誰かがわたしに
そっと触れれば
その指があなただと
信じられる強さだけが
わたしの真実だから
(白堊病棟)
◇
毒が広がっている。
戦いの余波だった。穏やかな草原はいま汚されている。
枯れた湖に毒々しい色の液体が流れ込み、その表面が時おり、ぼこ、ぼこ、と泡を吹いた。
荘厳な大聖堂は毒沼に沈み込んでおり、神聖さを汚しているようであった。
そんなものの前で俺は“その男”と再会した。
彼の姿を目にしたとき俺は、遂に来たか、と感じている自分に気づいていた。
無論既に彼がこの場にいることは慎二から聞いている。
しかしそれを聞く前から、あるいはこのデスゲームに呼ばれる前から、俺は予感していた気がする。
再会を。
もう一度“その男”と巡り会うことを。
どのような過程で、どんな立場でそうなるかは分からなかったが、しかし進んだ先に“その男”がいる気がしていた。
あるいはそれは期待だったのかもしれない。
また会おう――そんなことを言って“その男”は消えていったのだ。
あれで終わりな訳がないと、運命的なものを勝手に俺は思い描いていたのだろう。
「ヒースクリフ」
何にせよ俺は出会い“その男”の名前を呼んだ。
“その男”は西洋風の鎧に身を包んだ精悍な顔つきの男だった。
「ヒースクリフか、それとも――」
“その男”はふっと不敵な笑みを浮かべ指先を、つい、と走らせた。
「茅場晶彦でも、その残像でも、なんでもいい。君にとっての私の名を呼べばいいさ、キリト君」
するとその姿は変わっていた。
騎士は消え去り、代わりに白衣をはためかせる一人の研究者が現れた。
その姿は記憶のものと何一つ変わっていなかった。
それも当然か。“その男”は既に現実から去っている。
データ上の残像であり、仮想現実の世界を彷徨っているだけの存在だ。
過去をアバターとして身に纏う以外、存在を維持することさえ危ういのかもしれない。
「――――」
しばし視線が絡み合う。
お互い、何も言いはしない。
その沈黙は警戒と緊張、そして期待を含んでいた。
「――茅場」
それを破るようにして、俺はその名を呼んだ。
数ある選択肢の中から俺が選んだのはその名前だった。
最もどれを選んでも同じことだったのかもしれない。
きっとどう呼んでも“その男”は同じように不敵な笑みを浮かべただろうから。
◇
「久しぶりだな」
白衣のアバターのまま、茅場はゆっくりと語りだした。
その姿に俺は不思議な高揚感を覚えていた。
「久しぶり、か。
俺とアンタじゃ流れてる時の流れも違うんじゃないか。
前に会った時からここまで瞬き一つの出来事だって言われても信じるぜ」
「確かに私にもはや時という概念はないな。
始まりも終わりもない、ただの過去の残像だ」
「へえ、それは――想像もできないな」
意識あるいは魂。
それをデータとしてコンバートし、意識だけの存在になるなど、その感覚は俺にはまるで想像できなかった。
魂の駆動体。フラクトライトの研究などは進んでいるが、それでも依然としてその領域は人の手にはない。
その答えをプロセスをスキップして手に入れてしまった以上、もはやそのカタチは人とは呼べないだろう。
「慎二君も、まさか彼と一緒にいるとは思わなかったが」
茅場がふと視線を外し、俺の同行者/PTメンバーに目を向けた。
慎二は気おくれしたのか奴と目が合うと肩を、びくり、と上げた。
だが当の茅場は慎二に特に興味もなかったのか、すぐに視線を隣のアーチャーへと向け、
「ライダーはまだ取り戻していないようだね」
そうぼそりと呟いた。
話によれば最初に茅場と接触、戦闘することになったのは慎二らしかった。
最初のメンテナンスの際に別れたとのことなので、以来彼も独自に行動していたことになる。
「……そちらの情報を教えてほしい。
多くの因縁はあれ、我々がここでやりあう理由もないだろう。
とりあえず別れてからここまでの情報交換と行きたいのだが」
