17◇◆◆◆◆◆◆◆


 異形の雷魚と蜘蛛。<Helen>と< Glunwald >の戦いは、岸波白野の想像を僅かばかりに超えていた。
 この空間の特性なのだろう。二匹のAIDAは前後上下左右お構いなしに動き回っている。
 その縦横無尽な戦いは、おそらくはこの空間の中心、その水平面に囚われている自分達には出来ない戦いだ。
 仮にセイバーが蜘蛛のAIDAに挑んでいたとすれば、決して負けずとも、その動きに翻弄され苦戦は免れなかっただろう。

 そして肝心な、その戦いの戦況はといえば、
 ヘレンが無数の光弾をばら撒きながら逃げ、蜘蛛がそれを追いかけるという形で進んでいた。

 戦いはヘレンが不利だと言えた。
 一見ではヘレンが有利に立ち回っていると思うかもしれない。だがヘレンの光弾は、蜘蛛のAIDAには大したダメージを与えられていないのだ。
 時折胴体から放つレーザーこそ避けてはいるが、逆に言えば、蜘蛛のAIDAはそれにさえ気を付けていれば問題ないのだ。
 そして蜘蛛のAIDAにも遠距離攻撃がないわけではない。ヘレンと違い立ち止まってこそいるが、糸の塊のような弾丸を散弾銃のように放っている。
 しかもヘレンの光弾と違い、その糸弾はヘレンへとダメージを与えている。
 移動速度で勝る分被弾数こそ少ないが、ヘレンは確実にダメージを蓄積させているだろう。
 このままではいずれ、蜘蛛のAIDAに捕捉されるだけだ。

 同じAIDAでありながら、なぜこのような差が生じているのか。
 考えられる可能性は三つ。
 純粋なAIDAとしての格の差。感染したプレイヤーの差。そして顕現時に吸収した、あのセグメントらしきものによる差だ。
 そしてそれら可能性は、いずれも今の自分達には覆しようがない差だ。

 加えてこの空間内では、セイバーによる援護も難しい。
 純粋な速度だけを考えれば不可能ではないが、移動可能範囲が違い過ぎるのだ。
 もしセイバーも共に戦おうとするのであれば、ヘレンに騎乗するなどの協力を得るしかない。
 しかしセイバーの攻撃手段は剣のみ。蜘蛛のAIDAを攻撃するには、ヘレンに接近してもらうしかないのだ。
 そして明らかに格上の相手の領分で戦うなど、ほとんど自殺行為でしかない。
 蜘蛛のAIDAが自分達を狙ってくるならまだしも、ヘレンだけを狙っている現状では、出来ることは何もなかった。
 つまりヘレンは、この状況を自力でどうにかするしかないのだ。


 そうして、その時は訪れた。
 ロクに攻撃が通らず、自分ばかりがダメージを蓄積させていく状況に焦れたのか、ヘレンが蜘蛛のAIDAへと突進を仕掛けたのだ。

「む! いかん!」
 その攻撃の危険性を悟ったセイバーが、思わず声を上げる。
 だがその声はヘレンには届かず、そのまま蜘蛛のAIDAへと体当たりする。

「――――――――!?」
 逃げてばかりだったヘレンの突然の突進攻撃に、蜘蛛のAIDAは咄嗟の反応ができず直撃を受ける。
 そこへさらに放たれる追撃の回転攻撃。蜘蛛のAIDAはヘレンの尾鰭に打ち据えられ、その衝撃に弾き飛ばされる。
 ――――そして次の瞬間、仕返しとばかりに無数の糸を放出した。

「――――――――!」
 放射状に放たれた糸は上下から交錯するようにヘレンへと迫り、その身体を絡め捕る。
 咄嗟に回避するには、蜘蛛のAIDAとの距離が近すぎたのだ。
 そうして身動きの取れなくなったヘレンへと蜘蛛のAIDAは迫り、その鎌のような両前肢を容赦なく振り下ろした。

 そこからはもう一方的だった。
 大ダメージを受けたヘレンはその動きを鈍らせ、蜘蛛のAIDAは容赦なく攻撃を加えていく。
 まるで弱った獲物で弄んでいるかのような展開。
 だが有効な移動手段のない自分たちにはそれを止めることができない。
 ただヘレンが傷ついていく様を見ていることしかできなかった。
 そうして。

