚。
似たものには覚えがあった。
スケィスと呼ばれていた、あの巨人だ。
ならばあの巨人と同じように、未知のプログラムで守護されているのだろう。
そう考え、スミスは追撃を加えんと腕に力を込める。
そこに<Oswald>が、上体を戻すと同時に肢のような右腕で反撃してくる。
スミスはその一撃を、当然のように左腕で受け止め―――しかし。
「グヌ……ッ!!??」
攻撃を受けた左腕に奔る激痛。
続いて放たれた蜘蛛の左腕による追撃は防がず、咄嗟に飛び退いて回避する。
それから自分の左腕を診て見れば、骨が折れたように曲がっていた。
「これは……どういう事だ」
<Oswald>から距離を取り、油断なく警戒を向けながら、スミスはそう口にする。
イニスの攻撃は問題なく防げた。
だというのに、なぜこの蜘蛛の攻撃は防ぎきれなかったのか。
その理由。前回と今回における差異を比べ―――そして理解する。
「『救世主の力』……か」
あの時の自分に存在し、今の自分に存在しないもの。
―――マトリックスのプログラムを超越する『力』が、この自分には欠けている。
なるほど、納得の理由だ。
『救世主の力の欠片』を得ていた“私”は、物理的な制約から解放されていた。
だがそれを失ったこの自分は、通常のエージェントと同レベルの能力しか発揮できなくなっている。
つまり、通常のエージェントが救世主であるネオに敵わぬように、今の自分では“あの力”には敵わない、という事なのだ。
「―――ならば、こうするとしよう」
そう口にしながら、<Oswald>の放った蜘蛛の糸のような弾丸を、スミスはバレット・ドッジで完全に回避する。
そして無事な右手を背中へと回し、光のエフェクトとともにその巫器を取り出す。
――ロストウェポン・静カナル翠ノ園。
緑玉石の結晶のような多角錐の銃剣を、スミスは<Oswald>へと突き付けた。
スミスが選んだ戦法は、射撃戦。
自身の打撃攻撃と比べると一撃の破壊力は劣り、加えて銃弾そのものを停止させる救世主には無意味な戦法だ。
だが<Oswald>にはそんな能力はなく、また、“射撃攻撃がスミスに当たることはほぼ在り得ない”。
「さあ、戦闘を再開しよう」
笑みを浮かべながらそう口にして、スミスは緑玉石の銃剣の引き金を引き絞った。
6◆◆◆◆◆◆
「――――そう、ありがとう。おかげで、なにがあったのかは大体把握できたわ」
アトリの手掛かりを探す道中。あの場所で起きた戦いの事を聞いた
シノンは、ハセヲへとそう礼を口にした。
ハセヲによると、その戦いで二人のプレイヤーがデリートされたらしい。
気を失う直前に見た黒衣の少女と、目覚めた直後に見た黄昏色の少年。
少年の方はよく知らないが、少女の名前は、志乃というらしかった。
アトリと同様ハセヲの知り合いであり、アトリと同じ呪癒士(ハーヴェスト)だそうだ。
だとすれば、私のHPを回復してくれたのは、やはり彼女だったのだろう。
その彼女が、あの戦いが始まる直前に死んだらしい。
………だが。それを聞いた私の心には、何の感情も浮かばなかった。
まるで冷たい氷のように、凍て付いて冷え固まっている。
今の私は、きっと人形のように無表情だろう。
ハセヲの方を見れば、彼は今にも泣きだしそうな、酷い顔をしていた。
知り合いが目の前で死んだのだ。それが人として、当然の反応だろう。
……けれど、今の私に、それに構っている余裕はなかった。
「まあ、もう終わったことだし、これ以上は聞いても無意味ね。
行くわよ、ハセヲ。手遅れになる前に、アトリを見つけないと」
「なっ! テメ……っ!? ………いや、なんでもねぇ」
私は端的に告げながら、アトリを探して歩き出す。