アーチャーが落ち着いた口調で言うと、茅場も鷹揚と頷いた。
「ああ、勿論だ。
それで時にアーチャー。先ほどのメールに
カイト君の名があったが」
「それは――」
茅場の問いかけにアーチャーは言葉を詰まらせた。
カイト。
彼は確か今アーチャーの本来のマスターのパーティにいるはずだ。
俺は話でしか聞いたことはないが、話によるとユイと同じネットゲーム内に発生したAIの類だという。
その名前が先の脱落者のメールに記載されていた。
考えようによってはアーチャーのマスターも――そしてユイも――危ない。
「あれ以来まで接触が取れていないのでな、彼らが現状どうなっているのかは掴めていない。
目算だともう月海原学園に到達している頃だが」
「途中、PKと遭遇した可能性もあると」
「ああ、しかしまた別の可能性もある」
アーチャーは語るにはこの場に“カイト”は二人いるとのことだった。
単に同名PCというだけでなく、AIであるカイトの基になった“カイト”というプレイヤーの存在もまた確認されている。
ゲーム序盤、ブルースが接触したパーティにいたとのことで、彼らの消息はそれっきり不明のままだ。
となるとあの“カイト”はそちらの方である可能性もある。
「……話によると基となった“カイト”はPCに特殊なプログラムをインストールされていたそうだ。
究極AIより齎されたデータ。もしかするとデスゲーム突破の糸口になったかもしれないが」
「失われた可能性もある、か」
茅場は淡々とした言葉に、アーチャーは何も言わなかった。
どちらの“カイト”が失われたにせよ、事態は悪い方向へと進んだことになる。
それだけではない。俺たちに残された時間は刻一刻と減っている。
アバター内に仕込まれたウイルスの発動リミットは12時間を切った。
ゲームが進行すればするほど、俺たちは不利になっていくのだ。
「……あのロボットのPKを追う途中、私たちは多くのプレイヤーと出会い、協力を取り付けることができた。
森やアメリカエリアの方を探索している筈だ。このエリア一帯で生き残っているプレイヤーとは大体接触できたと考えてもいいだろう」
アーチャーが落ち着いた口調で告げた。その言葉を受け俺は静かにうなずいた。
そう、悪いことばかりではない。ユウキやブルースのような友好的なプレイヤーと出会うこともできた。
「そうか……集団はできつつあるということか。
あとは情報を解析できる拠点さえ形成されれば……」
茅場は口元に手を当て考えるそぶりを見せた。
彼自身は自らが不和となることを恐れて集団に属する気はない、とのことだが、恐らく頼まれれば協力を取り付けることは可能だろう。
彼もまたアインクラッドというデスゲームを創り上げた人間だが、それ故に技術面では他の誰よりも信頼できる。
そして俺は不思議と確信していた。恐らく茅場は本心からこのゲームを打破しようとしているだろうことを。
事態は切迫しているが、だからといって焦るわけにはいかない。
こうした状況で最も危ういのは焦りだ。リミットを恐れ暴走してしまえば――ただただ状況を悪くする。
数時間前の俺のように。
解決の糸口はある。
ゲーム開始から半日経った今、既に俺は多くの要素を見た。
最初はありとあらゆるゲームがごちゃ混ぜにされ、何が何だか分からない、といった感じであった盤面も、他のプレイヤーとの接触でそれぞれの概要が見えてきた。
そうして分かったこととして、このゲームには“イリーガルなシステム”が数多く存在することだった。
ユイやレンさんのようなAI、シルバー・クロウが見せた“心意”、そしてあの“黒いバグ”もそうだ。
二人の“カイト”のような、本来の仕様から逸脱したプレイヤーを恣意的に集めている可能性すらある。
おかしな話だが、このゲームはその“イリーガルなシステム”前提のバランスとなっているのだ。
そんな滅茶苦茶なシステムである以上、どこかでほころびがある可能性は十分にある。