「――――――、…………」
 何かが割れるような音の直後、ヘレンの姿が光に包まれ、霧散した。
 あとに残ったのはサチの姿だけ。ヘレンは力尽き、その姿を顕現していられなくなったのだ。
 そうして力なく漂うサチへと蜘蛛のAIDAは近づき、その前肢を高く振り上げる。
 感染者であるサチ諸共、ヘレンに止めを刺すつもりなのだ。

「ヘレンさん!」
 ユイがその光景に、堪らず声を荒げる。
 自分は――――

  >サチ/ヘレンを助ける……!
   ……ダメだ。間に合わない。

 即座にセイバーへと指示を出す。
 岸波白野はサチを助けると誓った。そしてヘレンも、すでに自分たちの仲間だ。
 そんな彼女たちを見捨てることなど、出来るはずがない……!

 ……だが、サチ/ヘレンとの距離は僅かに遠い。
 セイバーはあと少しの距離を残して間に合わず、
 蜘蛛のAIDAがサチ/ヘレンへとその前肢を振り下ろし、

「――――――――!?」
 岸波白野の背後から生じた衝撃に、その動きを停止させた。
 何事かと後ろへと振り返れば、そこには右腕に腕輪を顕現させたカイトの姿があった。

 カイトの背後には、この異空間に開けられたらしき孔と、その向こうの通常空間にいるキャスターたちの姿が見える。
 だがそれも一瞬。異空間に開けられた孔は即座に塞がり始め、
 それより早くカイトが双剣を取り出し、蜘蛛のAIDAへと投擲した。
 放たれた双剣は弧を描きながら蜘蛛のAIDAへと迫り、その身体を切り裂く。
 それによって生じた一瞬の隙に、セイバーはサチ/ヘレンを抱え、岸波白野の下へと飛び退いた。

「大丈夫ですか、ヘレンさん!?」
 ユイがサチ/ヘレンの下へと駆け寄り声をかけるが、反応はない。
 ダメージによって気絶しているか、あるいは岸波白野が彼女を倒した時と同じように、小康状態となっているのだろう。

「……………………」
 一方カイトは、手元に戻って来た双剣を収め、セイバーと入れ替わるように蜘蛛のAIDAの前に立ちはだかる。
「――――――――」
 カイトが自らの脅威であると察したのか、蜘蛛のAIDAが一際警戒するような様子を見せる。
 だがカイトは無言。いつもの言葉ならぬ声すら発さず、蜘蛛のAIDAを見据えている。

 ヘレンは倒れ、AIDAに対抗できるのはもはやカイトしかいない。
 いやそもそも、AIDAを駆除することこそがカイトの本来の役割だ。あのAIDAが明らかに危険な存在である以上、躊躇う理由はないだろう。
 でありながら、AIDAを前にして、カイトは微動だにしない。
 その理由は、きっと――――

  >カイト。

 サーヴァントに命じるように、その黄昏色の背中に語りかける。

  >あのAIDAを、倒せ。

「……………………」
 それは頷きの声だったのか。
 岸波白野(いまのあるじ)の言葉を受け、カイトは蜘蛛のAIDAへと足を進める。
 同時にその両肩から、PCボディの内側から破裂するように蒼炎が吹き出る。
 それは両肘、両膝と続き、噴出した蒼炎はカイトの身体を覆い尽くして規模を拡大させていく。
 そうしてカイトを覆い尽くした蒼炎が晴れた時、そこには蒼炎を纏った、カイトの面影を色濃く残す巨人がいた。

「なんと! もしや、あれがカイトの本当の姿か……!?」
「それはわかりません。ですが、すごい情報密度です……」
 神々しささえ感じられるその威容に、セイバーとユイが驚嘆とともに呟く。

 ――――本当の姿。
 つまりあれが、カイトが全力で戦う時の姿という事か。
 言うなれば、<蒼炎の守護神(Azure Flame God)>。
 普段のPCとしての姿は、あれでも『The World』の仕様に合わせたものだったのだろう。

「――――――――!」
 蜘蛛のAIDAが、湧き上がる恐れに奇声を上げる。
 理解したのだ。今のカイトが、紛れもなく自身を脅かす存在――天敵なのだと。
 そしてその怖れを振り払うように前肢を振り被り、カイトへと突進する。

