寺岡薫という人間がいたそうだ。
彼女は■■■■大学院で研究に励んでいた一人の女性だった。
ぼさぼさ頭にカジュアルさの欠片もない眼鏡をかけた、お洒落とは無縁の研究者

寺岡薫はお洒落の代わりに研究して、研究して、研究した、そんな青春を過ごした。
でも彼女にだって、出会いがない訳じゃなかった。

出会いは爆発だった。

研究の最中、大学が爆発してしまって、それがきっかけでxxxxと出会った。
本当に、馬鹿みたいな話だと思う。
馬鹿みたいだけど、でもそれはたぶん、とても幸運な出会いだった。

――……狂った電子頭脳を止めるためには、研究施設に自爆装置を併設するのが研究者の良心、というものです。

それから紆余曲折あって、xxxxの命を救うことが彼女の“研究テーマ”になった。
彼の身体はとても大変なことになっていて、放っておくと数年で死んでしまうような身体だった。
しかも――これこそが真の幸運かな――寺岡薫の研究分野は、彼の抱えていた問題を解決するにのに、ちょうど合致していたのだ。

それからしばらくの間、彼と会う日々が続いた。
まず首から上だけでも生き延びられるように。
次に匣型の生命維持装置の開発を。
そしたら次は小型化を、エネルギー効率を。

楽しかった。
不謹慎かもしれないけど、きっと寺岡薫は楽しかったのだと思う。
彼と一緒に研究して、彼のために研究して、時たまどこかに遊びにいって。
爆発とサイボーグと、ほんの少しのデートで構成された、ささやかな青春。
破天荒かもしれない。馬鹿みたいかもしれない。
でも、あの時に彼女が感じたしあわせは、きっと他の人間と何も変わらない、人間のものだった。
思うに、寺岡薫は彼のことが好きだった。

――あの人には振られてしまったのですけれど……

結局、xxxxが寺岡薫と一緒になることはなかった。
その事実を、その時の彼女は深く悲しまなかった気がする。
他の女の人にとられてしまった、くらいなら思ったかもしれない。
さみしい想いというより、やっぱりこうなったか、という、ちょっと卑屈な想いが胸に広がったのかもしれない。

それからしばらくして、寺岡薫は命を落すことになる。
死因はやはりというか何というか、研究だった。
彼女が作ろうとしたもの、作りたかったもの、作ってしまったもの。
それがどんな結果を齎したのかは、ここではおいてまず置くとして、とにかく彼女は死んだ。

翻って、寺岡薫の人生が“しあわせ”と呼べるものかどうかは、ちょっとよく分からない。








あれは何だ。
ガッツマンの叫び声が響き渡る中、VRバトルロワイアルという小さな世界は歪み始めていた。
“ファンタジー世界”を模しているフィールドは損壊し、テクスチャは剥がれ構成するデータがむき出しになっている。

その向こうから何かがやってくる。
世界にノイズが走った。空中に訳の分からないコードが、すぅ、と走った。
零れ落ちた情報が突風のように押し寄せ、ネオに、モーフィアスに、ミーナに、揺光に、ガッツマンに、そしてカオルに、圧となって襲い掛かってきた。

――そうしてやってきたのは、彼女だった。

そのバグは女性のカタチをしていた。
原色をぶちまけたかのような青い長髪。女性の特徴を捉えつつもアニメチックにデフォルメされたアバター。
歪なのは、その顔だった。
肌色のテクスチャのない真っ黒な頭部に、丸で書かれた眼が二つに、ニィ、と弓なりに釣りあがった口が書かれただけ。
子どもの落書きで書いたスマイル、とでもいうべきか、そんな歪な笑顔を浮かべて彼女は佇んでいた。

――まるで、できそこないの人形のようだ

そこにいたプレイヤーの多くは、そんな印象をそのバグに抱いた。

「あれは……!」

そして、一人だけ、例外がいた。別の印象を抱いたものがいた。
当然だ。そのプレイヤーは、このゲームに参加する前、他でもないそのバグと戦っていたのだから。
故に――名も口にすることができた。

「――デウエス」

と。

プレイヤー――武内ミーナがそう口にした瞬間、名を呼ばれた彼女は、嗤った。
否、元より彼女のアバターに笑み以外の表情を浮かべる機能などない。
だからその表現は厳密には間違っているのかもしれない。