その言葉にハセヲが激高しかかるが、彼は私を見た途端、その怒気を急速に弱めていった。
どうしたのだろうか。自分でもさすがに、今のは冷淡すぎるかと思ったのだが。
だがまあ、余計な軋轢を生まなくて済んだのなら、それに越したことはないだろう。
「それより、アトリを探すのは賛成っつうか、むしろ俺から協力を頼みたいくらいだけどよ」
ハセヲは気を取り直すようにそう口にして、私に続いて歩き出した。
ただその表情には、私に対する批難が少し浮かんでいた。
「最初のあれは何とかならなかったのか? アトリの仲間だってわかってるヤツに、いきなり銃を突き付けるとか」
「……………………」
たしかにあれは、自分でもやり過ぎたと思っている。
けどあの時は……今もだけど……本当に余裕がなかったのだ。それにアトリを助けるために、急がなければならなかったのも事実だ。
そんな事情があって、私はよく知らないプレイヤー相手に、いちいち頼み込んでいる時間も惜しかった。その結果が、あの脅迫だったのだ。
「あれは悪かったと思っているわ。欲しいなら謝罪もするけど、いる?」
「……いや、いい」
ハセヲは呆れたようにそう口にした。
それは良かった。余計な手間がかからなくて済む。
そんな風に思考を巡らせていると、ハセヲか私へと声をかけてきた。
「……と。そういえば、まだ助けられた礼を言ってなかったな」
「お礼なんていらないわ。私があなたを見捨てなかったのは、貴方の『力』があった方が、アトリを助けられる可能性があるからよ。
そうじゃなかったら、たとえあなたがアトリの仲間でも、あの場所に放って置いたわ」
訪れるかわからない可能性と、今まさに迫っている危機。
そのどちらへの対策を優先するかなんて、考えるまでもないことだ。
もし倒れていたのがハセヲのような『力』をもつプレイヤーではなく、ただの一般PCであったなら、私はきっと、そのプレイヤーを見捨てていただろう。
ただ群れるだけでどうにかできるほど、あの黒服のPKは――このデスゲームは易しくないのだから。
「だとしても、俺がこうして助けられたことには変わりないだろ?
だから、ちゃんとお礼は言っとかないと」
「そう。なら勝手にしなさい」
「ああ、そうする。サンキュ、シノン」
「……………………」
「それで、今はどこを目指しているんだ?」
「@ホームよ」
ハセヲの問い掛けに、端的に返す。
ようやく本題に入った、という事だろう。
「@ホーム?」
「ええ。私とアトリが見つけた、マップには載ってない施設。
アトリがまだ生きているなら、そこに隠れている可能性があるわ」
問題は、あの黒服のPKもまたアトリを狙っているという事と、あいつが私たちを見つけた方法が解らないという事だ。
二度目に襲撃された時、あの黒服は地面の中から奇襲してきた。
遠方から捕捉して待ち伏せたのであればまだいいが、スキルやアイテムによる探知だった場合、隠れる事に意味はない。
つまりプレイやの捜索において、あの黒服は圧倒的な有利を得ているのだ。
……もっとも、アトリが逃げ延びているという状況自体が、希望的観測に過ぎないのだが。
「あんたもすでに解っていると思うけど、あの黒服のPKは危険よ。私たち二人がかりでも、たったの一人すら倒せるか怪しいわ。
だから、もし黒服のPKに遭遇した時は」
「撤退を第一に。可能なら、アトリの事も聞き出せ、だろ? わかってるさ」
「ならいいわ。あなたの『力』を使うのは、アトリを助けだす時だけよ。
行動は迅速に、必要最低限で。私たちに余裕なんてないんだから」
状態のわからないアトリのイニスに頼るよりは、ハセヲの『憑神(アバター)』を使う方が確実だ。
だがあの黒服は、たった一人でアトリのイニスを倒している。