「ハァァアアア……!」
 対するカイトは、その両腕に備えられた三枚二対の刃を展開し、自ら接近して迎え撃つ。
 激突するカイトの爪刃とAIDAの鎌肢。
 AIDA< Glunwald >との戦いは、こうして新たな局面を迎えたのだった。

      §

 爪刃と鎌肢が高速でぶつかり合い、火花を散らす。
 だがあくまで肉体の延長でしかない鎌肢は、爪刃の刃によって傷つきダメージを受ける。
 それによりこのままでは不利だと判断したのか、< Glunwald >はより強く鎌肢を振り抜いてカイトを弾き飛ばし、《アルケニショット》を放つ。
 だが放たれた糸の散弾は、<helen>の時と違い、一発も掠めることすらなくカイトに回避される。
 《アルケニショット》が放たれた時には、すでにその射線から退避していたのだ。
 そして反撃とばかりに、カイトが両手から蒼炎を放つ。
 <Glunwald>はその蒼炎を鎌肢で振り払うが、その隙にカイトが接近し爪刃を振り抜く。

「――――――――ッ!」
 胴体を切り裂かれ、<Glunwald>は苦痛の声を発する。
 だが即座に鎌肢を振り抜き、カイトへと反撃する。
 しかしカイトは即座に離脱し、その一撃は空を凪ぐだけに終わる。

 しかしすぐさまカイトを再補足し、<Glunwald>は《アラクノトラップ》を放つ。
 <Helen>に大ダメージを与えた、守護神となったカイトの巨体では回避困難な攻撃。
 放たれた糸のレーザーはその巨体を絡め捕らんと上下からカイトへと迫り、しかし、カイトの両手から放たれた巨大な蒼炎――《蒼炎弾》によって焼き払われた。
 そして次の瞬間には、再接近したカイトの爪刃によって、<Glunwald>はまたも切り裂かれていた。

 反撃はおろか、迎撃すら間に合わない。
 通常攻撃の威力はほぼ互角。だが基本となる移動速度が違い過ぎるのだ。
 その<Helen>とは段違いの戦闘能力に、<Glunwald>はただ翻弄されるしかなかった。
 ――――しかし同時に、“なぜ自分がダメージを受けるのか”、とも戸惑っていた。

 <Glunwald>は、ボルドーを素体としたエージェント・スミスを媒介として顕現した。
 そしてその際、『イニスの碑文』に加え、スミスの内(ソース)にあった『救世主の力の欠片』も取り込んでいた。
 それにより、<Glunwald>の力は並のAIDAとは比較にならない程に向上していたのだ。
 ともすれば、あの<Tri-Edge>にすら届くのではないかというほどに。
 その証明が先の<Helen>との戦いだ。
 <Helen>の放った光弾が<Glunwald>に効かなかったのは、<Glunwald>がスミスと同じ“守り”を得ていたからなのだ。

 ……だが。
 それならばなぜ、カイトの攻撃に対して、その“守り”が働かないのか。
 その答えは、先のカイトとスミスとの戦いにあった。

 先の戦いにおいて、カイトはスミスを倒すためにデータドレインを行い、その“守り”の源となる力(プログラム)を収奪していた。
 つまりカイトもまた、<Glunwald>と同様に『救世主の力の欠片』を得ていたのだ。
 これにより『救世主の力の欠片』による“守り”は無効化され、<Glunwald>の優位は『イニスの碑文』のみとなっていた。

 そしてカイトはそもそも、ある“碑文使い”に感染したAIDAである<Tri-Edge>に対抗するために生み出された存在だ。
 碑文をたった一つ、それもただ取り込んだに過ぎないAIDAを相手に、負ける道理など存在しなかった。

 しかしそれを認めまいと、<Glunwald>は《コボルブリッド》を放つ。
 放たれ四つの光弾が、誘導性をもってカイトへと迫る。
 《アラクノトラップ》は<Glunwald>が持つ中で最も強力な攻撃だ。
 その始動となる糸が蒼炎によって焼き払われるのならば、蒼炎を生み出す間を与えなければいいと考えたのだ。