――ミツケタ

けれども、そう呟く彼女の声は明らかに喜色滲むもので、その後に響いたノイズは嗤っているように聞こえた。

「見つけた。見つけた。ついに見つけた。
 わが半身。もう一人のわたし。わたし、わたし、あたし、わたし……」

あまたのノイズがデータを引っ掻き回す中心にて、彼女は、デウエスはぶつぶつと何かを呟いている。
その光景をミーナは呆然と見つめてしまった。

「ミーナ、あれは……」

隣に立つネオが言った。
彼とガッツマンには、そう、名前だけは言った気がする。
武内ミーナがデータの世界と繋がりを持った、きっかけとなった事件。
その元凶たる存在の名を。

デウエス。
ツミミネットに巣食い、ネットに訪れた者を喰っていたAIを越えた電子生命体。
オカルトテクノロジーの力を得て、現実をも捻じ曲げる仮想の神。
ハッピースタジアムの黒幕であり、そしてその正体は……

「あれは、でも死んだ筈――」

ミーナはそう言いつつ、その場にいる一人の女性を見た。
眼鏡をかけた妙齢の女性。ミーナには見慣れた、日本のツナミネット特有のデフォルメされたアバターを使うプレイヤー。
カオル。
彼女を見かけた時、ミーナはどう声をかけるべきか、分からなかった。

だって彼女は――死んでいるから。

デウエスの正体――それは他でもない、寺岡薫の深層意識(エス)である。
寺岡薫という、一人の研究者の脳回路から分離された二つのAIがいた。
それがカオルで、そしてデウエスだった。

ミーナはそれを知っている。
彼女の知るデンノーズはもうデウエスを倒したのだから。
全てが終わったあとに、彼女はこのゲームへとやってきた。

だから、初めからおかしかったのだ。
彼女が――カオルがこの場にいることは。
それを会った時に言い出すべきだったのだろうか。
ミーナが、カオルへと、全ての真実を伝えるべきだったのだろうか。

決断を下すよりも早く、真実は最悪のカタチでこの場に現れた。

「――あなたは、わたし?」

カオルは、ぼう、としたまま、現れたデウエスを眺めている。

「――そうだ。私は、お前だ。お前がずっと抑え込んでいたもの。
 “しあわせ”になれなかったお前が、それでも望んでいた筈のもの。
 ありえた筈の未来への期待。諦めなかった心――“しあわせ”への渇望そのもの」

デウエスもまた、そう高らかに歌い上げる。
二人はただ惹かれるように見つめ合い、語り合っている。
その様を、他のプレイヤーは理解できないでいる。
事情を知るミーナでさえ理解が及ばないのだ。分かり得る筈もない。

「わたしは、お前だ。
 わたしが、お前を“しあわせ”にするんだ。
 そうだ。この世界で私は全能なんだ。なんだってできる。だから“しあわせ”も……」

――突然の事態に混乱する中、更なる闖入者が現れた。

「事情は分かりませんが」

ミーナたちともデウエスとも違う、別の声が響いた。
振り向いた先には――闇色のロボットのアバターがいる。
そしてその傍らには胸元の大きく空いた服を着た女性と、背中に抱えた巨大なカルバリン砲。

「一網打尽の好機、て奴ですよ」

轟音と共に、弾丸が降り注いできた。








キリトと慎二を追っている最中、能美征二/ダスク・テイカーは彼らを見つけた。
能美にしてみれば、見晴らしのいい草原に集っているパーティなど格好の的でしかなかった。
彼らにカルバリン砲をぶち込み、一撃離脱。
上手くいけば複数のプレイヤーをキルできる上に、たとえ見つかってもライダーの宝具で離脱ができる。
キリトらとアスナの衝突から漁夫の利を得ようとしたように、能美はこのエリアを中心にゲリラ戦術を取ろうとしていた。
あくまで身を潜めて、好機を狙い、ヒット&アウェイ。

ゲリラ戦術はライダーの得意とするところでもあり、その点では彼が選んだ戦術自体は間違っていなかった。
無差別に敵を狙っていたゲーム序盤よりもよほど理にかなった戦術であり、そういう意味で彼はこのゲームに慣れてきたともいえる。