たとえハセヲがイニス以上の『力』を持っていたとしても、あいつが相手では安心できない。
なにしろ一人だけでも脅威だというのに、あの黒服は複数人存在しているのだから。
全部で何人いるかもわからない以上、消耗戦を挑むのは愚の骨頂だ。
ハセヲの話では、あの黄昏色の少年は黒服に対抗できる力を持っていたらしいが、彼も志乃と同じように、既に殺されてしまった。
ただ、もしかしたらあのインストールブックが、その『力』と関わりがあるかもしれない。
本当に後がない時の最後の手段、という程度には考えておくべきだろう。
「……ところでさ」
「なに?」
「あんたの方は、大丈夫なのか?」
「私? なんで?」
ハセヲのその言葉に、私は首を傾げる。
HPは全快しているし、別にバッドステータスも受けていない。
状態的にはむしろ、ダメージを受けたままのハセヲの方が問題だろう。
彼が私を心配する理由には、全く心当たりがないのだが。
「だってお前、さっきからずっと辛そうな顔をしてるぞ」
「え……?」
「まるで、泣きそうになるのを懸命に我慢しているみたいだ」
私が……泣きそうな顔をしている?
と、ハセヲのその言葉に、思わず耳を疑う。
だって、私は何も悲しくなんてない。
心は氷のように冷え固まっていて、何も感じていない。
なのにどうして、私は泣きそうな顔をしているというのだろう。
「あんま無理しない方がいいんじゃないか?
……まあ、今の俺が言えた事じゃねぇけどよ」
「……無理なんて、してないわ」
「そんな泣きそうな顔で言われても、説得力ねぇぞ」
「私は……っ! 私は何も悲しくなんかない、泣きそうになんてなってない……!
あの男の子が死んだことにも、志乃って人が死んだことにも、何も感じてない!
私が泣きそうだなんて、そんなの、あんたの勘違いよ……っ!!」
堪らず足を止めて振り返り、ハセヲを睨んで声を荒げる。
なぜこんなに頭に来たのか、自分でもよくわからない。
……たぶん、彼の知った風な言葉が癇に障ったのだろう。
けどハセヲは、私のその言葉を聞いても怒らなかった。
それどころかまっすぐに私を見つめて、同じ言葉を繰り返してきた。
「だから、そんな顔で言われても説得力がねぇって」
「ッ……! ならアンタはどうなのよ! ずいぶん立ち直りが早いみたいだけど、志乃って人が死んだこと、ほんとはあまり悲しんでないんじゃないの!?」
「なっ! そんな訳ないだろ……! ……志乃の事を想うと、今でも悔しくて堪らない。
どうしてもっと……あとほんの少し早く、駆け付けられなかったんだって、自分を許せそうにない。
…………けれど、それでも俺は、まだ立ち止まるわけにはいかないんだ。
泣くことも、悔むことも、後でできる。けど、アトリを助けることは今しかできないから」
ハセヲは悲痛な顔を浮かべながら、それでもはっきりとそう答えた。
その言葉に私は、覚めるように目を見開いた。
……そうだ。彼の言う通りだ。
今はまだ、立ち止まるわけにはいかない。後悔している暇なんて、私たちにはないんだ。
彼はただ、それをきちんとわかっていただけなのだ。
「このデスゲームが始まる前。アトリが失敗して塞ぎ込んじまった時に、俺は言ったんだ。
涙で目を曇らせるな。耳を塞いで、都合悪いことから逃げるな。自分勝手な思い込みで、自分を縛り付けるな。
しっかり目を開いて、耳を澄まし、思考しろ。深呼吸して、一歩でも多く歩け。
たとえ厳しくても、それが責任を負うってことなんだ、ってな。
だから、どんなに悲しくても、苦しくて堪らなくても、それでも、また歩き出すことだけはやめない。
それが今の俺に出来る、志乃達へのケジメだから」
「……………………」
そうして私は気が付いた。
志乃達の死を聞いて、どうして何も感じなかったのか。心が凍り付いていたのかを。