 だがそれに対し、カイトは両手の爪刃を展開し、投擲することで迎撃する。
 ―――《蒼炎・虎輪刃》。
 高速で回転する二つの刃は四つの光弾を容易く切り裂き、そのまま<Glunwald>へと迫る。
 自身へと迫り来る爪刃を<Glunwald>は咄嗟に鎌肢で弾き飛ばす。
 しかしその隙に接近していたカイトが、<Glunwald>の胴体を掴み取った。

 直後、カイトは異空間の上方へと急上昇する。
 そのあまりの高速移動に、<Glunwald>は抜け出すことができない。
 そしてカイトは最高度へと達すると同時に急降下し、異空間の底面へと<Glunwald>を叩き付けた。
 ―――《蒼炎舞・百花繚乱》。
 激突と同時に噴出した蒼炎が、<Glunwald>の体を焼き尽くす。
 そしてその間に、カイトは止めの一撃へと移行していた。

 カイトは二つの爪刃を背面に展開し、両手を胴体で構える。
 直後出現した無数のデジタル模様が砲身を形作り、その砲口にプログラムの砲弾を形成する。
 そしてデジタル模様のフィンが回転し、砲弾へとエネルギーをチャージさせ、<Glunwald>へと向け撃ち出された。
 しかし<Glunwald>はあまりのダメージに身動きできず、その砲弾――《データドレイン砲》の直撃を受け、

「――――――――ッッッッ!!!!」

 響き渡る断末魔。
 《データドレイン砲》の砲弾はその内部に<Glunwald>を取り込み、その構成データを奪い取る。
 そうして何かが割れるような音が響き渡ると同時に、砲弾はその軌道を逆行する様にカイトの下へと戻り、奪い取ったデータを還元する。
 残された<Glunwald>は<Helen>と同じように光に包まれ、異空間諸共に消失したのだった。


    18◇◆◆◆◆◆◆◆◆


 気が付けば、いつもの昇降口へと戻っていた。

「どうやら、通常空間へと戻ってこられたようですね」
 気を失ったままのサチを抱えたユイが、周囲を確認してそう口にする。
 おそらく、蜘蛛のAIDAが倒されたことによって、異空間が解除されたのだろう。
 目の前にはいつもの姿に戻ったカイトと、その奥に倒れ伏すスミスの姿があった。

「ご無事ですか、ご主人様!」

 その声に振り返れば、そこには背後にジローを庇ったキャスターがいた。
 ……よかった。どうやら大した怪我もなく無事のようだ。
 そのことに安堵し、ほう、と息を吐く。

「奏者よ、まだ気を緩めるでない。まだ戦いが終わったわけではないぞ」
 だがそんな自分に、セイバーが釘を刺してくる。
 それに頷き、気を引き締め直す。
 そう。この昇降口にいるのは自分達だけではない。
 ここにはもう一人、キャスターと対峙していたスミスがいるのだから。
 そのスミスと対峙しているのは、レオとガウェインだ。
 おそらく生徒会室を襲撃したスミスたちを倒し、駆けつけてくれたのだろう。

「ご帰還なによりです、白野さん。
 他の皆さんも、無事のようで安心しました」
 レオはそう口にするが、その視線は油断なくスミスへと向けられている。
 スミスがまだ生きているのは、岸波白野か、それともペナルティを気にしての事だろうか。
 いずれにせよ、状況からして新たなスミスは現れなかったらしい。

 ……だが、一つだけ気になることがあった。
 対主催生徒会のメンバーは、岸波白野を除いて六人。
 うち生徒会室にいたサチ/ヘレンとユイ、彼らを助けに向かったカイトは岸波白野の下へと駆けつけた。
 そしてレオはスミスと相対しており、ジローはキャスターの後ろで気を失っている。
 ならば残るあと一人、スカーレット・レインは、いったいどこにいるのだろう―――?