――あの女もこれで殺してやる。

カルバリン砲を放ちながら、能美の胸には強い殺意が滲んでいた。
集団の中で能美が一番に狙っていたのは、言うまでもなくカオルであった。
“痛みの森”での戦いの際、彼女から受けた屈辱は忘れていない。

――この世の“しあわせ”は“争奪”によってのみ齎される。

世界に存在する万物は有限だ。
誰かが何かを得た時、同時に同じだけ、他の誰かが何かを失っている。
“しあわせ”はさながらエネルギー保存の法則のように動く。
誰かが“しあわせ”になるということは、同じだけ誰かが“ふしあわせ”になるということでもあるのだ。

――“貴方は、何かを与えられた事がなかった……与えてくれる人に、出会えなかったんですね”

能美の語る幸福論をカオルは否定した。その上で――憐れんだ。
何もかも持っていない癖に。ただ諦めているだけの癖に。奪われたこともない癖に。
その事実が何よりも許せなかった。シルバー・クロウよりも、慎二よりも、ユウキよりも、能美はカオルを認める訳にはいかなかった。

能美の殺意が込められた砲弾が、カオルたちを襲った。
狙いに寸分たりとも狂いはない。フランシス・ドレイクが得意としたゲリラ戦術に則った一撃は確かに彼らに――

「わたしはお前を“しあわせ”にする。
 お前さえいればわたしは完全なんだ。この世界でわたしは完全になれる。
 無限に賢くなることも、最高の美人になることも、なんだって思いのままの――“しあわせ”になれる!」

――その攻撃は、不意に止まることになる。

ジジジジ、と猛烈なノイズがフィールドに走った。
それはまるでデータの悲鳴だった。乱舞する数値が、明らかにイリーガルな現象を呼び来んでいた。

データが、改竄された。

放たれた弾丸は不意に消え去った。
弾かれた訳ではない。狙いが逸らされた訳でもない。ダメージが無効化された訳でもない。
そもそもその攻撃が“なかった”ことにされたのだ。

「はい?」

その現象を見た能美は、どこか間の抜けた声を漏らしてしまった。
起こった事態が理解できていなかった。が、すぐに殴りつけるような大声が耳元で響いた。

「っと、来るよ! 呆けてる場合じゃないよ、ノウミ」

ライダーだった。彼女が、ばっ、と前に躍り出る。
その背中を見てなお能美は未だ状況についていけてなかった。

――目の前に真っ黒な顔があった。

子どもの落書きのような、歪な笑みが、突然能美の眼前に現れていた。
思わず「ひぃ!」と声が上がる。
何の前触れもなく、デウエスは一瞬でエリアを跳躍し、カオルを狙った能美の前へと現れたのだ。

「言わんこっちゃ」

ない、とライダーが言い放ちつつ能美を蹴り飛ばした。
どん、とデュエル・アバターがごろごろと草原を転がり、そんな彼を守るようにライダーがデウエスの前に割り込んだ。

「アンタ、中々の大物だねぇ」
「ネットワーク上にわたしたちを上回る存在はいない。
 どんなデータも支配下に置き、オカルトにより現実をも手中に収めた。
 わたしはこの世界の神/デウスなんだ」
「ほう、神と来たかい! いいねぇ、昂ぶってきた」

デウエスを見上げ、ライダーは愉しげにそう語った。
だが能美はそんな彼女の気持ちは全く理解できなかった。
神? データを支配下に置く? その言葉が本当ならば、チートとかそういう次元ではない。この敵はつまり、システムそのものということではないか。
そんなもの――倒せる訳がない。

「ライダー、はやくにげ……」
「逃げるぅ? 馬鹿なこと言ってんじゃないよ。さっきの跳び方みたろ?
 どういうカラクリか知らないけど、コイツは一瞬で出たり消えたりできるんだよ。
 そんな相手に逃げることなんてできると思うかい?」

ぐぅ、と声が漏れた。反論はできなかった。
しかし――戦う? そんなことできる訳がない。
このゲームは、心意や宝具といった仕様外の存在すら取り込んでいるゲームだが、それらと比しても明らかにこの敵は異質だった。
一瞬の接敵だが能美は本能的にそのことを察していた。
この敵は――この滅茶苦茶なゲームにおいてすらバグなのだなと。