きっとそうしなければ、それ以上前へと進めなかったからだ。
だってそうでしょう? 彼女はきっと、私の事を庇って死んだのだから。
意識を失う前の最後の記憶は、痛みに朦朧としていた視界に映る、志乃の姿だった。
そしてHPが回復していたという事は、彼女が私を助けたという事だ。
だが志乃は、あそこで起きた戦いで最初に死んだ。気絶していた私には、何のダメージもなかったというのに。
だからきっと、彼女は私の事を庇ったのだ。私を見捨てれば、まだ助かる可能性があったかもしれない。
けれど彼女は私を見捨てず、結果として彼女は死んで、私が生き残った。
――――つまり志乃は、私のせいで死んだのだ。
…………私には、アトリを助けるという目的があった。
けれどこの事実を受け止めてしまえば、きっと私の心は折れて、立ち止まってしまう。
誰かが自分を庇って死んだ、なんて事実を受け止められるほど、私は強くなんてないのだから。
だから心を凍らせて、何も感じていないフリをして、志乃たちの死から目を背けていたのだ。
いつのまにか、アトリを助けるという目的を免罪符にして。
(最低だ……私)
五年前の――人を撃ち殺したあの記憶。
その罪をまっすぐに見つめて、そこから歩き始めようと誓ったはずなのに。
気が付けばこうして、真新しい罪を塗り潰そうとしていた。
結局私は、あの頃のまま、何一つ変わっていなかったのだ。
「……ごめんなさい。言い過ぎたわ」
「いや、べつに謝る必要はねぇよ。泣くのを我慢してんのは、あんたも一緒だろ」
「…………ええ、そうね」
そう口にして、ハセヲの言葉を認める。
するとどうしてか、少しだけ、心が軽くなった気がした。
自分に吐いていた嘘が、剥がれたからだろうか。
「強いのね、ハセヲ」
「強がってるだけさ。ガキみたいにな」
ハセヲはそう言って苦笑いを浮かべる。
どんなに悲しくても、苦しくて堪らなくても、また歩き出すことだけはやめない。と彼は言った。
その在り方は、私にはどこか尊いもののように思えた。
なら私も、ゆっくりでもいいから、志乃たちの死を受け止めよう。
もしそれで心が折れて、立ち止まってしまったとしても、彼のように、また歩き出してみせよう。
それが今の私に出来る、志乃へのケジメと、恩返しだから。
「それじゃあ行きましょう、ハセヲ」
「おう」
ハセヲへと声をかけ、私は改めて歩き出す。
今度こそ本当に、自らの罪を受け入れて。
私を信じてくれた、アトリを助け出すために。
†
――――だがその歩みは、そう間もなく止められることとなった。
「テメェは……!?」
「……………………」
「――――――――」
黒に近い深緑のスーツに、黒いサングラスをかけた壮年の男――エージェント・スミスとの遭遇によって。
「こうして向かい合うのは三度目になるのかな? 前回君は気絶していたわけだし」
「さあ? どうでもいいわね、そんなこと。アンタと顔を合わせるなんて、たった一度でもゴメンだもの」
「おや、これは随分と嫌われたものだな。何度目でも関係ない、というのは同意するが」
「友好的になる要素がないでしょう。最初も前回も殺し合ってるんだから」
「ふむ、確かにその通りだな。これは失礼をした」
「つまらない冗談はやめて。失礼だなんて、欠片も思ってないくせに」
シノンとスミスの、殺意を伴って交わされる、一触即発の会話。
臨戦態勢こそ取っていないが、二人の纏う気配は、戦闘時のそれと大差ないものとなっていた。
僅かにでもきっかけがあれば、即座に殺し合いを始めかねない緊張感がそこにはあった。
「でもそうね。いい加減、名前くらいは聞いておきましょうか」
「ふむ、それもそうだな。私の名はスミス、エージェント・スミスだ」