「これで大体の不安要素はなくなりました。
 これ以上引き延ばす意味はありませんし、早急に戦いを終わらせましょう」
 そんな自分の疑問を余所に、レオはガウェインへと指示を出す。
 ここで決着を付けるつもりなのだろう。
 憂いがなくなった以上、ペナルティを気にする必要はないという事か。

「っ……!」
 それを受けて、スミスが警戒を高めるが、満身創痍であることに変わりはない。
 もう一人のスミスも目を覚まし立ち上がるが、カイトにやられたダメージが抜けてないのか、その動作は緩慢だ。
 そんな状態では、レオのガウェインに勝つことなど不可能だろう。
 だが。

「おめでとう。この戦い、君たちの勝利だ」

 左腕に巨大な拘束具を付けた男の登場によって、状況は一変した。

「だが、まだ彼らに死なれては困るんだ。すまないね」
 どこか聞き覚えのある声質の男は、そう口にしながら、昇降口へと入ってくる。
「……………………」
 しかし同時に、カイトが双剣を構え、男へとその刃を突き付けた。
 その躊躇いのない動きは、その言葉以上に、男が敵であることを示していた。
 だが続いて放たれた言葉に、岸波白野の思考は一瞬停止した。

「オ=ヴ@&……レ#ン……$う*た………」
「ふむ。あの少女が気になるのか? あの少女なら、殺したよ」

 殺した?
 彼が、誰を?

 その答えを示すかのように、男は唯一自由な右手で、何かを放り投げた。
 廊下に転がったそれは、スパイクの付いた一対の紅い拳当と、紅いおもちゃのような拳銃を握り締めた何かの右腕だった。
 その右腕もデータ片となって消え去り、後には拳当と拳銃だけが残る。

「それは、レインさんの……!」
 それを見たレオが、何かを察したようにそう口にする。
 それが意味することは一つ。
 この男が殺したという少女は、スカーレット・レインの事に他ならないという事だ。

 その、仲間が死んだという事実に、思わず動揺する。
 その動揺を突くかのように、男は言葉を続けた。

「それに君たちは、一つ忘れている事がある」
「忘れている事?」
「ああ。確かにこの戦いは君たちの勝利だと言えるだろう。
 だが、戦いそのものはまだ終わっていない、という事だよ」

 男がそう口にすると同時に、二人のスミスが動き出す。
 一人目がレオへと銃口を向け、二人目も銃剣を取り出し、セイバーへと接近する。
 それに対し、ガウェインがレオを庇い、セイバーもスミスを迎え撃つ。
 キャスターは周囲を警戒しつつジローを背に庇い、ユイもサチ/ヘレンを抱きしめて庇う。
 そして岸波白野は、

「っ!? ご主人様!?」

 三人目のスミスの貫手によって、背中から貫かれていた。

 いつの間に潜んでいたのか、そのスミスは二階へと通じる階段から襲撃してきた。
 それに反応できたのは、周囲を警戒したキャスターだけだった。
 だが咄嗟にジローを庇ったことにより、完全に不意を突いたスミスの行動を阻止できなかったのだ。

「これで、チェックメイトだ」
 三人目のスミスは、そう口にしてより深く右手を差し込んでくる。
 だが不思議なことに、その手が胸から突き出てくることはなかった。
 あるのはただ、自分の中に異物が入り込んでくる、とてつもない不快感と、そして、
 岸波白野を貫いたスミスの貫手から生じる、“自分が自分でなくなっていく”その感覚だけ。
 ……ああ、そうか。
 これが、シノンの言っていた、他者を自分にするというスミスの能力なのだ。

「このっ! ご主人様から、離れ……っ!?」
 キャスターが即座にスミスへと攻撃しようとするが、スミスは岸波白野を盾にすることで牽制する。
「奏者!」
「白野さん!」
 セイバーとレオも声を荒げるが、二人はスミスの妨害にあい、駆けつけられない。
「…………ッ!」
「そんな……!」
 カイトは男を警戒して動けず、残るユイでは、そもそもスミスの相手にもならない。

 つまり、これで終わり。
 これから先、岸波白野は岸波白野ではなく、スミスの内の一人として存在することになる。
 それが、このバトルロワイアルにおける、岸波白野の結末なのだ。

 なんて、僅かな思考の間にも、“それ”は進行していた。
 スミスの腕を起点として発生する、黒い何か。それが岸波白野の体を、すでに半分以上も覆っている。
 おそらくこれが全身を覆い尽くした時、岸波白野はスミスの一人へと変わるのだ。

 ………………だが、それでいいのか?
 自分がスミスになってしまえば、セイバーやキャスターはどうなる。
 ただ契約を失い消滅するのか、それとも自分の存在ごと令呪を奪われ、それによって従わされるのか?
 いやそもそも、こんな身も簡単に、岸波白野を諦めてもいいのか?