それを間隙を突く為にも、求めるべきは情報と、茅場の言うとおりそれを解析する拠点だ。
そしてカオルのような高い情報解析技術を持ったプレイヤーとは既に接触できている。
鍵は揃いつつある。全く絶望的な状況ではない。
「茅場、そっちはどうなんだ。アンタのことだ。ここまでで何にも掴んでいない訳じゃないんだろ?」
俺は緊張を抑えながらそう問いかける。
すると茅場はあっさりと、
「GM……システム側と思しきNPCと接触した」
そう答えた。
俺は思わず息を呑む。
システム側との接触――当たり前だがそれは一回のプレイヤーにできることではない。
「偶然でも必然でもない。センチな言葉だが“
運命の出会い”という奴をしてね。
誘われるままイリーガルなエリアへと足を踏み入れた。
そこに――オラクルと名乗る預言者がいた」
「預言者?」
俺は思わず聞き返した。
オラクル――確か天啓とかそう意味の筈だ。
「そう預言者だ。
あれは自分のことをそう呼び、未来を見通す力があると言った」
「それは……論理演算を担当しているとか、そういうことか?」
その言葉を聞き、ぱっと思いついたのは“カーディナル”だった。
SAOに搭載されていたあの統括システムのように、仮想現実の運行を担っているシステムのことかと考えたのだ。
しかし茅場は「いや」と首を振り、
「あれはそういうものじゃないだろうな。
まさしく未来そのもの。不確定なものを規定する――とでもいうべきか。
そうした役割を担っていたように私は感じたよ。
――君たちはマトリックスという単語を既に聞いているかな?」
茅場はふと確認するように問いかけた。
俺は首を横に振る。一瞥すると慎二たちも知らないようだった。
「そうか。私としては今までで最も恐ろしく、広大な“現実”だったよ。
それは――」
そうして茅場は語りだした。
新たな“現実”のあらましを。
その話はまず戦争から始まった――
「人類と機械の戦争。敗北。檻としての現実……」
そして俺はそのあまりのスケールの大きさに思わず目を見開く。
ネットゲームどころの話ではない。人類規模での話だった。
その荒唐無稽な世界観は、正直、ゲーム開始直後の俺ならば信じていたか怪しい。
しかし信じざるを得ないだろう。
ネットナビのようなまるで違う社会基盤で活躍する者や、シルバー・クロウのような“時間”を超えた者を知った今、それもまた“現実”であると認めるしかなかった。
「よく分からないけどさ、そのマトリックスの預言者ってのは敵なのか?」
俺が黙っていると、そこで慎二が焦れたように聞いてきた。
ゲームという共通の話題があったためあまり意識していなかったが、慎二もまたそうした管理社会の出身なのだ。
それゆえ俺よりもすんなりと話を飲み込むことができたのだろう。
慎二の問いかけを受け、茅場はしばし考えるそぶりを見せたのち、
「敵ではないな」
そう言った。
「へぇ! じゃあ、そいつは僕らに協力してくれるってことか」
「しかし、味方ともいえないだろうな」
慎二の喜びの声を、茅場はそう一言で切り捨てた。
「本来の機能を制限されているとのことだった上、あれに協力を求めるというのがそもそも間違いなのだろう。
未来を見通すことと限定することは違う。あれが司っているものは“選択”だ。
ただそこにある以上のことをあれはしないだろう」
「なんだよそれ、役に立たないじゃんか」
「そうでもないさ――プログラムには必ず役割があるものだ。
あれがいること自体が我々にとっては“導き”になる。
“選択”のシステムは制限されているが、このゲームでも機能している」
「どういうことだよ、それ」
眉をひそめる慎二を余所に、茅場はふと笑みを浮かべた。
それは何となく仮面のように見えた。
茅場というよりは騎士団長【ヒースクリフ】が浮かべていたような、集団の上に立つものが浮かべる顔のように思えた。
「希望はあるということだよ、慎二君。
私たちの頑張りにも意味があるということの裏付けになる」