「シノンよ。言っておくけど、よろしくはしないから」
「それは残念だ。それとついでだ、君の名も聞いておこう」
「……ハセヲだ」
「ではシノン君にハセヲ君。早速で悪いが、君達にはここで消えてもらう」
スミスはそう告げると、ギシリ、と両手を固く握りしめる。
その脅威を身を以て知っているシノンは警戒をより強め、しかし、続けてスミスへと言葉を投げかける。
「へえ、随分物騒じゃない。アトリとは違って、私達は取り込まないんだ」
「その必要がないからね。無駄は省くに限る」
「嘘ね。単にアトリを取り込むのに精一杯で、私達まで取り込んでる余裕がないだけでしょう」
「……………………」
スミスが表情を消して沈黙したのを見て、やっぱり、とシノンは確信を得る。
アトリはまだ生きている……生きていてくれた。その事に、確かな安堵と勇気を得る。
……だがまだ足りない。まだ彼女の居場所を掴んでいない。
故に、それを調べるための、最後の会話を投げかける。
「ついでに言わせてもらえば、この地点でわざわざ真正面から現れたってことは、今アトリがいる場所は@ホームね」
「……ふむ、何故そう思うのかね?」
「二度目の時、アンタは地下から襲ってきた。
あんな奇襲手段が使えるのなら、今度も似たような奇襲を行なえばいいはず。
二回目以降は警戒されるといっても、予想が付け辛いことに変わりはないからね。
それにアンタのステータスなら、奇襲が失敗したところで大した問題にはならないはず。
けど今回、アンタはわざわざ真正面から現れた。まるで私たちの進行を邪魔するみたいに。
その理由は簡単。『自分』という驚異を見せつけることで、@ホームとは違う方向へと撤退させるため。
奇襲をしなかった理由も同じ。もし攻撃を回避された時に、@ホームの方へと逃げられたら困るから。違うかしら?」
シノンのその推理を聞いたスミスは、僅かな間押し黙った後、クッ、と笑いを溢す。
同時に能面のようだったその貌に、凶悪な笑みが浮かび上がらせた。
「正解だ。実に優秀だな君は。ただの人間にしては、だが」
「お褒めに預かり光栄ね。嬉しくもなんともないけど」
「しかし、その事に気付かれた以上、なおさら君達を逃がすわけにはいかなくなった。
備えはしてあるとはいえ、万が一、という事も考えられるのでね」
「逃げるつもりなんてないわよ。今のところはね。
私はアトリを助けに行く。そのために、あんたはここで倒す」
そう言うや否や、シノンはファイブセブンを取り出し、その銃口をスミスへと向ける。
この上ない宣戦布告を叩き付けたのだ。
だがスミスは、それを受けても不敵に笑うだけ。二人の事を、脅威とは見なしていないのだ。
そしてそれは、この上なく正しい事実だ。このスミスが相手では、たとえ二人がかりでも、苦戦することは間違いないだろう。
それを理解した上で、シノンはアトリを助けるための選択を取った。
「ハセヲ、私がアイツを足止めするから、あんたはアトリを助けに行きなさい」
「な、おまえ……! あいつを相手に一人だけで戦うつもりか!?」
「時間がないの。もう一人いるあいつは、既にアトリを取り込もうとしているはずよ。
そしてアトリを助けるためには、私じゃなくて、あんたの『力』が必要なの」
僅かな時間も惜しい今、スミス一人一人と戦っている余裕はない。
そしてシノンはスミスとの相性が悪く、たった一人ですら倒すことは困難を極める。
対してハセヲの『憑神(アバター)』なら、シノンよりはまだスミスに対抗し得る可能性がある。
故に、シノンが足止めし、ハセヲが先行することが、アトリを救出するための最善の選択なのだ。
「チッ、仕方ねぇ。けど……死ぬんじゃねぇぞ」
無茶をするな、とは言わない。