   諦める。
  >諦めない。

 諦められる、はずがない。
 この体は、多くの想いを背負い、多くの願いを超えてここにある。
 自分を諦めるという事は、今まで岸波白野が戦ってきた全てを諦めるという事だ。
 そんなこと、これまでずっと共に戦ってきたセイバーたちのためにも、出来るはずなどなかった。

 ……だが、それでも“それ”は進行していく。
 抵抗も何もない。僅かな意志さえ介在する余地もなく、岸波白野を浸食していく。
 そうしてその黒い何かが、あっという間に首まで覆い尽くし、そして、


「ああ、それ。なかったことにしますね」


 そんな言葉とともに、あっさりと岸波白野は解放された。

「っ!? 何事だ!?」
 一体どうしたのか、何かに弾かれたかのように距離をとるスミス。
「無事か奏者!」
「身体に異常はございませんか!?」
 その間にセイバーとキャスターが、こちらへと駆け寄ってくる。
 何とか大丈夫だ、と二人に応える。
 まだ不快感は残っているが、自分はちゃんと、岸波白野を保てている。

 だが、スミスは一体どうしたのだろう。
 あとほんの少しで、自分は岸波白野でなくなっていたというのに。
 それに、さっきの声は――――

「もう大丈夫ですよ、先輩」
 その声に昇降口へと振り返れば、そこにはいつの間にか一人の少女が佇んでいた。
 間桐桜。プレイヤーの健康管理の役割を担う、NPCの少女が。

「今のは、貴様か……っ」
 スミスは怒りの声とともに、桜を睨み付ける。
 それは一体どういうことなのか。
 プレイヤーに公平であるはずの彼女が、自分を助けてくれた?

「スミスさん……いえ、エージェント・スミス。
 月海原学園におけるモラトリアムのルールに従い、貴方にペナルティを与えます。
 対象となる行為は三つ。一、学園内における戦闘行為。二、学園施設の破壊。三、NPCへの殺傷行為。
 よって一定期間中、そのステータスおよび一部施設の利用権限を制限します」
「ぐ、ぬ……!?」

 桜がそう宣告すると同時に、スミスの体にエフェクトが発生する。
 おそらく、ペナルティが科せられたのだろう。
 ……だが、スミスはそれで止まる人間(AI)ではない。
 それを示すかのように、彼は桜へと敵意を顕わにしている。

「ふん。この程度のペナルティがどうかしたのかね。
 三番目に厄介な人間は“私”に変え損ねたが、代わりとなる人間は他にもいる。
 私はすぐにでも、“私”を増やすことができる。多少ペナルティを受けたところで、何の問題もない」

 そう。それは正しい。
 今この場には、スミスの標的となり得る人間が複数人いるのだ。
 もちろん、レオはガウェインが守るだろう。自分もセイバーとキャスターが守ってくれる。
 だが、ユイたちは?
 カイトが拘束具の男と対峙し動けない以上、セイバーかキャスターのどちらかがが彼女たちを守るしかない。
 だがいかにペナルティを受けたとはいえ、スミスを相手に複数の人間を守るのは困難だ。
 そして一人でもスミスへと変えられてしまえば、こちらの敗北は確定してしまうのだ。
 ――――そう。

「私の能力を無効化できるらしい、貴様さえいなければな」
 スミスが拳を握り、桜へと向き直る。

 桜がスミスの能力を無効化できた理由も、した理由もわからない。
 だが彼女がいる限り、スミスはその能力を行使できない。
 故に、スミスは桜の排除を優先する。
 彼女さえいなければ、この戦いの結末は覆し得るのだから。

「では、消えろ」
 その言葉とともに、スミスが桜へと踏み込む。
 桜! と思わず声を荒げる。
 彼女はあくまで健康管理AI。戦闘能力など、あるはずがないからだ。
 だが。
 桜へと踏み込んだスミスの脚は、その背後から飛来した刃によって阻まれた。

「ぬっ!?」
 スミスは咄嗟に足を止め、残像を残すほどの高速でその刃を回避する。
 直後、その背中に、大柄な人影が滑り込む。
「一足、一倒!」
 直後、昇降口を震わすほどの震脚から放たれる拳打。
 スミスは咄嗟に防御するが、背後からの一撃に堪え切れず、大きく弾き飛ばされる。