そして茅場はそんなことを嘯いた。
その言葉を受け慎二の瞳にわずかながら明るいものが宿ったのが分かった。
流石だな、と俺は黙ってその光景を見ていた。
同時に告げられた“現実”についても考える。
マトリックス。
SAO、ALO、GGO、The World、ハッピースタジアム、電脳世界、加速世界、ムーンセルに加わる新たな“現実”か。
恐らくだがプレイヤーの数やそのつながりからして“現実”の数はこのあたりで打ち止めだろう。
となるとこれが最後の“現実”だが――
「情報は揃いつつあるようだな」
アーチャーがまとめるように言った。
確かにゲームの全図がおぼろげながらも見えてきた感じはしてきた。
情報自体は大体出揃い、あとはこれを解析する必要がある訳だ。
「とりあえず他のプレイヤーとの合流を急ぎたい。
特にブルースらはイベントの件もあって心配がある。
――うまくいけばサチも見つかっているだろう」
サチ、という言葉が出た瞬間、俺の胸はざわめき出す。
思わず背後の聖堂を意識する。毒に怪我された聖堂。そこで起こった悲劇。
俺の過ち。シルバー・クロウの不可解な死。サチの“感染”。
その謎を俺は未だに解けていないでいる。
ぼこ、と毒沼が泡を吐くのが見えた。
「私は同行しない方がいいだろう」
「それは……」
「無駄な疑心暗鬼を呼ぶつもりはないよ」
今後の方針が見えると、茅場はあっさりとそう言った。
サチのことに意識が向いていた俺は、はっ、とする。
茅場はここで別れるという。
確かに彼の前歴を考えれば不和の原因になりえないとはいえない。
特にブルースなどは彼を信用しないだろう。
だがそれでいいのか。
恐らく茅場はこのゲームにおいて唯一無二の存在だ。
知識、知性、技術、そういった面でもここで逃すことは危うい。
いや、そうでもなくとも俺は確信していた。
恐らく茅場はこのゲーム打破において――重要な役割を持つと。
「…………」
そう確信していたが、しかし俺はかける言葉が思いつかなかった。
全くの直感だ。
あまりにも論理性に欠けた言葉では何の意味もないだろう。
だがしかしそれでも何かしら言おうとするが、
「ただあと一つだけ告げておかなくてはならない情報がある」
それを遮るようにして、茅場が告げた。
「私と同じように預言者に誘われ、接触した“オーヴァン”というプレイヤーのことだ」
と。
俺がその瞬間思ったことは何だっただろうか。
茅場がその名を口にしたことで、求めていた名前と予感していた出会いが結びついた。
出会いに意味が与えられた。
それを結びつけたのが、未来を視る預言者だというのならば、なるほど確かにこれは必然でも偶然でもないのかもしれない。
そう思った、その時――
「――待て。何かが来る」
何かを感じ取ったアーチャーが茅場の言葉を制した。
その語気からみな状況を察する。
俺も、慎二も、茅場も、この場のプレイヤーはみな一級の“ゲーマー”であるということで共通している。
故にそれからの行動は早かった。
「これは――空からだ」
オブジェクト化する剣。顔色を変える慎二。そして現れる騎士【ヒースクリフ】
迎撃用意が整った瞬間、
「……っ」
空のノイズが走る感覚がした。
じじじ、とフィールドのデータを貫くような音がした時、既に――魔剣が降り注いでいた。
狙われたのはヒースクリフだ。赤い鎧をまとった騎士が空より降り注いだ剣撃を受け止めている。
そして、俺は再会した。
再会には意味があった。
少なくとも茅場との再会は偶然などではなかった。
だからきっと“彼女”との再会がその瞬間だったことも、単なる偶然ではないのだろう。
「――アスナ」
「キリト君……?」
ヒースクリフと剣を交錯させた“彼女”――アスナは呆然と俺の名を呼んだ。
信じられない、とでもいうように、彼女は俺の名前を呼んだのだ。
その手には黒く蠢く魔剣があり――
最終更新:2015年06月15日 23:12