スミスが無茶をしないでいられる相手じゃないことは、ハセヲも理解しているからだ。
「当然でしょ。私にはまだ、会いたい人たちがいるんだから」
だから絶対に死なない、と。
それがどんなに困難かを承知して、シノンはそれでも強かに応えた。
そうして二人は、覚悟を決めた。
なら後は、アトリの救出に全力を注ぐだけだ。
「アトリの事、頼んだわよ」
言って。シノンはファイブセブンの引き金を引き絞り、
「ああ、任せろ」
応えて。ハセヲは使い慣れた双剣、光式・忍冬を構え、
「ッ、GO――!」
「疾風双刃ッ!」
銃声が響くと同時に、ハセヲがアーツを発動させる。
放たれた弾丸は四発。それに追従するように、ハセヲの体が加速する。
「フ――――」
対するスミスは、まず放たれた弾丸をバレット・ドッジで回避する。
次いで、高速で接近するハセヲへと向き直り、その攻撃に対処する。
左右交互の二撃を両腕で防ぎ、締めの振り下ろしは軽く飛び退いて回避する。
そしてスキルの使用により隙を見せるハセヲへと向け、コンクリートをも打ち砕く拳を振り上げ、
シノンが撃ち放った三発の銃弾に、バレット・ドッジによる回避へと切り替える。
「行って、ハセヲ!」
「おう!」
その僅かな隙に、ハセヲはスミスの横を駆け抜ける。
それをさせまいと、スミスはハセヲへと向けて腕を伸ばすが、そこへさらに放たれた銃弾に阻まれる。
その間にハセヲはスミスから完全に距離を取り、@ホームを目指して全力で駆け出した。
「――――――――」
スミスはそれを、悔しげな表情で見送る。
この状況でハセヲを追おうとすれば、シノンに背を向ける形となる。その危険性を十分に理解しているためだ。
いかなスミスとて、撃たれれば死ぬのだ。……その銃弾を命中させるという行為が、彼に対しては最も困難なのだが。
「ふん……。一人では敵わないと理解しておきながら、君だけでこの私を相手にしようとは。
まったく、人間の持つその不合理さは理解できんよ」
シノンへと向き直り、スミスは呆れたように口にする。
そんなスミスに対し、シノンは泰然たる態度で言い返す。
「お生憎様、AIのアンタと違って、人は理屈だけで生きてるわけじゃないの。
そして、その人の持つ不合理さが、奇跡ってヤツを呼び寄せるのよ」
「『奇跡』……か。『愛』と同じ、下らん幻想だな。
現実に起こるあらゆる現象は、定められた法則によって生じる、ごく当然の結果に過ぎないというのに」
「あら、だったら見せてあげましょうか? その現実を覆す、人間が懐く想いの強さを」
不遜とも取れるその言葉に、スミスは愉快気に口元を歪める。
自分との能力差を理解していながら、なお己が勝利を信じる彼女に感心したのだ。
「言うではないか。だが、確かに興味深いな、それは」
そう口にしながら、右手を背中へと回し、光のエフェクトとともにその巫器を取り出す。
――ロストウェポン・静カナル翠ノ園。
緑玉石の結晶のような多角錐の銃剣を、スミスはシノンへと突き付けた。
ボルドーと戦う“スミス”のそれと、まったく同じその巫器を。
シノンとスミス。両者がこうして戦うのは、これで三度目となる。
一度目はシノンに軍配が上がり、二度目はスミスが勝利した。
三度目ともなれば、お互い既に相手の能力をほぼ把握している。故に、戦いの流れも自ずと決まる。
即ち、如何にして己が有利な距離に持ち込み、相手にダメージを与えるか、である。
そのための攻撃手段として、スミスはこの巫器を取ったのだ。
「ぜひ見せてもらおうではないか」
「っ…………!」
「その『奇跡』とやらが起きる瞬間を」
その言葉を皮切りに、一方的な戦いが幕を開ける。
後方へと素早く飛び退きながら、シノンはファイブセブンの引き金を。