「くっ、貴様ッ!」
「NPCへの攻撃が禁止されているから、NPCも攻撃をしてこない、とでも思っていたのかね?
 浅はかだな。仮にも自意識がある以上、脅威に晒されれば抵抗するのは当然であろう。
 ダメージこそ与えられんが、こうして殴り飛ばすことくらいなら十分に可能だ」
 スミスを殴り飛ばしたのは、購買部で店員をやっていた言峰神父だ。
 神父は構えた拳を解くと、重苦しい声でそう口にした。

「ありがとうございます、言峰神父」
「なに。ペナルティを無視するプレイヤーの存在は予測されていた事態だ。
 そういったプレイヤーから生徒を守るのも、私の役割だからな」
 神父へと礼を口にして、桜はスミスへと右手に握った教鞭を突き付ける。

「これで四つ目です、エージェント・スミス。
 違反行為の継続により、ペナルティを加算。一切の施設利用を禁止し、貴方をこの学園から強制退去します」
「なに―――!?」
 桜が宣告とともに教鞭を一振りすると同時に、スミスたちの姿が消える。
 学園から強制退去、という事は、学園の敷地外へと転移させられたという事か。

「それで、あなたはどうしますか? オーヴァンさん。
 このまま戦闘行為を続けるのであれば」
「いや、意味もなくペナルティを受けるつもりはない。ここは引き下がらせてもらうとしよう。
 それに、俺一人で彼ら全員を相手にするのは、さすがに厳しいからね」

 拘束具の男――オーヴァンはそう言うと、あっさりと昇降口へと踵を返す。
 おとなしく撤退し、スミスと合流するつもりなのだろう。
 みんなの心に、大きな傷跡を一つ残して。
 その背中に――――

   ………………
  >一つだけ、訊かせてほしい。

「………何を、かな?」
 オーヴァンは足を止め、しかし振り返ることなくそう訊き返してくる。
 自分は――――

   なぜ、スミスに協力している。
  >なぜ、デスゲームに乗っている。

「真実を知るため」

 真実?
 それとデスゲームに乗ることと、どんな関係があるというのだろう。

「目に見える物だけが全てではない、という事だよ」
 そう言い残すと、オーヴァンは今度こそ学園から去っていった。
 とりあえず、目の前の危機は去った、という事だろうか。
 そう思い、ふう、吐息をつく。
 ……だが、これで全てが終わったわけではない。
 事実、レオは緊張した面持ちで桜と向かい合っていた。

「それではサクラ。僕たちへのペナルティは、どのようなものでしょうか」

 そう。自分達は学園内でスミスと“戦闘”をした。
 そしてモラトリアム中の学園内において、“戦闘行為”はペナルティの対象だ。
 スミスだけがペナルティを受け、自分達が受けないなどという道理はない。
 だがそう緊張する自分たちに、桜は首を横に振って答えた。

「安心してください。こちらが確認したのはエージェント・スミスの攻撃行為だけで、皆さんの攻撃行為は報告されていません。
 そのため、ペナルティの対象となるのはエージェント・スミスただ一人です」

 それを聞いて、一先ず安心する。
 だが続いて告げられた言葉に、思わずギクリとしてしまう。

「ただし、昇降口を塞いでいた下駄箱が除かれた以降に交戦していた場合は対象となっていたでしょうけど」
「うわ、あっぶなー。レオさんが来なかったらペナルティ受けてましたね、それ」
 それを聞いてキャスターが、冷や汗とともにそう呟く。

 やはり二人目のスミスが現れたあの時点で、昇降口の様子は校庭にいたNPCから見られていたのだろう。
 だとすれば、違反行為の発見とペナルティの発生に間があったのは、その権限を持つNPCが限られているからか。
 報告という言葉からして、おそらくそうなのだろう。

「話は終わったか。なら通常業務に戻らせてもらおう」
「あ、すみません言峰神父。その前に、下駄箱を元に戻しておいていただけますか?
 このままですと、校舎の運営にいろいろと支障が……」
「まあいいだろう。これも一つのボランティアだ」
 ガゴン、と大雑把に下駄箱を戻して、神父は食堂へと戻っていった。
 また誰かが購買部を利用するまで、じっと待機しているのだろう。