「わたしは“しあわせ”になる。“しあわせ”になれなかったあたしの代わりに、わたしが“しあわせ”に――」

デウエスは無慈悲に近づいてくる。ぶつぶつと呪詛のように“しあわせ”を唱えながら。
能美は腰を抜かし、がくがくと震えながらそれを眺めることしかできなかった。

「――待ってください!」

そこに別の声が響いた。
聞き覚えのある声だった。忘れもしない、能美が最も許せない声。

「……あなたは本当にわたしなの?
 あなたは――わたしはいったい何をしようとしているの?」

能美を襲おうとしたデウエスに止めるように、カオルは叫びをあげた。
ぴくり、とデウエスの動きが止まる。

「……たしかに二つに分かれてから色々なことがあった」

そして声が響いた。
声は二人の間の距離を無視し、カオルの近くで反響するようにして響いた。

「お前というわたしの一部を喪ったことを知り、埋め合わせるべく様々なデータを取り込んだ。
 通常のデータでは満たされぬが故、人すらも喰った」
「――人を」
「オカルトテクノロジーだ。オオガミの実験に協力して、わたしはこの力を得た。
 これはまじないのようなものでね、ゲームに勝つとか、条件をつけることで現実に干渉できる。
 足がつくことはない。米軍の防衛システムを操作して研究所にミサイルを撃ち込んですべてのデータを消滅させたからな」

ぐっ、とミーナは拳を握った。
彼女はその真実を知っていた。ハッピースタジアムが、いかにして開催されたのか、既に彼女は知っている。
そして勿論、デウエスとカオルの末路も――

「だから安心するといい。わたしはお前だ。お前はわたしだ。
 わたしと一緒に“しあわせ”になろう。すべてを喰い、取り込んで」

響き渡る声は徐々に大きくなる。
ファンタジーエリアは今や完全にデウエスを中心としたバグの渦に巻き込まれていた。
ノイズは更に大きくなり、グラフィックは異常を発生させる。地面では橙色のワイヤーフレームが除いた。

「――なんだこの状況は」

その波及を聞きつけてか、更に別の声がやってきた。やってきてしまった。

「……おい、何だよアレ。アスナがかかってた黒いバグと同じなのか?」
「いや、慎二。アレは違う気がする」

赤い外套の男、制服を身にまとった特徴的な髪の少年に黒衣の少年剣士。
新たに現れたパーティを見て、ミーナは息を呑む。
その特徴はカオルが言っていた“仲間”のパーティに合致していた。
彼らとの合流が、まさかこのタイミングになってしまうとは。

「この仮想空間には様々なデータがある」

そうしてこのエリアに集った、様々なプレイヤーを見下ろしながら、デウエスは悠然と語った。

「ありとあらゆるデータを喰らった私にとっても知らないものばかりだ。
 しかしどれも私は喰うことができる。取り込み、わたしとすることができる。
 碑文因子も、サーヴァントも、ネット・ナビも、デュエル・アバターも、マトリックスも、人間も。
 喰えば喰うほど――わたしは“しあわせ”になれる」

――その言葉通り、デウエスは全てを喰おうとした。

エリアが軋むようにしてノイズを上げた。
バチバチと視界が明滅する。デウエスが不気味な笑みを浮かべながらデータを吸い上げているのだ。
ファンタジーエリアごと――彼女は喰ってしまおうとしている。
声は出ない。悲鳴も上げられない。そんな機能すら、彼女は奪おうと――

「――あなたは、怪物だわ」

情報の狂乱の中、カオルとデウエスだけはその存在を保っていた。

「いいや、神だ!
 人類史上、初めて姿が認識できる神――さぁ、はやく一つになろう」

彼女らの会話を聞きながら、ミーナは奇妙な感覚を覚えた。
それは一言で表すのならば、既視感、に近かった。
既に結末を知っている小説を読んでいる時のような、未来と過去を同時に見ている感覚。
ミーナはこの場面に居合わせた訳ではない。ジローから言伝に聞いただけだ。
けれども――彼女がこれからどうなるかは知っている。
どんな選択をして、それがいかな結末に繋がるのかも。

「――認めません」

カオルは決然と言い放った。
そして――過去の再現が現在となった。

次の瞬間には、歪み、軋み、壊れようとしていたエリアは、ふっ、と元に戻った。


Next ボクラノタタカイ

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:
最終更新:2015年11月26日 12:57