石路を踏み砕きながら前へと駆け出し、スミスは緑玉石の銃剣の引き金を引き絞った。
7◆◆◆◆◆◆◆
「実に厄介だ。本人の意識がなくとも、なおも抵抗を続けるとは」
変わらず、アトリへの上書きを行ないながら、スミスはそう口にした。
たかだか一介のプログラムにここまでの抵抗をされていることに対して、若干の苛立ちと、より確かな関心を懐いていたのだ。
データの上書き自体は、徐々にではあるが進行していた。
少女が気を失っているためか、上書きの速度も先ほどよりは上昇している。
すでに左腕、右脚は掌握し、残る二肢ももう間もなく掌握できるだろう。
――――その時点で、既に異常だ。
救世主であるネオを除けば、この上書きに抵抗できた存在は一人もいない。
だと言うのに、この少女のプログラムは、本人が意識を失ってなお上書きに抵抗しているのだ。
その理由も、既に判明している。
アトリを構成するデータの根幹に組み込まれた、PCボディとはまた別のプログラム。
これがスミスの上書きを妨害しているのだ。
その証は、アトリの身体の表面に浮かぶ、水色に光り輝く不思議な紋様だ。
この紋様が強く輝くたびに、スミスの上書きは押し返されていた。
下手に気を抜けば、上書きし掌握したはずの部位までも奪い返されてしまうだろう。
………だというのに、スミスにはこのプログラムに手を出すことができなかった。
それはアトリに抵抗されているから、というのもあるだろう。だがそれ以上に、スミスの上書き能力のプロセス的に不可能だったのだ。
先も述べたように、エージェントの上書き能力の対象は、あくまでも相手の肉体のマトリックス――PCボディだけ。
これは逆に言えば、“PCと異なるデータは上書きできない”という事でもある。
当然、相手のマトリックスを完全に掌握すれば、それに付随する能力も、スミスのスペックの及ぶ範囲でだが使用できる。
だがそれは、あくまでも掌握してからの話であり、そうでない内は、スミスには干渉できないプログラムなのだ。
そしてスミスにとってはアトリの持つ碑文も、その“干渉できないプログラム”となる。
故に、スミスの上書き能力への抵抗を可能としているプログラムを掌握するには、まずアトリのPCデータを完全に掌握する必要があるのだ。
だがそれは、“アトリの上書きへの抵抗を止めさせるには、アトリを完全に上書きする必要がある”と言っているようなもの。
そもそもの前提からして矛盾している。
つまるところスミスには、アトリの抵抗を止めさせることができないという事なのだ。
が、しかし――――。
「それも、もうすぐ終わりだろう? アトリ君」
アトリへの上書きは、徐々にだが、確実に進行している。
そして上書きが進行すればするほど、彼女の持つプログラムの抵抗力は衰えて行っているのだ。
この分なら、残る二肢さえ掌握してしまえば、そう時間を置かずに上書きを完了できるだろう。
そしてこの上書き作業が妨害されることはない。
なぜならスミスは、デス☆ランディを上書きしたことによって、彼が管理していたギルド機能の大半を掌握していた。
そしてその権限によって、カナードの@ホームの入り口を封鎖していたのだ。
つまり、たとえ誰かかがここを訪れたとしても、カナードの鍵を持っていない限り、@ホームに入場することは出来ないのだ。
……そして、だからこそ、その存在の出現は、スミスにとってあまりにも想定外だった。
――――ポチャン
と、水滴が落ちるような音(ハ長調ラ音)が、@ホームに唐突に響き渡った。
直後、発生したノイズが“波”のような音を立てて、周囲の空間を飲み込んでいく。
「む、これは……!」
スミスは即座にアトリの上書きを中断して肩に担ぎ、警戒体制へと移行する。