「では私達も、保健室へと向かいましょうか。
 念のため、みなさんの事も診ておきたいですし」
「そうですね。ではそうさせていただきます。
 レインさんのことを含め、いろいろと話し合う必要がありますしね」

 桜とレオはそう言って保健室へと向かい、ジローを抱えたガウェインがその後をついて行く。
 自分もそれに続こうと、サチ/ヘレンを連れていくために昇降口へとへと振り返ると、

「なんでしょうか、カイトさん」

 カイトとユイが話し合っている様子が視界に映った。

      §

 話し合いが終わり、レオさんたちが保健室へ向かったその時だった。
 それを待っていたかのように、不意にカイトさんが声をかけてきた。

「なんでしょうか、カイトさん」
「ハアアアァァ……」
 私がそう問い返せば、かえってくるのはいつもの声。
 だがその声に込められた内容は、私には理解できた。

「渡しておきたいもの、ですか?」
「……………………」
「これは? セグメントとよく似てますけど……」
 そう言ってカイトさんが取り出したのは、セグメントとよく似た、水色に輝くデータ結晶だった。
 この水色のデータ結晶は、蜘蛛のAIDAからデータドレインによって奪ったものらしい。
 けどその構成データは、どちらかというとAIDAと戦っていた時のカイトさんのそれに近かった。

「……=ニス………」
「イニスの、碑文? けど、どうしてこれを私に?」
「*&と、=じ……」
 このイニスの碑文は、腕輪と同じ……つまりデータドレインと同じ力を持っているとカイトさんは言う。
 碑文は腕輪と同じく、規格外の力だ。蜘蛛のAIDAがヘレンを圧倒したのも、碑文を取り込んでいたからかもしれない。
 だから、悪用されないように預かっていてほしいのだと。

「……じゃあ、もしこの碑文をヘレンさんが取り込んだら、彼女は強くなるんですか?」
「……………………」
 それに対するカイトの答えは曖昧だ。

 能力が強化されるという意味なら、間違いなく強くなるだろう。
 だがイニスの特性は『幻惑』。仮に強化されるとしても、それが戦闘能力に結びつくとは限らない。
 第一に、碑文は本来、その碑文の適格者――“碑文使い”にしか扱えない。
 AIDAのような例外であっても、その力を完全に扱えているとは言い切れないのだ。

「そう……ですか………。
 判りました。この碑文は、責任を以て私が預かっておきますね」
 その返答に若干落ち込みながらも、碑文をストレージへと収める。
 すると、話が終わるのを待っていたのだろうか。

  ――二人とも、何の話?

 ハクノさんがそう声をかけてきた。

「いえ、何でもありません。
 行きましょう、カイトさん。あ、ヘレンさんをお願いしますね。
 ほら、ハクノさんも。レオさんたちを待たせちゃいますよ」
 ハクノさんの問いをそう言って誤魔化し、急ぎ足で保健室へと向かう。
 ハクノさんは不思議そうにしながらも、サチ/ヘレンさんを抱き抱えたカイトさんと一緒についてくる。
 そのことにほっと安堵して、私は保健室へと急いだ。





 碑文の事をハクノさんに隠した理由は、自分でもよくわからなかった。
 けれど一つだけ、心の隅で思っている事があった。

 碑文が使えれば、私もみんなのように戦えるだろうか。

 碑文は“碑文使い”にしか使えないとカイトさんは言った。
 プログラムに感染するAIDAが例外なだけで、私に碑文が使えるかはわからない。
 いや、私が異なる世界のAIだという事を考えれば、使えない可能性のほうが高いだろう。
 けれど、AIDAであるヘレンさんの力を借りれば、もしかしたら、と思ってしまうのだ。

 今回のスミスの襲撃で、私は最善を尽くしたつもりだった。
 けれど、それでもレインさんは死んでしまった。
 だから思ってしまったのだ。
 私にもっと力があったなら、レインさんは死なずに済んだのではないか、と。
 …………ただ。

 “強い力。使う人の気持ち一つで、救い、滅び、どちらにでもなる”

 腕輪の力を説明した時の、カイトさんのその言葉。
 それがどうしても忘れられなかった。


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最終更新:2015年11月18日 01:35