同時に少女の身体から紋様が消えるが、それを気にしている余裕はない。
空間そのものを揺らがす振動とともに、エリアデータが書き換えられていく。
通常の空間から切り離され、全く異質な、別の空間へと置き換わる。
その、世界そのものから外れるような感覚を齎す現象が示すものは一つ。
――すなわち、理外の力の顕現だ。
そうして形成されたのは、荒れ果てた荒野。
禍々しい緑色の空には、岩や廃墟の欠片が浮かび、青白い霧が薄く立ち込めている。
「どういう事だ。この@ホームは閉鎖していたはずだが……。
……いや、まさか、“@ホームのデータ自体を書き換えた”のか……!?」
いかに@ホームへの立ち入りを制限しようと、その@ホーム自体が改竄されてしまえば意味はない。
この現象を発生させた存在は、故意にか偶然にか、見事に“スミス達”の油断を突いたのだ。
「――――――――」
現在四人いる“スミス達”の内、一人は蜘蛛と、一人は青髪の少女と戦っている。
残る一人も急ぎ戻ってきているが、その“私”も黒衣の少年の相手をすることになるだろう。
そして意識のないアトリという重荷を抱えた状態では、さすがのスミスでも行動の大半を制限されてしまう。
故に、この状況で取るべき行動は、襲撃者の速やかなる排除か、この空間からの脱出ということになる。
だが、この空間には出口がない。遮断されている訳ではないようだが、通常の手段による撤退は不可能だろう。
つまり現在ここにいるスミスは、たった一人で、アトリを庇いながら襲撃者と戦わなければならないのだ。
スミスがそう理解すると同時に、暗色の荒野に更なる波が発生する。
その空間の歪みから飛び出すように現れたのは、赤いケルト十字の杖を持った、白い石像のような巨人――スケィスだ。
スケィスはスミスを認識すると、狙いを定めるかのように、赤い杖を突き付けてくる。
……いや、スケィスが認識しているのは自分ではない。この巨人の狙いはアトリだと、スミスは向けられる視線から察する。
同時に空いている右手を背中へと回し、光のエフェクトとともにその巫器を取り出す。
――ロストウェポン・静カナル翠ノ園。
緑玉石の結晶のような多角錐の銃剣を、スミスはスケィスへと突き付けた。
ボルドーやシノンと戦っている、他の“スミス達”と同じように。
――三人のスミスが全く同じ巫器を装備している理由は、装備を共有しているからでも、同じ物が支給されたからでもない。
如何に“スミス達”がデータを共有していても、さすがに実体化された武器までは共有できないし、そもそもロストウェポンは容易く複製できるような代物ではない。
ならばなぜ彼等が同じ巫器を装備しているのか。その理由は、【静カナル翠ノ園】そのものの特性によるものだ。
【静カナル翠ノ園】の本体。それはスケィスと同じ八相の一つ、メイガス。『増殖』の異名を冠する、第三相の碑文である。
そしてメイガスの持つ特殊能力は、あらゆるデータを文字通り『増殖』させる力である。
故に、自己を増殖させるスミスがこの巫器を装備した時、この巫器もまた、それに合わせて増殖されるのだ。
そしてスミスがこの巫器を手に取った理由は、アトリという重荷を抱えているためだ。
先の“自分”が行った戦いにおいて、あの死神の攻撃力は理解していた。
故に、万が一の可能性を排するためにも、接近戦は避けるべきだと判断したのだ。
「――――――――」
この巨人の目的が何なのかはわからない。
だがあの剣士の少年のように、アトリをデリートしようとするのなら、執るべき選択は一つだ。
即ち、一切の躊躇も手加減もなく、この巨人を排除する。
そんな冷たい殺意とともに、スミスは緑玉石の銃剣の引き金を引き絞った。
最終更新:2014年05月15日 17:06